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セクサロイドは眠らない

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2004年10月29日(金) 泣くのも、ぼんやりするのも。ただ、ハンカチを胸に当てて、あの人の名前を呼ぶことも。誰にも気兼ねがない。

「急なんだけど、今度の土曜日の夜、空いてる?」
娘の絵里が電話してくる。

「空いてるけど。何?お父さんは出張だからいないわよ。」
「うん。いいよ。お母さんだけで。」
「だから。何の用なの?」
「あのね。紹介したい人がいるの。」
「ああ・・・。そう・・・。」

娘も年頃である。そんな日が来るだろうことは予想していたけれど、やはり気持ちが泡立つ。
「お食事、用意しなくちゃね。何がいいかしら。お寿司?」
「うちで何か作りましょうよ。私、手伝うわ。お鍋か何かでいいんじゃない?」

受話器を置き、三日も先のことなのに急にせわしない気持ちになる。

--

「はじめまして。中川といいます。」
「大学のゼミの先輩なの。」

娘から紹介されたのは、とても感じのよい青年だった。髪も茶に染まっていないし、着ている服も手入れが行き届いているようだ。
「突然で申し訳ありません。」
「いいんですよ。さ。上がってください。」
「では、失礼します。」

台所で娘にそっと訊ねる。
「ねえ。やっぱり、お父さんがいる時が良かったのじゃないかしら?」
「いいのよ。お父さん、いつだっていないんだから。」
「お酒は?ビールがいい?」
「ああ。適当にするから。お母さんは座っててよ。」

私は、鍋をはさんで、会ったばかりの青年と向かい合わせに座ることになった。
「あの・・・。」
「はい。」
「ごめんなさい。主人が留守にしてまして。」
「いや。謝るのは僕のほうです。なんだか留守を狙ったみたいで。」
「そんな・・・。」

緊張して会話が途切れがちになる。娘が戻って来るのが果てしなく長く感じられた。

「お待たせー。さ。乾杯しよ。お母さんも、今日はビールよね。」
「じゃあ、少しだけ。」

娘が入ると、途端に場がスムーズに流れるようになり、ホッとする。そして、アルコールが入るにつれ、思ったよりずっと楽しんでいる自分がいた。

片付けも、青年は一緒にやらせてくれと言う。
「あら。男の人に、そんなこと。」
「いいんですよ。僕だってご馳走になったんだから、片付けるのは当たり前です。」

最近では、台所に立つのも苦にならない青年がいるのだと感心した。

その時、電話が鳴る。娘への電話だ。久々にこちらに帰って来るのを知った娘の友達だった。

私と中川は台所で二人きりになった。気を遣って話し掛けてくれる青年の、その肌の綺麗なこと、睫毛の長いことが、なぜか緊張を誘う。

「あらっ。いやだ。」
私は、ぼんやりしていたのだろうか。

皿を落として割ってしまった。

「大丈夫ですか?」
青年が、破片を拾う私のそばにしゃがむ。

「大丈夫です。ごめんなさい。うっかりして。」
「危ないです。僕がやります。」

痛みが走り、血が流れる。咄嗟に、青年が差し出したハンカチで指がくるまれる。

--

指が熱くて、一晩中眠れなかった。

それがどんな感情か、考えると怖ろしくて。

貧血を起こした私を抱きかかえてソファまで連れて行ってくれた時の、彼の胸の感触が忘れられなくて。

娘に気付かれなかったかしら。娘の恋人に心を乱された私の変化に。ああ。知られていませんように。娘にも。そしてあの青年にも。

--

それは、まさに病だった。

美しい青年の、あの声。あの指。あの眼差し。

いつか、この気持ちがふとしたはずみで溢れ出して、誰かに知れてしまったらどうしよう。それは恐怖でもあった。

街で似たような青年を見るだけで、鼓動が激しくなり、汗が噴出すのだ。

次第に私は塞ぎこむようになり、そして、ついにある日、倒れてしまった。

目を開けると、不機嫌そうな夫がいた。
「特にどこも悪くないと医者は言ってたぞ。」
「ええ。どうしちゃったのかしら。」
「まったく。何もないのなら、仕事に戻るぞ。」
「ええ。」

立ち去ろうとする夫に、私は慌てて声を掛けた。
「あの・・・。」
「なんだ?」
「絵里には言わないでくださいね。心配するから。」
「ああ。分かった。」

絵里が知れば、あの青年が知ってしまう。それが怖かった。二人で見舞いに来ることにでもなったら、こんどこそ私は泣き出してしまうだろう。なんて意気地がないのだろう。

誰にも知られたくない心を押し隠すのは、もう限界だった。

私は、退院すると、離婚届をもらいに行った。

--

五十にもなって、突然狂ったように家を飛び出した私。娘が泣いて電話して来た。

「ごめんなさいね。」
「どうしてよ?お母さん、何があったの?」
「何も・・・。何もないの。」
「だったら、戻って来てよ。お父さん、あれからすっかり元気なくしてるし。」
「ごめんね。」
「お母さんったら。ねえ。」
「・・・。ごめんなさい。」

受話器を置く。

愚かな私。誰からも許されなくていい。ただ、一瞬の指の触れ合いだけが、今の心の支えだった。

--

一人はいい。

泣くのも、ぼんやりするのも。ただ、ハンカチを胸に当てて、あの人の名前を呼ぶことも。誰にも気兼ねがない。

--

誰も訪ねて来ない筈の部屋に、ある日、思いがけない来訪者。

「中川さん・・・。」
「探しましたよ。」
「あの。お帰りになって。」
「駄目です。今日は、どうしてもお願いがあって来たんです。」

私は仕方なく、彼を部屋に通す。

「結婚したいんです。絵里さんと。」
「あら・・・。まあ・・・。おめでとう。」
何て間の抜けた返事だろう。

「ですから、お願いがあるんです。結婚式に出てください。それだけでいいんです。何があったか知らないですけど。絵里も、随分と沈んでしまってます。」
「出たくないわ。」
「無理なお願いとは分かってます。ですが。あなたに祝福されたいんです。」

なぜ。私があなたの結婚を祝福しなくてはいけないの?こんなに苦しんでいるこの私が。

「お願いです。」
中川が頭を下げる。

「やめてちょうだい。ねえ。やめてよ。」
突然、涙が溢れ出す。

一旦、溢れた涙は止まらなくなって、次から次から頬を伝う。そのうち、私は声を出して泣いていた。子供みたいにわーわーと声を出して。

「あの。話していただけませんか?」
「無理ですわ。」
「誰にも言わない。」
「お願い。ひどい話よ。一生、あなたに軽蔑されてしまうわ。」
「軽蔑なんかしません。絵里をあんなに立派に育てたあなたに。」

私はまた泣きたくなった。
「お願いよ。もう、苦しめないで。」
「僕が、ですか?」
「ええ。あなたよ。あなたが何もかも悪いの。」
「・・・。」
「あなたは、絵里の恋人ですもの。そんな人を愛してしまったなんて。」

ああ。なんてこと。誰にも言えない秘密だったのに。遂に言ってしまった。

恥ずかしさのあまり、余計に涙が出て来る。

彼は、そばに来て私を抱き寄せた。
「泣かないでください。」

そこには、欲しくてたまらない胸があった。私は、ただ、抱かれて泣きじゃくる。

--

いつの間にか眠ってしまったようだ。

夢の中には絵里がいた。まだ、幼い絵里。小さな絵里が、私の膝の上でおしゃべりしている。
「ねえ。ママ。天国っていうのは、地獄があるから、天国があるんだよ。」
「あら。どうして?」
「あのね。とっても辛いことがあった後だと、天国が見えてくるの。あのね。暑い夏にお外から帰って来たパパが言うでしょう?エアコンが気持ちよくて、天国だって。」
「本当にそうねえ。」
「ママは?今、天国?地獄?」
「さあ。どっちかしら。きっと、どっちもよ。」
「どっちも?変なのお。」
「天国だけど、地獄なの。地獄だけど、天国なの。」

私は、そこで目を覚ます。

「大丈夫ですか?」
「ええ。私、眠ってたのね。」
「お疲れだったんでしょう。少し痩せたみたいだ。」
「そうね。最近、あまり眠れなくて。」
「僕のことだったんですね。」
「ええ。恥ずかしい話だわ。死んでしまいたいぐらい。」
「死なないでください。」
「でも。あなたは私を愛さないわ。」
「愛します。絵里の母親として、尊敬し、愛します。それでは駄目ですか?」
「分からないの。」
「初めて、絵里の家に誘われてからずっと夢見ていた。あなたと家族になること。素敵なお母さんに育てられたと思いました。」
「あなたに正しくない感情を抱いてしまいました。誰にも言えないぐらいひどい感情。」
「僕には教えてくれましたよね。」
「ええ。忘れてちょうだい。」
「忘れません。あなたの感情を、僕が忘れたら、あなた一人で苦しむことになるから。」
「馬鹿な女でしょう?あなたにだけは軽蔑されたくなかったの。」
「そんなこと・・・。人を好きになるのは、素晴らしいことです。」
「軽蔑・・・、しないの?」
「ええ。」
「ありがとう。」
「布団に横になるといいです。今夜はついてますから。」

布団の中で私は再び眠りについた。そばに彼がいることの安らぎが、眠りを誘う。

--

朝、起きた時には彼はいなかった。

私の中で、何かが吹っ切れていた。

--

結婚式の日。

私は、新婦の母として、娘の姿を誇らしく思う。

「素敵な息子さんができてうらやましいわあ。」
そんなことを口々に言われて、黙って微笑む。

--

今では、月に一度、かつての夫と一緒に、孫の姿を見るのが楽しみだ。

彼は。中川は。あの日のことを誰にも言わないでいてくれている。何事もなかったかのように、黙っていてくれる。そして、二人の間に秘密があることが、私の心を温かくする。

私と夫は、結局離婚したけれど。家族としては愛し合っていて。結局、夫には離婚の理由を話していない。

今日も、絵里達の家庭を訪問した後、二人でお茶を飲む。

元夫は、言う。
「夫婦っていいもんだな。絵里の家を訪問すると、しみじみ思うよ。」
「ええ。」
「あんないいもんだって知ってたら、手放さなかったのに。」
「また、手に入れたらいいわ。」
「また・・・か。そうだな。さて、行こうか。」

ここにも、かつての私の傷に触れないでいてくれる人がいることに感謝しながら、私は、夫の少し後ろを歩く。


2004年10月27日(水) ねえ。先輩、大したことないんです。死ぬのって、悲しいことじゃない。この一年、僕はちょっとずつ死んでいたんです。

「おかえり。」
「ああ。ただいま。」
「遅かったね。」
「うん。」
「あ・・・。あの。」
「ああ。いいよ。」
「ごめん。」
「いいんだ。」

僕は、カップ麺を取り出して、湯を注ぐ。

「ほんと、ごめん。」
「いいって。飯は、食べる者が自分で作ればいいのさ。それより、ね。今日も会社で嫌なことばっかりだったんだ。きみの笑顔のことばかり思って我慢してた。だからさ。笑っててくれたらいいんだ。そこで。」
「ん・・・。」

僕がズルズルと麺をすするそばで、彼女は訊ねる。
「おいしい?」
「そうでもない。やっぱ、飽きちゃうんだよな。」
「でもさ。おいしそうに食べるよね。」
「そうかあ?」
「うん。初めてご飯一緒に食べた時から、ずっと思ってた。」
「いつも腹すかせてるだけだろ。」
「あはは。そうかも。」

彼女は、帰宅の遅い僕を、いつもこうやって待っている。そして、嬉しそうにニコニコと僕が食事を取るのを眺めるのだ。

彼女が食事を取らなくなってからどれくらいが経ったっけ?

そりゃ、一緒に食べたいさ。一人の食事は寂しいものだ。

そう言って彼女を困らせたこともある。

だが、今は違う。そばにいて笑顔を見せてくれればそれでいいんだと。本当に心の底から思うのさ。

彼女は、食事をしない。もう、食べなくなってから一年が経つ。

--

朝の光がまぶしい。

「おはよう。」
彼女が微笑んでいる。

「ああ。おはよう。」
僕は、枕元にある時計を探す。

「7時過ぎたところよ。」
「ん・・・。起きるかな。」
「昨日、遅かったのにね。」
「うん。仕方ないさ。納期が迫ってるんだ。」
「今日も遅くなるの?」
「ああ。そうだな。」
「体、壊しちゃうよね。」
「大丈夫さ。」

急いで顔を洗い、服を着替える。

「朝は食べないの?」
「うん。要らない。」
「別に、合わせてくれなくていいのよ。」
「違うよ。本当に要らないんだって。」

僕は、コーヒーを一口だけ飲み、上着を抱える。
「じゃあ、行ってくる。」
「うん。頑張ってね。」

彼女は笑って手を振る。

僕は、疲れた体に鞭打って職場に向かう。

彼女は、寝ない。もう寝なくなってから一年が経つ。

--

「今日、終わってから一杯やらないか。」
「ああ・・・。えと。すいません。」
「なんだ。またかよ。」
「すいません。」
「んー。駄目だ、駄目だ。今日は絶対に付き合え。」

僕は、先輩に逆らう気力もない。
「分かりましたよ。」
「よし。奢りだ。しっかり食え。お前、最近痩せてきたぞ。」
「ダイエットですよ。」
「嘘つけ。」

ああ。仕方ないな。早く帰りたいというのに。

--

ビールのジョッキが運ばれて来たのを早速、一息で飲み干して先輩は言った。
「おい。本気だぞ。本気でお前のこと心配してるんだからな。」
「分かってますって。」
「いや。お前は分かってないよ。俺がどれだけお前のこと気にしてるか。」

あれやこれやと皿が並び始める。
「おい。少しは食えよ。」
「いや。食欲ないんで。」
「食欲ないって、そりゃ、体に悪いぞ。」
「平気ですって。」

先輩は、途中から焼酎に切り替えている。こりゃ、今夜は当分帰らせてもらえそうにないな。僕は小さくため息をつく。

散々飲んで足元がふらつく先輩を抱えて、僕は店を出る。

「ちょっと飲み過ぎですよ。」
「うるさい。お前こそ、もっと飲め。」

僕らは一緒にフラつきながら、タクシー乗り場に向かう。

「あのな。」
酒臭い息が近付く。

そして、こればかりは真顔で言うのだ。
「チアキのことな。もう、忘れろよ。」

僕は、答えずに先輩をタクシーに押し込む。

あの頃。結婚前の先輩とチアキと僕は、三人いつも一緒に笑ってた。経理部のマドンナのチアキとゴールインした時、先輩、本当に喜んでくれたっけ。

--

「おかえり。」
「遅くなってごめん。」
「いいの。」
「先輩につかまっちゃってさ。」
「いいの。本当に。」

僕は、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを一息に飲む。

「幸せかい?」
僕は、彼女に訊ねる。

「なんなの?唐突に。」
「答えてくれよ。」
「ええ・・・。幸せよ。多分、前よりももっと。」
「僕も、そうなれるかな?きみみたいに。」
「なれるわよ。きっと。」
「だといい。」
「辛いの?」
「ああ。そうだな。辛いな。時々、胸を掻きむしりたくなるほど、辛いさ。」
「可哀想に。」

彼女は、そっと僕に手を回す。

その手はひんやりと、火照った僕の体の熱を冷ます。

--

「大変だ!」
「救急車、呼べ。早く!」
「おい。大丈夫か?しっかりしろ。」

周囲が騒がしい。

手を動かそうとするが、首から下が上手く動かない。

どうやら、仕事中にドジったらしい。僕の体は地面に叩きつけられた。

「おい。しっかりしろ。おいっ。」
先輩の声も聞こえる。

「大丈夫ですよ。」
答えているつもりなのに、先輩には届いてないみたいだ。

僕の体はどこかに運ばれている。早く帰らなくちゃいけないのに。

大勢の人の声が飛び交っている。

--

「今夜が峠です。」
医師らしい男の声が聞こえる。

「何とか助けてやってください。」
「我々もやれることはやりました。ご家族へ連絡は?」
「あの。こいつの女房、一年前に亡くなっちまって。」
「他のご親族は?」
「それが、いないんで。俺がまあ、代わりってことで。」

先輩と僕だけが病室に残されたようだ。

僕の目は閉じられたまま。

「なあ。まさか、お前、チアキの後を追おうってんじゃないだろうなあ?おい。しっかりしろよ。」

気がつけば、彼女がそばにいた。目は見えていなくても、彼女の姿だけは見える。
「遅いよ。迎えに来たよ。」
「あ。うん・・・。ごめんな。また先輩につかまって。」

彼女の手が、僕の手を掴む。そっと。冷たい手。チアキの。

その手を取ると、僕の体もすっと軽くなって、起き上がることができた。

「おい。しっかりしろって。なあ。ちょっと。看護婦さん。容態がおかしいみたいです。」
先輩が大声を上げている。

僕は、チアキの手に導かれるままに、今まさに、病室を出ようとしている。

先輩。大丈夫ですって。ねえ。先輩、大したことないんです。死ぬのって、悲しいことじゃない。この一年、僕はちょっとずつ死んでいたんです。

「ねえ。早く行きましょう。」
チアキの声。

先輩、すいません。

その時、先輩の叫ぶ声が響く。
「チアキ、連れて行くなあっ!」

その瞬間、僕の体は急に重くなり、チアキの手を離れ引き戻され、痛みの感覚が体に戻り、頬に涙が伝う・・・。


2004年10月25日(月) 主人の見立てた仕立てのいいスーツを脱ぎ捨て、彼の手を、彼を求めて止まない場所に導く。

「コーヒーでいいかい?」
「ええ。」
彼がカップを差し出す。

震える手で受け取る。

「ごめん。また来ちゃった。」
「いいさ。」
「自分から来ないっていったのに。」

彼は何も言わない。

先週、泣きながら彼にグラスを投げつけた。彼の顔をかすめて、グラスは壁に当たって砕けた。手当たり次第、彼に物を投げ、大声でわめき続けた。

「別れる。」
そう言って、飛び出した。

それから、一週間しかもたなかった。

彼は、何も言わず、煙草を一本取り出す。

「やっぱり、無理だったの。あなたがいないと気が変になる。」
「きみが決めることだ。」
「分かってる。いつもそう。私が。私だけが。私一人が。苦しむの。」

彼は、何も言わず、煙草の煙を見つめている。

「抱いてよ。」
私は、服を脱ぐ。

--

私は狂っているのかもしれない。

沢山のものを捨てて、彼と一緒にいることだけを望んでいる。

高給取りのサラリーマンの恋人と別れた。友達とも疎遠になった。見合いを勧める両親の顔を見るのが嫌で、故郷に帰らなくなった。

だが、彼には、他に恋人がいる。相手の仕事の都合で、普段は離れて暮らしているという。彼の恋人がまとまった休暇が取れた時だけ、彼はその恋人と過ごす。

「彼女と別れてよ。」
と、詰め寄ったこともあった。

だが、彼は、別れないという。

ありとあらゆる事を言った。相手を傷付けること。私のこと、利用してたの?どうせ、私は都合がいい女よね。あんたなんか、最低の男。

彼は、何も言わない。ただ、私の怒りが過ぎるまで、黙っている。

分かっている。彼を傷付けようとして、結局、私が傷付くのだ。

彼は、私に、好きだと言ったことはない。ただ、私が一方的に彼を想っているだけ。

--

「少し、痩せた?」
彼は、訊ねる。

「そう?」
なら、あなたのせいよ。

「仕事が忙しいせいかしら。」
「大変だね。」
「ええ。」
「僕には、無理だな。きみみたいに、責任を負ってバリバリ働くなんてさ。」
「好きでやってることよ。」
「だとしたら、余計にすごいな。」

彼は、定職に就かない。自分がギリギリ食べていくことができればいいと言う。

「不安にならない?」
私は、訊ねる。

「そうでもない。」
彼は、呑気そうに答える。

彼は、何も背負おうとしない。だから、身軽だ。誰かの悪口も言わない。彼がしていることは、誰からも強制されたわけではないからだ。

「私は無理。あなたみたいに生きるのは。」
そう言って、彼の手から煙草を奪って、深く吸う。

--

だが、とうとう、私は耐えられなくなって、結婚することにした。彼と正反対の人。堅実で、努力家で、私に愛をささやいてくれる人。

だから、彼とは最後の夜。

彼と私は、思い切り着飾ってディナーを楽しむ。それだって、私が頼んだこと。

「泣かないで。」
ワインのグラスを合わせた瞬間、もう、私の涙が止まらないから。

「幸せになるんだよ。」
彼がくれた、最初で最後の私へのやさしい言葉。

私は、泣きながらうなずく。あなたがいなくて、どうやれば幸福になれるのだろう?

--

結婚して、一ヶ月。

私は、夫の出張の合間、彼のアパートへ向かう。結局捨てられなかった、彼の部屋の鍵。

「どうしたの?」
相変わらず、彼は微笑んで私を出迎えてくれた。

彼にしがみついて泣きじゃくる私の頭を、彼はそっと撫でてくれた。

「どうしたの?可愛い奥さん。」
「あなたがいないと、やっぱり駄目なの。」
「ご主人と上手くいってないの?」
「いいえ。彼はやさしいわ。」
「なら、ここに来たらいけないね。」
「でも、駄目なの。頑張ったわ。私。だけど、やっぱりあなたが欲しいの。」

私は、主人の見立てた仕立てのいいスーツを脱ぎ捨て、彼の手を、彼を求めて止まない場所に導く。

「困った子だね。」
彼は、私の髪に口付ける。

私は、なつかしい彼の匂いの中で、一ヶ月間押し込めていた感情を解き放つ。

--

「きみか。妻の恋人という男は。」
よく磨かれた靴を履いた男が、履き捨てるように言う。

「今日は、私がなぜここに来たか、分かるか。」
「いいえ。」
「お前を殺しに。とでも言いたいぐらいだ。お前のせいで、私達の結婚生活はめちゃくちゃだからな。」
「殺されても仕方がないですね。僕みたいな男。」
「ああ。だが・・・。私はお前を殺せない。なぜなら、妻が後を追うのが分かっているからだ。」
「じゃあ、どうすればいいのでしょう?」
「金をやる。知らない町にでも行ってくれ。そして、二度と妻の前に現われないでくれ。」
「分かりました。」
「すぐにだ。今夜中にでも。」

--

私は、半狂乱になる。

彼がいない。

アパートは、空だった。

ただ、灰皿に、吸殻が。私の夫が好む銘柄の。

--

「彼をどこに行かせたの?」
「さあな。私には分からん。あいつが決めたことだ。」
「どうしてなの?あなたが何も言わなければ、彼は行ってしまわなかったのに。」
「一体どこに、妻の不貞を許す夫がいるというのだ。」
「それでも、責めならば私が受けます。あの人にあなたが関わる必要はなかったのだわ。」

私は、夫に激しい憎悪の目を向ける。

泣き続ける私に、夫は静かに言う。
「憎いのは、私か。それとも、お前を捨てて逃げた男か。」

--

私は、その夜、家を出た。

あの人を探すため。

町から、町。あの人は、不精だから、そう遠くにはいかない筈。

案の定、彼はそう遠くない場所にいた。以前住んでいた場所と同じように古びたアパート。

「見つけたわ。」
私は、彼に告げる。

「それで?」
彼は、訊ねる。

「僕、どうしたらいいんだろう?」
と。

「あなたを殺すわ。」
私は、言う。

彼は、黙ってうなずく。

そう。何もかもあなたのせい。私を苦しめ、夫を苦しめ、あなただけが無傷だ。

「僕が悪いんだね?」
「ええ。そうよ。」

私は、今、刃先を彼に向け、渾身の力を込めて彼にぶつかっていく。

彼は、いつものように。いつも、私が服を脱ぎ始める時と同じように。やさしく微笑んだまま両手を広げ、それを受け止めた。彼は、黙ってドサリと倒れる。

あなたがいなくなれば、私も生きている理由がない。

あまりにも失い続けた人生に別れを告げるため、今度は、刃先を自分に向ける。


2004年10月21日(木) 僕も、どちらかといえば社交的なほうではなかったから、二人が恋人同士になるのには随分かかった。

また、電話が繋がらない。

三度目にあきらめる。

今日は、彼女の誕生日。手にした、リボンをかけた小箱が少し震える。

--

夜中、彼女からの電話で起こされるが、電話の向こうは騒がしく、何を言っているのか分からない。彼女は、多分、笑っているだけ。五秒ほどして、切れた。

--

「だからー。謝ってんの。怒ってる?」
「いや。怒ってないよ。」
「職場の人達が、サプライズ・パーティっての?やってくれるって言ったから。」
「だから、怒ってないって。」

なら、どうして電話の一本もできなかったんだよ、という言葉を飲み込む。

「一日遅れちゃったけどさあ。今日でいいよね。あたしの誕生日のお祝い。」
「うん。だけど、昨日予約入れてた店は、もう今日は予約できなくて・・・。」
「いいよ。あたし。その辺の居酒屋でも何でも。」
「分かった。」

僕らは、適当な店に入り、適当な乾杯をする。

マミコの話はとりとめがなく、自分のことか、名前も聞いたことがない友達の話。
「でね。昨日も、ヨシの話になってさあ。友達が会わせてくれとか言うわけ。で、冗談でしょうって。ヨシなんかに会ってもつまんないよってさー。言ったのよ。ヨシだってさあ。あたしの友達なんかに会いたくないよねえ。」
「いや。会いたいかな・・・。」
「えー?そうなんだ。」

酔うと、マミコは声が大きくなる。

「なあ。そろそろ出ないか。」
「あ。うん・・・。」
「今日、来る?」
「ごめん。今日は・・・。」
「分かった。」

僕は、マミコを駅まで送ると、持っていたプレゼントの包みを取り出す。

「わ。ありがとー。」
開けてもいいか、とも聞かず、マミコはそれを無造作にバッグにしまう。

その箱は、昨日渡す筈のものとは異なる箱だった。

--

最初からあんな子ではなかった。

僕らは、大学で知り合った。サークルの一年後輩で入って来たのがマミコだった。

田舎から出て来たばかりのおどおどした子だっが。だから、気になって声をかけた。僕も、どちらかといえば社交的なほうではなかったから、二人が恋人同士になるのには随分かかった。

変わったのは、マミコが就職してからだった。

飲み歩くようになり、男友達からのメールが増えた。僕と一緒にいても、他の人からの電話で長くしゃべるようになった。

僕は、そんなマミコを一度も責めたことはなかった。

多分。

だけど、マミコは、時折、僕を憎んでいるんじゃないかというぐらい激しい喧嘩を仕掛けてくることがあった。あるいは、何日も連絡が途絶えたり。他の男に電話を掛けさせたり。

もう、何度、駄目だと思ったろう。

だが、必ず、大喧嘩のあと数日すると、マミコが泣きながら僕のところに来る。

僕は、マミコを受け入れる。

マミコは、情緒不安定になっていて、酒を飲み、泣き、僕を叩き、眠る。時には仕事を休むこともある。僕はその間、マミコを食べさせ、着替えさせ、腕の中で眠らせる。

後で聞けば、そんな風になっている時のマミコは、記憶をなくしていることも多いようだ。本人も、それはまずいと思うのだろう。病院を探して通院したりもしている。

そんな感じで、僕らは幸福な恋人時代を卒業して、三年が経とうとしていた。

--

その日、仕事中に電話が掛かって来て、いきなり怒鳴られた。知らない男の声だった。
「おい。お前、マミコと別れてやれよ。」
「え?」
「え?じゃないだろ。マミコ、お前と別れたがってんだよ。」
「言っている意味がよく分からないな。マミコ、そこにいるんですか?」
「いるけど、電話には出ないってよ。」
「すみません。マミコを電話に出してくれませんか。」
「だからー。出ないって言ってんだろ。お前、頭どーかしてんじゃねーの?」
「マミコを出してください。」
「話になんねーよ。」

電話は、そこで切れた。

僕は、何事もなかったように仕事に戻り、残業もこなした。

仕事を終え、マミコに電話したが、着信を拒否されているようだ。

僕は、ため息をつき、コンビニで夜食を買う。

似たようなことは何度かあった。そのたびに、いろいろ考える。自分が利用されていること。マミコが僕といるせいで、余計に辛い思いをしていること。携帯電話なんて、壊してしまおうかと思ったり。

だが、結論はいつも同じ。

僕は、今、ここでこうして、携帯の番号を変えず、マミコからの連絡を待とうということだ。

--

それから、音信普通になること三ヶ月。マミコの友人の女性と、たまたまばったり、駅前で出会った。
「あら。ヨシさんですよね?」
「あ。はい・・・。」
「こんにちは。」
「ああ。こんにちは。」
「少し、痩せました?」
「そうかも。や。あの。マミコ、元気ですか?」
「ええ。元気ですよ。」

感じのいい女性だった。マミコの友達として紹介された中では、比較的話し易い雰囲気を持っていた。

「あの。ちょっといですか?」
女性が思い切ったような口調で言った。

「なんでしょうか?」
「あのね。マミコのことなんだけど。」
「はい。」
「あなたに付きまとわれて迷惑してるとか。そんなことを言ってたんです。」
「はあ・・・。」
「私、あなたがそんな事をする人とは思えなくて。でも、彼女は、これ以上何かされたら警察に訴えるとか、何とか言ってて。それで、周囲も、そんなこと吹き込まれてるみたいで。だから、あなたからマミコに近付かないほうがいいんじゃないかしら。」
「そう・・・。ですか。」
「あの。余計なこと言ってすみません。」
「あの。あなたはどう思いますか?マミコのこと。」
「マミコ?ああ。どうって。普通に、職場では一緒にいますけど。よく分からないです。私の知らないところでいろんな人と仲良くしてるみたいだけど、本当に仲がいいのは誰かって言われたらよく分かりませんしね。親身になったら、振り回されちゃうところもあるし。」
「そうですか。」
「だから。あの。ヨシさんも。あまり深入りしないほうがいいって思うんです。」
「ご忠告をありがとう。」

僕は、帰宅して、アルバムを開く。

マミコの本当の姿はどこに隠れているのだろう。

傷付き易く、泣き虫なマミコ。

傷付きそうになるたびに僕に隠れていたけれど、いつしか、僕がきみを傷付ける何ものからも守ってやれないことを、きみは気付いた。

写真を手に取る。

笑っているマミコ。

破り捨てようとして、破ることができず。

その時、その瞬間。憎んでいたのは、マミコのことではなく、今日、僕に話し掛けて来た女性のほうだった。なぜ、あんな風に言うのだろう。僕とマミコの何が、あの女性に分かるというのだろう。

夜が明ける。

僕は、本当に渡そうとしていた箱を取り出すと、マミコの家まで自転車を走らせる。

午前4時。マミコは寝ているだろうか。

--

マミコは、ドアを開けてくれた。
「遅いよ。」
「ごめん。」
「どれだけ待ったと思うの?」
「だから。ごめん。」

僕は、息が切れて倒れそうだった。

マミコと僕は、話し合った。

マミコが言う。
「ヨシのこと、馬鹿だと思った。あんだけいろんなことされても、まだ、あたしに愛想を尽かさないんだもん。」
「うん。」
「なんか、腹立つよ。ほんと。気が付いたら、ヨシが悪いって思っちゃう。」
「僕はさあ。こういう言い方するとマミコが嫌かもしんないけど、僕はいいんだよ。どんなことされても。マミコにすっぽかされても。」
「そういうのが・・・。そういうのがね・・・。辛いんよ。」

マミコが泣き出す。田舎の訛りで語尾が震える。

傷付き易いから。自分を守ろうと、更に傷付く。誰かを傷付けようとして、もっと自分が傷付く。

「ずっと分からなかったんだよ。僕がどうしたらいいか。」

僕は、それから、小箱を。誕生日の夜に渡す筈だった、小箱を取り出す。

「なに?それ。」
「指輪。」
「私にくれるの?」
「ああ。結婚しよう。」
「馬鹿じゃないの。結婚なんて。」
「いや。馬鹿じゃないよ。」

思ってるより、簡単なことなんだ。

僕は、マミコに説明を始める。きみがいつでも帰ることができる場所。きみを絶対に裏切らない場所。そんなところができたら、とても素敵だと思うんだ。マミコはずっと泣いている。いつまでも泣いている。僕が言っている言葉が分からないかのように、首を振りながら泣く。

僕は、何度でも説明する。今までもそうしてきたし、これからもそうするだろう。他に愛の示し方を、僕は知らないから。


2004年10月19日(火) 覚えていることを無理矢理忘れることはできない。一番良かった日のことを、来る日も来る日も思い出してしまうんだ。

「どうして袋をかぶってるの?」
私は、訊ねます。

すっぽりと頭からかぶった紙袋に、二つの丸い穴。

「顔を見られたくないんだ。」
その人は言います。

私は、ノートに書きます。
「顔を見られたくないから、袋をかぶっている。」
と。

「僕が怖くないかい?」
今度は、その人が私に訊きます。

私は、首を振る。

怖くありません。その人が部屋に入ってくると、ホッとします。

「何か欲しいものは?」
その人は、重ねて訊ねます。

私は、考えるけれど、思い浮かびません。それで、ノートを開いて、自分が書いたことを辿ります。アイスクリーム、と書いてありました。だから、言います。
「アイスクリーム。」
「そうか。アイスクリームが欲しいのだね?」
「分からない。」
「今度、持ってくるよ。」

その人が、なぜここにいるのか。私がなぜこの部屋にいるのか。私にはさっぱり分かりません。きっと、ここは私の部屋です。私はこの部屋にいるととても落ち着くからです。でも、その人は、なぜ来るのかしら?きっと、先生です。子供の頃もこういうことがあった。お腹が痛くて続けて休んだことがあったのです。そうしたら、担任の先生が訪ねて来ました。私は、先生に怒られるのかと思って、そっと、母と先生がしゃべっているのを盗み聞きしたんです。そうしたら、先生は、いじめとか、喧嘩とか、そういうことを言ってました。母が呼ぶ声がして、私は慌てて布団に飛び込みました。母は、先生が話をしたがっていると言いました。私は、先生のところに言って、お腹が痛いのだと言いました。先生は、ミチコちゃんのことを、何か言いました。無理なことを言われたことはないかとか。私は黙って首を振りました。ミチコちゃんは嫌いだったけど、先生に言うのはもっと怖かったからです。

先生としばらく話をした後で、先生は、何でもいいから困ったことがあったら先生に言うように、と言い、それから帰って行きました。

私は、先生を見送った後、またお腹が痛くなったみたいで、夕飯も食べられずに寝ていたのでした。

だから、先生です。きっと。

「先生。」
と、私は呼んでみました。

「僕は、先生なのかい?」
と、その人は言いました。

そう言われて、私は、急に分からなくなりました。
「先生ではないのですか?」
「いや。先生だ。僕は先生だよ。」

私は安心しました。

それから、先生とするならば勉強がいいでしょう、ということで、ノートを探しました。

私のノートは、私の手の中にありました。

ノートには、アイスクリームと書かれていました。

あれ。なんだっけ?

アイスクリームがどうしたのだろう。

私は、アイスクリームが欲しいのかしら。ならば、この人は、アイスクリームを持ってくるお店の人だ。そう思いました。

私は、
「牛乳。」
と、言いました。

「牛乳が欲しいのかい?」
と、その人は訊きました。

私は、いつも、母に言われて牛乳を買いに行っていたのです。

だから、お店では牛乳を買います。

お金を探しました。母に言われて、いつもしっかり握りしめていたのに。ポケットを探してもどこを探しても、お金がありません。私は、泣き出しそうになりながら、ポケットや、ノートの間を探しました。

「どうしたの?」
その人が言うから、お金のことを言おうかどうしようか、迷いました。お金のことを言ったら、お店の人だったら怒るかもしれないからです。

でも、その人はやさしい人でした。

お金を探していても、とがめる様子もなく、じっと私がお金を出す間待ってくれていました。

困った私は、机の引き出しを探し出しました。私のお財布はそこにありました。お財布の中には、500円玉が一個だけありました。

これで足りるかどうか分からなくて、私は、その人の顔を見ました。

その人は、袋をかぶっていました。だから、この人はきっと、お芝居の人です。

今から、私を笑わせてくれるのだと思いました。

ですが、その人は、特別には面白いことはしませんでした。

手の平には、500円玉があります。どうしたのでしょう?このお金は。

私は、財布にお金をしまうと、机に入れました。お金は机の引き出しの、右から二番目にしまうことになっているのです。親戚からもらうお年玉も、母から貰うお小遣いも、いつもここにしまうことになっています。私は、財布をしまいました。その人が見ていても平気です。その人は、お金を盗ったりしないのです。私には分かります。

私は、ふいに泣きたくなります。その人は、お父さんかもしれません。お父さんは、私が幼い頃に亡くなりました。だから、ここにいる筈はありません。ですが、お父さんにも思えます。袋の下は骸骨です。きっとそう。

私は、お父さんに抱き締めて欲しくなりました。

気が付くと、私は、震えていました。

「寒い?」
と、その人は言います。

寒いわけではないのに、私は震えています。

だから、
「寒くないよ。」
と言いました。

「じゃあ、なんで震えてるの?」
その人は、重ねて訊きます。

「分からない。」
私は、言います。

ただ、その人に抱き締めて欲しいのです。

でも、その人は、お父さんではないかもしれません。お父さんでもない人に抱き締めてもらうのはいけないことかもしれません。若い男の人だったら、なおさらいけません。

私は、とても怖くなって、泣き出しました。

「どうしたの?」
その人は訊きました。

私は、泣いています。泣いて泣いて泣いて。

--

「どうして袋をかぶってるの?」
私は、訊ねます。

すっぽりと頭からかぶった紙袋に、二つの丸い穴。

「昨日も、訊かれたね。」
と、その人は言います。

私は、覚えてないわ、と言います。

でも、ノートには、
「顔を見られたくないから、袋をかぶっている。」
と、書かれてあります。

「顔を見られたくないのね。」
私は、言います。

その人はうなずきます。

「どうして顔を見られたくないの?」
私は、訊きました。

男の人は言いました。
「あるところに、男と女がいました。会った瞬間から恋に落ちました。二人はたくさんの思い出を作る約束をしました。なのに、女の人は病気にかかりました。それはとても哀しい病気でした。つい今あったことも、忘れてしまう病気です。」

私は、言いました。
「病気なのね。可哀想に。」
「そうでもないんだよ。忘れるということはね。嫌なことも忘れてしまうからね。でも、覚えているほうが辛いんだ。覚えていることを無理矢理忘れることはできない。一番良かった日のことを、来る日も来る日も思い出してしまうんだ。」

その人は、うつむいて泣いているみたいでした。

私は、言いました。
「袋男さん。」

その人は顔を上げました。

「僕が?袋男かい?」
「ええ。」

私は、そういって笑い、ノートに書きました。
「袋男さん。」

私達は声に出して読みました。
「袋男さん。」

「何のお話だったかしら?」
私は、言いました。

「ああ。病気の女の人の話だ。」
「男の人の話じゃなかったかしら?」
「男の人の話でもある。」
「男の人は、何の病気なの?」
「忘れられていたら、どうしようって思って、苦しくて眠れない病気だ。」
「忘れられていたら、どうしよう・・・。」
「そうだ。愛する人から忘れられてしまったら、彼は、辛くて死んでしまうだろう。だから、怖くて顔を隠す男の人の話だ。」
「愛する人から、忘れられてしまったら。」
私は、考えました。

「そうしたら、新しく名前をつければいいんじゃないかしら。」
私は、言いました。

とても素晴らしい思いつきだと思いました。

「袋男さん。」
私は、言いました。

「袋を取ったら、何と呼べばいいのかしら?」
とも、言いました。

袋男は、答えました。

「きみが呼びたいように。」
「私が、呼びたいように?」

袋男さんは、袋に指をかけ、ビリビリ破き始めました。

中から出て来たのは。

名前は分からないけれど、とても、気持ちのいい顔でした。
「私、あなたの顔、知ってるわ。」

そう言って、手を伸ばしました。

その手を、彼はそっと握ってくれました。

袋男さん。

私は、彼のことをそう呼びます。袋なんかかぶっていないのに。どうして、この人は袋男さんなのでしょう。それは、きっと、その人がそう呼ばれてとても嬉しそうだからなのだと思います。


2004年10月18日(月) スタンドの小さな明かりに浮かび上がる、白い体。私にそっくりな、ほっそりとした体つき。思わず息を飲む。

「あのね。由紀さんのご夫婦、離婚するんですって。」
「由紀さんって。ああ。お前の友達か。」
「ええ。」
「お前の友達の離婚って、3組目ぐらいじゃないか?」
「そうかしら。」
「ああ。俺が聞いただけでもそんなもんだ。」
「結構上手くいっている風に見えたのに。」
「やっぱり、あれだな。そういう夫婦は、夜が上手くいってなかったりするんだ。夫婦なんてすることしてれば何とかなるもんだって。」

そんなことを言いながら、バサリと新聞を置く。
「今日、帰るの少し遅くなる。先に寝てていいぞ。」
「分かりました。」

答えながら、ホッとする。

正直、苦痛なのだ。夫との夜のこと。

夫は、メーカーの管理職で、仕事を精力的にバリバリとこなす一方で、会社でも愛妻家として有名だ。私はといえば、そんな夫を愛してはいるが、肉体のほうの欲求はもともと少なかったのが、このところ全くというほどなくなり、苦痛すら感じるようになっている。

夫は、そんな私の変化に気付かず、今でも毎晩のように求めてくる。

私は、嫌だとも言えず仕方なく応じる毎日だ。

それ以外のことでは、とてもいい夫なのだ。子供がいないせいで私が寂しがるのを気遣って、友達と遊びに行くことにも、お金の使い道にも、驚くほど寛大だ。友達に打ち明ければ、贅沢な悩みと笑い飛ばされるだろうか。

--

その日の午後、友人の理恵からお茶に誘われた。以前、社宅で一緒だったのだ。

「でも、由紀のところ、びっくりよねえ。どっちにも、外に付き合ってる人がいたんですって。だから、あっさり決まったって。子供もいなかったから。」
「あの・・・。やっぱり子供がいないって、夫婦の絆は弱くなるものかしら。」
「あら。あなたのところもいないんだったわね。」
「ええ。」
「大丈夫よ。あなたのとこは、ご主人とってもやさしいもの。由紀のところは、ほら。彼女も仕事であちこち飛び回ってたから。」
「・・・。」
「やだ。深刻な顔しないで。ほんと、あたしったら、つい余計なこと言っちゃうから。ごめんね。気を悪くした?」
「いえ。あの。違うの。ちょっと悩んでて。」
「まあ。幸せな奥様にも悩みがあるのねえ。良かったら、聞かせてくれるかしら?」
「あのね。夫婦の夜のことなんだけど。」
「あら。まあ。夜って、あっちの方面のことよね?」
「お宅は、どれくらいある?」
「うち?うちは、もうとっくに・・・。あなたのところはどうなの?」
「それがね。逆なの。」
「あらあ。お幸せね。」
「それで、ちょっと困ってるというか。最近、ちょっと辛くなってきて。」
「そうなの・・・。」

理恵は少し考え込んで、それから、声をひそめてささやいた。
「あたし、いいところ知ってるの。そういう問題を相談していけるところ。」
「いや。あの。そんな大袈裟なのは困るわ。」
「大丈夫よ。相談だけだったら無料だから。」

理恵は、ふふっと笑って、電話番号をさらさらと書いて手帳を一頁破り、差し出して来た。
「あたしもさあ。いろいろとお世話になったから。」
「・・・。」
「ご主人にばれないようにね。」

私は、ドキドキしてメモをしまった。

「今日、ご主人遅いんでしょ?ゆっくりしていかない?」

理恵の誘いを断って、私は、家路を急ぐ。

--

電話の向こうでは、とても感じのいい女性が対応してくれたので、少しホッとする。

恥ずかしい気持ちを抑え、事情を説明すると、担当の者に変わるという。

しばらく待つと、落ち着いた感じの中年男性が出た。
「お悩みのほうは分かりました。」
「はい。恥ずかしい話ですわ。」
「それで、一つ確認しておきたいのですが、あなたにとって、それは相当深刻、かつ、解決したい問題であるということですね。」
「ええ。とても苦痛なんです。それさえなければ、主人のことはとても愛してるんですけど。私の問題なんですわ。前は、子供が欲しかったから我慢してましたけど、最近ではそれも望めないのに応じるのが辛くて。」
「分かりました。」

男は、それからゆっくりとした口調で、私にあることの説明を始めた。

「奥様の替え玉を用意しましょう。」
「え?」
「あなたにそっくりな女性をご用意します。」
「そんな・・・。無茶ですわ。」
「それがね。大丈夫なんですよ。」

男は、説明を始めた。柔らかい声色に、だんだんと頭がぼうっとしてきて、それが実現可能なアイデアのように私の頭に響いて来た。

「ただし一つだけご注意があります。これはあなたがおっしゃるように、危険なことです。ですから、これだけは守ってください。ご主人が他の女を抱いている間、あなたは決して、二人のいる場所に踏み込まないでください。同時に同じ場所に二人のあなたがいることは許されません。いいですね?」
「分かりました。」

男は、その後、料金の支払い方法やら、替え玉と入れ替わる際の連絡方法について説明を始めた。さっきまで、それはとても簡単なことのように思えていたが、急に怖くなってきた。それで、男に怖いと告げた。

「堂々としていてください。あなたのような悩みも、私どもは幾つも手がけて来ました。夫婦の性の食い違いは大変な問題です。大したことではないとどちらかが我慢をすれば、いずれそれは、夫婦の間に大きな溝を作ることになってしまいますからね。」
「はい・・・。」

--

そして、翌日の夜。

私は、夫が風呂に入っている隙に家を出た。後は、替え玉が上手くやってくれるのだ。

本当にこれで上手くいくのかしら?

私は、そんなことを考えながら、深夜のファミレスで時間を潰す。夜を一人でのんびりと過ごすのは好きだった。いつからか、夜は私一人のものではなくなっていたから、それは本当に嬉しいことだった。

午後2時を回り、携帯に合図が入った。

私は、家に戻った。

ベッドでは、夫が一人でぐっすりと眠っていた。昼間を精力的に過ごす男らしく、夜は滅多なことでは目を覚まさない。私は、他の女の気配を探したが何も見当たらなかったため、ほっとした気持ちで夫の横で眠りについた。

--

翌朝、夫はとても機嫌が良さそうだった。

「昨日は、何というか、お前もえらくのってたようだな。」
少し照れたように、夫が微笑む。

私は、何と答えてよいか分からずにうつむく。

「子供のことなんかで辛い思いもさせたが、お前がリラックスして楽しんでくれるのが一番なんだよ。」

その言葉に涙がこぼれそうになる。

いずれにしても、夫は何も気付いていないし、とても満足しているようだ。

「あなた、今日は?」
「今日か。今日は、早く帰れると思う。」
「分かりました。」

私は、その日も、あの番号に電話を掛けるだろうと思った。

--

そうやって、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ。

その日、夫は昇進の内示が出たようで、とても機嫌が良かった。

「これもお前のお陰だよ。」
夫は微笑んだ。

心に決めていたことがあった。どうしても、夫と、他の女との様子が見たいと。それは抑え難い衝動になっていた。あんなに嫌だったことから解放されたのに、私の心の隙間には不安が入り込んで来ていたのだ。

夫が以前より確実に私への愛を深めている。その原因が他の女なら、それがどんなものなのか。知りたい。

これは嫉妬なのだろうか。

--

夜、私は、家を出たふりをして部屋にこっそりと戻った。

もう、夫はベッドに入っている。スタンドの小さな明かりに浮かび上がる、白い体。私にそっくりな、ほっそりとした体つき。思わず息を飲む。

「おいで。」
夫が、優しい声で言う。

言わないで。そんな声で。そんな目をして。それは、私じゃないわ。

私は、悲しみで胸がキリキリと痛む。

暗闇で、二人の影が重なる。上に下に。それから、喘ぎ声。私は、息を詰めて二人の様子を見守った。

だが、ついには、気持ちが抑えられなくなってしまった。
「やめて!」

夫が、明かりを点ける。
「誰だ?」
「私よ。あなたの妻よ。」
「妻ならここにいる。」

私は、あっと驚く。

私と同じ顔。同じ体つき。

「お前は一体、誰なんだ?」
「ですから・・・。あなたの妻よ。」
「おかしな事を言うな。妻は双子ではなかった筈だ。」

その裸の女は、怯えたように夫の体にしがみつく。ああなんてこと。怯えた表情まで、私にそっくり。

夫は、サイドテーブルから、拳銃を。
「夜、物音がすることがあったろう。だから、持っていたんだ。」
「やめて!そっちが偽物よ!」

私は、大声で叫ぶ。

夫は、左腕にもう一人の私を抱き、右の手を上げ、銃口をこちらに向ける。
「悪いな。きみのほうが偽物だという証拠もないが。顔も体も一緒なら、たったの今まで愛し合った女を選ぶしかないんだよ。」

私の左胸に、激しい痛みが走る。


2004年10月15日(金) ベッドに入るのを見届けて、もう一本ビールを出す。駄目なのは、パパだ。ママがいないと、全然駄目だ。

「すみません。遅くなりました。」
また、最後のお迎えになってしまった。昇太は機嫌よく南先生と遊んでいた。

「あ。パパ来たねえ。じゃあ、お片づけしよっか。」
南先生は、昇太の遊び足らなさそうな頭にポンと手のひらを当てた。

「ちぇー。パパ、早過ぎ。」
「馬鹿。もう、お迎えの時間とっくに過ぎてるんだぞ。ったく。」

それから、南先生の方に向き直って頭を下げる。
「すみません。いつもいつも。」
「いいんですよー。昇太君、とってもお利口なんで、全然いいんですよ。今日だって、すみれ組さんの赤ちゃんのオムツ替えるの手伝ってくれたしね。」
「すみません。ほんと。」

僕は、暗くなった道を昇太と自転車で帰る。

「パパ、僕ねー。南先生のこと大好き。」
「そうかあ。」
「結婚したいぐらい。」
「はは。昇太が大きくなるまで待ってくれたら、プロポーズしな。」
「プロポーズ?なに?それ。」
「結婚してください、って言うんだよ。」

--

妻が出て行ってしまってから、僕は転職した。昇太のお迎えに間に合う職場。保育園は、午後の8時までしか子供を預かってくれない。それまで、昇太のことは妻にまかせっきりだから、離婚した当初はひどく苦労した。でも、徐々に、徐々に。僕らは、二人だけの生活に慣れていった。

--

「パパ。パパったら。」
「んん?」
「風邪ひくよ。」

食後、いつの間にか眠っていたらしい。昇太は、パジャマ姿で僕を心配そうに覗き込んでいる。

「風呂は?」
「一人で入ったよ。」
「ああ。そうか・・・。」
「じゃあ。パパ、おやすみ。」
「ああ。おやすみ。」

昇太がベッドに入るのを見届けて、もう一本ビールを出す。駄目なのは、パパだ。ママがいないと、全然駄目だ。

--

「すみません。また遅くなりました。」

南先生がこちらを振り向いて、にっこり笑う。
「ああ。良かったあ。パパ、来たよー。」

昇太も、にっこりする。
「先生、僕、トイレー。」
「一人で行けるね?」
「うん。」

それから、南先生はこちらを向き直る。
「昇太君、卒園ですね。寂しくなるなあ。」
「いや。もう、やんちゃで。ほんと、お世話になりました。最後に南先生が担任で、本当に良かった。」
「私も。昇太君と一年過ごして、楽しかったですよ。」
「この仕事、結構大変ですもんね。」
「そうですねえ。でも、私、辞めちゃうんですよ。園を。」
「え?」
「結婚するんです。」
「そう・・・、ですか。残念ですね。結婚しても続けたらいいのに。」
「ええ。でも、相手が転勤になったんで。長野に行っちゃうんです。だから、一緒に行くんです。」
「ああ。そうですか。いや。おめでとうございます。」
「ありがとうございます。結婚したら、昇太君みたいな子供が欲しいなって思ってるんです。」
「あいつですかー。大変ですよ。先生には、もっと大人しい女の子がいいんじゃないかな。」
「あら。そうですか。ふふ。」

昇太が、叫ぶ。
「パパ、早く。テレビ始まるっ。」

「じゃあ、ほんと、お世話になりました。」
慌てて、園を出る。

--

明日の卒園式には仕事を休むつもりだった。

「昇太。もう寝ないと。」
「あのね。僕、先生にプレゼントするんだ。」
「ふうん。」
「パパはしないの?」
「パパか?ああ。そうだな。パパもしようかな。」
「えとね。前、参観日で一緒に作った朝顔の折り紙がいいかなって思うんだ。」
「よし。パパも作るか。」

早速、はさみやら糊を並べる。

「ねえ。パパ。」
「なんだ?」
「南先生ね。ピンク色が好きなんだよ。」
「ピンク色か。」
「うん。筆箱とか全部ピンク色なんだ。」
「じゃあ、パパ、ピンク色で折ろう。」
「駄目だよ。僕が全部使うもん。」
「そっかあ。じゃあ、白い折り紙に色を塗ろうかな。おい。色エンピツ取って来い。」
「やだよ。自分で行けば?」
「分かった、分かった。」

そうやって、親子で深夜まで。無言で手を動かす。明日、南先生とはお別れだ。昇太、泣いたりしないだろうな。

--

式の間中、南先生は泣き通しだった。つられて泣いてしまいそうになるのをこらえるのが必死だった。

式を終え、僕らは南先生にプレゼントを渡そうと、待った。

だが、南先生の顔が見えた途端、昇太は僕の手を振り切った。
「おい。こら。昇太。待てよ。」

僕は、慌てて追いかけた。だが、ごったがえす園庭で、僕は昇太の姿を見失った。

--

やっと探し当てた時には、もう夕暮れだった。保育園で最後の遠足にいった公園だった。
「おい。昇太。」

昇太は、ブランコに乗ったまま、何も言わなかった。頬に涙の跡があった。

僕は、昇太を抱き締めた。

「パパ。」
昇太が泣き出したから、僕は昇太を抱いたまま一緒に泣いた。

--

南先生へのプレゼントは、長野の住所に送った。あの日。くしゃくしゃになった、僕ら親子の作品。もらったほうは迷惑だろう。

--

小学校に入った昇太は急に大人びた。家事も手伝うし、泣き言も言わなくなった。

--

晴れた日。

僕らは釣りに出かける。

昇太とは、保育園の頃から、何度も釣りに行っている。僕ら親子の共通の趣味だ。

昇太がはしゃぐ姿を見て、ほっとする。ああ。連れて来て、良かったな。あんな笑顔、久しぶりだ。

その時。

「このあたりは何が釣れるの?」
聞き覚えのある声。

顔を上げると南先生がいた。
「先生!」
「やだ。もう、先生じゃないですよ。」
「ああ。すみません。どうしてここに?」
「あの・・・。お礼を言いたくて。」
「お礼?」
「すごく素敵なプレゼント。もらったでしょう?」
「いや。だって、あれは。や。もう。あんなもののお礼なんていらないですよ。」
「それから、昇太君が大好きな釣り、一緒にしてみたかったの。」

南先生はニコニコ笑っていた。

「旦那さん、怒るでしょ。こんな遠くまで。」
「結婚・・・。やめたんです。」
「え?」
「私が一方的に解消してきちゃった。」
「なんで、また・・・。」
「あのね。旦那の甥と姪を預かることが何度かあったんです。でもねえ。なんだか、うまくいかなくて。保育園みたいにはできなかったんですね。それでずっと考えてたんです。どうしちゃったんだろうって。」
「・・・。」
「でね。分かったの。昇太君みたいな子が欲しいんじゃなくて、昇太君がいいんだって。」
「は、あ・・・。」
「で。昇太君の言ってたこと、思い出したんです。パパと釣りに行くっていう話。それで、ここに来ちゃった。」
「いや。あの。」
「今はこっちでOLしてます。普通のOLってやってみたかったの。」
「保育園が恋しくなりませんか?」
「なりますよ。とっても。あんなに素敵なプレゼントもらったら・・・。」

風が吹いた。

二人共、無言になった。

知らん顔していた昇太が突然口を開いた。

「パパ。こういう時って、女の人に恥をかかせちゃいけないんだよ。」
「え・・・?」
「こういう時はプロポーズだろ。」
「あ。ああ・・・。」

言葉が出る前に涙が出ていた。まったく、泣き虫な父親でごめんな。心の中で昇太に謝る。

彼女がそっと差し出したハンカチを受け取る時、指先が触れた。


2004年10月13日(水) 私の腕に体を預けてくる。柔らかな胸が押し付けられる。この無防備さが、男性から好かれるんだと思った。

なんで、ここに?

入社式の日、彼女の顔を見つけて驚いた。彼女も気付いたようだ。

「ああ。久しぶり〜。良かったぁ。ここ、みんな真面目そうで、正直ビビってたんだ。」
私を見るなり、飛びついて来た。

「え?サヤカも、この会社だったの?」
「うん。受付だけどね。でも、ユリは総合職でしょ?すごいなあ。」
「たまたま受かったのがここだっただけよ。」
「やっぱ、ユリは頭良かったもんねー。」
「だからー。他、全部落ちたんだって。」
「ね。ね。今夜さあ。ご飯、一緒に食べにいかない?」
「いいけど・・・。」

変なのにつかまったと思った。中学の時からの同級生。顔は可愛くて、胸も大きくて、だけど勉強は全く駄目な子だった。

--

「でもさー。びっくりだよね。あたし、絶対にユリとは会うことないって思ってた。」
「だからねえ。もう、その話はいいじゃない?」
「嬉しくって。」

サヤカは、心底嬉しそうに私に笑顔を向けてくる。
「あたしは、早いとこカッコイイ子でも見つけて結婚すんの。」
「え?タカとはもう別れたの?」
「ううん。でもさー。田舎帰る気ないし。」
「ひどいわねえ。」
「いいの。いいの。それよか、ユリは彼氏できたの?」
「え?まだよー。」
「じゃ、会社入っていい男捕まえるつもりなんだ。」
「ちょっとやめてよ。」
「あはは。ユリ、頭いいし、美人だし。きっといい子見つかるよ。」

サヤカは笑いながら抱き付いて来た。
「今日、あたし奢っちゃうよお。その代わり、フロアでいい男いたら紹介してねえ。」
「知らないって。」

サヤカはすっかりご機嫌で、私の腕に体を預けてくる。柔らかな胸が押し付けられる。この無防備さが、男性から好かれるんだと思った。

--

寂しがり屋のサヤカに誘われて、私達はそれからちょくちょくご飯を一緒に食べた。

ある日のこと。

「ねえ。聞いてくれる?」
サヤカが、頬を上気させている。

「なに?」
「あのねえ。営業一課のイシカワさん。こないだ誘われちゃったー。」
「え?ほんと?」
「うん。本当!」
「ちょっとー。いいの?タカのことは。」
「いいよ。」

営業のイシカワといえば、さわやかを絵に描いたような男性で、憧れている女の子も多い筈だ。

「ああいうのが好みなんだ。」
「あー。ユリは違うの?」
「うん。ちょっと頼りない感じかな。」
「さすがだな。」
「で?どうやってイシカワさんを落としたの?」
「やだなあ。その言い方。マツダ商事の専務に口をきいてあげただけよ。そしたら、お礼だって。」

内心イライラしていた。サヤカの、女を使ったようなやり方は嫌いだった。

「ごめん。サヤカ。今日、頭痛くて。」
「え?大丈夫?」

その日は、早々に切り上げることになった。サヤカが心配して部屋まで付いてこようとするのを断って、一人タクシーで帰った。

--

「最近、イシカワさんとはどうなの?」
と、訊ねる。

「どうって・・・。うーん。何も進展なしってとこかな。ご飯は一緒に食べるんだけどね。他の男の子と違うのよねえ。キスもしないんだから。あたしのこと大事にしたいって。他の子なら、ちょっとお酒入ったらすぐ胸揉んだりするんだけど。あ。えとね。ユリの課の課長も、この前飲みに行ったら、私の胸触るんだよ。スケベだよねえ。」
「課長が?」
「そうだよ。真面目そうな人なのにねえ。人は見かけによらないってねえ。」

私は、苛立った。

「どうしたの?」
サヤカが訊ねる。

「うん。や。課長がそんな事するって、意外だなって。」
「ユリ、真面目だもんねえ。一回、ハメ外してみたらいいよ。あの課長も、結構、好き勝手言ってさあ。仕事を都合してやるから、うちの課に来るか、なんてねえ・・・。」

私は、吐きそうだった。

「ねえ。ユリ。大丈夫?」
「え?ああ・・・。うん。」
「ユリ、美人なんだしさ。もうちょっと笑ったら、きっとモテるよ。」
「そうね・・・。」

分かってることなのに。男がそんな生き物だってことも。女を武器に世渡りを上手くすることがどんなにつまらないことかも。だけど、その時、私はとてつもなく損をしている気分だった。

--

その日、課長に呼ばれた。

「なんでしょう?」
「今日ね。事業部長が来るんだ。」
「はい。」
「でね。きみ、相手してくれないかってね。」
「私が・・・、ですか?」
「ああ。きみだ。きみならちゃんとやってくれるだろう。」
「ありがとうございます。」
「ああ。それとね。ちょっと時間あげるから。その服、何とかして。スカート丈とか。」
「服ですか?」
「そう。ちょっと堅苦しいしね。」
「分かりました。」

胸がドキドキしていた。チャンスかもしれない。私がどうしてもやりたいプロジェクトがあった。だが、男性でもない私がそのプロジェクトを任される可能性は皆無に等しかった。

私は、その時サヤカを思い浮かべていた。

サヤカが、男達に胸を揉まれながら笑っている姿を。

チャンスは滅多にない。

私は、自分に言い聞かせた。

--

「お。今日は、きみがお相手をしてくれるのか。やあ。ヨシハラ課長が女の子を出すって言ってたのは、きみのことだったんだねえ。」

事業部長は、笑顔で私を手招いた。

「今日は、よろしくお願いします。」
「ああ。堅苦しいのはなしだ。」

部長の取り巻きが一緒に笑った。

私は、短めのスカートを気にしながら一緒に笑った。

私は、あらかじめ予定された店を案内しながら、事業部長の視線を感じていた。二軒目、三軒目、と進むにつれ、事業部長の取り巻きは減っていった。

大丈夫。もう覚悟は決まっている。

最後の店では、部長は私の手を握り、カラオケで声を張り上げた。

「いや。君みたいな子と一緒だと、私も気分が若返るねえ。」
部長は笑った。

私は、その時、プロジェクトのことを口にした。

--

吐き気がするのは、二日酔いのせいだけではない。

昨夜のおぞましいこと。

私自身が交換条件を出した形で、私の体を売った。

その日、私は課長に呼ばれた。新しいプロジェクトを任せる、と。そう言われた。異例のことだよ、とも。

--

社内では、その話で持ちきりになった。

皆、ひそひそと何か噂している。

ねえ。あの子、体で仕事を手に入れたんだってね。

きっとそう言われているに違いない。

頭を上げていなくては。決して、うつむいてはいけない。

--

サヤカだけが、素直に祝ってくれた。
「ユリ、やるじゃん。」

グラスを合わせる。

「ありがとう。」
「でもさ。すごいよね。」
「何が?」
「事業部長の相手って、結構大変なんでしょ?」
「大変って・・・?」
「いろいろ噂は聞くんだけどさあ・・・。あ。ごめん。」

サヤカが笑っている。サヤカまでが、笑っている。

私は、一緒に笑うしかなかった。こうなったら、笑って、笑って、私自身を笑い飛ばすしかなかった。

--

それから一年。

例のプロジェクトが終わるとすぐ、私は仕事を辞め、田舎に帰った。幼馴染と再会して、結婚。小さな商店を手伝っている。

サヤカはといえば、営業のイシカワさんとゴールインした。イシカワさんは順当に昇進し、同期では誰より早く課長に昇進した。くやしくないと言えば嘘になる。私は、サヤカに負けた。所詮、私は、女を武器にすることに関して、サヤカに負けたのだ。

それでも私は、分相応ということをわきまえている。

夫はやさしい。都会で傷付いた心に触れないように、気を遣ってくれている。来年には子供も生まれる。だから、私は幸福なのだ。きっと、幸福なのだ。誰が何と言おうと・・・。

それなのに、なぜ、私は泣いているのだろう。なぜ、サヤカからの写真付ハガキをビリビリに引き裂いて泣いているのだろう。


2004年10月12日(火) 誰かのために生きていれば、私の体は価値を持つ。だが、誰のためにも生きられないとなったら、私の肉体は如何程の価値があるだろう。

気が付けば体があちこち痛かったし、ところどころ擦りむいていた。

私は、ゆっくりと体を起こし、辺りを見回した。

いつの時代か。随分と昔。映像の中でしか見たことのないような場所。人が近付いて来る。知らない土地の言葉をまくしたてながら髭もじゃの男が大またで歩いてくる。

私は身をひそめる。

不安と恐怖で震えが止まらない。

--

私が愛すべき人は、一人だけの筈だった。身寄りのない幼かった私を養女にしてくれた男。研究に一生を捧げる孤独な男。私は、彼に拾われ、育てられながら、彼の研究を手伝った。私は、博士と二人きりの生活の中で自然と彼を愛した。彼しか知らなかったから。博士も、人と接することは上手くはなかったから、随分とゆっくりだった。笑顔を見せるようになったのも、私の肌に触れるようになったのも。

だが、もう一人の男が現れてからおかしくなった。博士のところに飛び込んで来た学生。彼の研究を知り、助手を志願して来たのだ。

博士は、随分と渋った。だが、その情熱に負けた。

私は、助手を好きになった。若い男性を見て、何か激しい感情に揺さぶられた。博士にはない、張り詰めた肌。いきいきとうねる黒髪。

最初は二人でしゃべるだけで楽しかった。博士も、息の詰まるような生活を心配してだろう。私と助手を外に遊びに行かせることもあった。だが、博士の目を盗んで会うようになるまでに時間は掛からなかった。若い、自分のわがままをぶつけるような愛情を、私は初めて経験した。私は、二人でどこか行きたかった。このまま博士と暮らすことが辛くて、何度か恋人に懇願した。ここを出ましょう、と。だが、恋人は首を振った。ここでの研究をもっと続けたい。きみは、博士の機嫌を損ねないよう、今まで通り、博士とも上手くやってくれ、と。

だが、ついに、博士は、私達の関係に気付いた。

そして、こう告げたのだ。
「お前達を、私の目の届かないところにやってしまおう。」
と。

博士は、時間と空間を移動する方法を研究していた。私達を過去の時代、遠い異国へ飛ばしてしまおうというのだった。

私は泣いていた。

博士が、最後の夜、私を呼んだ時もずっと。

「泣かないでくれ。」
博士は、その年老いた顔で私を寂しげに見つめた。

「ごめんなさい。私・・・。」
「分かるよ。お前には悪いことをした。だが、私は耐えられないのだ。お前を失うことが。いっそ、知らぬ場所で幸福になって欲しい。」

そして、博士は、私の手の平に何かそっと握らせた。
「いつか。心から愛する人と一緒に帰って来るがいい。この時代に戻ってくるスイッチだ。二人の人間しか連れてこれない。チャンスは一度だけだよ。」

私は、涙に濡れた顔を上げた。

「今の私は嫉妬に狂っている。お前が愛する男と、お前とは、ずっと離れた場所に飛ばしてしまう予定だ。だが、お前達が本当に愛し合っているなら、きっと会えるだろう。」

--

思えば、幼い頃から博士がいた。抱き締めてくれることは滅多になかったけれど、一人きりで置き去りにされたこともなかった。いつだって、そばにいてくれた。

本当に一人になってしまうということは、何と不安なことだろう。

私は、震える手で、ポケットの中の、元の場所に戻れるスイッチをまさぐる。幾枚かの紙幣にも気付く。博士が入れてくれていたのだ。

愛する人はどこ?

私は、痛む足を引きずって、外にふらふらと歩いて出た。

人々が私をじっと見つめる。当然だ。奇妙な服。奇妙な髪型。彼らにはそう見えるだろう。

私は、涙をこらえ、一夜の宿を求めるために歩く。

--

手持ちのお金はすぐ尽きた。

何とか、身振り手振りで頼み込み、仕事をもらいながら旅をした。

私と同じ、黒い髪、黒い瞳の異国人を探して歩き回った。

だが、もう、疲れ果て、先に進めない。

恋人も私を探してくれているだろうか。

私は、もう、どうでもよくなっていた。このまま一人、元の時代に戻っても、私は博士のところにはいられない。

私は、自分の体を売ろうと思った。

誰かのために生きていれば、私の体は価値を持つ。

だが、誰のためにも生きられないとなったら、私の肉体は如何程の価値があるだろう。

幸い、異国の女は高く売れる。

私は、顔を隠し、豊かな黒髪を垂らして、路上にたたずむ。

男が来た。若い男。
「今晩、お前を買ってもいいか?」

私は顔を上げた。私のよく知る言葉で話す、黒髪の男がいた。

探していた人が、そこに立っていた。

彼も驚いていた。

--

その晩、私達は、抱き合ったまま、尽きぬ苦労話で一晩過ごした。

私は、もう何もかも捨ててしまいたいと、体を売ることを決めた。彼は、私の黒髪を見て、なつかしさのあまり声を掛けた。

「探してたのよ。ずっと。」
私は、泣いた。

私達は結婚した。

やっと幸福になれると思った。

一年が過ぎた頃、私達は三人になっていた。黒い髪が豊かな可愛い赤ちゃん。

だが、夫は荒れていた。元の研究がしたいと、酒を飲むようになっていた。

私は、あの、スイッチのことは黙っていたのだ。今更、博士の顔を見られるとも思っていなかった私は、愛する人と一緒ならどこでだって幸福だと信じていた。

だが、夫にとっては、違うのだった。今の生活を呪い、私と一緒にいるだけでは幸福になれないようだった。

私は、赤ん坊と二人、夫が酒を飲んで暴れる時は身を隠すようになった。

ある日。

夫が、昼間から見知らぬ女と歩いている様子を見つけた時、私は、大声で泣き出した。それから、家に戻り、眠っていた子供を抱き、あのスイッチを押した。

二人だけ戻れるの。

私は、つぶやいた。

後を追いかけて来た夫の前で、私と子供が姿を消す瞬間、彼の怖ろしい罵り声が聞こえて来た。

--

元の場所だった。

殺風景だが、愛に溢れていた。博士が愛した場所。

誰もいないの?

私は、赤ん坊を抱いて、かつての私の部屋を訪れた。そこは、変わらなかった。

私は急に心配になって、博士の部屋へと向かった。

書籍で溢れかえったその部屋のベッドで、なつかしい顔が目を閉じて横たわっていた。

博士だった。

死んだのかしら?

私は、慌てた。

その瞬間、赤ん坊が泣き出した。

博士が目を開けた。
「帰って来たのか。」
「ええ。」
「痩せたな。」
「少し。」
「ここへ来て、顔をよく見せておくれ。」

私は、赤ん坊を博士によく見えるように差し出した。

「お前に似てる。」
「そうですわ。」

博士は、言った。
「眠っていた。お前の夢を見た。ここに戻って来る夢。これも夢か。」
「いいえ。いいえ。本当ですわ。」
「なら、いい。」

博士は、微笑んだ。

「二人で帰って来たんだな。」
「そうです。」

愛する者が、もう一人増えた。と。

博士は嬉しそうに言った。


2004年10月08日(金) 一人ではいられない人だった。私も、彼にしがみつく。彼の指が少々乱暴に私の乳首をまさぐるから、私は悲鳴を上げる。

妙に緊張した面持ちで言った。
「結婚しよう。」

結婚?

私は驚いて何も言えない。

「ああ。結婚だ。」
「だって、奥様が・・・。」
「離婚するよ。」

彼は少し険しい顔。

「駄目よ。」
私は首を振る。

「いつまでもこんな風に隠れて付き合うのは嫌なんだ。」
「私もそうだけど・・・。」

社長と秘書が不倫するなんて、よくある話だ。まだ彼は40を少し過ぎたばかり。私と結婚したところで、いずれまた浮気をするだろう。私達は遊び。結婚なんて・・・。

なのに、私は泣いていた。涙が次々溢れた。
「本当なのね?」
「ああ。本当だよ。」

気持ちを抑えて3年。先のない付き合いだと思っていた。

「少しだけ時間がかかると思うけど、待ってくれるかい?」
「ええ・・・。もちろん。」

私達は、唇を重ねた。

--

私達は上手くやっていたと思う。

誰にもばれないようにしてきた。

正直にいって、彼はとてもハンサムだった。それに比べて、私は地味で、秘書室勤務のスタッフの中でも一番目立たないぐらいだ。

だから驚いた。最初に抱かれた時は、彼の気まぐれだと思った。だが、彼は私を大切にしてくれた。

私と社長との関係を知られれば、私は勤めを続けられなくなるだろう。

だから、彼はとても慎重だった。電話もメールも手紙もなし。ただ、彼の肌のぬくもりだけを信じて、3年間を捧げて来た。

--

「もう少し時間がかかりそうだ。妻とは毎晩話し合ってるんだが・・・。」
彼は、疲れたようにつぶやいた。

「無理しないで。」
「ああ。」
「ねえ・・・。」
「ん?」
「あのね。こんなこと訊いて怒らないで。奥様って、どんな方?」
「妻か・・・。派手な女だ。」
「私と正反対ね・・・。」
「気になるのか?」
「そりゃ・・・。気にならないといったら嘘になるわ。」
「妻との間には子供もいない。資産も随分持ってる。彼女は、一人でだってやれる女さ。」
「もう一つだけ。教えて。」
「ああ。いいよ。」
「前にもこんなことがあったって。噂で聞いたわ。あなたが、浮気をして。離婚寸前までいったって。」
「・・・。」
「怒らないで。」
「ああ。そうだ。確かにあったよ。」
「ごめんなさい・・・。噂なんか信じて。」
「いいんだ。不安なんだろう?分かるさ。」
「・・・。」
「結局、僕が捨てられたんだよ。妻は離婚を承諾したんだ。だが、女のほうが行ってしまった。」
「・・・。」
「これでいいかい?」

彼は、哀しい瞳をしているように見えた。

「ごめんね。」
私は、涙が止まらなくなった。

「また、泣く。」
彼は、私を抱き締めた。

「浮気している男が言うと陳腐な台詞だけどさ。僕を信じてくれよ。」

私は、彼の胸に顔を当てたままうなずく。

--

彼は、ネクタイを緩めながら言う。
「妻がきみに会いたいってさ。」
「え?」
「きみに会うことが離婚の条件だそうだ。」

私は、彼の奥さんのことを想像してみる。指にたくさん指輪をはめた、化粧の濃い女。

「会えばいいのね。」
「ああ。そうだ。会うだけでいいそうだ。」
「分かったわ。」

彼は、憂鬱そうな顔。

「大丈夫よ。私、何を言われても平気。」
「そうじゃなくて・・・。」
「じゃあ、何が心配なの?」
「ともかく、妻とはあまり長い時間一緒にいないほうがいい。」
「分かったわ。」

彼は、私を抱き締めて、何度も何度も口付ける。ねえ。痛いよ。骨が折れちゃうよ。私、どこにもいかないから。

なのに、彼は、私がどこかに飛んでしまうかもしれない小鳥のように、腕にしっかりと抱きかかえるのだった。

彼だって不安なんだろう。職場では厳し過ぎる上司だったが、素顔は一人ではいられない人だった。

私も、彼にしがみつく。彼の指が少々乱暴に私の乳首をまさぐるから、私は悲鳴を上げる。

--

彼の奥さんと会う日。私は、いつもより少しだけはっきりと化粧をした。気持ちで負けたくないと思った。

彼には、話が終わったら電話を入れるようになっている。

都内のホテルの一室で、私の心臓は破裂しそうだ。

大丈夫。私には、若さと、それから彼の愛があるから。

その時、彼女が入って来た。

「待たせたかしら。」
かすれた声。ささやくような、セクシーな声。

見ると、そこには美しい女。

艶やかな黒髪がウェイブし、白い肩にかかっている。

化粧は薄く、ぷっくりとした唇にはグロスだけ。

「今日は、無理を言ってごめんなさいね。」
彼女は微笑んだ。

「いえ・・・。あの・・・。」
こんなに美しい人とは思わなかったから、緊張して話せない。

「リラックスしてちょうだい。別に、取って食べたりしやしないから。」
「ええ・・・。」
「会ってみたかった。それだけよ。それぐらいいいでしょう?10年も一緒にいた人がどんな女性を選んだのか、見たいって思うぐらい。」
「あの・・・。ごめんなさい。私・・・。あの・・・。そんなつもりじゃなくて。」
「分かってるわ。」

彼女の豊かな胸が、洋服越しにも分かる。女だって、その柔らかな胸に触れてみたいと思うぐらい、形のいいバスト。それから、肌は白くて、血管が透けて見えるぐらいで。なんていやらしいのだろう。服を着て、体を覆っていても、彼女の体は魅惑的で、女の私ですら興奮するぐらいだ。女性に興奮したことなど、生涯で初めてのことで、私は戸惑う。

「楽にしてちょうだい。」
彼女は、ベッドに腰を下ろした。

「あの・・・。辛いですか?」
なんてひどい質問。

「離婚がってことかしら?」
「ええ。」
「どうかしら。離婚なんて言い出されたのは、初めてじゃないし。あら。ごめんなさいね。あなたを傷付けるつもりはないの。ただ。男の人って。ねえ。遊ぶことぐらいはあると思ってたから。それで責めたことはないのよ。」
「平気なの?」
「平気?まさか。愛っていうのとは違うけれどね。彼、もう、弟みたいなものよ。でも、女としてはどうかしら。どんな人を選んだのかって、興味あるわ。」

彼女が、ゆっくりと言葉を選びながらしゃべる様子を、私は息苦しくなって正視できない。

彼女がこちらを真っ直ぐ見ると、顔をそらさずにはいられない。

女として。

そうだ。正妻と愛人という立場を除いても、私はこの女性と真っ向から闘う気など持てない。

「ねえ。あなたこそ。あの人でいいの?」
「・・・。」
「正直に言ってちょうだいね。」
「愛してます。」
「そう、良かったわ。あの人をお願いね。」

彼女は、私に近寄り、腕にそっと触れた。いい匂いがした。

その肌に触りたいと思った。

--

「遅かったな。心配したよ。」

やっと彼に電話できたのは、明け方だった。

「ねえ。私、あなたとは結婚できないわ。」
「どうして?」
「だって。ねえ。あんな綺麗な人だとは思わなかった。」
「それと、僕達のことと、どう関係があるんだよ?」
「あるわよ。大ありよ。」
「分からないな・・・。」
「あんな綺麗な人と比べられるのよ?この先、ずっと。あの人には勝てっこないわ。」
「どういうことだよ?何かあったのか?」
「何もないわ。何にも。」

私は、ただ、打ちのめされていた。彼女の美しさに圧倒され、深い敗北感を感じていた。私は怖かったのだ。彼と結婚したら、生涯、彼女の美貌という亡霊に付きまとわれてしまうことが。私は、問い続けることになる。どうして、あんな美しい人を捨てて私を選んだの?彼に問い続けて、結局は、彼をうんざりさせてしまうにちがいないのだ。

その圧倒的な美にあっさりと降伏するとともに、私は、彼への激しい感情を吹き飛ばされてしまったのを感じていた。その妻の、夫に対する妙に冷静な感情を見た時、私はとても恥ずかしくなってしまったのだ。

「はは・・・。そうか。前もそうだよ。いつだってこうなんだ。妻に会わせると、こうなる。なんなんだよ。」
彼は、電話口でわめいている。

子供のようにわめいている声が響く携帯電話を、そっと耳から離す。


2004年10月07日(木) 私の舌に触れた時は、頭がおかしくなるかと思った。そのまま、私は、自分からマサヨシの体の上に乗ったの。

彼女は始終震えていた。

「義姉さん、疲れたろう。少し休んだら?」
僕が言っても、彼女は首を振るばかりだった。

色白の彼女の喪服姿は、ぞっとするほど美しかった。後れ毛が行く筋か顔にかかって影を作っているのさえ。親戚が皆、帰って行った後、僕らは二人きりだった。

「あなたこそ、疲れたでしょう。私はいいの。一人にしておいて。」
「そうはいかない。」

僕は、ふらつく彼女の肩を抱いて隣室に連れ出すと、ソファに座らせた。
「兄貴だけじゃなく、義姉さんまで亡くしたくはないからさ。コーヒーでも持ってくるよ。」

だが、彼女にはコーヒーでは駄目だと気付き、ブランデーのグラスを二つ用意した。

「なんで世話を焼くの?」
「兄貴の遺言でね。義姉さんが落ち着くまでは帰らないつもりさ。」

彼女の手にグラスを持たせると、自分のグラスをカチリと当てた。

グラスを何度か空にしたところで、ようやく彼女は落ち着いたようだ。

「分かったわ。好きにしなさいよ。」
彼女の目は、トロリと遠くを見ていた。

「あの人、とうとう逃げ出したのね。私の手の届かないところに。」
「逃げた?」
「ええ。そう。分かってるでしょう?あの人が私のことなんか、ちっとも好きじゃなかったってこと。」

そういって、彼女はゆっくりと話し出した。

--

私とカヨはずっと親友同士だった。小学校の頃から。カヨが隣に引っ越して来た日から、毎日遊んだわ。高校の時、カヨがマサヨシと付き合いだしてから、私とカヨは前ほどには仲良くはできなくなってたけどね。

マサヨシは陸上部だった。毎日毎日、グランドで練習する彼を、カヨと一緒に見てたっけ。

私も、マサヨシが好きだった。だけど、カヨのほうが明るくて、スポーツも得意で、マサヨシとはお似合いだと思ってたから、私は我慢したの。

結局、何かとマサヨシを入れた三人で行動したがるカヨのことが嫌で、私、別の大学に入ったのね。しばらくはカヨのこともマサヨシのことも忘れていた。

だけど、就職してから、偶然カヨに街で会ってね。隣にはマサヨシが立ってた。相変わらず素敵だったわ。結婚するって聞かされた。ショックだったわよ。忘れたと思ってた傷がジクジクと痛み出した感じ。

それで、あることを思いついたの。私と、カヨと、マサヨシの三人での旅行。カヨはもちろん、喜んでオーケーしたわ。東北のほうの小さな旅館で、カヨと私が一緒の部屋でね。カヨ、随分楽しかったのか、お酒飲み過ぎてね。部屋でイビキまでかいて寝ちゃった。私は、カヨが完全に寝てるのを確かめて、マサヨシの部屋に行ったの。マサヨシは、暗闇で、私とカヨを間違えた。まさか本当に上手く行くとは思わなかったわ。マサヨシは、途中まで私をカヨと間違えて抱いて来た。私とカヨ、結構、背格好が似てるのよね。マサヨシの舌が私の舌に触れた時は、頭がおかしくなるかと思った。そのまま、私は、自分からマサヨシの体の上に乗ったの。彼、途中でおかしいと気付いたみたいで、急に冷静な声で、カヨ?、なんて言うから。私、違うわって言った。

明かりを点けた部屋で、私はずっと泣いた。

次の日も、ずっと泣いてたから。カヨも何があったのか分かったみたいね。

マサヨシは何も弁解しなかった。

それで、カヨとマサヨシはおしまい。私は、泣いて泣いて、結局、マサヨシに責任を取るように詰め寄ったの。

怖い話よね。

結婚してからもずっと不安だった。泣いて頼んで、やっと結婚してもらったんだもの。いつか、本当に好きにさせてやるって思ってた。でも、私は知ってたわ。マサヨシが私に隠れてカヨと連絡取り合ってたこと。

だからね。カヨが結婚した時は本当に嬉しかった。これでもう、マサヨシはカヨとこそこそすることはないって思った。これでやっと幸せになれるってね。そう思ったの。

でも、そうじゃなかったんだな。私と彼の間に子供でもいたら良かった。でも、結局はできなかったのね。不妊治療にも付き合わせたわ。私を愛してないから子供ができないんだって、随分マサヨシにわがまま言った。

今思えば、わがままを言うことで愛を確かめてたのね。そのうち本心が出て、私と別れたがるっていうんじゃないかしらってね。だけど、彼、いつだってわがままを聞いてくれてた。それが余計に悲しかった。

結局、子供ができないって分かった時は、私は半狂乱になったわ。カヨのほうが後から結婚したくせに、あっという間に子供を作っちゃって。随分と不愉快だったわ。マサヨシさんにも、早く赤ちゃんを抱かせてあげたかった。彼、子供好きだもの。

五年経っても、子供はできなかった。

私、そのうち、彼を殺すんじゃないかと思うようになったの。彼のことがどうしても信じられなかった。残業で遅くなった時も、仕事の関係でお酒を飲んで帰る時も、いつだって、彼がどこで何をしているか知りたくて、携帯を持ってもらって電話ばかりかけてた。それでも、彼のことが信じきれなくて。いっそ、一緒に死のうとか。そんなことばかり思うようになったの。あの人を殺せば、完全に私のものになるって。最近じゃ、そんなことばかり思ってたわ。

その矢先よね。

交通事故で死んじゃうなんて。それも、ハンドル切り損なって、自分から電信柱にぶつかっちゃうなんて。

どうかしてるわ。

--

「あの人、きっと私から逃げ出したのね。」
そう言って、彼女は、あはは、と笑った。

僕は、そんな義姉に言った。
「兄貴、義姉さんのこと心配してたよ。」
「心配?」
「ああ。あんな風にしてしまったのは自分だって。」
「同情されてたのね。」
「同情・・・。いや。もっと違う感情。いつだって、心配してた。」
「うんざりだったのよ。私に付きまとわれて。」
「手紙が来たんだ。」
「いつ?」
「事故のちょっと前。」
「なんて?」
「このままだと、彼女が犯罪者になってしまうかもしれないって。そんな可哀想なことできないって。」
「うそ。」
「本当だ。事故なら、保険金が出るとも書いてあった。」
「嘘よ。嘘。心配しててくれたのなら、どうして一人で行ってしまったの?私が一人じゃ生きられないってこと知ってるくせに。」
「僕に付いていてやるように、書いてあった。落ち着くまではどうなるか分からないからって。」
「そんなこと・・・。馬鹿よ。いなくなってしまったら、駄目じゃない。心配なんて、そんな・・・。」
「兄貴、本当に義姉さんのこと、愛してだんだよ。」

僕は、彼女が泣き叫ぶそばで何もしてやることはできなかった。

夜通し泣いて、朝が来て。

フラフラと彼女は立ち上がった。目を離すと、僕の後を追うかもしれないからと。兄が書いた手紙の内容を思い出す。僕じゃ、駄目だったんだ、とも。彼女を幸福にしてやれなかった、とも。

頼むよ、って書いてあった。

なあ。兄貴、俺、何を頼まれたらいいんだよ?

「どこ行くの?」
僕は、訊ねる。

「分からないわ。」
彼女はぼんやりした声で。

「義姉さん。」
「・・・。」
「兄貴が高ニで、僕が中三。兄貴と同じ陸上部に入りたくて、高校に見学に行ってた時、一人の女の子がいたんだ。グランドの隅で、兄貴が走るのを、ただじっと、キラキラした目で追いかけてた。夕日が落ちて来て、グランドには、兄貴と、その女の子だけで。いつまでも、いつまでも。僕、その女の子は最高に綺麗だと思った。あの日、僕は恋に落ちたんだ。」
「何が言いたいの?」
「僕には、あの日の女の子は、あの日のまま心に焼き付いて。いつか僕にも、あんな風に恋してくれたらいいなって思って・・・。」

僕は、彼女を後ろから抱き締める。

そうやって見てるだけで幸福だったんだよ。

彼女の幸福が、僕の幸福だったんだよ。

細く震える肩に、そうつぶやく。


2004年10月05日(火) 気付いているのか。無邪気に僕に体を寄せてくるから。ああ。僕の気持ちは昂ぶってしょうがない。

母が初めて妹を連れて来た時、僕はそれを奇妙な奴だと思った。

オオカミにしては長い耳。前歯ばかりが大きい。爪もない。

幼い弟を亡くしたばかりで、母はかなりまいっていた。だからその動物の赤ん坊を、弟が姿を変えて戻って来てくれたのだと思ってしまったようだ。

僕らが住んでいたのは閉ざされたオオカミの村で、ウサギなんて見たこともなかった。

だから、母と僕は、その奇妙な生き物を、オオカミとして、妹として、家族に迎え入れることにした。

--

妹は、肉を好まず、体も小さかった。見た目も変だったから、小学校に上がってからはいじめられてばかりだった。僕は悪い兄だ。妹がいじめられているのを知りながら、知らん顔をしていた。見かねた同級生が妹をかばってくれることもあった。

恥ずかしかったのだ。妹と仲良くしてるなんて、友達にバレたら。

家に帰ると、僕らはよく遊んだ。

妹には友達があまりいなかったから、僕が唯一の遊び相手だった。

お兄ちゃんお兄ちゃん、と、僕にまとわりついていた。

小さい頃はそれが鬱陶しかったのだが、大きくなるにつれて強く惹かれる気持ちのほうが強くなっていった。

僕が小学校6年、妹が4年ぐらいの頃だろうか。いつも僕の前では明るい妹がポツリと言った。
「お兄ちゃん、どうして私だけ違うのかな。」
「違うって?何が?」
「耳が長い。歯も爪も、違うわ。」
「なんだ、そんなこと気にしてんのか?」
「うん・・・。」
「そんなこと、気にすんなよ。お兄ちゃんは、お前のこと可愛いと思うぜ。」
「ほんと?」
「ああ。本当だ。」
「ならいい。お兄ちゃんが可愛いって思ってくれるんなら、他の人がどう思っててもいいや。」
「そうか。」

妹は僕に飛びついた。妹の耳が僕の鼻をくすぐった。その時、初めてだった。何か奇妙な気分になったのは。

--

僕は、中学生になった。妹は、相変わらず友達が少なかった。だが、いじめは少しずつ減っていった。そのしなやかな体が成熟していく過程で、同級生達は、異端の者を嫌うというよりは、どこか心惹かれるものを感じたのだと思う。僕が感じたのと同じような。妹は、本当に美しくなった。

だが、相変わらず、僕と二人の時はとても子供っぽいのだ。

家に帰ると、カバンを放り出して僕の部屋に入って来る。

「なんだよ。ノックぐらいしろって。」
「いいじゃん。」

僕が勉強してようものなら、ふざけて僕の邪魔をしてくる。

僕が怒ったふりをして妹にとびかかると、きゃあきゃあ言って逃げ回る。

その日も、そんな風にはしゃいでいただけだったのだ。

だが、いつもと違ったのはそれからだった。僕のするどい爪が妹の頬に触れ、妹の柔らかな肌が傷付いてしまった。
「っつ!」
「ごめん。」

僕は慌てて、妹の頬から流れる血に口をあてた。その時だ。体を甘美な感触が包んだ。僕の動きが一瞬止まった。

「お兄ちゃん?」
「あ?ああ・・・。ごめん。ほんと。」
「いいよ。気にしないで。」

妹は頬を押さえて、平気だよと微笑んでみせた。

妹が部屋に戻ってからも、僕は、妹の感触を、手の中に、触れた爪に、思い出していた。それから、血の味も。

--

その日を境に、僕らの関係は、ほんの少し変わった。だが、妹は相変わらず僕に甘えてくるから。僕は、誘惑に負けてしまう。時折、ふざけたふりをして、妹の耳を噛む。頬を、腕を。ふざけたふりをして。

妹は気付かないのか。気付いているのか。無邪気に僕に体を寄せてくるから。ああ。僕の気持ちは昂ぶってしょうがない。

--

僕のクラスに転校生が来た。

銀色の毛をしていた。

クラスの誰よりも体が大きく、大人びていた。

僕は、彼とすぐ仲良くなった。

体育の時間に着替えているのを見たら、彼の背中に大きな傷跡があった。

後で聞くと、幼い頃に負った傷だという。彼は、一人でこの村にやってきた。両親を亡くしてからは一人で生きて来たと教えてくれた。僕はちょっぴり恥ずかしかった。父はいなかったが、母と妹と、ぬくぬくと暮らしていたから。

「今度、僕んちに遊びに来いよ。母の料理はうまいんだぜ。」
僕は誘った。

彼は、うなずいた。

--

初めて妹を見た友人は、何か奇妙な声をもらした。

「はじめまして。」
妹は、恥ずかしそうに僕に隠れた。

「はじめまして。きみの事は、よくこいつから聞かせてもらってるよ。」
と、友人は微笑んだ。

その夜、食事を終えて友人が僕の部屋に来た時、彼はうめくように言った。
「きみの妹ってさ・・・。」
「なに?変か?」
「ああ。ちょっと変わってるな。」
「そうだ。本当には血が繋がってないんだよ。」
「当たり前だ。彼女は、ウサギだよ。」
「ウサギって?何?」
「知らないのか。」
「うん。」
「耳の長い、足の速い動物だよ。」
「そうか・・・。」
「でも、大事な妹なんだろ?」
「ああ。すごく。」
「なら、可愛がってやれよ。」

友人は、そのまま話題を変え、僕らは他のことを語り合って一晩中を過ごした。

--

「お兄ちゃん。なんだか、あの人怖いね。」
「怖い?」
「うん。私を見る目がなんだか、ぎらぎらしてた。」
「あいつは、いろいろ苦労してるからなあ。他のやつらとは全然違うんだよ。でも、すごいやつさ。」

それから、少し不安そうにしている妹を抱き締めて、少し強く肌を噛んだ。最近では、僕の欲望はエスカレートしていて、妹が何も言わないのをいいことに、妹の肌の見えないところに傷さえつけるようになった。

その日もそうやって、ふざけて。

気付くと、妹が泣いていた。僕の口の中には、彼女の体の一部の小さな肉片があった。

「ごめん。やり過ぎた?」

妹は無言でうなずいた。

それから、妹は泣きながら僕の部屋を出て行ってしまった。

僕は、呆然としながら。それでも、口の中の肉片を味わい、恍惚としていた。

肉親を食っちゃいけない。そんなの、どんな飢えたオオカミだって知っている。だが、僕は、このままだとあいつを食ってしまうかもしれない。僕の歯が妹の柔らかな腹を割き、熱い内臓をむさぼるところを想像し、僕は気が変になりそうだった。

--

妹は、その日、夜遅くに家を出た。

僕には、ごめんなさい、とだけ書いた手紙が置かれていた。

僕は、半狂乱になって妹を探した。一週間、学校を休んだ。

母も悲しんでいたが、どこか冷ややかな表情で、
「もう、放っておきましょう。」
と言った。

--

何とか学校に戻った頃、放課後の教室で、友人は転校すると告げた。

「転校?」
「ああ。」
「せっかく友達になったのにな。」
「そうだな。残念だ。」
「また遊びに来てくれよ。母も、きみが来てくれると喜ぶ。」
「うん。」

友人は、僕から目をそらし、言った。
「妹さんのこと、残念だったな。」
「ああ。」

それから、少し沈黙が続いた。

「じゃあ、僕は帰る。」
友人は、口を開いた。

「なあ。」
僕は言った。

「ん?」
「ウサギってさ。美味いのか。」
「ウサギか。僕はあんまり好物じゃなかったな。」

それから、友人は教室を出て行った。

--

何年も経って、僕と友人は再会した。

お互いにいい歳だったが、友人は、ひどく老け込んでいた。

「会えて嬉しいよ。」
僕は言った。

「僕もだ。」
友人も言った。

それから、何かしゃべったが、彼が言う言葉はほとんど聞き取れなかった。

友人は、アルコールと薬で、死人のようだった。

僕は本当は、会ったら彼を殴るつもりでいた。

妹を食っただろう?ってさ。

だけど、こんなやつ、殴ったってしょうがない。

妹は、どっちが良かったのだろう?本当は、僕に食われたかったんじゃないか。そんなことを、この何年もの間、考え続けていた。

いずれにしても、あの晩、妹はこいつの部屋に行った。

最後に、ようやくやつの言葉が聞き取れた。
「女ってのはさ。少々痛くっても、好きな男のやることは拒めないものさ。お兄ちゃんのことが好きだから、って、泣いてたよ。」
と。

すっかり弱っていると思ったが、やつは僕の隙を突いて殴って来た。何度も何度も殴って来た。

逃げようと思えば逃げられるのに、僕は、殴られるままになっていた。


2004年10月04日(月) 隙のない服装。この女が誰かと寝るところなど、想像できるだろうか?つい、口にしてしまった。「いい加減、男を見つけろよ。」

美人ではないが、いい女だと思った。

中小企業の二代目が集うくだらないパーティでのことだ。彼女は彼女が勤める会社のボスの代理だった。昼間からゴルフばかりしているような男達の中で、必死で名刺交換をし、まともに話をしようとしていた。が、多くのやつらは、彼女からの質問をはぐらかし、違う話に持っていってしまう。

ぐったり疲れて、部屋の隅で水割りを飲んでいる彼女に声を掛けた。
「こんな集まり、疲れるだけだろう?」
「仕事ですから。」
「お前さんのボスがここに来てたって、あいつらと変わらないことをやるさ。」
「でも、私はボスじゃありません。」
「分かった、分かった。」
「あなたも一緒なんですか?」
「僕?さあねえ。多分一緒じゃないかな。」

彼女は確かに疲れていたが、同時に瞳をキラキラさせていた。彼女はまだあきらめていない。そんな女と、二人になりたかった。退屈じゃない会話をして、笑い合いたかった。だから、誘った。

彼女はしばらく考えて、うなずいた。
「もうちょっと話をしなくてはいけない人達がいますから、それが終わってからでも良ければ。」

もちろん、いつまでだって待つつもりだった。

その日の唯一の収穫は彼女だった。

--

やっと二人になれた時、彼女は更に疲れていた。
「ごめんなさい。あんまりしゃべると頭が痛くなっちゃうんです。」
「分かるよ。そうでなくても、頭が痛くなる集まりさ。」

それから、話をした。女とビジネスの話をするのは久しぶりだった。主に、彼女がいろいろと訊いて来た。答えられる質問と答えられない質問があった。彼女の最大の勘違いは、全てに「正しい」答えがあると思っているところだ。

僕は、適当なところで彼女の質問をさえぎり、彼女のプライベートに関する話題に持ち込もうとした。だが、彼女はそれをやんわりとそらし、仕事の話ばかりするのだ。

しびれを切らした僕は、彼女の腰に手をまわした。

彼女は、そっとその手をほどき、丁寧に礼を言うと店を出て行った。

手元に残ったのは、堅苦しい肩書きのついた名刺だけだった。

--

それからは、仕事にかこつけて、彼女を誘った。何度か断られた挙句、やっとのことでデートにこぎつけた。もっとも、彼女はデートだなんて思ってない。ビジネスの延長だと思っている。

適当な嘘をまぜながら、彼女の真摯さを肴に酒を飲む僕がいた。

この前と同じように、あれやこれやと業界の噂話をしていた彼女は、ふと言葉を切った。

「ねえ・・・。」
「ん?何?」
「あなたって、手当たり次第に女の子と寝てるって本当?」
「誰が言ってた?」
「いろんな人。」
「噂が立ってんだな。」
「本当なの?」
「どうかな。」
「女という女とは、誰でも口説いて寝るって。」
「誰でもってわけじゃない。」
「じゃあ、噂は嘘なのね?くやしくないの?」
「嘘ってほどでもないし。第一、噂ってのは、いい噂でも悪い噂でもありがたいもんだ。無関心が一番良くない。」
「じゃあ、放っておくの?」
「ああ。そうさ。」
「分からないわ。」
「そうか。」

僕は、その時、微笑んでいたと思う。彼女が僕の噂を気に留めていてくれたことに。

「そろそろ場所を変えないか?」
「もう帰るわ。明日は、朝早くからボスと出張なの。」
「くだらないことを訊くけどさ。きみ、ボスと寝た?」
「ボスと?まさか。」
「ならいい。」
「仮に寝てたとしても、あなたには言わないけどね。」
「口が堅いってのはいいことだ。女に関する悩みの大半は、彼女達の口の軽さだからな。」

彼女は冷ややかな表情で伝票を手にした。

この前は払ってもらったから、今度は自分が払うという。

本当に可愛げのない女だ。

--

そんな風に、彼女とは続いた。

三年経って、彼女は会社を辞めたと言って、僕を呼び出した。

「おめでとう。」
僕は、言った。

「なんでおめでたいの?」
「自分の力を試す時が来たってことだろう?あんなボスの下でいるには、もったいなさ過ぎだ。」
「そんな格好いいもんじゃないけどね。」
「で?いくら出資させてくれる?」
「そんなこと頼みに来たんじゃないわ。」
「じゃあ、なんで呼んだの?」
「これからは、ライバル同士だなって思って。」
「そうか・・・。手ごわいな。」
「今まではあなたに甘えてたわ。何でも訊いてた。でも、そういうわけにもいかないわよね。」
「そんな風に堅苦しく考えなくても・・・。」
「だって、それが私なんですもの。」

相変わらず、隙のない服装。この女が誰かと寝るところなど、想像できるだろうか?

それをつい、口にしてしまった。
「いい加減、男を見つけろよ。」
「うるさいわね。放っておいて。そんな余裕ないわ。」
「けど、潤いってもんが必要だろ。」
「あなたとは違うわ。」

彼女はすっかり怒ってしまった。

それぐらいの軽口、うまく流せなくちゃこれからやってけないぜ。

僕は言おうとして、彼女の目尻が小さく光ったのを見た。

--

相変わらず、僕は、幾人もの女と。

結婚にだけは捕まらないよう、気をつけながら。

彼女と出会ったのは、意外な場所だった。僕らみたいな人間が人目を避けて楽しむために出掛けるようなちょっとしたリゾート地で、僕らは再会した。僕も、彼女も、お相手を連れていた。

実を言うと、ちょっとしたショックだった。

彼女の相手はあきらかに彼女より若く、彼女はとても幸福そうだったから。

「やあ。」
僕は言った。

「あら、偶然ね。」
彼女も微笑んだ。

その目が光った。挑戦的な目だ。僕に以前言われたことが気に障っていたのだろう。ほらね、私だって男ぐらい作れるのよ、と。そんな目をしていた。

僕らは、そのまま何も言わずに別れた。

--

彼女の仕事が成功していただけに、彼女と年下の部下とのスキャンダルは、結構な話題となっていた。

時折、見かける彼女はひどく憔悴していた。

彼女にしたら随分と投資のかかる恋だったのだろう。

少し化粧が濃くなって、少しアルコールが過ぎていたようだった。

--

彼女が自らの手でスキャンダルに終止符を打つのに、五年の歳月が掛かった。

久しぶりに会った彼女はすかり痩せていた。

「まだ会ってくれるとは思わなかったわ。」
彼女は、僕を素通りして、どこか遠くを見ていた。

「まさか。だって、友達だろう?」
「ええ。そうね。でも、男の人って、私みたいなのを友達って言わないのかと思ってた。」
「僕は違うよ。」

そうだ。僕は違う。

なあ、気付いてくれ。僕は、「違う」。

これが最大級の口説き文句だってこと。

「ねえ。あなたも知ってるんでしょう?私のみっともない恋のこと。」
「ああ。ちょっとだけね。」
「笑ってるんでしょ。」
「笑ってなんかない。」
「もう、立ち直れないかと思った。仕事もめちゃくちゃで。お金も、ほとんど彼に遣ってしまった。何も残ってなくて。」
「仕事があるだろう?」
「ええ。仕事だけ。結局、仕事が私を救ってくれたの。」
「仕事で恋の痛手は癒せないよ。」
「でも、もう、仕事しかないの。あんなことがあっても付いて来てくれる人もいるしね。」
「恋はいいよ。」
「もううんざり。恋だけは、二度としないわ。」

彼女は、きっぱりと言った。

深い深い傷跡が見えた。こんな彼女を一人にしておくわけにはいかない。

もう、初めて会ってから十五年が経とうとしている。お互い、いい歳だ。

「なあ。結婚しないか。」
僕は、言った。

「なあに?どういう意味?ねえ。それ。同情?」
彼女は、声を荒げた。

「怒らないでくれよ。」
僕は弱々しく言った。

「あなたが私を女として見てないってのは分かってるの。多分、誰にとっても、私って付き合うには最悪の女じゃない?」
「まさか。僕はそうは思わない。きみがそう思い込んでるだけだろう?」
「結局、私達みたいな人種は、仕事と寝るしかないのよ。」
「それだけじゃ、駄目だ。少なくとも僕には。」
「あら。一緒にしちゃってごめんなさい。そうね。あなたは違うわ。女が必要だものね。」
「きみにも必要だと思う。」
「いいえ。必要ない。」
「なら、なんで、こんな時、僕を呼び出した?」
「それは・・・。あなたしかいなかったから。」
「僕しか。そうだな。この十五年、きみのそばにいた男はそう多くない筈だ。」
「うぬぼれないで。」
「うぬぼれてなんかない。」
「笑ってんでしょ。もてない女だって。」
「そうじゃない。」

僕は、手にしたハイボールを飲み干して言った。

「結婚して欲しいんだ。ずっとそうだった。何年も掛かった。ずっと言わずに人生が終わってもかまわないと思ってた。言うべき時が来るまで言っちゃいけない言葉だと思ってた。」

彼女のグラスを持った手は震えていた。

「弱ってる時に言うべき時じゃないかもしれないけど、こんな時じゃなきゃ、こんな台詞言わせてくれないだろう?」
僕の声も、震えていた。

「随分と気が長いのね。」
彼女の横顔は微笑んでいた。

「ああ。そうだな。」
「私、ちっとも綺麗じゃないのに。」
「綺麗だよ。」
「嘘ばっかり。今まで、一度だって言ってくれなかったくせに。」
「言ったら、きみはうぬぼれて、他の男とくっついたかもしれないだろう?」
「悪い男ね。」
「ああ。悪い男だ。」

結婚という言葉を口にするまで、僕自身、彼女を愛していることに気付かなかった。

一緒に傷付くことができたから、それを愛だと。初めて知った。


2004年10月01日(金) 結婚生活について語る恋人を見て、私の心はすっかり冷え込んでしまった。それから、結婚はしたくないと告げた。

たまたまだったのだ。お金を扱う仕事に疲れ切って、何でもいいから楽な仕事をしたいと思っていた。

友達が紹介してくれた。週に3回、住み込みで家のことをしてくれる家政婦を探している金持ちがいると言って。ちょうどいいと飛びついた。家事なら好きだし。何より、一人でやれるというのがいい。人と話さなくてはならない仕事は疲れる。

早速、面接に行った。

男が一人いた。中年の男。45歳ぐらいだろうか。浅黒い肌。白髪が目立ち始めた髪。少し疲れているようだった。

10分ほど気のない質問をされ、適当に答えていたら、明日から来てよと言われた。
--

男のことを知らないまま、私は彼に雇われた。随分と忙しそうな人だと思った。時には、2、3週間に渡って家を空けることもあった。私の仕事は、掃除。男に頼まれた時だけ、食事の支度。それぐらいだった。鍵を渡され、適当にやってくれと言われただけだ。最初はとまどったが、すぐに慣れた。自分が好きなようにやっていればいいのだ。やることだけやってくれれば、昼間はテレビを見ようが、家に帰って寝ていようが勝手だと言われた。

根が真面目なのか。前職の影響か。私は、適当にやるということができなかった。掃除は、汗がにじむくらい真剣に取り組んだし、前もって頼まれれば腕によりをかけた食事を作った。

私は、この家での仕事を気に入った。

--

ある朝、男は、慌しく私を呼びつけ、言った。
「しばらく海外に行く。きみの給料は毎月ちゃんと払うし、その他に10万の手当てを付けるから、必要なものがあれば買ってくれればいい。週に一度、家の空気を入れ替えてくれるだけで充分だよ。」
と。

それから、男は、何も持たずに慌しく出て行った。

それっきり。一週間経っても、一ヶ月経っても、男は戻ってこなかった。連絡もなかった。

男がいなければいないで、何となく物足らなかった。自由にやっていたとはいえ、わずかな表情や口調の変化などから男が私の掃除や料理の出来に満足していたのは分かっていた。

やがて一年が経ったが男は帰って来なかった。もう帰って来ないのかもしれない。だが、給料はきちんと振り込まれている。勝手に仕事を辞めるわけにもいかないだろう。やることだけやってくれれば、昼間は何をしていてもいいと言われたはずだった。昼間は花屋でアルバイトを始めた。退屈だったのだ。

花屋のアルバイトは楽しかった。もともと、花は好きだったし、年下の同僚達と他愛のない会話をすると随分と気が晴れた。

そうしているうちに、私には恋人ができた。平凡なサラリーマンだ。口が上手いほうではなかったが、毎日毎日、花を買うのを口実に通いつめてくれた人だ。

私は幸福だった。

身寄りのない私に、初めて頼れる人ができたのが嬉しかった。

一方で、帰らぬ雇い主のことが気にならないでもなかった。

恋人に事情を話すと、少し心配そうな顔をしながらも、待つよ、という言葉をもらった。

いつまでもこんな日々が続けばいいと思った。

--

付き合い始めて三年が経とうという頃か。相変わらず、私の雇い主は戻って来ない。

恋人の不機嫌が続いていた。どうしたのだろう?何と言えばいいのか分からず、黙って恋人の顔色を見守る日が続いた。

恋人はとうとう口を開いた。
「いつまでこういう生活を送るつもりだい?」
「いつまでって・・・。考えてないわ。」
「もう、僕もきみもいい歳だ。」
「ええ。分かってる。」
「きみの雇い主っていうやつは、一体何をしてるんだ?」
「知らないわ。」
「もう戻って来ないと思う。それに、きみがあの家を出て行ったところで、彼にとがめる筋合いはない。」
「ええ。そうね・・・。」

煮え切らない私に、ついに彼は言った。
「僕達、そろそろ結婚しないか?」
「え?」
「結婚だよ。」
「結婚・・・。」

しばらく考えたがよく分からなかった。私は、彼の真っ直ぐな眼差しから目をそらしたくなった。

「僕の間違いだったのかな・・・。」
「何が?」
「きみも、僕と一緒になりたがってると思ったんだが・・・。」
「もちろん、一緒にいたいわ。」
「本当に?」
「ええ。本当よ。」

恋人は、私を抱き締めた。
「ありがとう。」

私は、何と答えていいか分からなかった。

恋人は、私の耳元でささやいた。
「僕ら、最高の相性さ。」
「・・・。」
「結婚したら、毎日、愛し合おう。きみは家にいて、少しのんびりすればいい。子供は沢山欲しいな。」

だが、なぜだろう。その時、私は心が冷えていくような感覚にとらわれた。

「どう?」
彼は、訊いた。

私には返事ができなかった。上手く言えなかったが、彼が思い浮かべている生活と、自分のそれとでは、何かが決定的に違う気がする。第一、私は、家政婦の仕事を投げ出すわけにはいかないのだ。なぜ、恋人は、私に家にいろというのだろう。

あれこれと結婚生活について語る恋人を見て、私の心はすっかり冷え込んでしまった。それから、結婚はしたくないと告げた。

彼は驚き、そして私をなじった。雇い主との関係まで詮索するようなことを言い、私はすっかり嫌になってしまった。

--

恋人は行ってしまった。

花屋も辞めた。

三年という歳月は私に何も残さなかった。

--

このままこうやって一人で生きて行こう。

そう思った時、男が帰って来た。私の雇い主。

「まだいたのか。」
男は少し意外そうな声を出した。

男は、何年も家を空けていたことについて一言も説明なしで、疲れたようにつぶやいた。
「お茶漬けでももらおうかな。」

--

「きみにはすまないことをした。」
「構いませんわ。お給料もちゃんといただいてましたし。」
「とにかく、きみを縛りつけた結果になったことは謝る。」

男は少し厚い封筒を差し出した。
「今までありがとう。もう、きみにわがままを言うわけにもいかないからな。また、いつ、こういうことがあるとも限らない。引っ越すなら、金も出す。」

そう言われて、だが、私はむしょうに腹が立った。
「追い出すのですか?」
「いや。そういうわけじゃないが。きみも、女として一番いい時を逃してしまったことになるしな。申し訳ないと思ってる。もういい加減、自由になるべきだ。」
「あなたのせいじゃありません。第一、私、好きにしてましたから。」
「そうか・・・。」

男は、私をじっと見詰めた。そして、言った。
「怒ってるみたいだね。」
「ええ。」
「何が望みなんだ?」
「この家に置いてください。それだけです。」

自分がなぜそんな事を言っているのか、よく分からなかった。ただ、今になって自分を追い出そうとするのはあまりに身勝手だと。なぜか男を責めたくなったのだ。

男は言った。
「分かった。ここにいてくれ。実のところを言えば、私にとってはそのほうが好都合なんだ。」

--

男と私は、そうして、一緒に暮らした。だが、もちろん、私達の関係は何も変化がなかった。相変わらず、ほとんど会話することもなかった。

ある夜、男の部屋から大きな物音がした。

私が慌てて行ってみると、男が胸をおさえて倒れていた。私は、慌てて救急車を呼び、病院へ付き添った。

病院では、今夜が峠だと言われた。

私は、男の名を呼び、男の手を握った。

--

随分と長い時間、待った。処置を終えた医師が私に状態を説明してくれた。

病室に入ると男は意識を回復していた。管につながれ、青ざめた顔は痛々しかった。

男は、じっと私を見た。口を動かすが、声は出ない。

私は、黙ってうなずいた。

--

男は、しばらく入院した後、退院することになった。だが、医者からは、いつまたこんなことが起こるとも限らないと説明された。
「奥さんのほうで、気をつけてあげてください。疲れが一番よくありませんから。」

奥さんと呼ばれて、奇妙にくすぐったい気分になった。

家に戻って二人きりになった時、男は言った。
「結局、きみには迷惑を掛けっぱなしだな。」
「いいんです。それより、私が一緒に暮らしていて良かったですわ。」
「ああ・・・。」

私は、あらためて、男の顔を見た。白髪はあるが、老けた印象ではない。この入院で少し痩せたが、もともとはしなやかな体をし、動作も若々しい男だった。過去に何があり、今、どんな仕事をしているのか。全く知らなかった。

男も私を見た。

今までとは違う眼差しだった。

「あなたが帰ってくる少し前に、結婚しようって言われたんです。恋人から。」
「ほう。」
「でも、断ったの。」
「どうして?」
「どうしてだろう。自分でもよく分からないんですけど。」
「そうか。」
「あなたは?ご結婚は?」
「一度もしていない。」
「どうして?」
「どうしてだろう。」
「お付き合いした人はいたんでしょう?」
「ああ。だけど、彼女が求めている結婚というものを、僕にはとても与えてやれる気がしなかった。」
「それで別れた?」
「そうだな。」
「一緒に暮らしてみれば、また違ったかもしれないのに。」
「そうだな。僕ときみみたいに。」
「ええ。そう。あなたと私みたいに。」

私達は、見つめ合った。

私は、ある事に気付いていたのだ。

好きでもない男とは、たとえ仕事といえど、そう長くは一緒に暮らせない。そして、多分、目の前の男も。

私達、ずっと前から・・・。

だが、何も言わないでいた。彼も何も言わなかった。

少し眠る、と彼が言った。

「そばにいていいですか?」
と、私は訊いた。

「いいよ。いてくれ。」
と、彼は答えて、目を閉じた。

そばでみていないと彼がまたどこか遠くに行ってしまいそうで、息苦しいぐらいだった。


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