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セクサロイドは眠らない

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2002年12月31日(火) 肩車

そこは高くて、ちょっぴり怖いんだけど。でも、あったかくて、広くて。僕は、だから安心していられる。僕が歩くよりずっと早い速度で、ずんずんと景色が変わっていくんだ。だから、僕は、うわー、っと声を出してしまう。

--

ケイタの幼稚園の仲良しのミツルは今日もケイタが登園するのを待って、園庭に誘う。

「待ってよー。」
と、ケイタがぐずぐずするのを、
「ほら。帽子。」
と渡してくれて、ケイタのママみたいに世話を焼いてくれるのだ。

最近の二人は砂場遊びが気に入ってて、今日も砂場でおしゃべりをすながらスコップを動かす。

「でね。昨日さ、・・・レンジャーのショーに行ったんだよ。」
ミツルが、言う。

「ふうん。かっこ良かった?」
「うん。写真とか撮ってもらった。」
「僕も行きたかったんだけどさ。ママが仕事だったから、おばあちゃんちにいたんだよ。」
「そっか。ケイタのママ、お休みの日も仕事してんだ。」
「うん。ママ、忙しいのね。だから、僕、ショー行きたいとか言えなかった。」
「あ。そうだ。こんど、カードあげるよ。昨日もらったんだ。ショーに来た子にサインしてくれたやつ。」
「ほんと?」
「うん。」
「いいの?」
「いいんだよ。僕は、本物見たから。パパがね。肩車してくれたんだ。人がいっぱいで、見えないよー、って言ったから。」
「そしたら、見えた?」
「うん。見えた。」
「へえ。いいなあ。僕、パパいないから。」
「でも、おじいちゃんもおばあちゃんもいるからいいじゃん。僕んち、おじいちゃんもおばあちゃんもいないよ。」
「でもパパとおじいちゃんは違うからなあ・・・。」

ケイタは、砂の山をスコップでペタペタ叩いた。

--

「今度の土曜日。どう?忙しい?」
「夜なら空いてますけど。」
「前から言ってただろう?ケイタくんも連れて、食事。」
「ええ・・・。」
「まだ、気持ちが揺れてる?」
「そうね。正直、早過ぎると思ってるの。」
「・・・。」

いつものように、仕事の帰り道。シズエは、恋人の安藤に送られながら、彼を喜ばす返事ができないでいる。

「もう、一年になる。」
「そうね。」
「きみはいつも、そんな調子だ。」
「責めてるの?」
「いや。そうじゃない。そうじゃないけど・・・。どうしたらいいのかな。どうしたら、きみとの関係を深められるのかと悩んでるんだ。」
「今のままで充分じゃない。」
「本当にそう思うの?」
「ええ。ようやく、私とケイタの二人の生活に慣れたところなの。お願い。このまま、そうっとしておいて。」

安藤は溜め息をつき、シズエの手をそっと握る。冷えた小さな手が、安藤の手の中でかすかにこわばる。

二人は、無言でしばらく歩いた。

「言いたくはないんだけど・・・。」
シズエが、口を開く。

「何?」
「あなた、お子さんと離れてるっておっしゃってたでしょう?」
「ああ。別れた妻の元にいる。」
「ケイタを身代わりに可愛がろうとしてるんじゃないかって。」
「まさか。」
「ええ。そうよね。失礼な言い方よね。分かってるんだけど。あなたが道端で子供を見かけた時の顔とか見てたら、ほんと、なんて言っていいか分からなくなるの。」
「そうか。」
「ごめんね。」
「いいんだ。そりゃ、気にはなる。息子も、あれぐらいになったかな、とか。だけど、ケイタくんのことは、そんな気持ちで会おうとか、そういうんじゃないんだ。」
「分かってるの。ただ、不安なだけ。いろんな事が。一度には決められない。」
「分かった。すまない。時間を掛けて考えよう。」

安藤は、別れ際、手に力を込める。それが、さようなら、の合図。声に出して言うのは寂しいから、と、シズエが頼んだから。

電車に乗り込むと、もう、シズエは一刻も早くケイタに会いたくてしょうがなくなる。亡くなったケイタの父親以外の男性に心を惹かれていることがうしろめたい。

本当に。どうして、ケイタのためだけに生きられないの、と、我が身に問う。

--

「ママ、おかえり。」
「あら。ケイタ。まだ起きてたの?」
「うん。待ってたんだよ。」
「嬉しい。ママ、これでも急いだんだけどね。社長さんがこわーい人で、ママ叱られてばっかりなの。」
「ふうん・・・。」

ケイタが不安そうな顔になるのを抱き締めて、大丈夫よお、と笑って見せる。

「ねえ。ママ。僕、また夢を見たんだ。」
「そう。どんな?」
「んとね。パパに肩車してもらう夢。」
「そうなんだ?へえ。いいなあ。」
「最近、よく見るんだよ。」
「ふうん。」
「ママは?パパの夢見ないの?」
「うん。そうねえ。時々見るよ。でも、パパはママのこと、肩車なんかしてくれないよ。」
「そりゃそうだよ。ママは大人だもん。」
「あはは。そうだねえ。」

子供歯磨きの甘い香りがする頬にキスすると、布団を肩まで掛けてやる。いつからだったか。一緒に寝るのは恥ずかしがって。一人で寝られると言った時、むしろ、シズエのほうが寂しい思いをしたものだった。
「おやすみ。」
「うん。ママ、おやすみ。」

シズエは、キッチンに戻り、冷蔵庫からビールを出す。肩車かあ・・・。一度、ママがしてあげようか?って訊いたんだよな。そうしたら、ママは女だから無理って、ケイタが言ったんだっけ。あの子、どんどん、大きくなる。

安藤に、会わせるべきかどうか。

正直、結論は出ない。

--

「無理言ってごめん。」
安藤が、ひたすら謝るから。

「もう、いいですって。」
あんまりにも安藤が申し訳なさそうな顔をしているから、シズエは何と言っていいか分からない。

年末の休暇に入った途端、安藤がいきなり朝電話して来て、どうしても連れて行きたい場所があるからケイタくんと一緒に行こう、と、言った。

「ケイタ。どうだ?」
海沿いの道を、安藤が車を走らせながら訊ねる。

ケイタは、助手席で恥ずかしそうに笑ってばかり。

「ほら。ケイタ、ちゃんとお返事。」
シズエがはらはらしながら、返事をうながす。

「たのしい。」
「そうか。楽しいか。」
安藤は、嬉しそうに笑った。

「着いた。」
降り立った場所は、自然公園の入り口。

「なあ。ケイタ。」
安藤が突然しゃがみ込んで、背中をケイタに向ける。

「・・・。」
ケイタは困ったようにシズエの顔を見る。

「肩車しちゃる。乗りな。」
「ケイタ、おじさんにお願いしなさいよ。」

ケイタは、恥ずかしそうな顔のまま、安藤の背中に手を掛ける。

「大丈夫か。怖かったら、おじさんの頭しっかり持ってな。」
「うん。」
「シズエさんは、車で待ってるといい。寒いから。」
「お願いします。」

ケイタは、安藤の肩の上で、嬉しくてしょうがないという感じで、手を振っているから、シズエも思わず手を振り返す。

--

「なあ。怖いか。」
「ううん。怖くない。」
「そうか。」
「夢とおんなじだもん。」
「夢?」
「うん。夢。肩車してもらう夢。」
「そうか。パパか。」
「うん。パパ。でも、おじさんの肩車も、おんなじだ。」
「そりゃ、良かった。なら、怖くないな。」

安藤は、ひたすら坂道を歩いた。二十分ほど歩くと、そこはいきなり視界が開けて、展望台という看板が出ている。海が広がっていて、ケイタは思わず、「わあ。」と声を出した。

「おじさん、降ろしてくれる?」
「ああ。」

安藤は、正直、息が切れて返事がようやくだった。

「ああ。おじさん、子供を肩車するの久しぶりだったから、疲れたわ。」
「大丈夫?」
「うん。今度会う時までに、ちゃんと鍛えておくわ、な。」
「今度って?」
「さあ。いつかな。今度。」
「また、会えるの?」
「うん。多分、な。おじさんと友達になってくれたら。」
「友達に?」
「ああ。大人と子供でも、友達になれるんだぞ。」
「そしたらまた、肩車してくれるの?」
「もちろん。」

安藤は、ケイタが子供らしくいつまでも恥ずかしがっているのが、かえっていじらしく。

代わりじゃない。代わりなんかにしてないぞ。

と、ケイタの頭にそっと手を載せる。

「降りたらな。ママに、僕とおじちゃん、友達になったって、言ってくれるか?」
「いいよ。でも、自分で言えばいいのに。」
「そうだなあ。」

安藤は笑った。ケイタは、重いよ、と、その手を除けながら、一緒に笑った。


2002年12月30日(月) さかな

キッチンには、魚が一匹。母が置いたままにしているようだ。僕は、何とはなしに、その銀色の体をぼんやりと眺めていた。飼い猫のスノウがじっとこちらを見ている。魚を狙ってるんだな。そんなことを思いながら、僕は銀色の体を、ぼんやりと。

突然、魚が口を開く。
「なあ。今年もそろそろ終わりだな。」
「ああ。」
「思い残す事とか、ないのかい?」
「思い残す事?うーん。別に、ない。」
「そうか。」
「うん。そうだ。」

僕にはどうしようもない事なら、僕の頭の中にしっかりと横たわっているが、それはもう、とりあえずどうにかしようという気力も湧かない問題なのだ。

「あんた、彼女はいるのかい?」
魚が、あつかましい口調で訊いてくる。

「彼女?うん。どうかな。この前までいたけど。どうだろう。もういなくなっちゃったかな。」
「それ、心残りなんだろう?」
「嫌な奴だな。知ってて訊いて来たのかよ。」
「うん。知ってて訊いた。」
「もう、あいつのことはいいんだよ。」
「本当に?」
「うん。」
「ちゃんと終わらせたのか?」
「いや。」
「じゃ、ちゃんとしろよ。もう、このまま今年は終わっちゃうぜ。」
「ちゃんとできるなら、とっくにしてるよ。だけど、もういいんだよ。」
「投げやりだな。」
「ああ。」

些細な事だったんだよ。だけど、恋人同士の喧嘩なんて、きっかけは大概の場合、些細なもんだろう?

そうだな。

クリスマス・イブの日だったんだよな。彼女、バイトでちょっと遅くなるって。だから、終わったら電話してくる事になってた。だけど、さ。たまたま、俺、電話掛かって来たの気付かなくて。ヘッドホンで音楽聴いてたの、な。そんで、気が付いた時には、着信から三十分ぐらい過ぎてて、しまったと思ったわけよ。でも、そん時は、悪いな、って思ってて。だから、慌てて電話したら、やっぱ、すっげえ怒ってて。それで、こっちも悪かったって謝ろうとしてんのに、謝る暇もないぐらいの勢いで怒るからさあ。

喧嘩になっちゃったんだな?

うん。なんかさ。いっつも、この程度の事ですっげえ怒るから。で、なんか、あっちの勢いがこっちにまで移っちゃって、もう、止まんなくなったの、な。で、それっきり。

彼女、泣いてたろ?

ああ。それ、いつもなんだよ。泣かれたらさ。こっちが不利じゃん。どうしようもないじゃん。だから、さ。余計腹立ってさ。

その後、電話してないの?

ああ。それっきり。クリスマスのプレゼントも渡せずじまい。もうさ、いい加減潮時なのかなあと思ったりもして。最近、結構彼女怒りっぽくて。つまんない事でも、しつこく問い詰められたりとかしてて、こっちも面倒になって、電話を途中で切っちゃったりとかあったから。もう、俺ら、駄目なんかもなって。

ふうん・・・。

魚は、とぼけたまん丸の目でこっちを見ている。

「何だよ?」
「いや。別に。」
「大体、俺、なんで魚なんかにこんな事しゃべってるんだよ。馬鹿みてえ。」
「まあ、そう言うな。俺で良ければ、話し相手になってやるしさ。」
「いいよ。」
「そう言うなって。ところでさ、あんたの彼女、他の男ができてなきゃいいがな。」
「他の男?」
「ああ。結構、可愛いしな。」
「なんだ。そんな事まで知ってるのか。」

僕は、ふと、バイト先の先輩の話が最近会話によく出ていた事を思い出す。

「ま、いいさ。男がいても。」
「でもさ。あの子、お前に黙って他の男と付き合うような子じゃないよな。」
「まあ、そうかな・・・。」

いつも、ちゃんと気持ちを伝え合おうね、ってうるさいぐらい言ってた。

「あの日も、バイト先で、その先輩って奴と彼女、一緒だったんだろう?」
魚が言う。

「ああ。クリスマス・イブの?」
「うん。クリスマス・イブに一人ってさ、女の子は嫌うだろ。」
「だけど、俺と喧嘩したからって、他の男とデートしたりとか、するか?」
「そういう子じゃ、ないんだろ?」
「多分。」
「でも、普通、男なら誘うよな。イブに彼氏と喧嘩して泣いてる女の子がいたらさ。相談に乗ってあげるよ、とか何とか言って。」

魚は、ニヤリと笑った。ように見えた。

「嫌なこと、言うなあ。」
「ああ。ついでを言えば、その先輩ってさ、すごい優しいんだろ。それに引き換え、お前って結構子供なのな。彼女の事も放って遊びに行ったりとか、さ。」
「うん。」
「でさ、彼女がそういう時、先輩に誘われちゃって、とか相談して来たら、お前、すぐ、うるさいって怒るだろ。そういうんで、俺を試すような事言うなって。」
「まあ・・・。そう、かな・・・。」
「それって、さ。お前が不安なんだよな。女の子がそういう事言うのって、お前を試そうとしてるっていうより、ちゃんと自分を受け止めて欲しいってのが大きかったんだと思うよ。お前が冷たくする一方で、優しい男が現れたら、どんな女の子だってぐらぐらするだろ。だからこそ、本当に自分の事大事に思ってるか知りたくなるんだよ。」
「そういうのって、分かってくれてると思ってんだけどな。」
「馬鹿だなあ。言わなきゃ分かんないんだよ。そういうのって。」
「そうか?」
「そう。」

魚は力強くうなずいた。ように見えた。

「それにさ、ちゃんと言ってあげたって、誰も損しないだろう?だったら、言ってやれよ。」

そんなもんか。

僕は、部屋のすみに転がったままのプレゼントの小箱を思い浮かべる。それから、時計を見上げる。まだ、大丈夫かな。

--

魚は、もう、何も言わずにそこに転がっている。僕は、そいつをスノウが食べてしまわないように、ラップをして冷蔵庫にしまう。

僕は、小箱を片手に。それから、町へ飛び出して行く。

あちらこちらで「良いお年を。」と飛び交う言葉が耳に聞こえてくる。

せめて、今年のうちに気付いた事に安堵して、僕は歩を早める。今年の愛は、今年のうちに。


2002年12月27日(金) 透けて見える腹の辺りの赤いものを見て、金魚だと分かった。こいつ、俺の金魚食いやがった。

だんだん人としゃべるのが億劫になり、コンビニに行くのも難しくなって来た。何がきっかけなのか分からない。バイトで同僚と揉め事を起こして辞めたのがきっかけか。しばらくのんびりしようと、パソコンでゲームをして過ごしたりしていた。風呂にも入らず、服も着替えなくなった。いわゆる、ひきこもりというやつか。

金魚だけが、唯一、僕の生活を見ていた。去年の夏まで付き合っていた彼女と夏祭りですくった金魚。夏が終わって別れて、金魚だけが残った。最初は彼女を思い出すから嫌だった金魚も、放っておいても死ななかったという理由で一年以上も生き長らえ、それなりに愛着も湧いて来たところだ。

パシャッと音がして、僕は振り向く。餌は・・・。やったっけ?もう、起きる時間もめちゃくちゃなら、寝る時間もめちゃくちゃだった。金魚に餌をやったかも思い出せない。

僕は、餌はまた後でいいか、と思い、そのままパソコンのディスプレイに戻った。それから目がしょぼしょぼするまでゲームを続け、眠たくなったのでベッドに倒れこんだ。夢の中で、また、金魚がバシャバシャと音を立てた気がした。明日、餌やるからな。そう思った。

--

朝起きて、何かが少し違う気がしたが、何が違うのか分からないまま、少しぼんやりしていた。

それから、あ、そうそう、餌だっけ、と思って立ち上がって。あれ?と思った。金魚がいない。僕は驚いて水槽を覗き込んだ。いない。どうした?どこに?腹減って飛び出したか?まさか。

それから、もう一度よくよく見直した。

何かいるか?

そこには僕の手の平を開いた長さぐらいの、透明に近い細長い生き物がすうっと泳いでいた。昔、本で見た、生き物に寄生する回虫に似ていた。

何?これ。どこから湧いて来た?

それから、透けて見える腹の辺りの赤いものを見て、金魚だと分かった。こいつ、俺の金魚食いやがった。

僕は、その生き物にしばらく見入っていた。金魚のことは、なんとなく、ほっとしたような気分だった。彼女の事を思い出すことを、僕はやめられなかったから。だが、この新参者があっさり食ってしまった。不思議な生き物だった。その瞳すら、透明で。それはとても気持ち悪い筈なのだが、僕は目が離せなかったのだ。

僕は、それを一日ぼんやりと眺めていた。彼は知らぬふりで、ゆったりと泳ぎ回る。

ふと僕は、思いついて冷蔵庫を覗き、乾いたちくわを取り出し、それをちぎって落としてみた。すると、ソレは、すぐにすうっと寄ってきて、パクリと一口で飲み込んだ。腹は膨れ、白いちくわの破片がそのままの形で納まった。じっと見ていると、それは少しずつ消化され、不思議な事に数分後には彼の体は元の透明に戻ってしまった。まったく奇妙な生き物だな。

僕は、ちくわをちぎっては入れ、結局一本丸々食べさせてしまった。

よく食うなあ。

それだけで僕は、夜中にはくたくたになってしまい、ベッドに倒れ込んで眠った。その生き物はとても静かで、水音はまったく立たなかった。

--

翌朝、僕は真っ先に水槽を覗き込んだ。ソレは、確かに一回り大きくなっていた。こちらを見たかどうかは分からなかったが、確かに僕のほうにすうっと寄って来て、それから僕の眼前をゆっくりと泳いで見せた。

僕は、コートを着込み、外に出た。

こいつに何か食べ物を買わなくちゃな。

帰りに金を引き出しに行った銀行のキャッシュコーナーには驚くほどの列が出来ていた。

そうか。年末なんだな。

両替機から新札を取り出している老人を見ながら、孫にあげるお年玉なんだろうかと考えたりした。

--

「ただいま。」
なんとなく、その生き物に声を掛けた。

そいつは知らん顔して泳いでいた。

僕は、さっそくコンビにの袋からいろいろと取り出して、自分が口に入れる前に少し取り分けては、そいつにやった。そいつは見えてないような顔をしていながら、うまいこと食べ物をキャッチして飲み込んだ。

--

僕と、その奇妙な生き物の生活は、一週間、二週間と続いた。もう、水槽はすっかり手狭になり、僕は新しい水槽にそいつを移し変えてやった。相変わらず僕はひきこもりだったが、唯一、そいつだけは僕から行動する力を引き出していた。

そいつから足が生えて来た時、体長はもう、80cm近くなっていた。これからこいつはどこまで大きくなるのだろう。

そうして、程なく、そいつは水槽から這い出して来た。水から出て来たソレは、ますます気味悪く、それでいて、僕はそいつを嫌うことは決してなかった。

貯金がなくなったら、また、働くしかないな。

そう思って、僕は、そのぶよぶよした透明な生き物との生活を送り続けた。もう、体長は1mを超えた。食べ物は、もはや、調達するのが大変なほどだった。実際、こいつの適正な餌の量はどれくらいなんだろう。僕は、そんなことを考えながら、隣の家から犬を連れて来てそいつに与えた。

そいつは、黙って犬を丸呑みして、しばらくは動けないという様子でじっとしていた。

僕は、確実にそいつを愛していた。

--

とうとう、そいつは2m近くなってしまった。僕は、残高がゼロの通帳を持ってそいつの前に座っていた。

「このままだと、もう、お前の食べ物はどうしてやりようもなくなるんだよ。」

当たり前だが、彼は黙っていた。

ここを出たら、こいつは捕まって、人の目にさらされてしまう。その前に心ない誰かに殺されてしまうかもしれない。のそのそとしか動けないそいつを見ていると、僕は胸が締め付けられる気分だった。

「なあ。どうしようか。」

そう言ってから、僕は、そいつが一度も僕に餌をねだった事がないことを思い出した。

「結局、俺が餌やり過ぎたから、こんなに大きくなっちゃったんだな。」
と、僕は言った。

そいつは、うなずくこともなく、ただ、そこにいた。

実際、僕自身、もう昨日から何も食べていなかった。

「はは。馬鹿だよな。俺。こうなるまで、何にも考えてなかったんだよ。ただ。なんというか・・・。」

・・・。

「そうだ。夢中だったんだよ。」

・・・。

それから、突然、
「僕を食べてくれよ。」
と言った。

そう言葉にしてみて、初めて僕は、それを心から望んでいることを知った。

本当に、心からそうして欲しかった。そうして、そいつは、僕がすっぽり食べられるぐらいに大きくなっていたのだ。

そいつは、黙って口を開けた。

僕は全然怖くなかった。

そいつの体の中にずるっと飲み込まれて行く時、僕は、なんとなく幸福だった。もう、自分の足で外に出なくていいんだ。

それから、彼の体の、あたたかくもなければ、寒くもない場所で徐々に意識を失っていった。

明日、彼と一緒に部屋を出る。そうか。そのためにこいつはこんなに大きくなったんだっけな。

最後の意識の中で、そんなことを考えた。


2002年12月18日(水) 退屈を解消しようとせんばかりの激しいセックス。自分を投げ出す女には、安い値段がつけられる。

妻は、朝が弱い。

「行ってくるよ。」
僕が声を掛けても、んん、というようなうめき声が布団から聞こえてくるだけだ。

「今日、遅くなるから。」
もう一度声を掛けても、もう、返事はない。妻は夢の中だ。夏はまだそれでもいいのだが、寒くなるとてんで駄目らしい。

僕は、いつものことだからすっかり慣れっこになっていて、自分でコーヒーを淹れ、出勤する。

--

携帯電話を取り出すと、メールが二通入っていた。一通は女子高生のアユミで、もう一通は人妻のリサコからだ。アユミのメールは両親や教師についての他愛のない愚痴。リサコのメールは、夫が予定通り出張に行った事を伝えるものだった。

アユミのメールは、適当ななだめ文句と、それから今度気晴らしにカラオケにでも行こうよという誘い。リサコのメールには、今夜八時にはそちらに行く、との連絡。

僕は携帯を胸ポケットにしまうと、満員電車に乗り込む。今日も一日、うんざりするような仕事が待っている、。会社の業績不振により社長が交代したのだが、自分の子飼いの部下を取り立てる新社長のやり方が現場で不審を買い、みなやる気をなくしている。希望の持てない時代だ。

僕は首を振り、今夜のことを考える。リサコは退屈した主婦だった。働き者の夫の稼いだ金を使うことぐらいしか興味のない女だった。今夜も、訪ねていけば高価な酒を飲ませてもらえることだろう。それから、退屈を解消しようとせんばかりの激しいセックス。自分を投げ出す女には、安い値段がつけられる。僕は、リサコに対してあまりお金も時間も使わなくなった。そうすると、女はますます焦り、僕の気を引こうと躍起になってくるのだった。

「楽しそうですね。」
会社の近くまで来たところで、課の奴に声を掛けられる。

「馬鹿言え。まったく、お前らのせいでこっちは大変なんだからな。」
笑いながら、エレベータに乗り込む。

まだ、余裕がある。まだまだ、大丈夫だ。それなりに上手いことやれてるさ。

そう自分に言い聞かせながら、僕は机に向かう。

--

「遅かったのね。」
リサコは恨みがましい声を出す。

「ああ。しょうがないさ。厄介な問題を抱えててね。」
そう言いながら上着を脱ぐ。

本当は嘘だった。アユミが携帯の通話料の事で親に叱られたとかで泣きながら電話して来たのをなだめていたのだった。リサコは焦らすぐらいのほうがいいのだ。そう学んでいるから、僕は、時間に遅れることを気にしなかった。

テーブルには相変わらず贅沢な食材を使った料理が並んでいた。
「へえ。すごいな。」

「お料理教室で習ったの。」
女は嬉しそうな声を出す。

「でも、健康診断の結果がちょっとやばかったんだよね。あんまり脂っこいものはやめてくれよな。」
「分かったわ。」

リサコはいそいそとワインをグラスに注ぎ、僕が料理に口をつけるのをうっとりと眺めている。

--

「ただいま。」

やっぱり返事はない。

今日も、妻は先に眠ってしまったようだ。よく寝る女だ。食事は要らないと言っておいたから、食卓には何も乗っていない。

僕はエスプレッソを淹れ、乱雑な部屋を見回す。リサコのところのように行き届いた掃除もできていない、我が家。だが、それなりにこの家も、妻も、愛している。

--

日曜日。

妻は、寝起きの乱れた髪の毛のまま、僕の前に座って嬉しそうにあれこれとどうでもいい話をしている。

「なんかいい事でもあったの?」
僕は、なんとはなしに訊ねた。

「だって。今週、ほとんど顔合わさなかったじゃない?久しぶりに一緒にいられて嬉しいの。」
「あはは。それはきみがいつも寝てばっかりのせいじゃないか。」
「そうだけどね・・・。私って駄目ねえ。あなたが働いてくれてるから、こうやって不自由なく暮らせてるのに。」
「いいさ。」

ああ。本当に。きみはいてくれるだけでいい。ここにこうやって。貪欲に欲しがらず、ただ、満たされていて欲しい。

「コーヒー、もう一杯?」
「ああ。頼むよ。」

僕は微笑む。

--

アユミは、もう、僕にメールなど寄越さない。どこかで金回りのいい男を見つけたらしい。そうして、僕は今、目を吊り上げてわめいているリサコを前に、途方に暮れている。

「もう、あんな亭主、家に入れる気はないわ。」
「まあ、落ち着けって。」
「ひどいの。出張と偽って、どこかの国の女を囲ってたのよ。」

きみだって同じようなものじゃないか。そんな言葉を飲み込んで、僕は、そろそろ終わりだな、と悟る。

「何よっ。あたしを見捨てる気?あれだけ尽くしたのにっ。」
背後でリサコが叫ぶ。

だが、追っては来ない。女は、最後は、金がある方を選ぶから。

--

帰宅すると、妻が珍しく起きていた。
「お帰りなさい。」
「どうしたの?珍しいじゃない?」
「ええ。たまにはさ、ちゃんとあなたと話をしようと思って。」

妻の様子は、どこかおかしかった。顔は笑っていたが、声が震えていた。

どうした?何があった?

僕は、食卓の上に置かれた携帯電話の明細に目を落とす。

「ねえ。知らない番号が幾つかあるわ。これ、なあに?」
「ああ。取り引き先の・・・。」
「嘘ばっかり。だって、女の人が出たわよ。」
「かけたのか?」
「ええ。」
「馬鹿な事を。で?何を言った?」
「何も言ってないわよ。女の声がしたら、すぐ切ったから。」

どういう事だ。きみは何も知らずにここにいれば良かったのに。

それから数日、静かだった我が家に涙と怒声が響いた。

--

「ねえ。何が問題なのかしら。私達。」
「何も悪くはないよ。」
「嘘ばっかり。本当は不満だったんでしょう?私がだらしない妻で。」
「そんな事はない。悪いのは僕だ。」
「私、気をつけるわ。ちゃんとします。だから・・・。」

涙を流し続ける妻に、僕はもう何と言っていいか分からない。

--

「いってくるよ。」
今日も、僕はそうやって家を出る。

「いってらっしゃい。」
前と違うのは、背後でいつまでも僕を見送る妻。

夜、どんなに遅くなっても、最近では妻は起きて待っている。部屋はきれいに片付いて。

それから、携帯電話の明細はしっかり取られている。

ああ。幸福な我が家。よくできた妻。

だが、どうしたことだろう。あの日以来、僕は憂鬱な顔。男とはなんて身勝手な生き物だろう。もう、知らない頃のようにはきみを愛せなくなっている。


2002年12月05日(木) 部長は、妙に私を気遣う顔をして、「飲みに行くか。」と、言った。私は、黙ってうなずいた。もうあの部屋には戻りたくない。

私は、ウサギと暮らしていた。

とても美しいウサギだ。真っ白な毛並みは、美しく手入れされ、その長く力強い足はとても速く走ることができた。目は、真っ黒でキラキラしていて、その目が私を見つめると、ドキドキさせられてしまう。

なんて美しい。

私は、ウサギと一緒に暮らしていて幸福だった。

私は、ウサギと自分が食べていくためにも、必死で働いた。昼間、ウサギが何をしているのかは分からない。ある日ウサギは携帯電話が欲しいと言い出し、通話料が日毎に増えた。私がそれを訊ねるとウサギは不機嫌になるから、私はただ、余計に残業して、ウサギの散財を補うのだった。

ウサギは、それでも、時々ものすごく意地の悪い事を言ったりもする。

たとえば、
「この部屋なんか、いつ出たっていいんだぜ。そうして、きみが働いている間に僕はいなくなってしまう。僕の早い足では随分と遠くに行ってしまうから、きみはとても探せないだろう。そうして、きみより美しくて、従順で、お金もいっぱい持っている女の子を見つけるんだ。」
とか。そんなことを。

私は、最初のうちは曖昧に笑っているのだが、ウサギは、静かな声で子守唄を歌うように、繰り返し、繰り返し、出て行く話をするものだから、ついに私は泣き出してしまうのだ。

私がひとしきり泣くのを見て、ようやくウサギはニヤッと笑い、
「馬鹿だなあ。出て行くわけないだろう?」
と、言う。

「そんなに、僕が簡単にきみの元を去るとでも?」

私は、泣きながらうなずく。

だって、ウサギはとても美しい。その瞳の魔力には、誰だって逆らえないだろう。それに私は、そう美しくもない。性格だっておどおどしている。ウサギが言うことは全部本当なのだ。

気付くと、ウサギは満足そうに寝息を立てている。

わたしは、泣き過ぎて腫れた顔を冷やしながら、ウサギの完璧な額から耳にかけての線をうっとりと眺めるのだ。

分かっている。ウサギはどこにも行きやしない。だが、もう、終わりのない遊びを繰り返さないわけにもいかないのだ。ウサギが本当に優しくしてくれたのは、最初の頃、ほんの一週間ほどだった。ウサギはすぐ退屈してしまって。それから、些細な喧嘩が原因で私がひどく取り乱したのをきっかけに、私をいじめるようになった。

--

ある日。

ウサギは、今日も働かず、寝てばかり。

冷蔵庫は空っぽだった。前の日に、ウサギが空にしてしまったのだ。誰かと騒いだのだろうか。仕事から帰ると、食べ散らかしたゴミなどで、随分とひどいことになっていた。足の踏み場もないとはこのことだ。すっかり酔っ払ったウサギは酒瓶を抱えて眠っていた。私はその場に座り込んだまま、しばらく動けなかった。あと一週間すれば給料が入るのだが、冷蔵庫に買い込んだ食糧以外はうちには余裕がなかった。ウサギの新しいビロードの衣装。携帯電話の料金。

私は、すっかり疲れ果てて、部屋を片付ける。

ようやく部屋が片付いたところで、ふと振り向くと、ウサギが仰向けに寝そべったままこちらを見ていた。

「なあに?」
「すまん。」
「いいのよ。」
「腹、空いたろう。」
「平気よ。」
「嘘だ。」
「だって・・・。」
「悪かったよ。あれで全部だったんだろう?」
「ええ。」
私は、仕方なくうなずいた。

「なあ。」
「なに?」
「僕を食えよ。」
「何言ってるの?」
「いいんだよ。僕を食べてくれよ。そうしたら、お前の苦しみは解消するだろう?お金の心配もなくなる。僕のことで気を揉む必要もなくなるんだ。」
「いやよっ。」

だが、ウサギはキッチンに向かうから。包丁を取りに行くつもりだと分かる。

「やめて。お願い。あなたがいないと私、生きていけない。」
しがみついて、泣く。

ウサギは、怒ったように
「痛いよ。離せ。」
と、騒いでいたかと思ったら、急に力が抜けたようにそこに座り込む。

「悪かったなあ。ごめんなあ。僕だって辛いんだぜ。」
私は、そんなウサギを抱き締めて泣く。

愛は、確かにそこにある、という気がした。

--

次の日。また、その次の日。私達は、お腹を空かせてふらふらになった。

ウサギは、つぶやく。
「なあ。お前の指。その無駄に太い小指を一本食わせろよ。」
「いやよ。」
「なんでだよ。俺は、お前のために体を投げ出そうとしたんだぜ。それなのにお前は、指一本でぐちゃぐちゃ言うのかよ。」

ああ。また、始まる。

ウサギの癇癪は、行くところまで行かないと、どうにも収集がつかなくなるのだ。

私は、もう我慢ならなかった。黙って、服を着替え始める。

「おい。どこに行くんだよ。」
「仕事。」
「そんな体でか?」
「ええ。職場の人だって、ご飯ぐらいは奢ってくれるわ。」
「だったら、俺はどうなるんだよ?」
「いつも言ってる、可愛い女の子とやらにご飯でも食べさせてもらえば?」

私は、もう、すっかり嫌気がさしていた。

バッグを取り上げると、部屋を飛び出す。空腹が?怒りが?私に、ウサギのことをどうでもいいと思わせた。

ウサギが背後でなにやら喚いている。

--

部長は、妙に私を気遣う顔をして、
「飲みに行くか。」
と、言った。

私は、黙ってうなずいた。もうあの部屋には戻りたくない。

部長は、何も言わず、私のそばでグラスを傾けて。

夜もすっかり更けた時、
「行こうか。」
と、低い声で言った。

私は、立ち上がり、寄り添う。

部長は
「お前、いつも一人付き合い悪くて帰っちゃうもんなあ。ずっと待ってたんだぜ。」
と、笑った。

部長は、私の肩を抱き、私は、自分の部屋までの道を、タクシーの運転手に告げた。

ウサギはいるだろうか。何て言うだろうか。もう、どうでも良かった。

部屋は電気が消えたままだった。

私は震える手で、鍵を開ける。

電気を点けると、そこにウサギがいた。

「なんだ、お前は?」
ウサギは、大声で叫んだ。

「ははん。」
部長は、ウサギを見ると、馬鹿にしたように笑った。

それから、飛び掛ってくるウサギ目掛けて、大きく分厚い手を振り下ろした。

ぎゃっ。

ウサギは気を失った。

部長は、ライオンの牙で、その体を切り裂いた。

私は、ただ、そこに立ち尽くして。目をまん丸にして。

「お前も食うか?」
と、聞きながら、なおも口を動かす。

私は、首を振りながら、無言でその光景を眺めていた。

腹いっぱいになったライオンは、私の部屋に寝そべって、まどろみ始める。その分厚い腕は、私の腰に回されたまま。

私も、何ヶ月ぶりかに安らかな気持ちになって、目を閉じる。ライオンの手の重さが心地良い。

ライオンは、ウサギを食べただけではなかった。私の狂ったような激情もきれいにたいらげて、のんびりとそこで眠っているのだった。


2002年12月03日(火) もう何も言えなかった。こちらに向けた背を、背後から抱き締めたいと。そんなことを思いながら見つめていた。

たいした事を望んだわけではなかった。

ほんの小さなさざ波を立てることができたらそれで良かった。大した事を望んだわけじゃない。

ほんとうに。

女は聞き分けが良かった。わがままを言わなかった。外に出るのが嫌いな男のために、いつも家で待っていた。おいしいものを食べに連れて行ってとか、着飾った自分を他の男の目に触れるようにエスコートして欲しいとか。そんなことも、決して口には出さなかった。

女以外に妻と子を持つ、その男とは、もう七年だった。七年が長かったのか、短かったのか。今となってはよく分からない。ただ、七年かけてもどこにもたどり着かなかったことだけは分かった。それを思うと、少し寂しかった。付き合い始めた頃は、じっと待っていれば、私はこの男とどこかの岸に到達し、それから、手を取り合って、その島に小屋を建てられるのではないか、とか。そんなことを漠然と夢見ていたのだけれど。

--

ほんの小さな波風で良かったから、立てたかった。

だから、言ってみたのだ。
「あのね。」
「なんだ。」
「あのさ。」
「だから、何だよ。」

男は、テレビのディスプレイから目を離さずに、うるさそうな声を出した。

「妊娠。」
「え?なんだって?」
「だからね。妊娠したのよ。」
「おい。それってどういうことだよ。」

男は、初めて女の方に向き直った。

「だから、赤ちゃんが出来たみたいなの。」
「本当かよ?」
「うん。たぶん。」
「たぶんじゃなくてさ。ちゃんと調べてもらえよ。」
「うん・・・。」
「本当に俺の子なのか?」
「ひどい・・・。」

女は、思った以上に男の反応が激しかったので、驚いた。それでも、男の驚きが、もしかしたら喜びに変わるのではないか。そんな事を期待しながら、男の態度を見守った。

「で?どうすんの。」
男は、眉間にしわを寄せて、煙草に火を点けながら言った。

「どうって・・・。まだ分からないわ。」
「まさか、産むとか言わないだろうな。」

予想以上に強い口調で言われて、女はうなずくしかなかった。

「病院には、一緒に来てくれる?」
「ああ。まあ、それぐらいはな。」

分かっていた事だった筈なのに、女はちょっとばかり悲しかった。

女の表情が曇ったのに気付いたのか、男は立ち上がると服を着始めた。

「帰るの?」
「ああ。」

女は、そそくさと帰り支度をする男を見て、もう何も言えなかった。こちらに向けた背を、背後から抱き締めたいと。そんなことを思いながら見つめていた。

男が出て行くと、女は、くすりと笑った。失敗、失敗。さざ波どころか。こっちが大ダメージだわ。あはは、と笑う目尻から、涙がこぼれた。

--

男は、どうしたものかと思いながら、家路を急いだ。今夜ばかりは、我が家が恋しかった。中三の息子と小六の娘は、扱いづらくはなっていたが、もう男の生活の一部だった。

今日は、やさしくしてやれなかった。それどころか、邪険にしてしまった。だが、こちらだって、今抱えているものだけでいっぱいいっぱいなのだ。これ以上、どうにもならない。

彼女は一体、どうするつもりだろう。

月々渡しているお金以上のものを要求されたら、ちょっと困るな。

ましてや、どうしても産みたいなどと言わないだろうか。

そんな女じゃない筈だが、分からない。子供欲しさに、俺に黙って産もうとするかもしれない。そんなことにならなければいいが。

男は、そんなことを、ぐるぐると考え続けた。

やれやれ。

男は、子供を堕ろさせたら、女と手を切ろう、と思った。もうちょっと早く引き返していればこんな目に合わなくて済んだのに。だが、もう、遅い。せめて、手術の日は一緒にいてやろう。それから、体が回復するまでそばに付いていてやろう。だが、落ち着いたら、女が子を失った恨み言を言う前に逃げ出そう。

男は、そう決めて、家の玄関のチャイムを鳴らした。

--

女は、空っぽのお腹をさすりながら、思う。赤ちゃんが本当にいたら良かったのに。そうしたら、私、あの人と別れてでも産む。せめて、あの人の子供がいたならば。そうしたら、私の手元に、せめて赤ちゃんが残る。あの人の一部を受け継いだ赤ちゃんが。

だけど、子供はいない。

女はたまらなく寂しかった。

--

男は、苛ついていた。息子が借りたバイクで事故を起こしたという。くそっ。なんて事だ。面倒事というのは重なるものだな。妻が目の前で、バイクの弁償に要る金額やら、息子の入院費やら。そんなものを並べ立てて騒いでいる。あなたも、今月はお小遣いを半分にしてちょうだい、とわめいている。

ああ。なんて事だ。今まで好き勝手生きて来たばちが当たったのだ。そうだ。そうなのだ。

男は、明日、女に会いに行こうと思う。病院の廊下を抜け、こっそり女に電話を掛けた。

--

女は幸福だった。男が三日と空けずに来ることは珍しかった。下手したら、三週間とか、一ヶ月とか。そんな期間待たされるのは日常茶飯事だったのに。

赤ちゃんの事かしら。やっぱり、あの人でも焦ることはあるのね。

男を少し翻弄して、気が済んだらちゃんと言おう。「ごめんなさいね。嘘だったの。」と、ちゃんと言おう。

--

女は、嬉しそうだった。男は、女が嬉しそうなことで憂鬱になった。

男は言った。
「きみ、大事な体だろう?僕がお茶の用意はするから。」
「あら。嬉しい。」

女は、素直に喜んだ。

「あっちのソファで座って待っておいで。」
「うん。」

男が妙に優しいのを見て、女は心の中で舌を出していた。きっと、嘘だと言ってあげたら、男は安堵のあまり笑い出すだろう。そうしたら、私も一緒に笑って。その後は抱き合って。それから、少し恨み言を言うかもしれないけれど、それぐらいは平気だ。そんな想像をしていると、男が不器用な手つきでディーカップを運んで来る。

「初めてじゃないかしら。あなたがお茶を用意してくれるなんて。」
「そうかな。」
「ええ。そうよ。」
「はは、手厳しいな。」

男は、女がゆっくりとカップを口に運ぶのをじっと見つめる。

「どう?」
「おいしいわ。」
女は、微笑んでみせた。

「妊娠すると、味覚が変になるって聞くからさ。」
「ああ。そうね。本当。そうなの。」

女は口元を押さえながら。確かに、妙な味にも思えてくる。

いやだ。私、妊娠はしてないでしょうに。

男は、なおもじっと女を見つめている。

「何?」
女は、聞きながら、喉の奥が熱く焼けるような気がして、声がうまく出せない。

男は、返事をしない。ただ、その瞳は虚ろで。

何とか言ってよ、女はそう言おうとして、激しく咳き込む。喉の奥が熱くて苦しい。苦しい。くる・・・。

まさか?

女の目が見開かれる。私、死ぬのね?

「すまん。」
男が絞り出すように、ようやく声を出す。

「赤ちゃんなんて、困るんだよ。」
男は、悲しそうな目で、そう言った。

ああ。いいのよ。もう、いいの。私が立てようとしたのは、小さなさざ波だけど。思ったより大きな波紋をあなたの心に描いたようね。それで充分。女は、笑って見せようとした。だが、それも叶ったかどうか。


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