「ナチュラル志向」
最近、男性の趣味(外見)の変革時期が静かに訪れたように思われる。 低音でぼそぼそと喋る某最近ハイドと仲良しなゴシック諸ヴィジュアルバンド出身の彼の濃ゆい顔面にも完全に飽きました。 以前より、わたしの視覚を牛耳るどっかの部分が囁いていたのは知っていたのです。 「もっとナチュラルなのがいい」 こうしてわたしはヴィジュアル志向からナチュラル志向へ。 そういう時期にちょっとばかり惚れてしまった某俳優。笑貌に惚れた。 自分でもその俳優に心を奪われるなぞ信じられん。 でも癒されるんです。癒されてしまうんです。 物凄く久方ぶりなわたしの密かな恋を周囲に告知すると直ぐ様ステキな反応が。 厭そうに首を横に振るだけだったり、 「何かあったの?」とか、 「ちょっとチガウんじゃないか」とか、 「疲れてるんだね」とか、 どんどん違う方向に逝ってしまっているわたしを、皆やさしく諭してくれました。 本来、絶対に好まないようなヤサ男。 わたしも自分でオカシイと思います。疲れているんです、きっと。 だから癒されたいんです。そのヤサ男の笑貌に。はふぅ。 |
「躯に循る毒」
ずっとつけてすらなかったテレビ。最近、ドラマやら、映画やら、主に邦画を借りてきて見ている。 天体観測。面白くないですね。捻くれ者のわたしは斜に構えて観てしまいます。何年か前にやっていた浜田省吾の歌の題名と同じ、なんたら言うドラマのリメイクかと思いました。「悲しみは雪のように」?わたしこのドラマ、とても嫌いだったので最後まで観る事に耐えられなかった。 天体観測の中でふと考えさせられる台詞。自分に嘘を吐くな、という台詞。このドラマ以前にも何百回聞いたかわからない。逆に訊きたいが、どれくらいの人生範囲、自分に嘘を吐かず心そのままにいられるというのか。自分に嘘を吐くという事は極力避けた方がいいよ。勿論。吐いた嘘が時間に中和される程度のものならいいのだけど、何時かその時吐いた嘘が毒となり、躯を循る。今より先の未来での長い時間、その嘘に囚われ続ける事になる。後悔という、どうにもならない毒素で。 だから失っていない振りをする。大切なものを何も無くしていない振りをする。自分のこころを見失っていない振りをする。 大人になる程、人生なんて振りだらけです。 |
「シャイン」
時が経っても不思議と憶えているもの。忘れてしまえないものや、言葉を交わした事は少なくても、何故かこころに浮かび上がる存在や、飾らないスタイルや、擦り減らない敬慕に。 触れていたいと告げられる環境があって、徹底的に拒否されない現状があって「待っているよ」と応えてくれる言葉がある。そしてそれを素直に歓べるこころがある。 淘汰。固有のプライドが求めるもの。 見るのも自由、見ないのも自由。選ぶのも自由。選ばないのも自由。 触れていたいと告げるのも自由。触れていて欲しいと希うのも自由。 求めるのも、棄てるのも、リンクを繋ぐのも、外すのも、自由。 通り過ぎてゆくだけの景色と変わらないヒト達の中で、疼く心を抱えて、何かの途中で、交わり続ける時間と言葉を一瞬で棄てながら、そんな自由の中で、視覚を奪い合えたらいい。静かに静かに切れそうで切れないものが在ればいい。 |
「最強忘却」
憎む、という事。醜く歪んだままの姿勢でこころが相手に囚われているという事。 忘れる事は憎む事に勝る。醜くも憶えていてもらえるというよりも寧ろ忘れられるというのは、きっつい事ではないだろうか。へ?という貌がわたしにはどうも最強に思えて仕方ない。だから、先ず忘れるようにしている。だいたい忘れる。今憶えている事以外はどうでもいい事だったというわけで。 |
「メディアノイド」
空から墜ちたあの最期の審判の日、運命という名の鎖で繋がれた道化は痛みも無く傷も無く、要らないものを棄てました。愛せないものを棄てました。けれど未だこの掌に幾つかの絆。眼を閉じても目蓋の裏で、誰かが無垢に微笑いかける。わたしはただ此処で、誰にも見つけられたくない。 暴かれた真実はどんな色で各各に脚色されるのか。幾度、痛みを繰り返すのか。通り過ぎる心と風景の中で何も変わらずに。嘘を吐く。黙すのがヒトを傷付けない唯一の術だと本当には思えない。わたしはただ此処で、誰にも見つけられたくない。 |
「アンチ受動的」
簡単に「運命」なんて言葉で片付ける人、キライです。 甘んじて受け容れるという、受動的なのがキライです。 自分で選んで来たくせに。今の自分は全部自分で確立してきたくせに。何故、運命やヒトのせいにするのか。常に選択の余地くらいは残されていた筈で、それを自らで手にしてきたくせに。 自分を壊せないひとは駄目だと思う。自分に対して発してくれた他人の言葉を少しも理解しようとしないひとは駄目だと思う。悲劇のヒロインの行末は王子様のお迎え?腐りおちるだけさ。バカが付く程、甘過ぎるのってキライです。 ただ一言、本当に生きてみろ。茨の道など、選ばなくとも生きていれば幾らでも眼前に現れてくれるというもの。そういうものを求める自分に酔っている暇があれば、ヒトに迷惑を掛けず生きる術でも考えて欲しい。 |