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セクサロイドは眠らない

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2003年05月28日(水) 私は、ただ、知りたかった。彼女の隠された武器を。いつも孤立している陰で流した涙の量を。

「あの。課長。少し相談したい事があるんですけど。」
勇気を出して声を掛けた。

「あら。大橋さん。まだ残ってたの?」
「待ってたんです。課長のこと。」
「そう。分かってたらもう少し早く終わってたのに。」
「すみません。お疲れのところ。」
「いいのよ。」

近くの店を適当に選び腰を落ち着けたところで、まずは生ビールを注文する。
「課長ってお酒強そうですよね。」
「仕事を離れたら、課長って呼ぶのやめてくれないかしら?」
「あ。はい。ああ・・・。でも呼びにくいなあ。じゃあ、白石さん。」
「なあに?」
「いえ。大した事じゃないんです。最近、仕事が面白くなくて。いつも自分に自信が持てなくて。どうやったら白石さんみたいになれるんだろう、って。」
「あら。私、そんなに自信あるように見えてる?」
「ええ。私にはそう見えます。それに、うちの会社で女性で役職に就いたのって、白石さんだけでしょう?」
「そうね。うちの会社、体質が古いから。」
「だから、相当苦労なさってるんじゃないかしらって。」
「そう見える?」
「ええ。まあ。」

お互い、酔いが回るまでは当たり障多りのない会話を続けていたが、途中で日本酒に切り替えた頃から、私はかなり砕けた物言いをするようになった。

「ほんっと、うちの会社って嫌な上司ばっかですよねえ。」
「あら。それって、私のことも?」
「違いますって。白石さんの事じゃないですよ。ほら。Y部長。割と人を見下したような目で見るっていうか。」
「ああ。Y部長・・・、ね。」
「ええ。」
「でも、大橋さんが思うよりあの人って使える上司なのよ。味方に付ける事ができたら、随分と仕事がやり易くなるわ。」
「ああ。そうかあ。白石さんって考え方が逆ですよね。上司に使われるんじゃなくって、こっちが上司を使えばいいんだあ。」
「その通りよ。」
「ね。白石さん。あの。訊きにくい事、訊いていいですか?」
「何?」
「白石さん、結構大きい仕事取ってますよね。あれ。みんないろいろ噂してるのご存知ですか?」
「噂って?」
「ほら。よくある噂。女性が営業的に成功したら、よく中傷する人がいるじゃないですか。体を使ってどうのこうのって。」
「ああ。そういうことね。」
「そういう事って、本当にあるんですか?」
「さあ。どうかしらね。」
「答えにくかったら答えなくていいです。」
「あら。別に気を回さなくてもいいのよ。そういう事はしてないから。そういうのって、結局、長い目で見たら損ですもの。目先の仕事は取れるかもしれないけれど、先々で、関係を持ったお客に縛られることになっちゃうから。」
「ああ。そうかあ。」
「そうよ。あくまでも、主導権は最後にはこちらが握らなくてはいけないわ。誰かと特別な関係を持つのって、他の関係を制限されることですもの。とっても不自由よ。」
「分かりました。白石さんがそこまでおっしゃるなら、私、白石さんを信じます。」
「良かった。」

白石さんは、酔うほどに、目が潤み色っぽくなった。白石さん自身がどんなに否定しようとも、彼女の魅力が彼女の営業をおおいに助けたのは間違いないだろう。

私は、ただ、知りたかった。彼女の隠された武器を。いつも孤立している陰で流した涙の量を。だが、少なくとも今夜はそれを垣間見ることは無理そうだった。完全に酔ってしまう前に、白石さんは私を促して店を出て、明日早いから、と告げると駅の雑踏に紛れてしまった。

--

あれから数日。一つだけ、私には引っかかっている事があった。Y部長のことだった。白石さんにしては珍しくはっきりと、特定の人を高く評価していたものだと気付いたのだ。言われてみれば、普段はクールで、私達の事など眼中にない顔をしていながら、よく観察してみれば、個々人の仕事ぶりをきちんとチェックしフォローしてくれる手腕はなかなかのものだった。

彼だ。と思った。

彼に近づけば、もしかしたら、私も仕事の上でのポジションを築くのに何か有利な事があるかもしれない。私は意識的に彼の元に質問や報告に行くようにし、Y部長が残業したら一緒に残るようにした。

ある夜、私とY部長だけになったフロアで、Y部長から声が掛かった。
「いつも頑張ってるね。今夜はもう終わりにして、一杯飲んで行こうか。」

来た、と思った。

「はい。」
と、笑顔で応えた。

--

それから間もなく、私とY部長は、体の関係を持つようになった。彼も私も、過剰に熱くなる事はなかった。ベッドでの事も、比較的淡白に済ませると、後は、仕事の話などを交わす。そんな中から、私は仕事の役に立つことを吸収しようと努めた。そうやって、半年が過ぎた頃、私は比較的大きな規模のプロジェクトを任される事になった。女性にしては大抜擢であった。

「おめでとう。」
Y部長は、グラスを私の方に向けて、笑顔になった。

「部長のお陰です。」
「いや。きみがよく頑張ったからだよ。」
「一つだけ訊いていいですか?」
「ん?なんだ。」

私は、以前からずっと気になっていた事を、とうとう口にした。
「白石さんとも、こういう関係だったんですか?」
「・・・。」

Y部長は、深く息を吸い込んで、ゆっくりと私から視線をそらした。

それだけで充分だった。

私は、白石さんが、来年、海外向けの大規模プロジェクトのマネジメントを任されるという噂を耳にしていた。

「嘘つき。」
心の中で呟く。

仕事が欲しくて男と寝たら不自由になるわよ。

なんて、涼しい顔でいいながら、男の力で社内の地位を固めてるんだわ。なら、同じ手を使わせてもらうまでよ。

私は、わざと悲しげな顔でY部長に寄り添う。
「白石さんの事、今夜は忘れてください。」

Y部長は、そっと私の腰に手を回すと、
「きみは可愛いな。」
と、耳元でささやいた。

--

いよいよ、海外向けプロジェクトの開始が間近に迫ったある日。私は、白石さんが仕事を終えるのを待って、「飲みに行きませんか?」と誘った。

白石さんはいつもの笑顔で、
「あら。久しぶりね。いいわよ。」
と、答えた。

お互い、社内では責任あるポジションを任されて、長い事話す機会もなかった。が、最近では大型プロジェクトの開始に先駆けて、白石さんの部長昇格もささやかれている。どうしても黙っていられなかった。

グラスを一気に空けると、私は言った。
「白石さん、ずるいわ。しらばっくれて。」
「何が?」
「Y部長の事。」
「ああ・・・。」
「心当たりがあるのでしょう?」
「ない、とは言えないわね。」
「やっぱり、女性の魅力を利用して、今の地位を手に入れたんですね。」
「Y部長がそんな風に言った?」
「いえ。でも、見れば分かります。」
「そう。で、あなた、どうしたいの?私を責める?」
「そんなつもりはないです。ただ、白石さんのやり方を、私も真似るだけです。」
「好きにすればいいわ。」
「ええ。そうさせてもらいます。」

私は、席を立つと、白石さんをじっと見据えた。

宣戦布告のつもりだった。

「お願いがあるの。」
白石さんは、言った。

「何ですか?」
「彼を傷つけないで。」
「あなたに言われたくないですね。」

私は、踵を返して、立ち去った。これは、女としての闘いだ。

--

白石さんが会社を辞めると知ったのは、間もなくだった。海外で力を試すため、フリーランスになるのだと言う。

どうして?せっかくここまで昇って来たのに。私は、思いがけない展開に動揺した。

今日で最後という、その日。彼女からのメールが届いていた。
「こんな事を私が言うのは変だけど、彼とは長いお付き合いをして欲しいのです。」
と書かれていた。

変な人。余裕見せてるのかしら。Y部長は、白石さんから、私に乗り換えたのだ。私の勝ちは歴然としている。

Y部長からそっとメモが手渡された。
「今夜。いつもの場所で。」

その夜、Y部長は、いつもよりずっと激しく私を抱いた。白石さんへの未練なのか。

事を終えうつぶせになった汗ばむ男の背中は、苦しげに波打っていた。

私は、ふと、ある事に気付いた。

白石さんは、男というお荷物を私が引き受けた事で身軽になることができて、新しい世界へはばたこうとしているのではないか。そう思うと、途端に私の体の上に投げ出された男の太い腕が、妙にずっしりと感じられる。

白石さんがいなくなってしまった今、私は、どうやってこの男を愛そうかと、もう戸惑い始めている。


2003年05月23日(金) 私は、次の日曜日、友人を呼び出して訊ねた。「ねえ。動物園でさ。『人間』っていう檻があるの、見たことある?」「もちろん。」

動物園なんて、何年ぶりだろう?小学校の遠足以来か。

仕事も恋人も失くしてしまうと、時間を持て余すばかりだった。仕事をやめたら、しばらくは遊んで暮らして、あれもしよう、これもしよう、といろいろ思い描いていた筈だった。それなのに、仕事をやめた途端にやりたいことなんか一つもなくなってしまった。土曜や日曜なら誰かしら遊び相手になってもくれるだろうけれど、平日の昼間は誰も遊んではくれない。

そんなある日の午後、何となく動物園に足が向いたのだった。

動物園は閑散としていた。若いカップルやら、小さな子供を連れた母親やらがわずかにいただけだった。

時間はいくらでもあったから、私はわざわざ各動物の名前のプレートの下に書かれてある説明文を読んだり、「触れ合い公園」でウサギに触ってみたりした。

その間も始終、「私はここで何をやっているんだろう?」って思わずにはいられなかった。

「鳥の楽園」を過ぎたら、えーと、次は何の動物の檻だっけ?そんな事を思いながらフラミンゴを眺めた、次の檻の前で、私は思わず足を止めた。

プレートには「人間」と書かれていて、中には平凡な顔をした男が一人座って、ちゃぶ台の上に広げた新聞を読んでいたからだった。

「人間?」
こんな檻、前は確かなかった筈だ。他の動物達の名前の下には説明文が書かれているのに、プレートの「人間」の文字の下には何も書かれていなかった。私達と同類だから説明いらずってことだろうか。

男は新聞に飽きたのか、あくびをしながらゴロリと横になった。手にはテレビのリモコンを持っていた。男がいる場所には、普通の独身男性の部屋にありそうなものが一通り揃っていた。服はユニクロで売られていそうなトレーナーとジーンズだった。

私はしばらくそこから動けなかった。私の前を歩いていた母子は、フラミンゴと同じようにしばらく「人間」の檻を見て、それから何事もなかったかのように通り過ぎてしまった。私はしばらくそこに立って、他の来園者の様子を眺めた。若いカップルも、前の母子のようにしばらくつまらなさそうに「人間」の檻を眺めたかと思うと、黙って立ち去ってしまった。

誰も通らなくなってしまうと、私は、男の檻の側に寄って、小さな声で声を掛けた。
「あの・・・。」

男はすぐに気付いてこちらを見た。

「話、できます?」
「いいけど。でも、目立たないように頼むよ。飼育係に見つからないようにね。ほら。『餌を与えないでください』みたいなものさ。」
「飼育係って?」
「ま、普通に食事運んで来たりとか、そんな感じだよ。」
「あなた、本当にここで飼われてるの?」
「飼われてるっていうのかな。僕としては、雇われているというか。うん。そう。雇われてるんだよな。求人情報誌に載ってたから、応募したんだよ。」
「嘘みたい。」
「そうかい?」
「うん。こんなの初めて見たわ。」
「変だな。結構、あちこちの求人広告に載ってたりするんだけどね。よその動物園に行ってごらんよ。人間の檻だけ空っぽだったりするからさ。欠員で苦労してるところも多いみたいだ。」
「ここはあなた一人だけなの?」
「うん。本当は人間って、その名の通り、人と人との間で生きていくのが自然な形なんだろうけど。なかなか応募もないしさ。下手なやつが応募して来てもねえ。なんていうか。求めてる人材と違うと困るしね。家族として一緒に暮らせるような女とか子供がいいんだけど。たとえば、僕みたいな中年男が三人で暮らしてるのとか変だと思わないかい?」
「それもそうねえ。」
「そろそろ食事の時間だ。しゃべってるとヤバイよ。」
「分かったわ。」
「またね。久しぶりに話が出来て楽しかったよ。」
「ねえ。」
「何?」
「また来て、こうやって話をしてもいい?」
「いいけどさ。ただし、周りに誰もいない時ならね。」

最後に振り返った時、男は食事をしていた。焼いた干物と、味噌汁にご飯。ごく平凡な。

動物園を出る時、私は心が弾んでいるのに気付いた。仕事を辞めてから、久しぶりに誰かと話が出来たから。それだけじゃない。男の雰囲気が気に入ったのだ。平凡な、とらえどころのない。だが、どこがどうと上手く言えないけれど、男には檻の外にいる人間とは少し違う雰囲気があった。

--

私は、次の日曜日、友人を呼び出して訊ねた。
「ねえ。動物園でさ。『人間』っていう檻があるの、見たことある?」
「もちろん。」

友人はきっぱりと答え、私は、それ以上その事について質問するのもはばかられて、口を閉じた。長い事誰ともしゃべらないで家に引きこもってるものだから、ちょっとおかしくなってるのかもしれない。

--

月曜日の午後、私はまた動物園に出向いた。相変わらず、「人間」の檻の中で男がダラダラとくつろいでいる。その日は、近所の幼稚園の集団が動物園に遠足に来ていたので、なかなか話し掛ける事ができずにいた。

ようやく人の流れが途絶えたところで、私は、前と同じような小さな声で話し掛ける。
「こんにちは。」
「やあ。こんにちは。」

男は、少しだけ笑顔を見せて答えてくれた。

「どんな気分?その中にいるのって。見世物になるのって平気なの?」
「仕事だからね。どんな仕事にも、素敵な側面と、素敵じゃない側面があるのと一緒じゃないのかなあ。」

他愛もない話をしばらく続けた後、私は思い切って訊ねた。
「ねえ。お嫁さんってまだ募集してるのかしら?」
「どうかな。多分、募集してると思うよ。ほら。どんな動物だって、動物園じゃカップルで飼育してるだろう?」
「それもそうね。」
「だけど、なかなかね。」
「そうよね。大変そうですもの。」
「そうでもないんだけどね。まあ、ちょとした素質みたいなものは必要かもしれない。」
「ねえ。私が応募しても大丈夫かしら?」

言ってから、私は耳まで赤くなった。

男も一瞬、何と答えていいか分からないようだったが、すぐに気を取り直して返事をくれた。
「ああ。今度飼育係に頼んで訊いてみておくよ。」
「ええ。お願い。」
「ただし、生半かな気持ちでの応募ならやめてくれよ。動物園に来る子供達に名前の募集した挙句、やめちゃったじゃ、子供達もがっかりするし。」
「名前の募集?」
「もちろん。ここの動物園は、いつだってそうやって動物の名前を決めてるんだよ。」

予想外の事で少し心が揺れた。名前を捨てたりしたら両親はどんなに悲しむだろう。

けれど、淡々とした調子の男を前に、私は、なんとなく「そういうのも楽しいかもね」という気分になってしまった。
「気持ちは変わらないわ。」
「そうか。じゃあ、本当に頼んで置くから。」

--

動物園から採用通知が届いたのは、三日後だった。

--

私は、何も持たずに動物園に来た。地元の新聞には小さな記事も載った。

「人間のカズオに素敵なお嫁さん!」
という見出しに、私は、恥ずかしいような複雑な気分になって、一日奥の部屋で寝込んでしまった。

「そういうのマリッジブルーっていうのかな。」
彼は笑った。

何でこんな仕事に就いたりしたんだろう?不思議に思わないでもない。だが、多分、初めてこの動物園を訪ねて来た頃の私は不安定過ぎて、「人間」っていうプレートでも付けてもらわなきゃ、自分が一人前の人間であることにすら自信が持てなかったからかもしれない。

「もう少し、右。」
彼が小さな声で指図する。

私は慌てて体を少しずらせる。背後でシャッターを切る音がした。私の夫となった「人間」のカズオは、「人間」として、さりげなくお客さんを喜ばせる工夫をしていることが、一緒に暮らすうちに私にも分かって来た。

時にはお客さんの前で喧嘩もした。それも、自然な事だからいいそうだ。ただし、お客さんが飽き始める前に何とか仲直りに持ち込む必要があったため、私達の喧嘩はさほど深刻な結果にはならないで済むことのほうが多かった。

ある時、私は、カズオにこんなことも訊ねた。
「ねえ。セックスまで、人前でしなくちゃいけないの?」
「まさか。僕らはプロだから客の前では客を大事にしなくちゃいけないが、だからといって自らを貶める必要はないんだよ。嫌なら食事だって何だって、奥の部屋ですればいいんだし。」
「分かったわ。」

私は、カズオが私の疑問に答えてくれる時の表情が大好きだった。ありのままを受け入れる。決して卑屈にならず、奢らず、自分が自分であることに誇りを持つ。そのことがちゃんと実践できている人の側にさえいれば、私はきっと大丈夫。そうだ。それが、この仕事を選んだ一番の理由なのだ。

--

数ヶ月が経った。

今では、私はカズオにあれこれと訊かなくても、ゆったりと構えていられるようになった。

私には、地元紙の応募によりルリコという名前が付けられた。私のどこがルリコなのかしらねえ?そんなことを言いながらも、命名してくれた子供と一緒に撮った写真は結構気に入っていて、机の上に飾ってある。

今、私のお腹は少しずつ、少しずつ、大きくなっている。秋には私達の赤ちゃんが生まれるのだ。生まれてくる赤ちゃんは、動物園のニュースとして、町中をにぎわすだろう。その時を想像して微笑みながら、私は、今、小さな小さな靴下を編んでいる。

友達の中にはそんな私の選択を笑う人もいるけれど。

誇りを持って生きている限り、檻の中でも私は自由だ。


2003年05月21日(水) 彼女の恋人は、体中に鍵穴のある男だった。顔から、腕から、足の裏まで、体中に鍵穴があった。

彼女の恋人は、体中に鍵穴のある男だった。顔から、腕から、足の裏まで、体中に鍵穴があった。彼女は、恋人の全てが好きだった。彼に抱かれた後、その鍵穴のくぼみに指を滑らせるのが好きだった。まとまった休みが取れた時など、彼とずっと二人きりで過ごす時間が長いと、彼女は、むしろ自分のほうが変なのではと、その、自分の体に開いた穴の少なさが恥ずかしくなるぐらいだった。それぐらいに、彼の体の鍵穴は自然に存在していたのだった。

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恋人との出会いは、夕暮れの街角だった。その当時付き合っていた男が他の女と歩いているところを見かけ、ショックのあまり路上にしゃがみこんでいたのだ。彼女の目の前に鍵が差し出され、彼女は、黙ってそれを受け取った。鍵を差し出してきた男は更に、手のひらを上に向けて彼女に差し出した。そこには、その鍵がぴったりと合う鍵穴があった。彼女は、そっと鍵を差し込んだ。鍵がカチリと音を立てて開いた。彼の手の平を開くと、そこには野原一面の花が咲いていた。甘い香りが立ち込めていて、彼女は思わず手を伸ばした。

「どれでもあげるよ。」
男のやさしい声がした。

彼女は、そっとそこにある花を手に取ると、それは花びら色のキャンディだった。

彼女は、クスリと笑った。子供じゃあるまいし。キャンディぐらいで機嫌を直してたまるもんですか。

だが、男のその気遣いが嬉しくて。彼女は笑いながらくしゃくしゃの顔をして泣いた。

男と彼女は、その日から同じ部屋に帰るようになった。

--

男は体のあちらこちらの鍵穴を開けてみせる事で彼女を喜ばせた。男が持って来た持ち物の中に鍵の束があった。

「全部あるの?」
「当たり前だよ。この鍵穴は僕が僕自身に作ったものだからね。」

男は鍵束の中から鍵を一つ取り出すと、右肩にある鍵穴を開けた。そうして、そこから花束を取り出した。

「すごい・・・。」

中を覗くと、ワインとグラスもあった。

「途中で買っておいたんだ。まさか、僕が魔法使いだと思わないでくれよ。」
「分かってるわ。でも、素敵。今、あなたと会えた事に乾杯したい気持ちで一杯なんですもの。」

男は、彼女を抱き締めた。彼女は、その鍵穴のひんやりした感触にうっとりと目を閉じた。

--

二人の生活が始まってしばらくして、ある夜、彼女は夜中に目を覚ました。

男は隣でかすかなイビキをかいて寝ている。その広い胸に乗せた腕を、彼女はそっとはずして、ベッドから起き上がった。男は、一度寝ると朝まで目を覚まさない事を、彼女は知っていた。

彼女はベッドから降りると、男の机の中を捜し、鍵束を取り出した。彼女は、男の体に、鍵の一つをそっと差し込んだ。男が目を覚まさないかとドキドキしたが、男はピクリとも動かなかった。彼女は安心して、鍵を回し、男の体を開けた。そこには、暖かそうなブランケットにくるまる男の子が見えた。男自身の子供の頃だろう。まだ、体には一つの鍵もなかった。が、その代わり、体のあちこちに傷があった。男の子は、汚れたブランケットの中で丸まっていて、彼女はその頭をそっと撫でた。

次の鍵を開けると、そこにはウェディングドレスが広げられていた。彼女は思わず声を上げた。それは、彼女への贈り物だろうか?それともかつて、男が愛した女のために用意したものだろうか?

彼女は嫉妬で少し震える指で、次の鍵を。

そうして、夢中で幾つかの鍵を開けていった。空が白み始めると、彼女は慌てて鍵束を元に戻し、男の隣に少し冷えてしまった体を滑り込ませた。

気がつくと、男が笑って立っていた。

「私・・・。」
「随分よく寝てたね。」
「え、ええ。」
「おいで。朝食の支度をしてるから。」
「ありがとう。」

彼女は、すっかり寝坊してしまったのを恥じた。

--

彼女は、男の体の鍵穴という鍵穴を開けなければ気が済まなくなっていた。男が眠りに就くのを見計らっては、鍵束を取りに行き、そうして、一つ一つ開けていった。鍵は全部で999あったから。ちょっとやそっとでは終わらなかった。だが、彼女はとうとう999個目の鍵を開けてしまった。

だが、鍵穴はもう一つあった。鍵穴の数は1000だったのだ。男の心臓の場所にある、その鍵穴に合う鍵だけがなかった。

「ここに合う鍵はどこにあるのかしら。」
それが気になって、彼女はまた、朝まで眠れない。

--

ある日、男は、「仕事を休む。」と言った。

「どうなさったの?」
「たまにはきみとゆっくり話したいと思ってね。」
「珍しいわね。」

彼女は、なぜか胸騒ぎを覚えながら男の向かいに座った。

男は無言で、一つの鍵を彼女の前に置いた。

「これは・・・?」
「僕の鍵さ。ここの。」

男は、そっと心臓の上を押さえた。

「知ってたの?」
「もちろん。」
「それで?」
「これを探してたんだろう?」
「ええ。」
「じゃあ、これを君に渡す。」
「開けてもいいの?」
「ああ。」

彼女は震える指で、その鍵をそっとつまんだ。

「その代わり、開けてしまった後の事は、僕には責任が持てない。」
「どういうこと?」
「分からない。ただ、君が僕の全てを見てしまったら、僕はどうなるだろうか?」
「隠し事があるの?」
「そんなのじゃないよ。何も隠していない。ただ、君は、全て開けられて覗かれた僕を、まだ好きでいてくれるだろうか?」
「当たり前じゃない。」

彼女は笑おうとした。

が、なぜか、その唇は奮え、目から涙が溢れて来た。

「さようなら。」
両手で顔を覆う彼女に、男の低い声が、いたわるように響いて来た。

次に顔を上げた時、男はいなくなっていた。

--

彼女は、その日から、ただ泣き暮らした。どうして、人は、鍵があれば開けずにいられないのだろう?全部見てしまって、私はどうするつもりだったのだろう?

それから思い出す。小学生の頃、母が勝手に自分の日記を読んだ事に腹を立てて家出したことを。友達のカバンに入っていた手紙をそっと開けてしまって、友達と絶交してしまったことを。人は、誰しも、他人に開けられたくない鍵を持つ。

彼女は、一つだけ残された彼の鍵を宝石箱に仕舞った。

彼女は、自分の体に鍵穴を開けた。彼と同じ。心臓の部分に。その鍵を、彼の心臓の鍵と一緒に宝石箱に仕舞った。

それで少し、気が楽になった。

彼女は外に出た。働いて、ただ、時を過ごした。

幾人かの男と出会った。だが、不思議な事に、男達は、誰一人として彼女の鍵穴に気付かなかった。彼女の乳房を握り締めたら、その指に感じる筈の感触を。誰も気付かなかった。

彼女のほうも、そういう男達の誰一人として、名前も顔も覚えることはなかった。

--

三年が経った。

日曜の朝、ドアチャイムが鳴った。

ドアを開けると、男が立っていた。鍵穴が体中にある男だった。彼女は小さな悲鳴のような声を上げながら、男を部屋に招き入れた。

「もう帰って来ないかと。」

男は、返事代わりに鍵を差し出した。彼女は、彼の手の平に、その鍵を差し込んだ。

開けると、キャンディの花が咲いていた。

彼女は笑った。

男は、彼女が受け入れてくれたことを知った。それから、彼女の胸にそっと手を当てた。

「鍵穴、作ったの?」
「ええ。ちょっと待っていて。」

彼女は急いで宝石箱を取って戻って来た。

「あなたにあげる。この鍵。私をいつでも開く事ができるわ。」

男は微笑んでそれを受け取ると、
「海を見に行こうか。」
と言った。

「素敵ね。」
彼女は、差し出された彼の腕を取った。

初夏の海は、素敵だった。

車から降りて、随分と長い事海を黙って眺めていた二人は、どちらともなく宝石箱を手にすると、二人で海に投げ込んだ。

彼の鍵と、彼女の鍵は、あっという間に波に消えた。だが、お互いの鼓動の音は、ちゃんと感じ合う事ができた。


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