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セクサロイドは眠らない

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2002年11月26日(火) 男は、結婚以来、初めてというぐらいに女をいとおしく感じ、久しく触れていなかったその唇に、自分の唇を重ねる。

ある日。

僕は道端に落ちていた腕を拾った。

肘から下だけの女性の腕だった。血も流れておらず、状態は良かった。その白い、少々ぽっちゃりした肌は美しく、僕にはそれが死にゆく肌ではなく、生き続けている肌だと分かった。

だから、それを持って帰った。

僕は、しばらくその腕を裏にしたり、表にしたり。それはなかなかに愛らしく、僕はとても気に入ってしまった。指輪はなく、マニキュアも塗られていなかった。僕は、さっそくに近所のドラッグストアに行き、淡い桜色のマニキュアを。ふと思い立って、鮮やかな赤のマニキュアも買った。きっと、腕は、赤い色を塗られた自分に気付いたら、活き活きと動くのではないか。そんな風にも思えたのだった。

僕は、帰宅して、腕がそこにまだあることに気付いて安心する。

それから、その腕の持ち主を思い描きながら、桜色のマニキュアを塗ってやった。この腕の持ち主は、きっと全身がふくよかで女性らしく、肌の白さからいって家の中にいることが多い女だろう。そうだな。表情は少し乏しいかもしれない。指輪やマニキュアと縁のない生活を送っているということは、自分自身を飾り立てるような暮らしをしていないということだ。きっと、自分を飾ることを忘れて、ただ、一人、部屋の中でぼんやりと男を待っている。そんな生活をしていることだろう。

さて。できた。どうだろう?白い肌は透き通るようだから、淡い桜色のマニキュアが、腕の清楚な様子を引き立てる。

僕は、ほれぼれとその腕を眺める。

--

男は、ほんとうに何日かぶりに帰って来た。女は、溜め息と一緒に立ち上がり、男のために食事の用意を始めようとして。そうして、自分の左腕がないことに気付いて笑い出す。いやだ、私ったら。どうして腕がないことに今まで気付かなかったのだろう。それぐらいに、自分のことに関心がなかったのだ。

「なんだ?」
男が不機嫌そうな顔で訊ねる。

「あのね。気が付いてみたら、腕がなかったのよ。」
女は、尚も笑いが止まらない。

「頭、おかしいんじゃねえか?」
男はイライラとして、女の顔をにらみつける。

いつもの事だ。男は、たまに帰って来たと思ったら、いつも不機嫌で。女は、怒られるのに慣れていた。

「もういいよ。飯はいらん。どうせ片腕じゃ、何食べさせられるか分かったものじゃない。」
「あら。そうですか。」

女は、なんとか笑いをおさめ、男の傍に座る。

「どうなんだ?最近。」
「どうって。何にも。」
「つまらん女だな。お前は。」
「あら。誰がつまらない女にしたんでしょうね。」

こうやっていつもの喧嘩が始まる。数日間、喧嘩を繰り返し、それから、男はプイと出て行く。それが、男と女の夫婦の生活。

男は、苛立った顔で女を見ていたが、ふと、その、肘から下のない腕に目を止める。
「なあ。痛くはないのか。」
「いいえ。ちっとも。自分でも、さっきまで気付かなかったぐらいだもの。」
「ちょっと貸してみろ。」
「なんですか。触らないでくださいよ。」
「いいから、見せてみろ。」
「痛いったら。」

男は、なんというか。その、肘から下がない腕が気に掛かり、唐突に女を抱きたくなったのだった。

「なあ。」
「なんですか。離してください。」
「いいだろう。たまには。俺達は夫婦なんだしさ。」
「だって。今の今まで放っておいたくせに、その気になれというのが無理でしょう。」
「ごちゃごちゃとうるさいな。女房は黙って抱かれてたらいいんだ。」

女は、腕一本では抵抗しきれず、不貞腐れた顔で男の力に身を任せた。

男は、声一つ立てない女に不満だった。そうだ。この女はそういう女だった。だから、俺はこの家にいても面白くなくて、よそにばかり入り浸るようになったんだった。

--

僕は、その腕の愛らしさに感動し、思わず唇を這わせる。腕の内側をゆっくりと唇でなぞっていき。その脈打つ部分を、舌を出して、ゆっくりと味わう。それから人差し指を口に含む。すると、指がかすかに反応を示した。

なんて、可愛い。

僕は、更にゆっくりと人差し指を口から出すと、更に、他の指を一本ずつ口に含む。

恥らうように、手の平を閉じようとするのを無理に開かせて、その手の平を僕の頬に滑らせる。

可愛い。可愛い。夜は、赤いマニキュアを塗ってあげよう。赤い色は、驚くほどにきみの白さを引き立てて、きみは、きみの知らない自分を意識することになる。

--

なんだ?

男は、女が急にピクリと身を奮わせたのに驚いて、その腕に力を込める。

押し殺した吐息が、男の肌に当たる。

なんだ、感じてやがるのか。

男は少し嬉しくなって、女の白い体をやさしく撫でる。女は身をよじり、目を潤ませる。男は、結婚以来、初めてというぐらいに女をいとおしく感じ、久しく触れていなかったその唇に、自分の唇を重ねる。

女の唇は、体からこみ上げてくるものを抑えきれないといった風に、男の唇に応える。

なに?どうしたの?

女自身、何が起こったのか分からずに、初めての感覚に我が身を委ねる。

--

ひとしきり戯れた後の腕は、ほんのりと赤らんでいる。

僕は、腕をそっと僕の傍らに寝かせ、おおいに満足して目を閉じる。

ああ。なんてことだろう。知らない女の腕の肌の感触を、こんなにも楽しんでいるなんて、僕はどこかおかしいんじゃないだろうか。

ふと横を見ると、腕も満足して眠っているように見えた。僕はその小指の先に軽いキスをして眠りに落ちる。

--

男は、もう、何日家にいるだろう。不思議なことに、今回はまったく喧嘩もない。それどころか、腕のない女を気遣って、男は家事の手伝いすらしてくれる。

女は、よく分からないけれど、腕がなくなったことで何かがいい方向に動き始めたのだと悟る。

自分の肌のきめの細かさを自慢に思うようになり、男が帰ってくるまでの時間に赤いマニキュアを塗ってみたりもする。足の指にマニキュアのハケを挟んで塗るものだから、随分と時間が掛かるのだけれども、どうせ暇なのだ。思いがけず、男が喜んでくれたのが嬉しかった。指先がポッと暖かく感じられ、それは全身を駆け巡った。

片腕では不自由だろう、と、男が今日も、風呂場で髪を洗ってくれる。

この後の時間を思うと、知らぬ間に笑みがこぼれる。男もきっと同じ思いだろう。

昨日の夜は、初めてそれを手で握ってみた。そうだ。と男は嬉しそうに笑った。上手いじゃないか。どこかで習ったのか。そんなことを言うものだから、買い物以外滅多と家を出ない女は、嫌な冗談ね、と笑ったけれども。それは、どこか知らない場所で知らない自分が体験して来たことのように思えるほどに肌に馴染みのある感触であった。


2002年11月23日(土) 気付いた時には、二人裸で、ベッドで笑っていた。そういえば、誰かに素顔を見せたのは久しぶりかもしれない、と思った。

「旦那様が呼んでおられます。」
そう言われて、迎えの車に乗り込む。

今夜あたりが危ないのかもしれない。やさしい人だから、病でやつれた姿を見せて私に心配をかけないようにと、病院へは私を近付けなかった。私は、ただ、そうやって甘やかされているのが私の仕事と思っていたから、彼の言う通り、それまでの生活を崩さずに暮らした。

病室は、豪華で素晴らしかった。彼は少し顔色がいいように見えた。

「わざわざ呼びつけてすまなかったな。」
と、微笑んだ。

「いいのよ。あなたの妻ですもの。むしろ、本当はもっとここに来なくちゃいけないのに。」
「いや。いいんだ。お前の顔を見たいのはやまやまだが、自分が衰えて行く姿は見せたくないんだよ。」
「でも、あなた、今日はお元気そうですわ。」
「なに。無理してるんだ。」

言われてみれば、彼の体は、何十個ものクッションに支えられて、かろうじて座っているように見えるだけだった。私は、唐突に涙が出そうになる。

「大丈夫だよ。」
「何がですの?」
「私がいなくなっても、お前は。」
「そんなこと言われても、困るわ。」
「大丈夫だ。本当に。」

震える私の手を、乾いた彼の手がそっと撫でる。

ようやく涙の発作がおさまった私は、顔をあげて彼に笑顔を見せる。この笑顔が彼は好きだった。だから、私は、いつもきちんとお化粧して、彼に花のような笑顔を見せた。「お前の顔が生きる力になるよ。」、彼はそう言って、私の顔を、美貌を誉めてくれた。そうやって、幾つもの店を経営して、私達は裕福な生活を送った。どこに出かけても素晴らしいカップルとして称賛された。

不思議なことに、私は、いつまでも年老いることなく、美しかった。ほっそりした体。しみもしわもない顔。豊かな黒髪。彼が少しずつ老いて行くのに、私は変わらない美貌を保っていた。

彼は、その事実を驚きながらも、尚、愛してくれた。

そうして。彼は、充分に生きた。私が残りの人生を困らない程の財産を残して、そろそろ、その生を終えようとしている。

「私が死んでも泣かないでおくれ。」
「どうして?」
「お前は、無傷で生きて行くのがふさわしいからだ。」
「そんな・・・。私だって普通の人間ですわ。」

私は、彼の額をそっと撫でた。それから、頬に指を滑らし、唇に触れた。それは全て、私のものだった。

「本当は、お前は、私を愛してなかっただろう?」
「なんで、そんなことを?」
「いいんだ。お前は、私のことなど、さして愛していなかった。」
「ひどいことをおっしゃるのね。」
「じゃあ、言い換えるよ。私がお前を愛しているほどには、お前は私を愛していなかった。」
「それは・・・。そうかもしれませんわね。」

彼に嘘はつけない。私は、あっさりとその事実を認める。

彼は、私の顔を見て、なおも、微笑む。

たしかにそうなのだ。私は、彼がいなくなったら、また、似たような愛し方をしてくれる人を探す旅に出るだろう。私は、まだまだ、若く美しい。本当は、もう、八十を越えているというのに。どうしてだろう。なぜ、私は、いつまでも老いることなく生きているのだろう。

理由は分からないままに、私は、その美貌と若さを利用しながら生きて行く。

--

その夜、彼は永眠した。私は、あと始末を使用人に頼んで、旅に出た。私を愛してくれる人がいなくなった屋敷に残るのは、私にとって無意味だった。私は、小さな田舎町に移り住んだ。都会での贅沢な暮らしには、少しばかり飽いていたので、静かな場所でのんびりと暮らしたかったのだ。

その家は、小さくて可愛らしかった。私はそこが気に入った。

隣には、日焼けした美しい青年が住んでいた。異国の言葉を話すので、何を言っているのか分からないけれど、いつも笑顔で挨拶をしてくれた。

私は、その青年が気に入って、いつか会話ができるようになりたいと、その国の言葉を学び始めた。

私が気になっているのは、青年が庭に出て、いつもしていること。土に水をやっている。だが、その土からは、幾日経っても芽が出て来ない。

私は、片言で質問した。
「何に水をやっているの?」
「花だよ。」
「でも、ちっとも芽が出て来ないわ。」
「この花が咲く時期は、誰にも分からないんだよ。育てている本人にもね。」
「何の花?」
「愛の花だ。愛する人に巡り会えた時、花が咲くんだ。僕らの国の言い伝え。」
「素敵ね。」
「ああ。素敵だ。迷信だという人もいるけれどね。僕は、この球根を、結構高いお金を出して買ったんだよ。」

青年は、満足そうに微笑んだ。

私は、その笑みが嬉しくて。こちらの庭との境目の簡単な柵を乗り越えて、彼の家の庭に入る。

「やあ。美しいお客様だ。いらっしゃい。もっとちゃんとした招待をしなくちゃいけないのにね。」
「いいのよ。素敵な招待を受けたんですもの。」

私は、彼の腕に手を添えて、一緒に花に水をやる。水をやって済んだら、彼が私を抱きかかえて、部屋に。

簡素な部屋の壁には、花の絵。これが、愛の花ね。

彼は、私の化粧を落とし、服を脱がせる。美しい、と、つぶやき、そうしてやさしい手つきで愛撫を始める。

私達は、息をする暇もないぐらいに、何度も何度もキスをして。

気付いた時には、二人裸で、ベッドで笑っていた。

そういえば、誰かに素顔を見せたのは久しぶりかもしれない、と思った。

--

庭に出てみると、花が咲いていた。赤く、大きく、見た事もないぐらいに美しい花だった。

私達は、微笑み、互いの体に腕を回して、一生離れまいと誓い合う。

--

ここまでは、私の身によく起こった幾つかの恋のいきさつとそっくりだった。だけど、今度は違うのだ。今度ばかりは、本当の愛。私は、そんな確信に近いものを抱いた。

だが、恐ろしいことが起こった。

朝、鏡を見ると、目尻にしわが一本刻まれている。私は悲鳴をあげ、そこにくずおれる。彼が慌てて駆け付ける。

「どうしたの?」
「顔が。」

それ以上は言えない。彼は、慌てて私を抱き起こし、それから、心配ない、心配ないと、私の顔に何度も口づける。

私は、しわの一本ぐらい、取り寄せた化粧液でなんとかなるかもしれないと思い直し、その日は、彼と幸福な日を過ごす。

だが、次の日。また、次の日。日毎に私の皮膚は衰え、肉体は崩れて行く。

私は、嘆き悲しんで、彼を遠ざけようとする。

「神様、どうしてですか?ようやく、私は、安らぎの場所を得たのに。」
私は、泣いてばかりだった。

だが、彼は、変わらず私のそばにいて、手を取り、愛の言葉をささやく。

「どうして私みたいなお婆さんを愛せるの?」
私は、訊ねる。

「どうしてって。愛の花が咲いたから。」
彼は、そう言って、私のしわだらけの頬に唇を寄せる。

「ねえ。お願いだ。笑ってよ。愛していると、僕にも言ってよ。」

そんな言葉も空しく、私は泣いてばかり。

彼は、寂しそうに私を見ている。

--

今、私は、八十過ぎの老婆らしく、痛む関節を抱えて生きている。寄り添う彼の体は若く張り詰めている。私の体の調子が良ければ、愛の行為さえ、行う。

庭には、愛の花が、まだ、咲き続けている。

彼は、毎日毎日、その花が咲くものと信じて水をやっていたのだと、言った。私は、それが、私達が出会う前に土の中で腐ってしまわなかったことに感謝しながら生きている。

愛の花は、いつ咲くかも、それからいつ枯れるかも、私達には決められない。


2002年11月20日(水) 僕は、女の子としゃべった。名前は、知らないままだった。女の子に名前を訊くのは、なんとなくみっともない事に思えた。

僕は、一人だった。いつも、いつも。

遠くから引越して来たから、かな。いつまでも友達ができなかった。

だから、その町のはずれの森で。あんまり奥に行くと迷子になるよ。そう、おばあちゃんから言われて。でも、僕は、その森の薄暗い場所で遊ぶのが好きだった。誰も来ない場所で一人になっていると、むしろ寂しくなかった。本当に寂しいのは、大勢いる場所で誰にも話し掛けられない事だから。

夏でも、ひんやりと暗くて。僕はそこで一人遊びをする。

--

ある日、それに気付いた。

森の中のその場所は僕のお気に入りの場所で、そこにある太い木の上から何か紙コップのようなものが垂れ下がっている。糸電話だ。以前、学校の工作の時間に作った、二つの紙コップの間に糸を張り糸の振動を利用して会話するという、あの糸電話にそっくりだった。あの時、僕はペアを組む相手がいなくて、結局、作った糸電話は使われることなく、学校帰りの僕の足でぐしゃぐしゃに踏み潰された。

糸電話だと、思った。それが、そんな風に垂れ下がっていては会話などできる筈もない、というのは、その時の僕には思いもよらなかった。

僕は、それを手に取る。

「もしもし。」
声を出してみる。しゃがれた声はどこにも出て行かず、紙コップの中にとどまっているように思えた。

ふいに、
「もしもし。」
と女の子の声が聞こえた。

え?

僕は、紙コップにしっかりと耳を当てた。

「そこにいるんでしょう?」
と、小さな声が聞こえた。

「ああ・・・。」
僕は、うろたえて、手を離す。だが、気になって、もう一度手に取って。
「誰?」
と、訊ねた。

「私。」
「私?」
「うん。」
「僕は、タイチ。」
「タイチ?」
「そう。タイチ。ふといという字に、いちって書くんだ。」
「へえ。」

そうやって会話が始まった。女の子は、あまりしゃべらなかった。ただ、僕の話を黙って聞いて、時折笑い声を立てる。その声が、本当に楽しげに響くから、僕は一生懸命、女の子を笑わせるような事を考えてみる。が、あまり上手くはいかなかった。なんせ、僕は、普段滅多に人としゃべらないものだから。

いつのまにか、随分と長くしゃべっていた。

僕は、急に、女の子に
「帰らなきゃ。」
と言って、慌てて紙コップから手を離した。遅くなると母に怒られるのだ。僕は、慌てて森の出口のほうに走った。

ばいばい。

背後から小さく聞こえたような気がした。僕は、心の中で、ばいばいと返事した。

--

次の日も、次の日も。僕は、女の子としゃべった。

名前は、知らないままだった。女の子に名前を訊くのは、なんとなくみっともない事に思えた。女の子は糸電話の向こうで、ほとんど聞き役だった。僕は、漫画雑誌やテレビから仕入れた話をしゃべって聞かせた。女の子は、些細な事でコロコロとよく笑った。

僕は、自分がすごく話し上手になった気がした。そうやって、少しずつ、ある事ない事。学校で、自分がどんな風に友達を笑わせたか。驚かせたか。そんな話は、次第に脚色され、僕は女の子としゃべっていると本当に自分がクラスの人気者になったような気がして来るのだった。

そうして、僕は、女の子を喜ばせるために嘘ばかり言うようになる。

「猫を拾ったんだ。」
「猫?」
「うん。三毛猫。三毛猫はめずらしいんだ。」
「オス?メス?」
「ええっと。メス。」
「赤ちゃんなの?」
「ようやく目が見えるようになったぐらい。」
「可愛いんでしょう?」
「ああ。可愛いよ。僕が指を出すと舐めてくるんだ。」
「素敵ねえ。」
「猫の舌はざらざらしているんだ。」
「ふうん。」

嘘だった。猫なんか飼った事はない。狭いアパート暮らしで、猫が飼える筈もなかった。ただ、女の子が喜ぶから、架空の猫を想像して話をした。それからしばらくは、話しをするたびに猫の事を話題にした。猫の名前は、僕と女の子の二人で「アケビ」と名付けた。アケビは、僕の想像の中で、日増しにやんちゃになり、数々のいたずらをするようになった。

ある日、女の子が僕にこう言った。
「ねえ。アケビの声、聞かせてよ。」
「アケビの声?」
「うん。聞きたい。ねえ。いいでしょう?」
「ああ。うん。いいけど。アケビは神経質だからなあ。」
「大丈夫よ。きっと。」
「そうだね。うん。きっと大丈夫だ。」

僕は、その日、その後の会話を覚えていない。架空の猫の声なんかどうやったら聞かせられる?僕は、必死で考えた。一番手っ取り早いのは、そこいらの野良猫を捕まえて来る事だろう。だが、駄目なのだ。アケビはすごく賢い猫で、僕が何か言うと、鳴き声のイントネーションを変化させて、うまい具合に返事をする猫なのだ。

駄目だ。駄目だ。そこいらにいる、食べ物屋のゴミで太った猫じゃ、代用できない。

僕は焦った。

そうして、結局、次の日、僕は森に行かなかった。次の日も。その次の日も。

だが、とうとう、僕は耐え切れず、森に行く。女の子が待っているのだ。自分はなんて卑怯なのだろう。

僕は勇気を出して、糸電話を手にする。
「もしもし?」
「タイチ?」
「うん。」
「久しぶりね。」
「ああ・・・。」
「楽しみにしてたのよ。」
「楽しみ?」
「うん。アケビの声、聞かせてくれるんでしょう?」
「ああ。それが。その・・・。」
「ねえ。早く。」
「アケビは、死んだんだ。」
「死んだ?」
「ああ。」
「どうして?」
「それが。車に轢かれて。」
「うそ。」
「本当だよ。」

電話の向こうですすり泣きが聞こえた。

「泣かないで。」
「泣かないでって。だって。」
「それで、なかなか電話できなかったんだ。」
「・・・。」
「アケビのお墓は?」
「お墓は・・・。作ってないよ。まだ、昨日起こったばかりだし。」
「ちゃんと作って。」
「ああ。」

その日はもう、女の子が取り乱してばかりだから、僕は早々に切り上げて帰宅した。まいったな。なんでこんなことになっちゃうんだろう。それから、ぞっとする。こうやって、これから幾つもの嘘をついて。だが、いつか暴かれて僕は女の子に徹底的に軽蔑されて。それは嫌だった。何がなんでも、嫌だった。

--

それから、どうしたか。

僕の糸電話遊びは、いつのまにか終わってしまった。簡単だ。糸電話を手にしなければいいのだ。そもそも、そんな糸電話が存在して、いつだって電話の向こうに女の子が待っていること事体がおかしかったのだ。だが、その奇妙さに気付かないまま、僕は、僕がつく嘘で女の子にいつしか嫌われる事だけが怖くて、いつのまにか糸電話から遠ざかってしまった。

--

僕はもう、社会人だ。

高校・大学と、それなりに友人ができて、ごく普通の平凡な人生を送るサラリーマンになった。

携帯電話も持つようになった。恋人はまだいないが、そのうち、きっと素敵な恋人ができるだろうと信じていた。不思議な事に、僕は、いつもいつか付き合う事になるだろう女の子の笑い声をイメージするようになっていた。あの日、森の奥で、糸電話越しに聞いた、あの子の笑い声のような。想像の中で、僕はいつも、話がうまくて、彼女を笑わせてばかりなのだ。

そんな暖かな想像をしていたある日。携帯電話に一通のメール。それは、多分、間違いであろう、メール。はずむような調子の、そのメールは、女の子が友達にあてたもののようだった。

「ねえねえ。タッチ。昨日はいきなり電話切っちゃうから、すっごい寂しかったぞ。タッチが急いでたのは分かるけど、あれはないんじゃない?私、思いっきりめげちゃった。」

僕は、丁寧に返信した。もうしわけないが、メールを読んでしまいました。どうやら、あなたは宛名を間違えたメールを送ったようです。

だが、次の日も、メールは届いた。次の日も。その次の日も。最初のうちは間違いを指摘するメールを返信していたが、僕はそのうち面倒になり、結局、その子からのメールを心待ちにするようになってしまった。もしかして、相手は知っていて送って来ているのかもしれないし、何か、新手の勧誘の類かもしれない。そんな風に思いながらも、携帯越しの彼女は、ごく普通の明るいOLといった感じ。他愛のない愚痴。やたら明るい調子のそのメールに、僕の口からは、時折クスリと笑いがこぼれる。

「ねえ。タッチ。うちの子がねえ。まーた、失敗したんだよ。」
どうやら、猫を飼っているらしい。最近は、もっぱら、その猫に夢中のようで。猫を、まるで我が子のように語る調子が微笑ましい。思わず返信したい衝動に駆られるが、それは抑える。何か、盗み聞きをしているような。そんな居心地の悪さだけは、終始付きまとっている。

だが、ある日、こんなメール。
「ねえ。タッチ。あの子が帰って来ないよ。どうしよう?車に轢かれたのかな。昨日、ちょっときつく叱っちゃったから、もう、帰って来ないかもしれない。どうしよう?どうしよう?どうしよう?」

あまりに取り乱したメールに、なぜか、どうしようもなくて、僕は思わず返事を書いた。
「しっかりして。猫はきっと帰って来るからさ。まずは落ち着こうよ。」

返事を送った後で、しまった、と思った。

メールがそれっきり止まってしまったから。次の日も、次の日も。

もう、来ないかもしれない。それは僕をとんでもなく寂しい気持ちにさせた。

--

それから。メールが途絶えたと思ってから三日目。彼女からだ。

「ぜーんぶ、嘘だよ。あはははは。おかしかった?ね?騙されたでしょう?猫なんか、どこにもいないよ。全部、嘘。猫、可愛がってる女なんて、どこにでもいそうでしょう?そんな女が、みんな好きなんだよねー。だから、猫飼ってるふりした。ねえ。本当かって?じゃ、ね。森に行ってごらん。太い木があるところ。あそこにね。お墓があるからさ。猫のお墓。アケビって猫の骨が埋まってるよ。ね。誰かがずっと間に殺した猫。それと同じ。ただの遊びだよ。楽しかった?でもね、もう、終わり。嘘なんて、ずっとつき続けたら、結局、自分が振り回されちゃって馬鹿を見るんだよね。だから、自分が傷付く前に終わりにするのが賢いやり方。」

僕は、ただ、携帯電話のディスプレイを見つめる。どこの誰とも、名前すら聞かなかった女の子からの。そう、どこか知らない場所にいる女の子のちょっぴり意地悪い笑い声が響いてくるように思えた。


2002年11月15日(金) 「あはは。私は、ね。独り者だから。そういうのはないんだけどね。」僕は、彼女が結婚していないのを知って、ほっとする。

「いらっしゃい。何、いたしましょう?」
時折買いに行く弁当屋に新しく入ったパートの人の笑顔は素晴らしかった。

僕は、思わず顔を赤らめて、
「唐揚げ弁当。」
と、答えた。

弁当ができあがるのを待っていると、彼女が、
「学生さん?」
と訊いて来た。

「いえ。」
「あら。若く見えたから。」
彼女はにこにこして。

それから、できた弁当を手渡してくれて、
「寒いから、気をつけてね。」
と、声を掛けてくれた。

それだけの会話が、帰り道、僕を暖かくしてくれた。

--

それから、あまり頻繁にならないように気を付けながら弁当を買いに行き、僕は少しずつ彼女と親しくなった。
「寒くなりましたね。」
今日は思いきって、こちらから声を掛ける。

「そうねえ。朝、早いから大変だわ。」
「家族の食事とか作るの大変でしょう。」
「あはは。私は、ね。独り者だから。そういうのはないんだけどね。」

僕は、彼女が結婚していないのを知って、ほっとする。

「お待たせ。毎度ありがとうございました。」
彼女が僕に弁当を渡す指先がかすかに触れる。僕はまた、顔を赤らめる。

今年の冬は暖かい。勝手にそんな風に思いながら。僕は、何もないアパートに戻る。

--

「あら。」
その日、たまたま出向いたショッピングセンターで彼女とばったり出会う。

一瞬、誰かと思った。いつもの、弁当屋の名前が入ったエプロンをしていなかったから。

「あ。こんにちは。」
「ふふ。今日はね。お休みだから、コートでも買おうかしらと思って。」
「あ。僕も、冬物の衣装を。」
「まあ。偶然ね。」

それから、僕らはあれこれと冬服を見て回る。結局何も買わずに、「見てるだけで疲れたわ。」と笑う彼女に、「お茶でも。」と誘うのは、僕の精一杯だった。

「いいわね。」
彼女は、いつもの笑顔で応じてくれた。

「ねえ。お仕事、何なさってるの?」
「何も・・・。」
「あら。無職?」
「ええ。まあ。」
「じゃ、退屈でしょう?」
「そうですね。なんていうか。病気療養中なんです。」
「そう・・・。」
「僕のことより。ねえ。あなたは?ずっと一人だったんですか?」
「ううん。夫も子供もいたの。でも、いろいろあって。ね。今は一人。一人は気楽よ。自分が食べて行く分だけ稼げばいいしさ。」
「寂しくはないですか?」
「寂しい・・・、か。」
「ええ。」
「どうかな。まだ、そんな。一人になった途端、生きるのだけで精一杯になっちゃった。」

僕は、彼女の孤独故に、更に彼女を愛する。

「ねえ。変な話、今年のクリスマスまでにお互い一人だったら、一緒にお祝しません?」
「あら。いいけど。」
「誰か他に過ごす人ができたなら、いいんです。」
「今のところ、一人よ。どうせ、仕事だろうし。でも、素敵ね。クリスマスに誰かと過ごす約束なんて。」
「すいません。変なこと言って。僕とじゃ面白くないだろうけど。」
「あら。嬉しいわ。」

彼女は、笑った。本当に。心から。それが、僕の、その冬の最高。

--

弁当屋に行くと、彼女以外の店員が出て来た。僕は動揺を抑えつつ、訊いた。
「あの。いつもの人は?」
「ああ。彼女ね。入院しちゃったよ。安い時給で働いてくれる人は重宝してたんだけどさ。」
「すいません。どちらの病院ですか?」
「さあねえ。」

僕は、その日から、必死になって彼女を探した。

ようやく見つけた時、彼女は、青ざめた顔をこちらに向けて、
「来てくれたの?」
と、ぼんやりと言った。

「だって、約束してるし。」
「ごめんなさいねえ。咳が止まらなくてさ。お弁当屋でしょう?辞めてくれって言われて。」

僕は、小さな小箱を差し出す。

「なあに?」
彼女はゆっくり箱を空ける。

中には、小さなルビーの指輪。
「これ、どうしたの?」
「プレゼントです。」
「すごく変わった色だわ。こんなの初めて見た。」
「ええ。」
「ねえ。もらえないわ。」
「もらってください。」
「入院費もろくに払えない人間が、こんなの持っててもしょうがないもの。」
「馬鹿だなあ。これは、あなただけにふさわしい。」

その指輪を、無理に彼女の指にはめる。その指は少し痩せて。指輪がくるくると回りそうだった。

胸がつまって、慌てて、言う。
「ねえ。話をさせてください。退屈でしょう?」
「ええ。じゃ、聞かせて。」

僕は、ルビーを生み出す少年の話をした。

その少年の血は、切り口から滴って、落ちると同時に美しいルビーになる。少年の両親は、それを知って、少年の腕や足を切り続けた。少年は、黙って耐えていた。お前のせいで苦労しただとか、そんな事を言われて。確かにその家は、子沢山で、貧乏だったから。兄や弟達は、スポーツや勉強が得意だが、少年には何も取り柄がなかったから。

だから、言われるままに、血を差し出した。

ある日、本当に、どうしようもなくそんな生活が嫌になって、少年は逃げ出した。その頃には両親はすっかり少年を頼るようになっていて、働こうとしなかったから。少年は、命からがら逃げ出して、傷を癒す生活。自分に頼っていた親が今頃どうしているかなんて。むしろ苦しんでいればいいと。願った。それなのに。ねえ、僕がいないことで、とうさんやかあさんは悲しんだりしてくれているかな。その事ばかりが、少年を悩ます。

「それから、どうしたの?彼は、ご両親の元に帰ったのかしら?」
「いえ。帰りませんでした。」
「じゃ、どうしたの?」
「自殺しました。ルビーを生まなくなった彼は、生きている理由が分からなくなった。人に利用され続けると、人間、そんな風になってしまうのでしょう。」

彼女は、疲れたのか。目を閉じて。
「悲しいお話ね。」
と、言った。

「すごく、悲しい。」
「ええ。」

僕は、彼女の指輪をした指に、そっと口づけた。

--

手術が行われるという日、彼女は医者に聞いた。
「でも、私、手術代が払えないんですよ。」
「親戚の男性の方がね。お金を置いて行ったんです。」
「親戚の?」
「ええ。ともかく手術したらきっと良くなります。」

彼女が病室に帰ると、ベッドに置かれた小包。

彼女の膝の上で、振ると、コトコトと音を立てる箱。箱の包みは、茶色い染みが幾つかあって、それはまるで、血の痕跡のようだった。

彼女は、ふと、あの、悲しい目をした青年の事を思い出す。箱を開けようとするが指が震えて、うまく開けられない。箱の中には、見たこともないほど大きくて、赤く美しい石。彼女は息を飲む。

これだけの量の血を流すには、ずいぶんと。いえ。私の入院費まで作るのなら、きっと体中の血が必要だったのかもしれない。そんな馬鹿げた妄想を頭から振り払おうとするのだけれど。

馬鹿ねえ。あの少年の話は作り話。それにお話では自殺したって言ってたじゃない。彼女は何度も自分に言い聞かせる。けれども、尚、死んだような顔をして生きていた青年の目が思い出されてしょうがない。そうして、想像の中では、なぜか彼は幸福そうな顔で微笑んでいるのだった。


2002年11月13日(水) 男性の声だった。うっとりするような、深みのある声だった。私より少し上の年齢の人のように思えた。

夫が仕事に行ってしまうと、長い長い一日が始まる。子供もいず、近所に友達もできないような。そんな私にとっては、夫が家庭にいるわずかな時間だけが誰かとしゃべる貴重な時だった。だが、このところ、夫は仕事で忙しく、私の言うこともろくに聞いてはいない。夫が出張中でも連絡が取り合えるようにとおそろいで買った携帯電話も、最近では、夫が私からの電話を受ける事をあきらかに嫌がるようになったために、ほとんど使われていない。

結婚って、なんだろう。

少ない家事を終えてしまうと、後はテレビを見るぐらいしかすることがない。たまの電話は、実家の母からだけ。

「なあ。あれだ。お前、パートでも出てみたら?」
夫が、昨夜そう言った。

「パートって。」
「まあ、俺の仕事だっていつまでこの調子か分かんないしさ。お前はお前で稼いでおいてくれたら、俺も気楽だからなあ。」

それが、夫流の優しさであることは分かっていた。

たまには外に出てみろよ。俺がいなくても、楽しい事って沢山あるんだぜ。

でも、私は、今こうやって夫を待っている生活で充分楽しかった。わざわざ、夫を喜ばせるために他の主婦に混じって働くのは身震いするほど嫌だった。
「そうねえ。でも、この不景気でハローワークもごったがえしてるし。」
「みんな必死なんだな。」
「ええ。私は、だから、幸せなのよね。」

夫は、しょうがないなという顔をしながらも、そんな私を優しく見つめていた。

それから、私がお風呂から上がった頃には夫は高いびき。夫は疲れている。今は、夫が家庭を気にせず思い切り働く事が私の大事な仕事。言い聞かせても、寂しくて涙が止まらなくなるのだった。

--

携帯電話が鳴っている。

見ると、番号非通知だ。誰だろう。

「もしもし?」
「ああ。真理絵さん?」
「え?あ。はい。」

男性の声だった。うっとりするような、深みのある声だった。私より少し上の年齢の人のように思えた。

「僕。覚えてます?高林。」
「さあ・・・。」

やだ。いたずらかな。

「そうか。ま、久しぶりだからなあ。覚えてないのも当たり前だよね。昔、バイト先で一緒だった事がある。」
「バイトで?」
「そう。で、きみに本を借りたんだけど。覚えてないかな。返そうと思った時には、きみはもう、バイトを辞めてて。ずっと探したんだけどさ。」

思い出せない。

「ごめんなさいね。思い出せないの。」
「そうか。ガッカリだな。思い出せないんじゃ、会ってももらえないだろうし。」
「ねえ。どんな外見?」
「どうって、普通だからなあ。背は、ちょっと高い。取り柄はそれぐらいかな。眼鏡はかけてない。ありがたいことに、髪の毛はまだたっぷりある。」
「そう・・・。駄目だわ。全然。」
「そっか。」

高林が電話の向こうで相当がっかりした声を出すものだから。私は、慌てて、取り繕おうとする。
「ねえ。もうちょっとヒントをちょうだい。バイトって、どこ?いつ頃?」

私達は、それから小一時間はしゃべっていただろうか。彼の語る事は、何から何まで記憶にあるのに、唯一、彼のことだけが思い出せない。

「ね。こうしよう。僕の事思い出して、会ってもいいと思えたなら、会って。ね?僕は、本を返したいだけだから。」
「分かった。」
「真理絵ちゃんにはずっと憧れてたんだよ。」
「え?ほんと?」
「はは。言っちゃった。本当だよ。でも、今は、やましい気持ちじゃなくて。本当に本を返して、お礼を言いたいんだ。」
「うん。分かった。」

私は、彼がまたかけて来ると言った言葉に安心して、切れた携帯電話を眺めていた。真理絵ちゃんなんて呼ばれたのも、久しぶりだった。

誰だったのかな。本当に。でも、いい感じの人だった。

--

私達は、それから毎日のように、電話でしゃべった。彼が、会社のお昼しか時間が取れないというので、その時間を心待ちにした。

「いいのかな。こんなに毎日。ご主人、妬かないかな?」
「まさか。放ったらかしよ。」

彼との電話は、楽しかった。私は、久しぶりに、笑った。

私は、彼の影響で、美容院に行ったり、服を買ったりするようになった。そんなことには案外とお金が掛かる。私は、夫に言ってパートに出ることにした。

夫は少し驚いて。それからまじまじと私を見た。
「どうしたの?最近。」
「うん。なんだかね。ずっと家にこもってばかりじゃいけないと思って。」
「ふうん・・・。」

夫は、眼鏡越しに、何か私をじっと観察しているようだった。私は、少しやましいものを感じてドキリとしたけれど。考えてみれば、何も悪い事はしていない。ただ、夫が以前言っていたように、パートに出たいと思っているだけだ。

「いいよ。パート。家の事がちゃんとできるなら。」
「うん。できるわ。」

夫に内緒は嫌だったから。夫が認めてくれて嬉しかった。

--

夫の視線が、何か探るようになっている。

私は、かまわず、近くの惣菜屋で働き、給料日にはちょっとした身なりを飾るものを買った。

高林からの電話は、相変わらず続いている。
「ねえ。僕の事、思い出せた?」
「うーん。それが・・・。」
「そっか。」

彼のことを思い出せないのもあったが、本当は少し怖いのだ。彼と会う事が。もう少し、綺麗になって。ダイエットもして。それから、会ってみたい。そんな風にも思った。

夫は、最近、そんな私を遠巻きに眺めているだけだ。

--

男の元に、女から電話があった。
「私。ね。覚えてる?」
「いや。分からない。きみ、誰?」
「え?覚えてないの?理沙よ。」
「理沙。理沙・・・。うん。分からないなあ。」
「残念。以前、お互いの友達の結婚式で会って、番号を交わしたじゃない?」
「そうだったかな。」
「ほら。河本くんと美香の。」
「ああ。その結婚式なら覚えてる。だが、理沙という名前には、悪いけど・・・。」
「ひどーい。」

男は、思い出そうと、目を細める。駄目だ。電話の向こうの女の声は、少しハスキーで、妙に脳の奥に絡み付いてくるような、素晴らしい声だ。こんな声の持ち主なら、忘れる筈もないのに。

女は、時折、電話を掛けて来るようになった。どうやら、上手い寿司屋を知っているから、今度連れて行ってあげようと。俺はそんな約束をしたらしい。その寿司屋は知っている。俺の幼馴染がやっているからな。話の辻褄は全て合っている。ただ思い出せないのは、その美声の持ち主。

--

もう、私と夫の間に会話はなかった。

ある日、夫から離婚届を渡された。

「これ、何?」
「俺達、一緒にいる意味ないよな。」
「ふうん。そういうこと?」
「ああ。そういうことだ。最近のお前は、もう、どこに気持ちがあるのか分からない。」
「あら。私のせい?あれだけ放っておいたくせに。私のせい?」
「いや。俺も悪いんだろうな。」
「当たり前でしょう?たまに電話しても、話し中だし。」
「忙しいんだ。」
「ほらね。自分は仕事を盾にするんでしょう?」

私は、届にサインして、判をついた。

ボンヤリと、高林のことを思っていた。夫と別れたら、もう、彼と会っても、何にもやましいことはない。ちゃんと言おう。あなたの事、思い出せないけど。だけど、あなたに会いたいの。ずっとそうだった。電話の向こうのあなたに恋してる。

--

離婚したばかりの男は、鳴らなくなった携帯を見つめて、酒場で酒を飲んでいた。妻は、いつの間にか自分を待たなくなっていて。自分もいつの間にか、他の女からの電話を待っていて。しょうがないな。結婚生活というものを、ちゃんと守れなかった。どこでどう、間違ったか。

--

「で?一体何があったって言うの?相手の浮気かい?」
実家で泣いてばかりの私に、母が問うてくる。

「何も。何にもなかったの。」
私は、ただ、二度と鳴らない携帯電話を握り締めて。

それは本当だった。夫の間にも、もう何もなかったから。

着信履歴は、番号非通知ばかり。

鳴らなくなればもう、はかない糸は切れてしまう。

何もなかった。何も残さなかった。彼が、誰かさえ。もう、男の苗字など、ありふれたものとして何の役にも立たないのだ。


2002年11月11日(月) その犬は、不細工で動きも妙だったが、それゆえに、愛情といったものがきちんと表現されているような。そんな犬だった。

依頼の電話は少々ヒステリックな語り口で、疲れていた私は思わず受話器を置きたくなった。
「で?ご依頼の趣旨を、もうちょっと要点を絞ってお話いただけませんかね。」
「ですから。うちのおじいちゃんなんですけどね。ロボット工学の第一人者の島村と言えば、お分かりでしょう?」
「え?ええ。まあ。」
生憎と、そういったことには疎かった。

「お金をね。どこに隠してるか、調べて欲しいの。」
「金?」
「そうなの。資産が五億とも十億とも言われてる人がね。あんな貧乏暮らしなんて、おかしいもの。」
「失礼ですが、一緒にお暮らしなんでしょう?」
「そうよ。そうなんだけど。だから変なのよ。とにかく、調べて欲しいの。」
「分かりました。いつがよろしいですか?」
「今週の土曜日はどう?おじいちゃん、一日出掛けるから。」
「分かりました。」

私は、溜め息をついて電話を切った。事務所は小さくてみすぼらしかった。今日の依頼を受けなければ、今月の家賃も払えなかった。大概は家庭のトラブル処理を専門にしている私立探偵として食べている私にしたら、年寄りの遺産を狙う娘からの電話であろうと、最後まで聞かなくてはいけない。

ロボット工学?

そこが少し面白そうではあった。私は、おもむろにインターネットに接続して、キーワードを幾つか入力し始めた。

--

目の前にいるのは、電話の主の中年の主婦の早苗と、その夫。それから、主婦の妹の美千代とかいう女だった。だが、しゃべっているのは、ほとんどが早苗だった。

「で?」
私は、単刀直入な話が好きだった。

「どこかに隠してると思うんです。」
「どこかって言われても。」
「私達にはろくに食費も出さないくせに、しっかり溜めこんで。ね。もう、あの年でしょう?いつ何があるか分からない。」

島村という老人は、確か、今年で八十八になるのだった。

「そのあたりは、ご本人とちゃんと話し合われたらどうでしょう?」
「ちゃんとって言っても、ねえ。」
「何か心配事でも?」
「ええ。まあ。ね。」
「なんです?」
「私達が心配してるのは、おじいちゃんが犬に遺産を残しかねないってことなの。」
「犬?」
「ええ。犬よ。」
「そんなことは法的には無理でしょう?」
「そうだけど。とにかく、普通じゃないのよ。おじいちゃんは。だから、何をするか分からなくて心配してるの。」

早苗の夫が口を開いた。
「犬と言っても、ロボットなんですよ。」
「はあ・・・。」
「帰りに庭に回ってみられたらいい。あれはね。うちで昔飼っていた犬をモデルに、お義父さんが作ったもので、今、一般に出回っている愛玩用ペットの原型とも言えるものです。」
「なるほど。」

島村は、そのペットに、生き物の詳細な動きを反映させてみせて、数々の特許を取っていた。

「今や、お義父さんが心を許すのは、あの犬だけなんです。」
「そうですか。しかし、だからと言って、犬に遺産を残すなんてあり得ません。」

そうは言いながらも、その時私は、やたらと興味をそそる、その老人に会ってみたくなっていた。

「ともかく、お引き受けしても、大したお返事ができるかどうか。」
「いいです。お願いします。」

私は、立ち上がろうとしたその時、一人の少年が部屋に飛び込んで来た。

「息子の守です。」
早苗が紹介した。

「こんにちは。」
私は、利発そうな顔の少年の顔を覗き込んで、挨拶をした。

「こんにちは。」
にっこりと笑う少年。

「いい息子さんですね。」
「ええ。まあ。唯一、おじいちゃんと仲良くしてるのがこの子なんですよ。」
「なるほど。」

私は、少年の頭を撫でた。確かに、この家族の中では少しまともな目つきをしている。

「じゃあ、ちょっと犬に会わせてもらえますかね。」
「玄関を出て、右に回ってください。庭にいますから。」

家族は、私を玄関で見送ってくれた。早苗の妹とかいう女は、遂に一度も口を開かなかった。

--

ロボット犬は、僕を見るとキャンキャンと騒いでまとわり付いて来た。僕は、はしゃぐロボット犬の首輪を注意深く外して長めた。もう随分古くて、そこには「ぺス」と書かれていた。前に飼われていた犬のものだろう。

ロボット犬は、奇妙で、みっともなかった。今、市販されているような本物そっくりの愛玩用ロボットとは、外見も動きも違っていた。ただ、そのロボットは、あり余る愛情を表現しようとしているかのように、僕の上着のすそを引っ張り、まるで「遊ぼう」と言っているような素振りを見せた。

僕は、思わず微笑んだ。その犬は、不細工で動きも妙だったが、それゆえに、愛情といったものがきちんと表現されているような。そんな犬だった。

「どうですかね。うちの犬は。」
いきなり、背後から老人の声がした。

僕は、驚いて振り向いた。
「島村さんですね?」
「ええ。そうですが。」
「はは。この犬は番犬にはなりませんね。」
「そうなんです。そういう意味では役に立ちませんねえ。昔から。生きてた頃からそういう犬でした。」
「はあ。」
「娘に言われて、いらしたんでしょう?」
「ええ。」
「私の遺産がどうとか。」
「そうです。」

私は、あきらめて、全てを認めることにした。この聡明な老人には嘘はつけない。

「近くの喫茶店で話をしましょうか。」
老人が言った。

「ええ。」
僕は、うなずいた。

--

「私がどこかに金を隠している筈だと。そういうことでしょう?」
老人は僕の目を真っ直ぐに見て、切り出して来た。

「そうです。」
「はは。こういった事を、定期的にやらかしてくれるんですよ。あやつは。」
「そうですか。」

それから、老人は、巧みな話術で、ロボットの話を。それは夢のような話だった。少年の頃から誰もが夢見たことが、あたかも現実になるような話。

僕は、ただ、敬意を示し、耳を傾けた。

「いや。いいお話ですね。実に面白い。」
「こういった事は、娘らには分かってもらえんのです。」

老人は少し寂しそうに、言った。私は、うなずいた。

「私の金がどこにあるか。あんたにだけは教えましょうか?」
「・・・。」
私は、何と答えていいか、よく分からなかった。

「実は、金はありません。全部、使ってしまった。」
「一体、何に?」
「何って。もちろん、研究です。」

それから、声をひそめて。
「実はね。娘も、孫も、全部ロボットなんですわ。」
「はあ・・・。」
「あいつらがあんまりうるさいもんでね。金目当てに、私に接近し、思うようにならないと私をののしるようになった。老人虐待ってやつですね。だから・・・。」
「だから?」
「あいつらを殺した。そうして、代わりの家族をね。全員を。金をはたいて作った。どうです?生きてる人間そっくりでしょう?孫だけはね。ちょっと辛かったですよ。あの子に罪はなかった。だが、母親が偽物だと、一番に気付くのはあの子ですからね。生かしておくわけにはいかなかった。」

私は、何も答えられずに、汗をぬぐった。

「娘の口癖も。金をどこかに隠している筈だから、探してちょうだい。ってね。それしかしゃべらんのですわ。あのロボットは。それでも、そんな娘ですがね。可愛い娘ですから。従順なロボットなんかじゃなくてね。あの子そっくりに作った。」

僕は、もう、うなずくしかなかった。

さっきまでの話術で、僕には、目の前の老人がもはや魔法使いか、神か、という気持ちになっていたから。

「そういうわけで、もう、この調査からはお引取り願えますかな。」
老人は、僕の胸ポケットに封筒をねじ込むと、さっさと支払いを済ませ、店を出て行ってしまった。

--

僕は三十分程そこに座ったまま。ようやく封筒の中を見た。そこには口止め料であろう金が入っていて。当面、僕はそれで事務所の家賃が払えそうだった。

外は、思いがけず、暖かな陽射しで。だが、風は冷たく、のぼせた頭を冷やすのには丁度良かった。

それから、ふと思ったのだ。

最後に島村さんが言った言葉。あれは、寂しい老人一流のユーモアだったのかなと。僕は、まんまと騙されたのかもしれない。本当は、家族はちゃんと生きていて。ただ、僕に波風立てないように、手を引かせたかったのかもしれない。

本当のところは全然分からないけれど。

確かに、あのロボット犬は愛に満ちていて、誰かを殺すような人間が作ったものではなかったと、僕は確信したのだった。


2002年11月09日(土) 「なかった。主婦の何人かとは、寝たけれども。それで彼らの結婚生活が揺らいだとは思えない。」

長い長い仕事だった。

三十年続いた人気連載だった。最初は思い付きのように始めたのが、思いがけず読者の反響を呼び、私がその雑誌の編集長を降りた後も、そのコーナーだけは私が担当を続けた。連載は単行本化し、それもベストセラーになった。

今、私は、若き編集者のインタビューを受けている。

「大先輩を取材できるということで張り切っています。あなたの仕事をずっと尊敬してましたから。」
そんな風に言って、若者は緊張した顔でこちらを真っ直ぐに見ていた。

私は、自分の半生を掛けた大仕事にすっかり満足していて、その裏話なら何でも話すつもりだった。

--

その連載は「夫婦」というタイトルだった。文字通り、毎週発売される、その雑誌の巻頭を飾って、一組の夫婦が登場する。そこに登場する夫婦は自他共に認める仲のいい夫婦でなければならない。もう一つの条件としては、基本的には二人暮しであること。単身赴任で週末だけ同居という状態であってもいけないし、子供が一緒に住んでいてもいけない。週に二日だけなら仲良くできる夫婦や、家族の団結を夫婦愛とすりかえてしまうような夫婦は取材するつもりはなかった。インタビューは、私自らが行い、夫婦の仲の良さをあらゆる角度から検証していく。

という、それだけの企画だった。

最初は、ほんの気まぐれで始めたのだ。当時は、私は、離婚したばかりで、深く傷付き、もう二度と結婚なんかするものかと思う一方で、仲のいい夫婦への憧れで胸が押し潰されるような気分になる事があった。今思い返せば、あの時、私は軽い躁鬱病であり、「夫婦」という連載は、そんな自分の状況を打開するための、非常に個人的な企画であったとも言えよう。

大して売れていなかった、その週間雑誌では私の企画はすんなりと通り、以来、私は毎週毎週一組の夫婦の取材を続けることとなった。

夫婦の仲の良さと言ってもいろいろとあると思う。要は、双方が幸福であること。これが大事だった。どう見ても暴君の夫と、奴隷のように従順な妻でも、良かった。あらゆる夫婦の関係を肯定していくのが、この企画の大事な目論見であったから。一方で、どんなに仲良さそうに振る舞っていても、どこかに無理が見える夫婦に対しては、最初の面談の時に、正直にその旨を伝えてお断りするようにした。

企画は大当たり。編集部に寄せられるハガキは膨大なものとなり、取材希望の申し込みも殺到した。私は、できうる限りの時間を割いて、取材の対象となる夫婦を選別して、打ち合わせのために夫婦の元に何度も足を運んだ。夫婦二人揃ってではなく、個別にインタビューする時間も取った。相手のいないところで本心が見える場合もあるからだ。

十代の若い夫婦。中年の危機を乗り切った夫婦。不妊治療に失敗した夫婦。人生の最後を迎えようと病院で過ごす夫婦。

私は、その都度、深い感銘を受け、いつしか、もう一度結婚してみたいと思うようになっていた。

これだけいろいろな形の夫婦愛があるならば、自分にだって、何か見つけられる筈だ。そんな風に思っていた。

--

若い編集者は、理知的で、質問には容赦がなかった。
「取材をされた後、離婚した夫婦というのはありましたか?」
「そりゃ、あったよ。」
「やはり、少ない割合で、なんでしょうね。」
「さて。どうだろう。取材の後の追跡調査はしないものでね。僕は、記事が載った時点で、後の処理を他のスタッフに任せてしまうんだ。」
「その後の夫婦の在り方というのが気になった事はありませんか?たとえば、同じ夫婦が、再度取材を依頼されたりと言った事は。」
「それは、あったよ。もちろん。だけど、基本的には却下していたな。」
「それは、また、どうしてでしょう?」
「さて。どうしてだろうね。人間はなかなか変わらないものだからね。たとえば、離婚して別のパートナーと一緒に取材を受けたがった人もいたが、結局、パートナーは変わっても同じような夫婦関係を築いていたりすることが多いと思うんだよね。だから、基本的には、同じ人に再度登場願う事はなかったな。」
「取材の過程で、載せられない事実が出て来た事はありましたか?」
「まあね。」
「そういう時は、どうされていたのですか?」
「場合による。それで夫婦の関係が危惧されるなら、取材は打ち切ることもあったし。その秘密が、逆に夫婦の親密さを支えているものであれば、問題なしとして、取材を続けたりもした。」

編集者は、今のところの、私の無難な受け応えが少し不満なようだった。

「あなた自身はどうでした?あなたは一度離婚されて、その後でこの企画を始めた。自分の結婚の失敗がこの企画の進行に大きな影響を与えた筈です。」
「そりゃ、もちろん。」
「仲のいい夫婦を、傷付け、壊したいという気持ちはなかったですか?」
「あっただろうな。」
「それは、相手にも伝わってなかったと言い切れますか?」
「いや。全然。むしろ、みんな知っていたと思う。本当に、あなたはそのパートナーで満足しているのか?僕は、何度も何度も問うたから。」
「やり過ぎたりは?」
「なかった。主婦の何人かとは、寝たけれども。それで彼らの結婚生活が揺らいだとは思えない。」
「寝た?」
「ああ。寝たさ。」
「それは、まずいんじゃ・・・。」
「さあね。彼女達は、一様に、寝ることが夫婦の関係を悪くすることはない、と言い切った。むしろ、夫にこのことを話して、更に夫婦仲に役立てるつもりだと言った人までいた。」
「はあ・・・。」
「そういう夫婦もいるということだ。」
「あなたのやったことは・・・。」
「間違いだろうか?」
「ある意味では、そう思えます。」
「でも、彼女達は、それを望んでいた。他の男を一切排除した場所でしか今の夫を愛せないなら、その夫婦は随分と脆いと思わないかね?」
「それは・・・。どうでしょうか。」
「とにかく。私は、そうやって、この三十年続けて来た。問題はあったのかもしれないが、具体的なトラブルはほとんどない。セックスは、相手との合意があった時だけだ。彼女達はそれを望んだ。夫婦のために望んだ。」
編集者は、まだ若かった。いろんなことが、すんなりとは納得できない年齢だった。

「分かりました。次の質問に行きます。どうしても掲載できなかった記事で、特に印象に残ったものは?」
「ああ。一つだけある。」
「それは、どんな?」
「別れた妻がね。若い男を連れて申し込んで来たんだ。」
「どうされたんですか?」
「もちろん、すぐに断ったさ。だが、相手は何度も何度も申し込んで来た。根負けした私は、取り敢えず、取材することにした。」
「別れた奥様は、どんな意図があったのでしょう?」
「そりゃ、もちろん、私に見せつけたいからさ。夫婦の幸福というものの形をね。」
「どんな気持ちでした?」
「腹が立ったね。あやうく、殴りかかるところだった。」
「なのに、あなたは取材をした。」
「ああ。知りたかった。妻が何を望んでいたのか。夫婦って、そうやって傷付けて行くのさ。」
「忘れられなかったんですね。」
「多分、生涯。」
「元の奥様とは、その・・・。失礼な質問だとは思うのですが。肉体関係を持ったりしたのですか?」
「ああ。したよ。」
「・・・。」
「素晴らしかった。失われた物の全てがそこにあった。もう一度、取り戻せると思った。本当に嫌なら、女は別れた男と寝たりしない。」
「それから?どうなったんです?」
「壊そうと思った。妻の家庭を。」
「あの名企画を三十年もやってきた人の言葉とは思えないな。」
「そうかな。そうかもな。だが、いいんだよ。自分はうまくできないくせに、他の家庭をうらやましがり、なくしたものを取り戻そうと馬鹿みたいにもがく男の視点から見てきたものが、世の中の望んでいたものなんだから。」

若い編集者は、小さく溜め息をついた。

おそらく、私への尊敬の念がガラガラに崩れ去ったのだろう。

私は、笑い出したい気分だった。

その時、部屋をノックする音がして、妻が入って来た。
「あなた。お茶を。」
「ああ。丁度良かった。紹介しよう。」
「あら。私は・・・。」
「いいじゃないか。」

私は、妻を横に座らせた。
「妻だ。」

編集者は驚いた顔をした。
「結婚なさってたんですか?」
「ああ。」

私は、その時、幸福だった。

なぜなら、妻が横にいるから。

陰鬱な時代を語るのは辛い。こうやってそばに妻がいると、その辛さもやわらぐ。

「彼女とは二度目の結婚なんだ。」
「ということは?」
「ああ。そうだ。結局、壊しちゃったんだよな。彼女の家庭を。」

妻が笑いながら言葉を添える。
「ひどい人でしょう?こういう人なのよ。昔も、今も。」

編集者は、返事に詰まっているようだった。

それでも、たくさんの夫婦を見ていたから。少しはまともに夫婦の愛が見えるようになったかといえば、そうでもない。今だって、私は不安で、そうして、妻への愛で盲目的になっているのだ。結局、長く答を求め続けたところでこんなものだ。

そんな事を、今日のインタビューの最後に言っておこうと思う。


2002年11月08日(金) もう、この顔は二度と見られないかもしれない。そんな事を考えていると、気が変になりそうだった。

彼のどこか好きかと訊かれたら、私は多分、顔だと答えるだろう。

それぐらい彼の顔は整っていて、彼が笑った瞬間、その場がパッと明るくなる。

彼は、その事を知っていた。私が彼の顔が好きな事を。

そうして、彼は意地悪だった。私が、彼の顔に逆らえない事を知っていて。

私は、そう美しくもなければ、スタイルがいいわけでもなかった。ごく普通の平凡な二十三歳だった。私は、酔った勢いで彼に抱いてと頼み、彼はいとも簡単に私を抱いた。彼のセックスは特に上手いわけでもなく、むしろ独りよがりなものだったのに、私は彼から離れられなくなった。顔だ。その顔で見つめられたら、私はどんな無理を言われても聞かないわけにはいかなかったのだ。

彼は、そんな私の気持ちを知っていて、私の部屋に来てはお金を出させたりしていた。私は、彼が私の部屋で私の作った料理を食べ、機嫌良さそうにしているのが大好きだった。彼の機嫌がいい時は、彼がテレビを見ているそばに寄り添っても怒られたりしなかった。そうして、彼が更に機嫌が良ければ抱いてもらえるのだ。

逆に、彼の機嫌が悪い時は最悪だった。彼は、私がそばにいる事を嫌がり、私の顔や体つきに対して辛らつなコメントをしてみせる。あるいは、料理にケチをつける。挙句、もっとましな女と寝ると言って、部屋を出て行ってしまうのだ。時には、私は、自分のどこが悪いのか分からなくても、泣くまで謝らされたし、あるいは、会社に嘘を言って仕事を休まされたりした。

歪んだ付き合いだった。それは分かっている。だが、どうしようもなかった。彼は、その美貌故、周囲からチヤホヤされていて、いつだって私の代わりの女ぐらい見つけられるのだ。それに引き換え、私は、彼と別れたら、もう二度と彼のような美貌の持ち主に相手にしてもらえるとも思えないのだから。

それでも、彼の足は、私の部屋から次第に遠のいて行った。

寂しかった。

私は、待つばかりだった。彼の電話を。

--

その日、めずらしく彼は酔って私の部屋を訪れた。数ヶ月ぶりだったので、私は、嬉しくて嬉しくて、彼の体に飛びついた。

彼は、あまりにも酔っていたので、私を抱けなかった。

私は、膝枕の上で眠る彼の美貌を見て、ふいに悲しくなって来た。もう、この顔は二度と見られないかもしれない。そんな事を考えていると、気が変になりそうだった。

本当に愛し合う男女が死を選ぶ事が、今までの私には理解できなかったが、今なら分かる気がした。唯一、永遠に一緒にいられる方法なのだ。

私は、彼の頭を膝からそっと外すと、台所に行って包丁を持って来た。それからはよく覚えていなかった。暖かいものが体に飛び散り、私の体は濡れて行った。気がつくと、血まみれの彼の体の横に、彼の美しい顔が血飛沫を浴びて転がっていた。

「ああ。」
私は慌てて泣きながら、彼の首を拾い上げた。それから、バスルームに行って丁寧に洗った。

「ごめんなさい。ごめんなさい。」
私は、泣きながら、洗った。

それから、タオルで丁寧に拭いて、彼の髪を乾かし、きれいにセットした。彼は髪型にはうるさいのだ。

そうして、疲れ果て、眠ってしまった。

--

目が覚めた時、私は、彼にもう会えない事を思い出し、また再び泣きそうだった。部屋は生臭い香りが充満していて、苦しかった。

「おい。起きてさっさとなんとかしろよ。」
突然、彼の罵声が響いた。

「何?」
「だからさ。この部屋。ひどいぞ。それにどうするんだよ。俺の体転がしたままにして。」

彼だった。彼が怒っている。彼の首が、私をにらんでいる。私は慌てて飛び起きて、彼の顔を眺める。

「さっさとしろ。相変わらず、役立たずだな。」
彼のののしり声さえ、いつも通りで、私は安堵のあまり泣き笑いをしていた。

それから、その日一日掛けて、私は彼の指示に従って、彼の体をバラし、彼の郷里の山奥にそれを捨てに行った。

彼の顔はどんなに怒っていても、無力に私の手の中にいるばかりで、私は、その事が愛らしく、その日は
笑ってばかりいた。

彼は、午後にはその事に腹を立て、ほとんど口をきかなくなったが、夜に私がいい香りの手料理を作ると機嫌が良くなり、私に食べさせられるままに、よく食べ、よくしゃべった。

それから、私は、彼の首と並んで、ベッドで眠る。

--

その日から、私は幸福になった。

彼は、もう逃げ出さない。一日部屋で私を待っている。気に入らない事があっても、私を殴ったりもしない。他の女のところに遊びに行ったりもしない。

ただ、彼が吐く悪態を聞いていることさえ、幸福だった。

それから、私は、時折、他の男と遊ぶようになった。私のような女でもいいと言ってくれる男はいるのだ。だが、どの男も物足らなくて、私は、早い時間に逃げるように帰宅して、いとおしい生首を抱き締める。

彼は機嫌が悪い。

私は、笑顔で否定する。
「馬鹿ねえ。何もしないわよ。あなたが好きなの。あなた以外の男に抱かれたりしてないから。」

いつものように、彼が怒り、私は泣いて見せる。二度と他の男と会わないと誓わせられる。

だが、私は自由だった。彼との喧嘩は、遊びなのだ。

そんな時間も、だが、そう長くは続かなかった。

彼の首は、次第に気力を失って行って、あまりしゃべったり怒ったりしなくなった。私は心配で、いろいろと元気が付く料理を作ってみる。あるいは、車の助手席に乗せてドライブに出掛けてみる。だが、ダメだった。

「お前だって分かるだろう。首だけになったところを想像してみろよ。」

それもそうだわ。

私は悲しかった。元気がない彼は、魅力的じゃない。奔放で、怒りっぽい彼が好きなのだ。

私は、彼の肉体を探し始めた。美しくしなやかな体の持ち主を探した。そうして、彼も私も気に入った体を見つけた時には、彼と、その肉体を手に入れる方法を画策した。

そうして、ようやく、彼は新しい肉体を。

肉体提供者の首は、彼の体を捨てたのと同じ場所まで捨てに行った。

「どう?新しい体は?」
「ああ。素晴らしいよ。」

一番気になっていたのは、体側の首の太さと、頭側の首の太さだったが、それも問題なかった。

彼は、新しい体を見ると俄然張り切り、体の上に頭を乗せると、すぐさま体を支配し始めた。私は、改めて彼の生命力に驚嘆せずにはいられない。

新しく得た手足が思うように動き始めた時、彼は心の底から嬉しそうな顔をした。

「ありがとう。」
笑顔がまぶしくて、涙が出た。

--

「それからどうなったんだね?」
「それから・・・?」
「ああ。それから。」
「彼は出て行きました。それが、私を打ちのめす一番の方法だって知ってたんです。彼は、本当は、私に首を切り落とされた事を恨みに思って、ずっと私に仕返しする方法を考えていたんです。」
「で、きみは?」
「私は、代わりを探しました。彼はもう、多分、二度と戻って来ないから。だから、彼のような生命力。彼のような男を。」
「だからと言って、他の人間の首を幾つも切り落としていいってもんじゃない。」

初老の刑事は、優しそうに私を見ていた。多分、私のことを狂人と思っているのだろう。あの後、切り落とした首はどれも、切り落としてから生き長らえる事はなかった。山から体と首のバラバラの遺体が見つからなければ、多分、彼との事は全部夢だと思ってしまえていたかもしれなかったのに。


2002年11月07日(木) 彼女のためにココアを作り、頬にキスをして、渡す。どうだい?こういう事って、猫にはできないんだよ?

「私、猫になりたいの。」
可愛らしい彼女は、よくそんな風に言っていた。僕は、いつだって笑って聞いていた。

「ねえ。本気にしていないわね。」
彼女は、口をとんがらかして怒ってばかりだ。僕は、笑って抱き締める。

「ねえ。ちゃんと聞いて。ちゃんと。ね。笑ってばかりいないで。」
そんな風に怒っているばかりの彼女が可愛くて、僕は、いつも彼女に、
「分かったよ。子猫ちゃん。」
とだけ言って。

軽くあしらってばかりいた。

だって可愛いのだもの。きみは。だけど、きみはいつも何か不安そうだった。どうしてなのだろう。そんなに可愛ければ、そうして、こんな僕みたいな優しい男が恋人だったら、何も不安は無い筈だ。そうして、いつかきみと僕は結婚するだろう。僕は一生懸命働いて、きみと、それからいつか生まれるだろう子供達を全力で守る。それは素敵な事だ。それのどこに不安があるだろう?きみと僕は、一緒にいれば幸福になれる。大丈夫だよ。

だけど、きみは猫になりたいと言う。

「なんで猫に?」
「分からないの。だけど猫を見ていたら、私、自分が猫だったらもっと人生が満足できるものになるような気がするのよ。」
「きみは今のままで充分に、猫みたいに見えるけど?」
「あのね。私は、本当に真剣に言っているのよ。猫みたい、じゃいけないの。本当の猫にならなくちゃ。」
「じゃあ、どうしたらいいんだい?」
「それが分かってたら、今頃苦労はしないわよ。さっさと猫になってると思うの。」
「ふうん・・・。」

僕は少し不満だった。何がまずいのかさっぱり分からない上に、僕と一緒にいることで完璧な幸福を彼女が味わっていない事。

僕はもう、その話を終わりにしたかった。なので、彼女を抱き締めて唇をふさぐ。

「ねえ。ほら。すぐに誤魔化す・・・。」
「いいじゃない。どうして?どうして、今こうやって一緒にいる時を充分に楽しく過ごそうとしないの?きみは僕といても楽しくないの?」

僕はきみを軽く攻めたてながら、指先を少しずつずらしていく。

うん・・・。

あ・・・。

はあ・・・。

彼女は、ほら。もう僕の指になだめられてつまらない事を忘れてくれるだろう。ね。素敵じゃないか。こうして僕らが出会えた事。

--

だが、彼女は日増しに憂鬱を強めて行く。まるで病気のようだ。のら猫が塀の上を歩いているのをボンヤリと眺めている。僕は、彼女のためにココアを作り、頬にキスをして、渡す。どうだい?こういう事って、猫にはできないんだよ?

「ありがとう。」
彼女は、弱々しい声で答える。

「ねえ。前世とかなんとかじゃなくてね。たとえば、男性が女性の器に入って生まれて来たり、女性が男性の器に入って生まれて来たりってのと一緒でさ。猫なのに人間の器に入って生まれて来た女の子がここにいるとしてさ・・・。」
「またその話かい?」
「うん。」
「ねえ。私があなたを愛しているのは事実なの。そうして、あなたが私を愛しているのも知ってるわ。だけど、あなたは、本当はどっちを愛しているかしら?器の私?」
「まさか。両方だよ。」
「本当に両方?」

彼女は、僕の目をじっと見る。その目は、どこか不思議な色に反射して、光のせいか、グリーンにキラリと光った。

「ああ。もちろんだ。」
僕は、答える。そうだよ。そうだとも。僕は、きみの外見だけじゃない。その、時々妙な事に捕らわれ過ぎるところまでも、全部愛している。

「ふん。」
彼女は、まるで猫のように鼻を鳴らして、うなずいて。

それから、ココアを一口飲む。

「熱い!」
「ああ。きみ、猫舌だったっけね。」

猫舌?

うん。そうだ。彼女は猫舌だったんだ。

「ひどい猫舌なのよ。」
彼女は顔をしかめてカップを置く。そうして、伸びをして、
「寝るわ。」
と言って、ベッドに潜り込んでしまった。僕は、もうすっかりあきらめる。全くさっきまで憂鬱な顔してたのに、もう寝息を立てている。確かにきみは気まぐれな猫のようだね。

僕はカップを片付けると、音を立てないようにアパートの入り口を閉める。

ねえ。僕だって寂しいんだぜ。きみはきみで、多分、どこかに落ちている失くしたカケラでも探している気なんだろうけどさ。僕は、三年前に彼女が不器用に編んでくれたマフラーをしっかり巻くと、冬の街に分け入って行く。

--

「決めたの。」
次に会った時は、彼女はもう、そんな事を言い出した。

「決めたって、何を?」
「猫になるの。」
「え?」
「だからさ。猫になるのよ。決めたの。」
「猫って。なんだよ。それ。」
「もう、我慢ならない。こんな人生。」
「こんなって。」
「間違った器に閉じ込められて、このまま生きて行くことがよ。」
「僕を捨てて?」
「ええ。」
「そんな事ができるのかい?」
「しかたないでしょう?あなたが本当に私の中身を愛してくれているなら、またいつか巡り会えるんじゃないかしら?」
「今は離れないほうがいい。」
「今はって。いつになったら大丈夫になるの?」
「分からないけど、もうちょっと待って。」

僕はつまらない計算をしている。彼女とこのまま結婚してしまおう。一時の気の迷いだ。彼女だって、結婚すれば気持ちも落ち着く。それから、早めに子供を作ろう。子供は可愛い。彼女だって夢中になる。そうこうしているうちに、子育てに追われ、僕らは落ち着いた中年の夫婦になり。その頃にはきみも馬鹿な考えは起こさなくなるよ。そうだ。結婚しよう。今すぐ。

僕は、あきらめたように荷造りの手を止めた隙をついて、にっこりと笑って言った。
「結婚しよう。」

だが、彼女は喜ばなかった。
「まさか、そんな事で私の気持ちが揺らぐとでも?」
「嬉しくないのかい?結婚したくないかい?」
「馬鹿ね。女の子には、結婚という言葉が最後の切り札だとでも思っているのね。」
「だって、僕らもう随分付き合って長いじゃないか。」
「ええ。そうよ。あなたがいるから、今までもう、遅過ぎるぐらいまで延ばして来たの。今からじゃ、私もう、おばあさんの猫になっちゃって、猫の人生に馴染むのも一苦労よ。」

僕は頭を掻きむしって、ソファに座り込む。この分からず屋め。思いきり怒鳴り散らしたい気分だった。

だが、こちらが意地になるほどに、彼女も意地を張り出すという今までの喧嘩のパターンを思い出して、僕は取り敢えず彼女の意見を全面的に受け入れる事にした。

「オーケー。分かった。きみの好きにするといい。もし、また僕の元に戻りたくなったらいつでも戻っておいで。」

そうさ。きみはそのうち僕の元に帰りたくなる。今だって、ほら。そんなに泣いて。

ねえ。どうして泣いているの?僕は、彼女の涙を指ですくう。

彼女は、そんな僕の手を振り切って、部屋を出て行く。

--

一年。二年。

彼女は帰って来なかった。

さすがの僕でも、捨てられた事には気付く。あきらめて職場の後輩と結婚した。気立てのいい子だった。少し慌て者で、泣き虫で。そう、ちょっとだけ僕を捨てた彼女に似ているけれど、でも、一つだけ違うのは、妻は猫になんかなりたがってなかった事。

妻は、日曜日の午後、何もない時間、僕に寄り添う。僕は、そんな妻に何となく訊ねてみる。

「ねえ。きみ、猫になりたいと思った事、ある?」
「猫?」

妻は、奇妙な顔をして、僕をまじまじと見つめた。
「どういう意味?」
「いや。だから、言葉通りだよ。猫になれたらいいなあとか、そんな気楽な事さ。」
「驚いた。ねえ。あり得もしない仮定で話をするのを嫌ってる人がどうした風の吹き回し?」

なんで変な事を口走ったんだろう。普段は冗談の一つも言えない男だ。妻が変に思っても当然だよね。

「ああ。いや。悪かった。ちょっとした遊びのつもりだったんだが。」
「いいのよ。」

僕は、妻を抱き寄せて、ソファにそっと彼女の上半身を横たえる。妻は嬉しそうに僕にしがみついて来る。僕は、その一瞬、幸福になる。妻が、僕だけを愛している事の誇らしさを感じる。もう、目の前の相手が自分以外の何事かに心を奪われている、なんていう妄想は抱かなくていいのだ。

僕らははしゃぎながら服を脱ぐ。別れた女の緑色掛かった瞳がこっちを見ている錯覚を覚えながら、僕は、妻の体をすみずみまで愛する。ねえ。お前はどこにも行くなよ。頼む。お前だけは。

--

それから更に十年が経った。

妻はすっかり太り、僕は家のローンと三人の子供の養育のためにせっせと働く毎日だった。

次第に、妻は不満を述べるようになり、僕は酒量が増えた。

ある日、妻は子供を連れて実家に帰ってしまった。僕は、鬱病と闘いながら、なぜこんな風になってしまったかを考えた。

--

踏み切りの遮断機が目の前に降りて来る。僕は、今、フラフラと吸い寄せられるようにそこに近付いていた。抗いがたい誘惑だった。

その瞬間。

ふわっと白いしろいものが目の前を横切った。

「なんだ?」
僕は思わず足を止め、その時、背後から人が肩を掴んで来た。

--

「いや。危なかったですよ。」
僕を引き止めてくれたその男は、自宅に僕を招いてくれ、お茶を勧めてくれた。髪は白髪だが、年齢で言えば僕より五歳ぐらい年上といったところだろうか。古い木造の家。縁側の向こうは素晴らしい庭園になっている。

「ありがとうございました。」
僕は、まだ、頭がぼんやりとしていて、ただ頭を下げるだけだった。

さっきの猫は?

そう思った時、白い猫が男の背後からこちらを覗いているのに気付いた。

「きれいな・・・。猫ですね。」
「ええ。」

ペルシャ猫のように豊かなしっぽを振り、薄緑色のグリーンの瞳がこちらをじっと見ていた。

「こいつがあなたを助けたんですよ。」
「この猫は?」
「私の相棒です。大事な。」

猫は、僕の目をしばらく見ると、うなずくように頭を振って、それから部屋を出て行ってしまった。

「あの猫は、もしかして、僕が知っている猫かもしれない。」
「そうですか。」
「かつて良く知っていたあの子にそっくりだ。」

僕は泣き出す。
「話を聞いてやれば良かったのに、僕は何も聞いてやらなかった。愛するという事が何か、僕には全然分からなかった。」
「誰だって、目の前にあるものを相手が望むように愛する事は難しいです。」
「でも、あなたは、あの猫といて幸福でしょう?」
「ええ。とても。」
「あの猫を僕にくれませんか?」
「それは・・・。無理です。あの猫の瞳は、かつてあなたの愛によって、美しく磨かれた。けれども、その後で、僕が彼女を愛するようになった。時は戻せません。」
「お願いだ。」

僕は、振り向いて、縁側を歩く彼女に歩みよろうとした。

「いけません。愛は無理矢理奪うものではない。」
男が叫んだ。

猫はヒラリと僕をかわし、僕は足を滑らせて庭に転がり落ちる。

「ずっと見守っていたのよ。あなたを。」
彼女の声が、遠のく意識の向こうから聞こえて来た。

--

目が覚めると、転がった酒瓶。足の踏み場もないぐらい散らかった部屋。手に握られたしわくちゃの家族写真。

幸福の原石はここにあって、それなのに、僕は失った幸福ばかりをなつかしんでいた。

よろよろと起きあがる。

今日中に妻の実家に行くために、電車の時刻を調べようと思った。


2002年11月05日(火) 「あなたは黙っているべきでした。」と、男は言った。誰にも黙っていれば、愛の記憶だけで、私が幸福になれたとでも?

専務は、やさしい笑顔の印象的な人だった。入社式で挨拶した彼は、背が高く、甘いマスク。しかも、社長の息子で、次期社長候補。女子社員の羨望の的だった。もちろん、私も、入社式の後は、興奮して友達と騒いだものだった。

遠くで見ていられればいい。手の届かない人。それだけで終わっていれば、私は、その会社に五年程勤めて、後は寿退社するような、そんな人生を送っていた筈だった。なのに。

偶然、エレベーターで一緒になった専務が、私を見て、「きみは、今年入ったのかな?」と聞いて来た時、私は、おもわず顔中真っ赤にしてうなずくしかできなくて。専務は、私の所属の課を聞いて来て、それを答えるのが精一杯だった。

その夜、アパートに電話があった。

「勝手に調べさせてもらった。ごめん。」
「いいですけど。あの。一体・・・。」

混乱した私は、何をしゃべっているのか分からなかった。

「明日、夜。二人で会えるかな?迎えの車を出すから。」
「はい。」

それだけが、唯一記憶している会話だった。

どういう事か分からなかったが、彼は、私に興味を持ったようだった。私は、高鳴る胸を抑えて、明日何を着て行こうと、そんな事ばかり考えていた。

--

仕事を終え、帰宅した時間を見計らったように、アパートの前に黒塗りの車がすっと止まった。

「昨日は、悪かったね。」
専務は、穏やかな微笑で私を包んだ。

「申し訳ありません。一体どういうことか全然分からなくて、ちゃんとした受け答えもできなくて。」
「一目見て恋に落ちるということがあるんだと、僕は、昨日初めて知ったよ。」
「恋?」
「ああ。恋だ。今、きみに恋している。迷惑かな?」
「迷惑だなんて。」
「良かった。実は、昨日一睡もできなくてね。」
「本当?」
「ああ。本当だ。それに、今、きみがそばにいて、ドキドキしている。」
と、彼は私の手を取って、自分の胸に当てた。

「ほらね?」
「ええ。本当に。」

子供みたいな人だった。今まで恋をしたことがない筈もないだろうに、彼は、はにかんだり照れたりして見せて、そのしぐさ一つ一つが私の警戒心をどんどんと解きほぐして行ったのだ。

その晩は、食事が終わると、あまり遅くならない時間に送り返してくれた。頬に軽いキス。
「また、誘っていい?」
私はうなずく。

一ヶ月。毎週のように、平日の夜、彼は私を迎えに来た。それから、付き合って一ヶ月目。それはちょうど私の誕生日だった。

彼は、私に、左手を出すように言った。私は、言われるままに黙って手を差し出した。彼は、そこに指輪を。
「え?」
「誕生日、おめでとう。」

彼は、私の誕生日も、指のサイズも、こっそり調べてこの日を待っていたと言う。
「長く付き合って欲しい。」

私達は、その晩、初めて結ばれた。

別れ際に、彼の気になる言葉。
「指輪は、僕と会う時だけしていておくれ。この関係は内緒だ。父に知れたら、僕らの関係は続けられなくなるから。」

その言葉は、後々、嫌になるほど聞かされるようになる。

二人の関係は、誰にも漏らさない事。噂は、怖い。言えば、多くが傷付くと。

--

三年は、夢のように過ぎて行った。

「専務は、やり手だが、少し優し過ぎる所が弱点だね。」
社長の具合が悪いから、そろそろ社長交代ではないかという噂が社内に流れるようになっていた。坊ちゃん育ちで、温和。彼の美点が、こういう時は致命的な欠点になる。もう一つ流れる噂は、彼の女性関係。水商売の女性とさまざまな噂が流れるものの、特定の女性と付き合ったという話は聞いた事がない、と、人々は言い合っていた。

当たり前だ。この三年、彼は、私とだけ、本当の愛を育んで来た。私は、その頃には、ぼんやりと夢見るようになっていた。社長夫人としての日々を。その日を夢見て、私は、何年も黙って彼の言葉に従って来たのだ。誰かに洗いざらいぶちまけてしまいたい衝動に、何度駆られた事か。だが、最終的には、大きな目標のために、私は口を閉じていた。

そんな時だった。社長が倒れたというニュースが社内に流れた。

しばらく、彼と連絡の取れない日々が続いた。

そんなある日。繋がらない電話をいつものようにダイヤルし続ける私の元に、いつものように黒塗りの車がやって来た。

彼だ。

私は、喜びのあまり、裸足で飛び出した。

だが、彼はいなかった。もう、来ないと、その男がサングラス越しに私を冷静に見つめながら、そう言った。それから、専務からです、と言って渡された封筒には、三百万が入っていた。

「どういう事?」
私の問い掛けに返事はなかった。

「辞表は早めに出してください。残りのお金は退職金と一緒に振り込まれます。」
男は静かにそう言い、背を向けて行ってしまった。

私は、泣いた。悔し泣きだった。残されたのは、指輪だけだった。

--

私は、田舎に戻り、母にお金をそっくり渡した。

母は驚いて私を見た。

「これだけになっちゃった。愛情は全部、お金に変わっちゃったの。ねえ。愛は、何も残さなかったわ。」
私は、笑ってみせた。

母は、泣いていた。

--

一年経った。同期の友達が結婚するというので、私は久々に上京した。

友達の顔は輝いていた。

「専務ほど素敵じゃないけど、この辺で手を打ったってとこよ。」
彼女の何気ない言葉に、胸がチクリとした。

二次会では、元の会社の噂で持ちきりだった。
「専務、いよいよ社長就任ですってよ。」
「会長も、結局あれから一年は現場で指揮を取ったんだから、すごいよね。」
「ついでに、結婚ですってよ。ほら。噂の社長令嬢と。これで、名実ともに、国内最大メーカーになるってわけ。」

そうだったんだ・・・。何も知らなかった。

「ね。あなたは?いきなり田舎に帰っちゃったけど。」
「私?今は、地元の小さい会社の事務よ。」
「びっくりだったわよ。社内にあなたのファン多かったからさあ。」
「母が、一人暮しだったから、帰らないといけなかったの。」

私は、その時、一番仲の良かった友人にだけは打ち明けたいと。そう思った。打ち明けるぐらいいいでしょう?結局、私は、貝のように、四年の間口を閉ざし続けた。

「本当に?」
「ええ。これが、その指輪。」
「見せて。」
「どうぞ。」
「すごい。本物ねえ。」
「うん。」
「で、捨てられちゃったんだ?」
「そういう事になるわねえ。馬鹿みたいだけど、迎えに来てもらえるんじゃないかって、ずっと思ってた。今日、専務の噂聞くまではね。」
「ひどい男ねえ。」

ひどい男ねえ。と、言って、誰かが私を慰めてくれる。それは、気持ちのよい体験だった。ずっと、自分だけが悪者のように、私は私を責め続けていたから。

「お金で解決しようとしたの。」
「ますます許せない。あーあ。私、専務には幻滅しちゃったな。」

いい。もう、これで。誰かが私のために腹を立ててくれている。

--

次の日、私は、勤めていた会社から解雇を言い渡された。それからは、目まぐるしい日々。元の会社から、例のサングラスの男が来た。そうして、私を病院に連れて行った。精神鑑定を受けさせられた。

「どういう事?何?どうしたの?」
「黙ってください。警察が動きますよ。」
「わけ、わからない。」
「あなたは訴えられたんですよ。専務の社長就任を前にして、変な噂を流しているという事でね。おとなしくしていれば、数ヶ月の入院で出られます。」

その後は、言いなりになるしかなかった。

あの子だ。あの子が、私と専務の事を言いふらしたのだ。

「あなたは黙っているべきでした。」
と、男は言った。

誰にも黙っていれば、愛の記憶だけで、私が幸福になれたとでも?

--

今、私は病室のベッドでぼんやりと過ごしている。

一度だけ、あの人が来た。
「すまなかった。」
とだけ言って、また封筒を置いて行った。

あの人は、変わらない。相変わらず、甘っちょろい人生を送っているように見える、その甘いマスク。

「あの時、きみがいなくなってから、随分と辛かった。」
と、言った。

私は、何も答えなかった。

--

病室で、母は、また泣いていた。
「母さん、大丈夫よ。」
「だって・・・。」
「ねえ。もうすぐ、社長が交代するわ。それからよ。動くのは。その子を連れて行ったら、きっと、将来食べるに困らないだけの事はしてもらえるから。ね。DNAの鑑定書を添えて乗り込んでいけばいいの。もし、これ以上私達にひどい事をしたら、新聞社にこの事実を流すって言ってちょうだい。」
「そんな事、できるかねえ。」
「大丈夫よ。ね。この子のため。お願い。」

そばにいる男の子は、真っ黒い、少しウェイブのかかった髪。きらきらと光る利発そうな瞳。何もかも、あの人に生き写し。

ねえ。随分とこの時を待っていた。

あれだけの月日が、何も残さないわけないじゃない。そんな風に言ってやりたかった。


2002年11月03日(日) 「なんていうか。幸福なんです。だから、こんな幸福はいつまでも続かないだろうと思うと、悲しくなってしまって。」

窓から見える景色だけが、僕の目に映る変化だった。もう、長くこの部屋で死を待つばかりの僕にとっては、見る景色さえ選べないのだ。

「外は寒くなりましたわ。」
そう言いながら、マリアが入って来た。五年前から、僕の身の回りの世話をするために雇われた女。身寄りがなく、醜い。

ベッドで寝たきりの僕と部屋で二人きりになる事が多いから、美しい女ではまずいと思ったのであろう、母の配慮だった。

「体、拭きますね。」
マリアは、慣れた手つきで僕の体を動かすと、清潔なタオルで丁寧に拭き、血行が良くなるようにと、全身に程よい力でマッサージを施す。

マリアが、本当に醜いのかどうか、僕にはよく分からない。ただ、これ以上、僕の体の癖を知っていて適切に扱える女は他にいないだろうな、と思う。ともかく、僕には選択肢がなかった。テレビで見る女達は、美しいのかもしれないが、僕は生涯、あのような女とは縁なく生きる事になるだろう。

僕は、マリアのゆったりとたくましい体に身を預けながら、マリアに、「きみの事、美しいと思うよ。」と言ったらどうだろう、と想像してみる。マリアは、困るだろうか。恥かしがるだろうか。

だが、実際には、僕は言わない。僕とマリアの間では、必要な事柄以外の言葉は交わされないのだ。だから、マリアが僕の事をどう思っているかも分からない。

僕は、全身が少しずつ麻痺していく病気だった。いつか、自力で呼吸できなくなる日が来るだろう。そうして、心臓まで動かせなくなる日が来るだろう。そうしたら僕は死ぬ。僕が父から譲り受けたありったけの財産をもってしても、その事実は変えられない。

もし僕が死んだら、マリアはこの家を追い出されるだろう。せめて、マリアがこの先食べるに困らないだけのものを用意してやれたら、と思うのだが。

--

「なあ、マリア。」
珍しく、僕は自分から話し掛ける。

「なんですか?」
「小鳥が飛んでいる。」
「あら。本当に。」
「二羽だ。寒いのにね。」
「そうですわね。でも、気にしていないようですわ。」
「二人でいるから、楽しそうだ。」
「ええ。」
「ねえ。マリア。」
「はい?」
「きみは、恋をした事がある?」
「恋?いいえ。こんな顔ですもの。恋なんかしたら笑われますわ。」
「どうしてだい?恋ができる顔とできない顔があるのかい?」
「ええ。多分。恋は美しい人にだけ許されたもの。」
「じゃあ、僕もダメだな。こんな体だ。足はもう、萎えて動かない。手はまだ動くが、自分で起きあがる事もできない。」
「あなた様は美しいですわ。日に当たらない肌が透き通るようで。お母様によく似て、美しい。」
「美しかったら、どうだって言うんだ?恋が人を選ぶなら、僕は確実に選ばれない人間だよ。」
「あなたがその気になれば、幾らだって女の子の心を捉えられるのに。」
「本当にそう思うかい?」
「ええ。」
「じゃあ、僕にキスをしておくれ。」
「それは・・・。」
「できない?」
「ええ。できませんわ。だって、私は、あなたの相手にふさわしくない。」
「そうかな。」
「だって。今は私しかいないじゃありませんか。それは、あなたが選び取ったものじゃないですわ。もっと、他に美しい女性はいます。なんなら連れて来て差し上げます。」
「それも、所詮、あてがわれたものだ。自分で選んだものじゃない。今、目の前にきみしかいない。そういう場合、きみを選ぶのは、僕の意思じゃないと言うの?」
「お願いです。これ以上、私を困らせないで。」

マリアは、ほとんど泣きそうになりながら、僕の顔を見ずに部屋を出て行った。

僕は、考える。何か間違った事を言ったろうか?僕は、何とか憂鬱を吹き飛ばそうとする。彼女は僕の使用人だ。僕が何を彼女に言おうと勝手だ。と。だが、無理だった。彼女が僕をどう思うかまでは、僕にはコントロールできない。きっと、明日からもう、口も利いてくれなくなるだろう。

僕は、暗く沈み込む。

--

だが、マリアは、翌日も同じように穏やかな表情で、僕の体を拭く。僕は、少し安心して。それから、季節のことを訊ねたり。マリアは、いつものように控えめに受け答えをする。

マリアが仕事を終えて部屋を出ようとする時、僕はたまらず、訊ねる。
「昨日の事、怒ってないかい?」
「いいえ。まさか。嬉しかったですわ。でも、あまり私を困らせないでくださいね。」

マリアが去った後、僕は、マリアの豊かな胸の感触を思い出す。

--

次の日も、次の日も。少しずつ、僕らは、今までは交わさなかった言葉を交わすようになる。今までなら、せいぜいが季節の事、食事の内容、僕の体調。そんな程度だったが、最近では、マリアの思っている事を訊ねたり、僕の体が良くなったらしたい事をこっそり教えてみたり。

マリアは、はにかみながら僕の言葉に返答を。それから、時に、泣き出してしまう事がある。

「どうしたの?」
「分かりません。」
「僕を憐れんでる?」
「まさか。ただ。なんていうか。幸福なんです。だから、こんな幸福はいつまでも続かないだろうと思うと、悲しくなってしまって。」
「おいで。」

僕は、不自由な腕を伸ばし、マリアの体を触る。マリアは、身を寄せる。僕とマリアの唇がそっと重なる。

何度も、何度も。僕とマリアは口づけを交わす。

--

次の日も、僕はウキウキとした調子でマリアを待った。

だが、マリアは来なかった。

母がやって来て、マリアは屋敷で問題を起こしたから、もう来ない、と言った。それから、新しい娘。テレビに出ているような美しい娘が僕に付き添うようになった。何でも、知り合いの娘さんとかで、明るく愉快な子だった。ひっきりなしに歌を歌い、人気の映画について教えてくれる。僕は、最初は、そんな美しい娘の言葉に驚いたり笑ったりしていた。そうして、うっとりと眺めている事も多かった。だが、次第に、なぜか憂鬱になって行く。

マリアの夢を良く見る。マリアと僕は、夢の中でも黙っている事が多い。だけど、誰よりも多くを共有し、少ない言葉で沢山の言葉を語れるのだ。

目が覚めると、悲しくて、どうしようもなくなる。

体の麻痺が進行して、次第に自由が利かなくなって行くのもあって、僕は鬱状態に陥って行った。病気の進行を早めるだけだから、気持ちは明るく持つように、と医者は言ったけれど、無理だった。

そんな間にも、驚いた事に、美しい娘が何度か僕を誘惑しようとした。時には、太腿をあらわに、僕の傍らに座ったり。添い寝のような格好で、僕の体をさすったりした。多分、僕の財産が目当てなのだ。娘はどこかのちゃんとした家系の出で、母にしたら、どこの馬の骨とも知れないマリアに財産を取られるよりよっぽどいいと思ったのだろう。

だが、僕は、マリア以外の娘に興味はなかった。

目の前の女は美しいけれど、あまりに遠いところにいた。ここにしか居場所がない僕やマリアのような人間とは全然違っていた。

僕は癇癪を起こすようになり、娘はとうとう音を上げて出て行った。

--

もう、僕は自力で呼吸ができない。一日中、不愉快なマスクをして、酸素を送り込まれている。

最後の願いを、母に言う。

マリアを呼んで来ておくれ。

母は、しぶしぶ従う。

--

眠っていたようだ。夢の中で、僕は、マリアの手を取って歩き、人々に祝福されていた。鐘が鳴っていた。マリアの手が、僕の額にかかった髪の毛をそっとはらって口づけた。

そこで目が覚めた。

髪の毛を払うマリアの手は本物だった。

「マリア。戻って来てくれたんだね。」
苦しい息の下で、言う。

「黙っていたほうがいいわ。」
マリアは、泣いていた。

「どうした?」
「戻って来られて嬉しいの。」
「僕もだ。」

マリアのふっくらとした手が僕の手を取る。

僕は、最後の願いをマリアに告げる。
「この邪魔なマスクを取って、キスをしておくれ。」
「でも、それではあなたが。」
「いいんだ。頼む。僕は、何も選べない人生を送って来た。僕が唯一できる選択は、目の前のものを受け入れるか、拒むか、それだけだった。今、僕は、マスクを拒み、きみの唇を選ぶ。お願いだ。」

マリアには、僕が何を言いたいかよく分かったようだった。

マリアは、うなずいて、そっとマスクを外すと、その唇を僕の顔に落として来た。

息は苦しかったのだろうが、それよりずっと幸福感が上回っていた。このまま、きみの唇の中で逝かせておくれ。

机の中には、きみに全財産を残すという遺言。

僕の、最後の、最高の選択肢。


2002年11月01日(金) 逃れられなかった。彼女は美しく、まだ若々しい肉体を持て余している。僕だってそうだ。だから、毎夜、

気が付いた時、そこがどこか、自分が誰か、全然分からなかった。ただ、頭が割れるように痛かった。

そこは、荒れた畑地だった。向こうには、小さな家が見えた。僕は、痛む頭を抱えて起き上がった。

その畑地では、一人の女がじゃが芋を掘っていた。
「誰?」
「ああ。僕は・・・。僕は、自分が誰か分からない。」
「まあ。怪我をしているの?とにかく、うちにいらっしゃいな。心配しないで。私、一人で暮らしているの。」

見知らぬ男を家に入れて大丈夫なのか?そう訊こうと思ったが、痛む頭、ふらつく体の僕は、黙ってうなずいた。

ベッドに横たわった状態で、体を拭いてもらう。
「怖くないのか?」
「怖い?」
「ああ。知らない男だし。」
「でも、あなた、怪我してるわ。こんな状態じゃ、私に乱暴もできないでしょう?」
「それはまあ、そうだけど。」
「あなたは、きっといい人だわ。顔を見れば分かるもの。」

目の前の女は美しかったし、家は小さいが清潔で快適だった。僕は、ただひたすらありがたいと思った。出されたスープを飲むと、眠りに落ちた。

--

そうやって、少しずつ、少しずつ、僕は回復していった。

「ねえ。自分の事、まだ思い出せないの?」
「ああ。」
「辛いでしょう?」
「どうかな。少し。自分が誰か分からないというのは、怖い。とんでもない犯罪者だったりしてね。」
「まさか。」

彼女は笑い、僕に男物の服を渡してくれる。
「着替えたほうがいいわ。あっちに行っているから。」
「これは?」
「私の夫のよ。昨年、亡くなったの。」
「そうか。ありがたく着させてもらうよ。」

彼女の夫のものという服は、僕にぴったりだった。

「よく似合う。」
彼女は、笑った。

「そうか。なんだか申し訳ないな。」
「いいの。服は、誰かに着てもらうためにあるのよ。」
「元気になったら、出て行くから。」
「あら。いいのに。もう少しここにいてちょうだい。」
「だが・・・。」
「第一、どこに行ったらいいか分からないのでしょう?何も思い出せないのでしょう?」
「そうだけど。」

一つ屋根の下、男女がいつまでも一緒にいるわけにはいかないよ。そう言おうとするが、目の前の彼女は美しい顔に優しい笑みを浮かべているから、僕はその女といつまでも一緒にいたくなる。自分がどこの誰か思い出せれば、僕はもっと簡単に彼女と関わる事ができるのかもしれない。

体が元気になってきた僕は、お礼にと、畑の仕事を手伝った。
「ご主人が亡くなってから、ずっときみが一人でやってたのかい?」
「ええ。」
「きみ一人じゃ、無理だ。」
「でも、ここを離れたくなかったの。夫の畑を置いたまま、どこにも行きたくなかった。」

僕は、亡くなって尚、彼女の心を捉え続けている男に、少し嫉妬した。

「僕が手伝える分は手伝うから。」
「助かるわ。」

そうだ。その笑顔。僕に向けられた笑顔。

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早朝、僕は、畑を散歩する。霜が降り始める季節だから、畑の様子を見に回ろうと思ったのだ。そこで、朝もやの中の彼女を見つける。彼女は、土の上にひざまづいて、何か祈るような格好をしていた。その表情は真剣だったから、僕は近寄る事もできなかった。ふ、と、彼女は振り向いて僕の方を見た。僕は、うなずくしかなかった。彼女は手を差し伸べ、僕はその手を取った。
「今ね。亡くなった主人と話をしていたの。そうしたら、彼、許してくれるって。」

何を?何を許してくれるんだい?

僕は、そう訊く前に、もう、彼女の唇に自分の唇を重ねる。

ほどなく、僕らは男女の関係になった。逃れられなかった。彼女は美しく、まだ若々しい肉体を持て余している。僕だってそうだ。だから、毎夜、僕らは抱き合った。

「ねえ。ずっとここにいて。」
「できるものならそうしたいよ。」
そんな会話が繰り返される。

だが、人はどんな状況にもすぐ慣れる。僕は、もう、彼女とは夫婦のような気持ちで、畑に新しく蒔く種の事など話し合うようになった。

畑には、近所の子供達が遊びに来る。僕は、子供を見ると、なぜか嬉しくなり、いつも話し掛けたり。時には、キャンディを渡したり。そんな僕を、彼女は遠巻きに見ている。

「子供は嫌い?」
ある夜、僕は彼女にそう訊ねた。

「あまり好きじゃないわ。」
「僕は、好きだ。いつかきみの子供が欲しい。」

彼女は少し驚いた顔をして、僕を見た。
「どうして、二人だけじゃいけないの?」
「いけないわけじゃないけど、子供がいたら素敵じゃないかと思ったんだ。」
「私は嫌。二人がいいわ。」

いつもは素直な彼女が激しい口調になるから、僕はそれ以上その話をするのをあきらめる。

だが、僕は、子供が欲しくてしょうがない。愛する女が産んでくれたら、どんなにか可愛いだろう。僕は、そうやって、目の前の子供達の頭を撫でて、知っている話を。昔話。寓話の数々。僕は、記憶がない筈なのに、以前も、誰かにこんな話をしたような気がしている。

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子供をめぐる小さな溝は、だんだん深くなった。

一緒に暮らし始めて半年で、もう、蜜月は終わったのだと悟った。

「ねえ。」
彼女がめずらしくワインを飲み過ぎて、僕に話し掛ける。

「なに?」
「あなたを、返すわ。」
「返す?」
「ええ。もといた場所に。」
「僕のいた場所?それは、どこ?」

彼女は、僕にもグラスを渡してくる。僕は、グラスの中の液体を飲み干す。

「ごめんなさいね。ちょっとだけ借りたの。あんまり寂しかったから。だけど、借り物はよくないわ。あなたは元いた場所を恋しがり、私にはどうしたって手だしができない。」
「何を言ってるんだか・・・。」

僕はグラスを落とし、ドサリと倒れる。

さようなら。楽しかった。きみを愛していた。

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「あ。かあちゃん!とうちゃんが目を開けたよ。」
「あ。ほんとだ。わーい。とうちゃん。俺の事、分かる?」

うるさいぐらいにぎやかだ。ここはどこなんだ。

「あなた、気が付いたの?」
「ああ。俺は、どうしたんだ?」
「仕事中に、高い場所から落っこったって連絡がきて、それっきり、ずっと眠ってたのよ。半年も目を覚まさなかったの。」

目の前の、美しいというよりは、たくましい女は、涙を流している。体のほうが重いと思ったら、僕の子供がベッドに飛び乗って来ている。いち、に・・・。なんだ、五人もいる。

「こら、とうちゃんはまだ具合が悪いんだから、そんなことしちゃダメだよ。」
確かに、僕の妻である筈の女は、大声で子供を叱る。

「元気になったら、お話してよね。」
一人が言う。

「ああ。分かってるよ。」
嬉しくて、笑いがこみあげる。

そうだった。ここが僕の居場所だった。確かに、一瞬ぐらいは、子沢山の生活が嫌だと思った事もあったけれど。そんなのはただの気まぐれ。ここに戻って来られて良かった。


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