セクサロイドは眠らない
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2003年01月30日(木) |
あの時、無理にでも話をしていれば、何かが変わっていたかもしれないのに。 |
「あなたには分からないのよ。」 その言葉が、どんな棘よりも、深く深く僕の心を突き刺す。
「ああ。分からないさ。」 と言ったところで。
あるいは、 「なら、ちゃんと教えてくれ。」 と言ったところで、もう、きみの心には近づけない。何物かが、きみの心を捉えて離さないのだ。
--
最初は、軽いノイローゼだろうとか、そんな風に思っていた。仕事で忙しい僕に、妻のミツエは、不調を訴えるようになっていた。僕は、病院に行く事を勧めた。妻は、それに従った。だが、どこの病院も、「異常なし」との診断を下した。僕は、最初のうちは、病院の診断を聞くたびに安堵していた。だが、妻の顔は険しくなる一方で、体も少しずつ衰弱し始めた時には、さすがに僕も焦った。
妻は、心臓がおかしいの、と言う。心臓に何かの植物が寄生して、私の心臓から養分を吸っているの、と。
僕は、最初聞いた時には、まさか、と言って笑ったし、医者達も皆、同じ反応だったようだ。だが、妻は、僕らが笑ったことで深く絶望し、心を閉ざした。
「カウンセリングに行こう。」 僕は、誘った。
「あなた、疑ってるの?私がおかしいとでも?」 「いや。そういうんじゃないんだ。」 「なら、信じて。心臓が時々きゅーって締め付けられるの。私のここには、何かの植物が根を張って、その根は、私の心臓の中、深く深く潜り込んで来てるのよ。」 「まさか。」 「いいえ。私には分かるの。」
心電図などの検査も一通りやったが、何も異常は見られない。健康体にメスを入れることはできないと、どの医者も、妻の心の病の可能性を示して来た。
「あなたには分からないのよ。」 しまいには、彼女は、口癖のようにそう言って、僕を拒絶するようになった。
僕は悲しかった。何とか、彼女を理解しようとするのだが、上手くいかない。そうして、僕が見当違いな事を言うたびに、彼女は悲しそうな顔で僕にこう告げるのだ。 「あなたには分からないのよ。」
僕は、少しずつ疲れて来ていた。妻の看病に。帰宅も、少しずつ遅くなっていった。妻は、最初のうちこそ僕をとがめていたが、そのうち何も言わなくなった。僕は、決して妻を嫌いになったわけではなかった。むしろ、前のように明るい妻に戻って来て欲しくて仕方なかった。
「どうだろう?田舎のお父さんのところに旅行がてら行ってみないか?」 「父のところに?」 「ああ。そうだ。」 「嫌よ。」 「どうして?」 「今の私には、旅行なんて無理だもの。それに、どうせもうすぐ私はあそこに帰る事になるのよ。」
僕は、説得をあきらめた。確かに、妻の体は日に日に衰弱している。だからこそ、本当に何かある前に父親にも会わせてやりたいと思ったのだ。だが、妻は、そこから動きたがらなかった。あるいは、実の父親なら妻を説得できるかと期待していただけに、僕は、最後の望みも失った気がした。
結婚の時、一度会ったきりの妻の父親の顔を思い浮かべる。穏やかな老人で、一人娘の妻の事を本当に可愛がっている様子だった。妻が疲れたと言って眠っている隙に、老人は、畳に頭をこすりつけるようにして、僕に頼んだ。娘を幸せにしてやってくれと。あの時そういわれた約束を、僕は今、守れないでいる。
--
ある寒い朝、妻は、息を引き取った。
もう、妻は、僕と同じベッドで寝るのを嫌がっていたから、僕らは寝室を別にしていた。僕は、昨夜も、返事を返してくれない妻のところに「おやすみ」を言いに行ったのだ。その時、妻は泣いていた。大丈夫かい?と言ったけれど、もう、妻は言葉を返さなかった。妻は、何かを怖がっているようだった。あの時、無理にでも話をしていれば、何かが変わっていたかもしれないのに。
検死解剖の結果、妻の死因は、原因不明の心臓発作だった。
引きずってでも、病院に入院させるべきだったのだろうか?僕には分からない。
僕は、泣いた。
遺骨を持って妻の父親のところを訪ねた。前に見た時より、更に小さくなった老人は、娘の変わり果てた姿を見て、なにやらもごもごとつぶやくばかりだった。よく聞けば、「おかえり」と言っているようだった。
僕は、妻を幸福にできなかった申し訳なさで顔を上げられずにいたが、老人は、僕の手を握って言った。
「おまえさんは、息子同様だ。また、遊びに来ておくれ。」 と、声を掛けられ、僕は、また泣いた。
--
妻を失って五年が経った。僕は、妻の死の痛手を乗り越え、新しい家庭を持っていた。さして美人ではないが、心やさしい女と一緒になり、娘が二歳になろうとしていた。僕は、自分が幸福であればあるほど、亡くなった妻と、妻の父親に対して申し訳ない気持ちになっていた。
「一緒にミツエさんのお父さんを訪ねてみませんか?」 新しい妻がそう切り出した時、僕は、最初は断った。
だが、電話で再婚の事を報告した時、老人は思いがけず喜んでくれ、僕は家族を連れて訪ねることが孝行のような気がした。
僕は、新しい家族と一緒に老人の元を訪ねた。予想通り、老人は大喜びで僕らを出迎えてくれて、娘の事も実の孫のように可愛がってくれたのだった。
「ねえ。あなた。来て良かったわね。私、あの人を本当のお父さんのように大事にしてあげたいわ。」 「そうか。」
僕は、その時、前から気にしていた事を妻に告げた。 「あの人を引き取ってあげたいんだ。」
数ヶ月後、僕らは、三人家族から四人家族になった。
老人は、本当の身内以上に、僕らにとって大事な人となった。娘は「おじいちゃん、おじいちゃん」となつき、老人を喜ばせた。不思議な老人だった。人を惹きつける何かがあった。僕らは、老人を中心に、いつも寄り添うように暮らした。
--
土曜の午後のある日。
妻は買い物に出掛け、僕は仕事の疲れがあって、うとうとしていた。娘が老人と遊んでいる様子を、夢うつつに聞いていた。
「おじいちゃん、何してるの?」 「ああ。これか。これはねえ。種をまいてるんだよ。」 「うそ。何にもないじゃない。」 「これはねえ。おじいちゃんにしか見えないんだよ。」 「どうして?」 「さあ、どうしてかねえ。」 「ずるい。」 「ずるいかい?じゃあ、リサちゃんにも、種、あげようかね。」 「本当?」 「ああ。ほんとうだ。だけどね。これ、おじいちゃんにしか見えないからね。おじいちゃんがリサちゃんにも種を植えてあげるからね。」 「種を植えるの?」 「ああ。そうだよ。ほら。」 「種、リサのお胸にあるの?」 「そうだよ。おじいちゃんが、毎日、大きくなあれ、大きくなあれ、って言うとね。ちょっとずつちょっとずつ、育つんだ。」 「それでどうなるの?」 「綺麗なお花が咲くんだよ。」 「ふうん・・・。」 「そのお花はね。リサちゃんがおじいちゃんを置いて遠くに離れてしまっても、リサちゃんをおじいちゃんのところに連れ戻してくれるんだよ。」
これは多分、夢なんだ。僕は、そう思う。
夢の中には、いつの間にか妻が出て来てこうつぶやく。 「あなたには分からないのよ。」
そういう妻の胸には、大きな大きな花が咲いていて、妻は、もう、体中に根を這わせて身動きできないでいるのだ。
2003年01月24日(金) |
彼の不器用さは、私のガードをいとも簡単に引き剥がし、平気で私の中を歩き回った。 |
自分でもおかしいと思っている。目の前の男の子が、どちらかといえばみっともない食べ方をしている事ですら、好ましいと思い始めていること。
「もう食べないんですか?」 「え?ええ。私はもういいの。お腹いっぱい。」 「小食なんですね。それとも、ダイエットしてるのかな。僕らの友達の女の子も、みんなダイエットしてるから。」 「あら。そういうんじゃないのよ。」
同世代の女の子の話に、軽い嫉妬を覚える自分を、変だと感じ始めている。
「明日も頑張ってもらわなくちゃいけないんだから、しっかり食べてちゃんと休んでね。」 「ほんと、今日は悪かったです。」
彼が仕事中の私の目の前でばったりと倒れた時には、びっくりしてしまった。年度末の忙しい時期だけ頼んでいるバイトの子。名前も知らなかった。慌てて応接室のソファに寝かせてしばらくすると、ぱっちり目を開けてこちらを見て、ここはどこか、と私に訊いてきた。
聞けば、三日程まともな食事をしていなかったという。
そういうわけで、私は少々仕事を早く切り上げて、彼に豪勢な食事をさせているわけ。
年下が趣味というわけではない。彼の無口なところ。むしろ、何を言っていいかいつも戸惑っているところが新鮮だった。相手が照れて落ち着きなく返事をしている様子がこちらに伝染して、つい、こちらまでが恥ずかしくなってしまった。高級な料理が食べられる店で器用に振舞える自分が、なんだか格好悪いような気分にさえなってしまうのだ。
「ごちそうさまでした。今度、バイト代が出たら奢らせてください。」 そういう彼に、 「その前にしっかり働いてね。」 とだけ言って、タクシーに乗り込んだ。
--
「今度は年下か。」 彼は、皮肉めいた口調。口元に微笑。
「何のこと?」 「とぼけるなよ。バイトくんの事さ。」 「何でもないって。」 「そうかな。最近のきみ、落ち着きを欠いてる。」
私の上司。社長の息子である高田からの交際を、私は以前、実にそっけなく断ってしまった事がある。社長の息子だという事も知らなかったし、生意気な盛りの小娘だった。それから、何度か喧嘩をして。今では、友達同士といったところに落ち着いたか。だが、彼は、私の付き合う男を、ことごとくなじり、私が気を悪くするのも、いつもの事。
「あっちに行って。気が散るわ。」 「おや。厳しいなあ。」 「私が誰と付き合おうと放っておいてよ。」 「また、きみが泣かないで済めばいいと思ってるんだ。これは本当の気持ちだよ。」
私は、返事をせずに、キーボードを叩き続けた。
高田は、あきらめて去って行った。
私は、そっと携帯電話のディスプレイを見る。リョウからのメールが、また来ている。思わず視線を移動させると、バイト達の集団の中にリョウがいた。携帯電話を滑り込ませたジャケットのポケットが暖かかった。
--
私とリョウは、ささやかな愛を育んだ。七歳の年齢差は、気にならなかった。卒業したら、サヤカと同じ会社に入りたいな。と、リョウは言った。あら。素敵。私の部署に入って来たら、容赦しないわよ。私は笑った。
今度こそは、幸福が続くと思っていた。
私は、年下の男に完全に屈服していた。彼の、学生らしい不器用さは、私のガードをいとも簡単に引き剥がし、平気で私の中を歩き回った。私は、自分が、用心深いことを、冷静なことを、洗練されていることを、恥じたのだった。
--
高田に誘われて入った店で、私達は軽くグラスを合わせた。
高田は、私達が一年続いている事に驚き、そうして、祝福してくれた。
「あら。めずらしく、私に皮肉を言わないのね。」 「ひどいな。僕だって、素直に他人の幸福を喜ぶ気持ちを持ち合わせているさ。」
高田は苦笑した。
「で?きみの彼氏は、就職だって?」 「ええ。うちの会社の内定をもらってるの。」 「おやおや。社内恋愛はいけませんな。」 「あら。散々社内で浮名を流したあなたにそんな事が言えて?」 「ははは。ともかく。君は、君で楽しくやっているようで安心だ。だが、これだけは言っておくよ。いつか、君は僕の元に来る。」
それだけ言って、高田は立ち上がり、怒ったような足取りで店の入り口に向かった。
私は、そこに置き去りにされたまま、高田の失礼な態度について考える。好きな女に取る態度だろうか。残りのワインを飲み干して、私は、少々苛立った気持ちを抱えて、帰宅する。
リョウが、ベッドで眠っていた。私は、嬉しくて、リョウの額にキスをした。
--
リョウは、生え抜きの社員によって新しく立ち上がったプロジェクトに、新卒としては異例の配置をされた。
そうして、リョウは、変わった。
電話をしても、あまり出ない。たまに出ても忙しいと言う。高級なワインを平気で頼むようになった。ネクタイは、何本あるか分からないぐらいだ。時折、他の女の子の影がちらつくが、私への言い訳は完璧で、私はいつもはぐらかされる。
ついには、私の誕生日。私は、一人、シャンパンを飲み、リョウを待つ。が、とうとう彼は来なかった。
私は、朝、念入りに化粧をし、鏡の中の自分に大丈夫よ、とつぶやく。目が少し赤いだけで、後は完璧だわ。
リョウと会社ですれ違っても、彼は私を見ない。
そう。そういう事?
洗練されたリョウは、だが、前のように素晴らしく見えなかった。
私は、内線電話を掛け、高田にささやく。 「今夜、開いてる?」 「もちろん。」
私と高田は、その夜、互いをなつかしむように微笑み合う。もう、高田は私に皮肉を言わない。私も、もう高田に突っ張って見せたりしない。
「ひとつだけ訊いていい?」 「何?」 「リョウをあの部署に配属したの、あなた?」 「ああ。」 「やっぱりね。」 「怒るか?」 「いいえ。むしろ、感謝してるわ。」
私は、微笑んで見せる。高田も、安心したように微笑む。高田は、リョウを同じフィールドに上がらせた。それだけだった。そうして、辛抱強く待っていてくれた。
2003年01月23日(木) |
その幸福を取り戻そうとする黒髪の女の子が私の人生に再び現れない事を祈った。 |
簡易に作られた塀を隔てて、女の子が二人いつまでも尽きぬ話をしている。二人の少女は、むしろ真剣なまなざしで。一人は、豊かな金髪とバラ色の頬。もう一人は、黒髪にエキゾチックな浅黒い肌が神秘的だ。金髪の子のほうは、走り回るには少々邪魔なドレスを着ていた。黒髪の女の子は、お下がりの服に、エプロン。金髪の女の子の母親が娘を苛立たしげに呼ぶ声がする。二人の女の子は、小指を絡め、何事かを耳元でささやきあって、それぞれの家に戻って行く。
--
そうだ。私は、彼女の裕福な家、光り輝く髪の毛、ブルーの瞳。何もかもがうらやましかった。自分の黒い髪も、貧しい生活も、大嫌いだった。だから、正直にそう打ち明けた。
思いがけず、彼女も驚いた顔をして。私こそ、あなたがうらやましいわ、と打ち明けたのだ。あなたのママが作ったアップルパイ、最高だった。何より、あなたの唇、官能的だわ。
そう言って、彼女が私の唇に指を触れた時、私の背筋に電流が走った。ねえ。あなたと私の人生を入れ替えない?思わず、そんな事を口走っていた。大丈夫。おじいさんにジプシーの魔法を聞いてるの。そんなことが本当にできるの?なんて素敵なのかしら。まじめくさった表情でうなずく友人を呼ぶ、友人の母親の声。
「今夜、丘の上で。」 「分かったわ。」
私達は、それぞれの家に向かって走る。心臓がドキドキと音を立てていた。
そうして、夜中、私達はこっそり部屋を抜け出し、私は、乗り移りの呪文を唱えた。何事も起こらなかった。私達はがっかりして、それぞれのベッドに戻った。
だが、目覚めた時、私は、柔らかなベッドの上だった。
私は裕福な少女の人生を手に入れ、かつて私だった少女の肉体は、私の両親と一緒に一週間だけ間借りしていた部屋を離れ、旅に出た。
私は緊張した面持ちで母親となったばかりの人に朝の挨拶をする。へまをしないように気をつけながら、新しい生活がスタートした。
--
私は、不安だった。
幸福を実感すればするほど。
実際、お金がある生活というのは素晴らしく、私は、世界を代表する優秀な先生についてピアノを習った。練習は確かに厳しく泣きたくなることもあったが、そんな時は自分に言い聞かせる。ねえ、考えてもごらんなさい。あの貧しい生活を抜け出して、私は素晴らしい屋敷で暮らしているのよ。何を不満に思うの?
あるいは、父親と母親が激しい喧嘩をする時、私はベッドで震えながら祈る。ああ。私が生まれ育った家では、誰も喧嘩をしなかった。父さんと母さんは、いつも思いやりに満ちた言葉を掛け合っていた。だけど、あの生活に戻りたい?私は自分に問い、慌てて、その問いを打ち消すように身震いする。
そうして、私は、自分が得た人生にしがみつき、その幸福を取り戻そうとする黒髪の女の子が私の人生に再び現れない事を祈った。あの時のあの少女との短い夏の日が、唯一私にとって心を通わせる相手がいた時だったけれども。それは私達が同じ気持ちを持っていたからだ。この家を出て、別の人生を手に入れたいという。だが、今頃、彼女は後悔しているかもしれない。いつの日か、自分の本当の生活を取り戻しに私のところに乗り込んで来ないかと、私は怯えて暮らした。次第に冷えて行く家庭と同じように、私自身がバラバラになってしまわないように、私は、必死で怯えながら暮らした。
そうして、いつしか歳月が過ぎ、私は美しく成長した。
恋人はやさしい人で、怯える私の心をやさしく包み、少しずつほぐしてくれた。両親は、そんな彼との仲を祝福してくれ、いつしか、両親達の関係までもが好転したかのように見えた。
私達は、幸福なカップルのままゴールインし、両親と同じような素敵な家を構え、幸せになるべくスタートを切った。
私は、ほとんど幸福だった。ある日突然、黒髪の女が私の目の前に現れて、私が受け取るべき幸福を返して、と叫ぶという悪夢も、もう、滅多に見なくなっていた。仮に見たとしても、ベッドにはやさしい夫がいて、抱き締めてくれる。
私は、本当に安心しかけていたのだ。
だが、不幸は突然に訪れる。
ある時から夫の帰宅が遅くなり始め、私は、それを、仕事が忙しいためとばかり思っていた。そんなある日、夫の車の助手席で一本の黒い髪を見つける。
私は、それを見た時、半狂乱になり、夫の胸に殴りかかって行った。
夫は驚き、ただならぬ私の様子に言葉を失った。ただの浮気がバレたにしては、私の取り乱し方は異常だったのだろう。夫は、私の主治医を呼び、多くの人間が私を押さえつける。私は、その時、悪魔にとりつかれたような形相だったに違いない。
「あの女が来た。とうとう、あの女が・・・。」 叫ぶ私の腕に注射針が差し込まれる。
それから、遠のく意識。
うずまく憎悪。
今になって、来るなんて・・・。
--
遠くで会話が聞こえる。夫と母だ。
「あの子、小さい頃から空想癖が激しかったんです。特に、私と夫との関係が悪くなり始めた頃から少しずつひどくなって。自分が、本当はこの家の子じゃないんじゃないかって。お恥ずかしいですわ。隣に、同い年の女の子がいる一家が短い期間過ごしていた時があって、それからはそんな空想を口にする事もなくなったと思っていたのに・・・。あの子には、きっと心を開いて頼れる人が必要なんですわ。」
夫は、何やら母をなだめている。 「僕が一生付いていますから。」 とか、何とか。
だが、あの女は狡猾だ。私が人生の一番いい時を迎えるのを、ずっと隠れたまま狙っていたのだ。
私の母は、知らない。私達が入れ替わった事。そうやって、あなたの本当の娘は、自分の運命を捨てた筈なのに、今になって戻って来たのだ。結局、私は、私の過去を完全に葬らなかったのがいけなかったのだろう。私は、痛む頭を抑え、隠し持っていたナイフを持ってふらふらと外に出る。夫の秘書に扮して、元の人生を取り戻しに来た黒髪の女を殺しに。
2003年01月20日(月) |
何度泣かせても、慣れる事はないだろう。女が泣くのを見るといつも落ち着かない気分になる。 |
「で?私はどうしたらいいんですか?」 目の前の妻は、感情の乏しい瞳でこちらをじっと見ている。
私は、小さく溜め息をついて、 「別れて欲しいんだ。」 と、答えた。
退職金の半分をお前にやるから。身勝手なのは分かってる。だが、これから残りの人生、俺の正念場だ。俺は、思うようにやりたいんだよ。分かってくれ。
どんな言葉を吐いても、嘘臭い。目の前の妻が無反応である程に、無表情である程に、こちらの身振りは大きく、声は大きくなってしまう。下手な詐欺師のように落ち着きがない。
「結論はすぐにとは言わないよ。しばらく考えてから、お前の身の振り方を決めたらいい。それまで待つよ。」
妻は黙ったまま、キッチンのテーブルの椅子から体を動かさない。
それを見て、少し胸が痛んだ。だが、しょうがない。何年もの間、私にぶら下がったまま、じっとしていただけの女。私は、今、飛ぼうとしている。そのためには、この女は少々重い。私は自由になりたいんだ。分かっておくれ。
「じゃあ、行ってくるよ。」
返事はない。
私は、今日で長年勤めて来た会社を退職する。
--
机の中のものを紙袋に詰めている最中も、誰も声を掛けて来ない。一緒に笑ったりした日もあったのに、冷たいものだな。だが、逆の立場に立てば、私だって同じ態度を取るだろう。私は、組織の存続のために切り捨てられていく存在だ。
唯一、時折こちらに向けられる視線を感じるが、その相手は分かっている。卑屈な目をした課長だ。何度叱ったろうか。そうして、そのたびに、小さな憎悪が彼の中に蓄積されていき、ついには、彼は、私を憎む事を仕事の原動力にするようになった。だが、今となっては、そんなこともちっぽけな事だ。私は、今日、この場から消えていなくなる。それは、「死」と同じようなものだ。私は、今日でいなくなる。そうしたら、お前は今度は何を原動力に生きて行くのだ?訊いてみたかった。
本当に憎むべきは、組織のために個人を殺していくこの会社の機構だという事に、だが多くの人間は気付かない。
「じゃあ、後は頼んだよ。」 私は、私の席に座る事になる部長に、静かに、そう言う。
「まかせてください。」 彼は、どこかしら申し訳なさそうに、深々と頭を下げる。
--
怒りがゼロになったとは言えない。だが、こんな感情にいつまでも囚われている暇はない。残りの人生を、いかに豊かに過ごすか。それを模索することが私の当面の課題だ。
女は、いつものように、満面の笑みで私を出迎えた。
「早いのね。」 女は、まだ事情を知らない。
「ああ。今日は、ゆっくり話がしたくてね。」 「嬉しいわ。」
女は、いそいそとキッチンのカウンターの向こうに回り、グラスの用意を始める。
「ああ。いいんだ。今日は飲まない。」 「あら。めずらしい。」 「それより、話がしたい。お前と。」 「いいですけど・・・?」
女は、少し不安な色を瞳に浮かべて、こちらを見ながらソファの向かいに座る。
「今日、仕事を辞めた。」 「辞めたって?」 「辞めたんだよ。自分でね。辞表を書いて。」 「で?どうなさるつもり?」 「当分は準備期間だ。」 「え?当てはないの?」 「ああ。だが、退職金がある。これで、いつかお前と話していたように、小さな店でも持って・・・。」 「ちょっと待って。あれは、もう、叶わない夢と思ってとっくにあきらめたのよ。」 「そうか。それなら、俺一人でもいい。店をやろうと思う。流通業なら、あらゆることを経験した。それをどう生かせるかは、まだ分からないがな。」 「あなたならできるわ。」 「そうだろうか。」 「ええ。」
今日は、本当はそんな事を言いに来たのではない。
「なあ。」 「なあに?」 「俺達、ずいぶん長いよな。」 「ええ。そうね。」
女が、子供が欲しいと半狂乱になった時もあった。逆に、女を繋ぎとめようとこちらが愚かな振る舞いをしたこともある。だが、ここまで続いて来た。これも縁だ。今までは、少々女を粗雑に取り扱ってばかりだった。だが、そろそろ、女を喜ばせてやりたくなった。
「結婚しよう。」
女は、グラスを持った手を止めた。
返事がなかった。
「長い間、すまなかった。」 女が怒っているのかと思い、私は慌てて言った。
「ここまで来て、ようやく踏ん切りがついたんだ。何もかもやり直したくなった。」 「・・・。」 「今すぐとは言わない。きみだって、ここまで我慢してくれたんだ。今更、俺の都合に合わせろとは言わないよ。」
目を上げると、女は、泣いていた。
「どうした?」 だが、女は、ただ泣くばかりで何も答えなかった。私は戸惑い、そうして、彼女を抱き締めようとした。だが、女は私の手を払いのけ、ただ、顔を覆うばかりだった。
「少し時間をくださる?」 ようやく泣き止んだ女は、小さく言った。
私はうなずいた。
何度泣かせても、慣れる事はないだろう。女が泣くのを見るといつも落ち着かない気分になる。
「ごめんなさいね。」 かすれた声で、女がつぶやく。
まあいいさ。今までは待ってくれていたんだ。今日からは、私が待とう。
ソファを立ち玄関に向かおうとした、その時、電話が鳴った。
女は、慌てて受話器に飛びついた。
私は、そのまま玄関を出ようとして、彼女の会話を何気なく耳にしてしまう。
「もう少し待ってちょうだい。そうね。三十分。」 「・・・。」 「ええ。そうよ。馬鹿ね。そんなんじゃないって。」
私は全てを察して、寒空の下、暗闇に向かう。
そうか。なんだ、そうだったのか。思い切り、自分の愚かを笑い飛ばしたくてしょうがなかった。女は、既に、飛び移る先を決めていた。私は、もはや、女にとっては過ぎようとしている過去だったのだ。
--
「ただいま。」
キッチンには、相変わらず、妻が、朝と同じように座っている。
「なんだ。まだ、起きてたのか。」 私は、コートを脱ぎながら声を掛ける。
いつもなら、私の帰りなど待たずに寝入っているところだ。
「あなた、お話があるの。」
私は、ああ、と言い、妻の向かいに座る。
「今朝の事だけど・・・。」 「なんだ?」 「あのね。お金は要りません。」 「どうしてだ?」 「当面食べていくぐらいは、私にもあるの。」
そうして、開いた通帳を差し出す。
私は、それを手に取って、眺める。
それは、こつことつ長い時間掛けて少しずつ加算された数字が並んでいた。
「パートで貯めたお金。あなたは、そんなはした金でよく働くなって、笑ってたけどね。」
その額は、それでも、それを貯めた歳月を想像すれば、気が遠くなるような額だった。
「なんだ。知らなかったな。」 「ええ。私ね。どっちにしても、あなたにこれを見せようと思ってたの。あなたの退職を待ってね。あなたを驚かせたかったの。」 「そうか。」 「あなた、ずっと、自分の店を持つのが夢だって言ってたから。」 「そうだったかな。」 「そうよ。いつも、いつも、言ってたでしょう?だから、あなたが会社を辞めたら、一緒にお店をやろうって、ずっとそう決めて、貯めてたのよ。」 「・・・。」 「だから、いいんです。あなたがいなくなっちゃったら、このお金、もう、私、使い道がないから。」 「馬鹿だなあ。お前ときたら。」
そこまで言って、もう、言葉が続かない。
目の前にいる、女は沈みそうな船にそのまましがみついて一緒に沈んで行こうとするような。そんな愚鈍な女で。
「今まで、お仕事お疲れさま。毎日、あなたを仕事に送り出すのが幸せだったの。」 目の前の女が、その言葉を言うためだけに何年もの間愚かにもここに座り続けていただけだったとしても、私は、たった今、その言葉が欲しくて仕方がなかった、と、気付かされる。
2003年01月18日(土) |
父の無垢な、子供のような部分を守ってあげられるのは私だけだと信じていた。 |
幼い頃は、確かに泣いて困らせた事もあった。やさしい父を。不器用な父は、そんな私をうまくあやす事もできず、ただ、困った顔で、大きな体をすくめるようにして、そこにいた。私が泣きやんで眠るまで、そこにいてくれた。そうやって、私は育った。父と二人で肩を寄せ合って暮らした。父は私を支え、私は父を支えた。そういう意味では、私達二人共が、母の子供のような存在だった。母を失った兄弟が抱き締め合う事で母の抱擁を思い出すように、私達も、互いに母を思い出させる事で結び付きを深めた。
--
母がいなくなったのは、私がまだ幼い頃だった。物心ついた時には、もう、母はいず、私は父一人の手で育てられた。
「ねえ。母さんは私達の事が嫌いになったのから、家を出て行ったの?」 「まさか。母さんは、父さんの事もお前の事も、これ以上ないぐらい愛してくれたさ。」 「じゃあ、どうしていなくなったの?」 「母さんは、愛をたくさん持ち過ぎてたんだ。父さんとお前だけを愛するというわけにはいかなかったんだな。」 「どういうこと?」
中学生の頃は、よく、いなくなった母への怒りを父にぶつけて、父を困らせた。口下手な父は、そうなるといつも困った顔で、悲しそうに私を見つめるだけだ。思えば、それが私の反抗期だった。どこか、母を引き止めておけなかった父のふがいなさを責めたかったのだと思う。
--
高校生になり、初めての恋を経験し人を愛する事の痛みや苦しみを理解するようになってから、私も、母の気持ちが何となく分かるようになっていた。
「母さんは、木や草や花を神とする宗教を信仰していたんだ。」 「ふうん。素敵ね。」 「ああ。素晴らしいさ。大きな人だった。道端の花を愛で、鳥のさえずりに耳を傾け、自然に感謝していた。」 「父さんは、母さんが大好きだったのね?」 「ああ。大好きだった。だが、父さんには、母さんの信仰がうまく理解できなくてね。結婚して一年目の結婚記念日に、母さんを喜ばせようと、家の中を、切り花でいっぱいにしたことがあった。その日は、母さんが実家に寄ってから戻る事になっていたからね。父さんは仕事を休んで、一日その計画の実行で頭がいっぱいだった。母さんを喜ばせる事だけが、あの頃の父さんの喜びだったんだよ。」 「で?母さんは喜んだんでしょう?」 「いいや・・・。」
父は、とても悲しそうに、そこで黙り込んだ。
私は、背後から父の分厚い肩を抱き締める。 「ああ。父さん。」 「すまない。父さんはね。ちっとも母さんを分かってやれなかた。家に入ってきた母さんは、泣き出してね。それはもう、ちょっとやそっとじゃ泣き止まないぐらいだった。なんでこんな事をしたの?ってね。父さんを責めながら。花に向かって、ごめんなさい、ごめんなさい、ってね。花は生きてるのに、なぜ殺したのかって。」 「だって、父さんは母さんを喜ばせようとしてやったんでしょう?」 「ああ。だが、理解すべきだった。母さんを愛しているなら、分かってやるべきだった。だが、結局、頭が悪い父さんは、母さんを完全に理解してやることはできなかったんだ。父さんは、へまばかりした。」 「母さんだって、父さんの気持ちは分かってた筈よ。」 「ああ。そうだ。母さんは、分かってくれていた。だが、自分の信仰と父さんへの愛情で、押し潰されそうに悩んで、ね。それで結局、父さんは、ある日思ったのさ。母さんを楽にしてやろうってね。もう、いいって言ったのさ。母さんに。信仰と家族の間で悩む母さんを見ていたくなかった。」 「父さんは、それで良かったの?」 「ああ。そうしかできなかった。」 「悲しい話ね。」
私は、首を振る。
それから、母の写真を父に見せてもらった。写真の母は、美しい人で。花柄のドレスを着て笑っていた。 「素敵ね。」 「ああ。素敵だろう?母さんは、この世で一番の美人だったよ。」 「ドレスが綺麗。」 「このドレスを着ていた日の事を今でも思い出す。」
父は、一瞬、幸福そうに目を閉じた。思い出しているのだろう。
「父さん。私、一生、お嫁に行かない。父さんのそばにいる。」 「馬鹿言うんじゃないよ。」
父は、だが、嬉しそうに微笑んだ。
私は、おやすみ、と言って、父の手に写真を戻し、部屋に戻った。
反抗期を過ぎた私は、父を深く愛するようになっていた。父の無垢な、子供のような部分を守ってあげられるのは私だけだと信じていた。
--
それから歳月が過ぎ、私は、すっかり成長して、母譲りの栗色の髪を長く伸ばした娘になった。
その日、私は、勇気を出して父の部屋をノックする。
「どうした?」 白髪の父は、目をしょぼつかせて私を迎え入れる。
「父さん、話があるの。」 「何だね。」 「私、結婚したい人がいるの。隣の町の人なんだけれど。」 「そうか・・・。」
父は、かすかに唇を奮わせ、目をしばたかせた。 「この日がいつか来るとは思っていたのだがな。」 「あのね。その人は、父さんと一緒に暮らしてもいいって言ってるの。だから、父さんを一人にするってわけじゃないのよ。」 「そうか。だが、お前は、父さんより、その男を愛しているわけだ。」 「馬鹿ねえ。父さん。私、父さんと彼を比較した事なんてないわ。どっちのほうが、よりたくさん好きだなんて、考えた事もない。」 「そうか。」 「当たり前よ。私、父さんのいない生活なんて考えられないわ。」 「・・・。」
父は、ずいぶんと長い事黙っていた。
私は、父が泣き出すんじゃないかと。そんな事を思っていた。
ようやく、父は口を開く。 「母さんのドレス。写真の、な。」 「ええ。覚えてるわ。」 「あれを着てみせてくれるか?」 「いいけど。あのドレス、うちにあるの?」 「ああ。」
それから、父さんはクローゼットを開き、タキシードを取り出す。 「これを着てな。母さんと踊ったものだった。」 「いいわ。父さん。私と踊りましょう。」
父さんは、クローゼットの奥の、鍵付きの木箱を開ける。
私は、息を飲み、父さんの手元を見つめる。
「思い出は、全て封印していた。」 父さんは、そう言って、軽く柔らかい素材でできた、畳まれた布地をそっと私に手渡す。
「着てくれるのか。」 「ええ。」
私は、父が取り乱したりせずに落ち着いている事に安心した。
私は、そっと、その薄布を広げる。
それは、羽のように軽い素材で。
だが、そのドレスの胸元に茶色に広がったしみは、そのドレスの美しさを損ねていた。
「これは、なに?」 私は、しみを指さす。
「なあ。美しいだろう?」 父は、ゆっくりと微笑む。
「ねえ。父さん。これ、何よ?」 「母さんはな。父さんを選ぶべきだった。だが、選びきれなかったんだな。だから、解放してやろうと思ったんだよ。」 「ねえ。父さん。父さんったら。いったい、どういう・・・?」 「ほら。あの丘を見てごらん。花がものすごく綺麗に咲いてるだろう?」
あそこに何があると言うの?
「母さんは、あそこで毎年、花を綺麗に咲かせてるんだよ。なあ。本当に愛していたら、自由にしてやるのが一番だ。そうだろう?」 父は、そうやって、なおも微笑む。
「着ておくれ。ドレスを。そうして、最後にダンスを踊ろう。あの夜と同じように。」
2003年01月16日(木) |
そうして、そのまま息を止めて死んでしまうのじゃないかという風に、感極まった声を上げた。 |
徹夜明けで帰宅する途中、僕は、彼を拾った。
拾ったというのが、まさにふさわしい。そんな出会いだった。彼は、カラスが群がる道端のゴミ袋の中に埋もれたような状態だったから。
「おい。大丈夫か。」 僕は、その若い青年がもそもそと動いたのに驚いて思わず声を掛けた。
「ああ。多分・・・。」
だが、手を貸さないとまともに歩けそうになかったので、僕自身ふらふらだったのだが、何とか彼に肩を貸し、部屋にたどり着いた。
彼は、僕のベッドに倒れ込み、僕も、ベッドの傍らに倒れて、そうして、眠り込んだ。
目が覚めると、コーヒーの香りが漂っていた。
「ああ。起きた?」 青年は、にっこりと笑って、それから僕にカップを差し出した。
その顔は、殴られて腫れていなければ、ずいぶんと美しいだろう。そう。男だが、美しいという形容がぴったりだった。
「うん。きみは?大丈夫なの?」 「何とか。まだ、あちこち痛むけどね。」
確かに、足を少し引きずりながら移動するその様子は、ずいぶんと大変そうに見えた。
「悪いとは思ったけど勝手にシャワー借りたよ。ひどい匂いだったから。」 「別に構わない。」 「シーツも後で洗ったほうがいい。」 「ああ。」 「迷惑掛けたよね。すぐ出て行くから。」 彼は、申し訳なさそうに言った。
「いいんだ。しばらくここにいたらいい。」 「でも・・・。」 「いいんだよ。だけど、何であんなところに転がってたんだい?」 「うん。何でかな。なんだか、また失敗したみたい。」 「また?」 「そう。僕は、いつも失敗をするんだ。」 「きみみたいに綺麗な顔だと、いろいろトラブルに巻き込まれるんだろうね。よく分からないけどさ。」 「そうじゃなくて。なぜだか、いつも失敗するんだよ。」 「大変だな。」 「うん・・・。」
彼は、コーヒーを一口すする。 「女と寝るのって、難しいよね。僕は、いつも迷う。どんな風に抱けばいいのだろう?相手はどんな風に抱かれたいんだろう?友情のように?同情心から?心が欲しいのか。それとも、面倒な事抜きに体だけで楽しみたいのかな。親のように抱擁したらいいのかな。それとも、子供のように甘えて欲しいんだろうか?そんな風に考えたら、いつも、分からなくなる。彼女は、どのタイプなんだろうって。」 「そんな風に複雑に考えなくていいんじゃないかな。もっと単純に。抱きたいから、抱く。心は、自然と入ってしまうに任せたらいいんじゃないかな。」 「そうは、いかない。僕は、ちゃんと物事のパターンを見抜いて分類して、慎重にどれかを選ばないと、必ず間違うんだ。」
彼は、とても悲しそうな顔をした。
なるほど。僕みたいな平凡な男より、この男はずっと多くの面倒事を抱えてきたのだろうな。
「僕のことは、ルイって呼んでくれる?」 彼は、その時は、子供のように頼りなさげに僕に甘える事を選択し、僕はそれを受け入れた。
--
「それで、最近付き合いが悪いのね?」 彼女は、少々辛らつな口調で、僕に言う。
「まあね。そういうとこ。」 「どんな人?」 「うーん。男の僕から見ても美しい。」 「やだあ。変な気持ちになっちゃう?」 「いや。そういうんじゃないけど。ただ、見とれてしまう事はあるなあ。」 「よっぽどなのね。」 「何が?」 「結構、あなた気難しいじゃない?そんなあなたが、人を家に長く泊めるなんてね。よっぽど気に入ったのね。」 「そういうんじゃないんだけどさ。」
彼女は、困った僕を見て笑う。
彼女のくったくのない笑顔が好きだ。まっすぐ人を見られる、正しさが好きだ。
「じゃあ、今日は来られないのね?」 「ああ。ごめん。」 「しょうがないわよね。その素敵な彼にもよろしくね。」
彼女は、彼女自身とそっくりな、長くてまっすぐな髪を揺らしながら、さっさと席を立ち、カウンターにカップを返しに行く。僕は、そんな彼女を幸福な気持ちで見送った。
--
実際のところ、僕は、ルイに興味を持っていた。その繊細さ。その優雅さ。何より、しゃべっていて面白いのだ。それから、彼のように物事を捉えて行動するのはずいぶんと大変だろうな、と、思う。彼の地図は複雑で、目的地は多様で、道はあちこちに枝分かれしている。一方の僕は、単純な道が一本引かれているだけの地図を持っているようなものだ。いや。地図さえ要らない。僕から見える世界はシンプルで、僕は、だから、彼が迷う事に、まともなアドバイスひとつしてやれない。
「来週には、出て行くよ。もう、足もかなり良くなったし。」 「ああ。」
そんな風にあっさりと言う彼を見て、僕はほんの少し寂しかったが、これでいいのだと思う。彼と僕では、違い過ぎる。世界の見え方がまるで違う。
--
それは、もう、そんな風に穏やかに過ぎようとしている僕の生活に、無理矢理割って入って来た。
たまたま、僕は、その日、彼女とうまく連絡が取れなくて、仕事で遅くなることが伝えられなかった。
たまたま、彼女は、僕のために録画しておいたビデオを届けるために、僕がいない間に僕の部屋に立ち寄った。
たまたま、ルイが彼女の鳴らしたドアチャイムを聞いてドアを開け、彼の手にはワイングラスがあった。
そうして、僕がようやく仕事を片付け、部屋に戻った時には、ルイと彼女が絡み合っている暗闇があったのだ。
僕は、悪い事をした少年のように、息を殺して暗闇を見つめていた。
最初は別人かと思った。僕の知っている僕の恋人は、自分から男の上にまたがって、そんな風に声を上げる女だじゃなかったから。
だが、そこにいた彼女は、僕といる時とは別人のように振る舞い、そうして、そのまま息を止めて死んでしまうのじゃないかという風に、感極まった声を上げた。
僕は気付いた時には、泣いて走り去る彼女を追い駆ける事もできず、ただ、静かに、服を着るルイを見つめていた。
「すまない。」 そう静かに言う声で、僕はようやく我に返り、それから、ルイを殴った。
一度、二度。
それから、悲しくなってやめた。
ルイは、わずかな荷物を肩に引っ掛けると、 「ほら。やっぱり、間違っちゃった。」 とだけ言い、部屋を出て行った。
--
ルイとも、彼女とも、それっきり二度と会わなかった。
僕は、ただ、淡々と、それからも自分が通って来て、それから、先に続いているまっすぐな道を歩くのみだと信じていた。
僕には分かっていたのだ。あの日、誘惑したのはルイからではなく、彼女からで。それは、避けがたく起こった事だったろう。
最初に会った時、ルイが言っていたこと。女と寝るのは、複雑で難しい。自分が求めるセックスと、自分に求められるセックスは、ルイにとってはまるで違うものだったのだ。と、今にして思えば、よく分かる。
だからといって、何もかも許されるわけではない。
--
それから、五年、十年。
僕は、実力が正しく評価される組織の中でそれなりのポジションまで駆け上がり、ボスから将来を約束されるまでになっていた。
そんな時。
僕は、決してしてはならない事をしてしまった。
ボスの女に恋をした。
彼女は、燃える瞳で僕を見て、一緒に連れて行って、と、手を差し伸べた。
僕は、どうしてその時、その手を取ってしまったのだろう。決して、道を踏み外さないで生きて行く筈だったのに。僕は、ルイじゃない。僕は、間違わない。
二人で、逃げた。スーツケースひとつだけで。手に手を取って。そんな風に追われるとは思ってもみなかった。
僕らは、多くのものを捨て、命からがら、遠くに逃げた。
安い宿で、貪るように抱き合った。
それも、また、続かない夢だった。
女が、僕を捨て、組織に戻ってしまってから、ずっと。僕は、ルイの事を思い出すようになっていた。いつも間違ってしまうルイの事を。ルイは、いつだって正しい道を必死で探そうとして。それなのに、彼は道を踏み外す。僕は僕で、正しいと思っていた一本道を見失って、もう、他の道がどこかにあることすら分からない。
--
一度だけ、ルイにそっくりな男を見掛けた。相変わらず、若々しく美しい白いスーツ姿の彼の横には、彼よりずっと年上の黒いドレスの女がいた。それは、白い悪魔と黒い天使の、一対のようで。
彼は、確かに、僕といた頃よりはずっと幸福そうに見えた。
彼は、どこかにたどり着いたのかもしれないな。そう思うと、僕は彼から預かったままの荷物を降ろしたように、ほっとした気分になったのだった。
2003年01月14日(火) |
私は、そう思いながら、新婚らしく食卓を整えて彼を待つ。幸福な家庭生活のスタートだ。 |
「あんたは、亡くなったあんたの母親にそっくりだねえ。」 そう、叔母がたびたび言う。
今になって母の写真を見たら、さして似ていない、とも思う。だが、確かに、母の右目の下の泣きボクロと、位置も大きさも同じ。
「あんたの母親は男運が悪かったよね。」 そんなところまで私が母と似ているとは言わなかったけれど、叔母は、ことある毎にそうつぶやく。
実際に、母は男運は悪かったのかもしれない。最初の夫は病死。二人目の夫、つまり私の父は多額の借金を作り、他の女と逃げた。ようやく連絡が取れたと思ったら、すでに、その女との間に二人の子を儲けており、今更戻るわけにはいかない、と、母に泣いて頭を下げた。
母は、そんな父を、 「あの人、悪い人じゃないのよ。ただちょっと弱いのよねえ。いろんなものに負けちゃうの。」 と、そんな風に言って。
本当は、ずっと帰りを待っていたのだ。
だが、とうとう、夫は帰って来ず、そのうち、子宮ガンを患っていることが分かった時には、もう手遅れで、あっという間に逝ってしまった。
「女は男次第だからね。せいぜい、ちゃんとした相手を見つけて、おばさんを安心させてちょうだいね。」 子供のいない叔母は私を実の母のように可愛がってくれ、なにかにつけ私の支えとなってくれたが、こと、結婚に関しては口うるさかった。そんな時は、私は知らん顔でやり過ごした。
二十代の前半、私は幾人かの男性と付き合い、楽しく過ごした。だが、二十代の後半になると、叔母の言葉が真実味を帯びて感じられるようになり、少しずつ焦り始めることとなる。
「ミキちゃんは、そんなに美人さんじゃないけど、男好きがする顔をしてるわよね。でも、それだけじゃ、軽く扱われちゃうのよ。男ってね、都合がいい女の事は大事にしなくなっちゃうの。」
私は、ただ、曖昧に笑うしかなかった。
--
タカツカとは、もうそろそろ、交際して一年が経とうとしていた。最近では、私からばかりが電話するようになり、下手をすれば、一ヶ月近く連絡が途絶える事もあった。あまりうるさくすると、「仕事が忙しい」と不機嫌そうに言われるから、自然、私は、我慢を強いられる事となった。
最初の頃は、タカツカのほうが積極的だった。当時、違う男性と付き合っていた私に、毎日のように電話を掛けて来て、ついには根負けした私が、彼に応じるように付き合い始めた。だが、それも、最初の一ヶ月か二ヶ月の事。次第に私のほうが夢中になり、彼を追い回すようになってからというもの、彼の態度が急速に冷たくなったように感じられた。
だが私は、タカツカにぞっこんで、叔母が持ってくる見合い話も端から断わった。そんな私を見て、叔母は、時折、やけに意地の悪い調子で言うのだ。 「もてるからって、若さを無駄に使っちゃ、駄目だよ。女は、いい相手と結婚してこそ、だからね。」
私は、曖昧に笑って叔母の家を後にする。
本当に。私は、母譲りのホクロに呪われているのかもしれない。
--
ホクロを取る事に決めたのは、もうすぐ三十になろうという時だった。お金さえ出せば、さして時間も掛からずにきれいに消せると、聞いた。
きっかけは、タカツカの見合いだった。 「付き合いだって。付き合い。どうしても断れなくてね。上司の紹介だしね。」
だが結局、彼はそのまま私を捨て、その相手と結婚してしまった。
だから。
私は、気持ちを固めていた。
たかがホクロだったが、その頃の私は必死だった。
私は、クリニックのドアを開ける。とても五十代には思えない若々しい院長が、私にニッコリと笑い掛ける。これで幸福が手に入るなら安いものですよ、と。
--
会社では、みなが一様に驚いた顔をした。長年、私のトレードマークだったホクロがなくなった事で、印象がずいぶん変わったのだ。
その後、取り引き先の男に交際を申し込まれ、私は結婚を前提に交際を始めた。穏やかな物腰の、誠実そうな男だった。タカツカよりずっと年収が多いその男と一緒になって、何が何でも幸福になりたかった。
恋人から正式に結婚の申し込みを受けた時、私は静かに泣いた。
--
やっぱり、ホクロだったのだろうか。
私は、そう思いながら、新婚らしく食卓を整えて彼を待つ。幸福な家庭生活のスタートだ。
叔母が新居のキッチンでお茶を飲みながら、言う。 「これでおばさんも安心だわ。最近は、就職だって整形で有利になる時代だものねえ。ミキちゃんがホクロ取ったのも、正解だわ。」
--
それから二年が経ち、五年が経ち。私の結婚生活は穏やかに過ぎていった。
私は、新聞広告を見て、ふと夫に言う。 「ねえ。最近、プチ整形っていうのが流行ってるんですって。私もやってみようかな。」 「そのままでいいじゃないか。」 「あら。妻が綺麗になるんですもの。いいじゃない?私、結婚前にホクロを取ったの。それで運気が変わったっていうか。あなたに出会えたのよ。」 「ホクロ?知らなかったな。」
夫は、それ以上何も言わなかった。
--
だが、幸福な家庭生活も、やがて影が差し始める。
ある頃から、夫の帰宅が遅くなった。妻の直感で、女の存在を感じる。だが、私はと言えば、女としての自信を失い始めていた時期でもあり、面と向かって責める事はできないままに、焦りを感じていた。もともとがまじめな男だけに、一度本気になったら却って根が深い。
私は夫の身辺を探る。そうして手にした、とある住所。
休日の午後。私は、買い物に出掛けてくるから、と、夫に告げ、その場所を訪ねる。ただ、見てみたかった。どんな女が夫の心を捉え、離さないのか。
動悸を抑えてドアベルを鳴らし、ドアが内側から開くのを待つ。
出て来た女を見て、私は悲鳴を上げる。
出て来たのは、私自身だったから。いえ。まさか。だが、その、泣きボクロ。かつての私と同じ、右目の下のホクロが私を見つめ返す。
ああ・・・。女の幸福は結婚ですって?だが、たった今も泣いていたようなその女と私が、どれほど手にした幸福の量において違うのか、私には到底、測りようがない。
2003年01月09日(木) |
ああ。馬鹿みたい。それだけでいいって思ってたくせに、もっともっとたくさんのものをこの場所に求めていた。 |
「カフェ ペンギン」。
そこは、大型書店の一角にあるカフェだった。図書館司書の私は、水曜の休みにはそのカフェで、買ったばかりの新刊書の香りを楽しみながら、もどかしい気持ちで頁をめくる。
「カフェ ペンギン」では、ずいぶん早い時期から小柄でペンギンのようにチョコチョコと歩くマスター以外は、いわゆる、可愛らしい青年達を取り揃えていた。中高年の女性が多い平日の午後、息子のような年頃の青年達が働くようになってから、カフェはいつもにぎわっていた。
私は、「カフェ ペンギン」がそんな場所になる前からその場所を利用していた者として、いささか不快に思うことがないでもなかったが、ともかく、私の目的は真新しい本を読む事。いったん本を開いてしまえば、周りの様子など気にならなくなる。砂糖とクリームをどっさりと入れたコーヒーがすっかり冷えてまずくなるまで、私は本を読みふけった。
マスターも、同じような心持ちだったのではないか。ただ、ひたすら、絶品の笑顔を持つ若者達が運んでくるオーダーに応じて、黙々とコーヒーを作り続けるのみだった。
私は、そのマスターを愛していた。その。男性という意味ではなく。人物として。
--
それは、木曜日に起こった。
それまで、私の休みは水曜日だったのだが、年が明けてからは木曜日に変更になったのだ。私は、何気なく、いつものように新刊書を買い、「カフェ ペンギン」に入ろうとした。だが、いつもと違う様子に、思わず足を止める。どこが違うって。それは、店内に客がいない事。いつものように、本など読むことがあるのだろうか、おしゃべりに興ずる女達が一人もいない。
今日は休みだったかな。
私は、中をそうっと覗く。と、一人の給仕がにっこり笑って、どうぞ、というように首をかしげる。
私は、思い切って中に入った。
カフェのマスターは相変わらず。客なんていないのに、忙しそうだ。
「今日は?」 「今日は、店は定休日なんです。」 青年は、笑顔で答えた。
男性とこんな風にしゃべることなんて滅多にないのに、こんなにもリラックスできるのは、多分、彼の寝癖のせい。気付いてるのかしら。
「お店が休みなのに、私、いいの?」 「ええ。今日は、あなたのためだけに。」 「冗談でしょう?」 「いいえ。本が本当に好きな、あなたのためだけ。」 「まあ、いいわ。」 「メニューを。」
普段は、メニューを見もせずに、ホットとぶっきらぼうに告げる私が、今日は彼とちょっとでも話がしたくて、メニューをにらむふりをする。
「本日のコーヒーって?」 「日によって、店長が決めるんです。」 「今日のは?」 「ガテマラです。」 「ああ。ごめんなさい。私、コーヒーの銘柄とか詳しくなくて。おいしいのかしら?」 「試してみます?」 「ええ。」
その彼は、笑顔を残して立ち去る。
私は、早速いつものように買った本を開くが、ろくに活字が読めない。こんな事、初めてだ。
ほどなく、コーヒーが運ばれてくる。
「これが、ガテマラ?」 「ええ。香りを楽しんで欲しいから、どう?砂糖もミルクも入れずに飲んでみて。マーブルチーズケーキは、僕のおごり。コーヒーの喉越しがすっきりしてるから、合うと思うよ。」 「ありがとう。」
なぜか、私の手は震えている。そっと口につけたコーヒーは、思ったほど苦味がなく、私は、おいしいわよ、という笑顔を返す。
「ごゆっくり。」 彼も、安心したように微笑んで、くるりと背を向ける。
ああ。待って。もうちょっと話しをしていたい。今日の私、どうかしている。
--
それからは、私は、毎週、木曜日。誰もいないカフェで、同じ彼と短い会話と、さまざまなコーヒーを楽しむ。それだけで幸福だった。変なの。いつも、気後れして、図書館に来る男性ともほとんど会話できない私が。
マスターは、相変わらず忙しそう。私は、新刊の本と、熱いコーヒーと、とびきりの笑顔。ずっとそんな生活が続くと思っていた。
--
ある日の事。
私は、その立て札を見て、心臓が止まりそうになる。
「カフェ ペンギンは、昨日を持ちまして営業を終了致しました。長年のご愛顧ありがとうございました。」
そこは、改装され、どうやら、まったく別の店が入るらしい。私は、不意に涙が溢れて止まらなくなる。ああ。馬鹿みたい。それだけでいいって思ってたくせに、もっともっとたくさんのものをこの場所に求めていた。
「どうしました?」 背後から、声。
振り向くと、そこにはペンギンが。
「ああ。ごめんなさい。あんまりびっくりしたものだから。」 「私も、残念だ。」 「どうして?素敵なお店だったのに。」 「従業員の一人が、客とトラブルを起こしてね。どうやら、金が絡んでるみたいなんで。しかも、そのご婦人、この書店のオーナーの知り合いと来た。」 「それで、急に?」 「ああ。仕方がない。若くて可愛い男の子を揃えてちょうだいって言ってたのも、ここのオーナーだしね。」 「素敵なお店だった。あなたのコーヒー、最高だったわ。」 「きみはいつも、本に夢中だった。」 「ええ。ごめんなさい。」 「いいさ。最初は、そんな客にコーヒーを飲ませたくて、この店を始めたんだしね。」 「これからどうするの?」 「さて。どうしようかな。どうだい?最後に、コーヒー、飲んでかないか?」 「いいの?」 「ああ。いいさ。」 「じゃあ、お願いするわ。」 「お目当ての彼は、もういないけどさ。」 「いいのよ。」
私は、頬を赤らめる。
「おや。読むものを持ってないね。」 「ええ。今日は、とてもそんな気分じゃないわ。」 「じゃあ、私が書いた本を読んでくれるかな?」 「いいけど。マスターが本を?」 「ああ。」
ペンギンがトランクの中から出した、その本は、クールなブルーの表紙。頁をめくると、そこには、恋に不器用な女の子の物語が書かれていた。私は、驚いて、ただ、引き込まれて、ブルーのインクで書かれたその本を。
--
さて。ペンギン・カフェは、もう終わり。その青年は、薄っぺらな封筒を受け取り、私の顔を見る。本が大好きで、本を買うためにバイトしたいとやって来た。
「せめて、最後に彼女に伝えたかったのに。」 「仕方ないさ。急に決まった事だ。」 「なんとか、メッセージを伝えられないかな。」 「それは。まあ、私の知ったこっちゃない。ここで待ってれば、会えるんじゃないかな?」 「そうだね。マスター、今までありがとう。」
その若者は、寂しそうな顔で、最後のバイト料をジーンズの尻ポケットに突っ込むと、立ち去ろうとした。
「待ってくれないかな。今まで、お客様アンケートに答えてくれた人にハガキを出すのを手伝ってくれるかな。」 「ええ。いいですよ。」 「じゃあ、お前はこれを頼むよ。本が大好きな、内気な図書館司書の女の子に。」
若者は、顔を輝かせ、頭を下げて走り去る。
私もあんなだった。本が好きな女の子と、恋を。そうして、このカフェを。
--
私は本を閉じ、マスターを見る。マスターは相変わらず無愛想で。コーヒーは、いつもより、ほんのちょぴり苦かった。私は、最後のコーヒーを飲むと、席を立つ。
「ありがとう。」
--
次の日、私は、いつものように図書館で、ちょっぴりつまらなさそうな顔で座っている。
「あのう。ペンギンに関する本を探しているんですが。」 「本の検索でしたら、そちらのパソコンを・・・。」
言いかけて、私は、息を飲む。
その寝癖は、確かに見覚えがあって。私は、おかしくて笑い出す。彼もつられて笑い出す。静かな図書館では、ひんしゅくものも笑い声。
2003年01月08日(水) |
私は恋をしていたのだ。間違いと分かっていてやめられるようなら、そんなものは恋ではない。 |
物心ついた時から、私は特別だった。今、私は、世間からは「教祖」と呼ばれ、教団の中では「おかあさま」と呼ばれる。二十歳そこそこの小娘をおかあさまと呼ぶ、その集団の中で、私は孤独だった。実の母は、私が教祖になってから得たお金のせいで遊び歩いてばかりで、まるで母親らしいところがなかった。唯一は私のそばについて世話をしてくれるミヤコという女性が、私の母親であり姉のような存在だった。
私の能力は、ただ、「感じる」ことだけだった。目の前にいる人の苦しみや喜びを感じ、そのままを理解してしまう。ただ、それだけの能力が人になんの益をもたらすのか。よく分からないまま、目の前に連れて来られた人の悲しみが胸に迫ってくれば共に泣き、喜びではちきれそうならば心から笑った。
「ねえ。ミヤコ。私は、ただ、今日は子を失った母親と共に泣いただけだわ。それが何の助けになるというの?」 「あなたさまは、心の底から泣きました。それが大事なのです。」 「分からないわ。」 「分からなくて良いのですよ。人々は救われます。」
ミヤコは、そっと微笑んだ。
ありとあらゆる人の感情を受け入れてしまうと、私は心身共に疲れてしまう。だから、普段は、私は心に「ふた」をし、余計なものが入り込まないようにする。
ミヤコが寝床を整えてくれる。
「おかあさま、ゆっくりおやすみなさいませ。」 「ミヤコ。待って。」 「なんでしょう?」 「足を、大事にね。今日は、ずっと辛そうだったわ。」 「はい。申し訳ございません。」 「いいの。余計な事だとは思うのだけど、あなたにはずっと元気で私に仕えて欲しいから。」
自分の心身の波が全て伝わってしまうのは、ずいぶんと落ち着かない事だろう。だが、ミヤコはよく耐えてくれている。だから、私も今日までやってこれた。
私は、ミヤコが部屋に下がると、布団に倒れ込みひたすら夢のない眠りを眠った。
--
人の気配で目が覚めた。その少年は、ナイフのような目でこちらを見ている。一目見た時、私は息がうまくできなくなった。
「だれ・・・?」
だが、少年はそのまま姿を消し、私は夢を見たのかと。
ミヤコが気付いて、様子を見に来た。 「どうかなさいました?」 「人がいたの。」 「誰もいませんが。」
だが、私には分かっていた。少年の気配は、辺りに濃く漂っていた。
ミヤコが去った後、私は、声を掛けた。 「あなたは誰なの?」
少年は、私の前に姿を見せた。 「分かるのか。」 「ええ。」
私は、また、息苦しさに見舞われる。
「気配がするの・・・。」 「なるほど。本物の教祖様の前では隠れる事もできないってわけだな。」 「あなたは?」 「ここに金目のものがあるかと、迷い込んだ。」 「早く出て行きなさい。私の部屋には何もないわ。」
しゃべりながら、私は、その少年から出てくる強烈な感情の渦を理解しようと必死だった。なぜ、この人はこんなにも強く渦巻く感情を抱いたまま生きていられるのだろう?怒りや悲しみや恐れといった感情が入り混じり、今にも鼻や耳から噴出しそうだった。
「見逃してくれるのか。」 「ええ。だから、お願い・・・。」
私は、そのまま気を失った。
--
気付くと、そこはみすぼらしい部屋だった。
「ここは?」 「俺の家。」 「私を連れて来たの?」 「ああ。あんた、起きないからさ。殺しちまったかと思った。殺人犯になるのは嫌だしな。」 「名前は?」 「ケン。」 「私は・・・。私は、シホ。」 「そうか。シホか。可愛い名だなあ。」
少年は微笑んだ。ものすごく暖かい感情が流れ込み、私も釣られて笑った。実の名を人に呼ばれたのは本当に久しぶりだったから、とても幸福だった。
「早く戻らないとな。あんた、有名人だろ。今頃、大騒ぎになってるよ。」 「いいの。」 「え?」 「いいの。ここにいて、あんたと暮らす。」 「馬鹿な。俺は、ケチな泥棒だぞ。」 「いいの。お願い。ここに置いて。」
私は、必死の顔で頼んだ。ケンは困惑していたようだが、いいよ、と笑ってみせてくれた。
そうして、私達のままごとのような生活が始まった。
ケンは、私を特別扱いしなかった。
心のどこかで、声がする。こんなことはよくない。早く教団に戻りなさい、と。だが、私は少年の深い深い心の不思議に惹かれ、どこにも行きたくなくなっていた。
私は恋をしていたのだ。間違いと分かっていてやめられるようなら、そんなものは恋ではない。今まで多くの激情を目にして来た。その激情がどこから来るものか、今分かった気がする。ただ、間違った道の先にあるものが、欲しくて欲しくてどうしようもないのだ。
私達は、抱き合って眠り、いつも一緒だった。
そうして、語り合った。ケンは、親に捨てられた不幸を。私は、娘らしい生活を失った悲しみを。自分の事についてこんなに考えたのは初めてだった。私は、少しずつ、ケンを理解し、自分を理解され、そうして、ケンといて感じる痛いような感覚はだんだんとやわらいでいった。
--
月日が経ち、気付いた時には、私はすっかり能力を失っていた。そうして、ケンはすっかり太り、昔のナイフのような瞳はどこにも見当たらなかった。私達は、すっかり平凡な夫婦になっていた。もうすぐ、子も生まれる。
ある日、私を訪ねて来たのは、ミヤコだった。
「教祖さま。探しました。」 「ミヤコ。よく分かったわね。」 「ずっと探していましたから。」 「世間は、とっくに私を忘れたかと。」 「世間や教団の意思ではありません。私個人の意思です。」 「ミヤコ。あなたには悪かったと思ってるわ。あなたと会えない事が一番辛かったの。」 「教祖さま。」 「もう、その呼び方はやめて。私は、普通の人間になったの。」 「お金をお持ちしました。」 「まあ。要らないの。今、あるもので充分よ。」 「教祖さまが受け取られるべきお金です。」 「いいの。お願い。そのお金を受け取るようなこと、私は何もしていなかったもの。ただ、相手に合わせて笑ったり、泣いたり。ただ、それだけ。」 「それで救われた人が多くいます。」 「違うの。私は、救ったりしてない。彼らは、結局は、自分の力で救われたのよ。ねえ。ミヤコ。私は何も分かってなかった。ただ、鏡のように感情を映していただけだったの。でもね。今は違うわ。私は、自分の中から、あなたに似た感情を探して、そうして、あなたを分かるのよ。」
ミヤコは、私の言った事を分かってくれたのだろうか。私の目を覗き込むように見た後、立ち上がり、私をそっと抱き締めた。
「また、遊びに来てちょうだい。もうすぐ赤ちゃんが生まれるの。」 「ええ。ぜひ。シホ様に似た、可愛らしい子が生まれるでしょうね。シホ様をお世話させていただいたように、赤ちゃんをお世話させていただけるなら、また、時々寄らせてもらいます。」 「ええ。そうして。」 「シホ様。こうやってお目にかかれて良かった。とても幸福そうですね。」 「ありがとう。」 「あの頃より、ずっと力強く励まされます。」
私は、ミヤコが見えなくなるまで手を振った。お腹の赤ちゃんが、強く内側から私を蹴っている。
ねえ。もうすぐよ。あなたが、この素敵な世界に出て来るのも。私は、内なる幸福に溜め息をつく。
2003年01月07日(火) |
それしか、愛の形を知らなかった。若い男に抱かれただけで舞い上がり、やさしい夫を捨て、 |
その時の彼の表情を、私は、今でも鈍い痛みと共に思い出す。
「家を出て来たの。」 私は、少女のように誇らしげな表情で彼に告げた。
「何だって?」 彼は、意味が分からないというように、ポカンと口を開けてこちらを見た。
「だから。家を出て来たの。もう、私達、ずっと一緒にいられるのよ。」 「馬鹿な。なんて馬鹿なことをしたの?暖かい家庭を捨てて、こんな、何も持たない僕のところに来たって言うの?」 「ええ。そうよ。それは、あなたも望んでいたことかと・・・。」 「いや。きみは、何か根本的に考え違いをしているよ。」
私は、その瞬間、頭の中がぐるぐると回り、何がなんだか分からなくなった。どちらが上で、どちらが下で、右はどちらで、左はどちらか。何もかもが分からなくなり、そこに座り込んでしまったのだ。
私は、本当に、愚かだった。それしか、愛の形を知らなかった。若い男に抱かれただけで舞い上がり、やさしい夫を捨て、新しい結婚生活を夢見た。
--
「別れてください。」 数週間前、私は、やさしい夫に何と理由を言えばいいのか分からず、泣きじゃくりながら、そう告げたのだった。
「はは。何を言ってる?」 夫は、ただ、とまどっていた。
「お願い。別れて。」 「だから、どうして?」 「それは言えません。」
押し問答が続いた。それから仕方なく私は夫に、 「好きな人がいるの。」 と、打ち明けた。
「好きな?それが原因なのか?」 「ええ。」 「言ってみろ。どんな男だ。」 「まだ、学生なの。」 「驚いたな。そんな男にきみを養えると言うのか?」 「養ってもらおうなんて思わない。ただ、一緒にいたいの。」 「どうやって食べる?」 「働くわ。」 「きみが?急に働くことなんて無理だ。」 「そんな風に言わないで。これでも、あなたに会う前は、ちゃんと働いていたもの。」 「親に口をきいてもらった勤め口で、OLの真似事をしていただけだろう?」 「ひどい事、言うのね。」 「僕は、ただ、現実を言ってるんだよ。恋は、勝手だ。僕には阻止できない。だが、食べて行かれなくちゃ、恋も夢も、無力だ。」 「やってみせるわ。あの人とだったら、なんだってできそうなの。私、新しい恋に出会ってしまって、そうしてもう、戻れないの。」
その時、夫がいきなりこぶしを振り上げるから、私は、きゃっと叫んで、その場にしゃがんで頭を抱え込んだ。
それから、五分?十分?何も起こらないから、そうっと顔を上げて夫を見た。そこには、ただ、握ったこぶしを震わせて泣いている男がいた。
あなた、ごめんなさい。私は、最低限の物を詰めたスーツケースを抱えて、急いでタクシーに飛び乗った。
心がドキドキしていた。泣いている夫を見たのは初めてだった。
--
何とか頼んで、安アパートの部屋に入れてもらった。
「つまり、家に戻れと?」 「ああ。そうしたがいい。僕は、きみに何もしてあげられない。」 「何もしてくれなくていいのよ。ただ、一緒にいて。何かをしてくれなんて望まない。一緒に作って行きましょうよ。生活を。」 「違うんだ。違うんだよ。僕は、きみが他の男に養われて幸福そうだったから、興味を持った。きみは、その幸福を捨てるべきじゃなかった。」
彼に手渡されたマグカップを受け取ると、私は、混乱した頭で何を言えばいいのか分からなかった。
「私をもてあそんだの?」 「そうじゃない。」 「なら、どうして?」 「僕は、誰とも結婚したくない。何の責任も負いたくない。」 「なら、私はどうしたら良かったの?」 「そのまま、動くべきじゃなかった。安定した企業に勤める旦那さんと一緒にいるべきだった。」 「私、そういうの嫌だったの。夫に食べさせてもらいながら、夫を裏切るなんて、どうしてもできなかった。そんなの、厚かまし過ぎるもの。」 「だが、きみに何ができる?僕は、何とか仕送りとバイトで食べているだけだ。きみみたいな女がいきなり仕事を探したところで、何ができるというんだ?」 「夫と一緒の事を言うのね。」
私は、最後のプライドを振り絞り、その安アパートを出る。
ビジネスホテルの一室で、私は、声を張り上げて泣いた。私は、今日、幸福な恋人同士になることを夢見て家を出た。
手持ちのお金が尽きる前に仕事を探さなくては。私は、翌日からハローワークを訪ね、あちらこちらへ面接に行った。だが、十年も専業主婦をしていた女には、なかなか仕事は見つけられない。
そうやって、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ。
私は、自分を拒んだ恋人を恨みに恨んだ。友達に電話をし、怒りをぶちまけたりもした。だが、嵐が過ぎ去ってみれば、もっとも傷ついたのは、自分ではなく、夫ではないかと気付く。
せめて、謝ろう。許してくれなくても。私は、何度も何度も手を止めながら、ようやく、夫の携帯電話に電話する。
「もしもし?」 「きみか。」 「ええ。」 「今、どうしてる?」 「今?今は、一人よ。」 「恋人とやらは?」 「うん。あれはね。私の勝手な独り相撲だったの。おかしくなってたのよ。私。馬鹿みたいね。」 途端に涙が溢れ出す。
夫は、私が落ち着くまで、そこでずっと待っていてくれた。
「ああ。ごめんなさい。」 「傷ついたんだね。」 「ええ。まあ。でも、誰かを恨むのは間違いだって分かったの。」 「今、どこ?迎えに行くよ。」 「いいの。私、あなたに合わせる顔がないから。」 「いいから。行かせて欲しい。」
私は、ホテルの名前を告げる。
--
二時間後、夫は、片手に私のスーツケースを。もう片手で、私の右手をそっと握った。
「今夜は、うちに泊まってくれるんだろう?」 「ゲストルームは、お掃除してないわ。」 「じゃあ、うちで一番いい部屋に泊まってくれ。」 「一番?」 「ああ。僕と、きみの部屋。」 「いいの?」 「ああ。」 「他の誰かを探しても良かったのよ。」 「きみがいいんだ。」 「許してくれるの?」 「許すからじゃなくて、きみが好きだから戻って来て欲しい。」
私達は、無言で歩く。
日が暮れかけた町は、小雪がチラつき始める。二人の息が白い。
「寒くなったわね。あなた、寒いの、大の苦手なのに。」 「寒いのも、たまにはいいさ。誰かといると暖かいって事が、はっきり見えて、さ。きみの息が白く見えるのさえ、なんだか、あったかい。」
私達は、恋人同士のように、言葉を選びながら。いかに、相手を素敵かと伝えようとしていた。
「ねえ。私、十年前と、男性の趣味が一緒みたい。」 「そうなの?」 「ええ。」 「なら、良かった。」 「今、気付いた。」 「そうか。」
彼は、照れくさそうに、笑う。
ほんとう。忘れてた。いつも、暖かい場所にばかりいて。
2003年01月03日(金) |
おばあさんは、ドアの外に立って、二匹のウサギが何度も立ち止まり、振り返るのを見送った。 |
その、小さな家で、おばあさんは一人ぼっちで暮らしていた。おじいさんが亡くなってからというもの、寂しくて、寂しくて、泣き暮らしていた。あんまり泣き過ぎて、このまま死んでしまうかもしれないと思うほど、泣いた。
こんなことでは死んだおじいさんに申し訳が立たないと、気力を振り絞って買い物かごを持って外に出ようとした時。どこからか、小さなヒーヒーという鳴き声が聞こえる。足元のカゴから、その鳴き声は聞こえてくるようだ。
「おや。子猫かしら。」 おばあさんは、駆け寄ってカゴの覆いを取った。そこには、小さな小さな、まだ目も開いていないウサギの赤ちゃんがいた。
「おや。おまえはウサギのくせに、変わった子だね。子猫のように鳴くんだね。」 おばあさんは慌てて、カゴを家に持って入ると、その子ウサギを暖かい毛布でくるみ隣の家にミルクをもらいに行った。
おばあさんは、その晩は、心配で一晩中起きていた。
一週間経った時には、子ウサギは、たくさんミルクを飲むようになり、だんだんと柔らかい純白の毛が生えそろって来た。その頃には、もう、おばあさんには分かっていた。ウサギの子は、子猫ではなく、人間の赤ちゃんのように、泣き、笑う。二ヶ月が過ぎる頃には、あー、とか、うー、とか。片言で何かをおばあさんに伝えようとするから、まるで人間の赤ん坊がそこにいるように思えるのだった。
おばあさんは、ウサギの赤ちゃんのために暇をみては、小さな家具を作ってやったり、村の子供が読み古した絵本をもらって来たりした。
「おばあさん、最近、元気が出たようね。」 村の人々に声を掛けられると、おばあさんは笑って、 「町に嫁いだ娘に赤ちゃんが生まれたんでね。」 と、返事を返した。
本当に。おばあさんは、自分でも驚くぐらい元気を取り戻していた。
八ヶ月が過ぎる頃には、ウサギの子は、すっかり人間のようにしゃべるようになり、おばあさんにいろんな質問をしておばあさんを困らせるようにもなっていた。おばあさんは、たくさんたくさんの絵本を読んでやる。ウサギの子は、丸い目をくるくるさせて、おばあさんの読む物語に聞き入る。
おばあさんは、幸福だった。ウサギの子も幸福だった。
ウサギの子は賢い子だったから、すぐさま、自分が普通の人間の子供ではない事を悟り、おばあさんが村で変な噂を立てられないよう、誰かが訪ねて来ている時は、一言もしゃべらないように気をつけて暮らした。
「お前は、本当に、神様が授けてくださった宝物だよ。」 おばあさんは、毎晩のようにウサギの子の背を撫でながらつぶやいた。ウサギは、おばあさんに寄り添い、眠るのだった。
そうして、一年が過ぎ、二年が過ぎた。その頃には、ウサギは、今では、自分がおばあさんのために新聞や雑誌の記事を読んであげられるようになっていた。
「ねえ。おばあさん。」 ある日、揺り椅子で幸福そうに目を閉じているおばあさんに向かって、ウサギは、言う。
「なんだい?」 「僕、ウサギなのに人間みたいにしゃべれるのって、変だよね。」 「その言葉に、私はどんなに元気づけられたことか。」 「僕、いつかおばあさんが困った時は、この声でおばあさんを助けようと思う。今は小さくて何にもしてあげられないんだけど。」 「まあまあ。そんな事、いいんだよ。おまえがここにいてくれる事が私の幸福なんだよ。」
ウサギは、くやしかった。おばあさんが、もう、ずいぶん年老いているのに、何も手伝ってあげられない事。ああ、僕が、本当の人間だったら。
「お前は、お前でいて。それが一番。」 おばあさんは、そういって微笑む。
おばあさんの家からは、時折、おばあさんが何やらしゃべる声が聞こえてくる、と、噂が立った。村では、おばあさんが寂しさのあまり、ボケちまったんじゃないかと言う人もいたけれど、二人はそうやって幸福だった。
--
そんな幸福な日は、ある日終わりを告げる。
ドアをノックする音。
「だあれ?」 おばあさんは、ドアを開ける。が、誰もいない。
「あら。誰もいないわねえ。」
その時、ふと下を見ると、ウサギの赤い目がおばあさんを見ていた。
「あら。坊や、どうしたの?」 と、言おうとして、おばあさんはすぐ気付く。自分の可愛い坊やではない。その時、背後から駆け寄るおばあさんのウサギ。
二匹のウサギは、何やら話をしていた。人間には分からない言葉で。ずいぶんと長い時間。おばあさんは、不安になって、胸の前で両手を合わせる。
話し終えたウサギがこちらを見た時、おばあさんは悟った。 「行ってしまうんだね?」
おばあさんのウサギはうなずく。それから、説明をする。外で待っているのは、僕の本当の母さんだという事。この家のおじいさんに昔助けられたウサギであること。そうして、おじいさんが亡くなった後、おばあさんの身を心配して、自分がこの家に寄越された事。
「ごめんなさい。」 ウサギは、言う。
「何を言ってるの。私は、もう充分よ。あなたがあの日、私の家に来なかったら、私は、とっくに死んでしまってたわ。」 おばあさんは、微笑んで見せる。
「僕、またいつかここに来るよ。」 「いつでもいらっしゃい。ここはあなたの家よ。いつだって。」
おばあさんは、ドアの外に立って、二匹のウサギが何度も立ち止まり、振り返るのを見送った。
おばあさんは、部屋に戻り、おじいさんの写真に話し掛ける。 「あの子はあなたが残してくださった贈り物だったのね。」
--
時が経ち、ある日、おばあさんはベッドから起き上がれなくなってしまった。
「おじいさん、もうすぐ、そちらに行くみたいですよ。」 おばあさんは、最後にあの子に会いたいと思った。実の娘達は、もう、都会に出て行ったきり、一度も戻って来ない。それは仕方がない。二人共、ここを忘れるぐらいに幸福なのだろう。でも、あの子は。ちゃんとやれているだろうか。長く人間に育てられたウサギに、ウサギらしい生活が送れているのだろうか。
おばあさんは、もう、ずっとベッドの中。子ウサギの夢を見ていると、誰かがそっと手を握って来た。
おばあさんが目を開けると、そこには美しい少年がいた。
「ああ。帰って来てくれたんだねえ。」 おばあさんは、その手を握り返した。
少年は、言葉をしゃべる事ができなかった。黙って、おばあさんに消化のいい食べ物を作り、シーツを清潔なものに取り替えてくれた。この家の事を何でも知っているようだった。
それから一週間、おばあさんは、夢のような日々を送った。孫がいたら、こんな子供になっていただろう。そう思った。言葉はしゃべる事ができなくても、とびきりの笑顔を見せてくれた。
「ねえ。本当だったんだねえ。あんたは、声と引き換えに、ここに戻って来てくれた。そうだろう?」 少年は、何も答えなかった。
おばあさんは、目を閉じたまま、ここ最近なかったぐらいにいい気分だった。
そのまま、おばあさんの手が冷たくなってしまうまで、少年はずっとおばあさんの手を握ったまま、そこから動かなかった。
--
ある家で、それまで声が出なかった少年が、一週間、昏々と眠り続けた後で目を覚まし、突然しゃべり始めた。
奇跡だ。と、家族がみんなで抱き合って喜んだ。
「夢を見た。ウサギがやってきた。それから、僕、とってもやさしいおばあさんのところで、お世話をしてあげたんだ。」 少年は、そっと、母親に打ち明けた。
「それは、いい夢ね。」 母親は、少年の声をうっとりとした表情で聞き入っていた。
2003年01月02日(木) |
彼女は、もう、泣かなかった。それは、毎夜の事だから。そうして、彼女を一晩中抱き、彼女は快楽の渦に我を忘れる。 |
彼女は、その日が来るまで幸福だった。ハンサムなやさしい夫の愛を盲目的に信じ、体も心もすっかり預けていたのだ。
その日も、 「いってらっしゃい。」 と送り出した時、いつもの笑顔で応えてくれた。
それから、夫が帰宅するまでの時間、ただ、夫の好む食事のメニューを考え、夫のワイシャツにアイロンをかける幸福な妻でいればよかった筈なのだ。
だが、いつも夫が帰宅する時間、夜の八時になっても、夫は帰って来ない。たまには残業もするだろうと、九時まで待っても、十時まで待っても、一向帰ってくる気配がない。十二時が回った時、とうとう彼女は泣き出してしまった。それから、なぜ連絡がないのかと考えた。もしや、事故にでもあったのかと、まんじりともせず朝まで起きていたが、結局、電話のベルは一度も鳴らなかった。
彼女は、どうしていいか分からなかった。会社の始業の時間が来たところで、夫の勤め先に電話をしてみたが、本日はまだ出社していないとの返事。夫の同僚に問い合わせてもらっても、昨日は定刻には会社を出たという話だ。彼女は、半狂乱になり、警察やら病院に電話を掛けまくった。しかし、結局、夫らしい人物の情報は得られなかった。
失踪。
そんな言葉が頭をよぎる。だが、何度思い返しても、原因になるような事は思いつかない。
彼女は、夫のいない生活を何とか受け入れようとしたが、駄目だった。
そうして、夢を見るようになった。
最初は、夫が、まぶしい笑顔をこちらに向けて、 「帰って来たよ。」 と、言う。
そこで目が覚めていた。
それから、次第に、 「遅くなってすまなかった。寂しかったろう?」 と、夫が彼女を胸に抱いて、きつく抱き締める夢を。
それから、泣いて、どこにも行かないで、と叫ぶ彼女に、 「馬鹿だなあ。もう、どこにも行かない。」 と、唇を重ねてくる夢を。
寝る事だけが楽しみだった。寝れば、彼に会える。彼は、彼女を抱き締め、決して離さない。唇の暖かい感触に心が安らぎ、彼が服を脱がせる指先は彼女の体を溶かして行く。
彼女は、もう、泣かなかった。
それは、毎夜の事だから。そうして、彼女を一晩中抱き、彼女は快楽の渦に我を忘れる。
彼女は、昼間は、ただ、夜を待ってぼんやりと過ごし、夜は、体をきれいに洗い、彼が好んだ香りをつけて床に入る。
そうすると、今夜も。
「帰って来たよ。」 という言葉で始まる二人の夜。
そうやって、三年が過ぎ、五年が過ぎ、知人が失踪届を出す事を勧めても、再婚を勧めても、彼女は笑って首を振った。
なおも、十年が過ぎ、二十年が過ぎ。彼女は、老いていった。だが、夢の中の夫は、変わらず若々しく、夢の中の彼女もまた、若く美しいままだった。そうして、若いままの肉体で抱き合う。疲れを知らず、終わりを知らず、何度も何度も、交わり続ける。
「きみにどんどん夢中になる。なんてかわいらしいんだろう?ほら。この乳房。この肌。」
彼女は、それで充分だった。
--
もう、彼女は、今ではすっかり年老いてしまった。だが、人々は、時折、彼女が熱っぽい目で空を見る時、どきっとするのだ。まるで少女のような顔に見える事さえある。しわだらけの顔。たるんだ、首筋。薄くなった髪の間から地肌が透けて見える。なのに、ともすれば、艶っぽい声を立てて笑う。それは、気味が悪いぐらいだった。
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その家の前を、一人の老人がうろうろと歩いている。何度も立ち止まり、ドアチャイムを鳴らそうとし、また、首を振って立ち去ろうとする。しかし、また、振り向いて、その家の表札を指でなぞり。
ついには、意を決したのか、老人は、玄関を開け、中に入って行く。
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「誰なの?」 少し耳が遠くなった彼女は、誰かが家に入って来たのに驚いて、大声を出す。
「俺だよ。お前の夫だよ。」 老人は、慌てて叫ぶ。
「私の・・・。夫?」 彼女は、その老人をじっと見て。それから、首を振る。
「違います。私の夫は、あなたみたいなおじいさんじゃありません。」 「何を言ってるんだ。あれから五十年は経った。もう、お互い、いい年じゃないか。」 「いいえ。私の夫は、背がもっと高い。それに、歯が自慢なの。真っ白な歯を見せてにっこり笑うのが素敵なのよ。」 「おい。そりゃ、俺は、確かに背も縮んだし、歯はすっかりボロボロだよ。だが、お前だって、いいばあさんだ。」 「まあ。この人、さっきから何を言ってるのか分からないわ。ねえ。いい加減にしてくださいね。」 「俺が悪かった。惚れた女がいたんだ。その女の暴力亭主から女を助けるために、女と逃げた。だが、その間、一度もお前を忘れた事はなかったんだよ。」 「あら。面白い事をおっしゃるわねえ。」
彼女は、笑った。大声で。
「ねえ。あんたが、本当にあの人なら、私を抱いてごらん?その老いぼれた体で。いつもみたいに、私を楽しませてみてちょうだい。あんたみたいな年寄りにそれができるとは思えないけどね。」 「そりゃ、無理だ。ずいぶん前に、病気してね。もう、そっちは駄目なんだよ。」
彼女は笑いが止まらなかった。そりゃそうでしょうよ。あの人に似ても似つかないこの男に抱かれるなんて。この白いピチピチの肌に触れられると思っただけで虫唾が走るわ。
そうやって、いつまでもいつまでも。彼女は目の前の貧相な老人に向けて笑い続けた。
2003年01月01日(水) |
まして、あんな金持ちの、美貌の夫人を奪ったとなったら、いずれにしてもここにはいられない。 |
その庭の頑丈な鉄柵の塀越しに、彼女はこちらを見て笑いかけていた。もしかしたら、頭のねじが緩んでいるように見えなくもない、あまりにも開けっぴろげな笑顔に、僕は一瞬ひるんだ。
「いつも、この時間に通るのね。」 彼女は、そう話し掛けて来た。
「ええ。散歩で。」 「ふうん。」 「好きなんです。この町が。」 「そう・・・。」 「あなたは、この家の人?」 「ええ。そう。」 「素敵な家だと思ってたんです。」 「まさか。」 「本当ですよ。庭の木はいつも手入れされてるし、季節の花が美しく咲いている。」 「そう見えるとしたら、それは、塀越しだからよ。」 「実際は?」 「実際?つまらないところ。」
美しいその人は、吐き捨てるようにつぶやく。でも、その声は、あまりにか細く消えそうな声なので、僕はちっとも不愉快ではなかった。
「知らなかったな。ここ、毎日通っていたのに、誰が住んでいるかも、全然気にしたことがなかった。」 「じゃ、知って。ここで、私、いつも外を見てるわ。」 「娘さん?」 「いいえ。こう見えても、私、奥様なのよ。」 「そう。残念だな。」 「でも、とっても退屈してるの。だから、時々、こうやって話し相手になってくれたら嬉しい。」 「話し相手ぐらいなら喜んで。」
僕は、彼女に微笑んで見せた。
彼女も、微笑み返した。
--
その日から僕は、散歩の時間を心待ちにするようになった。ほとんどの場合、彼女は、そこにいて、僕が通りかかると駆け寄って来てくれる。たまに遅い時間になったりすると、口を尖らせて、寂しかったわ、と。そんな美しい人妻が僕を心待ちにしてくれるなんて、それだけで嬉しかった。
「明日は、会えないんだ。」 そう言うと、彼女は顔をみるみる曇らせて、今にもその瞳から涙があふれそうに見える。
本当は、明日とて何も用がない。むしろ、彼女に会うためなら、何を置いても駆けつけたいところだが、僕は、毎日のようにここで立ち話しをするのははばかられたし。何より、彼女に本気になってしまうのが怖かった。
「何があるの?時々、会えないっておっしゃるのね。」 「ああ。それは・・・。」 「ごめんなさい。私に言う筋合いはないわよね。私とあなたは、ただ、こうして毎日、こちらと向こうでおしゃべりするだけの仲だもの。」
彼女は、恥ずかしそうに、寂しそうに、笑ってみせる。その睫毛が、僕の心をかき乱す。
「たまには一緒に散歩しないか?」 僕は、勇気を出して誘ってみる。
「え?」 「散歩ぐらい、いいんじゃないかな。ほら、ご主人には健康のためとか何とか言って、さ。」 「素敵そうね。」 「素敵さ。季節を感じる。木々のささやきを聞いたり、道端の花に話し掛けたりするんだ。」 「ああ。そんな風にできたら、どんなにいいかしら!」 「おいでよ。」 「無理。それは絶対に。」 「どうして?」 「だって・・・。」 「だって?」 「主人は、ここから決して出してくれないの。」 「どうして?」 「さあね。駄目だ、の一点張り。私は、本当の籠の鳥よ。」 「そんな。おかしいよ。」 「ええ。おかしいの。あの人、狂ってるのよ。」 「本当かい?」 「本当。でも。この話は終わり。ねえ。外の話を聞かせてよ。面白い話を。」 「ああ・・・。」
彼女が無理して笑顔になると、僕の心は逆に痛んだ。確かに変だ。ここから一歩も出られないなんて。理由はなんだろう。嫉妬だろうか。こんな美しい妻を持っていれば、誰だって、一人で出歩かせたりしたくはないだろう。そうはいっても、彼女も生身の人間だ。どんなにか、外に出たいだろう。まだ、少女のようなその人。ウィンドウショッピングしたり、カフェに入っておしゃべりしたり。そんな生活が必要だ。
--
僕は、その日から、何とか彼女を連れ出せないかと、彼女を困らせないように気を付けながら、あれこれと思いつく方法で彼女を誘ってみた。だが、彼女は寂しそうな笑みを浮かべて首を振るばかり。
「きみ、本当は、外に出るのが怖いのかい?」 ある日、しびれを切らした僕は、少しばかり怒った顔をして彼女を見た。
「まさか。なんで?どうして?」 「だって、いつものらりくらりと言い訳ばかり。あんなに外に出たがって見せるのに、一度だって本気で方法を考えた事はない。」 「まあ・・・。あなた、そんな風に?」 「きみを見ていると、そうとしか思えないから。」
今日は、もう、無理を言いたくてどうしようもなかった。
「だったら、あなた、私を全部引き受けてくださるの?ここを出たら、夫は怒るわ。私、捨てられてしまう。そうしたら、私という人間を丸々受け止めてくださるつもりがある?」 彼女は、挑むように僕を見つめ返して来た。
「ああ。当たり前だ。もちろん。」 もう、僕の狂おしい熱情は止まらなくなっていた。
「本当ね?本当なのね?」 「本当だよ。」 「ああ。私、自信がなかったの。あなたにとって、私を連れ出すのはほんの気まぐれでしょうけど、私にとっては全てを左右する問題なんですもの。」 「気まぐれなんて。馬鹿な。きみは、きみの未来を自分で決める権利がある。閉じ込められたまま、生涯をここで過ごすなんて。」 「未来。未来。そんなものないわ。」 「あるさ。誰にだって、等しく。」
彼女はもう、それ以上何も言わなかった。ただ、僕の背後から。 「今夜。12時に。門のほうに回っていて。」 とだけ。
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その日の午後いっぱい、僕は、その街を出る準備をした。人の妻を寝取ったとなったら。まして、あんな金持ちの、美貌の夫人を奪ったとなったら、いずれにしてもここにはいられない。
そうして、夜が更ける。僕は、辺りを気にしながら、その屋敷の門のそばでじりじりとした気分で待った。
「あなた、どこ?」 ささやき声が聞こえた。
僕は、暗闇に目を凝らした。彼女のほっそりした体が、闇に浮かんだ。
「来てくれたんだね。」 「ええ。」 「やっと、きみを腕に抱ける。」 「待って。今、門を開けるわ。」
彼女は、カチャカチャと音を立て、鍵を外している。キキィーっと錆び音を立てて、その門は開く。
「おいで。」 僕は、両手を差し伸べる。
彼女はゆっくりと足を踏み出す。
「さあ。早く。急ごう。」
そう言った僕の腕に、だが、彼女は飛び込んで来なかった。
そのまま、どさりと音を立ててそこに倒れてしまった。
「な・・・。どうした?」 僕は、しゃがんで慌てて彼女を抱き起こそうとした。だが、僕の手に触れたのは、不自然に冷たい、人間とは到底思えない物体の感触。
なんだ?これは、なんなんだ?
「そこまでだ。」 懐中電灯の明かりが僕を照らす。
「誰だ?」 「この人形の持ち主だよ。」 「人形?」 「ああ。人形だ。」 「あなたの奥様では?」 「ああ。かつては妻だった。」 「今は?」 「妻の記憶を移植した人形だよ。」 「そんな・・・。」 「ああ。すまなかった。人形の戯れにきみを巻き込んだ。」 「戯れ?」 「そうだ。戯れ。いつもこうなんだ。誰かれに構わず、外に出たいと訴える。」 「そうですか。」 「死んだ妻も、そうだったのだ。」 「あなたは、ここに閉じ込めたまま、外にお出しにならなかった。」 「ああ。そうだよ。」 「死んでなお、彼女がここを出たがるくらいに、それは彼女にとって辛い事だったのに。」 「知っている。私も、できれば彼女を出してやりたかった。だが、彼女は心臓を患っていてね。あまり長くは生きられない体だったのだ。最愛の妻が、自分の知らぬ場所でその命を落とすことにでもなかったらと思うと、どうしても外に出してやる事はできなかった。その事を知らない彼女は、最後まで私を恨んでいた。」 「未来がないと、言ってました。」 「ああ。記憶を反復するだけの人形に未来はない。あの夜、妻は、僕を置いて知らぬ男と逃げようとして。そうして、まさに、この門から一歩踏み出そうとした時、発作を起こし、その命を終えてしまった。そういった緊張に、彼女の体は耐えられなかったんだ。」 「・・・。」 「なあ。それでも、妻には外に出て自由になるだけの時間がないと、どうしても言えなかった。私を恨んで、恨み抜いてくれて。それで良かったんだよ。人間というのは、本当に、愛ゆえに間違ったことをしてしまうものだな。」
ええ。本当に。僕も、また間違った事を。誰かに未来が与えてやれると信じた。
僕は、足元に置いたスーツケースを取り上げると、ただ、黙って頭を下げ、そこを立ち去るしかできなかった。
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