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セクサロイドは眠らない

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2003年06月24日(火) 老眼鏡を手に、本をそうっと手に取る老人。「覚えてますよ。この話。一人の女が米を磨ぎながら、男を待つ話ですよね。」

真新しい紙の匂いを吸い込む。

今は亡き父の作品がようやく本の形になったことを、私は一番に誰に伝えたいだろう。

父なら、誰に伝えたか。

私はそんなことを考えながら、受話器を取り上げる。

--

「そうですか。あの時の娘さんが、あなたでしたか。いや。大きくなられた。」
「父の本です。」
「拝見させていただきますよ。」

老眼鏡を手に、本をそうっと手に取る老人。

「覚えてますよ。この話。一人の女が米を磨ぎながら、男を待つ話ですよね。」
「ええ。本を作るのにこんなにお金が掛かるものとは思いませんでした。薄っぺらな本一冊出すだけでも、こんなに。」
「素晴らしい本です。誇りに思っていい。」
「父が生きている時の夢でしたもの。たった一冊でいい。本を出してみたいって。」
「ああ。そうです。お父上は、文章が素晴らしかった。よく読ませてもらいましたよ。」
「本当の事を言ってください。」

私は、ともすれば遠くを眺めたまま私のほうを見ようとしない老人の顔を、凝視した。

「本当の事とは?」
「父に約束してくださったんでしょう?あなたが現役の編集者だった頃。父の本を出してくださるって。」
「ええ。確かにそういうお約束をした事もありました。」
「なぜ出してくださらなかったんです?私、今でも覚えてます。父が私を膝に乗せて嬉しそうに教えてくれた時のことを。父さんは、もう少しで本を出す筈だったんだよ。もしかしたら今頃は作家になっていたかもしれないねって。」
「そうですか。」
「なぜですの?どうして、父をぬか喜びさせたんですか?」
「いや。申し訳ない。この作品は、本当に素晴らしい作品だったと思います。私としても、お父上の短編を何作か集めて本にできたらと思った事もあった。けどねえ。会社が許してくれなかったんですな。なぜなら、お父上の本は、分かり易過ぎる。世の中、簡単な事、分かり易い事は、金になり難いんですわ。商業的に成り立たないというんですか。」
「確かに、この作品は、あまりにも純粋な言葉だけで書かれた本ですわ。会社と家の往復だけで生活が成り立っていた父には、余分な装飾のついた文章など思いもよらなかったでしょう。だからこそ、出版されることが求められるような、そんな本だと思いますけれど?」
「おっしゃるとおりです。いや。確かに。今なら、このような本を皆が求めていることでしょう。だが、当時は違ったんですよ。」
「はぐらかさないで。本当の事を言ってくださいな。」

老人は目をしばたかせ、かすかに首を振り、それからゆっくりと口を開くと、噛みしめるような口調で語り始めた。

その女の事を。米を磨ぐ、その女こそ、父が愛していた女だと。本が世に出れば、父に愛人がいた事は自然と顕になってしまうだろうという配慮から、本の出版を見送ったのだ、と。老人はそう教えてくれた。

私は、最後まで聞き終えると、何も言わずに立ち上がった。

--

この歳を迎えてなお、その老女にはえも言われぬ色気が漂っていた。皺だらけの唇に丁寧にひかれた紅が印象的だった。

「そうですか。お父上の。」
「ええ。父の念願だったんです。本を出版するのが。」

老女は、本を手に取って、その題名を目にすると、目を閉じたまましばらく動かなかった。まぶたがかすかに震えるのは、何かを思っているせいなのか、老いのせいなのか。

しばらくしてゆっくり目を開けると、
「本を渡すためにわざわざ?」
と、静かな声で訊いた。

「いいえ。あなたに訊きたい事があって。その本が、なぜ、父が生きているうちに出版されなかったのか。その理由をご存知ですか?」
「ええ。ただ、その時は知りませんでした。だって、あの人、約束してくれたんですもの。本を出版したら、お前とのことも妻にばれてしまう。だが、それでいいんだって。そうしたら、お前と一緒になれるって。そう言ってくれたんですよ。」
「嘘。父は、母に知られるといけないと思って、本を出すのを止めたって聞きました。」
「いいえ。だって。あの人の結婚生活は偽りだって。奥様との生活は、もう、冷め切ったって。だけどね。突然、別れようって言われたんですもの。びっくりしたわ。何の理由もなく。ずいぶんと経ってから、西崎さん、あの編集者さんが教えてくれたんですわ。」

頭が少し混乱していた。父が母との離婚を考えていたというのは本当だろうか。

「赤ちゃんがいらしたって聞いたの。奥様に。随分経ってから。奥様との愛はもう、とっくに終わっていたけれど、赤ちゃんのために何もかもを捨てる決意をしたんだよって。西崎さんがそう教えてくれたわ。」
「赤ちゃん・・・?私・・・?」
「ええ。そう。あなたよ。」
「父と母の仲が終わってたなんて、嘘。」
「本当のところは私にも分からないわ。だけど、身を切られるほど辛かったのよ。あなたのお父様にお別れを告げられた時は。あなたも女なら、この気持ち分かってくださるわよね?」

老女の老いてなお、ねっとりと絡みつく媚びるような視線を感じながら、私はうつむいたまま、
「そんなもの、分かりません。」
と答えていた。

父と母の仲睦まじい姿は、すべて偽りだったのだろうか。

「ねえ。あなたは、私を恨むかもしれないけれど。お父様にとっては、ご自身の本が出版されることよりもずっと大事な事があったって事よね。」
「・・・。」
「誇りに思いなさいな。その本はあなたのものよ。物語は、誰のために語られるか。お父様は、きっと、その物語を、誰より、あなたに読んで欲しかったのね。胸を張って、差し出したかった事でしょう。くやしいけれど、血のつながりには勝てなかったって事ね。」

娘へ。

原稿にそう書かれた言葉の意図を深く知らないまま、私は無邪気な正義感から父の原稿を世に出そうとしていた。

「お父様は、精一杯あなたを愛してくださったのね。」
いろんな感情がないまぜになって何も言えずにいる私に、老女はそっと微笑んだ。

本には、世に出るまでの物語があり、世に出てからの物語がある。本にまつわる物語を知る事が、本を作った者の幸福であると、私は知る。


2003年06月23日(月) これ以上彼と親しくなるのには勇気が足らなかったのだ。言いたい事が溢れそうで、却って私は何も言えなくなってしまった。

「私の父は鳥だったのよ。」
誰にも言わなかった話が口をついて飛び出したのがなぜか。自分でもよく分からなかった。

パリのオープンカフェで、行き交う人々を眺めながら他愛のない話をしていた筈なのに。

彼は、どう答えていいのか分からないといった風に微笑んだ。

「信じると約束して。」
私は、言った。

「分かった。信じるよ。」
「母はね。とても美しい人だったの。」
「きみもすごく綺麗だものね。」
「母はもっと美人よ。そうして、とっても行動力のある人なの。」
「なんで鳥なんかと恋に落ちたんだい?」
「母はね。たくさんの男の人とデートしたけれど、どの人のことも退屈だと思っていたのね。そんな時、父に会ったの。空を軽々と舞う、美しい鳥。父も母を一目見て、大好きになった。くる日も、くる日も、窓辺で美しい声で話し掛けたのね。母は、良家のお嬢様だったから、もちろん、鳥との結婚は許してもらえなかったの。だから、ある日家を飛び出しちゃったのよ。」
「そりゃ、すごい。」

私は、彼の顔をじっと見た。彼は、真面目な顔で見返して来た。明日、日本に帰るという時に、なぜこんな話をしているのかしら。

--

母は、その美貌を生かして、いろんな仕事をしたのよ。モデルも、クラブの歌手も。父は、そんな母が借りた小さな部屋で歌を歌っていたの。母にはそれで充分だったのね。父が母のためだけに歌を歌っていれば、それで。それから、しばらくして私が生まれたの。

その頃からだったわ。父が空を飛んでくると言っては、二、三日帰らない事が増えたのね。私が生まれたばかりの頃は、母は私に夢中だったし。

父は、ただ、空を舞い、歌を歌っていた。決して母と私を裏切ったわけではないの。だけど、母は、ある日気付いたのね。父が空を飛んで戻って来た時、幸福に羽を膨らませている様子、歌声にいつにも増して張りがある様子に。

母がとがめるような顔で父をにらむと、父もしばらくは家でじっと母のためだけに歌っていたのね。でも、時間が経つとやっぱり駄目なの。空を飛びたくなっちゃうのね。

母は、泣きながら、
「空を捨てて。」
と言ったの。

父は、
「それは無理だ。」
と。

「飛ぶ事は僕の命だ。」
とも。

結局、母は父を追い出してしまったわ。父は、私の事も愛してくれていたから、随分長い事、部屋の窓の外を飛んで悲しそうに鳴いていたけど。それも、母が物を投げたりしたものだから、あきらめてどこかに行ってしまったの。

--

「こういう場合、どっちが悪いのかな。」
彼は、目をしばたかせて、訊ねた。

「さあ。私は父も母も愛していたわ。父は、しょっちゅう母に内緒で私に会いに来てくれたの。エメラルド色の羽をした素敵な鳥よ。」
「きみは?きみは、鳥に恋した事は?」
「ないわ。一度も。父を尊敬していたし、世界一ハンサムだとは思うけれど、私は鳥に恋した事はない。」
「じゃあ、もし、鳥に恋したら?」
「どうかしら。分からないわ。」

もちろん、そんな事は分からない。「もし・・・だったら」なんて、いくら考えても仕方がない。

--

母は、空を捨てられなかった父の事をずっと愛していたんだと思うわ。空を見ている事が多かったもの。時に、鳥のさえずりを聞いて、慌てて窓から身を乗り出した事もあったのよ。

それでも、父との関係を決して元通りにしようとは思わなかったみたいね。

どうしてって。

母は地上で幸福な家庭を築きたかったし、父は空にいる事が幸せだったんだもの。同じ喧嘩の繰り返しは避けたかったのでしょう。

--

「この一週間、楽しかったわ。本当は心細かったの。」
「僕も、日本の可愛い女の子と知り合いになれて嬉しかったよ。こっちでの生活には随分慣れたけど、日本の女の子のことをいつも恋しがってるんだ。」
「デザイナーになるまでは頑張るの?」
「うん。とりあえず、食べていけるようになるまでは帰らない。」
「そう・・・。」

パリの街で、地図を片手に途方に暮れていたところに声を掛けてくれたのが彼だった。日本からデザインの勉強をしに来ていると言う。警戒する私に、彼は礼儀正しく接してくれて、この一週間、毎日のように時間を取っては相手をしてくれた。

本当の事を言えば。

本当の、本当の事を言えば、彼ともっと仲良くなりたかった。

だが、一週間だけの旅行で、これ以上彼と親しくなるのには勇気が足らなかったのだ。

言いたい事が溢れそうで、却って私は何も言えなくなってしまった。唐突に口を突いて出たのは、今まで誰にも話さなかった父と母の事。異国の街で、明日は別れる人になら、しゃべる事ができると思ったのだ。

「このお話しには続きがあるの。」
「どんな?」
「実はね。この街には、母がいるのよ。」
「そうなんだ?」
「会いに来たの。」
「知らなかったな。毎日、僕と一緒だったし。」
「いいのよ。母には母の生活があるもの。邪魔しちゃ悪いしね。」

その時、美しい鳥のさえずりが頭上で響く。

私達はそちらに視線をやる。

尾の長い、青い美しい羽を生やした鳥が、何か話し掛けるようにさえずっている。

「あれが母よ。」
私は、彼にささやく。

「まさか。」
「いいえ。本当よ。毎日、毎日、空を見上げて。とうとう、父が亡くなってしまうまで、一度も会う事もなく意地を張っていたけれどもね。気晴らしに勧めた旅行先がすっかり気に入っちゃったみたいなの。しかも、新しい恋人まで作ってしまって。」

その時、それまでいた鳥の鳴き声にかぶさるように、違う鳥のさえずりが聞こえて来た。

「あれが母の恋人よ。」
黄色の羽を持つ鳥が、母の後を追うように飛んでいる。

「若くて嫉妬深いの。」
私は、笑いながら教える。

「あの歳で恋人は作るわ、鳥になるわ。全く、人生どう転ぶか分からないわよね。」

彼は、私の話を、どこからどこまで信じればいいのか分からないといった風に、眼鏡をはずして、首を振っている。

鳥達の声は、交わったり離れたりしながら、そのうち私達から遠ざかっていった。

「あなたが信じてないのは分かるわ。」
「うん。まだちょっと信じられないかな。」
「でも、信じて。」
「きみがそういうなら。」
「私、本当はなんでこんな話を他人にしたのか、自分でも良く分からないの。」
「僕の事を信用してくれたのなら、嬉しいけど。」
「あるいは、行きずりの人だから。私の頭がおかしいと思われたところで、明日にはあなたの前からいなくなるわけだし。」
「きみの頭がおかしいとは思えないよ。確かに鳥の話は、少し驚くけど。」
「でも、素敵な話だと思わない?父は、母に空の素晴らしさを教えたの。母は、ずっと意地を張っていたけれど、今じゃ、体でその素晴らしさを味わってるわ。」
「僕が気になってるのは・・・。」
「なあに?」
「どうして君がこんな話を僕にしてくれる気になったかという事。」
「本当に。どうしてかしら。」
「今、僕と君が同じ気持ちでいたら嬉しいんだけど。」
「同じって?どんな?」
「明日には別れるのが、辛いって事。何か大事な事を打ち明けずにはいられない気分だって事。」
「・・・。」
「だから、きみは、きみの大事な話を僕にしてくれた。そう思いたいんだけど。」
「でも、私・・・。」

彼は、何を言えばいいのか分からない私の唇に、そっと自分の唇を重ねる。

待って。

明日には私、本当に日本に帰っちゃうんだから。

とか。

あるいは、母娘してパリまで来て恋に落ちるなんて、馬鹿みたいね。

とか。

そんなことも、もう、何も考えられなくなってただ彼の唇に体を委ねる異国の街角。


2003年06月20日(金) 肩にかかった柔らかなウェイブの毛先から雨のしずくが垂れるのを、信号を待ちながら見惚れていた。

涙色の傘が気になっているのだ。

雨が降ると見かける、涙色の傘。その陰で、うつむき加減に足早に行ってしまう人。改札を出たところで。タクシーの待ち行列で。交差点の向こうに。

まさか。とも思う。彼女も、僕を探して?今日はもう会えないかと思う時に限って、傘が目に飛び込む。

その傘は、角度によってはキラリと光る、不思議な傘だった。他には見かけない傘だったから、必ず視界に飛び込んで来た。

いつしか僕は雨を心待ちにしている。明日の天気は晴れ、と、天気予報が告げれば心が沈んだ。

彼女の顔はいつも傘に隠れて、正面からは見えなかったけど。肩にかかった柔らかなウェイブの毛先から雨のしずくが垂れるのを、信号を待ちながら見惚れていた。ほっそりした肩から伸びた傘を持つ手は白くて、まるで生まれてから一度も太陽の光に当たった事がないかのようだった。

何の仕事をしているのだろうか?住まいはどの辺り?

気になるけれど、声を掛けるわけにもいかない。まるで、傘でガードしているように、いつも、彼女の顔は隠されている。

変だな。

変だよね?傘に恋してるのかな。晴れた日には、彼女を見つける事ができない。僕は、傘を差していない彼女を見つける事ができないのだ。

日増しに恋心はつのる。

その時には、はっきりと気付いていた。傘が誘っているのだ。傘を差した彼女の後ろ姿が僕を誘っている。改札を出るまではそこにとどまっていた傘が、僕が改札を抜けた瞬間に動き出した時、そう確信した。

「追い駆けて来て。」
そう言っているようだった。

何を迷っている?追い駆けて、捕まえて。好みじゃなかったら、「人違いでした」と言ってその場を去ればいいのさ。

僕は、その夜、台風が近付いている事を示す天気図をテレビで眺めながらそう思った。失敗しても、傘のせいにしてしまえばいい。

明日こそ、声を掛けよう。

--

その日、会社には電話で休む事を告げて、僕はいつもの通勤時間に改札を抜けた。その瞬間、涙色の傘が歩き出した。僕は追った。風のせいで、傘が飛びそうになるのを必死で押さえながら。だが、不思議な事に、涙色の傘は風に構わず、人込みの中を滑らかに移動していく。僕は、慌てて追う。体はもう、半分以上濡れてしまった。

やっと追い付いた時、増水した川を覗き込むように、彼女は橋の上にいた。

「待って。」
僕は息が切れて、それだけ言うのが精一杯だった。

傘は、僕の息が整うまでそこを動かなかった。

「ずっと、君と話がしたいと思ってたんだ。君もそうだろう?」
僕は、もう、傘をどこかに投げ捨ていて、びしょ濡れだった。

傘がゆっくりと前に傾いた。

まるで、うなずいたかのように。

「こっちを・・・。こっちを向いて。」

いやいやするように、傘が静かに揺れた。

傘から覗く肩が小さく震えているのを見て、僕はたまらずその肩を背後から抱き締めた。

「待ってた。」
小さな声がそう呟いた。

「うん。ごめん。なかなか勇気が出なくて。」
「ずっと待ってたんだもん。」
「分かってるよ。待っててくれたんだろう?」
「ええ。」

ゆっくりと、体がこちらを向く。心臓の動きが痛いくらいだ。

「ああ・・・。」
なぜか、知っている子だと思った。白い顔。唇は青ざめていたが、美しい顔だった。

「寒いの。」
「分かってる。」
「とっても、寒い。」
「どこかに行こう。」
「どこに?」
「二人でいられるところ。」
「ずっと一緒?」
「ああ。」

僕は、ずぶぬれのスーツのポケットから、ビーズのリングを取り出した。

「これは?」
「きみの傘と同じ色だ。」
「素敵。」
「結婚指輪。」
「はめてくれる?」
「ああ。」

僕は、指が震えてなかなか上手くいかない。

そのうち、彼女がクスリと笑った。僕も笑った。ようやく薬指の根元にリングが納まった時、僕はもう一度彼女を抱き締めて、雨の匂いを吸い込んだ。

「ありがとう。来てくれて。」
「分かってたのに、遅くなった。」
「いいのよ。」

彼女の声はなぜか遠かった。

彼女はくるりと向こうを向いて、傘に美しい顔を隠してしまった。

「待ってよ。」
なぜか、彼女はもうどこかに行ってしまうと感じた。

「長かったわ。」
「どうすれば会えるか分からなかったんだ。」
「雨が降ってる日はいつでも会えたのに。傘が目印だったのよ。」

雨が激しくなって、もう、少し先も見えないぐらいだ。彼女の声も、雨音でもう、聞き取りにくい。

傘が少しずつ遠ざかる。

「待ってったら。せっかく会えたんだろう?」
僕は追った。

「ありがとう。約束、覚えていてくれたのね。」
かすかに聞こえた。

もう、誰もいなかった。

--

「今度の台風はひどかったね。」
カラリと晴れた翌日、母の元を訪ねた。

「ああ。」
「仕事、どうしたの?」
「うん。ちょっと休み貰ったんだ。ずっと休んでなかったし。」
「そう。」
「うん。」
「庭の草取りでも手伝って行ってくれる?この季節、雑草が大変でね。雨が降るたんびにね。」
「いいよ。」

鎌を手に取ろうとして、僕は、物置の奥で灰色の古びた傘を見つけた。すっかりほこりをかぶってしまっていたが、僕にはその形状に見覚えがあった。

「母さん、この傘は?」
「ああ。これね。ほら。みいちゃんが。いっつも差してた。」

みいちゃんというのは、三歳で亡くなった僕の妹だ。妹が亡くなった時、僕は七歳だった。

「でも、これ大人向けのだろ。」
「みいちゃんね。この傘を店で見つけて、これがすっかり気に入っちゃってね。黄色の子供向けの傘を買ってやろうとしても嫌がってね。」
「雨の日に亡くなったんだよね。」
「ああ。昨日みたいな大雨の日にね。増水した川で。でも、結局、川で見つかったのは傘だけだったしね。今でも、雨が降ると、みいこが帰って来るんじゃないかって思っちゃうのよねえ。あの傘でしょ。雨が激しいと、景色に溶け込んで見えなくなっちゃうし。黄色の傘を無理にでも買えば良かった。」

僕は思い出していた。

涙色の傘を差すのが大好きだった、僕の妹。雨の日はいつも外に出かけたがった。あの日も、僕と手を繋いで。

「みいちゃんを兄ちゃんのお嫁さんにしてやる。」
と言った時の妹の顔を、思い出したのだ。

「本当?」
と、笑った顔は、大人になればさぞかし美人になるだろうと思えた。雨のしずくまでが、キラキラ光る宝石だった。

そう。僕はもう、すっかり思い出していた。

僕の幼い言葉と、涙色の傘が、彼女を雨の街に閉じ込めていたのだった。


2003年06月18日(水) 私は、その時、その日初めて笑顔を見せたのだと思う。本当は、ずっとずっと怒っていたのだ。

新しい街に、私はなかなか馴染めなかった。

父は私が起きている時間に会社から帰ってくる事は滅多となかったし、母も美容院を開いたばかりで忙しくしていた。前の家の方が良かった。おばあちゃんがいてくれた。おばあちゃんは、もう、すっかり年寄りで、あんまり自分の事もできなかったけれど、それでもおばあちゃんがいると、私はすごく安心して、一人で遊んでいても平気だったのに。

おばあちゃんが亡くなった時、母は、
「ようやくお店がやれるわ。」
と、ほっとしたような顔で言い、父は家族に構ってやれない負い目からか、
「きみの好きにするといいよ。」
と言った。

この人達はどうしておばあちゃんがいなくなったのに、こんなに平気で居られるのだろう?

その頃から、私は父にも母にも心を開かない子供になっていた。

--

その夜はお祭りだった。

私は、小学校の友達と一緒に行く、と嘘をついた。母は嬉しそうに笑って浴衣を着せてくれた。それから三百円くれて、
「遅くならないうちに帰るのよ。」
と言った。

--

祭りには行かなかった。クラスメートに会うのが嫌だったから。特にいじめられているわけでもなかったが、なんとなく周囲との距離を縮められずにいたのだ。

私は、祭りの太鼓の音が響くのを聞きながら、商店街のはずれのほうをブラブラとしていた。

「どうした?」
背後から声が掛かった。振り向くと、露天の明かりの下で老婆がこちらを見ていた。

「誰?」
「ちょっと見てお行き。」
「なあに?」
「卵だよ。」
「卵?」
「願い事がかなう卵さ。」

そこには、色とりどりの卵が並んでいた。こんな場所に、変なお店。

「願い事?」
「ああ。何でも。卵を割りながら心の中でお願いしてごらん。」
「いくら?」
「一個百円。」
「じゃあ、三つ。」
「三百円あるのなら、一ダース買えるよ。」
「一ダースって、十二個?」
「おやま。賢い子だねえ。」

私は、その時、老婆の顔を見上げた。亡くなった祖母に良く似ていた。私のことを、賢い子と呼んでくれるところも。

「慌てて転ぶと全部割れちゃうよ。」
「うん。」
「願い事は、誰にも内緒で唱えるんだよ。」
「うん。」

私は、卵を受け取ると、急いで家に戻った。家には誰もいなかったが、その方が好都合だった。母に見つかったら、きっと、「またつまらない物を買って。」と言われるに決まっている。私は、机の上に今買ったばかりの卵のパックをそうっと置いた。桃色、黄色、空色・・・。見ているだけで嬉しくなった。

--

それからしばらく経った朝。急に、その日、テストがある事を思い出して、私のお腹はきゅうっと縮んだ。

転校してから、私は、成績だけは下がらないように気をつけていた。そうすれば母も安心するし、クラスメートも一目置いてくれるから。それなのに、昨日に限って、私ときたらテスト勉強をするのをまるで忘れていたのだ。

「ああ。神様。テスト中止になって。」
そう心で叫んだ瞬間、卵の事を思い出したのだった。

私は、空色の卵を机から取り出した。腐ってるかな。そうっと振ってみる。だが、卵の中からは何も音がしない。ピンポン玉のように軽かった。

私は、机の角にコンコンとぶつけてみた。途端に、卵はあっけなく壊れた。中は空っぽだった。もちろん、その瞬間、私は願いを心で叫んぶのを忘れなかった。テストが延期になりますように!

その日、担任の教師は休みとのことで、朝から違うクラスの先生が来て自習を言い渡した。

やった。卵のお陰だわ。

私は、クラスメートが喜んでいる姿を見つめながら、そう思った。

--

それからも、他愛のない事で卵を使った。一個。また、一個。

--

あと一個しかない。

その紫色の卵を見て、私は考えた。

今まで、あまりにつまらない事に卵を使い過ぎたようだ。お金が欲しいとか、歌が上手くなりたいとか、もっとちゃんとしたお願いをするべきだったのに。私は、最後の卵を使わずに取っておくことを決めた。いつか、本当に叶えたい願いを思いつくまでは。

私は、机の引き出しの奥の方に仕舞うと、鍵を掛けた。

--

五年になり、私にもようやく智恵という友達が出来た。目立たないけれど、いろんな事を良く知っている女の子だった。

クラスメートの女子達は、誰が誰を好きだとか、そんな話ばかりするようになったが、私と智恵はそんな話はしなかった。だから、驚いた。

「ねえ。好きな子っている?」
智恵がいきなり訊いて来たから。

「え?好きな子?そんなのいないよ。智恵は?」
「サッカークラブの裕輔。」
「え?うそ?」
「本当よ。ねえ。協力してよ。お願い。」
「協力て言っても・・・。」
「ねえ。おまじないとか知らない?」
「うーんと。この前雑誌で読んだんだけどね、緑色のペンで・・・。」

胸がチクリと痛んだ。

気付くと、こんなことを言っていた。
「ねえ。お願い事が叶う卵って知ってる?」

--

本当に、あの時どうしてあんな事言ったのだろう?

よく分からない。

ただ、一つ言えるのは、ようやく出来た友達を手放したくなかったという事。

智恵は卵を持って帰った翌日、私にささやいた。
「彼に告白するね。」

私は黙ってうなずいた。

--

やっぱりあの卵のご利益は確かだったのだ。智恵はその日からサッカー少年に寄り添うようになった。最初のうちこそ、三人で帰ろう、なんていう誘いを嬉しく思っていたが、そのうち、いたたまれなくなってしまい、私は以前のように一人ぼっちで家に帰るようになった。

「最近、智恵ちゃんだっけ?来ないわねえ。」
「うん・・・。」
母が言い、私はぼんやりと鉛筆のお尻を噛む。

--

夏休みも間近の日曜の午後。

ドアチャイムが鳴って、私は玄関からそっと顔を出した。

そこには智恵の顔があった。

「遊びに来た。」
智恵は、小さく言った。

「入る?」
「うん。」

どうしたの?彼と喧嘩したの?

訊いちゃいけない気がして、何も言わなかった。

麦茶を一気に飲み干すと、友達は笑った。そうして言った。
「隣のクラスの子に告白されたんだって。男ってバッカみたい。その子と帰る事にしたってさ。」
「何、それ?」
「いいんだって。」
「くやしくないの?」
「くやしいよ。ね。何か呪いの掛かるおまじない、知らない?」
「知らないよお。」

私達は、並んで夕暮れまで宿題をした。

母が帰って来て、
「あら。珍しいわね。」
と、言った。

「ママ、智恵を送ってくる。」
「気をつけるのよ。」

--

智恵は、電柱の明かりの下で、そっと何かを手渡して来た。

「何?これ。」
「覚えてる?」
フェルトで作られた小さな巾着の中には、紫色のカケラ。

「卵?」
「そう。前、くれたでしょ?」
「そうだけど。」
「これね。何お願いしたと思う?優美といつまでも友達でいられますように。ってお願いしたんだよ。」
「裕輔の事じゃないの?」
「違うよ。だってさ。あの時、卵一個だけ、あったでしょ。でね。ずっと大事にとってたのかもって思ったのね。だから、私と優美と、二人で一緒のお願いをするならどんな事かなって考えたの。優美もきっとおんなじ事思ってたらいいなって。」
「そっか。」
「うん。そうなのだ。だから、カケラ、半分こして持っておかない?」
「うん。」

私は、その時、その日初めて笑顔を見せたのだと思う。本当は、ずっとずっと怒っていたのだ。男の子を選んだ智恵の事。自分でも気付かなかった。おばあちゃんが亡くなってから、私はずっと、感情を隠して毎日を送ってたのだ。

「ごめんね。」
智恵がまじめな顔で言うから、何だか照れ臭くなってしまった。

「ううん。」
「明日、一緒に帰ろう?」
「うん。」
「じゃね。」
「ばいばい。」

いつか、私も、友達より男の子を選びたい時も来るかもしれない。その時、私は、最後の一個の卵をどっちに使うだろう?

そんな事を考えながら、私は、手の中の小さなカケラを握り締めた。


2003年06月17日(火) 「でもね。その、何ていう男だったかしら?平日の。その彼とは、間違っても結婚したいって思っちゃ駄目よ。」

いつからだったか。気がついたら二人の男と付き合っていた。月曜から金曜までは、黒。土日は、白。黒と白は、私が勝手に付けたあだ名だけれど。本当に、黒と白なんだもの。

白は、穏やかな男で、結婚するならこんな男、と思わせてくれた。色白のなめらかな肌にかかる柔らかい茶色の髪の毛。時折見せる傷付き易そうな心。私達は、兄妹みたいに仲良しで、映画を観るのも食事を作るのも一緒。おしゃべりするのに最高の相手で、ありとあらゆる事を伝え合った。

--

黒とは、仕事が終わってふと立ち寄ったバーで、一杯だけ飲んだら帰ろうと思っていた時に出会った。店に入って来た黒に、私は何を思ったのだろう。自分から「一緒に飲みませんか」と声を掛けていた。黒は少し驚いた顔をしたが、黙ってうなずくと私の傍らに座った。

仕事は?よくこのお店に来るの?もっぱら私が訊ね、黒が最低限の言葉で返す。途中、嫌われているかしらと思って覗き込んだ黒の目はとても優しかった。部屋へも、私から誘った。黒は、部屋に入るなり、私の耳たぶを噛んで来た。私は、立っていられなかった。脱いだハイヒールが転がっているのが見えた。

--

黒とは一夜だけの情事。そう割り切っていたつもりだったのに、彼に会ってから一週間、二週間と立つうちに居ても立ってもいられなくなり、私はまたあの店に足を運んだ。黒はそこにいて、私は当然のように隣に座った。

--

時折、悲しくなる。

白が
「どうしたの?」
と、ベッドで私を抱き締めるから。

心がきゅうきゅうと痛んで仕方なかった。

「何だか悲しいの。」
「そういう気分の時もあるよね。」
と、白は優しく言って。背中から回した手をそのままに、寝息を立て始めた。私は、空が白むまで眠れなかった。数週間、白とは肉体を交えていなかった。

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黒は何も言わない。私も、何も言わない。黒は、聞きたくもないだろう。私に恋人がいるかどうかも。ただ、そのためだけに部屋に来て、そのたびに私は、自分の体の隅々を思い出す。ああ。自分の体が今、こんな風に扱われているのね。と思うだけでも、血が熱く体内を移動していくのが分かる。

終われば、黒は黙って服を着て、ただ少し私を抱き締めると、後ろを振り返らずに部屋を出て行く。

約束も何もないが、私は、また黒に抱かれてしまうだろう自分を知っている。

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二人の男と付き合う事について、女友達は大体において寛容だった。むしろ賞賛する女性もいた。

「うらやましいわ。」
サエコは煙草を美味しそうに吸った。

「昼間一人の時だけよ。煙草吸うのは。主人や子供の前じゃ吸わないわ。」
そう笑うサエコは美しく、退屈な主婦だった。

「両方と上手い事やってればいいのよ。でもね。その、何ていう男だったかしら?平日の。その彼とは、間違っても結婚したいって思っちゃ駄目よ。」
サエコは、ふふ、と笑うと、白によく似たやさしいご主人を出迎えるために、家に戻って行った。

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「やっぱり、体の相性よ。」
潤んだ瞳が色っぽいマサエは、当然のように言った。

「別れた主人は淡白でねえ。結局、それが不満だったのね。浮気がばれた時には随分と怒られたけど。でも、私は、自分が悪いとはどうしても思えないのよね。今は、お陰様で、若い子とお付き合いさせてもらって満足してるわ。もう二度と結婚なんかする気ないの。」
マサエは、そう笑って。

「で、どうしたいのよ?」
と、私に訊いた。

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どうしたいのかしら?

私は、自問自答する。

まだ、結婚する気はないし、お互いもう一人の存在には気付いてないのだから上手くやればいいのかもしれない。だが、白への罪悪感で、時折胸が押し潰されそうになるのだった。考えれば考えるほど、どちらもいとおしく手放せない。どうすれば選べるのだろう?白のやさしい声と、黒のほっそりと長い指を合わせ持つ男に、最初から会えていれば良かったのに。

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迷いに迷い、悩みに悩んだ挙句、私はある日、涙ながらに黒に告白する。

「それで僕にどうしろと?」
黒は、冷ややかな声で言う。

「分からない。」
「どちらかに決めたくなったんだ?」
「決められないから悩んでるんじゃない。」
「きみが黙っていれば、続けられたのに。」

黒は静かに部屋を出て行って、私は初めて、黒の背中を追いたいと思った。

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白は、いつものようにさわやかなニット。サラサラの髪。パスタの湯で加減も絶妙。

「素敵。いつだってお婿に行けるわよ。」
私は、誉める。

「僕の事誉めても何も出ないよ。」
白は、私の手からフォークを取り上げると、ソファに誘う。

スカートの下にそっと滑り込む手を感じて私は慌てる。
「やめてよ。まだ、昼じゃない?」
「きみが欲しくなったんだよ。僕ら二ヶ月もこれやってない。」
「いや。今は、いや。」

急に涙が溢れる。その手が黒の手じゃないことが悲しくなる。

「どうして?」
静かに訊ねる白に、私は告白を始める。

今すぐ馬鹿げた告白なんてやめなさい。頭では分かっていても、言葉が溢れて止まらない。

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「そう。それで、彼を選びたいと?」
「そうじゃないの。そうじゃない。あなたを選んだのよ。」

私はまだ泣いている。

「だけど、きみの心は失ったものを探し続けるだろう?目の前の僕じゃない男を。」
「すぐ忘れられると思うの。もともと、彼の事なんてほとんど知らないままだったのよ。」
「どうして黙っていてくれなかった?」

ドアが開く音がして、振り向くと黒。
「そうだ。どうして言わずにはいられなかったんだろうね?」

私は、叫びそうになる。

目の前の二人の男は、よく見れば似ていて。背の高さも、手の大きさも。

二人は向き合って見つめ合う。それから、ゆっくりと互いに向かって歩き始めるから。

私は悲鳴を上げた。

殴り合うのではないかと。

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だが、今、目の前にいるのは、一羽のペンギンだった。

「白と黒は?」
私は、震える声で訊ねる。

「いないよ。いるのはオイラだけさ。」
「二人は、一人なの?」
「いいや。どちらでもない。オイラがいるだけさ。」

ペンギンは、くるりと向こうを向くと、ヨチヨチと歩き始める。

「どこへ?」
「オイラにぴったりな女の子を探しに。」
「そう・・・。」

ペンギンは、羽をパタパタさせながら行ってしまった。

私は、二人の男を愛したまま、ソファで一人ぼんやりとしていた。黒のような白も、白のような黒も、どこにもいない。ただ、白と黒が別々にいただけだったのに、私はそれを結びつけようとしてしまった。

私はクッションを抱き締めたまま、ペンギンの女の子になる夢を見る。


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