セクサロイドは眠らない
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愛人業
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2004年09月29日(水) |
色白で、長い黒髪。中には、女性の裸身が写っているものもあった。どれも美しい写真ばかりだった。 |
大学時代の親友が突然訪ねて来たのは真夜中過ぎだった。
驚いたが、嬉しかった。 「何年ぶりかな。」 「そうだな。15年ぐらいか?」 「そんなになるか。」
明日は休みだ、と、久しぶりにわくわくしながら酒の用意をする。 「今日は泊まってけるんだろ?」 「ああ。」
彼も嬉しそうだ。
「突然ですまなかったな。」 もう時計が三時を回るかというところで、彼が改まった調子でつぶやいた。
「構わないよ。」 「実は、頼みがある。」 「ん?何だ?」 「俺に何かあったら犬を引き取って欲しいんだ。」 「犬?」 「ああ。」 「犬か・・・。」 「駄目か?」 「いや。いいけど。」 「頼むよ。今じゃ、唯一の家族みたいなもんなんだ。」 「ああ。いいさ。」
事情はよく分からないが、彼が真剣に言ってくるのを断るわけにもいかない。彼が三度の離婚をし、それぞれの元妻達と複雑な関係を築いているのは知っている。彼の所有する資産も相当なものだから、そのことで頭が痛いこともあるようだ。だからこそ、彼にとって安らげる存在であるペットに思い入れも強くなるのだろう。私も、妻と死別して今は一人暮らしだ。気楽な生活を送っているから、犬を引き取ることに何の問題もなかった。
「だけどさあ。お前が犬を飼うなんて思わなかったなあ。」 「ああ。俺もだよ。」
犬のことを私に頼んだら安心したのか。友人はソファに腰掛けたままウトウトし始めた。私は、毛布を出して来て、彼の体にそっとかけた。
--
友人の入院の知らせを受けたのは、それから二ヶ月後だった。
見舞いに行くと、彼の体は、先日見た時より一回り小さくなっていた。
「例の件、頼んだよ。」 「ああ。」 「それから、もう一つ。預かって欲しいものがある。」 「何だ?」 「つまらないものさ。思い出の品。小さなダンボール一箱分だ。」 「いいけど・・・。俺が受け取っていいのかなあ。」 「ああ。頼む。」 「分かったよ。」 「俺はもう長くはない。」 「何言ってんだよ?」 「分かってたんだ。犬だけは、頼む。」 「ああ。」
これが最後になるかもしれない。何となく、彼の顔を見てそう感じた。 「一つだけ教えてくれよ。犬の名前。」 「ああ。名前ね。マサエだ。」 「分かった。」
人間の女性のような名前に、彼の特別な感情を感じた。もちろん、黙っていたが。
--
彼の家に行くと、彼が説明した通り、玄関口にダンボールが置かれてあった。それから、庭に回ると、犬がいた。マサエだ。
なるほど。美しい犬だ。黒く澄んだ目がこちらをじっと見ている。僕を見ても吠えたりしない。僕の顔を見て、何があったか理解したようだ。
「おいで。」 私は、マサエを自分の車に乗せた。
「ここを離れるのは辛いだろうが、辛抱してくれよ。もうすぐきみの主人はすっかり良くなって病院から帰ってくるからね。それまでの辛抱だ。」
もちろん、マサエは何も言わない。
家に着くと、私は、マサエの新しい家に連れて行ってやった。 「気に入ったかい?きみの好みがよく分からなくてね。知り合いの大工に頼んだんだよ。」
マサエは、しばらくすると、自分の家に入っていった。どうやら気に入ったようだ。
--
夜、グラスを傾けながら、ダンボールの中身を見る。
中から出て来たのはアルバムだった。
彼と、美しい女性の。
なるほど。これは、彼の親族にも見せられないものだ。この女性の存在が知られたら、かなり厄介なことになりそうだ。この女性は今、どこにいるのだろう。
五冊のアルバムは、全て、その女性の写真で埋め尽くされていた。色白で、長い黒髪。中には、女性の裸身が写っているものもあった。どれも美しい写真ばかりだった。友人が、彼女の美しさをとどめようと夢中でシャッターを切る姿が目に浮かぶようだった。
三冊目を見終わる頃には、もう、ほとんどその女性に恋をしていた。彼女の恥じらい。彼女の情熱的な眼差し。愛する人の前に全てをさらけ出す喜び。写真には、二人の想いが溢れていて、私は嫉妬すら感じていた。
五冊目に入る頃には、この女性に会いたくて仕方がなくなっていた。今どうしているのか。なぜ、このアルバムを受け取るべきは私で、この女性ではないのか。
最後の写真を見て、その理由が分かった。
最後の一枚は、女性の写真ではなかった。犬の。茶色い、美しい毛並みの犬の写真だった。
私は、深い深いため息をついた。
--
翌朝、私は、マサエを散歩に連れて行った。
マサエは、大人しく私に引かれて歩いた。
少しためらったが、思い切って切り出してみた。 「写真見たよ。」
マサエは、立ち止まって、私の顔を見た。
「きみが、あのアルバムの女性なんだね。」
マサエは、また黙って歩き出した。
なぜ犬になってしまったのか。知りたいと思った。
その夜、マサエを自宅に招いた。
「なぜ、犬になってしまったんだい?」 私は、訊ねた。
「あの人を愛してたからです。」 美しい声が響いた。
それは、どこか別のところから響いているように思えた。
「自分から望んで犬になったの?」 「ええ。そのほうが、何かと面倒がないということになったんです。ご存知でしょう?あの人の周りにいる人達。あの人達のせいで、彼はとっても不幸だったんです。だから、彼がもう長くないって分かった時、彼はとっても私のことを心配して。それで、私は犬になったんです。」 「そうか・・・。」 「ごめんなさいね。」 「いや。いいんだ。だが・・・。その・・・。きみは、もう人間の姿には戻れないのかい?」 「どうでしょうか。」 「まさか、一生その格好なんて、きみも嫌だろう?」 「そうでもありませんわ。」 「もったいない。」
彼女は、怒ったのか。もう何も言わなかった。あのアルバムを見てしまった後、私がマサエを見る目つきに変化が出てしまったのかもしれない。
「すまない。」 私は、謝り、マサエを彼女の犬小屋に送っていった。
--
女の夢を見る。人間だったマサエの、あの美しい肢体。あんな美しい女を抱いていたのか。
だが、マサエは、あれから二度と私と話をしない。
毎日が淡々と過ぎて行く。
--
親友が亡くなったのは、マサエを引き取って一ヶ月目だった。
マサエに告げ、 「葬儀は明日だそうだ。」 と言ったが、彼女は首を振っただけだった。
その夜の食事には口をつけなかった。
--
マサエに心を許してもらう術はないのかもしれない。もう一度、話ができたらいいのに。そう切望するようになった。
やましい心がないといったら嘘になるが、親友のことを語り合い、悲しみを分かち合いたかった。私も一人暮らしが長い。時折、ふと寂しくてどうしようもない時があるのだ。
嵐の夜。
外で、マサエがくぅん、くぅん、と鳴いている。
私は、慌てて外に出た。マサエが犬小屋の中で震えていた。
怖いのだ。
私は、マサエを家に連れて入り、シャワーで体を洗って、タオルで拭いてやった。
震えるマサエに、少しばかりのブランデーをたらした紅茶の入った皿をおいてやった。
すっかり体が乾き、震えが止まったマサエは、口を開いた。 「ありがとう。」
私は、マサエの背中にそっと触れた。
マサエは、体を寄せて来た。
「ごめんなさい。」 「いや。私が悪かった。」 「あの人が最後なの。私にとって。だから、もう、誰の前でも人間の姿になることはないわ。」 「分かってる。」
マサエの体の重みを感じ、その背中をずっとなでた。
マサエの体温を感じた時、私の体が、女性に対するそれのように反応した。私の心臓の鼓動は高鳴り、恥ずかしさを覚えた。
マサエも気付いていたにちがいない。
だが、マサエは何も言わなかった。
--
それからも、私達の関係は変わらなかった。
相変わらず、マサエはしゃべらなかった。
ただ、雨の夜だけは、私の部屋で一緒に寝た。
それで良かった。それで充分だった。
--
親友が亡くなって、ちょうど一年が経った頃。
マサエは、具合を悪くしてしまった。
医者に診せても、はっきりと原因が分からない。
私は、何とかマサエを治してやりたいと思った。
だが、マサエは言うのだ。 「このまま、死なせてちょうだい。」 と。
私は、泣いた。
マサエは・・・。
微笑んでいるように見えた。
あいつのところに行けるのが嬉しいのかい?
そう言おうとして、また泣けて来た。
私は、一晩中、マサエの背を撫で続けた。
明け方、マサエは、ふらふらと立ち上がった。
「どこに行くんだ?」 「ここでは、駄目。」 「何が駄目なんだ?」
マサエは、玄関に走り出た。慌てて、追う。
マサエは、それからゆっくりと振り返った。犬ではなく、女の姿がそこにあった。あの写真の。
私は、動けなくなった。
マサエは、微笑んで。私の体に手を回した。私は、その小さな美しい顔に口づけた。
「行くわ。」 マサエは、きっぱりとした声で言った。
「ああ。」
--
あいつの墓の前で、一人の女が亡くなっていたと。
誰かからそんなことを聞いた。
私はといえば。
何となく行きたくなくて、あいつの墓参りをしていない。
マサエのアルバムは燃やした。
一枚を残して。
美しい犬。
2004年09月28日(火) |
「男って、ほんと、そうなのよね。いっつも、そう。ほんと、おセンチで。自分のせいで女の子が駄目になったと思ってる。」 |
みんなが見ている中、マキは思い切り大きな声で僕に叫んだ。 「勝手にするがいいわ!」
マキはコップの水を僕の顔に浴びせかけた。店中がこちらを見た。
僕は、笑うしかなかった。何でもないんだと。大したことない。ちょっとした痴話喧嘩。
その日、僕らは、もう、付き合い初めてから数え切れないぐらいの喧嘩の続きをしていた。いや。喧嘩とは言わないか。いつだって、マキが怒ってばかりだ。僕は黙っているだけ。マキの嵐が通り過ぎるまで。
原因は僕だ。僕の優柔不断。ありとあらゆることを僕が決めようとしないから、マキは苛立っているのだ。
僕は、怒り始めた彼女をなだめる方法が分からなかったし、そもそも、なんでそんなに怒らなきゃならないのかもよく分かってなかった。だけど、僕の何かが致命的にマキを怒らせてしまうのだ。
だから、こう答えるしかなかった。
水がしたたる眼鏡をはずし、尻ポケットから出したハンカチでぬぐいながら僕は答えた。 「そうするよ。きみが一番望むようにする。さよなら。」
後ろは振り返らなかった。
--
喧嘩の理由は思い出せない。いつものように些細なことだ。そのうち、いつの間にか、僕が昔付き合ってた女の子の話になった。その子とは、大学生の頃に一ヶ月だけ一緒に暮らした。一ヶ月目に、彼女の両親が、アパートの合鍵を使っていきなり部屋に入って来た。僕らは裸で抱き合って眠ってた。父親は大声で怒鳴り、母親は悲鳴をあげた。僕は、即刻たたき出された。その日の夕方、彼女の部屋を訪ねた時には、もうその部屋は空っぽだった。
大人しい子だった。両親は裕福で、そもそも、彼女はこんな安アパートの一室から無名の国立大学に通うはずの子じゃなかた。だが、どういうわけか、彼女は自分の素性に反発するように、その安アパートで暮らし、そしてきっと、両親に反抗するために僕と寝た。
そんな話をしたのだ。
気が付いたら、マキは怒っていた。
最初は単純な焼きもちだと思っていた。
だが、よく聞くと、僕が悪いと言う。そんな昔の女の子に、今でも恋しているのだと言う。そんなに気になるなら、彼女を追いかけるべきだと、そんなことまで言う。そして、手元にあったコップの水を僕にひっかけたってわけ。
だから、僕もつい言ったのだ。 「そうするよ。きみが一番望むようにする。さよなら。」
本当にそうなのかもしれないと思った。確かにあの子とはまだ終わってない。ちゃんと終わってないから、心が残ってるのだ。
どうして、あの時、あのまま彼女を追いかけようとしなかったんだろう。
僕は、彼女の古い手紙を探し、そこに書かれてあった住所を写し取った。
仕事はそう忙しくない。しばらく休みを取ればいいさ。
彼女の顔さえ忘れそうになっているくせに、僕は妙に興奮していた。
--
新幹線を降りると、ローカル線に乗り継いで更に三十分。僕は、窓のそとをぼんやり眺めている。携帯電話に、マキからの電話は入ってない。もう本当に終わったのかもしれない。マキはもう、僕と喧嘩する必要はないんだ。マキを満足させてやれる、もっと素敵な彼を見つけるといい。
その小さな町に着くと、僕は更に十五分ほどさまよって昔の彼女の家の前にたどりついた。話に聞いていたとおり、立派な家だった。
十分ほど悩んだ挙句、僕は呼び鈴を鳴らした。
しばらくして、家政婦らしき女性が出て来たから、僕はかつての恋人の名前を告げた。 「サオリさん、いらっしゃいますか?」
だが、目の前の中年の女性はひどく困った顔をして、それからポツリと言った。 「もう、おりません。」 「もう?」 「ええ。五年前から。」 「で?どこに?」 「さあ・・・。知りません。」
彼女は、僕から目をそむけると横に向いたまま頭を下げ、逃げるようにドアを閉めた。
どういうことですか?
聞きたかったが、無理だった。
仕方なく、僕はその家を後にした。
駅でメロンパンと牛乳で昼を済ませ、僕はかつての友人の一人に電話をした。 「ああ。僕。そう。久しぶり。」
それから、彼女の名前を出し、どうしても会いたくて探していると告げた。電話の向こうの友人は、噂だけどさ、と前置きをして、彼女の居場所の手がかりになるような地名を口にした。
僕は、再び電車に乗り込んだ。
僕も聞いたことがあるその地名は、女が女であることと引きかえに金を稼ぐような場所だった。
なんでそんなところに?
考えたくない答ばかりが頭に浮かぶ。
その町に着いた頃にはもう、陽が暮れかかっていた。
安っぽいビジネスホテルに泊まった。
--
次の日は、一件一件、写真を見せて訊ねて回るしかなかった。ドラマの刑事にでもなった気分だ。
夜まで歩き回って、ようやく顔と名前のどちらにも心当たりがある女に出会うことができた。
「で?どこに行ったか知りませんか?」 僕は期待に胸を膨らませた。
「サオリなら、もう死んじゃったよ。」 女はどうでもよさそうに言った。
「どういうことですか?」 「男にさあ。捨てられて、ボロボロになって。挙句、車に轢かれて死んじゃったよ。」
僕は、しばらく声が出なかった。
どうしてだろう。忘れそうになってた女の子なのに。
泣きたいような笑いたいような気分だった。
女は、サオリと一時期は一緒に暮らしたこともあるという。
「悪いほうへ、悪いほうへ、行っちゃう子だった。危なっかしくて見てらんなかった。付き合う男は、だんだんひどい奴になってった。両親が嫌いだって言っててね。」 「・・・。」 「男も逃げ出しちゃうんだよね。あの子、ひどかったから。わがまま言うし。時々ふらっといなくなるし。でも、試してたんだと思う。それでも逃げない男。自分から逃げずに愛してくれる男。」 「そうですか。」
女はなぐさめるように微笑んだ。
僕のせい・・・?
あの時、彼女をちゃんと抱き締めてやれば良かった。僕は、サオリを彼女の両親に突き出すように、僕の体から引き剥がしたのだ。
「よくある話じゃない?」 女はつぶやいた。
--
もう一晩その町に泊まり、それから、自分のアパートに帰ってきた。
それから、一ヶ月。
マキからは連絡がなかった。
だから思い切って電話をした。
--
マキと別れ話をしたカフェ。同じ席。
「で?」 マキは、相変わらず怒ってる。
「謝りたかったんだ。」 「そう。」 「ごめん。」 「いいよ。謝ってもらってもしょうがない。」 「もう一回やり直したい。」 「無理よ。どうせ繰り返しだわ。」 「もう繰り返さないさ。」
僕は言った。マキの目を見て。
マキが先に目をそらした。
泣いてるように見えたが、よく分からない。マキは、僕の前で一度も泣いたことがなかったから。
「幻だった。昔の恋人は、僕が思ってた女の子とは違ってた。いろんな男と遊んで、最後はボロ布みたいに死んだんだ。」 「でも、自分のせいだと思ってるんでしょう?自分が彼女を捨てたせいだって。」 「・・・。」 「男って、ほんと、そうなのよね。いっつも、そう。ほんと、おセンチで。自分のせいで女の子が駄目になったと思ってる。」 「分かったんだ。目の前にいる時にちゃんと手を伸ばして捕まえなくちゃって。」 「分かった。捕まえたらいいわ。」
マキは、席を立った。 「探しに来て。絶対。あたし、今から消えるから。」
マキはそう言って。席を立つと駆け出して行った。みるみるうちに、その姿は見えなくなった。
分かったよ。
必ず捕まえる。
気付くと、僕は微笑んでいた。マキの後姿が、僕に、追いかけて来てよと告げていたのを知ったから。
マキはずっと同じことを。あたしを捕まえてって。ずっとそう言ってたのに。
目隠し鬼が捕まえてくれないことには、ずっと叫んでいなければいけないのだ。
2004年09月27日(月) |
「誰でもいいんだろ?僕じゃなくても。サワダじゃなくても。そいつの心を手に入れたら、次の男に行くんだろ?」 |
二学期に入っても、まだ、その転校生は誰とも馴染まなかった。
彼自身が誰ともしゃべらないせいもあったが、その美し過ぎる顔も、理由だった。
だが、たまたまクラスで二人一組のペアを作る機会があって、僕らは初めて会話を交わすことになった。
話してみれば、ごく普通の少年だった。僕らはあっという間に仲良くなった。少々子供じみたクラスメートに飽きていた僕は、彼と知的な会話ができることが嬉しかった。とはいえ、彼はどこか人を遠ざけるところがあったのは事実だ。
サワダ、というのが彼の苗字だ。
彼は、いつも左手の人差し指に絆創膏を貼っていたので、一度だけ訊ねたことがある。 「指、どうかしたの?」
彼は、ちょっと驚いて、それから、湿疹が出来ているのだとか何とか、答えた。
それから、彼、話を変えようとしたのだろう。 「アサミのこと、好きなの?」 って。
図星だった。僕は顔を赤くして、ああ、と答えた。
「いい子だよね。」 「うん。いい子なんだ。」
顔も可愛いけど、それだけが理由じゃない。
「でもさ。あの子、結構いろんなやつと付き合ってるよ。」 サワダは言った。
「知ってる。」 「うまいよね。あの子。」 「分かってるって。」
そうだ。上手いのだ。ちょっと考え事してる表情を捉えては、「どうしたの?」って訊いてきたり。誰も見てないと思ってたのに、「お昼休みに読んでた本、なに?」って声掛けてくる。そんな風に興味持ってもらえたら、誰だって好きになる。
「僕は嫌いだな。」 サワダは言った。
「分かるよ。アサミを見てると、僕もたまにイライラするんだ。こいつ、分かってるんだなって。そうやったら人の心を上手くつかめるって分かってるんだよ。」 「だけど好きなんだね?」 「ああ。」
サワダは、僕をじっと見つめた。僕も見つめ返した。彼の肌は薄くて女の子みたいだ、と思った。
心なしか、サワダの瞳は悲しそうだった。
--
いやな感じだ。
アサミは、どうやらサワダに興味を持ったらしい。
アサミは、そういう子だ。
あからさまじゃない。僕とサワダに、均等に話し掛けるのだ。だけど分かる。アサミのターゲットは、僕じゃなくてサワダだ。
僕は明らかに苛立っていた。サワダのせいじゃない。だが、サワダを憎み始めている僕がいる。
先手を打とうと思った。
「アサミさあ。今日、一緒に帰らない?」 「いいけど?サワダ君も?いつも一緒だよね。」 「いや。僕だけだけど。構わない?」 「もちろん。珍しいね。誘ってくるなんて。」 「たまにはね。」 「嬉しいな。」
アサミは、笑った。その日、授業の合間にも目が合うたびに笑い掛けてきた。そういう子なのだ。相手に、自分達のことを特別な関係だと思わせるのが上手いのだ。
--
「嬉しいな。一緒に帰れるのって。」 アサミは、本当に嬉しそうに言うから、僕は、嘘つきめ、と思った。
「サワダがいなくても?」 「サワダ君?やだ。そんな風に思ってたんだ。」 「うん。分かるよ。きみを見てたら。」 「そういうんじゃないよ。ただ、サワダ君ってちょっとミステリアスじゃない?」 「ああ。」 「何か、もうちょっと知りたいなって思っただけよ。」 「そういうのが恋っていうんじゃないの?」 「やだな。もう。そんなこと言いたくて誘ったの?」 「違うよ。」
僕は、立ち止まって彼女の肩を抱いた。
そして、口づけた。
アサミの体は、固くなった。
「ごめん。」 僕は、そういってアサミから体を離した。
「ちょっと怒った。」 アサミは小さな声で言った。
「だから、ごめん。」 「順番が間違ってる。」 「だから、ごめんって。」 「ちゃんと言ってよ。こんな、後で悩む感じじゃなくて。」 「分かってる。」 「ね。だから・・・。」 「分かってる。好きなんだよ。きみの事。」
アサミは、僕の手を握って来た。
僕も、握り返した。
それが月曜日のこと。
--
火曜日、水曜日。
サワダは、何も言わなかった。僕らの変化に気付いた筈だったけど。むしろ、少し距離を置いてるみたいだった。
僕は、アサミと一緒に帰るようになった。
「サワダ君、知ってるの?あたしたちのこと。」 「さあ・・・。僕は何も言ってない。」 「知ってるよねえ。」 「多分。」 「私、悪い事しちゃってるな。前みたいに三人ってのも好きなのに。」 「気になる?」 「そりゃ・・・。もちろん。」 「なんかムカつく。」 「そんなつもりじゃ・・・。」 「分かってるよ。」
僕は、アサミに対して怒ってる。何か違う。こんなじゃない。アサミの心が欲しかったけど、アサミと一緒にいても、彼女のことが全然分からない。思わせぶりなことは言う癖に、肝心のことは言わない。からかわれているみたいで、苛立ちを感じた。
「分かったわ。そんなに疑うなら、あたし、サワダと付き合う。」 「なに、それ?」 「あなたの言う通りだもの。あたし、サワダ君にちょっと興味があったの。でも、好きとか。そういうんじゃなかった。でもね。あなたがそこまで言うなら、もしかして本当に気になってるのかもって思えて来ちゃった。」 「無理だよ。」 「どうして?」 「だって・・・。」 「ねえ。どういう意味?」 「アサミ、誰でもいいんだろ?僕じゃなくても。サワダじゃなくても。そいつの心を手に入れたら、次の男に行くんだろ?」
アサミの手が僕の頬を打った。
アサミが駆け出して行く後ろ姿を、僕はぼんやりと見送った。
--
その夜、アサミの携帯は一晩中繋がらなかった。
サワダと一緒なのだろうか。
気が狂いそうだった。
一時間毎に電話した。アサミの携帯は、電波の届かないところに行っちゃってるみたいだった。
雨が激しくなってきた。遠くで雷も鳴っている。
--
明け方、少しうとうとしたところで、携帯が鳴った。アサミからだった。 「どしたの?」 「ちょっと・・・、会えない?」 「どしたの?」 「ねえ。ちょっとだけ。電話じゃ話せないよ。」 「待ってて。」
僕は急いで着替え、家族に気付かれないように家を抜け出した。
アサミは、ずぶ濡れで震えていた。
「どこか、体が乾かせるところに行かないと。」 「ええ。」
僕らは、古びたラブホテルに入った。
アサミは、震えていた。温かいタオルにくるまり、濡れた髪を乾かしても、まだ震えていた。
「風邪、ひいたんじゃない?」 「そんなんじゃない。」
アサミは、ずっとうつむいたままだった。
「どこ行ってたの?」 「サワダ君のとこ。」
やっぱり。
「で?」 「あたし、サワダ君と・・・。」 「言うなっ。」 「ねえ。聞いて。」 「言うなよ・・・。頼むから。まだ、お前のこと好きなんだから。」 「違うの。」 「違うって、何が?サワダとは何もしなかったのかよ?」 「ええ・・・。」 「・・・。」 「だけど・・・。」 「もういいよ。ずっとこんなだよ。サワダと僕と、アサミ。一人多いんだよ。」 「ねえ。聞いてよ。」 「じゃあ、言えよ。何でも言ったらいいだろ。その代わり、俺、自分を抑えられるか、自信ないから。」 「だから・・・。」 「早く言えよっ。」 「サワダ君、いなくなっちゃった・・・。」 「何、それ?。」 「付き合おうかって言ったの。やけになってたし。サワダ君、何も言わなかった。なんか、不気味な感じで。ああ。あたしのこと、嫌いなんだって、分かった。あなたと喧嘩したこと言った。そしたら、すごく怒った顔になって。」 「・・・。」 「で。あたし、サワダ君と付き合いたいって言ったの。そしたら、サワダ君、言ったわ。何人目?って。」 「・・・。」 「どういう意味って聞いたの。そしたら、サワダ君、笑ったわ。笑って、笑って。笑いが止まらなくなっちゃった。それでね。あの指の絆創膏。はがしたの。」 「分かんねえよ。」 「そしたらね。そっから、するするって。サワダ君の皮膚が絆創膏に繋がって、くるくるくるくる、エンピツ削りで削ったみたいに、皮膚が繋がってはがれてって。」 「お前、俺のこと馬鹿にしてんの?」 「違う。違うよっ。それで、サワダ君、ずっと笑ってて。で、空っぽなの。サワダ君、皮膚をはがしたら、空っぽだったの。笑ってるの。ずっと笑ってこっち見てて。」 「・・・。」 「で、気がついたら、足元にはがれた皮膚が山になってて。サワダ君はどこにもいなくなってた。大声で叫んで。気が付いたら、あなたに電話してた。」
アサミは、まだ震えていた。
僕は、アサミを押し倒すと、バスタオルを引き剥がした。 「面白い話だな。」
僕は、アサミの震える体に自分を押し込んだ。アサミは抵抗しなかった。
サワダが空っぽだってさ。
空っぽなのはお前だよ。
アサミは、小さくうめいたが、僕にされるままになっていた。
こんな女、抱いてたって楽しくない。
僕は、それでも、アサミを。
ねえ。サワダ。そこで見てるんだろう?透明な体で。この女に、本当の空っぽってやつを教えてやってくれよ。
2004年09月24日(金) |
ドレスをたくし上げた。真っ白な太腿が彼の目を打った。「ここへいらっしゃいな。あなたができることをしてちょうだい。」 |
彼はもう、意識がなくなりかけていた。
歩道の隅で、雨に打たれ、肩で息をしていた。
自分はここで死ぬんだと感じた。
恋人に呼び掛けることさえできず、彼の意識は遠のいていった。
--
「気付いた?」 女の声がした。
彼は、薄く目を開けた。そこは見知らぬ場所だった。
彼は首をかしげる。
「拾ってあげたの。あなたを。」 女は笑った。
美しい女。 「私はイリヤよ。あなた、名前は?」
彼は首を振る。
女は、それ以上は詮索しない。
彼は、清潔な服を着て寝かされている。
「元気になったら、私の部屋に来て頂戴。」 女は言い残して部屋を出る。
彼はゆっくりと起き上がる。素晴らしい部屋。どこかの金持ちの女に拾われたらしい。
彼は、部屋のドアをそっと開ける。使用人らしき女性が気付いて、彼をどこかへ導く。
「あら。来たの。」 女は、微笑む。
彼には言葉がない。彼は、ある事情から言葉というものをそっくり失ってしまった。最後には、愛する人の名前すら失ってしまうのが怖くて、彼は逃げ出した。
だが、生きるためには言葉が必要なのだ。言葉がなければ、知性も感情も示すことができない。まともな職に就くこともできず、彼は放浪した。
女は、黙って立っている彼の目を覗き込んだ。彼の目の奥をじっと見つめ、何かを探していた。それから、言った。 「分かったわ。」
彼は、何が分かったのだ、というように首をかしげた。
「あなたが狂ってないこと。とても悲しい気持ちでいること。何かをすっぽりと失くしてしまったこと。」 女は言った。
「ここに置いてあげてもよくてよ。私の相手をしてちょうだい。」
だが、彼は首を振った。もう、生きていても仕方ないと思っていたのだ。
「あら。可哀想に絶望しているのね。でもね。私、あなたが探しているものをあげられるかもしれないわ。大概のものはお金で買えるのよ。」
彼がまた首を振ろうとするのを、女は遮った。
「ねえ。本当に、どんなものでも買えるの。」
彼は、女を見つめた。瞳がかすかに光を取り戻した。
「信じてくれたのね?いい子だわ。でも、その代わり、私を喜ばせてくれなくちゃ。」 女は、彼を手招きし、ドレスをたくし上げた。真っ白な太腿が彼の目を打った。
「ここへいらっしゃいな。あなたができることをしてちょうだい。」
彼は女のそばに行き、ひざまずいた。
--
その日から、彼は、女と行動を共にした。美しく、金持ちだったが、彼女はひどく孤独だった。彼がそばにいても孤独だった。彼は辛抱強く待った。彼女が、彼の探しているものをいつか渡してくれると信じて。
彼は、夢を見た。夢の中で彼は愛する人を抱き締めていた。そして、言葉を。愛する人への気持ちを言葉にしてささやき続けた。だが、夢が終わると、彼は思い知るのだ。今の自分には言葉がない。愛する人に愛を伝える言葉を口にできない。
出会ってから一年。彼女は彼に言った。 「そろそろ、あなたを解放してあげなくてはね。」
男は、顔がほころびそうになるのを隠して、うなずいた。
「あなたがいつまでもそばにいてくれるなら、私は幸福だったわ。お金で何でも買えるというのは嘘よ。お金じゃ、人の心は買えないわ。あなたの心はいつだって遠くにあった。変よね。あなたのこと、大好きだったの。あなたがそばにいてくれると、ほんのちょっぴり心が温まったわ。あなたみたいに悲しい目をした人は初めてだった。それが、私の心を捉えて話さなかった。私ね。生まれてからずっと、一人だったの。沢山の男がそばにいても孤独だった。結婚したこともあったけど、私が寂し過ぎたのね。夫は、私に付き合いきれないといって逃げて行ったわ。」
女は、小さなスティックを取り出した。
「言葉よ。違法に入手した、言葉のワンセット。ただし、少しだけ欠けてるわ。それぐらい我慢してちょうだいね。」
彼は震える手で、それを受け取った。
「あちらの部屋でドクターが準備してるわ。さ。行って。私、ちょっと出掛けて来る。無事に言葉を取り戻せたら、もう行ってしまってちょうだい。私には会わないで。もうお別れよ。」 イリヤの目に涙が浮かんでいた。
彼は、イリヤを抱き締めて、その白い手の甲に唇を付けた。
「さあ。もう行きなさい。」
--
彼は、再び生まれ変わった。
「どうですか。何か言ってみてください。」 「あ・・・。ありが・・・とう。」 「そうです。いいですよ。」 ドクターは、深くうなずいた。
彼は言葉がすっかり戻ったのを知った。
彼は、屋敷を出た。
そして、向かった。愛する人が住む場所へ。
--
そのアパートは変わってなかった。表札を確かめて、彼は安堵のあまり涙を流す。
恋人は、まだ一人でそこに暮らしていた。
彼は、恋人と結婚するつもりだった。だが、彼は事故を起こし、一つの家庭を不幸にした。その代償は大きく、彼は結局、逃げ出したのだ。
震える手で呼び鈴を鳴らす。
「どなた?」 顔を出したのは、彼の恋人。
「僕だよ。」 「うそ・・・。ねえ。どこに行ってたの?」
恋人は彼の胸に飛び込む。彼は抱き締める。愛してるよ。愛してるよ。
夢に見たのと同じ。
--
「少し痩せたね。」 恋人は、言った。
「ああ。」
それから、知りたがる恋人に、彼のそれまでを話して聞かせた。だが、イリヤのことは話さなかった。イリヤ。美しく孤独な女。彼がイリヤとしたいろんなことは、恋人には黙っていた。
「ねえ。もう、どこにも行かないで。」 「分かってる。」
彼は恋人と抱き合って眠った。
--
幸福を取り戻したと思っていた。
ささやかだが、平凡な幸せ。
だが、彼の夢には、時折、イリヤが登場する。白い肌をくねらせて、彼にしがみつくイリヤの夢。
彼は呻く。
--
ある朝、恋人は目を腫らしていた。
「どうした?」 「ねえ。イリヤって、誰?」 「ああ。前、お屋敷で世話になっていた。ボロ布のように道に転がっていた僕を拾ってくれて。」 「イリヤさんと寝た?」 「え?いや。まさか。」 「あなた、夜、いつだってうなされてるわ。」 「そうか・・・。気付かなかったな。」 「ねえ。私の名前、あなた一度も呼んでくれないわよね。」 「それは・・・。」 「どうして?」
彼は、思い出す。欠けている言葉があるということを。
「僕の言葉は、元は他人のものだった。だから、欠けてるんだ。」 「私の名前?」 「・・・ああ。」 「どうしても、口にできないの?」 「そうみたいだ。」 「なんて、ひどい。」 「大丈夫だよ。」
彼は、恋人を引き寄せ、抱き締める。
愛してるよ。
その言葉は、空虚だった。
言葉が嘘をついていた。
だが、愛してるよ。と。彼の唇からは幾らでも流れ出す愛の言葉。
--
彼は、恋人が眠っている間に荷物をまとめた。
短い手紙を書いた。
本当のことを書こうとしたが上手く行かなかった。他の女を愛していると書けば、それは本当だろう。だが、彼にはできなかった。だから、きみを愛していた、と。かつて、本当に愛していたと。それだけ書いた。
眠っている恋人の頬に口付けて、彼は部屋を出た。肌寒い夜の道を歩き始めた。
イリヤ。
今から会いに行く。あの広い屋敷で、たった一人で暮らす女。彼がどんなに抱き締めても、イリヤは一人ぼっちだ。
彼は、愛している、とは言わないだろう。ただ、抱き締めて、名前を呼ぶだけ。
2004年09月22日(水) |
何が不安なんでしょう。三年も付き合って、今さら初夜が怖いなんてのもありませんし。もともと、彼女は自由にやる女です。 |
その旅は、最初からどこか雲行きがあやしかった。
それでも僕らは、一生懸命に旅を楽しいものにしようと努力していたと思う。少なくとも僕は。
旅行まで何度か喧嘩したし、旅行そのもののとりやめも何度か考えたぐらいだが、当日は何とか我々は平静な気持ちで飛行機に乗り込んだ。
北海道に3泊4日。
それが僕らの新婚旅行だった。
僕の仕事が忙しいせいで4日休むのが精一杯だった。国内旅行になってしまったことも妻の機嫌を損ねた原因かもしれない。もちろん、妻はそんなことを怒っていたわけではないと思う。
「不安なのよ。女ってそういうものよ。だから許してあげてちょうだい。」 妻の母に言われ、僕もうなずくしかなかった。
付き合って3年というのは、妻という人間を見極めるのにそんなに短い期間ではなかったと思う。その間、そこそこ上手くいっていたし、妻はこんなに怒ったりする人間ではなかったはずだ。
本当のことを言うと、僕は単純に興奮していた。妻とやっと一緒に暮らせるようになるのが嬉しかったし、仕事を休んで旅行できるのも嬉しかった。妻も同じ気持ちでいてくれたら嬉しいと思っていたが、どうやら妻の心境は複雑な様子だった。家を出る時から、ほんの少し顔を曇らせていた。
--
飛行機の三人掛けのシートの真ん中が僕、左は妻だった。右には、高価そうなスーツを着た男性が座っていた。
僕らは、飛行機に乗り込んでからはずっと押し黙ったままだった。
急に隣の男性が話し掛けて来た。 「失礼ですが、新婚旅行ですか?」 「え?ええ・・・。」 「そうですか。それは素晴らしい。」 「まあ、僕の仕事のせいで、行き先も国内になっちゃったんですけどね。妻には申し訳ないと思っています。」 「行き先はどうでもいいんですよ。ご夫婦が一緒にいて絆を深めることが大切なんです。」
男性は、にこやかに、手馴れた雰囲気で僕らを賞賛した。
「失礼ですが、北海道へはお仕事ですか?」 僕は訊ねた。
「ええ。そうです。」 彼はそう言って、名刺を出してきた。
「レストランを幾つか持ってるんですが、北海道にも店を出してましてね。」 「なるほど。」 「そうだ。あなた方をご招待しましょう。」 「え?いいんですか?」 「ええ。」
男性は、名刺の裏に自分の携帯電話の番号を書いた。
「今夜は、私がお相手させてください。その代わり、あなたがたに正直な感想をいただきたいんです。ちょうどあなたがたみたいなご夫婦のために料理を出す店がコンセプトでね。生の声を聞きたい。いや。食べている時の雰囲気も見てみたいのです。」 「僕らでいいのかなあ。」
ちらと妻のほうを見ると、彼女は興味を持ったようで、名刺に手を伸ばして来た。
「どうですか。是非。」 男性は、妻に向かって言った。
「素敵ね。うかがわせていただくわ。」 彼女は微笑んだ。
「それは良かった。」 男性も微笑んだ。
僕は、妻の笑顔さえあれば、どちらでも良かった。
そうして、短い飛行機の旅を終え、僕らは空港で男性と別れた。
男性がいなくなってしまうと、妻はまた少し塞ぎこんでしまった。
ホテルに着いて、少しその辺りを歩こうと言っても、妻は疲れたと言って、ベッドに潜り込んでしまった。 「あなただけ行って来て。少し眠りたいの。」 「分かったよ。」 「お食事までには戻って来てね。」 「ああ。」
僕は、あきらめて一人で散歩に出掛けた。つまらなかった。一時間ほど、無理矢理に時間をつぶして、部屋に戻った。
妻はいなかった。
手紙があった。 「ごめんなさい。少しだけ一人になる時間をちょうだい。落ち着いたら戻ります。」
妻の荷物はそこに置かれたままだった。だから、きっと帰ってくるだろう。だが、旅は台無しだ。妻が戻って来ないのだったら、ホテルを引き払ってさっさと東京に戻ったほうがましなぐらいだ。だが、妻はいつ戻ってくるかも分からない。
僕は、しばらくぼんやりとベッドの縁に腰を下ろしたまま、どうしていいか分からず頭を抱えていた。
それから、ふと思い出して、飛行機で出会った紳士のことを思い出した。
食事どころじゃない気分だったが、すっぽかすのも申し訳ない気がした。こうなったら正直に話をしてみよう。
--
「そうだったのですか。」 男性は、僕にワインを勧めながら深くうなずいた。
「恥ずかしい話です。 「いや。あなたのせいじゃないですよ。」 「あなたにも失礼かと思ったのですが、一人で部屋にいるのが耐えられなかったんです。」 「思い出していただいて良かったです。さあ。召し上がってください。」 「いや。もう、あまり飲ませないでください。妻は、僕が飲み過ぎるのは嫌いなんです。」 「だがしかし、奥様は今はいない。」 「そうだけど・・・。」
男性は、僕をいい気分にさせた。僕は、つい饒舌になり、家庭の悩みまで打ち明けてしまった。
「何ででしょうかね。妻は、最近よく怒るようになった。」 「いつ頃からですか?」 「そうだな。結婚が具体的になりだした頃かな。」 「なるほど。」 「妻の母親が言うんです。女はみんな、結婚を前に不安になるものだった。」 「そうかもしれませんね。」 「でも、何が不安なんでしょう。三年も付き合って、今さら初夜が怖いなんてのもありませんし。もともと、彼女は自由にやる女です。僕が縛り付けるなんてこともないし。」 「怒るのですか?」 「ええ。怒るんです。」 「女性が怒る時というのは、私が思うに・・・。」 「ええ。どんな時です?」 「男性に話を聞いて欲しい時ですね。」 「話?話なら聞いてましたよ。」 「そうではなくて。たとえば、男性にとって都合が悪い話になると、返事が適当になってしまったりすることはありませんか?」 「どうかな・・・。」 「そういう時、女性は、話を聞いてもらってないと感じます。」 「そうなんですか。」 「ええ。話を聞いて欲しい時、女性は怒るのです。女性が怒って、初めて男性は驚きます。何を怒ってるんだ?って訊きますよね。」 「なるほど。」
そんな話を2時間か、3時間か。
「そろそろ帰ります。妻が戻ってるかもしれないし。」 「そうですか。いや。今日は楽しかったですよ。」 「そんな。僕ばかりしゃべってしまって。」 「いえ。それはそれで、お勉強になりました。」 「失礼ですが、女性のことをよくご存知みたいですね。あなたの結婚生活は順調なんですか?」 「私ですか?私は、結婚はしたことがないのですよ。」 「なるほど。」 「ですが、女性は大好きでしてね。」 「だから詳しいんですか。」 「ええ。まあ、そういうことにしておきましょう。」
男性はタクシーを手配してくれていた。
僕の気分は、ホテルを出る時より随分とましになっていた。
妻がいないところで、見ず知らずの人に愚痴をこぼすというのは、なかなかいい気分だった。
ホテルに戻ったが、やはり妻はいなかった。
だから、僕は妻の嫌うことを。ネクタイだけはずして、そのままベッドに倒れこんだ。
--
妻は、戻って来た。
4日目の朝に。
妻は、言葉を探しているように黙っていたが、その顔はどこかすっきりしていた。化粧もしていなかったが、頬が紅潮していた。
「おかえり。」 僕は言った。
「ごめんなさい。」 妻は、言った。
僕は妻を抱き締めた。
--
あの日、妻がどこに行っていたのか。僕は無理に聞きださなかった。ただ、僕は、あのレストラン経営の男性のアドバイスに従って、妻が怒る時は真剣に話を聞くようにした。そのお陰か、僕らの結婚生活は順調に滑り出した。
そして、5年。
5年だけ上手くいった。
--
今、妻は、僕を置いて家を出ていこうとしている。
「最後に訊いておきたいんだけど。」 僕は、酔っていた。酔わずにはいられなかった。
「なにを?」 「新婚旅行の時だよ。きみ、いなくなったろ?」 「ええ。そうね。」 「どこで何をしてたんだ?」 「今更、そんなこと訊くの?」 「ああ。たった今、思い出した。」 「私がどこにいたかなんて、言う必要ないわ。」 「いや。知っておきたい。もう、あの時から僕らは駄目だったのかどうか。」 「馬鹿ねえ。そんなもの、誰にも分からないわよ。」 「最後にわがまま言ってるだけさ。きみが言っちゃうから、僕は駄々をこねてる。少しでも引き伸ばそうと思ってる。」 「・・・。」
妻はため息をついて、荷物から手を離し、ソファに腰を下ろした。 「あのね。あの日。私、レストランのオーナーさんと一緒だったの。」 「まさか。」 「あなたに散歩に出てもらった後で、電話したのよ。あの男性に。携帯電話の番号も教えてもらってたでしょう?」 「だが、あの晩は、僕と一緒に食事したんだよ。」 「そうよ。知ってるわ。その後、あのひと、私のために別に用意してくれたお部屋に来たの。」 「寝たのか?」 「・・・。ええ・・・。」 「ははっ。そういうの、ありかよ。」
僕は、手にしたクッションを壁に投げつけた。
「2人で僕を笑ったのか。」 「そんなことしないわ。そういう人じゃないもの。あなたのこととは関係なかったの。私の問題を解決してもらうために行ったんですもの。」 「きみの問題?」 「ええ。そう。私の問題。」 「それが、セックスなのかよ。」 「そうね。分からないけど。あの時、誰か知らない人と寝ることが大事だったの。私、あなたのこと大好きだったわ。だけど、結婚は別。結婚が、とんでもない重たいものに思えて。あなたは怒るかもしれないけど、もう他の男性とも恋愛することなくなるんだって思うと、寂しい気もしたの。だから、少しだけ身軽になりたかった。」 「男と寝ることが、どうして身軽になることか分からないな。」 「私にも分からない。だけど、あれで良かったの。結婚は怖がらなくていいことも、あなたが大好きなことも。私、気付けたのよ。」 「ただ、浮気がしたかっただけなんだろ。金持ちと。」 「違うわ。」 「どう違うのか分からないよ。やってることは汚いことだ。」 「あなたには一生分からないでしょう。」 「そうやって、他人事みたいに言うなよ。」 「だって。もう。他人になるんですもの。怒る気力もわかないわ。」
彼女は、再び立ち上がった。
「あの男のせいだ。僕らが駄目になったのは。」 僕はわめいた。
「そうよね。私、間違ったことをしたのかもしれない。でも、あなたとやっていく勇気をくれたのは、あの時のあのひととの出来事だった。私、この5年が無意味だったとは思わないわ。」
妻は、部屋を出ていった。
2004年09月21日(火) |
明らかにそれに心惹かれていた。私は、ささやいた。「噛んで。」恋人は驚いて、少し動きを止めた。 |
生まれた時から、それはそこにあった。
最初は気付かないぐらい。
柔らかな肉の下で、それもまだ生まれたばかりだった。
それは、もう、私が2歳になった頃には随分と成長していて、そのことで私は何度も病院に連れて行かれた。
母が時に涙ぐんでいたのを知ってる。
私は、だけど、それがそんなに嫌いじゃなかった。本能的に感じていたのだ。人は、私じゃなくて、それを見る。って。
つまり、人は私じゃなくて、それを愛するのだ。
--
目の前にいるのは、初めてキスをした相手じゃなかった。だけど、キスより先に進もうとするのはこれが初めてだった。
私はノースリーブのワンピースにショールを羽織っていた。そう。彼と二人で食事する時、ショールをはずす。彼はそれを見ないようにするが、あきらかにそれを気にしている様子だ。
彼はそれについて口にするような品のない男じゃない。だが、品の良い男に限って、ひどく歪んだ妄想を抱いていたりするものだ。
「そろそろ出ようか。」 彼が立ち上がる。
私は、ええ、とうなずいて、彼の表情に隠された興奮を探す。
--
私の左肩には瘤(こぶ)がある。今じゃ、猫の顔ぐらいの大きさだ。別に痛くはない。小さい頃からあった。2歳の頃にはピンポン玉くらいになっていたので、両親は私を病院に連れて行った。医者は、まだ幼いので外科手術は無理でしょうと言ったらしい。小学生になってから手術を考えたほうがいい、とも言ったそうだ。
小学校に上がった時には、さらに瘤は成長していた。学校はミッション系スクールで、あからさまないじめはなかった。担任のシスターが私をとても気に掛けてくれていたのもあるだろう。もちろん、ちょっとしたいじめはある。小学生なんだから仕方ない。ただ、私は、私を気遣ってやさしくしてくれる子に囲まれていながら、私を嫌って遠ざけようとする子のほうが正直だと感じていた。
私はすごく綺麗な顔をしていたから、男の子のほうが私にやさしくしてくれた。瘤があると、人は私をとても可哀想に思うようだ。だから、格別にやさしくすることに誰も抵抗がない。私は、幼い頃からそれをよく知っていた。顔が綺麗なだけでは、ここまで周囲が私を愛してくれないことを。
--
両親とはその後、何度か病院に行った。結局、肩の神経を傷付ける恐れがあるので手術はしないでおきましょう、と、医者は言った。母は泣いた。少々腕が不自由になってもいいから、瘤を治してやりたいと。そんな風にも言って泣いた。
だが、最終的に、医者に瘤を取りたいかと訊かれた私は、いいえ、と答えた。
瘤は、とても美しかった。綺麗な曲線を描き、真っ白に輝いていた。それを傷付けるなんてとんでもないと思った。
母は病院からの帰り道、あなたは強いのねえ。と、感心したように言った。
私は何も答えなかった。
自分が強いのかどうかなんて少しも分からなかった。
ただ、瘤がなくなってしまうのが怖かったのだ。
--
体育は見学している方が多かった。別に、瘤が恥ずかしいとかではなく、日焼けするのが嫌だったのだ。
私は、どんどん美しくなり、瘤もどんどん成長していった。
私は、それを美しいと感じていた。だから、体を隠すよりは露出するほうを選んだ。人がそれを見てはっとした顔になるのを観察するのが好きだった。
高校に入った頃には、母ももう、私のことをあまり心配しなくなった。
--
恋人は、私の服をゆっくりと脱がせた。そして、首筋から肩に掛けて、ゆっくりと口付けた。
彼は、明らかにそれに心惹かれていた。
私は、ささやいた。 「噛んで。」
恋人は驚いて、少し動きを止めた。 「何を?」 「私の肩。きれいなこの子。」 「噛んでも大丈夫かな?」 「やさしく、なら。」
彼は、うなずいて、私の白く丸い肩にそっと歯を食い込ませた。
「もっと強く。」 「血が出ちゃうよ。」 「いいの。」
彼の歯型から血が滲み出すと、彼はすっかり興奮して、私の左肩を愛し、私を愛した。
私の、白く丸く美しい肩は、そんな風にして恋人を受け入れた。
全てが終わって、彼がそっと肩に唇を付けて来た。 「痛くしてごめん。」 「いいの。」
いいの。そうして欲しかったんだから。
そんな風に言うのは、誤解されるだろうか。処女が、こんな風に体を愛して欲しいと望むことははしたない事だろうか。
「私、愛ってよく分からないの。」 目を閉じている彼に、言ってみた。
「僕もさ。」 「あなたみたいに沢山の女の子を知ってても?」 「ああ。知れば知るほど分からなくなる。いや。知れば知っただけ、愛があるってとこかな。」 「それは全部同じなの?」 「いいや。違う。僕はさ、愛って、相手の歪みを受け入れることだって思ってるんだ。僕も、きみも。ほら、とても歪んでる。」 彼は、そういって、また、身を起こし、私の肩に歯を食い込ませてきた。
--
彼の車で家まで送ってもらった。
「今日はありがとう。」 私は、言った。
「こちらこそ、ありがとう。素敵だったよ。」 彼は言った。
彼は、ハンサムで、たくさんの女の子と遊ぶのが好きだ。
私は、20歳になったばかりの誕生日を過ごす相手として、彼を選んだ。
初めて会った時、彼だ、と思った。私は、彼に訊いたのだ。 「ヴァージンだけど、寝てくれる?」 って。
彼は少し驚いたようだけど、いいよ、と笑って答えてくれた。
その時、私、こんなだけど、いいかしら?って。わざと、シャツの胸元のボタンを外して、左肩を見せた。
「もちろんさ。素敵だ。」 と、そっと、肩に触れてくれた。
あの瞬間、彼は私に恋したと思う。
--
彼は、たくさんの女の子とデートしている。
今日もこの後、誰かの携帯にメールしてるかもしれない。
それでも構わなかった。
私には瘤があるから。
左肩が、どくんどくんと、熱い。
肩の痛みが消えた頃、私はまた彼に電話するだろう。
2004年09月19日(日) |
適当な時間を置いて、僕は部屋に戻った。もう、友人と彼女はキスを終えた後のようによそよそしかった。 |
「入院してるところに女の子を来させるのってなかなかいいよ。」 見舞いに行くと、友人はそんなことを言った。
その日、僕は高校の頃からの友人の何度目かの入院を見舞っているところだった。彼は、自然気胸とかいう肺に空く病気で、穴を塞ぐために入院していた。この病気は何度も再発するものらしく、彼も三度目の入院だった。
「特に、付き合い始めの頃だと、ぐっと親密になる。カーテンを引けば、キスとか、それ以上のこともできなくはないしね。」 「奥さんと鉢合わせしたらどうするんだよ。」 「そりゃ、奥さんの目を盗んで来させるのがいいんだよ。」 「病気のくせに、そんなことしてていいのかよ。」
僕は笑った。彼も笑った。
その日はたまたま、大部屋には僕ら二人だけがいた。
その時、小さなノックの音がして、誰か入って来た。
それが彼女だった。
いまどき、中学生でもこんな子はいやしないだろう。黒い髪のショートカットで、眼鏡を掛けている。色が白くて肌がきれいだ。裾をロールアップさせたジーンズにユニクロの無地のTシャツ。
僕を見て、 「あ。」 と言ったので、慌てて僕は、 「もう失礼するよ。ごゆっくり。」 と声を掛けた。
「いいんだ。二人ともいてくれよ。」 友人は僕らにそう言った。
彼女は大学の一年生で、友人の事務所で夏休みにアルバイトしたのがきっかけで親しくなったようだ。彼女はひどく内気で、僕が何か聞いても最低限の言葉で返事するだけだった。
友人は言った。 「なあ。あとで彼女をバイト先まで送ってやってくれないか。車で来てるんだろ?」 「ああ。いいよ。どうせ暇だし。」
僕は、煙草を吸ってくるから10分ほど席を外すよ、と告げた。
病院の屋上は蒸し暑かった。適当な時間を置いて、僕は部屋に戻った。もう、友人と彼女はキスを終えた後のようによそよそしかった。
「じゃあ、行こうか。」 僕は声を掛けた。
彼女はうなずいた。
「また来るわ。」 「おう。」
--
二人になってしまうと何を話せばいいのか分からなかった。友人と彼女との関係をほのめかすようなことを言うのは失礼だと感じたし。
彼女のバイト先に向かいながら会話の糸口を探した。
「バイトって何時から?」 「6時からです。」 「じゃあ、随分早いな。」 時計を見るとまだ3時半だった。
「ちょっとお茶でも飲もうか。というか、喉が渇いてるんだよ。付き合ってくれると助かるんだけど。」 「いいですよ。」 僕は、近くのカフェの駐車場に車を入れた。
僕らの会話はなかなか弾まなかった。一通り自己紹介みたいなものが終わってしまうと、もう話すことはなかった。仕方なく、というより、彼女の表情が何となく話したいことがあって迷っているように見えたので、友人の話を切り出してみた。
「彼とは・・・、その、付き合ってるわけだよね?」 「・・・。はい。」 「どうなの?いや。別に僕に言わなくてもいいんだけど。彼ってほら、結婚してるだろう?」 「よく分かりません。」 「分からない?」 「はい。よくドラマとかで、不倫している人が奥さんを奪いたいとかって苦しんでるのやってますよね。ああいうのないんです。」 「今のままで満足なの?」 「うーん・・・。分からない。まだ二人で会うようになってからちょっとしか経ってないし。彼が時々電話してくるんです。で、忙しかったら断るし、時間が取れそうだったら会うんです。」 「きみから誘うってことはしないんだ?」 「そうですね。だって、彼は結婚してるし、仕事も忙しそうだし。」
そんな話を小一時間ぐらいしただろうか。
僕は、深い意味もなく携帯の番号を告げた。
友人は結婚してるから、どうしても急いで連絡を取りたい時には僕に電話してきたらいい。僕から彼に連絡を取ってあげる。
そんな風に言って。
彼女はうなずいて、僕の携帯の番号をメモした。
それから、僕は彼女をバイト先に送って別れた。
それっきり、僕らはしばらく会うことはなかった。
--
その後、友人は退院し、僕は、友人に恋人との付き合いを聞くでもなく、たまに会って近況を交わしたりした。一度は彼の家に招かれてご飯をご馳走になったりもした。僕は離婚していたので、時折、こうやって知人の奥さんが招いてくれたりすることがあるのだ。その時、ちらっと友人の恋人の事を思い出したが、またすぐ忘れてしまった。
友人を見舞って半年が過ぎた頃だろうか。突然、友人の恋人から電話があった。 「ねえ。彼に連絡を取りたいの。」
その声は切羽詰まっていた。初めて会った時の、あの消え入るような口調ではなく、もっと意思のはっきりした女性の声だった。
僕は、 「分かった。」 とだけ答えて、その電話を切り、友人の携帯に電話した。
「おう。何だよ。久しぶりだな。」 友人ののんびりした声が聞こえた。
「彼女から電話があってさ。きみに急いで連絡が取りたいみたいなんだけど。」 「ああ・・・。そうか・・・。」 「ちゃんと電話してくれよな。」 「困ったな。お前、代わりに電話してやってくれよ。俺は忙しいってさあ。」 「駄目だよ。僕を巻き込まないでくれよ。」 「そんなこと言っても、俺らのことでお前が動いちゃうのが間違いなのよ。」 「仕方ないさ。面識があるんだし。」 「・・・。分かったよ。」 「頼んだよ。」 「その代わり、もう二度とあの娘からの電話の取次ぎなんてやらないでくれよ。話がややこしくなるから。」 「なんかトラブルかよ?」 「いつものことだよ。よくある話だ。」
その時は、それで終わった。
だが、その後、1、2週間に一度、彼女からの電話がかかって来て、同じように僕に取り次いで欲しいと頼むようになった。
「駄目なんだよ。きみとあいつのことだろう?僕には関係ないからさあ。」 「だって、そのために携帯の番号教えてくれたんじゃないの?」 彼女の声は、今にも泣き出しそうだった。
「分かった。ちょっと会わないか?話を聞くからさ。」 「・・・。」 「それじゃ、駄目なの?」 「・・・。いい。」 「じゃあ、どこかで待ち合わせよう。」 「お酒が飲めるところにしてちょうだい。」 「ああ。いいよ。」
僕らは、そうやって再開した。
彼女は、すっかり変わっていた。最初は誰か分からなかった。
髪はロングになっていて、毛先はくるくるとカールしていた。眼鏡はしていなくて、ジーンズの代わりにぴったりとしたミニスカートとブーツという格好だった。
「やあ。久しぶり。誰だか分からなかったよ。」 「お久しぶり。ごめんなさいね。電話して。」
彼女は上手に飲み物を頼んだ。
「どうしたの?」 「大したことないの。彼が私のこと避けるようになって、連絡がつきにくくなったから。」 「そう・・・。」 「前はいつだって彼から誘ってくれてたのに。」
僕には、友人の気持ちがよく分かった。もっとも、彼女をこんな風にしてしまったのも友人なのだ。
飲んで、ありきたりな愚痴を聞いた。
それから、僕は彼女を僕の部屋に誘った。
彼女は何の抵抗もなく誘いに乗って来た。
--
彼女は僕のアパートで楽しそうに振る舞い、とても大きな声を出した。
それから、煙草を一本吸って寝てしまった。
--
それからは。
僕らは何度か会って、そのたびに寝た。
そのうち、彼女には歳相応の恋人ができたみたいで、僕らの関係は自然消滅した。
--
いつだってこうだ。
そんなことをふと思った。
僕の最初の妻は、友人の彼女だった。友人と上手くいかなくなってから僕のところに相談に来るようになり、僕らは結婚した。だが、結局、妻は違う男と一緒に消えてしまった。
まあ、そんなに悪い思いもしなかったし、いいか。と、僕は思った。それが僕と友人の役割分担なのだ。
2004年09月17日(金) |
不倫してる友達呼び出してご飯を食べた。彼女笑ってた。あんたがそんなことするなんて、 |
「ねえ、タケちゃん。タケちゃんたら。」 「んん?」 「もう行くから。」 「ああ。」 「それから、あたし、今日は合コンだから。」 「ん。いい男いるといいな。」
タケちゃんは昨日遅くまで仕事だったので昼まで寝るんだろう。あたしは、25歳OL。タケちゃんは高校の時の家庭教師で、5歳上。もう10年近く付き合ってる。時々、タケちゃんは、職場から近いあたしのところにこうやって泊まっていく。
なんだか、最近迷う。タケちゃんと付き合っていくこと。あたし、本当にタケちゃんが好きなのかなあ。タケちゃんは、あたしと結婚したいとか思ってんのかなあ。
まだ、結婚したいわけじゃない。だけど、最近そんなことばっかり考える。タケちゃんのことはもう、身内みたいなものだから、かっこ悪いとこ見せても恥ずかしくない。タケちゃんも私の前でだらしない格好してても平気だ。これじゃあ、25歳の乙女としてはちょっとまずいんじゃないかと思うわけ。友達の恋愛を聞くと、余計そう思う。会社の上司と不倫している友達は、彼が来てくれない夜は寂しくてあたしのところに電話してくる。辛くて辛くて、なのにやめられないらしい。へえ、と相槌打ちながら聞いてると、あんたはいいよねえ、と皮肉を言われてしまう。
タケちゃん、私も、そろそろ大人の恋ってやつがしたくなっちゃった。胸がぎゅっと締め付けられるようで、会えるだけで涙が出そうに嬉しくてっていうような恋。
だから、今日の合コンはちょっとだけ気合い入れてる。香水もバッグに入れて来た。
--
こんな日に限ってちょっとだけ残業になって、慌てて居酒屋に飛び込んだ時にはもう、みんなかなり出来上がってて大騒ぎだった。少しだけとまどっていると、長身の男性が私のために席を作ってくれた。
その男性は、 「飲み物、何にする?」 と聞いてくれて、店員さん呼んでくれて、注文してくれて。
あたしの飲み物が来たら、 「お疲れさま。」 ってグラス差し出してくれて、乾杯した。
「僕、ナオキ。」 「あたしは、チコ。チカコなんだけど、みんなはチコっていうんですよ。」 「チコちゃんかあ。」 最後まで、彼とずっとしゃべってた。あたしは咄嗟に、恋人はいないって嘘ついた。
別れ際に携帯のアドレスを教えてくれて、でも、あたしのアドレスは訊かなくて、これってあたし次第ってやつ?って思った。
ちょっと心がふわっとした。
恋なんて何年ぶりかな。恋人がいるっていうことと、恋してるってことは違うことなんだ。
帰ってメイクを落として、あたしはフワフワした気持ちのまま眠りについた。
--
どうしようかって、一日悩んだ。それから思い切ってメール打った。こういう時は簡単に。 「昨日はありがとう。飲み過ぎちゃったかも。ナオキさんに会えたから、昨日のコンパ参加して正解だったよ。」 って。
そしたら、すぐ返事が来た。 「僕も楽しかった。チコちゃんを独占できてラッキーだったよ。今度は二人で食事でも。チコちゃんっていろいろと悩んでるみたいだよね。話し相手ぐらいにしかなれないけど、いろいろ教えてよ。」 って。
ああ。タケちゃんと大違い。こちらがいくらメール打っても、10通に1通ぐらいしか返事が来なくて、来ても、「了解」とか、そんぐらいしか書いてなくてっていうのと。
それから、ナオキとは毎日、メール交換するようになった。
デートまで、すごくドキドキした。タケちゃんに悪いと思いながら、最近は仕事が忙しいことにして、ナオキと会った。タケちゃんは、個人で塾の経営してるけど、ナオキはサラリーマンで、会社のことなんかもナオキとしゃべってる方がずっと話が弾んだ。
ナオキにもどうやら長く付き合ってる彼女がいるみたいだった。彼、あまり言いたがらなかったけど。上手くいってないみたい。打ち明けられた時はショックだったけど、正直に教えてくれたことは嬉しかった。私はまだ、タケちゃんのことが言い出せずに。ナオキは、デートの帰り、手をそっと握って来た。 「チコのこと、好きになったみたい。」 「え?」 「彼女いるのに、悪い男だろ?」 「そんな・・・。嬉しいよ。私も。」 「僕のこと、好き?」 「うん。」
こんな照れる会話初めてだ。タケちゃんとは、気が付いたら付き合ってて、好きとか、そんな言葉は一度も言われたことがなかったもん。
ナオキは、私の手をぎゅっと握って、少し足早に歩いた。ラブホテル街の方に歩いて行く時、ナオキの顔はとても緊張しているように見えた。あたしも緊張してた。こんなとこ、来たことないから。タケちゃんと初めてキスしたのは、タケちゃんのアパートで。セミの声を聞きながら。ああ。タケちゃんのこと、今日だけ忘れよう。
ナオキは優しかった。タケちゃんがすることとは全然違った。あたしは、ナオキに合わせるのが精一杯で、でも、すごく嬉しくて。
「帰らなくちゃな。」 汗がひいた頃、ナオキはポツリと言った。
帰りたくない、とは言えず、あたしはうなずいた。
ナオキが携帯のディスプレイ見てるのがちょっと気になった。
「今日はありがと。」 ナオキは私を最後にもう一度ぎゅっと抱き締めて、それから、タクシーに乗せた。 「大事な人だから、無事送ってあげてください。」 と言って。
帰宅すると、タケちゃんはあたしのベッドで寝てた。
「遅かったんだな。」 「ん。友達と飲んでた。」 「そうか。」
タケちゃんは寝返りを打ってまた寝てしまった。ナオキの感触が残ってる体でタケちゃんの横に寝るのはすごくイヤだった。
--
それからは、あたしの生活の中心はナオキで。いつも会えるわけじゃない。ナオキには彼女がいるから。メールも少し減った。彼女にバレそうになったんだって。
不安との闘いだった。
ちょっとやつれたんじゃない?って友達から訊かれた。
これが恋だ。ずっと憧れてたのにね。
思ったよりずっと辛くって。だから、不倫してる友達呼び出してご飯を食べた。彼女笑ってた。あんたがそんなことするなんて、って、でもちょっと嬉しそうに笑ってた。
--
「なに?タケちゃん。」 遅い時間だった。タケちゃんはかなり酔ってた。
ここ数日、あたしは、何度かタケちゃんの電話に出なかった。少し距離を置きたかったから。あたしのアパートを自分の部屋のように使われるのに抵抗したかったから。
「や。ちょっと。」 「すごい酔ってるね。」 「ああ。」
水を持って来て渡した。
「なあ。チコ。」 「なに?」 「俺さあ。チコのこと、好きだ。」 「なによ。急に。」 「チコのどこが好きか、考えてた。」 「うん。」 「チコの泣き顔が好きだ。それから、手の甲のえくぼも好き。・・・。それから、そうだな。チコの妙に真面目で悩むところ。・・・。チコが・・・。うん。お母さんのことすごく大事にしてるとこ。・・・。あと、チコの笑ってるとこ。そうだ。チコが笑ってるとこ見ると、なんかすげえなって。なんでこの子はこんな風にあっけらかんと笑えるんだろって。」 「ねえ。タケちゃん。何なの?どうしたの?突然に。」
あたしは、不安が喉に込み上げて来て、何もかも打ち明けてしまいそうだった。
タケちゃんの言葉が途切れた。見るとタケちゃんは目をつむってたから、寝てるのかと思った。
が、目を開いて。私のほうを見て。 「俺さあ。飽きっぽいんだ。」 「そう・・・。」 「知らなかったろ。」 「うん。だって、山登るのだって、塾だって、ずっと続いてるじゃない。」 「それがさ。結構いろいろやったんだよ。大学の時はサーフィンやってたし。マウンテンバイク乗るのにはまってた事もあったし。でも、ちょっとやると飽きちゃってさ。」 「ん。」 「俺、好きってよく分かんないし、あんまり考えたことないんだけど、ずっと続いてることってあるのな。山とか。人に勉強教えることとか。チコとのこととか。」 「タケちゃん・・・。」
タケちゃんはまた、黙った。
あたしは苦しくてどうしようもなくなった。
「俺、帰るわ。なんか、酔ってるし。ごめんな。」 タケちゃんはフラフラと立ち上がって、行ってしまった。
追いかけてくるなと言われたようで、あたしはそこから動けなかった。
--
翌日、不安で、起きてすぐタケちゃんに電話したけど、タケちゃんは出なかった。その日、何度も何度も電話したけど、やっぱりタケちゃんは出なかった。
夜、あきらめて、メール打ったけど、それでもやっぱり。
次の日も、その次の日も。
土曜日、思い切ってタケちゃんのアパートに行ってみた。塾をしばらく休むという貼り紙があった。
あたしは、そこに立ったまま、泣いた。
タケちゃん、怒ったんだ。あたしのせいで。
ナオキからはその間一度だけ電話があったけど、忙しいから、と切った。ナオキはナオキで、彼女のことで大変そうだったから。いや。そうじゃなくて、多分いろんな女の子と忙しいのだ。本当は分かってた。
ずっとタケちゃんに、あたしのこと好きって言って欲しかった。だけど、好きって言われると、なんだかとても悲しい気分になった。なんでだろう。
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あたしは、毎日、タケちゃんにメールした。タケちゃんがそばにいたら聞いてもらってたような些細な出来事。タケちゃんがまた、あたしのところに戻る気持ちになった時のために、待ってることを伝えたかったから。
タケちゃんのアパートまで、何度も行った。
いつも、鍵が閉まってた。
--
小雨が降ってた。タケちゃんのアパートのそばの小さな駅のベンチで、あたしは泣いていた。一方通行のメールが悲しくて泣いていた。
その時、頭の上にポンと誰かの手のひらが乗っかった。
見上げるとタケちゃんだった。随分黒くなって、髭だらけだった。
「こんなとこで何やってんの?」 「タケちゃんこそ。」 「俺は、ちゃんと言ったろ。山に登ってくるって。」 「嘘。知らないよ。」 「ちゃんと言ったよ。高校の時の友達と飲んで。それで、急に山登ることになって。で、お前んとこ行っただろ?」 「知らないよ。来たけど何も言わなかったし。」 「そうかあ?」 「ひどい。あたし、何度も電話したよ。」 「携帯置いてったし。」
あたしは、タケちゃんの大きな体に抱きついた。タケちゃんの匂いがした。
「来るか?」 「うん。」
あたし達は、タケちゃんのアパートまで歩き出した。 「ねえ。なんであの時、好きって言ったの?今まで言わなかったのに。」 「ああ。何でだろうなあ。お前が言って欲しそうにしてたからじゃないかな。だけど、言ったら、お前、すごく悲しそうな顔になって。俺も、なんか、言う言葉が違ってるみたいな気がした。」
好きって何だろう。
好きって、時々、忘れてしまうこともあるもの。
好きって、忘れてたくせに、そこに必ず戻ってくること。
タケちゃんの携帯に残された、やたら沢山のあたしからの着信履歴と勘違いメールについては、あたしはこの後どうやって説明したらいいのかしらと、そんな事を考えながらタケちゃんの腕にぶら下がって歩く。
2004年09月16日(木) |
泣くものかと思って、今日までを生きて来た。私は、首一つで転がって、今、夜空を眺めている。 |
そこは、どこか見知らぬ家庭だった。
それは、食卓の上に載せられ、家族の話題の中心となっていた。
「マサル。お前がやったのか。」 「やったってさあ。俺、拾っただけだよ。」 「どこで?」 「そこの空き地さ。石ころみたいに転がっててさ。俺もびっくりしたよ。」 「こんなもの拾って、厄介なことに巻き込まれたらどうするんだ?」 「だってさー。放っておけるかよ。オヤジなら、知らん顔して通り過ぎるわけ?」
母親らしき女性が口を挟む。 「マサルを責めないでちょうだいよ。こんなに綺麗なんですもの。私だって、もし見つけたら持って帰るわよ。」 「そうよねえ。すごく綺麗。あー。見てるだけでうっとりしちゃう。ここまで綺麗だと、はなから張り合う気にもならないぐらい。」 相槌を打っているのは娘のようだ。
「しかしなあ。一体どこに置くつもりだよ。誰か来て見つけてみろ。大騒ぎだぞ。」 「そうよねえ。どこかいい場所を探しましょう。」 「とりあえず、俺の部屋ってのはどう?」 「あ。ずるい。お兄ちゃんたら。」 「だって、お前の部屋なんかしょっちゅう友達が遊びに来てんじゃん。」 「だったら、お兄ちゃんの部屋だって友達くるじゃない。」 「駄目よ。あなたたちの部屋なんて。」 「じゃあ、どこに置くんだよ。」 「床の間ってわけにもいかないしねえ。でも、パパとママの寝室なら、普段は誰も入らないから。ね。いいんじゃないかしら。」 「そんなの駄目よ。」 「あら。どうして?」
くだらない会話が延々と続く。
「しっかし、一体誰が置いてったのかな。絶対に犯罪がらみだよなあ。」 「そうよねえ。」
母親はその瞬間考える。こんな美しい顔が自分のものになったら、パート先の青年ともっと親しくなれるんじゃないかしら。
「あー。でも、俺、ちょっと友達に自慢したいかも。」 「駄目よ。お兄ちゃんの友達なんかの手に渡ったら何に使われるか分かったもんじゃないわ。」
その時、長男も考える。陶器のように滑らかな肌触り。見ているだけで時を忘れそうだ。男なら誰でも自分のものにしたいと思うような美女。
「あたし、こんな顔になりたーい。」 「お前の体にこんな綺麗な顔は不似合いだって。」
妹も考える。この綺麗な顔なら、私、女優にだってなれるかもしれない。ずっとずっと憧れだったもの。そうよ。この顔が私の夢をかなえるの。
「おいおい。お前達、変なこと考えるんじゃないぞ。これはな、一時的にうちで預かるだけだ。ちゃんと警察に届けなくては。」 「あら。お父さんだって、最初はブツブツ言ってたくせに、すっかり鼻の下伸ばしちゃって。」
父親も考えていた。懐かしい感情が込み上げて来る。恋よりももっとはかない感情。壊れてしまうから、触れないほうがいいと悟った、あの頃の記憶。心が震える。
彼女はただ、じっと目を閉じたまま会話を聞いている。
「しかしなあ。空き地にこんな綺麗な女の生首ってのは、誰も気付かなかったのかなあ。」 「気付いてたら、やっぱりあたし達みたいに自分の物にしたくなるんじゃないかしら。」 「母さん、このところ女のバラバラ死体とか、そういうニュースはなかったかな。」 「このあたりじゃ、何もなかったんじゃないかしら。」 「とっても顔が小さいわよね。睫毛がすごく長い。目を開けたら、お人形さんみたいだわ。」 「お前と正反対だよなあ。」 「うるさいなあ。もう。お兄ちゃんなんか、スケベ心起こして拾って来たんでしょ。いやらしいわよね。」 「これ。喧嘩はやめなさい。」 「とにかく、今日はもう寝ましょうよ。」
食卓の電灯が消え、彼女は一人。
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翌朝も慌しく始まり、家族はみな、彼女のことを気にしつつ出掛けて行った。母親だけが家に残り、彼女の髪をなでたりブラシで梳かしたり、何やら独り言をささやいたり。
そのうち、母親は彼女のそばから離れ、洗濯物を干しに二階のベランダに行ってしまう。
だが、ほっとしているのも束の間、彼女の顔に熱い息が掛かる。犬だ。どこから入ってきたのか。彼女の顔を嗅ぎまわし、そのうち、彼女はずるずると引きずられ、食卓から引きずり降ろされた。
野良犬に連れられて、どこに連れて行かれるのか。
彼女は、固く目をつぶったまま。
地面を引きずられても、彼女の美しい顔は傷一つつかない。
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もう慣れていた。美しいが故に、嫌な目に沢山遭ってきた。同級生からはいじめられ、母親からは妬まれ、父親は娘にしてはいけないことをした。成長してからも、それは変わらなかった。職場の同僚とは馴染めず、いつも一人ぽっちだった。唯一やさしい笑顔を見せてくれた男がいた。彼女は初めて誰かに愛されたと思った。だが、男が彼女に暴力をふるうようになるのに時間はかからなかった。
挙句、別れ話を持ち出したらこの有り様だ。男は、私をメッタ刺しにし、息絶えた私を抱いて泣いた。彼は私の顔が好きだった。いつだって、顔を眺めていた。どうやら、私の顔にはそんな力があるようだ。みな、私の顔に特別な感情を抱く。男は私の首から上を切り離し、抱いて逃げた。だが、どこでどうなったか。気付いたら、見知らぬ土地の荒れた空き地に転がっていた。
野良犬は、しばらく私の顔で遊んでいたが、飽きたようだ。私を置いたままどこかに行ってしまった。不思議なことに、動物達にも私の顔を見ると何かを感じるのか、噛み付いたりされることはなかった。
私は泣いたことがない。泣くものかと思って、今日までを生きて来た。私は、首一つで転がって、今、夜空を眺めている。
--
誰かが私を拾い上げた。いつものように、私は目を閉じたままだ。
その人は、私の顔の泥を払い、両手に抱えて車に乗り込んだ。高級な車なのだろう。ゆったりと走り出す間、その人は私の顔をじっと抱いたまま。
いつもと違う。欲望が伝わってこない。ただ、傷付いた動物を抱くように、私の頭を抱いている。
車が止まると、その人は、私をバスルームに連れて行き、きれいに洗い、柔らかいタオルで拭いてくれた。それから、私は再び抱えられて、幾つもの乗り物を乗り継いだ。どこに行くのだろう。長い旅。
気持ち良くて眠った。夢の中で、私は幼い少女だった。明るく笑っていた。誰かが私を抱き上げてくれた。その手は、大きくて柔らかだった。
「着いたよ。」 静かな声が響いた。
どこ?
潮の香り。
私はそっと目を開けた。
「私の島だよ。」 彼は、教えてくれた。
小高い丘からは海が見える。
「ここには人はいない。私が連れて来た動物ばかりだ。私は動物を扱う仕事をしていてね。時折、傷付いた動物に出会うとここに連れてくるんだ。」
気持ちのよい風が吹いている。
「ここにいるといい。私の可愛い動物達がお前と一緒にいてくれる。私はたまにしかここに来ない。ここは私以外誰も来ないんだ。あなたは人が怖いのだろう。ここは大丈夫だ。」
私は、もう、声も出せないけれど、口の形でありがとう、と。
顔は見えない。彼の手の感触だけ。
私は泣いていた。生まれて初めて。
「私は目が見えないんだ。その分、手の感触で分かる。傷付いていたり、苦しんでいたりすることがね。」
彼は私が泣く間、じっと待っていてくれた。
彼の手が離れた。 「そろそろ、行かなくては。仕事ばかりの人生でね。たまにここに来るのが楽しみなんだ。」
さようなら。
白髪の男性の背中が遠ざかって行くのを眺めた。
これでやっと、知ることができた。それを知るためだけに、私は長い間耐えてきた。
幸福というのはどんな感情か。ずっと知りたかった。それは、生きていてもいいという、力強い感情だった。
私の魂は今、やっとこの忌まわしい顔を離れ、今、天へ。
2004年09月15日(水) |
そんな言葉に、私は却って彼女を気に掛けるようになった。会いたいとすら思うようになった。 |
一ヶ月ほど前から電話の仕事をしている。待っていれば電話がかかってくるから、受話器を取って相手の話を聞いてやればいい。電話をかけてくるのは女性ばかりだ。
仕事の指示はいい加減だった。
そもそも、仕事を持ちかけて来た男からしていい加減なのだ。あなたの回りにも一人はいるだろう。ひっきりなしに携帯電話で話をしている。声が大きくて、タフで、会えばいつだって自分のことを親友のようにもてなしてくれる。「また電話するよ」といつも別れ際には言うくせに、いつだって電話してこない。こちらが1話す間に相手が9話している。おまけに話す内容はこちらにはさっぱり分からないのに、あたかもこちらまでが事情通であるかのように相槌を打たされる。そんな男。
彼が持っている仕事の口は、いつも怪しい内容で。楽だとか、大もうけできるとか。そんなふれ込みの仕事ばかりだった。私は、こう見えてもそれなりの企業に勤めていたので、そんな男の話は話半分に聞き流していた。
だが、一ヶ月前、事情は違っていた。私は会社を追われ、再就職もままならず毎日ぶらぶらしていたのだ。今思い出しても腹が立つ。私は巧妙な手段で会社を追われたのだ。いつの間にか、私は自分から辞表を書くと宣言させられていた。大学を出てから、一心不乱に働いていたのに。
そんな私は、彼と出会った。彼は、私を見るなり、「どうした。元気がないな」と言った。いつもは、彼の大袈裟なしゃべり方が嫌いだったので、彼とは10分以上は一緒にいないようにしていたのだが、その時は違った。彼の顔を見るなり、つい本音が出てしまった。 「会社を辞めたんだよ。あいつらにハメられた。」
彼は、真剣な表情でうなずき、私の肩を抱いて気持ちのいい店に連れて行ってくれた。少し強い酒を飲ませてくれ、最後は泣きながらしゃべる私の話を最後まで聞いてくれた。
すっかり落ち着くまで、男は黙って私のそばにいてくれた。
いつものようなおしゃべりは一切なかった。
聞いてくれた人がいるということが大事だったのだ。若い頃の何度かの浮気で妻が愛想を尽かして出て行った後、私は誰かに弱音を吐くということもせず、一人で楽しく生きていると思い込んでいた。
私が黙り込んだのを見て、男は微笑んで言った。 「きみとはやっと本当の友達になれた気がするよ。」
私もうなずいた。
こんな時、相手の腹を探らずに、ただ、受け入れられていると感じながら話をすることができるなんてこと、そうそうあるものじゃない。目の前の相手は、確かに掴み所のない相手だった。だが、彼ならこんな修羅場、いくらだってくぐってきただろう。
「さて。今のきみに一番必要なものは仕事だ。」 男は言った。
私は、 「そうだな。」 と返事した。
それから携帯電話を取り出し、 「例の仕事。やってくれそうな奴を見つけたんだ。ああ。そうだ。適任だ。彼しかいない。」 とだけ言って、電話を切った。
そこで初めて、私は、いつもひっきりなしに鳴っている男の携帯が、今日この店では全く鳴らなかったことに気付いた。
「手伝って欲しい仕事があるんだ。」 と、男は言った。
「ああ。手伝うとも。」 私は答えた。
あの状況で、誰が断ることができただろう。
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仕事は難しくなかった。女性から電話がかかって来る。知らぬ間に私の自宅の電話番号は多くの知らない人に知らされてしまっているらしい。が、どうでもいい、個人情報云々などと固い事を言う気持ちにはなれない。彼女達は、電話の向こうの誰かとしきりに話したがっている。昼間に電話してくる女性が多いところを見ると、退屈な専業主婦が多いのかもしれない。
私は、ただ、電話に向かって適当に相槌を打つだけでいい。仕事をしたくない時は、電話のジャックを抜いてしまえばいい。
会いたい、と言ってくる女性もかなりいる。それについても、私は何も制限を受けていないので、会いたければ会えばいいのだが、そこは自分なりにルールを決めて、会わない、とした。
金は振り込まれる。経費がかかるようなら、領収書を取っておいて指示されたところに送ればいい。もっとも、経費が何にかかるか想像もできないのだが。
私は、午前中はスポーツジムに通い、午後は電話相手をして過ごした。最初はぎこちなかったが、だんだんと慣れてくると、上手くしゃべれるようになった。相手は私のことを知らない。だが、確実に求められている。そう思うと、気分良く話を聞くことができた。
現実は冴えない中年男だ。だが、女性の心を掴むコツみたいなものが分かったため、ジムで知り合った女性を口説いて彼女の部屋に上がり込むことにも成功した。
これが今、本当に私が望んでいる状態かどうか。分からなかったが、かつての自分の人生がとてもつまらないことのようにも思えて来た。
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実を言うと、いつも電話をかけてくる女で、一人だけとても気になる女がいる。ほとんどの女が、自分のことばかり一方的に話すのに比べて、彼女の電話は大概、私を気遣うところから始まる。
「お邪魔じゃなかったかしら?」 「私のこと、面倒になったら言ってね。ついついあなたに甘えちゃって。」
そんな言葉に、私は却って彼女を気に掛けるようになった。会いたいとすら思うようになった。冗談半分に、会おうかと持ちかけたこともある。
彼女は慌てて、 「そんな。無理です。私なんか、みっともないし。」
だが、その後の電話では、彼女の声が明らかに艶めいて来るのを感じた。
やんわりと拒絶されてしまったために、しばらくは我慢していたものの、やはり彼女に会いたい。話をしていれば、彼女が独身であること、恋人もいないことは分かった。
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勇気を出してもう一度誘おう。
固く決心をした晩のことだ。
夜、ジムで知り合った女の元を訪ねた帰り、私は、あの男に会った。今の仕事を紹介してくれた、あの男だ。まるで、私が通りかかるのを待っていたかのように、両手を広げて私の行く手に立っていた。
なぜだろう。
あの晩、私は、彼に心を許した。だが、今、彼の笑顔にはひどく心を乱される。できれば会いたくなかった。
多分、それは、彼のニヤニヤ笑い。必要な時は、心温まる笑顔。そして今は、冷酷な笑い。
もう、知り合ってから10年が経とうかというのに、私はその男の名前すら分からない。
「やあ。久しぶりだね。」 「ああ・・・。」 「こんなところで会えて嬉しいよ。」 「僕もさ。それに、仕事を紹介してくれたお陰でとても助かっている。」 「そうかい。そりゃ良かった。」 「ああ。きみの仕事をすることで、僕にも全く違う人生があることが分かったんだ。」 「いや。実はそのことでさ。ちょっと話がしたくて。」
不吉な予感は的中する。
彼は、僕を、今度はとても薄暗いバーに連れて行った。
「なんだよ。」 「ああ。仕事なんだがね。」 「ああ。」 「あれ、もう明日からはいいんだ。」 「え?どういうことだよ。」 「だからさ。もうきみはお払い箱ってわけさ。」 「そんな・・・。急に言われても。」 「大丈夫だろう?当分食べるに困らないだけの蓄えはあるはずだ。」
こいつ、私の口座の内容を把握してやがる。
「じゃあ、そういうことで。」 男は伝票の上に紙幣を置いて立ち上がった。
「ちょっと待ってくれよ!」 「もともと、降ってわいたような仕事だろ?いつまでも続くと思ってたのかい?」 「そりゃそうだけど。第一、あんたと今日会ってなかったらどうだったんだよ?」 「いや。俺ときみは会うことになってたんだ。」
私は、彼女のことを考えていた。あの電話の向こうの彼女。もう会えないのか。せめてもう一日。そうでなかったら彼女もひどく悲しむだろう。
「頼む。あと一日だけ。」
私は、土下座さえしかねない勢いだった。
「女か。」 男はニヤリと笑った。
「ああ・・・。」 力なく答えた。
「知りたい電話番号は全部俺が持ってる。」 「どうすれば教えてくれる?」 「違う仕事をする気があるか?」 「どんな?」 「このリストを使ってだよ。少々荒っぽい仕事さ。あんたにできるかなあ?」 「できるさ。できるとも。」
私は叫んでいた。
女のために。
もう引き返せないのだ。
2004年09月14日(火) |
「探したよ。」声が。あの日と同じ。見上げると、彼が。「ずっと探してた。」どうして? |
気が付けば、見知らぬ場所に立っていた。ここがどこか、自分が誰か、全く分からなかった。歩道の真ん中に立ち尽くしていたので、自転車に乗った男が何か叫びながら通り過ぎて行った。
どうしていいか分からず、その場にうずくまる。誰かが、この暗い穴から私を連れ出してくれるのを待って。
「サチエ。サチエだろ?」 顔を上げると、そこには一人の青年。
今、私がどんな身なりかも分からなかったが、自分より少し若いだろうその美しい男は、微笑を浮かべ、手を差し出してくれていた。私は、おずおずとその手を握り返し、立ち上がった。
「探したよ。」 「探した?」 「ああ。ずっと。」 「私・・・。あの・・・。」 「ああ。いいんだ。きみがどう思っていようと。」 「そうじゃなくて。あの。私、記憶がないの。」
そんな重大な告白にも知らん顔で彼はしゃべる。
「帰ったらお風呂に入れてあげる。それから、いい香りと、美味しいもの。素敵なドレス。」 青年はとても幸福そうだった。
もし、私がこの男の関係者なら、私自身、とても素敵な人生を送っていたのかもしれない。そう思わせるような美しい表情だった。
「鏡が見たいの。」 「え?ああ・・・。」 「ねえ。鏡を見せて。私、どんな顔をしている?」 「大丈夫。とても綺麗だ。慌てなくていい。ねえ。僕の顔見てよ。どんな顔してる?」 「とても幸せそう。」 「僕はきみを映す鏡だよ。僕が今、幸福そうなら、きみは幸福さ。さあ。僕らの家に行こう。」
彼は私の手を引いて歩き出した。
「待ってよ。ねえったら。」 「まだ何か?」 「私達、どういう関係?」 「どういう関係って。きみと僕は夫婦なんだよ。」 「仲良かったの?」 「ああ。良かったさ。」
彼の言葉はとても穏やかだった。ともかく、眠りたい。眠ったら、この優しい人の笑顔が私のものだったことに自信が持てるかもしれない。そう思って、黙って彼の手に今の私を委ねた。夕焼けが美しくて、野良犬がこちらを見ていた。彼の足取りは弾むようだった。
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とても大きな屋敷だった。使用人がたくさんいて、彼はこの屋敷の主だった。使用人は皆、最初から私のことを奥様と呼んだ。私がどこに行っていたのか。どうしていたのか。誰も訊こうとはしなかった。
「ここがきみの部屋だよ。」 「ここ?」 「ああ。」 「素敵。」 「ああ。素敵だ。きみは趣味が良かった。」 「分からない。何も思い出せないの。ここに来れば何か思い出せるかと思ったのに。」
それから鏡を見た。見知らぬ女が立っていた。少し腫れた顔。乱れた髪。美しかったかもしれないが、目の前の男より年上で、おどおどした目をしていた。私は、悲しくなった。鏡を見れば納得できると思っていたのだ。彼の幸福の理由が。
「泣かないで。」
彼はそっと私の頬に手を触れた。
「私きっと、すごくつまらない人間だった。こんな素敵な家具、私には覚えがないわ。あなたみたいに優しい人が夫だったとも思えない。」 私は激しく泣いた。頭がズキズキした。
彼がそっと私を抱き寄せた。 「泣かないでよ。ずっと探してたんだから。」 「本当に?」 「ああ。本当さ。」 「私、いい妻でしたか?」 「もちろん。」 「子供は?」 「とても欲しがってたよ。僕も。きっとそのうち、素敵な子供を授かるさ。」 「それから?どんな?」 「そうだな。きみは使用人にも優しいから、彼らからも慕われてたよ。」 「あなたのご家族は?」 「母が・・・。一人。」 「私、仲良くできていたかしら。」 「ああ・・・。そうだな。」
彼の腕の中で、心は柔らかくほぐされていた。
「もう、おやすみ。きみはまだとても疲れてるんだ。」 「分かったわ。」
お風呂に入り、いい香りの粉をはたいてもらい、体をしめつけない服を着せてもらってから、いい夢が見られるという錠剤を一粒。 「飲むと落ち着きますわ。」
私の世話をしてくれている少女が言った。
私は、すぐに眠たくなりベッドに入った。誰かの手が、私の髪を撫でている。多分、彼。私の意識がなくなるまで、私の髪をずっと・・・。
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「よく眠れたかい?」
次に起きたのは、もう昼過ぎだった。
「ええ。とっても。」 「気分は?」 「あまり良くないわ。寝て起きたら思い出すかと思った。あなたとの生活。」 「ゆっくり思い出せばいい。」 「私、どれくらいここを留守にしてた?」 「随分長く。」 「それってどれくらい?」 「とても長くだよ。気が遠くなるぐらい。」
彼の言っている意味が分からなかったが、彼がとても悲しそうな顔をしたので、私は慌てて駆け寄って、彼の悲しい顔にキスした。
「そうだ。きみは戻って来てくれたよね。」 彼は私にオレンジジュースの入ったグラスを渡した。
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私がどんな人生を送っていて、どういう経緯でここを飛び出してしまったのか。何も分からないまま、私は次第にそこの生活に慣れていった。使用人達も、最初はそんな私を遠巻きに見ていたが、次第に近づいて来てくれて、今では皆、家族のように仲がいい。
それから、夫。
私には似合わない、美しくて、金持ちの夫。
私は、この男に恋をしている。
だから怖かった。過去の記憶が蘇ることが。思い出してしまえば、何もかも台無しになるかもしれなかった。だが、大丈夫。私がかすかに思い浮かべることができるのは、山の中の小さな村の光景だけ。そこには幼い私。父や母。とても幸福な思い出だけ。
彼にその話をする。
彼は、 「はじめて聞いたよ。」 と微笑んだ。それから、二人で、私の幼かった頃の話を。
きっと、小さな頃から、生き物や花が大好きで。家族は父と母、兄が二人、祖母もいて、とてもにぎやかな・・・。話していると、本当にそうだった気がして幸福になれるのだ。
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朝から騒々しかった。
「何事?」 私は、急いで着替えを済ませて階下に下りる。
そこには、宝石を沢山身につけた見知らぬ女。
「あなたね。」 「え?」 「うちの息子が連れて来た女よ。」 「どなたですの?」 「母親よ。」 「おかあさま・・・。」 「そんな風に呼ばれたくないわ。」 「私、あの・・・。悪い嫁でしたか?」 「嫁?そもそも、おまえは、嫁ですらない。息子が野良犬のように拾って来ただけでしょう。さあ、言ってちょうだい。どういう素性なの?」 「言っている意味がよく分かりません。」 「息子のつまらない病気のことよ。記憶をでっちあげ、見知らぬ女を拾って来ては、妻だと言い出す。女だって、財産狙いよ。息子に合わせるのは上手いもんだわ。そのたびに私が追い出すってわけ。でもね。息子は悲しんだりしない。すぐに次の女を見つけるからね。」 「私・・・。あの、記憶が・・・。」 「お金は幾らあげましょうか。荷物をまとめる時間ぐらいあげるわ。まったく、あの子ときたらしょうがない。今日は、あの子は仕事で一日いないわ。あの子がいると厄介だから、あの子が帰って来るまでに消えて頂戴。」
私は泣くことしかできなかった。
やっぱりそう。ここは私の居場所なんかじゃないんだ。
彼の笑顔。あれは、狂った笑顔だったのか。
何より、恋を失う事が辛かった。
一番質素な服をまとい、使用人に別れを告げる。皆、押し黙ったまま。 「ありがとう。私のままごとに付き合ってくれて。」
それから、運転手に命じて、遠いところに行ってもらうことにする。そうね。山奥の小さな村。少し時間がかかるかもしれないけれど、行ってくれるかしら。
「奥様。」 「違うわ。私、奥様なんかじゃ・・・。」 「旦那様はとても幸福でしたよ。」 いつも表情を見せないその運転手の声は、とても深い響きで私の心に届いた。
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小さな村で体を動かして。それは、私にぴったりの生活だった。きっとそう。こうやって育って来たんだ。若者がいないこの村で、私はとても温かく迎え入れられた。
記憶が戻らなくても、この村にいれば少し悲しみは和らいだ。そんなにいい人生じゃなかったのかもしれない。村を出てからの記憶は消したいものばかりだったのかもしれない。
私は、今日も畑を。涙が出そうな日は、いつもよりいっそう、体を動かす。
「探したよ。」 声が。あの日と同じ。
見上げると、彼が。
「ずっと探してた。」
どうして?私は、取替えのきく野良犬じゃないの?この村は、あなたの生活からずっとずっと遠い場所。
「母が、失礼なことを言ったみたいだね。」 「いいえ。私も悪かったの。あの生活は本当じゃないって分かってて、つい、あなたの優しさに甘えてしまって。」 「頼んで連れて来てもらった。」 「あの運転手さん?」 「ああ。」
彼は私を抱き締めた。
私も、彼を。
記憶はこれから二人で作ればいい。記憶を失くした女に、記憶を紡ぎ出してくれた男。
真実は分からなくても、本当のことはきっと分かる。温かい体に血が流れているのを感じる。
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