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セクサロイドは眠らない

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2001年11月30日(金) 私は、ため息をつく。全く、男の人ときたら、どうしてこんなに単純で、すぐ有頂天になれるのかしら?

私は、まだ幼くて、これから飛ぼうというところだった。

そう。巣の中で震えて。

兄弟達はみんな、もう、広い空に飛び出してしまい、私一人が後に残されていた。

「一体、どうしたの?」
かあさんの声がする。

かあさんは、ため息をついて、言った。
「あんたは、昔っから、考えることだけは人並み以上だけど、度胸はからっきしなんだから。」

私は、くやしくて涙ぐむ。かあさんの言うことは正しい。なぜ、みんな怖がらないで飛び出して行けたのだろう?

「さあ。行きなさい。」
「でも、怖いのよ。」
「ねえ。見てごらん。」
かあさんは、私がさっきまでうずくまっていた場所を指す。

「あなたの大きさのくぼみがあるでしょう?」
「ええ。」
「ここが、あなたのいた証。だけど、あなたは、ここにいつまでもいるわけにはいかないわ。外に出て行って、多くに出会って、あなたのその小さなくちばしであなたの存在した証を刻んでこなければ。それは、とても素晴らしいことなのよ。」
「分かってるわ。分かってるけど・・・。」

私は、空を見回す。魅力的だが、怖い。

もし失敗したら?うまく飛べずに落下したら?飛ぶということは、どういうことだろう。ただ、飛ぶというだけで、楽しいものなんだろうか?鳥のくせに、空を飛ぶのを怖がるなんておかしいかしら?

「考えてたってしょうがないわよ。」
かあさんの声が背後から聞こえる。

ええいっ。しょうがない。

私は、目を閉じる。

羽ばたく。

体がフワリと浮く。

目を空けて、そっと下を見る。

私は、飛べた。なのに、翼を動かすのを止めてしまった。なぜ?

きゃ!

--

「それで?」
「ええ。それが私。実は私ね、そういうわけで鳥だったの。空から落っこちちゃったのよ。」

さっき出会ったばかりの私達は、ベッドでお互いのことを打ち明け合う。

「で、僕がそれを見つけた、と?」
「ええ。あなたの手の平が見えたから、とても大きくて暖かそうだったから。だから舞い下りた、とも言えるかもね。」
「とにかく、きみはうまく飛べなくて落ちたんだろう?」
「まあ、そうだけれども。とにかくあなたの手の平が見えていたの。」

彼は、私を抱き締めておでこにキスしながら言う。

「きみが、鳥であっても何でもいいよ。とにかく、僕らは幸せなカップルだ。きみが空を飛ぶのに失敗したのであっても、それでこんな幸福が手に入ったんだから、結果オーライじゃない?」

私は、ため息をつく。全く、男の人ときたら、どうしてこんなに単純で、すぐ有頂天になれるのかしら?私は、永遠に空を飛ぶチャンスをなくしちゃったかもしれないって憂鬱になっている時に。

私は、幸福そうに眼を閉じて横たわっている男を眺めながら思う。

だけれども、私は、空を飛ぶのに失敗したのかしら?それとも、わざと落ちたのかしら?

結局、私は、空を舞うよりは、こうやってベッドの中で物思いにふけるほうが得意なのかもしれないわね。そう思うと、少し気楽になって、シーツにもぐりこんで丸くなる。


2001年11月28日(水) 「それは、お前がとても賢い子だからだよ。いいかい。自分より退屈な人間とは付き合わないことだ。」

同い年の男の子達と遊んでも、なにしろ退屈で。夜になると、眠たいんじゃなくてアクビが出てしまう。

「じゃあ、ね。」
「何だよ。もう帰るのか。」
「うん。ばいばい。」

家に帰ると、パパが眠っている傍らにもぐり込む。

「お帰り。早いんだね。」
「うん。だってつまらないんだもの。どうして、男の子達はあんなに退屈なのかしら。」
「お前にかかると、誰だって退屈なヤツになっちゃうんだね。」
「ええ。私にとっては、パパ以外の男性はみんなつまんないわ。どうしようもなく退屈なの。」
「それは、お前がとても賢い子だからだよ。いいかい。自分より退屈な人間とは付き合わないことだ。無理して付き合うと、目の前の相手と一緒にいる時間が退屈なのは自分のせいだって思い始めるからね。」
「分かったわ。」
「恋をする時は、賢い男を選ぶんだよ。」
「それはどうすれば分かるの?」
「そういうヤツは、体が賢いんだ。自分が歩くべき方向がちゃんと分かってて、誰かに付いて行ったり迷ったりしないんだ。それから、強い男を選びなさい。本当に強い男は優しいものだから。」

私は、ため息をつく。パパ以外に、私を退屈させない男がどこにいるというのかしら?

「ねえ。パパ。」
「好きなの。キスして。」

パパは、もう、随分眠たそうで、私の鼻にキスをすると、そのまま目を閉じてしまった。暗闇に取り残された私は、眠れずに、パパの寝顔を眺める。

--

その気取った女は、パパがいない間にうちを訪ねて来て、
「おとうさま、いつお帰りになる?」
と、訊ねる。

「さあ、分からないわ。それに、パパが帰っても、あなたには会いたがらないと思うの。」
「まあ、なんて失礼な。」

彼女は怒って帰ってしまう。

パパが帰って来たから、そのことを告げると、パパは笑って許してくれた。

「まったくこまったお嬢さんだね。」
「もう、変な女をうちに呼んだりしないで。」
「分かってるよ。」
「私、パパが好きなの。本当に好きなの。パパほどすばらしい男性はいないと思ってるわ。だから、パパ、私をお嫁さんにしてよ。」
「はは。パパもお前が大好きだ。だけど、いつかきっと、パパ以外にお前の心を捉える男性が現われるよ。パパより、強く賢い男が。いつか、きっと・・・。」

ああ。パパ、そんな寂しそうな顔をしないで。

--

そう。

パパには分かっていた。

その不安が的中する日が来ることを。

その男は、私達の部屋に荒々しく踏み込んで来る。私は悲鳴を上げる。男は、パパを見つける。パパも、男を静かに見つめる。それからは、もみ合う衝撃、唸り声、切り裂く音が長く続く。

私は、ただ、その光景を呆然と見ていた。

パパが。

血の海で倒れている。

全てが終わると、男は、体から血を流しながら、私のほうに向かって来る。
「一緒に来るか?」

私は黙ってうなずく。

--

「お前の父親は、この森で一番強い狼だった。」
「ええ。」
「お前の父親を殺した俺を、お前は憎むか?」
私は、静かに首を振る。

あなたを待っていました。

男は、行き先がちゃんと分かっていて、力強く先を行く。私は、退屈なんて言う暇もなく、彼の後を追う。

雪道に二匹の足跡が続く。

私は、春にはこの男の赤ちゃんを産むでしょう。そうして、いつか、強い男の子供に生まれる幸せと、悲しみを、子供達も理解する日が来るでしょう。


2001年11月27日(火) 僕がお仕えしている、あのかたを、人は、神とも、悪魔とも呼ぶ。

たぐいまれなる美貌を持った私は、ある恐怖におびえる事になる。老いの恐怖。ありとあらゆる美容液を使い、マッサージを施すが、それでもすぐ背後に忍び寄る影を、私はどうしようもなく恐れた。

だから、祈った。願った。誓った。

永遠の美をください、と。代償は払いますから、と。誰にも、この秘密は告げませんから、と。

願いを聞き入れてくれたのは、神だろうか。悪魔だろうか。願いがかなって、私は、永遠の美を手に入れた。

私は、その美貌を利用して、男達の間を渡り歩いた。

--

だが、私は、50歳になった頃、一つの事実に気付く。肌も髪もつややかで老いを寄せ付けないが、体の中はどんどん老いて行くことに。若い恋人は、疲れ易くなり夜遊びができない私に不満を持つようになった。私は、夜な夜な私を求めたりすることのない、年老いた恋人を持つ事にした。

それでも、私の心は安らかにならない。夜中に目を覚ますと、すぐそばに横たわる老いた肉体にぞっとする。鏡に映った自分の髪がどんどん抜け落ち、歯がぽろぽろと欠けて、肌がみるみるシワだらけになっていく夢に悲鳴を上げて目覚める。

私の陰気な顔を嫌って、年老いた金持ちの恋人は、私を追い出して若く美しい花嫁と結婚した。

「せめて、人生の最後は、陽気に過ごしたいじゃないか。」
と、老人は笑った。

--

私は、もう、目も薄くなり、気管がぜいぜいと音を立てる。見た目は相変わらず美しく、恋人達から与えられた金品に囲まれていたが、私はどこにも行き場所がなかった。

ふらふらとさ迷う私は、もう、力尽きて、一人のボロをまとった男のそばに倒れた。

「お若いのに、ずいぶんお疲れのようだ。」

私がその男を見上げると、男は、ものすごい年寄りで、シワの中に顔があると言ってもいいほどだった。

「私、若くないのよ。ちっとも。多分、あなたと同じくらい。」
「そうは見えないけれどねえ。」
「いいえ。中身はおばあさんなの。」

私は、座っている元気もなく、彼のそばに体を横たえる。

「なぜ、ここに?」
男は訊ねる。

「さあ。誰かのそばに来たかったのね。私、ずっと一人になったことがなかった。誰か私の美しさを称賛する人を、いつもそばに置いていたから。」
「じゃあ、ある男の話を聞かせよう。」
「どんな?」
「その少年は、産まれた時から、ひどく醜かった。どんな風に醜いかと言うと、赤ん坊の癖に老人の顔だったのだ。親も、兄弟も、同級生も、彼の風貌を嫌った。だから、彼は誰からも愛されなかった。そうして、彼も、誰をも愛さなかった。肉体は若く健康だったけれども、その老人のような風貌が恥ずかしくて、若い娘に声を掛けることもできなかった。」
「分かったわ。それ、あなたね。」
「どうかな。」
「私は、なんて愚かだったのかしら。」

涙が転がり落ちる。

「でも、いい思いもしたんだろう。」
「ええ。そうね。でも、結局孤独だったわ。」
「贅沢を言うもんじゃない。」

涙で、化粧がはげるように、私の艶やかな肌が剥がれ落ち、老いた皮膚が出てくる。私の老いが現われてくると同時に、目の前の男のシワが一本一本消えて行き、美しい若者の顔が現われる。

「ごめんなさい。」

随分と、眠たい。とても疲れていたのだわ。本当の姿に戻った私は、重い仮面を外したように気持ちが安らぐ。

意識の最後、私は、フワリと体を抱き上げられるのを感じた。

--

その若者は、羽を広げ、その老婆の体を抱いて、天に向かう。

人よ。汝、誓うことなかれ。

僕がお仕えしている、あのかたを、人は、神とも、悪魔とも呼ぶ。好きなように呼べばいい。ただ、彼は「帳尻合わせ」という言葉がひどく好きなおかた。多く欲しがれば、とことん代償を取り立てる。


2001年11月26日(月) 言えなかった、言葉。どこにも行けなかった、気持ち。言わない事は決して間違いじゃない。

突然、電話が鳴り出した。

私の心臓は、いきなり銅鑼を打ち始める。

普通の電話なら、私だってこんなに驚かないだろう。だが、しかし、この電話は。

--

私の部屋には、電話線が二本引かれている。

一本は日常使っている電話。

そうして、もう一本は、もう何年も鳴ることがなかった電話。あの人のために、あの人が私に電話したくなった時のために、外さないでいる電話。

--

私はおそるおそる受話器を取り、無言で耳を澄ませる。

電話の向こうから、女性の声が流れ出す。
「ああ。良かった。出てくれないかと思った。本当は、電話しちゃいけないんだと思ったのだけど。どうしても我慢できなくて。ごめんね。今日から、私、仕事探し始めたの。いつまでもこのままじゃいけないと思って・・・。」

電話の向こうのおしゃべりは、相手の返事を待たず、一方的に続けられる。私は、「間違い電話ですよ。」とも言わず、黙って聞いている。どうしてこの女性は、相手の返事を必要とせずに話し続けるのだろう。相手は彼女とはどういう関係なのだろう。

彼女は小一時間もしゃべり続けたであろうか。

「ごめんね。長々と。もう、切るね。じゃあ。・・・。あ。ねえ。一つだけ聞いていい?あなたは、今、誰かを・・・。ううん。やっぱり、いい。じゃあね。」

始まりと同じように、一方的に終わる。

何だったのだろう、と思う。でも、誰に掛けたところで、彼女は、相手からの返事を待っているわけじゃない。自分が一方的にしゃべることができれば、それで満足なのだろう。

--

それから、週二回ほどのペースで、その電話は掛かるようになった。

私は、相変わらず無言で電話を取る。

「ねえ。仕事、なかなか決まらないわ。昨日も、不採用の通知が来たの。まだ、失業保険があるから大丈夫だけど、まるで私だけが世間から取り残されたみたいで、じっとしていると辛くてしょうがないから、一刻も早く仕事を見つけたいの。」

その時、私が手にしているグラスの中の氷がカランと音を立てたので、私は相手に聞こえてしまったかと思ってヒヤリとしたが、相手はかまわずしゃべり続ける。

「じゃあ、そろそろ切るね。ねえ、今度会えたら、私のこと・・・。いえ。何でもないわ。じゃあね。」

いつも、この電話は、相手に何か訊ねかけて、しかし、おしまいまで訊ねることなく切られる。

そう。

まるで、返事を聞くのが怖いかのように・・・。

--

少し、間が空いていたと思ったが、ある晩、いつもの時間に電話のベルが鳴り出す。

私は、黙って受話器を取り上げる。

いつもとは少し違う、悲しい声。

「ねえ。もう、電話するの、最後にするわ。だから。一回だけ、聞いて。聞いていてくれるだけでいいから。分かっていたかもしれないけれど、一回だけ言わせて。

私、あなたが好き。

ねえ。お願い。
私を、ここから連れ出してくれとは言わないから。
私を、愛してくれとも言わないから。

ただ、私があなたを愛していることを知っていて。

だけど、心配しないでね。私だって、寂しい時は他の男に抱かれるくらいの分別はあるから。

じゃあ。ね。」

そうして、電話は切れる。

--

それっきり、電話は鳴らない。

そう。

私は知っていたのだ。

電話の向こうの声は、私の心。

ねえ。お願い。
私を、ここから連れ出してくれとは言わないから。
私を、愛してくれとも言わないから。
ただ、私があなたを愛していることを知っていて。

言えなかった、言葉。どこにも行けなかった、気持ち。言わない事は決して間違いじゃない。ただ、あてもなくさまよって、時折、混線した電話に紛れ込む。

私は、アドレス帳の、彼の電話番号のページを破り捨てる。鳴らない電話のジャックを抜いて、「埋め立て」と書かれたダストボックスに放り込む。

明日は、仕事を探しに外に出よう。そう思いながら、眠りに就く。


2001年11月25日(日) 人はみんな、そのやわらかい部分に食らい付くんだ。そうして、自分のものにしようとするんだ。

朝、起きると、相変わらず妻は機嫌が悪い。

「パパ、おはよう。」
「ああ。おはよう。」
「ねえ。パパ、今日お仕事から帰るの、早い?」
「さあ。どうかな。」

「マユちゃん、早く食べちゃいなさい。」
娘と私の会話をさえぎるように、妻が声を掛ける。

「はーい。」
娘は素直に返事をして、残りのミルクを飲み干す。

染み一つない、のりの利いたテーブルクロス。

朝から素肌を見せない妻の化粧。

私は、ため息。

--

「イワサくん。」
「はい?なんでしょう。」
「この件なんだが・・・。」

仕事で少々不手際のあった部下に説教をする。私が朝から憂鬱を抱え込んで仕事をしているのを差し引いても、この仕事のやり方はひどい。まったくひどい。つい、くどくなる説教に、相手の顔色が変わる。

「お言葉ですが、部長。僕は、言われた通りのことをきちんとやったと思いますよ。あの時、部長は・・・。」

そうだ。こいつは、いつも、そうやって反論してくる。

「評価をするのは、私だ。きみがきみの評価をするな。反論は聞く耳持たない。」
ピシャリと言って、書類に目を落とす。

部下の不機嫌を感じつつ。

私は、また、ため息。

--

「どう、帰りに一杯やらない?」
という同僚の誘いを断り、妻には遅くなるからと電話を入れる。

これ以上は延ばせないな。

だが、もう、散々延ばして来た。

木造のアパートで、一人、私を待っている女のことを考える。電話で「妊娠したの。」と告げられて、うろたえてしまった。「今度、会ってゆっくり話そう。」と答えてから、もう、何日経つだろう?彼女はうるさく言わない。じっと待っているだろう。そんな女に甘えて、ずるずると関係を続けてしまった。

いっそ、髪の毛振り乱して怒ってくれれば。「なんてズルイ人なの?」と責めてくれれば。そうすれば、私はすぐにでも女と別れることができただろうに。

私は、もうひとつ、ため息。

--

最近、ため息が増えたな。

人は、抱えているものの数だけため息をつくようになるんだろうか。

公園のベンチに座り込む。

「疲れているんだね?」
急に話し掛けられて、私は飛びあがる。

美しい少年。寒空なのに、薄着だ。

「風邪を引くよ。」
「大丈夫さ。それより、あなた、疲れているんだ?」
「ああ。」
「ひどい顔色だよ。」
「そうかな?」
「うん。大人って、いろいろ大変なんだね。」
「そうだなあ。自分じゃ、ちゃんとやってるつもりなのに、結局、皆から責められるのさ。一体、どういうことだろうな。」
「あなたは、ひどく正直だから。」
「私が、正直?」

私は、嘘吐きで、汚れている。

「見えるよ。あなたの心は手に取るように。あなたのね、やわかい部分が見えるよ。人はみんな、そのやわらかい部分に食らい付くんだ。そうして、自分のものにしようとするんだ。そうして、自分のものにならないと腹を立てるんだよ。」
「きみは?」
「僕?さあ。天使、かな。」
少年は、笑う。

私は、背筋がゾクリとして、たまらず、彼の細い肩を抱き締めたくなる。

「駄目。」
「どうして?」
「あの、ね。僕は、生きた人間に触れることはできないんだ。」
「そうか。」
私は、急に絶望的な気持ちになる。

今、彼の体に触れて、あたためてやることが、自分を慰める唯一のことのように思えていたから。

「ねえ。僕に触れたい?」
彼の透き通るような手足が、私を誘う。赤い唇が。

「ああ。」
それしかないような気がする。

「じゃ、ね。僕に、あなたをくれる?」
「私を?」

ゆっくりと、うなずく。

少年は、笑って背中の翼を広げる。そこは、漆黒の闇だった。虚無だった。

これはいい。天使どころか悪魔じゃないか。嘘吐きは大歓迎だ。

私は、少年に抱かれて、安堵する。暗闇はいい。

自分が汚れていることすら見えなくなるから。


2001年11月24日(土) そうやって、手をつないで歩くことのあまりの感動に、私は、終わらないで、と。ただそれだけを祈った。

大学教授の夫との結婚は、私にとってひどく寂しいものだった。子供でもいれば、また違った夫婦になれたのかもしれない。が、さまざまな努力も虚しく私達夫婦は子供を持つことができなかった。

帰宅しても、食事が終われば自分の部屋にこもって勉強ばかりしている夫に対して、私は、もっと親密な関係を切望していたが、結局のところ、かなわなかった。

--

夫が学会のため出張していた、ある晩。

私は、ワインを飲みつつ、夫のいない夜をそれなりに堪能していた。

ドアチャイムが鳴ったので、出てみると、そこには、夫に借りた本を返しに来た、という学生がいた。

「今日、主人出張中なのよ。ごめんなさいね。」
と言いながら本を受け取った私は、ふと思い立って、
「ねえ。少し上がっていかない?」
と声を掛けた。

若い彼は、少しためらったが、結局、
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
と、答えた。

「食事は?」
「まだです。」
「じゃあ、あり合わせのものを出すから、ちょっと座っててちょうだい。」
「すみません。」
「ねえ、あなた、おいくつ?」
「21です。」
「じゃあ、お酒も大丈夫ね。」

ワイングラスも並べる。

それから、私は、若い彼の食べっぷりを肴にグラスを傾ける。

こんなに楽しい夜は、初めて。

目の前の、美しい青年が、いろいろな話を。例えば、私の夫がいかにすばらしい授業をするか、とか。あるいは、自分の友達が大学を辞めて事業を興した話とか。最近面白かった映画の話とか。

私は、誰かとこんなにしゃべり、笑ったことは、結婚以来なかった気がした。

気付くと、もう、時計が午前三時を回っていた。

「ごめんなさいね。」
「いえ。僕こそ、長居しちゃって。」
「あの、ね。今日とっても楽しかった。夢みたいだった。」
「そんな。なんか自分ばかりしゃべってすみませんでした。」

また、来て。おしゃべりを聞かせて。

なんて言える筈もなく。

「あの。」
彼が、帰り際に急に口を開く。
「なあに?」
「僕の携帯の番号。教えます。また、こんな風におしゃべりしたい時があったら、声を掛けてください。」

私は胸がドキドキする。

--

それから、時折の、夫の教え子との逢瀬。

私達は、おしゃべりをして、笑い合う。それだけで楽しかった。

そうして、私は、夫に言えない恋を。

--

夏、私と若い恋人は、一度だけ、電車に乗って遠出した。

浜辺を、手をつないで歩いた。彼に触れたのは、それが初めてだった。どこまでも続く誰もいない浜辺を、そうやって、手をつないで歩くことのあまりの感動に、私は、終わらないで、と。ただそれだけを祈った。

それ以上は何もなくて。唇さえ、重ねなかったけれども。

--

秋だからというわけではないだろうが、年下の恋人は不機嫌になる。夫にばれないようにと、彼から夜電話してくることを禁じたのがきっかけだった。

「いつもきみが決めるんだね。」
と、彼がなじる声に、涙が出てくる。

大学に行けば若く美しい同世代の女性に囲まれている彼。私がどれだけ嫉妬しているかを伝えることもできず、ただ、泣くことしかできない。

「僕がきみにしてあげられることは、もうこれ以上ないみたいだ。」
彼は、去る。

--

夜、キッチンで、一人グラスを幾杯も空ける。

夫が、めずらしく階下に下りて来て、私をとがめるように見つめる。

「あなたが私に興味を持つなんて珍しいわね。」
「そうかな?」
「ええ。私は、いつだってこの家で一人ほったらかしだった。」
「じゃ、きみはどうなんだい?うしろめたいことがある時だけ私に甘い声を出すきみに、私が気づかなかったとでも?あるいは、この夏、私の酒量が増えたことをきみは知っていたのか?」

彼は吐き捨てるように言って、玄関を出る。

私は、一人取り残されて。

相手の愛の怠慢を責めることでしか我が愛を伝えられない、人間という愚かな生き物について考える。


2001年11月22日(木) 恋なんて、もう、ないと思ってたから。思いがけず手に入れた情事だから。

ワープロ教室の講師であるその男は、主婦を相手にひどく退屈そうにしゃべっていた。

痩せた長身の男で、清潔で身だしなみがキチンとしているところからして、主婦からは「ちょっといいじゃない?」風に思われていた。「なんだか気に入らないわ。」と言っている人もいたが、それは彼の少し人を小馬鹿にしたようなその態度のせいだと思う。

ともかく、子供が手を離れたし、パートに出てみたいわね、と言った感じの主婦の集まりの中で、私は、そのワープロ講師が気になってしょうがなかった。

--

全受講カリキュラムが終わった日、私達はワープロ講師を囲んで打ち上げと称した飲み会を開いた。

「ねえ。先生。」
主婦が騒いでいる場所から少し離れた場所でグラスを傾けるワープロ講師に、私は話し掛ける。

「なんですか?」
「私、先生の教え方、好きでした。」
「そりゃ、どうも。」
「今日で最後だなんて、残念です。」
「まあ、これからは、いいお仕事を見つけてせいぜい頑張ってください。」
あまりにそっけない言い方に少々腹が立ってくる。

私は、少し膝を寄せて、
「このあと、どこかに行きません?」
と訊ねる。
ワープロ講師は、黙ってうなずく。

--

それからは、話は早かった。

私達は真っ直ぐに手近なホテルに入り、彼はドサリとベッドに腰を下す。

「その、スーツ。」
煙草を取り出しながら、彼は言う。

「え?」
「脱いで。」
「でも・・・。」
「いいから。そのピンクのスーツ。俺嫌いなんだよね。何とかならない?小学校の参観日じゃあるまいし。」
私は、恥ずかしさに涙ぐみそうになりながら、慌ててスーツを脱ぐ。

「こっちにおいでよ。」
服を脱いでしまうと、打って変わったようなやさしい声で、彼は、私を呼び寄せる。

「俺のこと、好きだったの?」

私は、うなずく。

「なんだ。早く言ってくれれば良かったのに。」
彼は、余計な修飾を省いた手つきで、私の下着も剥ぎ取ると、いきなり押し入ってくる。

「なんだか、別人みたい。」
「俺が?」
「ええ。」
「そりゃ、仕事してる時は誰だってそんなもんでしょう?あなただって、家に帰れば、全然違う顔してるんじゃないの?」

彼は手早く自分本意なセックスを終わらせると、うつぶせになって煙草を吸う。

私は、それでも夢を見ているような気持ちで彼に寄り添う。

恋なんて、もう、ないと思ってたから。思いがけず手に入れた情事だから。だから、私は、信じられない気持ちと、切ない気持ちを何度も噛み締める。

--

あくる日から、私は、彼に何度も電話する。

忙しいから、と、切られる日も多いが、「会うか?」と、言ってくれる日もあって。だから、私は、電話する。食事代も、ホテル代も、私持ち。

けれども、彼は、だんだんと私を遠ざけようとするようになった。

「どうして?」
私は思う。どうして、一度触れ合った肌を、遠ざけることができるの?あんなに引かれ合ったじゃない?

私は、彼が血の通った人間でないように思えて。その、細くて長い手足。いつも乱れない髪。どこかの宇宙人じゃないかしら?きっと、体内には緑の血が流れているのよ。

彼の冷たさが理解できない。

きっと、体の中には、私を想う熱い固まりがある筈だもの。

私は、「最後に一度だけ。」と言って彼を呼び出す。車の中で、私は、彼のほうに身を乗り出し、渾身の力を込める。

「なにを・・・?」
叫ぶ彼の服がみるみる染まる。

あ。

やっぱり赤だ。

血が。暖かい。彼の体を流れる血は、冷たくなかった。暖かかった。

私は、笑い出す。笑いが止まらない。

狂ってはいないよ。ただ、あまりに滑稽だから。

だいたいが、「最後に一度だけ。」なんていう台詞に応じるなんて、馬鹿じゃないかしら?と思う。


2001年11月21日(水) 会いたい、と思うには、僕達は会い過ぎだった。好きだと、思うには、僕達は抱き合い過ぎだった。

庭にいたカタツムリを拾って、ガラスコップに入れた。

ゆっくり這い上がるのを見ていた。

そうやって、何時間も、じっとカタツムリと遊んで、日曜の午後は終わってしまった。

夜、彼女からの電話。

「ねえ。今日、何してたの?」
「別に、何も。」
「え?うそ。ずっと家にいたの?」
「うん。」
「ひどーい。会えないって言うから、てっきり忙しいのかと思ってたよ。」

そう。忙しかった。カタツムリを眺めるのに忙しかった。

--

彼女は、怒っている。

「あなたが、このところ私と会いたがらないから、私もあなたの迷惑になっちゃいけないと思って、我慢してたのに。」
と。

会いたい、と思うには、僕達は会い過ぎだった。
好きだと、思うには、僕達は抱き合い過ぎだった。

でも、そういうことって、多分、僕は彼女にうまく言えない。

ひっきりなしにお笑い番組で笑って、ひっきりなしに年末に向けてのクリスマス・ソングで切なくなって、ひっきりなしに子供や動物が出てくるドキュメンタリーで泣いて、ひっきりなしに「好きよ」と抱きついてくる。そんな彼女は可愛いと思っていたけれど。

--

「ねえ。カタツムリは、本当は雨が嫌いなんだって。」
僕は、言う。

「え?そうなの?」
「うん。雨が降ってね、体が水に濡れちゃうと息をするところがつまっちゃうから、雨が降ると、高いところに登って息ができるようにするんだって。」
「へえ。全然知らなかった。雨が好きなのかと思ってたわ。」

そう。カタツムリは、雨が好きじゃない。僕だって独りは好きじゃない。だけど、息ができなくなるから。

「僕達、しばらく会わないでおこう。」

彼女の涙は、雨のように僕を息苦しくさせた。

--

それから、平穏な日々。

ひっきりなしの電話から解放され、日曜日は誰に言い訳する必要もなく家でのんびりと過ごせる。

だけど。

あれ?

今日は、何月だっけ?

そう。この間までは、彼女が僕に季節を運んでくれた。

急に、僕は自分の居場所が分からなくなる。

--

電話のベルが鳴る。

「やっぱり、電話しちゃった。」
彼女の声。

「おいでよ。」
と、僕。ワインを用意して待っておくから。

久しぶりに訪れた彼女を、僕は出迎える。

「ねえ。どうしてた?」
彼女が、聞く。
「何も。時は、あんまりにもゆっくり進んでいて、実際、僕は止まったままみたいだった。」
「早くしよう。」
「ん?」
彼女は、恥ずかしそうに、僕の手を引いて、ベッドまで誘う。相変わらず、せっかちだ。

「お腹空いてないの?」
「ペコペコよ。」
彼女は、笑って、僕の唇を、耳たぶを、齧る。
「ずっとお腹空かせてたのよ。」
僕は、みるみるうちに、食べられる。僕も、彼女に入り込む。暖かい体の中で、僕は、ようやく、深く大きな呼吸ができるようになった。

僕は、生まれ変わったら、カタツムリになりたい。
カタツムリ速度で歩いてくれる誰かと一緒にゆっくり歩きたい。

ずっとそう思っていた。

でも、本当は、多分、僕は大空を飛ぶ鳥に憧れる。そうして、ぼーっと空を見上げていると、あっという間に鳥に食べられちゃうんだろう。

って、分かった。


2001年11月20日(火) 捨て去られた思い出があんまり悲しそうなので、涙が出そうになることもある。

僕は、飼い犬。

僕の飼い主は、冷たい人形。

なんで、人形に飼われているか、僕にはいきさつが分からない。物心ついた頃には、彼女に飼われていた。他の犬みたいに、自分の主人に鼻をくんくん鳴らして甘えてみたいけれど、それはかなわない夢だ。

僕は、ガラクタを拾ってくるのが趣味だ。僕の鼻は、ガラクタを見つける。と言っても他の犬と少し違うのは、僕が、思い出を嗅ぎ分ける鼻を持っているということ。思い出の中から、素敵なものだけを選り分けて、その思い出の主のところに届けることもある。捨て去られた思い出があんまり悲しそうなので、涙が出そうになることもある。もっとも、犬は泣いたりしないけれど。

--

今日は、黄色い幼稚園カバンを見つけて、その思い出に出てくる人が、隣んちのおばさんだと気付いた。僕は、そのカバンを咥えて、隣の家に行く。

「あら。あらあら。どうしたの?あなたお隣の犬ね。」

それから、僕の咥えたカバンを見つけて、はっとしたような顔になり、しゃがみこむ。

「そうね。そうだったわね。」
彼女は、急に涙ぐむ。

思い出は、幼い日々。小さい子供の手が母親の手にしがみついている。彼は、その、ふっくらとした柔らかい手に向かって、一生懸命、今日一日の出来事をしゃべっている。

「あの子。もう、東京の会社に就職してから一回も電話して来なくて。もう、親のことなんかどうでもよくなっちゃったのね。なんて主人と話してたのよ。」

彼女の暖かい手が、僕の背中をそっと撫でている。

「このカバンをかけていた頃が良かったなんて言わないわ。きっと、あの子があんなに大きくなってしまった事を喜ばないといけないのよね。」

彼女は、カバンを大事に抱えて立ち上がる。

「でも、今日、電話してみるわ。」

--

今日は、千代紙がたくさん詰まった煎餅の缶を見つけて、それを、近所の中学生の女の子のところに持って行く。

「やだーっ。」
彼女は、僕を見て、急に叫ぶ。

「これ、捨てたのよ。何で拾ってくるのよ?」

僕は、彼女の顔をじっと見上げる。

思い出は、友達の女の子と遊んでいる光景。女の子は、友達が持っている美しい千代紙が欲しい。友達が見ていない隙に、そっと手を伸ばし、クッションの下に隠す。帰り際、友達が騒ぎ出す。彼女は、一緒に探すふりをするが、それはとうとう見つからない。

「どうしても欲しかったんだから、しょうがないじゃない。」
僕に向かって、彼女は泣きそうな顔で言う。

あれから、友達とは、以前の通り仲良く遊んでいるけれど、彼女の心には小さな重石が乗っかったまま。結局、彼女は、千代紙を入れ物ごと捨ててしまった。

「でも。でも。あたし、ちゃんと言わなくちゃ。」
そう言って、彼女は駆け出す。

--

雨が降っている。

雨の日は、思い出が一段と匂い立つ。

僕は、雨の中出掛ける。

僕の主人は何も言わない。

河原に埋まった包み紙が破れて、オルゴールが顔を覗かせているのを見つける。

思い出は、些細な喧嘩。悲しいことを伝えられない日々。かたくなな心。彼女を思う気持ちは募るけれど、彼女は受け入れない。電話から流れるのは、いつも、留守番電話のメッセージ。彼女の部屋に行って、彼女を抱き締めればいいのかもしれないが、できない。

僕は、そのオルゴールを、主人のところに持って行く。

彼女は、黙って破れた包みを取り去り、ネジを巻く。蓋を開けると、鳴り始めるやさしい曲。カードには、彼女の名前。彼女の指にぴったりな指輪が、一つ。

人形に、血が巡り始める。鼓動が響き始める。頬に涙が伝わる。

人形は、いや、僕の主人は、濡れた僕を抱き締める。そんなことすると、汚れちゃうよ。僕は、彼女に鼻をこすりつける。

僕は、バスルームで洗ってもらって、乾いたタオルで拭いてもらう。

僕は、ソファの足元に寝そべる。

彼女は、受話器を取り上げる。

僕がやっていることは、ただのお節介。時々、嫌な犬ね。と言われるが、今日はそうでもなさそうだ。


2001年11月19日(月) ねえ。すべての気持ちは、流れ星のように、燃え尽きて行くものかしら?

夫が、夜中に私の部屋のドアをノックする。ニヶ月前、私が夫に頼んで別々の部屋に寝るようにしてから初めてのことだ。

「なに?」
「星を見に行こう。」
「え?」
「流星群。」
「ああ。そうだったわね。」

夫は、既に玄関口に、毛布やら、コーヒーを入れたポットやらを用意している。私に、ダウンジャケットを着せ掛けてくれた。

「すっかり忘れてたわ。」
「なんせ、三十年に一度だからね。」

裏の山道を少し登っていくと、急に開けた場所に出る。そこからは、さえぎる物もなく、星が見える。

あっ。
空を見上げた途端、星がすうっと流れるのが見えた。
「今の、見た?」
私は、思わず声を上げた。
「ああ。見たよ。」
そう言っている間にも、また、すうっと。

「晴れて良かった。」
と、夫は、嬉しそうにつぶやく。

本当に。

そういえば、結婚した当初、夫が「子供の頃は、天文小僧だったんだ。」と言ったことがあるのを思い出した。

「どうして、星が好きなの?」
夫に訊ねた。

「どうしてって。そりゃ、うまく言えないけど、そういうのって、どうして漫画が好きなのかとか、どうして歌が好きなのかとかって聞かれても困るのと一緒で、とにかく最初から好きなんだよ。」
「分かんないわ。」
「コレクションみたいなものかな。自分で、見て、一つ一つの星が存在することを確認するのが嬉しいんだ。」
「へえ。」

本当は、もっと別のことが聞きたかった。冬になって、少し冷えてしまった家で、あなたはどういう気持ちで過ごしていますか?

私が悪いのだ。夏の間、恋にのめり込んだ。流れ星のように一瞬で燃え尽きてしまったけれど。それでも、それは、とても大きなものを私達夫婦の間に残してしまった。私達夫婦は、それまで考えていなかったいろいろなことを考えるようになり、それまでは気付かなかった孤独の気配を肌に感じるようになった。私は、自分を責め、いろいろな事に耐えられなくて、夫に寝室を別にするように頼んだのだ。

「流れ星はね。出鱈目に流れてるんじゃなくて、一箇所から放射状に出てくるんだよ。昔は、レーダーとかなかったからねえ。人の手による記録だけが頼りだったんだよ。」
夫は、私に流星のことを説明しながら、コーヒーを注いだカップを渡してくれる。

「あ。また。」

「ほら、あそこにも。」

私が、そうやって声を上げるのを、夫は黙って聞いている。

そうやって、二時間も流れ星を見ていただろうか。指先がすっかり凍えて、冷え性の私は、このまま部屋に帰っても眠れそうにない。

「あなたのベッドで一緒に寝て、いい?」
「いいよ。」

私達は、一つのベッドに入る。

「私のこと、まだ好き?」
さっき聞くことができなかったことを聞いてみる。

「好きだよ。」
「どうして?」
「どうしてって。そりゃ、星がどうして好きなの?って聞かれても答えられないのと同じくらい、最初から決まってることなんだよ。僕にとってはね。」
「ねえ。すべての気持ちは、流れ星のように、燃え尽きて行くものかしら?」
「さあ。どうだろうな。流れ星って、はかなさの象徴みたいに言われるけどもね。数年に一度、彗星からのカケラが一瞬、地球から見える。それは素敵な巡り合いの話だと、僕は思うよ。」

そうね。

私は、夫の暖かい体に寄り添って、眠りに就く。もう一度。何度でも。夫婦だって、巡り合う。


2001年11月18日(日) そうして、今日は、私の誕生日。私は、とうとう。あまりにもあなたを待ち過ぎて、人形になった。

明日は、私の誕生日。

あなたと最後に過ごした誕生日から数えて、何年目かしら。

あの日。あなたは、私と一緒に過ごせる日の事を喜んでくれて、それなのに、翌朝突然いなくなった。

今でも思い出す。

「歌、歌ってくれよ。」
あなたは言う。

歌だけが私の取り柄だから、私は、あなたのために歌った。

「うまいもんだ。俺だけが聞くにはもったいないくらい。」
「いいえ。あなただけに聞いて欲しいの。」

彼は、微笑んでいた。安物のワインだったけど、気持ち良さそうに酔って。

それなのに、どうして次の日いなくなったのか。今でも分からない。そのうち帰ってくるんじゃないかしら。最初の頃はずっとそう思っていた。あなたの気に入りの服が持ち出されている事にも、気付かないようにしてそっとクローゼットを閉めた。でも、あなたは帰って来ない。どこで何をしているのか。

ただ、あの日、普段なら私が歌うと「良かったよ。」って抱き締めてくれるのに。あの日だけは、「もう一回歌ってくれよ。」と言って、目を閉じて、じっと聞き入って、それから、私のことを抱き締めることはしなかった。

--

あんまり長いこと、私は待ち続けた。もちろん苦しかった。だけど、彼が戻って来た時、私を見つけられないと困るから、私はじっとその家で待った。気が変になりそうだったけれど、待った。あなたばかりが男じゃないと、何度思おうとしたか。それでも、無理だったので、待った、そうして祈った。私があまり変わり果ててしまわないうちに、おばあさんになってしまわないうちに、あなたが私を見分けられるうちに、早く帰って来てと祈った。

--

そうして、今日は、私の誕生日。

私は、とうとう。

あまりにもあなたを待ち過ぎて、人形になった。

人間らしく笑うことも、怒ることもない。

ただ、じっと。そのままの姿であなたのことを待つ人形。

歌を歌う。あなたが、あの日歌ってくれよ、と言った歌。これからは、一年に一度、私の誕生日に、歌を歌うことでしょう。

--

その家は、ツタに覆われて、もう、ドアの場所さえ分からないくらい。

時折、歌声が響くという噂が立ち、近所の子供達から「お化け屋敷」と怖がられていた。

たまたま、迷い込んだ少年達の耳に、低く美しい歌声が届く。

「うわっ!」
一人の少年がしりもちをついた。

別の少年が、
「本当にお化けがいるんだ!」
と叫んだ。

「早く帰ろうよ。」
と、少年達は口々に叫んだ。

一人の少年は、
「僕は、もう少しここにいる。」
と言って、そこに残った。

ああ。なんてきれいな歌声だろう。やさしくて、物悲しい。もう少しだけ、この歌を聴いていたい。パパはとっくにいなくなって、ママは仕事で帰宅が遅い。あの家はとても寒いから。

みんなは、この歌声が怖いって言うけれど。僕は、もう少しこの歌を聴いてから帰るよ。


2001年11月17日(土) 僕は、きみの反応が欲しくて、眠たそうなきみを揺り動かし、押し入る。

「小さい頃ね。」
「うん。」
「私の、父親っていうのが、厳しい人でねえ。何の事でだったか忘れたけど、夜、寒い時、外に放り出されちゃったわけ。で、私はね、何とか家に入る方法ないかと思って、庭のほうに回ったら、暗闇で転んじゃってね。そしたら、転んだところにサボテンの鉢植えがあって、棘がね。足にびっしり刺さっちゃったのよ。」

僕は、こらえきれず笑い出す。

「いやだ。笑わないでよ。」
「サボテンの上に転んじゃう人の話って、実際聞いたの初めてだからさあ。」
「とにかく、私ってそういう子だったの。で、泣きながら玄関から何とか家に入れてもらって。すごく長い時間掛けて、父に棘を抜いてもらったんだけど。その間ずうっと怒られてた。」
「可哀想に。」
「本当にね。あの時の私は可哀想だったの。怖い思いして、痛い思いして、それで怒られるんだからさあ。」
「でも、きみのお父さんが怒ったのは、本当は、きみに対してじゃなくて、きみをそんな目に遭わせた自分に対してなんじゃないのかな。」
「まあ、ね。大人になればそういうことも分かるけど、子供の頃は、ただ怒られたことが悲しいじゃない?すごく傷付いたわ。」
「そりゃ、まあね。」
「そこから得た教訓。先が見えない場所でむやみに歩き回るな。」
「ある意味、正しい。」

でも、実際には、先が見えなくても歩き続けるしかないことのほうが多い。

--

今日も、電話をしても、きみは出ない。きみは携帯電話を持たない。

「どこに行っていたの?」と訊ねると、「散歩よ。」と肩をすくめる。

もう、随分と長いこと、僕はこんな風にきみを見つめている。きみは、いつも、僕の視線に気付かないふりをしていてくれる。それが、彼女の愛し方。

--

「ねえ。」
ベッドであんまり長いこと黙ったままの彼女に、僕は話し掛ける。

「ん?」
「今度の連休のこと、考えておいてくれた?」
「連休?」
彼女は顔をしかめて、思い出そうとする。

「カニ、食べに行くっていう話だっけ?」
「違うよ。」
「あら。じゃあ、私、すっかり忘れてたわ。」

また、別の誰かに言われたことと混同しているのかな。

僕の胸はチクチクする。

僕の買ってあげたピアスは、翌週一回着けて見せてくれたきり、もう、どこかに失くしちゃったんだろう?

僕は、上の空のきみに何度も口づける。彼女の喉から低い声が漏れる。僕は、きみの反応が欲しくて、眠たそうなきみを揺り動かし、押し入る。きみは驚いたように甘い声を上げる。その、鼻にかかった声は、無防備で、何もかも僕に委ねているように思えるのに。僕がきみに投げ掛けたものは、いつもちゃんと受け止められないまま。

きみは、捨てられた子犬を見つけて、飼う気もないのに「可愛い」などと抱き上げたりしないタイプだ。

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きみは、時折、寂しいと言って泣く。泣く時は、僕に背を向けて。僕がそばにいないから泣くんじゃなくて、誰もそばにいないから泣く。

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さしずめ、僕はサボテンに恋しているように。

そこに柔らかい肉があると思って触れようとすると、幾本もの棘が僕に刺さる。

その棘を抜かず、僕は、恋の痛みに身を任せる。

だけど、本当に孤独なのは、彼女。僕には、痛みがあるけれど、彼女には何もない。張り巡らされた棘のせいで、誰も本当には彼女を抱き締めてあげられない。


2001年11月16日(金) きみを、その場限りで抱いてしまうには、僕は、きみのことがもう少し好きだから。

まだ、残暑が厳しい頃、私と男友達はフェリーで小さな島に行った。人があんまりいなくて、早朝は釣りをする人がいて、高校生くらいの女の子がスクーターの後ろにおばあちゃん乗せて走ってるみたいな、そんな島。民宿では、びっくりするくらいの量の磯の料理が。で、一緒の部屋だけど、布団はニ組敷いてもらって、その布団は、ちゃんと両方使われて。二人共、朝までちゃんと掛け布団を掛けて寝た。

なんで、そんな島に行こうという話になったのか、よく覚えてない。何となく。行こうか。って。

それくらいじゃないと、駄目。すごく行きたいね、なんていうのは、駄目。

で、一番暑い時間を過ぎて、でもまだ陽が高い時間。誰もいない浜辺で、少し泳がない?誰も見てないから裸になっても大丈夫だよ。なんて、海を見ていたら急に思いついて、彼に言ってみた。彼は、やめとこうよ、と言った。日焼け止め持ってないし。と言った。きみ、肌白いでしょう?日焼けしたら大変なことになるよ、って。

やっぱりな、と思った。彼は、いつもそんな風に言う。問題は、日焼けのことじゃないのに、日焼けが問題みたいに言う。

それで、私も、それ以上は言わないで、「そうね。」って言って、浜辺で裸足になって、足を少し波にまかせただけだった。

--

夏も終わって、秋が来て、女友達がしきりに電話してくる。彼がどうやら浮気してるの、とか何とか。どうしよう、って言うから、
「いっそ別れたら?」
って言うと、
「クリスマスに一人は嫌だから、何とか今年中は頑張る。」
と言うのだ。

「あなたはいいわよね。強いもん。」
と、彼女。

強くないよ。本当に強いなら、とっくに一人になってるわ。

--

別に何も問題ない気がする。

私には恋人はいないし、彼にも恋人はいない。

だけど、駄目なんだって。私じゃ、恋人になれないんだって。抱くわけにいかないんだって。もう、会ってもくれないんだって。電話だけなんだって。

「きみを抱かないでいられるほど、僕は聖人君子じゃないからね。」
って言う。

「きみを、その場限りで抱いてしまうには、僕は、きみのことがもう少し好きだから。」
って言う。

アホらしい。

だったらいっそ、電話もしないって言えばいいのに。言葉を変えただけで、ずるいのは一緒。

日焼けのせいにして、海に入らない男。

--

女友達が、夜、泣きながら電話してくる。

「やっぱり、駄目なの。」
って言う。

「他の子を抱いてるかと思ったら、気が変になりそうで。会っても、彼のこと責めてばっかりで。最近、連絡もなくて。」
って泣いている。
黙って放っておけば、大概の男は戻ってくるよ。私は、そう言って慰める、寂しくなったら、彼に電話せずに私に電話しておいでよ、って言う。

どうして、世の中には、女を泣かせるずるい男が沢山いるのか。どうして、世の中には、男のために泣いている愚かな女が沢山いるのか。

恋をしている間は、みんなずるくて愚かだから。

--

私と彼は、線路を挟んで違う路線の電車を待つ。

同じ電車に一緒に乗っていけたらいいのに。って、本当は思うけれど。

そう。彼は、なかなか乗ろうとしない。

私は私で、行きたい場所が分からないので、まだ乗れない。

でも、できることなら、向こうのホームにいる彼より早く電車に乗って、窓から手を振ってやりたい。「お先に失礼」ってね。


2001年11月15日(木) 私は、旅に出る。恋人を追い掛ける旅。あてもなく、あちらこちらとさ迷う。それから私は。

ティーンエイジャー向けの恋愛小説を書いて、「恋愛の教祖」とまで言われた私だが、ある日全く書けなくなってしまった。もう随分長いこと、恋をしていないせいじゃないかしら、と自分でも思う。最後に男と抱き合ったのはいつだったかしら。

2年目に入った年下の恋人との同棲生活は、私に安らぎをもたらすことはあっても、恋の刺激とは無縁なものだった。恋人というより、弟と言ったほうがぴったりな。

私は、それでも、書いていた。小説の中で、少年少女達は、ひっきりなしに胸をときめかせたり、泣いたり笑ったり、キスをしたりしている。そんな話いくらでも書けた。

以前は。

--

私は、眠たくなると機嫌が悪くなる。

恋人は、そんなタイミングを見計らって、いつも、暖かいホットミルクを持って来てくれる。ホットミルクを飲んだら、私は、ベッドにもぐり込む。

今日も恋人は、ホットミルクを持って来てくれて、私は、「何にも浮かばないのよ。」と散々ぐずぐず言う。「恋が何だったか分かんなくなっちゃったの。」と。

「しばらく休んだら。」
と、彼は言う。

「そうしたら、一生、何も書けなくなっちゃいそうで怖いよ。」
と、私。

誰だって書けない時はあるよ。という、彼の気休めの言葉を聞きながら、私はカップのミルクで舌が焼けるのを感じている。

--

「ねえ。私達、少し離れてみない?」
私は恋人に提案する。

「いいけど、何のために?」
「私ってね。あなたに甘え過ぎてると思うの。」
「それで?」
「離れて、自分のこと見つめ直してみるわ。」
「ふむ。きみが決めたことならしょうがない。」

そうして、彼は出て行く。

ベッドはこんなに広かったかしら、と、思う。書くこともしばらく休むことにして、恋人とも離れて、私は、本当に何にも失くしちゃったのかもしれない。

街に出る。

そうして、誰かと知り合って、寝る。

だけど、それは恋じゃない。それだけは分かる。やっぱり、私は恋の神様に見放されちゃったみたいだ。

--

恋人の作ってくれたホットミルクがないと、夜も眠れない。

ようやく、そんなことに気付いて。

彼は、もう、連絡も取れない、どこか知らない場所に行ってしまった。

私は、旅に出る。恋人を追い掛ける旅。あてもなく、あちらこちらとさ迷う。

--

私は、もう、ありとあらゆる場所を探し尽くして、とうとう南極にまでやって来た。たくさんのペンギンが群れを成す。私も、そこでペンギンになった。ペンギンになりたての私は、ヨチヨチと、ゆっくりしか歩けない。向こうからやってくるペンギンは。そう。恋人だ。私には分かる。並み居るペンギンの中で、唯一私を求めて、こちらに向かってくる。

「久しぶりだね。」
「うん。」
「どうしてたの?」
「恋を捜してたの。」
「で?見つかった?」
「ううん・・・。どこにも無かったわ。それでこんなところまで来ちゃった。」
「ここはいいよ。青と白と黒だけ。ややこしいものは何もない。」
「そうね。」
「おいでよ。海に飛び込むやり方、教えてあげる。」

私達は、そうやって、海に飛び込む。波は、荒いが気持ちいい。彼は、流線型の体をきれいに操って、素敵に泳ぐ。

「あなたって、ペンギン的才能があったのね。初めて知ったわ。」
「そうかい?ま、普通は、滅多に開発されない才能だからね。」
「もう一つ。」
「ん?」
「ちょうどいいタイミングでホットミルクを作る才能と。」
「ああ。きみが夜、ちゃんと眠れているか心配だったんだ。」
「帰ったら、また、小説を書くわ。」
「恋愛の?」
「さあ。分からない。長い旅の果て、幾千のペンギンの中から、たった一頭のペンギンを見つけるお話。」
「それはいい。」

だけど、私達、もしかして一生このままペンギンかもね。だったら、それもいい。

私達は、ふざけあって、もう一度海に飛び込む。


2001年11月14日(水) 男の技巧は、あの頃と変わらない。むしろ、この指。この唇。この匂い。

長いこと、少年の人形と暮らす。話し相手にと買ったその人形は、さして役にも立たない。長いこと一人暮らしをしていれば独り言がやけに大きく響くから、私は人形に話し掛ける。昨日と変わり映えのしない一日のこと。いまだ癒えない傷のこと。少年はただうなずくのみ。気の利いたことの一つも言えない。

誰も訪れない部屋は荒れて行くばかりだから、私は、彼に命じる。花に水をやってちょうだい。金魚に餌をやってちょうだい。ダイレクトメールは捨ててちょうだい。

--

「あら。久しぶり。」
私は、仕事を終えて帰宅する途中、その男が私に向かって微笑んだのに気付いて、思わず胸が高鳴る。

「久しぶりだね。」
「ええ。」
「こっちにまた転勤になってさあ。支社が傾いてるから、立て直しで。」
「そうなの?」
「ああ。まいったよ。娘が受験だから、単身赴任さ。」
「大変ね。」
「また、飯、作りに来てくれよ。」

男が意味ありげに笑う。私は、自分の心に知らぬ顔ができない。そう。ずるい男。弱い私。

「きみは?まだ一人?」
「ええ。」
「恋人は?」
「いません。」
「きみみたいな美人が、恋をしてないなんてもったいないなあ。」
「恋なんて。もう、鉄の箱に閉じ込めて海の底に沈めちゃいました。」
「はは・・・。相変わらず、言うなあ。」

本当ですよ。海の底で、もう、一生開かれない筈でした。そんなものがあったことすら忘れようとしてました。なのに、沈めるのは随分と時間が掛かったのに、それはいとも簡単に蓋を開けて出て来てしまうものなんですね。

--

「ねえ。今日、あの男に会ったわ。」
「・・・・。」
「相変わらずだった。人の心なんか知りもしないで。いいえ。本当は知っててあんなこと言うのかしら。だったらひどいものね。」
「・・・・。」
「何とか言いなさいよ。」
「・・・・。」

人形は、哀しみをどこにも連れて行ってくれない。彼らは、自分をも、どこにも連れて行かない。夜、目が醒めると、人形は一晩中、そこに。そう。彼らは眠らない。夢も見ない。ただ、じっとそこにいてどこにも行かない。

--

分かっていても、抱かれてしまう。

他にどうすれば、男と繋がっていられるのか分からない。「好きです。」という言葉をうっかり漏らしてしまわぬよう、慎重になりながら、さばけた女の演技をする。

「前より色っぽくなったな。あれから、たくさんの男に抱かれたのか。」
男がわざと好色な物言いをする。

「ええ。あなたよりずうっといい男達と寝たわ。」
私は悲しい嘘を言う。

「妬けるな。」
男は残酷な嘘で返す。

男の技巧は、あの頃と変わらない。むしろ、この指。この唇。この匂い。何も変わらない。何か変わっていれば、決別できたかもしれないのに。

--

「私って馬鹿よねえ。」
「・・・・。」
「馬鹿だって思ってるんでしょう?」
「・・・・。」

人形は、黙って立ち上がり、金魚に餌をやる。

ふと、水槽に目をやると、金魚は死んで浮いている。

「馬鹿ねえ。死んでるじゃない。」
私は、腹が立って、思わず大声を出す。

死んだ魚に餌をやる人形と、死んだ恋に身をやつす女。

実際のところ、大層お似合いで。

何を言っても独り言なのだ。どこにも行こうとしない相手に、何を言ったところで。私は、部屋で独り言を吐き続ける。


2001年11月13日(火) その日、あたしは「恥知らず」という名前をもらった。

あたしには名前は、ない。

あたしのことは、呼びたいように呼べばいい。

あたしには両親もいない。育ててくれた女から「娼婦」と呼ばれていた。そうやって、12の時から男と寝た。男と寝れば、あたしは居場所ができるから男と寝た。男達は、奪うばかりだけれど、寝るところと食べるものくらいは用意してくれる。

--

ある時は、あたしは「可哀想な女」と呼ばれていた。

いつも裸足だったから。ボロボロの布きれを身にまとい、足に靴はない。その男は、あたしに、革で出来た靴を買ってはかせてくれた。そうして、あたしを抱いた。あたしに、靴をはいてごらんと言い、靴をはいたあたしから、ボロのドレスを引き剥がし、あたしの両足を抱え込んであたしの中を掻き回した。革の靴は、少し暖かかったけれど、窮屈だった。その人は、靴を脱ぐなと言った。靴をはいたままのほうが興奮するみたいだった。あたしも、いつもより少し興奮した。靴は、拘束具だ。そうして靴のせいで、剥き出しの体がいつもよりもっと剥き出しだった。

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たった一人の女友達は、男の話ばかりしていた。あたしは、どうでも良かったので、どうでも良さそうに話を聞いていた。その女は恋をしているらしかった。一人の男の話ばかりするのだ。だが、その男は、決して彼女を抱かない。なんで抱かないかなんて、あたしに聞かれても困る。

ある時、あたしは、女友達が恋をしている男と街でばったり出会った。その男は、あたしに、「暇か?」と訊ねた。あたしがうなずくと、男は、歩きながらあたしの手をそっと握り、アイスクリームを買ってくれた。あたしは女友達のことを思い、何となく落ち着かなかったけれど。

そんな日が数日続いて、それから彼のアパートに誘われた。

彼は、ベッドの上であたしの腰に手を回し、ゆっくりと口づけた。あたしは、黙ってされるままになっていた。黙っていると、男は受け入れられたと思うものなのだ。だから、男は、あたしの体を自分の道具のように扱った。男があたしの髪を掴んで股間に持って行くから、あたしは、男の望む場所を口に含む。男は、退屈な手つきであたしを抱いた。息も乱れない。ただ、ギシギシとベッドが音を立てた。それからあたしは彼のアパートを出た。

あたしは女友達に、彼と寝たことを告げた。

途端に、頬に激しい痛みが走った。

その日、あたしは「恥知らず」という名前をもらった。

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ある男は、あたしに指一本触れなかった。ただ、ずっとあたしのそばにいた。

そうして、星の輝きを封じこめた指輪をくれた。何でも、彼自身が作ったらしい。彼の、宝飾品を作る腕前は素晴らしく、中でもその指輪は素晴らしい出来だと言うのだ。あたしは、それをじっと見つめた。星の輝きが指輪にはめられた石の奥で揺れると、あたしは泣きたい気分になるのだ。

「すてき、ね。」
「そうだろう?」

あたしは、その指輪を、飽きずにいつまでもいつまでも眺めた。

その男は、辛抱強く待っていた。

そうして、次第にイライラして、あたしの前で酒を飲むのだった。

「お前も飲むか?」
と聞くが、あたしは首を振る。

だって。

お酒は忘れたいことがある人だけが飲むのでしょう?

彼は、指輪の見返りにあたしに「俺を愛せ」、というのだった。あたしがそれはできない、と言うと、彼は「愛を知らぬ女」とあたしを呼んだ。

--

あたしは、裸足で歩く。

アスファルトの上も、砂利道も。時としてガラスの破片が足に刺さる。暑い時には、足が焼けつき、寒い時にはかかとがひび割れて血が流れる。

それでも、裸足で歩く。

あたしには名前は、ない。

誰かが呼んだ名前は、風と一緒に通り過ぎる。

ボロ布をまとい、踊るように歩く。ただ、それだけの。


2001年11月12日(月) 好きという言葉だけじゃ、どうして駄目なんだろうな。最初はこうやって出会えただけで幸福だと思っていたのに。

私は、魚の娘で、今日も友達と楽しく川で泳いでいた。

急に、他の娘達が「きゃっ」と悲鳴を上げて散ってしまったので、何事かと思って水面を見上げると、そこに魚を取りに来た熊。たくましい腕。黒目がちの瞳。彼の腕が水を掻く。逃げ遅れた私の背中は、彼の黒光りする爪で傷付く。

私は、驚いて彼の目を見る。彼も私の目を見る。

そうして恋が始まった。熊と魚の恋。なんとおかしな。

川底に逃げた私の背中の傷が熱くて眠れない。

--

私と恋人は、仲間の目を盗んで逢う。

ただ、水面から見つめ合い、言葉を交わす。抱き合って彼の胸で眠ることもできない。それでも、見た瞬間分かることというのはあるから。そういう恋もあるから。

私は、彼に、魚を取らないで、と頼んだ。魚なんか食べちゃだめって。そうして彼は日々の糧としてハチミツを舐めるはめになった。時折、無償に魚が食べたくなるみたいだけれど。

私は、それでも寂しくて、魚の男と寝てみた。魚の男は、ツルリとした肉体に、銀色の肌。私と同じ。やさしくて。でも、そんなのじゃ全然駄目。私は、魚の男に抱かれながら、毛むくじゃらの恋人の野生の荒々しさを想う。

私の浮気は、恋人をひどく悲しませた。

「ごめんね。」
「もう二度とするな。今度したら、俺はお前の体をこの爪で切り裂かねばならない。」
「もうしない。」

彼は、無言で立ち去った。川から出られない私は、追い掛けて行くこともできない。

--

それから、二人で相談して、彼の部屋に水槽を置いて、私はその中で暮らすことにした。これなら、毎朝、起き抜けの彼の顔が見られる。「おはよう」と言って水槽の透明樹脂越しに、口づける。

彼が、日々の糧を得るために出かけてしまうと、私は一人ぼっち。私は、自分の恋について。世の多くの報われない恋について考えを巡らせる。

ある日、とうとう、私は川が恋しくて泣き出す。流れに身を任せて泳いでいるのが魚の幸せ。こんな狭いところで、息がつまる。囲われて、時として置き去りにされて、ただ彼を待つ生活には耐えられない。めそめそと泣いている私を見て、彼は溜め息をつく。

「俺達、どうしたらいいんだろうなあ。」
「お互い違い過ぎるのよ。そもそも、あなたに恋するんじゃなかった。」

彼の目は、怒っているとも、悲しんでいるともつかない表情をたたえている。

「あなたに抱かれたいの。」
「俺だって、お前を抱きたいさ。」
「抱き合うだけが恋じゃないって分かってても、ね。」
「不安なんだろう?」
「ええ。」
「俺もだよ。好きという言葉だけじゃ、どうして駄目なんだろうな。最初はこうやって出会えただけで幸福だと思っていたのに。それだけじゃ足らなくなる。お前が、生きて、川の中ではね回っているのを見ているのが、俺の喜びだったはずなのに。」

それから、長い時間かけて、私達は二人の行く末について。時折泣いたりしながら話し合う。

そうして出した結論。

「本当に?」
「ええ。本当に。」

彼は、水槽に手を入れて、私をそっと抱きかかえる。私は、彼の腕に抱き締められて、ぼぅっとする。

長い口づけ。

私は、もう、気を失いかけている。

彼は、深く息を吸いこむと、爪で一気に私の体を切り裂く。私の体内から血がほとばしる。彼の鋭い歯が肩に食い込むのを感じる。彼の体毛が私の頬をくすぐる。私は喘ぐ。内臓を愛撫されて、私は、今、彼と一つになっていくのを感じる。

そう。

私を食べて。

それが、私の出した結論。

恋人の体内に入っていけるなら、何という幸せ。

それでも、私が死んでしまったら、彼は、また、他の魚の娘を食べるかしら?そんなことを考えながら、遠のく意識の中、官能に身を任せる。


2001年11月10日(土) トロリと指をすべるシルクの下着。美しく塗られた爪が、僕のワイシャツのボタンをはずす。

彼女のマンションは、豪奢で、よれたジャケットを着込んで訪ねた僕にはひどく不似合いな場所だった。昔の恋人からの電話はいきなりだったが僕はとても懐かしくて、なぜ彼女が突然職場に電話して来たのか、なんて考えもせずに、彼女の口にした住所へ出向いたのだった。妻には、「昔の友達と会うから」と電話をして。

玄関のドアを開けた彼女は、僕の知っている彼女とは全く違って見えて僕は慌てた。失礼、と言い掛けて、僕は、目元の泣きボクロに気付く。そう。彼女、いつも泣いていたっけ。

「来てくれたのね。」
ゆるくウェイブした栗色の髪を肩まで垂らし美しく化粧をしてあでやかに笑う彼女に驚きながら、ショートカットと膝の抜けたオーバーオールの似合ってた彼女はどこに行っちゃったんだろうと思う。

「入って。」
「驚いたな。」
「ごめんね。突然に。」
「何年ぶりかな。」
「もう、10年は経ったよね。職場にかけるのはまずいかなあって思ったのだけど。」
「いや。すごく嬉しいよ。」
「私、変わったでしょう?」
「うん。」
「お酒?」
「いや。運転して来たから。」
「じゃ、紅茶にするわね。」

彼女が出してくれたティーカップには、薔薇の花びら。

「おしゃれだな。」
「そういうんじゃないのよ。」
「いや。この部屋も。このカップも。きみも。」
「あなたと付き合ってた頃に読んだエッセイでね。こういうのがあったの。『私はコーヒーより紅茶が好きだ。だけど、紅茶はカップの底が透けて見えて、それがどうにも我慢ならない。しょうがないから、紅茶にミルクを入れてミルクティーにすることで何とか自分と折り合いをつけてる』って言うの。」
「ふうむ。」

僕は、砂糖を入れると、花びらをよけてスプーンで紅茶をかき回す。

「何てことない話なんだけどね。つまんないところにこだわっちゃう人もいるんだなって思うだけのことなんだけどね。それが妙に気に掛かっちゃって。じゃあ、緑茶だったらどうなんだろう?とかね。なんでカップの底が見えたら駄目なのかな。とか。その文章を書いた人に聞いてみたいなあって思ったりしてたの。そのうち、私もカップの底が見えるのが、なんだか気になるようになって。」
「で。花びら?」
「うん。人に全部見られてしまわないように落とした、ひとひらの秘密。」
「ふうん。今のきみには、秘密が多そうだな。」
「嘘よ。そんなもの、ないわ。」
「そう?」

彼女から差し出された名刺には、誰もが知るメーカーの名前と、立派な肩書き。

「驚いたね。」
「やだ。馬鹿にしてるのね。」
「馬鹿になんかしてないよ。」
「ほんとう?」
「ああ。ほんとうだ。」

実際のところ、僕は戸惑っている。泣き虫だった彼女。夜、別々の場所に帰るのが悲しくて、電話ばかりして来ていた。木造アパートの階段のすぐそばの部屋の男が、うんざりしたようにピンク電話に掛かってくる彼女からの電話を取り次いでくれたっけ。

それがどうだろう。キャリアと美貌を備えた、いい女だ。

「結婚してるんでしょう?」
「ああ。きみは、恋人とかは?」
「いないわ。」
「まさか。」
「ほんとよ。」
「で、何で僕を呼んだりしたの?」
「そうね。なんでかな。急に思い出したの。迷惑?」
「いいや。」

僕は、その日はお利巧に帰宅する。

--

それから時折掛かって来る電話に呼び出されて、僕は彼女の部屋を訪れる。

トロリと指をすべるシルクの下着。美しく塗られた爪が、僕のワイシャツのボタンをはずす。

多分、彼女はひどく孤独なんだろう。

彼女は、一言も言わないけれど、僕はそんな風に勝手に考えている。彼女の孤独は、きっと触るとヒリヒリして、薔薇の棘が指を刺すだろう。だから、僕は彼女の孤独に手を伸ばしかけては引っ込める。帰宅すれば、妻と娘が僕を待っている。そんな僕には、彼女の棘は痛すぎる。

--

「ねえ。私ね。東京本社に転勤になるの。」
彼女がベッドで、長い沈黙の後、口を開く。

僕は、すぐには答えられない。

「どうしたらいい?」
「どうしたら、って、そりゃ僕が決める事じゃないだろう。」
思わず口をついて出た言葉は、ひどく意地の悪いものだったかもしれない。

「そうだよね。何であなたに聞いたりしちゃったんだろう。」
彼女は起き上がって、背を向けるとガウンを羽織る。肩が少し震えている。

ああ。その背中を抱き締めてやれたら、どんなにいいか。

だけど、僕はそこから動けない。彼女も、背中で拒絶する。

--

僕を見送って玄関口まで来た彼女は化粧がすっかり落ちていて、あの頃と同じ泣きボクロ。再会してから一度も姿を見せなかった筈の涙が、急に頬を伝って落ちる。彼女は、僕にそっと抱きついて、胸に顔をうずめる。

随分長いことそうやって。それからようやく彼女は僕から離れる。彼女の鼻の頭が少し赤い。

「じゃ、ね。」
「ああ。」

背後でドアの閉まる音が響く。

あの頃と全然変わっていなかったのだ。僕も。彼女も。僕は相変わらず不器用で。彼女は相変わらず泣き虫で。

どうして、僕は、一度も「好きだ」と言ってあげなかったのだろう。

彼女の孤独は、棘のように痛くなかった。ただ、薔薇の花びらのように、幾重にもかたく結ばれて。


2001年11月09日(金) あなたのせいじゃないわ。いつだって、泣くのは、自分が可哀想だからよ。

「ねえ。この金魚ください。」
彼女が店の一番奥の水槽で一匹だけ泳いでいる金魚を指差して言う。

「これ・・・、ですか?」
「ええ。」
「いいですけどね。これ、奇形ですよ。」
「うん。だから、これがいいの。」
「それから、他の金魚と一緒に飼うと、喧嘩しちゃいますよ。どうも、こいつは他のと仲良くできないみたいで。」
「素敵ね。ますます気に入ったわ。」

尻尾が、妙にねじれて、動きの不自然な金魚。

「差し上げますよ。餌かなんか買ってくださったら、おまけに。」
「ありがと。」
「お客さん、変わってますね。」
「なんかさ、普通じゃないほうが可愛いよね。」
「そうかな。いや。そうですよね。」

金魚を大事そうに抱えて店を出る彼女は、足を少し引きずっているのに、僕は気付く。

--

それから、時折彼女は店を訪れる。

店の奥は、カウンターがあって、コーヒーを飲みながら泳いでいる魚を眺めることができる。

「ねえ。魚を飼う時、大事なことってなんだと思う?」
彼女が聞いてくる。

「水質管理?」
と僕が答える。

「ううん。それもあるけど。大きくし過ぎないことだと思うの。」
「なるほど。」
「大きくなり過ぎた魚って、すごく悲しいものだと思わない?」
「どうかな。で、あの金魚、元気?」
「ええ。すごく。ねえ。見に来ない?」
「うん。そうだね。」
僕は曖昧に答えながら、彼女のことを何も知らないと思う。どんなつもりで誘っているのだろう。すごく可愛い子なんだけど、付き合ってるヤツとかいるのかな。

--

彼女の部屋は、驚くほどなにもない。水槽があって、例の金魚が泳いでいる。

部屋に入ると、彼女が黙って服を脱ぐ。だから、僕は、彼女とセックスする。

彼女のどこが気に入ったのかと言えば、さして理由はない気がする。今までだって、こんな風に店に訪ねて来た女の子と寝たことは、何度かあった。彼女の考えていることはよく分からない。だけど、分からないくらいのほうがいいのだと思う。魚だって、何かを考えてひっきりなしに泳いでいるわけじゃない。泳いでないと生きていけないから泳いでいるだけだ。僕も、目の前のものに向かって泳いで行くだけだ。僕は、今までそうやって生きて来たし、それで取りたてて問題があったこともない。

「ねえ。」
彼女は、僕の胸に頭をのせて聞いてくる。

「ん?」
「足のこと。私の足のこと気付いてるでしょう?」
「ああ。」
「事故でね。それでね。すごく寂しい時はね。足を理由に、誰かに抱いてもらうの。でね。寂しくなくなったら、足を理由にお別れするの。」
「随分ずるいな。」
「ずるい?」
「ああ。ずるい。ま、僕が言うことじゃないんだけどね。」
「時々、目の前の人が、私のことを好きなのか、私の少し駄目になっちゃった足のことを好きなのか、よく分からなくなるの。」

たしかに。

彼女の少し不自由な足に、僕はときめく。

ああ。そうか。僕は、彼女の足が気になってるんだな。

同情なんだろうか?

彼女は、泣いている。

「どうしたの?僕のせい?」
「あなたのせいじゃないわ。いつだって、泣くのは、自分が可哀想だからよ。」

--

翌日も、店を閉めてから、彼女の部屋を訪ねる。気まぐれに寝ただけの女の子のところに二日続けて行くことは、僕にしたらめずらしいことだ。

ルームライトの薄明かりだけがついている。

彼女はいない。

尻尾の曲がった金魚が泳いでいる。金魚は悲しそうに僕を見ている。もしかして、きみが?金魚に聞いてみるけれど、何も答えない。


2001年11月08日(木) 私は、手を伸ばして彼を抱き締めようとするが、彼は、後ずさる。「さわっちゃ駄目だよ。」

夏が終わった浜辺は誰もおらず、私一人が海を眺めている。

砂の少年がやって来て、隣にちょこんと腰をおろした。

「ねえ。」
砂の少年は、話し掛けてくる。

「なによ?」
「なにやってんのさ?」
「海、眺めてるの。」
「海、好きなの?」
「暇だから。」
「向こうとつながってるからでしょう?」
「さあね。そうかも。」
「寒くなったね。もうすぐ陽が落ちる。」
「ええ。うち、来る?」
「うん。」

海が見える場所にある家で、私は夏の間、観光客を泊めたり、アイスクリームをのせたクレープを売ったりして過ごす。夏が終われば、一人になって、暇を持て余した私は海を眺めて過ごす。

「夕飯、食べてく?」
「あ。僕、食事しないんだ。ほら。こんな体。」
「あら。そう。あんたってつまんないわね。」
「それにさ。僕、家に入っちゃっていいのかな。」

確かに。彼が歩いた後は、砂でざらざらしている。

私は、深い溜息をついて、
「いいわよ。後で掃除するから。」
と言う。

私は、一人分の夕飯を作り、砂の少年と向かい合って座って、食べる。

「ねえ。海の向こう。何があるの?何で、毎日眺めてるの?」
「帰って来るかと思ってね。」
「誰が?」
「あのくだらない男がよ。」
「それで待ってるんだ?」
「ええ。帰って来たら、怒ってやろうと思ってね。」
「どんな人なの?」
「だから、くだらない男よ。酒飲むし。酒飲んだら、泣くし。働かないし。うちのお金持ってでちゃうし。ちょっと出てくるって言ったきり、帰って来ないし。そんなだからね。帰ったら思いきり怒ってやろうと思って待ってるのよ。」

私は、食器を片付けると、彼が寝る部屋を用意する。

「僕、ここいていいのかな?」
「ええ。どうせ部屋は余ってるから。」
「汚しちゃうよ。」
「いいのよ。」

--

砂男でも何でもいい。

秋は何て寂しいんだろう。

風が少しずつ冷たくなり、もうすぐ冬が来る。

夜中に、眠れなくなってブランデーで暖を取っていると、彼が来る。

「僕、もうすぐここからいなくなっちゃうんだ。」
「そう?」
「ほら、冬が来るだろう?海から強い風が吹き込んでくる日、僕は、風にさらわれて行ってしまうよ。」
「一杯飲む?」
「僕、飲めないよ。ほら、こんな体だから。」
「あんたって、ほんとつまんないのね。」

私は、自分が泣いているのに気付く。

「来年になったら、帰って来る?」
「多分、もう帰って来ないよ。バラバラになって、どこに行くか分からない。」

私は、手を伸ばして彼を抱き締めようとするが、彼は、後ずさる。

「さわっちゃ駄目だよ。ほら、僕こんな体だろう。あなたの手の中で崩れちゃうよ。」
「まったく。あんたって、ほんとうにほんとうに、つまんない子ね。」

--

翌朝、開け放たれたままの玄関がバタバタと音を立てているので、私は目覚める。

慌てて家の中を捜すが、砂の少年はもうどこにもいない。

冬の訪れを告げる、強い風が浜辺を駆け回っている。

「いなくなっちゃったんだ。」

なんで、いつも失くしたものは、大好きだった気がするんだろう。

私は、強い風の中、浜辺に出る。くだらない男が、また、帰ってくると思って待っていなくちゃ、私はここにいて生きている意味がない。手中に残った砂を握り締めて、「まだ、こぼれちゃいない。」と言い聞かせている。


2001年11月07日(水) だけど、そのまちは、とおすぎて、どうやったって、もどれない

男なら誰でも思うだろう。夢のような、理想の女をこの手で作ってみたいと。細い腰を。弾力のある唇を。従順な眼差しを。時折裏切る無邪気な笑い声を。

私は、仕事のかたわら、夢の女を作るために虚しい努力を続ける。私のそばで、私を称賛の目でうっとりと見つめるやさしい女が欲しかったのだ。私は、魂のこもった人形を作りたかった。嘘でもいいから笑いかけてくれる女が欲しかった。私を否定してズタズタに引き裂いて、終わらない苦しみを与える生身の女などよりずっと。

私の頭はおかしいか?人は、私の行いを愚かだと笑うか?

だが、私は、夢の女を手に入れるだけの頭脳と財力がある。

そうして、出来た。一年がかりで作ったその女に命を吹き込む。さあ、私の名前を呼んでごらん。

「ねえ。あなた、私の愛しい人?」
「ああ。そうだよ。お前は、今日から私のためだけに生きておくれ。」

彼女は、私の肩にしなだれかかって、歌を歌う。低い声で。やさしい声で。私が幼い頃母から歌ってもらっていた子守唄を。


   きのう、みたゆめは、とおい、まちのゆめ

   はなうりむすめは、そのまちを、しって、いる

   だけど、そのまちは、とおすぎて、どうやったって、もどれない


私は、自分の研究成果を彼女に説明する。ある時は、人間が苦痛に思うことを人間に代わって行ってくれるロボットの話。ある時は、人間の心を豊かにする娯楽を提供するロボットの話。

「あなたって天才ね。」
彼女は、うっとりとつぶやく。

「天才なんかじゃないさ。失望するのを怖れない勇気を持っているだけだよ。」
「失望?」
「ああ。失望の連続さ。この仕事はね。結局、いつも彼らは私を裏切るのだ。」
「私は裏切らないわ。」
「ああ。分かっているよ。お前は、私の全てを注いで作った芸術品だ。」

そう言って、彼女の冷たい唇に口づける。

だが、なぜか私はその瞬間、無償に腹が立って、彼女を突き飛ばす。

「きゃっ。」

人間の女性そっくりのおびえた声を上げて、彼女は倒れる。

「お前は嘘吐きだな。」
私は、彼女の美しい顔に。その目に。腹が立ってならない。なぜ、お前は私をあざ笑い、嘘をつき、私を馬鹿にするのだ?

「ねえ。あなた。愛してます。ねえ。抱いて。」
嘘をつくな。嘘をつくな。嘘をつくな。

私は、人形を叩き壊す。

粉々に。かけらも残らぬほど。我が手が痛みでしびれるほど長い時間かけて、彼女の体を叩きのめす。

どうして、嘘をつくのだ。なぜ、私が天才などと?自分一人すら幸せにできぬのに、「多くの人々に貢献した」だのとは、ちゃんちゃらおかしい。私は、他人を幸福にしようなどとは、一度たりとも考えた事はなかった。ただ、自分を幸福にするためだけに今日まで。

--

「なあに?今の音。」

入り口で、妻が私を軽蔑の眼差しで見つめる。

「あら。またやっちゃったの。もう何回目かしら?懲りない男ねぇ。」
彼女は、目を細め、口から煙草の煙を吐き出して、うずくまる私を冷たい目で見下ろす。

たった今叩き壊した人形とそっくりな、その美貌。

だが、何も見ない人形の目とは似ても似つかぬ、ありとあらゆるものを見て来た残酷で空虚な目。

私は、金で彼女を買った。

彼女は、一度も私に興味を持ったことなどない。私が買った時にはとっくに壊れて。歌さえ歌わぬ。


2001年11月06日(火) 目的の場所を探り当てると、彼女の舌が僕を包み込んで、ゆっくりと規則正しく僕の弱点を刺激する。

深夜、僕達は人気のない夜道を、車を走らせる。既婚者同士の束の間のドライブ。もうしゃべり疲れて、無言でいるのも気持ちいい。なんで彼女とだったら、いくらでもおしゃべりできるんだろう。

それでも、ちょっと悲しい気分になって、彼女に話しかけてみる。

「僕達ってさあ。カタツムリみたいだと思わない?」
「なんでー?」
「お互いの家しょってて、だからそのせいで、ずっと一緒に眠ることはできないんだ。」
「ばっかみたい。だったら、家なんか捨ててナメクジになればいいんだわ。」

彼女は、いつも僕のことを「ばっかみたい」と笑い飛ばす。なんだか自分がとんでもなくマヌケな人間に思えてしまうのだけれど、彼女にそうやって笑い飛ばしてもうらと気持ちいい。

「あなたってどうしようもないわね。あたし達のこと、家庭のせいにしないで。」
「ん。ごめん。」
「ねえ。」
「ん?」
「車停めて。」
「ここに?」
「うん。ここでしよう。」
「ここで?」
「うん。今、したい。」

僕は車を停める。

車を出ると、空気がヒヤリと冷たい。

「寒いね。」
「あたし達の熱いハートには、心地いいわね。」
「熱いハート?」
「冗談よ。」

僕は、車のドアに彼女を押し付けて口づける。彼女が僕の首に手を回す。彼女が下半身を僕に押し付けてくるので、僕は体全体が熱くなる。

「ちょっと待って。シワになるから脱ぐわ。」
彼女がスカートを脱いでかかるので、
「寒いよ。」
と、僕。
「いいのよ。」
「誰か見るよ。」
「いいのよ。」

彼女の下着の中は、もう、濡れて僕の指を待ち構えている。

長い時間。熱い息遣い。僕は、彼女の胸元に唇を這わせる。彼女は、僕の前にしゃがんで、僕のズボンのジッパーを下ろす。細い指が、闇の中で妙に白い。目的の場所を探り当てると、彼女の舌が僕を包み込んで、ゆっくりと規則正しく僕の弱点を刺激する。長い長い時間。僕は、彼女の髪を指で梳く。耳たぶが寒さで冷たくなっている。そんなことを考えながら、僕は静かに集中する。意識をそらそうとするのだけれど。もうすぐ行きつく場所は分かっているから。

たまりかねて僕が彼女の中に入ろうとすると。

はい。

ピーッ。

ここで終了。

ほっと溜め息をついて、彼女は僕から体を離す。

「遅くなっちゃったね。帰ろうよ。」
「ああ。」

彼女は、スカートを履き直すと、車の助手席に乗り込む。

繰り返される僕達のゲーム。彼女は、僕が膝に這わせる手を払いのけて窓の外を見る。

彼女とは、いつもここまで。

「全部終わっちゃったら、別のこと考え始めるようになるでしょう?それが嫌なの。ちゃんとイッたかとか、ホテル代はどっちが払うんだとか、これ奥さんが用意した下着なのかしらとか、次に会ったらどのタイミングで抱き合うんだとか。」
初めて、こんな風に抱き合った時、中途半端に放り出されて不満だった僕に、彼女は言った。

--

もうそろそろ、人通りの多い道に出る。彼女は、手櫛で髪を整えている。

「こんな風にいつも放り出されたら、僕だってそのうち我慢できなくて無理矢理しちゃうかもしれないよ。」
と言ってみるが、彼女は相手にしない。

「だって、それであたし達の関係が失うもののほうが、得るものよりずーっと大きいと思わない?」

彼女はきっぱりと言うので、僕はそれっきり何も言えない。

自信満々の彼女に寄っかかって、もうちょっと、このゲームを楽しもうかと思うのだった。


2001年11月05日(月) 口と体は嘘をつく。「可愛いよ。」と、目の前にいて、僕を抱き返してくれる肌に向かって言ってみる。

生クリームを泡立てている僕の傍で、彼女は椅子に座って本を一心不乱にめくっている。今日は彼女の誕生日。僕は彼女のためにケーキを焼く。

プロポーズの言葉は、「きみのために毎日ご飯を作ってあげるよ。」だった。

そんな僕達の結婚。

オーブンから漂う香りが部屋を満たし、僕は彼女に声を掛ける。

「そろそろきみの誕生日パーティが始まるよ。」

--

きみは、本の虫。仕事から帰ったら、コートも脱がずに新しい本の表紙を開く。僕が仕事から帰る頃には、すっかりあたりが暗くなっている事もあって。

「目を悪くするよ。」
と、家の電灯を点けて回ってから、僕は夕飯の支度を始める。

「本、どうしてそんなに好きなの?」
僕は彼女に聞いたことがある。

「そうねえ。なんだかどうしようもなくワクワクするのよ。ページを開いた先には何があるのかしらって思うとね。早く覗かずにはいられないの。」
「これだけ沢山の本があるわけだろう?心ときめく本もあれば、全然つまらない本だってあるじゃない?」
「そうなんだけどね。読んでしまえば、つまらない本もいっぱいあるのだけど。それは読んでからの話でしょう?そこに開かれてないページがある以上、どうしてもその開かれていないページを開きたくていても立ってもいられないの。」

彼女は答えてから、再び本に目を落とす。いつもそうやって会話は終わり、僕は置いてけぼりを食らう。ぼんやりと読書する女を見つめていると、彼女がふいに訊ねる。

「じゃあ、あなたはどうして料理が好きなの?」
「食べる人の心を満たしてあげるため。」
「じゃ、私は、いつも飢えてるからちょうどいいわね。」

--

職場の同僚が会社を辞めて郷里に戻るというので送別会があった。今日ばかりは、妻のために温めればいいだけの食事を用意して、久しぶりにのんびりと外でグラスを傾ける。

「ねえ。このあと、二人でどっか行きません?」
後輩の女の子に声を掛けられて、僕は無意識にうなずいてしまう。

--

「先輩って、いっつも真っ直ぐに帰っちゃいますよね。」
「早く帰らないと、夕飯は僕が作ることになってるからね。」
「ふうん。そうなんだ?いいなあ。奥さん。」
「じゃ、きみも僕みたいな男を見つけるといい。」

僕はただ寂しかったんだろう。気付けば、彼女を腕に抱いていた。

「私、恋人いるんですけど、ちょっと離れてるんです。だから、先輩が好きとか、おうちに迷惑掛けたりとか、そういうんじゃなくて。そういうつもり、ないですから。だから負担とか感じないでくださいね。」
「うん。」

僕は、腕の中にいるこの娘に恋をしていない。誰だっていいのだと思いながら「俺、何やってんだ?」と思いながら、それでも、口と体は嘘をつく。「可愛いよ。」と、目の前にいて、僕を抱き返してくれる肌に向かって言ってみる。

--

そうやって、時折、後輩と仕事帰りに会う事が増えた。そのたびに、僕は妻が飢えないように、夕食を用意して出る。けれど、夕食は手付かずのままテーブルの上で冷えていることが多い。

「電話、あったよ。」

ささいな事で後輩と喧嘩してしばらく会わないことに決めたある日、仕事から帰宅すると、妻が悲しそうな顔をしていた。

「なんて?」
「今夜、待ってるって。あなたを。」
「なんでそんな電話してくるんだろう。」
「最低ね。出てって。」

--

まったく、最低の男は二晩ほど家を空けて、そうして妻の食事が気掛かりで帰宅する。

彼女は相変わらず飢えて、僕を見るなり、
「一人はいや。」
と。
「一人で食べるご飯は最悪。」
と。

僕は、冷蔵庫を開けて、卵と生クリームの賞味期限を確かめる。

「忘れるところだった。今日、きみの誕生日だったね。」
「私も忘れてたわ。」

それから、僕は彼女にボウルを渡す。

「教えるから、自分で泡立ててごらん。」

彼女は不器用に手を動かすがうまくいかない。

「なんて言うのかしら。こういうのって、電動でびゃーっと混ぜてくれるやつがあるんじゃない?」
「手で泡立てたほうが、キメが細かくてやさしいクリームができるんだよ。」

それから、一緒にケーキを焼く。

「すごいのね。なんか、あなたカッコイイわ。」
「今ごろ気付いた?」
「うん。」
彼女は笑う。

悪かったのは、僕。彼女に惚れられる男になる努力を怠っていた。それなのに寂しいと伝えることもせず、寂しいのは全部きみのせいにして。

だから、きみも、たまには本を置いて。本でなく生きている人間に。僕に恋をしておくれ。


2001年11月04日(日) その顔を両手で包み、今まさに口づけようとしたところで、僕は目が覚める。

「眠れるおまじない、してあげましょうか?」

その、奇妙な白黒のTシャツを着て黒い帽子をかぶった男に言われて、僕は半信半疑でうなずく。

帰りの通勤電車の中で疲れてウトウトしていた僕に突然話しかけてきた男。

「あんた、何者?」
「私ですか?私はね。カウンセラーですよ。眠れない人のためのね。」
「何で僕が不眠症だって分かる?」
「そりゃ分かりますよ。目の下の隈。だるそうな体の動き。長年、そういう人を相手に商売してきたんだから。」
「なるほど。」
「じゃ、いいですか?おまじない。」

彼は、僕の耳元で何やら呪文のようなものをささやく。

「これで今日からぐっすり眠れますから。」

--

あの奇妙な男が言った通り。僕は布団に入った途端、眠れるようになった。驚きだ。あの男を見つけたら、感謝の言葉の一つも言いたいのだが、一体どこに行けば会えるのやら。

--

それからというもの、ぐっすり眠った満足感で僕は元気に仕事を、と言いたいのだが、相変わらず体の疲れは取れない。しょうがないから、ますます早く床に着くようになった。

毎晩、夢を見るのだ。

それも、長くてリアルな夢を。

一晩中、夢を見る。

例えば、こんな夢。僕は勇者で、ドラゴンを倒し、美しい姫を助ける。ああ。笑わないでくれ。姫は、僕に感謝し、僕の胸に体を預けてくる。その顔を両手で包み、今まさに口づけようとしたところで、僕は目が覚める。それが夢というものだ。

それにしても、あの姫は素敵だった。もう一回、彼女が出てくる夢を見てみたいな。

--

どうにも体がだるくてしょうがないので、医者に相談に行く。

「過労ですね。もっと休息を取るようにしてください。」
「なんですって?最近じゃ、一日十時間は寝るようにしてるっていうのに。」
「だが、あなたの話を聞いていると、過労としか思えないですよ。検査入院しますか?」

どうなってるんだ。

眠っても眠っても、僕の体は疲労して行く。

--

夢の中で、そいつを見つける。その男を。

「おい。一体どういう事だよ?」
「ああ。すみません。手を離してくれませんかね。」
「だが、お前に眠るまじないをしてもらってから、前よりずっと疲労が激しくなってるんだ。」
「あなたは、いい夢を見ますからねえ。こちらの予想以上です。」
「何言ってるんだよ?とにかく、元に戻してくれ。」
「しょうがないですね。また眠れない日々に逆戻りですよ?」

彼は、僕に以前唱えた呪文を、逆さに言う。

夢はそこで終わった。

早朝、まだ、眠っていられる時間なのに、僕はもう眠れない。

--

眠れない日々は、再び始まり、僕は通勤電車に揺られて居眠りをする。今日は、そんな僕に寄りかかって眠る女性がいた。疲れているのかな。と顔を覗きこむ。

姫!

夢の中の姫だ。僕は、慌てて彼女を揺すぶって起こす。彼女も僕に気付いて、驚いて叫ぶ。

「あなた、あの夢の!」

それから、僕達は夢の話を。あの不思議な男の話を。更に再び始まった不眠症の話を。

--

僕達は、あの男に感謝しなければならないのかもしれない。今手元にある幸福は、あの男のお陰。それさえも、僕達の妄想、ただの夢かもしれない曖昧さ。

付け加えておくならば、愛しい人が傍にいれば、二人共、夜はぐっすり眠れるということ。


2001年11月02日(金) ああ。分かってる。お前は人形だから死なないことも。だが、一緒にいたいのだ。

「おじいちゃま、ほら。新しい話し相手よ。」
その少年の人形は、老人の部屋に連れて来られた。老人は、チラリと見ると、すぐに顔をそむける。

「おじいちゃまも、一人で部屋にいたらつまらないでしょう?このお人形はね。マリア様のお相手をしていたんですよ。おじいちゃまの大好きだったマリア様の。」
「人形と話したってつまらん。マリアを連れて来い。」

人形を連れて来た女は、うんざりした顔で、返事もせずに老人の部屋に人形を置き去りにして立ち去った。

「ふん。お前も、もう、随分な旧式でスクラップ寸前か。わしもお前もポンコツ同士ってわけだ。悪いが、わしは人形は嫌いだ。愛想笑いの一つもできない。」

人形は、ただ黙って、老人のそばの椅子に腰掛けている。

--

もう11月だというのに、陽射しが暖かい。

「明日は、わしとマリアの誕生日だ。」
「はい。存じ上げております。」
「マリアは、どうして来ないのかね。」
「マリア様は、もうじきご出産ですので。」
「ああ。知っておる。だが、マリアに、もう随分長いこと会っていない。」
「そうですね。マリア様と最後にお会いになってから、19年と10ヶ月が経ちます。」
「あの日も、こんな日よりだったな。マリアとわしが一緒に過ごした、最後の誕生日。」
「ええ。あの日の天気は晴れ。風もまったくありませんでした。」
「そうだ。わしはようく覚えておる。みんな、わしのことをボケてしまったと思っているだろうが。」

老人は、水差しから水を一口飲む。

「あの日のこと。お前の目からみたあの日の記憶を語ってくれないか。」
「かしこまりました。あの日は、晴れていて、マリア様は、外でパーティをしようとおっしゃいました。」
「そうだ。あれは、いつもそうやって面白いことを思いつく天才だったよ。」
「おじいちゃんの横に座ると言って聞きませんでした。」
「そうだ。あの娘は、いつもわしにそうやって気遣いを見せてくれた。」
「ケーキは、季節の果物が焼きこんであって。」
「ああ。よく覚えている。あれも、マリアがクリームを用意したのだ。自分も手伝うと、他の者に駄々をこねてな。」
「ロウソクは8本。」
「そうだ。マリアは8歳になったんだ。あんなに小さかったのに。」
「ロウソクを吹き消す時、マリア様は、そっと神様に祈りました。」
「ああ。だが、誰にも、何を願ったかは言わなかった。」
「生まれ変わったら、おじいちゃまのお嫁さんにしてください。それがマリア様の願いでした。」
「ほほ。だが、嘘だろう。マリアは、あの時、誰にも内緒と言っていたよ。」
「私にだけ、小さな声で教えてくれました。おじいちゃまは、素敵だ、と。たくさんの物語を知っていて、私に教えてくれる、と。他の人みたいに大きな声でしゃべらないで、いつも私のおしゃべりをいっぱい聞いてくれる、と。」
「マリアがそんなことを?」
「はい。」
「老人を嬉しがらせるような嘘を言ってくれるでないぞ。」
「人形は嘘を付きません。」
「ああ。そうだったな。そうだ。お前は嘘がつけないのだな。」

老人は、しゃがれた声で笑う。老人らしいいつも涙で湿った目をしきりにしばたいている。

「なあ。マリアの秘密を知っているお前に、私の秘密も聞いてもらえるかな?」
「はい。」
「誰にも言わないでいたが、わしは、随分と長いこと孤独で気が狂いそうだった。家の者がここに閉じ込めたまま一歩も外に出してくれなかったでな。」
「はい。」
「だから、頼む。わしは、もう長くない。だから、わしが死ぬ時、お前も一緒に。一緒に死んで欲しいのだ。」
「死ぬ?」
「ああ。分かってる。お前は人形だから死なないことも。だが、一緒にいたいのだ。マリアの思い出を誰よりも正確に語ってくれるお前と。」
「分かりました。」

老人は、しわだらけの手で人形の手を握る。

--

ある朝、老人は静かに息を引き取る。人形は、老人が息を引き取る瞬間、自らの生命回路をオフにしていく。

老人の朝食を取らない習慣のせいで、昼になるまで誰も部屋に入って来なかった。

「あら。おじいちゃま。まさか?ねえ。ちょっと。大変だわ。」

バタバタと足音が屋敷に響く。
そのうち、ざわざわと人がやってくる。

「まったく、役に立たない人形ね。おじいちゃまが死んだことも知らせないで。」


2001年11月01日(木) 「もう一回しようか?」と、彼が甘えたように言う。私は、好色そうに笑って見せて、彼の股間に手を伸ばす。

「醤油。」
という夫の声に、慌てて醤油さしを渡す。

あ。

と、心の中で小さく声を上げる。

指輪。戻すの忘れてた。指輪を外した跡が妙にくっきりとしていて、嫌でも目立つ。心臓がドキドキと激しく音を立てるけれど、結局夫は気付かず食事を続けているのでホッとした。

恋人が、昨日の晩。
「今度からこんなものしてくるなよ。」
と、咥え煙草で、私の指から抜き取って灰皿の横に置いたのを覚えている。

ベッドでの煙草はいや。と思いながら、それを眺めていた。

--

夜は、いつも夢をよく見る。

小さなウサギ。多分、夢の中では、そのウサギが私。必死で走っているのだけれど、誰かの手がひょいと伸びて私の柔らかい首根っこを掴む。私の足は、短くて遅い。どこまで逃げても、すぐに追いつかれてしまう。

--

「俺の事、好き?」
と、恋人が私の上で、私をじっと見下ろしながら訊ねる。

私は答えずに、彼の腕を強く掴む。目をそらしたまま、快楽に集中しているふりをする。ちょっと前は違っていた。「好き、好き、好き」と熱に浮かされたように答えていた。

言わない私が、恋人を不安にさせる。

「なあ、俺のこと、好き?」
「うん。」

あんまり不安そうに訊ねるので、仕方なく小さく答えて。後は彼の唇をふさいで会話を終わりにする。

ねえ。

「好き」っていうのと、「セックスしたい」っていうのは、同じことなんですか?「好き」に「セックスしたい」が含まれるんですか?それとも「セックスしたい」に「好き」が含まれるんですか?どっちの言葉も、口にする時、空々しいものを感じるようになったら、それは何かが終わったということですか?それとも少しはまともに、その関係を思考することができるようになったということですか?

彼は、汗ばんだ胸に私を抱いて、煙草をふかしている。

煙草は嫌い。

そんな言えない言葉が、だんだん引っかかるようになる。

彼は、不安から、更に私を求める。私はずるさからそれに応える。

「もう一回しようか?」と、彼が甘えたように言う。私は、好色そうに笑って見せて、彼の股間に手を伸ばす。

--

「ねえ。こないだの。」
「ん?」
「友達と旅行に行くっていう話。」
「ああ。行ってきたらいい。どうせ、僕は出張でいない時だし。」
「誰と行くか、言ったっけ?」
「僕の知らない名前だろう。いいよ。聞いても忘れるしね。気をつけて行っておいで。」

夫は、もう、長いこと私の手を握りしめたりしない。口づけをしたりしない。ゆったりとしたおもいやり深い言葉は、落ち着いているけれども、私達の関係を揺さぶったりしない。

嘘を言うのは、随分と体力が要る。そんなことに、急に気付く。私にはもう、そんな体力はないのだわと、思った。

--

夢を見る。

ウサギは、あっという間に捕まる。細い首に片手で少し力を入れたら、キュッと音を立てて。その小さな命はいとも簡単に終わってしまう。逃げるのも私。捕まえるのも私。狭い箱に閉じ込めて、ニンジンの破片を入れる。

私は、カサカサという音に安心して、そのウサギの箱をほったらかしにして、部屋を出る。

私は、暗闇に閉じ込められたまま、どちらに逃げたかったのかと夢想しながら、ニンジンを齧る。

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あなたが悪いのよ。最初から「好き」なんて言わないでくれたら、ずっと続けていられたのに。「好きじゃない」って言ってくれたら、あなたの心が欲しくて身悶えしていたことでしょう。

「ねえ。もう、終わりにしましょう。」
恋人に電話で告げて、私は、声が湿った鼻声にならないうちに電話を切る。

一晩中何度も何度も、サイレンスモードにした携帯電話のディスプレイが光り続ける。私はそれを眺めながら、旅行の件、誰を誘おうかしら、と考えている。

--

明け方ウトウトした私は、最後のウサギの夢を見る。

ウサギは、しばらく足をばたばたさせてから動かなくなる。

箱の中で眠るように死んでいるウサギを、土に埋めて。

帰る場所がある者はいつだってずるいんだよ。と、土の中のウサギに向かって言うのでした。


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