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セクサロイドは眠らない

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2001年12月31日(月) どうしてこんなに寂しいのだろう。どうして、誰かがずっとそばについていてくれないと、私はこんなにも駄目なんだろう。

雨がとりわけ、好き、というわけではない。

ただ、雨が降ると、庭に出て空を見上げてしまう。

なんとなく。

--

今の夫に初めて会ったのが、雨の日だったから、かな。初めての海外旅行で、友達とはぐれて、泣き出しそうな気分になった、その日。「どうなさったんですか?」と、話し掛けてきてくれた男性の前で、私はとうとう涙が止まらなくなり、それから、私達は結婚した。その土地の雨は、霧のように街全体を包み、景色そのものもぼんやりとしたものにしてしまう雨だった。

日本の雨は、もっと輪郭がくっきりとしていて、何もかもを洗い流そうと降り続ける。

夫は、海外赴任で日本を離れたきり。

電話が鳴る。

「ママ、電話だよ。」
息子が、呼ぶ。

夫からだわ。

急いで受話器を取る。

「え?お正月、帰って来られないの?」
私の弾んだ声は、落胆に変わる。

「忙しいんだ。」
と、申し訳なさそうに答える夫の声に、私は恨み言を言おうとして飲みこむ。

「うん。頑張ってね。こっちは大丈夫。」
なんとか、言い終えて電話を切ると、喉につかえていた固まりがせり上がって来て、私は、泣き出してしまう。

「ママ、どうしたの?」
5歳になる息子が、心配そうに私の顔を覗きこむ。

「うん。大丈夫よ。大丈夫。」
息子を抱き締めながら、私は、どうしてこんなに寂しいのだろう、と、涙が止まらなくなる。どうして、誰かがずっとそばについていてくれないと、私はこんなにも駄目なんだろう。

--

雨は、止まない。

その時、庭の牡丹の木の根元にある水溜りが、ふいに揺れた。

見ていると、その水溜りから、水の柱が立ち昇り男の姿になった。映画のCGのように、きらめく水からできたその体は、つかみどころなくうごめいていて、私は、息を飲んでそこを動けなかった。

「誰・・・?」
「僕?僕は。さあ。あなたが呼んだから。」

男は、顔が刻々と変わるので、表情すら分からないが、微笑んでいるように見えた。

「今、呼んだでしょう?」
男が問いかけると、確かに、私は声に出して誰かを呼んだかもしれないという気持ちになった。

「ええ。きっと。多分、そうだわ。」
「じゃあ、呼んだんだ。で?何の話をしようか。」
「急に言われても。」
「友達が欲しかったんでしょう?」
私は、うなずく。

「僕、友達になれるかな?」
「どうかしら。」
「なんで泣いてたの?」
「私、泣いてた?そうね。きっと泣いてたわ。私泣き虫なの。変でしょう。子供と二人でしっかりして、夫を待ってなきゃいけないのに。」
「変じゃないよ。」
「どうしてこんなに泣いてばっかりなんだろう。ほら、今も。あなたが、私のこと、聞いてくれたでしょう。そうしたら、涙が出ちゃうのよね。」
「あなたの心が見えるよ。振り子みたいに、ゆらゆらして、そこに何かが触れるたびに、泣きたくなるんだね。」
「変だわ。とっても。」
「そんなこと、ないさ。涙はきれいだ。水は、きれいなんだよ。そうして、いろんなものを洗い流して行く。僕は、涙が大好きだ。」

家の中から声が聞こえる。
「ママ?ママ?」

「ごめんなさい。息子が呼んでるから、行くわ。ねえ。また会える?」
「そうだね。また、雨の日に。」

--

私は、雨を待ち望む。

雨が降れば、水の男が出て来て、私の話し相手をしてくれる。

そんな日は、何時間も何時間も。

--

「ママ、誰とおしゃべりしてたの?」
「水溜まりから出てくる、不思議なおじさんよ。今度、会ってみる?」
「僕、怖い。」
「怖くないの。とっても優しいのよ。」

怖いよ。ぼく。ママ、庭で一人でしゃべってたもの。ママ、って呼んでも、気付かないで、いつまでもしゃべってたもの。だけど、ママの幸せそうな顔を見ていると、怖いなんて言えないんだよ。

--

大晦日の夜、電話が掛かる。

夫からだ。

「そっちはどう?」
にぎやかな嬌声が、電話口の向こうから聞こえる。

「こっちはみんな元気よ。あなた、楽しそうね。」
「ああ。パーティの最中なんだ。年が明けて、しばらくしたら落ち着くから、そうしたら日本に帰るよ。」
「ええ。大丈夫よ。」

私は、電話を切る。

不思議だけれど、もう、あまり寂しくない。どうしてかしら。

私は、夜の庭に降り立つ。

彼が出てくる。やさしく笑う。

「最近、泣かないね。」
と、笑いかけてくる。

「ええ。あなたがいるから。」
と、私も微笑む。

雨は雪に変わる。

--

翌朝、
「ママ、ママ、雪だよ。」
と、息子の声。

「なあに。」
私は、ダウンジャケットを羽織ると、外に出る。水溜りには、氷が張っている。

私は、水溜りの氷を、手でなぞる。

「ママ。」
「ん?」
「そんなのさ。こうしちゃえよ。」

息子の小さな足が、氷を踏み砕く。

「やめなさいっ。」
「ねえ。ママ。僕を見てよ。ちゃんと見てよ。お外でさあ。独り言言うのやめてさあ。ちゃんと僕を見ててよ。僕、待ってたんだから。ママが泣かなくなるのを、ずっと待ってたんだから。」

小さな足が、泥を跳ね飛ばす。

私は、手で口を覆ったまま、その光景を見つめている。


2001年12月30日(日) 「ねえ。再会ってねえ。不思議だと思わない?前よりずっと親しくなれる気がするのよね。どうしてかな。」

一週間の出張で、僕は、その小さな街を訪れる。

風が強く吹く街で、僕はコートの襟を立て、肩をすくめる。

すっと、僕のそばに止まった真っ赤なベンツの運転席のウィンドウが下りて、髪の長い女性が声を掛けて来た。

「・・・くん?」
「そうだけど。」
「久しぶりね。」
「誰かと思ったよ。」

美しく手入れされた髪が揺れる。大学時代の後輩の女の子だ。

「乗ってかない?」
「ああ。いいの?」
「ええ。」

僕は、暖かい車内で、息をつく。

「ひどい車でしょう?主人が選んだのよ。」
「結婚、したの?」
「うん。昨年ね。医者なのよ。随分と年上の。」
「そう。おめでとう。」
「ホテル、どこ?送って行くわ。」

彼女の運転技術は、女性にしてはなかなか大したものだった。

--

大学時代、彼女は僕の憧れの女性だった。実を言えば、コンパの帰り道、彼女と僕は、ほとんど恋人同士になれるという確信を持って、僕は彼女の肩を抱き寄せ、口づけた。

だが、「ごめんね。」と、彼女は、目をそらし、体をこわばらせた。

先月、サークルの先輩に告白されて付き合い始めたの、と、うつむいたまま説明する彼女を、僕は、そっと、力を入れないように抱き締めると、
「気にしないでいいよ。」
と、笑って、それからは無言で歩いて、彼女を部屋まで送り届けた。

--

タイミング、悪いよなあ。

僕は、そんなことを考えながら、ホテルのカフェで彼女と向かい合って座り、コーヒーを口にする。

「ねえ。いつまで、ここに?」
「一週間。仕事でね。」
「夜、ここに来てもいいかしら?」
彼女の目が艶っぽく光る。

僕は、黙ってうなずく。

そう。今なら分かる。あれから随分と大人になったからね。幸せな結婚。安定した生活。それらが手に入った後の退屈を埋める出来事を探している、美しい人妻の気持ちが。

--

「夜、家空けてていいの?」
「いいのよ。主人は、いつも遅いの。それより、ねえ。あなたはどうして、結婚しないの?」
「さあ。どうしてかなあ。いつもタイミングが悪い。遅刻する。今日だって。あの日だって。」
「それ、私のこと?」
「ああ。」
「ねえ。再会ってねえ。不思議だと思わない?前よりずっと親しくなれる気がするのよね。どうしてかな。」

ほんとうだ。どうしてだろう。

終わったと思っていた気持ちが、続いていたことに気付くのも、再会。

僕の腕の中で、彼女は、激しく喘ぐ。

「こんな表情をするなんて知らなかったな。」
「あなただからよ。あなたが私をこんな風にしちゃうのよ。」

暖かく庇護される事に慣れている女は、自分がそんなに乱れるほどに退屈していたことに気付いていない。

--

それから、毎夜。

失っていた歳月を埋めるように、僕達は抱き合う。

再会した者同士には、語る事がたくさんある。あの頃のこと。会わないでいた日々のこと。今、大人になって気付いた、たくさんのこと。

--

あっという間に、その日は来る。

「ねえ。本当に行っちゃうの?」
「ああ。」
「私は、どうなるの?この街に置き去り?」
「きみは、ここで幸せなんだろう?」
「いいえ。いいえ。今の結婚は全然幸せじゃなかったの。あなたに会って、分かったのよ。」

彼女は泣き出す。
「私のこと、愛してないの?この一週間、遊びだったの?」

僕は、黙って荷造りをする。

「きみと過ごせて、楽しかったよ。」

すすり泣く彼女を後にして、僕は部屋を出る。

最後のカードは、見せないままで。

いつか再会できる時まで、僕は、また、恋心を胸の奥に仕舞いこむ。

きみを連れて逃げ出すには、きみの赤いベンツは、この街であんまり目立ち過ぎだから。


2001年12月29日(土) 波が無言で打ち寄せる。そうして、その声は、深い深い、暗い暗い場所から聞こえてくる。

朝、起きて一番に息子のところに行く。

昨晩はどうだったのだろう?

「起きられる?」
「うん。」

ふらふらと起き上がった息子のベッドの、血がついたシーツを剥ぎ取る。

アトピー性皮膚炎の息子は、小学生になってからますます症状がひどくなった。かゆみを抑える薬はどうも寝覚めが悪いので、あまり使いたくない。だが、夜中に何度も目覚めて血がでるまで皮膚をかきむしるせいで、息子は疲れ易く、いつも生気に欠ける顔をしている。

「さ、朝ご飯、食べてしまいなさい。」
「うん。」

息子の憂鬱な顔。彼ははっきりは言わないけれど、アトピーのことでいろいろ友人にからかわれているようなのだ。このまま冬休みに入ったら、また、新学期には「学校なんか行きたくない。」とごねるだろう。どうすればいいのかしら。

「いってらっしゃい。」
なるべく、明るい顔で送り出す。

私が作った除去食の弁当を持ち、無言で出て行く息子。

--

その病院を、そっと近所の奥さんから耳打ちされ、私はその言葉に飛びつく。ありとあらゆる病院に行った。高麗人参だって、紫蘇エキスだって試した。体の気を強める術を施す病院にも行った。お金ばかりがかかるが、一向に体の具合に変化はない。それどころか、少しずつ悪化しているようにも思える。

それでも、息子のためなら、どこにだって行く。なんだってする。

私は、新しく教わった病院の場所をメモに取り、息子が学校から帰るのを待って、早速その病院に向かった。

海に近い場所にある、マリンブルーの壁のその病院は、私達をそっけなく出迎えた。

--

「なるほど。」
その、のっぺりした顔の無表情な目の医師は、息子の顔をじっと眺める。

「じゃ、息子さんは、あちらで皮膚の状態を調べますからね。看護婦に付いて行ってください。おかあさんは、私と話をしましょう。」
「あの。で、どうなんですか?」
「まあ、そう、せっかちにならず。」
「ここは、その、どういった治療をするのでしょう?」
「そう厳しい治療は行いません。家に帰ったら、お薬を体に塗っていただくだけでいいですよ。」
「それだけですか?」
「できたら、海水療法と言ってですね。ここから近い場所に、冬でも海水に浸かれる設備があるので、そこに通っていただくと効果的です。毎日、バスが巡回してますから、送迎も不要ですし。」

私の不安そうな顔を見て、医師は、言う。
「大丈夫ですよ。」

それは、深い深いところから聞こえてくる声だった。

--

その翌日、息子は、朝まで目が覚めずにぐっすり眠れたと言う。

「そう?じゃ、あの病院でもらったお薬が良かったのね。」
少し表情が明るい息子を見て、私も、泣き出しそうに嬉しい。

「ねえ。ママ。今日、あの病院に泳ぎに行っていいかなあ。」
「今日?」
「うん。毎日やってるんだって。」
「そうねえ。今日は、塾でしょう?明日ならいいわ。」
「塾行かなきゃ駄目?」
「ええ。あなた、ちょっと、お勉強遅れてるでしょう?」
「分かったよ。じゃ、明日は泳ぎに行かせてね。」

--

その病院の、海水療法とやらを受けると、息子は、みるみるうちに良くなった。顔の赤味が消え、引っかき傷も減った。

「ねえ。リョウちゃん。」
「なに?」
「随分と良くなったから、そろそろ病院に泳ぎに行くのやめて、お勉強に力入れないと。」
「ええ。やだーっ。」
息子は、拗ねて膨れっ面をする。

「だめよ。冬休みは、塾の講座を受けなくちゃ。」

--

なぜだろう。急に、夜、悪化した。

ひーひー、と、かゆがって泣く息子を車に乗せて、慌てて病院まで運転する。

深夜、例の医師は、私と息子を、その感情のない目で見つめた。

「これはいけない。入院の手続きをしましょう。」
「なぜ、急に?」
「息子さんは、付いて行けないんですよ。進化にね。」
「進化?」
「おかあさんは、お引取りください。専門家が集中治療しますから。」
「でも。着替えを。」
「要りません。」

私は、病院から追い返される。

まんじりともしないまま、夜が更けて行く。

そう言えば、息子がいない夜を過ごすのは初めてだ。不安で眠れない。私は、一日を全部、息子のために使って来た。朝、起きて一番に給食を食べることができない息子のために弁当を作り、息子を送り出した後は、有機野菜などを使って、夕飯の支度をする。おやつも全て手作りで。そのおやつを食べさせた後、勉強の遅れを取り戻すために、塾まで連れて行く。その繰り返しだった。

今夜ばかりは息子がいないベッドがひんやりとそこにあるだけ。

--

翌朝、慌てて病院に駆けつけるが、そこには病院はない。

ただ、海が広がっている。

「リョウちゃん?」

波が無言で打ち寄せる。

「どこ行っちゃったの?」

建物があった痕跡すら、どこにもない。

全ての生き物は海から生まれたんですよ。だから、陸に上がれない者は海に帰ればいいんです。

その声は、深い深い、暗い暗い場所から聞こえてくる。

海で安らぐ者達の小さな嬌声も聞こえてくる。


2001年12月28日(金) 「愛とか、よくわからない。誰かに誉めてもらいたくてセックスするのなんて随分と技巧的な気がするの。」

決めた理由?そうね。電話の声の感じが良かったから。

それだけ?

ええ。それだけ。

誰かに聞かれたらそう答えようと小さな言い訳をしながら、私は、男との待ち合わせの場所に向かう。

外見が気に入らなかったら?

どうしようかしら。あの男の声、魅惑的だったわ。寝ないにしても、話くらいしたい。あの雰囲気からして、無理は言わないわ。

どうかしら?

ええ。分かってる。簡単に信じるな、でしょう?でも、あの声・・・。

--

電話で待ち合わせたとおり、男は、ファミリーレストランの駐車場で赤い野球キャップをかぶり煙草をふかしていた。私を見ると、にっこりと笑った。

「電話の人?」
「ええ。」
「じゃ、行こう。」

話は早い。簡単に言えば、やりたい男女が出会える場所に電話をかけたというわけ。

男は、声の通り、感じが良かった。清潔な服装。清潔な車内。

「こういうの初めて?」
「いや。二回目かな。」
「で?うまくいくもの?」
「前はうまくいったけどね。」
「電話だけでどうやって決めたの?」
「あんたはどうやって決めた?」
「声。」
「じゃ、俺もだ。」

あらかじめ決めてあったのだろうか。車は、迷うことなくホテルの駐車場に入った。

「俺でいいのか?」
その時、初めて男も不安がっていることに気付く。そっけなさは、不安の裏返し。
「いいよ。最初から決めてたもの。」

男は、車から降りる前に、私を引き寄せて、少し荒っぽい口づけをする。

「行こう。」
「ん。」

--

私は、どれくらいの時間、そうやっていただろう。その行為に集中していて、時間の感覚も分からなくなっていた。口と舌で。長い時間。男が、髪の中に手を入れてかき回すのを感じた。もういいよ、と、私を引き寄せようとするのに抗って、私は男のものをいつまでも口で転がす。

頭の中が真っ白になった頃に、口の中ににがいものが広がる。

男が頭上で、長い息を吐いている。

「最初は一緒にイこうと思ったのに、ひどいな。」
男は笑って、私の頭の下に腕を回してくれる。

「ねえ。どうだった?」
「良かったさ。ものすごくな。」
「どんな風に?」
「そうだなあ。お前の口の中は、青空だ。俺のものは、さしずめ、その中をどこまでも飛ぶ飛行機みたいな感じだった。」
「詩人なのね。」
「そうかな。」

それから、男は、煙草を一本取り出す。

「待ってろよ。今度は、お前を飛行機に乗せてやるから。」
「あなたって、変。」
私は、なんだかおかしくて笑ってしまう。

彼は、私に口づけてくれる。
「なんか、感動したよ。」
「なにが?」
「なんで、この女はこんなに一生懸命なんだろうなって。」
「なんでと思う?」
「さあ。」
「あのね。誉めて欲しかったの。いい子だって。」
「そうか。お前、可愛いやつだな。」

男は、だからと言って、わざとらしく私を抱き締めたりせず、目をつぶったまま、楽しそうにしている。

「恋人、いるんだろう?」
「いないわ。あなたこそ、奥さんいるんでしょう?」
「ああ。」
「なんで浮気するの?」
「一人じゃ足らなくなるんだよ。」
男は、一口煙草を吸って、また灰皿に置く。

「あんたこそ、なんで知らない男と?」
「なんでかな。もう、ずっとこんな感じ。好きとか、嫌いとか、愛とか、恋とか、そんなんじゃなくて、男の人と寝るの。そうやって、知らない人と寝ると、すごく気が楽になるの。そうやって、誰かにちょっとだけ幸せな顔してもらうとホッとして。そうやって、私は、また少し生きられるの。」
「分かるよ。」

私は、伸ばした爪で、彼の乳首を軽く引っ掻く。

「愛とか、よくわからない。誰かに誉めてもらいたくてセックスするのなんて随分と技巧的な気がするの。」
「結婚だって、そうさ。結婚の継続なんて、結局は技巧的なものだ。」

私は、男が気に入った。

明日のことなど、間違っても口にしようとしない男のことが。

「少しばかりの幸せがあれば人間は生きられるってことさ。」

私は、ちょっと泣きそうになる。その男の前で、なぜか私は自分が迷子の子供みたいに思えたから。

大丈夫だよ。あんたは壊れちゃいない。

男の声と腕枕で、眠りに就く。


2001年12月27日(木) 人は、猿から進化する過程で、何のために嘘を覚えたのかしらね。それは進化にとって必要なことだったのかしら?

仕事に行く途中、奇妙なものを見つけた。

何か、生き物だ。私は近付いて、それをよく見た。

人魚だった。

小さな、30cmくらいの体のそれは、尻尾が川に突き出した木の枝に引っ掛かって、動けなくなってぐったりしている。

慌てて川から引き上げると、マンションのバスルームに運び込む。

職場には、休む、と電話をした。

昨年までアロワナを飼っていた120cmの水槽で大丈夫だろうか。と、頭の中で忙しく考える。

--

人魚は、美しかった。顔は、精巧にできていて、まるで陶器の人形のようだった。小さな手にはヒレがついていて、腰をなまめかしく動かして、ゆっくりと水槽の中を泳ぎ回る。

餌は何を食べるのだろう?

市販の餌をいろいろやってみるが、食べない。活き餌でないと駄目なのだろうか、と、金魚を入れてみる。人魚は、素早く金魚を掴み、口に持っていく。その瞬間、きらりと歯が光る。これから少し餌に苦労するかもな、と思いながら、私はそのグロテスクな生き物に見惚れる。

--

その気配は、どことなく分かるものなのだ。例えば、「仕事で忙しいから、電話して来ても出られないよ。」とあらかじめ言い渡されるとか、たまに時間が取れたからと会いに来てくれても、携帯電話をチラチラと気にしていたりとか。

仕方なく、気付かないふりをする。無理矢理、物分りのいい女になる。

「ごめん。今、大きいプロジェクトが起ち上がろうとしてんだ。」
と、申し訳なさそうな顔をされて、
「いいのよ。」
と笑顔で答えながら、嘘吐き、と心でつぶやく。

男は、大袈裟に甘えてみせる。

「お前と一晩中こうやっていたいなあ。」
と、私の膝枕で、目を閉じている。

だけど、12時が来たら、帰るのね。

ねえ。

人は、猿から進化する過程で、何のために嘘を覚えたのかしらね。それは進化にとって必要なことだったのかしら?

彼に上着を渡しながら、そんなつまらないことを考える。

--

「ねえ。人魚でも嘘をつくの?」
人魚は答えない。

ただ、黙って水槽の中を泳ぎ回っている。

よく見ると、それは醜い。気持ち悪い。人間そっくりな上半身が、想像を越えて見る者を不安にさせる。私は、その異形の生き物をいじめたくなってどうしようもない。その小さな肢体は、一握りでつぶせるだろう。私は、尻尾を掴もうと水に手を入れる。思った以上に素早く動くその生き物は、私の手をすり抜けて、私の小指に噛みついて来た。

いたっ。

水の中に、血が広がる。

小指を口に含みながら、私は、その生き物をにらむ。水槽の中から、人魚が見ている。私達は残酷な視線を交わす。

--

彼の部屋を訪れてみようと思ったのは、些細な思いつきだった。

以前は、そうやって彼の部屋を訪ねることが多かった。そうして、眠いっている彼が起きないように、コーヒーを煎れ、ベッドまで運ぶのが習慣だった。

だから、日曜の午前。

持っていたスペアキーで彼の部屋の鍵を開ける。

そこには、女性物の靴。

「誰よ。」
彼のトレーナーを羽織った、髪の長い女は、私を挑むように見つめる。

私は慌てて逃げ出す。

--

「ねえ。なんで私が逃げなくちゃいけなかったのかしらね。」

人魚に話しかけようと、水槽をのぞく。

よく見ると、その人魚は、さっきのあの女にそっくりだった。

笑っている。

人魚は笑っている。

恐怖と怒りで、私は水槽に向かって、そばにあった椅子を振り上げる。

ガシャンッ。

と大きな音を立てて、水槽の破片が飛び散り、人魚は床に叩きつけらる。苦しそうにビチビチともがいている。

私は、黙って人魚が死に行く様を眺める。

なんてぶざまな。

目からも鼻からも血を流すその醜い生き物は、よくみれば私そっくりの顔をしていた。

伝説の人魚は、妄想を食べて、その姿をさまざまに変える。


2001年12月26日(水) 私は、随分と多くのものを差し出して。その、最後かもしれない恋を守ろうと努力したけれど。

それは気付かないうちに始まった。

私は、写真の専門学校で「先生」と呼ばれ、彼は、そこの生徒だった。

校内のクリスマス・ツリーの飾り付けを外していると、彼が背後から手を伸ばして手伝ってくれたのだ。

「あら。ありがとう。」
「手伝うよ。僕のほうがずっと手が届く範囲が広い。」
「助かるわ。」

彼は、とりわけ目立つ生徒でもなく、むしろ、教室内では静かな印象だった。

「もう、今年も終わりねえ。」
私は、彼に作業を任せて、窓の外を見る。雪が舞い始めている。

--

そうやって、何気なく、物事というのは始まって、いつのまにか生活の中にどんどんと根を張るのだ。

私は、家族に、「撮影に行くの。」と嘘をついて、休日に出掛け、彼が待っている車に乗り込む。彼は、車を運転しながら、時折、私が隣にいるのを確かめるように手を伸ばして握ってくる。最初、そうやって手を差し出された時、そっと握り返してしまったから、もう引き返せない。

彼が最初に私を抱き締めた時、私は、それでも必死で抵抗した。
「ねえ。困るわ。」
「どうして?どうして僕じゃ駄目なの?」
「私、結婚してるもの。それに、あなたよりずっと年上よ。」
「じゃ、僕が嫌い?」
「嫌いではないけれど・・・。」

それ以上は拒めなかった。

もう、これからの人生の中でこんな風に誰かから抱き締められるなんて予想もしなかった四十女が、どうやってそれを拒めるだろう。

「お願い。怖いのよ。」
私は、本当に震えていた。

「僕がついているから。」
彼は、優しく抱き締めてくる。

--

「ねえ。こっち向いてよ。」
「いやよ。ひどい顔だもの。」
「そんなことないよ。きみが見ていたい。」
「駄目。私、もうおばあさんだわ。」

本当に。あなたは、まだ若い。あなたの若さが、私を苦しめる。

「そんなことない。きれいだよ。」
彼が、背を向けた私の裸の肩に唇を付けてくる。

家に帰れば、今を盛りに咲き誇っている花のような娘たちが私を出迎える。そんな時、私は、娘という花に水をやり、愛でる喜びに打ち負かされる。私自身は、もう、そんなに美しく咲くことができなくていい年齢なのだ。

「ねえ。学校が冬休みの間、全然逢えないの?」
「ええ。」
「きみ、それで平気?」
「そりゃ、逢いたいわよ。」
「なら、逢おうよ。」
彼は、痛いくらい抱き締めてくる。

「駄目よ。そんな風に休日を自分のために自由に使えないの。娘達のことも考えなくちゃいけないし。」
「きみは忙し過ぎるよ。たまには自分のために自由にすることが必要だよ。」

全然分かってないのね。

駄目なのよ。

--

恋という名のついた、勢いを持って育って行く木は、私の心にどんどん根を張って、もう、少しでも切り落とそうとすると、私の心臓から血が流れるのだった。だが、それは、私の心から、何もかもを吸い上げて成長して行き、その枝葉で傷を負う。私は、随分と多くのものを差し出して。その、最後かもしれない恋を守ろうと努力したけれど。

それでも、かなわないことはある。

「ねえ、もう、逢えないわ。」
「どうして?」
「無理なのよ。」
「年が離れてるから?」
「ええ。それもあるわ。」
「そんなの関係ないじゃないか。」

彼は、子供のように首を振る。

関係あるのよ。

「きみはずるいよ。いつだって、年齢や子供のせいにして。」
「そうかもしれないわね。」

--

彼は、そうやって、部屋を出て行く。

あなたはいいわ。きっと、今日、自分の部屋で、恋のために涙を流すのでしょう。

私は?

私は、家族が心配しないようにと、泣くこともままならず、家に帰って。

それから、
「さあ、夕食を作るわ。手伝ってちょうだい。」
と、いつものように、娘たちに声を掛けることでしょう。

泣かない私を、きっとあなたは責める。

だからと言って。

泣かなかったからと言って。

どうしてこれが恋ですらなかったと、言い切れることができましょうか。

心がドクドクと血を流し、私は、帰宅する途中にもその場にしゃがみ込んでしまいそうになるのに。


2001年12月24日(月) 銀のリボン

人生とはそういうものだと思っていた。

母と二人で暮らしていた頃から。

それから、母が亡くなって、母の知人と名乗る裕福な男が、私に住む場所を与えてくれた。小さな、家。私は、その古い家が大好きだった。何より庭がある。その男が私の住む場所に連れて来てくれた時、庭で花を育てられる、と、私の胸は高鳴った。

それが、私のそれまでの人生で、一番の幸せだった。

そんなものだと思っていた。

--

私には、寂しいということすら分からなかった。

時折、男が訪ねて来る相手をする以外は、誰も訪れないその家で、私はひっそりと花を育ててくらしていた。一日、誰とも話をしない日々が続いても、寂しいと感じることはなかった。

そんな、夏の日。

庭のヒマワリに水をやっていると、道端を通りかかった男性が声を掛けて来た。

「これは、また、元気のいいヒマワリだ。」

私は、驚いて男性を見た。

地味で、取りたてて特徴もない男性が、にこにこと笑いながら私の庭を眺めていた。

「ありがとうございます。」
「いえ。時々散歩してて思ってたんです。いい庭ですね。」
「そうですか?」

私は、妙に恥ずかしかった。

それまで、その家に越して来てから、私にそんな風に話し掛けた人は誰もいなかったから、何と答えて良いか分からなかったのだ。

「ええ。いい庭です。愛されている。そういうのは、見たら分かりますね。」

恥ずかしさでうろたえる私に微笑み掛けて、その男性は去って行った。

それから、週に1度か2度、男性と言葉を交わすようになった。私は、男性の散歩する時間に合わせて、庭に出て、彼が来るのを待った。そこには、他愛のない会話があるだけだ。だが、私は、彼の一言を聞きたくて、庭で待つようになった。

それだけの日々。

それが、夏の間、続いた。

--

それから、秋が来て、男性は、ふっつりと姿を見せなくなった。

「お体でも悪いのかしら?」
最初は、そんな風に思っていたが、待っても待っても、男性は庭の前を通ることはなかった。

そんな風に、待ち焦がれて、とうとう秋から冬になった。

その時、初めて、言い様のない感覚が私を襲う。

胸がチリチリと止むことなく痛み、私は、それを何と呼ぶのか分からなかった。ただ、自分にでもなく、男性にでもなく、「ごめんね。」とつぶやいてみたりした。それを手に入れるまでは、そんなことが幸せであるとすら、知らなかった。それを失ってみて、初めて、私はそれが「幸福」と呼んでもいいものだと知った。

誰かのために生きる。

それは、「そんなもんだ。」では片付かない、誰かと私の甘いような悲しいような出会いなのだ。

私は、そんな痛みを抱えて、日記を辿る。

「この庭に、なぜか心を惹かれますよ。なぜでしょうね。とても愛されている。この庭を手入れしている人の、楽しさとか、悲しさが、全部この庭にはある。」

そんな彼の言葉を書きとめてあったり、「彼、散歩」と走り書きしてあったり。

彼の言葉を聞いていると、なぜか、私は、自分でも知らなかった心の中を覗きこまれたように、恥ずかしかったものだ。

それから、私は日記帳を閉じて、庭に出る。

「そうだわ。今日は、クリスマス・イブだった。」
私は、急に思い立って、街に買い物に出て、それから急いで帰宅した頃にはあたりはもう夕闇に包まれていた。

私は、買い物袋から、銀色のリボンを取り出す。

庭には、3mくらいの小さな木が植わっていて。私は、その木の枝に、銀色のリボンを丁寧に結んで行く。ひとつ。また、ひとつ。彼と会って、言葉を交わした日々は、38回。その数を数えながら、私はリボンを結ぶ。雪が静かに降り始める。寒くて手がかじかむけれど、私は、ゆっくり。心を込めて。

--

リボンは、39個結びましょう。

そうしたら、明日の朝、薄く敷かれた雪の上を、あの男性が歩いて来るかもしれません。

「とても、素敵ですね。」
彼は、きっとそうやって、誉めてくれることでしょう。
心から、誉めてくれるでしょう。

私は、いつもみたいに照れて笑ってるだけでなく、手を差し出して、彼と握手をしてもらうのです。

「メリー・クリスマス。」
そうやって、笑い合って、それから、いつものように彼は私の庭をにこにこと眺めて、立ち去るのです。

そんな夢は、かなわないかもしれないけれど、また、彼がここを通る時、「いい庭ですね。」と、そんな風に言ってもらえるように。そんな生き方をするのは、少し楽な気がするのでした。


2001年12月23日(日) 私は魔法に掛かったように眺める。その、繊細な手が、お互いの体の隅々までを満たし、満足の呻き声が上がるのを。

お金があれば、大概のことは何とかなる。

田舎から出て来て、売れっ子の漫画家になった私は、そのことに気付いた。お金があれば、自分を作りなおせる。別人になれる。

顔を整形して、高価な服を着ていれば、男のほうから私に声を掛けてくる。

そう。私が夢見ていた生活。田舎での辛い日々は、もう忘れてしまいたい。

だから、私は、変身した自分が再び醜い女に戻らないように、必死になってお金を稼ぐ。テレビのバラエティに出て、笑顔を振り撒く。それをネタに漫画を描く。

--

目の前の男は、どことなく退屈だった。背が高く、美しく、私を優雅にエスコートしてくれる男は、時間とともに、そばに置いておくのが苦痛なくらいに退屈な存在になってしまった。どこがまずいのだろう。一緒に歩けば人が振りかえるほどに美しい男なのに。

男は、私の退屈に気付いて、
「そろそろ帰るよ。」
と、私の額に口づけた。

「ええ。」
一刻も早く立ち去って欲しい私は、投げやりに答えた。

「ねえ。お金。」
「え?」
「お金、貸してくれませんかね。」
男は、私に媚びるような視線を向けた。

そういうことね。だから、あなたはつまらないんだわ。

「いいわよ。」
私は、財布にあるだけの紙幣を渡しながら、言う。
「もう、二度と私の前に来ないで。」

男は、どことなくホッとしたような表情を浮かべて、紙幣を内ポケットに仕舞うと、急いで帰っていった。

つまらない。心の空虚はどんどん広がる。気付かぬうちに涙が出ていた。お金だけでは、まだ埋まらない部分が心の中にはたくさんある。

私は、気分を変えるために、夜の街に出掛ける。

それから、フラリと、目についた店に入る。美しい男女がひしめいている。狩りをするための店。何人かの男に声を掛けられたのを無視して、私は、グラスを手に取る。私は、店に入った時から一人の少年に釘付けになる。

その少年の美しいこと。目立つこと。その傲慢な仕草が、どうしようもなく私の心の揺らぎ易い部分を掴んで、私はそこを動けない。

「僕のこと、ずっと見てるね。」
気付けば、彼がそばにいて。

「ねえ。今夜、付き合ってくれない?」
「いいけど。」

私と彼は店を出る。誰も私達に気付かない。

--

彼の美しい裸身は、私を拒絶する。

「ねえ。私じゃ、駄目?」
「ああ。駄目だよ。」
「どうして?」
「だって。きみ、醜いじゃないか。」

彼は、クスクス笑う。

私は、ひどい屈辱で体が震える。

「ねえ。駄目だよ。きみ。体中の毛穴からにじみ出てるよ。愛されたいと。そんなじゃ、駄目だ。傷付くばっかりで。みっともなくて、見てられない。」
彼は、美しい体を私に見せつけるように、どこも隠さず横たわる。

「あなたはどうなの?誰かに愛されたくはないの?」
「僕?僕は、僕しか愛さない。誰かの心を請わない。」
「ねえ。人はどうして愛されたいと願うのかしら。」
「愛されなくちゃ、ここに生きた意味がないからだろう。僕は僕しか愛さない。自分より醜いものは愛さない。そうすれば、一人でも悲しくないんだ。」

彼は、背中の黒い羽を広げると、一枚の羽を引き抜く。彼が息を吹きかけると、それは、美しいもう一人の彼になる。

目の前で、少年が二人で絡み合っているのを、私は魔法に掛かったように眺める。

その、繊細な手が、お互いの体の隅々までを満たし、満足の呻き声が上がるのを。

--

目が覚めると、私は一人で冷たいベッドに寝ていた。

私は、背中に手をやる。

そこにある羽を引き抜いて、少年がやったように息を吹きかける。

羽は、私に変わる。

だが、それは、醜い女。田舎にいた頃の、太った醜い女。

私は、泣いて、ライターの火を向ける。醜い私は一瞬にして燃える。

もう一枚、羽を引き抜く。

悲しい女がいた。

私は、火を点ける。

--

「何度電話しても出ないからって、事務所の方が心配してるわよ。」
彼女の母親が、心配して娘の家を訪ねて来た。
「なによ。これ?どうしたのよ?」

彼女の頭髪は、もうほとんどない。部屋に、髪の毛の焼け焦げた匂いが満ちている。

「醜い私にお別れしてたの。」
彼女は、母親に向かってぼんやりと答える。


2001年12月21日(金) 人には、みんな、天使が付いていて見守ってくれるって言うお話を聞いたことがあるのだけど。

仕事で疲れた体で、僕はパソコンのスイッチを入れる。

どんなに疲れていても、唯一の安らぎの時間。

今日も、大事なメールが届いている。彼女からのメール。

「おかえり。今日も忙しかった?」
って。

暖かい言葉。

ネットで、一度も会ったことのない人に恋をするなんて、ナンセンスだよね。人に告白したら笑い飛ばされるだろう。騙されてるんじゃないの?とか言われそう。だけど、僕は、彼女の無垢な心に癒される。病気で、一度も家の外に出たことがない、という彼女の、何気ない一言一言が、僕にとっては、天使の言葉に聞こえる。

「人には、みんな、天使が付いていて見守ってくれるって言うお話を聞いたことがあるのだけど、私には、天使はいないの。人が死ぬ時、その守護天使が頭に天使の輪っかを載せてくれるって言うけれど、私は、そんなことすら望めないの。私は、天使になって空に昇ることはかなわないの。」
彼女は、メールで嘆く。

きみこそが天使なのに、どうしてそんなに嘆くのだろう。長い病気が、幼い頃の記憶を失ったことが、きみをそんなに悲しくさせているのだろうか。

「ねえ。もうすぐクリスマスだ。きみさえ良ければ、僕は、きみにプレゼントを持って行くよ。」
と、僕は思いきってメールに書く。きみがどんな外見をしていても、いい。傷付いて、どうしようもなくなって、生きている理由さえうまく見つけられなくなっていた僕に、希望を与えてくれた、僕の守護天使。

--

モニターに向かいながら、僕は、出て行った妻のことを考える。それから、もう五歳にはなっただろう息子のことを考える。実際、どうしてあんなことになったのか分からないが、ある日、妻は息子を連れて出て行った。

あの当時、僕は仕事がうまく行かなくて、なんとか日々やり過ごすための薬を病院からもらって飲んでいた。それが、そんなにいけなかっただろうか。

考えても、考えても、よく分からない。

ある日、人は、天使から簡単に見放されてしまうものだ。

そんなことを思って、薬の量を増やした。

それから、ネットで彼女と知り合った。悲しい心を抱えた人々が、それぞれの天使を見つけるための、その集いの中で、彼女のテキストに心惹かれた。

今、僕がこうしていられるのは、彼女のお陰。

--

「お願い。絶対に、来ないで。あなた、私の本当の姿を知ったら、絶対に嫌いになるから。」
彼女からのメール。

そう。

彼女は、必ず拒むだろうと知っていて、僕はそれでも彼女に会いたい。彼女に触れたい。ネット越しに存在する人だと分かっているだけでは足らない。彼女がどんなに醜くても、僕は、彼女の存在に触れるだけで、自分が生きている意味を、この上なくはっきりと知ることになるだろう。

甘えているのかもしれない。

ただ、困らせるだけなのかもしれない。

彼女の悲痛なメールに、それ以上無理が言えず、
「ごめんね。」
と、返事を書く。

「だけど、いつか会える日が来るといいなあ。」
と、書き添える。

彼女からの返事。
「私も、あなたに会える日を望んでいます。だけど、今は、駄目。」

--

結局、僕は、彼女に甘えていたのだ。

仕事の不手際や、冬の孤独や。

そんなものが重なって、無償に彼女に会いたい。

僕は、彼女を責める。

分かっていて。愛していて。なのに、僕は僕を抑えられない。

逢いたいよ。逢いたいよ。逢いたいよ。

それから、「さよなら。」とメールを書いて、僕はありったけの薬を飲む。

一度天使に見放された男は、もう、二度と、誰からも手を差し伸べてもらえない。

--

彼女は、モニターの「さよなら。」の文字を理解できずに、いつまでも見つめている。

未完成の上半身だけのロボット。

彼女を作っていた男は、途中で気が狂って、どこかに行ってしまった。

狂った男は天使を作ろうとして。

彼女は天使になりきれず。


2001年12月20日(木) 熊のぬいぐるみ

ねえ。寒くなったわねえ。ベアちゃん。

私は、もう、擦り切れてボロボロになった熊のぬいぐるみに話し掛ける。目のボタンだって、何度付け直したかしら。

ベアちゃん、私がお仕事行ってる間、寒くない?

私は、帰宅すると慌ててファンヒーターを点ける。冷えて、しんと静まった部屋で、ベアちゃんは、いつも一人で私を待っている。

こんな年齢にもなって、熊のぬいぐるみを抱いてしゃべってる女なんて、気持ち悪いでしょう?まったくおかしいわね。自分でも寂しい女だとは思うわ。だけど。ねえ、ベアちゃん。私、あの日からあなたと離れられない。

--

あの日の光景は、今でも思い出す。ぞっとする。私は何が起こったかよく分からなくて、ベアちゃんを抱いて立ち尽くしていた。大人達が何人か集まっていた。ひそひそ声が響く。「可哀想にねえ。」「うちは無理よ。」「これからどうすれば。」「まったく、困ったことしてくれたわねえ。」

私は、ベアちゃんをしっかりと抱き締めた。

泣いちゃ、駄目だ。

泣いたら、もう、パパもママも、本当に帰って来なくなるから。

そう思って、必死で目に力を入れていた。

それから、私は叔母のところで暮らした。しばらくして、ようやく事情が飲みこめた。恋人と駆け落ちしてしまった母と、母を捜しながら私を育てることに疲れて首を吊ってしまった父。

あの日、私は、私を守ってくれる筈の父を失って、一人立ち尽くしていたのだ。

パパは、私に、「ママは帰って来るから。」と言い聞かせていた。泣いたら、駄目だ。泣いたら、ママは本当に帰って来なくなっちゃうよ。パパはそう言って、うるさいくらい繰り返した。あれは、私ではなくて自分に言い聞かせていたのだ。私が泣くと、自分も泣かずにはいられないから。だから、絶対に泣くなよ、と。必死で、私に、そして自分に、そう言い聞かせていたのだ。

私は、ベアちゃんと二人きりになった。ベアちゃんは、ママが、私にコートを作ってくれた余り布から出来た。私は、コートより、ベアちゃんが大好きで。

ベアちゃん、どこにもいかないで。

と、叔母の家の冷たい布団で固く抱き締めた。

--

今日も、仕事のためにすっかり帰宅が遅くなった。

「ベアちゃん、寒かったね。ごめんね。一人にして。ねえ。パパ、欲しい?もうすぐパパが来てくれて、ママと三人で暮らせるわ。それまで、一人で辛抱してね。」

私は、物言わぬ、色褪せた熊のぬいぐるみに話し続ける。

--

「ねえ。昔のほうが良かったなんて思うこと、ある?」
私は、ベッドで、何の拍子だったか、男に訊ねた。

「ああ。あの頃は、指があったからなあ。」
男は、バイクでの転倒で、指を三本失っていた。私は、男も、男の欠けた指も好きだった。

男は私のことが好きではなかったのだ。私がさばけた女だと思ったから、寝たのだ。ただ、それだけ。ふとしたきっかけで知り合って、誘い合わせて、私と友達と彼の三人で遊びに行って、帰って来た。あの日、男は、私の友達を紹介してくれと言った。私は、「彼女、恋人がいるのよ。」と答えながら、悲しい気持ちで彼の失望する顔を見つめていた。それから、彼は、私を抱いた。

そんな風にして始まって、それはもう、行きつくところまで来てしまったのだ。もともと、それは、ひと頃テーマパークで流行った巨大迷路のように、行き先はぐるぐると同じところばかりで、彼の背中や、頭が、チラリチラリと見えるのを、私はやみくもに追い掛けていただけだった。彼は、背中しか見せなかったし、その背中さえ、今は随分と遠くにある。

「もう、やめような。こんなの。」
彼は、服を着ながら言う。

「ん。」
私は、泣かない。絶対に。

--

「ねえ。ベアちゃん、喜んで。パパが来てくれたのよ。神様からのプレゼントかしらね。ベアちゃん、もう一人じゃないわよ。ママがお仕事に行ってる間は、パパがいてくれるから。」

私は、くたくたになって、冷えた部屋の中で仰向けになる。体は震え、歯の根は合わない。

「ねえ。ベアちゃん。今度のパパが駄目になったら、また次のパパが来てくれるから。怖くないから。一人にならないから。ね。泣かないで。泣かないで。」

あの日、パパが私に言い聞かせたのと同じように、私は必死で熊のぬいぐるみに言い聞かせる。

男の屍は、そのうち悪臭を放つだろう。それまで、ベアちゃんのパパでいて。

ねえ。

もう、一人にしないから。ベアちゃん。

私は、そうして、その時初めて泣く。泣かなくたって、どっちにしたって、最初から誰も私のそばにいなかったのに。あの日から、ずっと私はガラス玉のように目をこらして、誰かを待っていた。


2001年12月19日(水) 驚いたことに、その男が持っている感情の中に「恋」はなかった。あるのは、好色と支配だけ。

私は、魔女と呼ばれている。

おそろしい魔術を使うと。

そうかしら?随分と、ひどい噂だわ。

--

毎朝、私は、獣達の鳴き声で目覚める。

ネズミやら、ニワトリやら、ヒョウやらが、一斉に叫ぶ。

私は、にこやかに「おはよう」を言う。とても気分がいい。私の愛しい獣達。

私の魔法は、私に恋をした者だけにかかる。私に恋をしたその瞬間、彼らは獣に姿を変える。私は、姿を変えた男達を、金の籠に入れる。そうして、彼らは、人間の姿に戻ることはできない。魔法を解く方法は、ただ一つ。恋した相手から恋されること。

だけど、それはかなわない。

生涯かかったってかなわない。

私は、獣になぞ恋をしない。

私は、美しい女。この姿を見ようと、世界中から若者が集まる。そうして、私を見つけた瞬間、獣に姿を変える。悲しい号砲と共に。

--

そうやって、私は、私に恋する者の変わり果てた姿に囲まれて、幸福だった。

ある日、馬に乗ったそのたくましい男が、私のいる村を通りかかる。その、粗暴な顔つきに、日焼けして光り輝く身体に、私はドキリとする。

さあ。早く、恋をして。

いつものように、私の赤い舌が、彼を誘う。

男は、私に気付く。

その途端、好色に光る目を前にして、私は動けなくなる。

それから、その強い腕に組み敷かれ、私はすすり泣く。喜びの涙を流す。その冷たい瞳で見つめられると、激しい快楽に身動きできない。

驚いたことに、その男が持っている感情の中に「恋」はなかった。あるのは、好色と支配だけ。ああ。何と言うこと。私を奪い、私を官能の波間に落としたこの男は、恋をしない。そうして、今、この瞬間、多くを放出して満足した男は、ここを去ろうとしている。

待って!

叫んだその瞬間、私は、自らの魔法に掛かる。

おお。なんということ。私は、醜いカラスになった。

「こりゃ、すごい。」
男は、笑う。

金のカゴの中で羽をバタつかせる私は、グエェェェェェェ、としわがれた声を出すことしかできない。

「いい子だ。」
ニヤニヤ笑う男は、私を閉じこめたカゴを馬にくくり付けて、旅を続ける。

--

グエェェェェェェ。

グエェェェェェェ。

「ねえ。随分とうるさいわ。」
彼の裸の胸にもたれかかって、美しい娘が、眉をしかめる。

「カラス、嫌いかい。」
男は、背後から娘を抱き締め、その乳房をもみしだく。

「んん。あんたって、本当にひどい男ね。」
「あの邪悪な声を聞いてみろよ。俺は興奮するね。」
「いやな趣味。あんたって変わってるわ。」
「そうさ。俺は醜いものが大好きでね。」

男は、笑って、それから娘の脚を抱え込む。その背中の筋肉が生き物のように動くのを私は見ていた。

--

ああ。お願い。私は、泣くこともかなわない。

私を愛して。それがかなわぬなら、私を殺して。その手で。

闇夜に、私のしわがれた声が響く。

分かっている。

身のほど知らずに恋を請う声は、なんと耳障りで、なんと醜いことか。それでも、恋の呪いにかかったものは、逃れようがない。呪縛が解けるまで、永遠に叫び続ける。


2001年12月17日(月) それから、私は、快楽、という言葉の意味を知る。恋という魔法が、悲しみの果実を手に取らせる。

私は、蜘蛛で。

男達が甘い香りに誘われてやって来る。私は、男達と交わる。それから、食べる。

なんということはない。ただ、それが生きるということだから。

男達は、みな、恍惚とした表情で私に食べられる。私は、何も感じない。ただ、生きる。

こうやって、命を食らい、何十年も、何百年も、何千年も生きて来た。

--

その人間の男に出会った時、私は、散歩をしていた。私は、暖かい陽射しの中をのんびり歩いていた。そこに急に鳥が下降して来た。

食べられる。

と、思った瞬間、男の手の平にいた。男は、私をそっと葉の上に載せると、「気を付けてお行き。」と言った。

優しい声だった。その瞬間に、私は、恋をした。今まで恋というものをしたことがないが、多分これが恋というものだ。誰かの存在が、特別なものに変わる。

--

私は、人間に姿を変えて、男のもとを訪ねる。何千年も生きた蜘蛛には、それくらいの力はあるのだ。

「誰?」
「昼間、あなたに助けられた蜘蛛ですわ。」
「驚いたな。」
「入れてくださる?」
「ああ。」

彼は、それでも、私を気持ち悪がったりしなかった。道端の蜘蛛に対してさえ、人間に話し掛けるように優しく話し掛けることができる男だ。

「で?蜘蛛がどうしてここに。」
「あなたに恋をしたから。」

男は困惑して、私を見つめる。

それでも、私は、自分の熱情が抑えられない。私は、美しい。彼も、私の美しさには抗えない筈だ。

「行けと言われたら、行きますわ。ここにいろと言われたら、あなたにお仕えします。全ては、あなたの思うとおりに。」

私は、男をじっとも見つめる。男も、私を見つめ返す。

「おいで。」
男は手を伸ばす。

私は、男に身体を預ける。暖かくて、力強い。

男は私を抱き締める。私の体に唇を這わせながら訊ねる。
「全てが終わったら、俺を食うのか?」
「いいえ。いいえ。あなたに恋をしています。」

だが、恋している者の浮かされたような言葉にどれだけの真実があるだろう。

それから、私は、快楽、という言葉の意味を知る。生きるための交わりとは異なる、少し悲しみに似たその行為に身を委ねる。恋という魔法が、悲しみの果実を手に取らせる。

--

私は、男のために子供を生んだ。たくさんの。どの子も、男に似て元気で、黒い髪、黒目がちの瞳は、私にそっくり。

私は、男と一緒に家庭を作って幸せだった。

私は、ゆっくりと老いて行った。蜘蛛だった頃は、老いを知らなかった。私は、ただ、生命が定められたように生きていた。今は、違う。私は、自分の生きるべき道を選び取り、幸せになろうとしている。

子供達は、大きくなり、次々と家を出て行った。

それから、私達夫婦は、二人きりになった。出会った時と同じように、男と、私と、二人だけ。

「ねえ。あなた。」
「ああ?」
男は、すっかり怠惰になっていた。それが老いるということなのだろうか?

私は、子を育て、役割は終わってしまったのだろうか。

私は、急に悲しくなる。

それから、脇の下がむずむずとするのを感じる。左右から二本ずつの黒いつややかな腕が伸びる。私は、巨大な蜘蛛になって、男にかぶさる。

男は、ドロリと曇った目で、私をぼんやりと見つめる。

男の目を見ても、私は何も感じない。全ての役割が終わった男を、静かに食らう。男は、恍惚とした表情で、それを受け入れる。

人間の時は、いろんなことを考えていた。人がなぜ生きるのか、とか、そんなことを。だけど、もう何も考えない。

--

それから、家を出て、巣を張る。

私はひどく飢えている。再び、捕獲する。交わる。食らう。この繰り返し。

過ぎたことは、何も思い出されない。


2001年12月16日(日) すすり泣くような呻き声を上げながら、彼女は僕の体の中に少しずつ冷気を送り込む。

僕が住んでいるのは、過疎が進む小さな島だった。少しずつ、若者が減って行き、年寄りばかりが目立つ。僕は、そこで、漁をして暮らしていた。母親がやっている民宿の収入と合わせれば、そこそこ食べていける。

友達は、少しずつ島を出て行った。若い女の子と出会う機会もない島に、いつまでもいるのは嫌だと言って。当然だ。

僕だって、そうだ。漁で疲れて帰って来た時、そばに女の子がいてくれたらどんなに素晴らしいだろう。僕は、他愛のないことをあれこれしゃべる。彼女は、ニコニコと笑いながら聞いてくれる。今度は、彼女が、どうでもいい出来事をしゃべる。僕は、彼女を茶化しながら、笑ってそれを聞く。そうやって、二人共少しアルコールが入って、夜は更けて行く。そんな生活。こんな小さな島では、それだけを望むようになる。

--

しまった。

僕は、考え事をしていて、沖に引き返すタイミングを誤ったようだ。

黒い雲が、みるみる近付いてくる。風が激しい。もうすぐ正月だから根詰めて仕事しようと思っていたばかりに、荒れた海に捕まった。

それからはあっと言う間。波が高く。僕は、大きな大きな手で、ぐわっと掴まれたように、飲み込まれた。


--

「ねえ。あなた。」

優しい声が聞こえる。

僕は、その声を、どこかで聞いた声だと思いながら。なつかしくて、体の奥にすっと入り込んでくるような、やさしい声。

「ここは?」
目を開けると、見知らぬ場所。小さな小屋。だけど、温かくて、清潔で、ストーブの上で沸騰しているお湯が気持ちのいい湿度を保っている。

「あなた、倒れてたから。連れて来ましたの。」
女は言う。

白い肌。漆黒の髪。恥ずかしそうな表情。

「つっ。」
体を起こそうとして、僕は体中に引っ掻き傷やら、打撲の跡があることに気付く。

「まだ、起きちゃいけません。」
彼女は、僕の肩に手を掛けて布団に戻す。

その手が思ったより、冷たいことを。ひんやりとしたその手に、僕は全身がゾクリと震える。

--

体がなかなか回復しない間、女はかいがいしく僕の身の回りの世話をしてくれた。

「ここは、どこだ?」
小屋を出ると、そこは、木が茂っていて。僕は、自分がどこの浜辺に打ち上げられたかも分からない。

「さあ。」
女は夢見るように答える。

「ここから出たことはありませんもの。」
「じゃあ、どうして、僕を見つけた?」
「小屋の前に倒れてましたわ。」

僕は、薬草を入れた粥をすする。

我慢できず、女の白い腕を掴む。恐ろしいほど、冷たい。

「ねえ。私、生身の女じゃありませんわ。」
「じゃあ、何者だ?」
「幽霊です。」

彼女の体は、そう。氷のように冷たいのではない。ただ、彼女の周りの空気に触れると、ヒヤリとして、体の震えが止まらない。

それでも、構わない。

僕は、彼女の衣類を剥ぎ取る。つるりとした白い肌。柔らかな線を描くその冷たい乳房に顔をうずめる。

「ずっとここにいてくださるのでしょう?」
「ああ。」

僕は、傷のせいで熱っぽい体で、彼女を温めようとする。彼女の悲しく冷たい息が、僕を包む。僕は、少しずつ消耗して行きながら、彼女の体を抱き続ける。すすり泣くような呻き声を上げながら、彼女は僕の体の中に少しずつ冷気を送り込む。

--

僕の体は回復しない。

幽霊に憑りつかれちゃしょうがないな。

僕は、一日うとうととし、夜になると彼女の冷気と交わる。

ただ、心残りなのは。

--

「海を。」
「え?」
「海を見たいんだ。」
「無理です。あなたは、ここからは出られませんわ。」

彼女は、僕の体に腕を巻きつける。サラリと髪が僕の頬になだれ落ちる。

「僕は、海で育った。両親が忙しい時は、海が僕を育ててくれた。」
「駄目よ。ここから出たところで、海には行けないわ。」
「頼む。」
「あなた、ここから行ってしまうと言うの?」
「すまない。」
「ねえ。外を見て。」

窓の外を指差すと、そこは海。波の打ち寄せる音。

「あなたのために、私が用意した海。ここから、いつも眺めることができますわ。」

だが、それは、見るだけの海。触ることもできない海。彼女は、精一杯、僕が望むものを用意してくれたのだけれど。

「駄目だ。」

女は悲しい目をする。

「僕は行くよ。」
「嫌です。そんなことになったら、私はあなたに憑りついて殺します。」
「好きにするがいい。既に、きみに命を削られて、どうせ僕はそう長くはもちゃしないだろう。それに。」
「何です?」
「きみが待っているのは僕じゃない。きみをここで殺して、きみの心をこの土地に縛りつけた男だろう?」

僕がドアを開けた瞬間、彼女は悲鳴を上げる。

僕は意識を失う。

--

波の音が聞こえる。

「誰か人が倒れとる。」
子供の声が聞こえる。


2001年12月15日(土) 私でも分かるのよ。人形でも、分かるのよ。でも、あなた、うらやましいわ。思い出があるのですもの。

この街に戻って来たのは、もう、二十年ぶりだ。随分と変わってしまっている。道行く人も。家並みも。

だが、その場所は、全く変わっていなかった。入り口で鍵を受け取ると、きしむ階段を上がり、僕はその部屋を訪ねる。同じ部屋で、その女は待っているはずだ。多分、まだ、そこで。

鍵を開けると、その女は、やはりそこにいた。

赤い髪、目尻のホクロ、安っぽい部屋に漂う煙草の匂い。

何もかもが変わらないまま。

「誰?」
「僕だよ。」
「知らないわ。」

そこで初めて気付く。

彼女は、彼女じゃない。精巧に作られた、彼女そっくりの人形だ。ハスキーな声も、気だるいしぐさもそっくりだけれど、彼女は本物じゃない。

「彼女は、どこだ?」
「あの人?あの人なら、もう亡くなったわ。三年前よ。煙草の吸い過ぎで、胸を悪くしてね。」

何ということだろう。ようやく戻って来たのに。

僕は、愕然とする。

「あなたも、あの人を訪ねて来たのね。」
人形は、煙草の煙を吐き出しながら、微笑む。

「ああ。そうだ。」
僕は、がっくりとベッドに腰をおろす。

「何人か、あの人を訪ねて来た人がいたわ。あなたみたいに。でも、あなたは若いわ。あの人達に比べて。」
「で、きみが彼女の代わりに?」
「ええ。彼女、人気だったのね。オーナーが、私をそっくりに作らせたのよ。近頃じゃ、生身の女は高くつくものね。」

人形は、グラスに酒を注ぐ。

「ねえ。あの人に何か用だったの?」
「持って来たんだ。ずっと彼女が欲しがっていたもの。」
「見せてもらっていい?」
「ああ。」

僕は、大事に抱えてきたものを取り出す。

「これ、何?」
「花の種だよ。彼女の生まれた村でだけ取れる花。貧しい村で、娘達は、花をすりつぶして、その美しい香りの汁を体に擦り込む。彼女は、その花を、その香りを、ずっと恋しがっていた。」
「なかなか手に入らないの?」
「そうだ。二十年。ずっと探していたんだよ。オークションでやっと見つけたのに。純粋な植物の種はもう滅多に手に入らないから、僕はひと財産はたいてしまった。」
「ねえ。この種。もし良かったら私もらってもいい?」
「ああ。彼女にそっくりなきみがもらってくれるなら、それもいいかもしれない。」

人形は、嬉しそうに、種の入ったカプセルを眺める。

「ねえ。あなた、笑うかもしれないけど、私、花を育てるのは好きなのよ。変でしょう?人形が花を育てるなんてさ。」

最近の人形は、人間みたいに笑うんだな。

「ありがとう。大事にするわ。」

僕は、苦い酒を飲みながら、この部屋で過ごした時間のことを考える。あの頃、この部屋は、もっと広くて、キャンディの入ったビンや、外国のファッション誌があった気がする。知らぬ間に二十年が過ぎてしまった。彼女のための探し物をするより彼女に会いに来てやったほうが、彼女は喜んだだろうか?でも、男ってそういうところ、あるよな。彼女の探し物を見つけて、誉めて欲しかった。

「ねえ、時間は、まだたっぷりあるわ。私を抱いて行く?」
「そういうんじゃないんだ。」

だけど、お願いがあるんだ。

僕は、ベッドの端に腰を下ろした人形の膝に、そっと頭を乗せる。

「仕事だから、ここにはあんまり来ちゃいけないって言われてた。だけど、あんまりママが恋しい時は、ママが仕事を終えるまで待ってたんだ。明け方、部屋に入れてもらって、おしゃべりしたり、歌を歌ってもらったり。でも、僕は、いつだって疲れて寝ちゃうんだ。あんなに、いろいろとおしゃべりしようと思ってても、安心したら、眠くなっちゃってた。」

人形は、僕の頭をやさしく撫でる。

「ねえ。朝までこうやっていてくれないか。」
「ええ。いいわ。そういうの、私でも分かるのよ。人形でも、分かるのよ。でも、あなた、うらやましいわ。思い出があるのですもの。」

人形は、低い声で歌を歌う。

僕は、膝の上でまどろみ、子供の頃の夢を見る。花の香りが漂っている。


2001年12月14日(金) 彼女が泣き止んだところで、僕は彼女の体に手を伸ばし、いつものように彼女の体を感じようとした。

僕と彼女は、確か、僕の記憶によれば一度も恋人同士になったことがない。

だが、僕が彼女と寝るようになって、もう何年が経っただろう。

最近じゃ、そういう関係をセックスフレンドと呼んだりするみたいだけど、そういう言葉は似合わない。何ていうんだろ。もっと、親密で、温かくて、皮膚にしっくりするような。

僕と彼女は、恋人同士ではない。それぞれに恋人がいた時期もあったし、彼女に至っては1年半ほどの結婚生活も経験している。その間も、僕達は寝ていた。だけど、僕にも、彼女にも、決まったパートナーがいない時でさえ、僕達は恋人同士になったことがなかった。どうしてかと聞かれたら、どう答えようか。ちゃんとした恋人になるタイミングを失ったからとしか言いようがない。随分と身勝手な希望だけれども、僕は、彼女と、一生このままの関係を続けていたいとさえ思っている。

--

彼女は、間違った。

多分。

その瞬間。

「ねえ。結婚したいの。」
と、僕に向かって言ったのだ。

「誰と?」
思わず、まぬけな返事を返す僕。

「あなたと、よ。」
あきれたように言う、彼女。

「なんでまた?今までだって、充分うまくやれたのに。」
「だからよ。これだけ上手くいってて、結婚してないのっておかしいと思わない?」
「別に。全然思わない。結婚なんて、僕らの関係を前にしたら、まったくもって、クソみたいなもんだよ。第一、きみは去年離婚した時、もう結婚なんてうんざりって言ってたじゃないか。」
「あなたとのセックスが良過ぎたからよ。」
「だから?」
「夫との関係が、どう考えても歪んで見えたの。完璧なものを前にして、他のものがヘンテコリンなものにしか見えなかったの。」
「そう。その通り。僕達の関係は完璧だ。」
「だから、よ。結婚しましょう。多分、私は誰よりもあなたを愛してる。」
「駄目だ。無理だよ。そんなこと。」

「そう言うと思ってたけどね。」
彼女は、寂しそうに言う。

僕は、胸が締め付けられるような気分だ。古くからの友人として。きみの体を一番良く知っているものとして。きみが悲しそうな顔をしているのは、たまらなく辛い。

だが、それとこれとは別。

きみと僕は、結婚するには遅過ぎる。

--

彼女の人生は、僕の人生に比べたら、激流のように激しく動いていて、彼女は、自分が望む以上に、あちらこちらへと勢いよく連れて行かれていた。僕は、それを、ぼんやり見ていただけだった。彼女は、時々、「うんざりしちゃう。」だの、「疲れちゃった。」だの言いながら、僕の部屋に来る。僕は、彼女を抱く。彼女が取りたてて他の女性より素晴らしい肉体の持ち主というわけではないだろうけれど、僕にとっては最高の女だったのだ。

--

彼女は、ひとしきり泣いていた。

僕は、そんな彼女の前で、黙って彼女が泣き止むのを待っていた。

彼女が泣き止んだところで、僕は彼女の体に手を伸ばし、いつものように彼女の体を感じようとした。

「駄目よ。」
彼女は、そう、多分、初めてのことだと思うが、僕を拒んだ。

「なんで?」
僕は、構わず、彼女の首筋に口づける。

「駄目なのよ。」
彼女は、そっと僕から体を離す。

「ねえ。分からない?私は、あなたを愛していると言ったのに、あなたは、私を愛しているとは言わなかった。バランスが崩れちゃったのよ。あなたがこのまま私を抱いたら、私は、何となくあなたに踏み付けられた気分になっちゃうと思うの。」

「分からない。」
僕は首を振る。
「僕が気持ち良くて、きみが気持ち良ければそれはそれで、公正だと思うのだけどね。」

僕はこの瞬間、世の多くの、拒絶された男性と同じくらいみじめだった。公正かどうか、なんてこの際どうでも良かった。

多分、彼女は正しい。

彼女の周りはいつも、何かが激しく止まらず流れている。いつだって。そうして、僕達の穏やかで優しい関係にも、容赦なく流れ込んで来て、流れ出ようとしている。

「どうしても、無理なのね?」
「ああ。無理だ。」
「じゃあ、これっきり?」
「ああ。これっきり。」

--

彼女が出ていった後のドアの音が、大きな喪失を運んでくる。

僕は、僕と彼女の間にある一番大切なものが、失くなってしまうのが怖かった。いつも手元にあると思って安心した途端、激しく求めなくなるのが怖かった。

いつのまにか、気付かぬうちに飢えて死んでしまうくらいなら、今、僕の手で殺してあげよう。


2001年12月13日(木) 「じゃあ。サンタのブーツをください。」

「ねえ。クリスマスプレゼント、何が欲しい。」
頭上から、やさしく声が響く。

年下の、引き締まった裸の胸に頭を乗せていると、その胸はドキドキと音を立てていて。

「なんにもいらない。」
私は、そっけない声で答える。

欲しいものは、ただ一つ。あの人の心。

家庭持ちの恋人と会えない寂しさを満たすために、私を抱いてくれる男の子と過ごす夜。私は、もの悲しい気分で、恋人の事を思う。心の穴があんまり大きいから、借り物の愛で穴埋めする。

好きな人がいるのよ、と言っても、それでもいいから好きでいたいんだよ、と差し出された男の子の手をつい取ってしまった。

「ねえ。本当に何でもくれるの?」
私は、急に少し意地悪な気持ちになって聞いてみる。

「僕があげられるものならね。」
「じゃあ。サンタのブーツをください。」
「サンタのブーツ?」
「それを履けば、どんなに凍った雪が積もっていても屋根から落ちないんですって。魔法のブーツよ。」

--

「ねえ。今年はいつにしようか。」
私は、スケジュール帳を繰りながら、男に話し掛ける。

クリスマス・イブとクリスマスは彼の奥さんと子供のために空けてあるから、いつも少し早めのクリスマスを祝うのがここ数年の私達のやり方だった。

「今年は、もう、きみとは過ごせないんだ。」
少しの沈黙の後、彼の言葉。

「え?」
「今年も、来年も、もうずっと。」
「どういうこと?」
「本当は、もう遅いんだろうが、それでも今から修復できることもあるかと思ってね。」

それから、私の髪をやさしく撫でる。

「お前のこと何も知らないままだったな。」
「何、感傷的になってるのよ。こんな日が来たらすんなり終わりにしようって、ずっと決めてたじゃない。」
「ごめんな。」
「いいのよ。」

いつかは来ると分かっていても、いざその日が来ると私は動揺してしまって、馬鹿みたいに物分りが良くなる。本当は泣きたいのに。恨み言もたくさん投げ付けてやりたいのに。私は、ただ、静かに涙を流す。

恋人は、私にやさしい口づけをする。

それは、もう、何かを求める口づけじゃなくて、元気でな、の口づけ。

--

去年のクリスマスは、彼が酔って転んで、ケーキがぐちゃぐちゃになったから、私達は、大笑いしながらそれを指ですくって食べた。

一昨年のクリスマスは、せっかくもらったジュエリーをお店に忘れて来て、二人で慌てて取りに行った。

そう言えば、全然お洒落じゃなかったね。私達のクリスマス。

一つ一つ。

写真を小さく破って、思い出と一緒に捨てる。

クリスマスを目の前にして捨てなくったって。せめてクリスマスまで一緒にいてくれたってよかったじゃない、と恨み言をつぶやきながら。

そんなことにすら嘘がつけなかった男の誠実までも、全部好きだった。

--

夜更けにドアのチャイムが鳴る。

インターホン越しに、「僕だよ。」と男の子の声。

「会いたくないの。」
と返事をする。

もう、心の穴は、あんまり大きくなり過ぎて、あなたじゃ埋まらないもの。

「お願いだから、開けてよ。」

私は、しかたなく、ドアを薄く開ける。
「もう遅いのよ。サンタのブーツ、もう、間に合わない。ある日、急にまっさかさまに落ちることがないように、おまじないだったのに。だけど、遅かったわ。私は、空から落ちて、このありさまよ。」

彼はため息をつく。
「きみは、空から落ちて、持っていたプレゼントは全部散らばっちゃったってわけだね。もう、僕へのお裾分けさえ残ってないんだ。」

空には、キラキラとたくさんの星。あれがきっと、私の手から滑り落ちたプレゼント達。

「今日は帰るよ。」
男の子は、私の頬にそっと唇をつける。

私は、ごめんね、と心の中で。

男の子は言う。
「ねえ。こんな時にわがまま言ってなんだけどさ。クリスマスには、もう少し時間がある。その時までに、お互いがお互いのサンタになれないか、ちょっとだけ考えてみてくれないかな?」
「どうかな。約束はできないわよ。」
「分かってるって。」

そう言えば、もしかしたら、重たい荷物手放して、私は少し楽になったのかもしれない。そんなことを思いながら、私は男の子の背中に「おやすみ」とつぶやく。


2001年12月12日(水) 早くこの身で味わいたい。これこそが、恋と言わずして、何を恋と言うのだろう。

むかしむかし、あるところにお姫様がいました。

そのお姫様は、童話に出てくるお姫様らしく、美しく、そうして、わがままでした。自分が誰よりも美しいことを知っていて、周囲を困らせるのです。

例えば、庭に出て、カエルの足を掴み、
「なんて醜いの?」
と、放り出しては、声を上げて笑うのです。

そんなお姫様は、童話に出てくるお姫様のご多分に洩れず、生まれた時、その祝いの席に招かれなかった魔女から呪いをかけられていました。

「姫が16歳の誕生日の日、最初に見たものに永遠の恋をするだろう。」

恋とは、これまたロマンティックなと思うかもしれませんが、これは実に大変なことです。朝一番に王様の顔を見たらどうなるでしょう?あるいは、お付きの侍女を見たら?いずれにしても禁断の恋に苦しむことになるのです。

幸いにも、お姫様は、このどちらにも恋をしませんでした。

お姫様が恋をしたのは。なんと!窓辺でケロケロと鳴いていたカエルだったのです。

お姫様は、その日から、カエルに恋焦がれる女になりました。カエルが少しでも見えないと大騒ぎです。城中の者にカエルを探すように言いつけるのです。

もちろん、カエルは、そんな姫を冷ややかな目で見ていました。当たり前です。さんざん自分をいたぶって笑い飛ばしたお姫様を今更愛せよ、などとは無理な話です。

お姫様は、嘆き悲しみ、そうして、自分に呪いを掛けた魔女を探す旅に出ました。そうして、長い長い旅の果て、ようやくお姫様は、魔女を探し当てました。

「お願いです。私をカエルにしてください。」
「カエル、じゃと?」
「ええ。恋するあの御方と同じカエルになりとうございます。」
「そりゃ、まあ、私に出来ないことはないが。ちと、高くつくぞ。」
「私が差し上げられるものなら、何でも差し上げますから。」
「そうか。」
「じゃあ、その、美しい顔と、美しい声を、私に寄越すのだぞ。」
「分かりました。カエルにさえなることができれば、私のこの顔などに、なんの用もありません。」

お姫様は、その瞬間、このうえなく美しく謙虚な心の持ち主でした。

「では、覚悟せよ。」
魔女は、杖を高く振り上げて、魔法の呪文を唱えます。

そうして、お姫様は、念願のカエルになることができました。

お姫様は、お城に戻り、恋するあのカエルを探します。

恋されたカエルも、お姫様がカエルにまで姿を変えてくれたことにいたく感動しました。

そうして、二匹は、手に手を取って、お城の池に向かったその瞬間。

ぶちっ。

王様の靴に踏まれて、あっけなく、その命と、恋を終わらせることとなったのでした。

--

「というお話。」
「ふうん。」
気のない声で、美しい姫は窓の外を見つめる。

「いいですか?姫。この物語の教訓はなんだと思いますか?」
「カエルになったら、踏まれて死んじゃう。」
「違います。身分不相応な恋には、それなりの結末しかない、ということです。」

お姫様は、大臣があんまりうるさく言うので、ハエを払うようなしぐさをする。

その物憂げな、美しい瞳は、窓の外に釘付けで。

今度来た庭師は、なんて美しい体をしているのかしら。と、考える。

隣の国の王子より、よっぽど素敵だわ。早くこの身で味わいたい。これこそが、恋と言わずして、何を恋と言うのだろう。


2001年12月11日(火) 嫌なことを誰かに押し付けるのって、ずるいよね。嫌なものは、神さまだって見たがらないんだよ。

愛玩用ロボットが街に増え過ぎた。

猫型ロボットの僕は、スクラップにされて、街をさ迷う。逃げなくては、本当に廃棄処分にされてしまう。ただ、型が古いというだけでゴミの日に不法投棄された僕は、市の職員に見つけられないように、居場所を転々とする。

--

「おいで。」

とある庭に迷い込んだ僕をその小さな声が呼ぶ。

「こっちに来て、僕の相手をしてよ。」

にゃあ。

僕は恐る恐る近寄る。

小さな男の子が手招きしている。僕は、彼の手の中に滑り込む。男の子は、嬉しそうに僕を抱き上げて、冷たい体に頬ずりする。

「僕、独りぼっちだったんだ。遊んでくれるよね?」

にゃあ。

男の子は、僕を部屋に連れて行く。部屋には、大きなベッド。ベッドの周りには、絵本。未来の物語よりは、過去の物語を綴った。神話や伝説の絵本。

「僕、病気なんだ。もう、あんまり長いこと生きられないんだよ。」

にゃあ。

「ママは、そんな僕を見ているのが辛いって言って、もう、あんまりここに来てもくれない。」

死ぬのは、怖い?

「怖いさ。とっても。時々、夜、目が覚めて、僕は怖くて泣くんだ。ママがそばにいてくれたら、少しは怖くなくなると思うんだけどね。」

僕も、ずっと独りぼっちさ。

「ねえ。こんなお話を読んだよ。ヒンドゥーの神さまがね。昔、あんまりあんまりたくさんの生き物を造った時。まだ、この世の中に『死』というものがない時。あんまり、生き物がたくさんになり過ぎて、大地は悲鳴を上げたんだって。『お願いです。取り除いてください』って。だから、神さまは、『死』という名前の乙女を作ったんだ。でも、その乙女は、『除去』するのが辛くて、その役割を果たさずに逃げ出しちゃったんだって。」

ふむ。

「ねえ、可哀想だろう。死って。ママに見放されちゃった僕みたいだ。」

たしかに。

「困った神さまは、乙女の悲しみの涙を使って、『除去』をするように命じたんだ。生き物に、欲望とか、怒りとか、そういう悪い心を持つようにさせて、その罰に、『除去』をするんだって。」

きみには悪い心なんかないのにね。

「僕ね。ママを悲しませた。やっぱり悪い子だった。」

男の子は、少し眠たくなったみたいで、小さなあくびをする。

「嫌なことを誰かに押し付けるのって、ずるいよね。嫌なものは、神さまだって見たがらないんだよ。」

小さな手が僕のしっぽをそっと握る。

「きみは、僕が怖くないんだね。ママは僕が怖いんだ。」

きみじゃなくて、きみの背中に乗っかってる死が怖いんだね。きみの向こうに虎がいる。

「きみはもっと可哀想だね。ほんとうの猫よりも、ずっとずっと独りぼっちだもの。」

そんなことはない。ほんとうの猫になったことはないから、ほんとうの猫の人生と、僕の人生とは比べようがないよ。これはこれで、そう悪くない。

「でも、死の乙女って、本当はすごく怖いんだ。目が真っ赤に燃えた、黒い乙女なんだ。怖いだろう?ママが怒った時くらい怖いんだ。僕ね。その絵本、怖いのに、なぜか、何度も何度も読んじゃうんだ。」

男の子は、クスクス笑って、それから、僕のしっぽを握り締めたまま、眠りに就く。

僕は、男の子が夜起きて泣かないようにと、そばで丸くなる。せめて、僕の体に暖かい毛皮がついていればいいのになあ、とか、そんなことを思いながら。


2001年12月09日(日) 「愛しているわ。」とは言ったけれど「愛してちょうだい。」とは望まなかった相手を、果たして遠ざける必要はあったのだろうか?

猫は、僕のところにやって来て、言う。

「ねえ、あなたを愛しているの。」

真っ直ぐに僕を見つめ、恥ずかしそうにしながらも目をそらそうとしない。

「急に言われても、ねえ。」
僕は、目をそらす。

「別にいいのよ。あなたが、私を好きになろうと、なるまいと。ただ、あなたに、愛してる、って言いたかっただけ。」
「愛してるって、さあ。重いんだよね。きみがどう思おうとも。言われたほうは、困惑するだけだよ。」
「じゃあ、黙っていろと?」
猫は、キラリと光る緑色の瞳で僕を見つめる。

「で、僕にどうして欲しいんだい?」
「何も。別に、何もしてくれなくていいわ。」
「まあ、そもそも、僕だってきみに何かができるわけじゃないしね。第一、きみは猫だ。僕ときみじゃ、セックスもできない。」
「馬鹿ね。しようと思えばできるわよ。だけど、愛してる、なんて台詞吐く女とは、どうせあなた、寝ないでしょう?」
「そうだ。まったくその通り。」
「それくらいには、私って、あなたのことをよく知ってるのよ。」
「ああ。そうだろうな。毎晩、僕の布団で寝てるくらいだ。何もかもお見通しだろうよ。」

僕は、少々気を悪くする。

あいにくと、僕には好きな子がいる。ただ憧れているだけだが。気持ちを伝えたこともない。時折、「友人として」電話を掛けて、当たり障りのない話をするくらいだ。

猫から告白を受けたことで、僕は急に心配になる。

だいいち、僕が、彼女に電話をする前、勇気を絞ろうとひとしきり言っている独り言を、寝たふりして聞いていたのだろうか。

なんと恥ずかしい。そう思いかけて、いかんいかんと首を振る。

意識なんかしちゃ駄目だ。それじゃ、猫に振り回されてばっかりだ。

取り敢えず、猫と一緒に寝るのを止めよう。

僕は猫に向かって言う。

「あのなあ。きみからそんな告白を受けた以上、僕はもう、きみと一緒の布団で寝るわけにはいかないんだ。ついては、きみを、僕の友達の家に預けようと思う。」

猫は悲しそうな顔をして、僕を見つめる。

「ねーえ。」
「なんだ?」
「私ね。今、発情期なの。見て、こんなにお尻がピンク色でしょう?今、この私を外に出したら、誰と何をするか分からないわよ。それでもいいの?」

な、何を言い出すんだ?この猫は。

「とにかく、もう決めたんだ。悪いけれど。」

--

それから、僕は、無類の猫好きの友人に電話を掛けて、猫を預かってくれと頼んだ。彼は、あっさりと快諾してくれたので、僕は、急いでバスケットに入れた猫を友人宅に連れて行く。

にゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ〜。

後を引く鳴き声が、逃げるように走り出す僕の背中にまとわり付く。

--

さて。

僕は、落ち着いて部屋で独りになる。そうして、考える。

「愛しているわ。」とは言ったけれど「愛してちょうだい。」とは望まなかった相手を、果たして遠ざける必要はあったのだろうか?

それから、猫の気まぐれな視線を思い出す。時々、僕が呼びかけても、知らん顔していた、あの小憎らしいワガママぶりを。それは、思うに、ひどく魅力的であった。

--

夜、僕は眠れない。眠れないまま、何度も寝返りをうち、ついには上着を着こみ、ジーンズに履き替えて、夜の道を友人宅にまで走る。

「んんんん。」
猫の妖しい鳴き声。

ドアから聞こえるその声は、僕の気持ちをかき乱す。

「感じ易いんだね。」
友人の声が低くつぶやく。

「だって・・・。」
猫の声は鼻にかかり、ねっとりとした響きを帯びる。

僕は、友人宅のドアを激しく叩く。

「開けろ!」

友人が不機嫌そうにドアを開ける。
「何だよ?」
「猫。うちの猫。返してくれないかな?」
「いいけど。こんな夜だぜ。どうかしてるよな、お前。」

友人が手渡してきた猫を、僕はしっかり抱き締めて、うちに連れ帰る。

--

「ねえ。猫?」

ナ〜。

猫は、気のない返事をしたものの、知らん顔で丸くなって寝ている。

僕は、夢でも見ていたのだろうか?

取り敢えず、いつものように僕の傍らで丸くなる猫。

「ったく、なんであんなこと言ったんだよ。」
僕は、聞いているかどうかも分からない猫の背中に向かってつぶやく。

「言わなきゃ、何も始まらないもの。」
猫の声が聞こえた気がした。


2001年12月07日(金) 私は何度も達するけれど、彼は、それでもまだ飽き足らず私を抱く。他の男性のような終わりが、彼にはない。

私は、一人、その場所で想う。

時間はたくさんある。誰にも邪魔されずに。

そこは、案外と暖かい。まどろむにはちょうどいい。

--

恋愛と、狂気の境目というのは、気付きにくい。相手の少々行き過ぎた行為も、「私を好きだからなのね。」と思って許してしまうことがある。それくらい、愛に飢えた時代。

恋愛の狂気は、恋の才能、という捉え方もできる。目の前の恋に身を投げ出す才能。私は、その情熱に逆らえなかった。

--

派遣社員として行った、その会社で、急に電話番号を手渡されて、「電話してよね。」と言われて。私はあんまり驚いて、彼を見つめた。それまで、席が近くだったけれども、ほとんど会話したことがなかったから。

「ちゃんと、電話するんだよ。」
と、念を押して、去って行く彼。

それから数週間経って、ふと思いついて電話をした。何も予定が入っていない連休を目の前にした、ある日。

「もう電話してくれないかと思ったよ。ね。なんで電話してくれたの?」
「退屈だったから。ひどく、退屈だったの。」
「そうか。理由は何でもいいや。明日。迎えに行くから。」

翌日、彼は約束の時間ぴったりにやってくる。

ほとんど知らない相手とデートするのは初めてで、私は、会話が続くかしらと心配したが、そんな心配は必要なかった。話をしてみれば、共通の話題も多く、私は時が経つのも忘れた。

「ねえ。外、歩こう。」
彼が言う。

私達は、店の外に出る。

「こうやって、手を繋いで歩きたかったんだ。」
彼の弾むような足取り。

彼の、この不思議な情熱はどこから来るのだろう?職場でもそうだった。彼だけは、何かのエネルギーに包まれているように、足取りが軽く、元気いっぱいなのである。そのエネルギーを、そばにいて感じると、私は、恋をした、というよりは、彼の一部に取り込まれて行くような気分になる。彼のエネルギーに包まれて、私も元気が出てくるというような。

--

その兆候は少しずつ、現われた。

それと、情熱の境目は、ひどく見分けにくい。

彼の激しい愛撫に、私は何度も達するけれど、彼は、それでもまだ飽き足らず私を抱く。他の男性のような終わりが、彼にはない。

「ねえ・・・・。もう・・・。」
「駄目だ。もっと、一つにならなくちゃ。」
「でも、体がついていかないわ。」
「俺達、なんで出会っちゃったのかな?」
彼が、私の体を軽くつねる。彼の指の跡が、私の白い肌に赤く残る。

私は、ぐったりと横たわり、もう体を動かすこともできない。

彼は、私を幼子のようにあやし始める。口移しで水を飲ませる。冷やしたタオルで、私の体を拭いてくれる。

なんて、やさしいのだろう。

私は、疲れ切って動けない体を、彼に任せる。

--

それは、一つのあやしげな宗教のように。

ある時は、私に無理難題を言って困らせる彼。私がひどく傷付いたところで、抱き締めて、優しく髪を撫でる。

ある時は、あまりにも激しく求めて来て、私を戸惑わせた挙句、許しを乞うて来る。

そうやって、彼のエネルギーに翻弄され、私は思考能力を失う。

--

肉体も精神も、いつも浮遊している状態になって、私はおかしいと気付き始める。

逃げ出さなくては、と思う一方で、彼ほどの愛を手放す勇気がでない。どうしていいか分からない私は、彼の前で泣く。彼は、容赦なく私を愛する。

--

そうやって。私は、結局逃げ出そうとした。一度だけ。

そう。

たった一度だけ。

彼は、その時、本当に深く絶望して、私を見つめた。

「なんでだよ?」
問い詰める彼。

「こんなの間違ってるわ。どこかおかしいもの。」
と、私。

「俺達、お互いしかいないだろう?」
彼は、私を犯すように、抱く。

彼のエネルギーに飲み込まれないようにと、必死で声を抑えながら、私は彼の悲しみを。それはどこか狂った悲しみを、それでも拒めない。

--

それで?

結局、私は逃げられなかった。

暖かい土の中で、蛆が体に這うのを感じながら、私はまどろむ。

私は、本当には逃げ出したくなかったのだと思う。

あなたが連れて来てくれた、ここは暖かいよ。ここには、あなたの悲しい泣き声が聞こえてくる。私は、あなたから逃げ出さずに済んだのに、あなたはどうしてそんなに泣くのだろう?


2001年12月06日(木) あんたは、最初から正しかった。誰にも、正しい、なんて言ってもらう必要はなかったのさ。

その小人は、いきなり私の部屋に入って来て、荷物をドサリとおろす。

「なによ?」
「今晩、この家に泊めてもらってもいいかな?」
「あなた、何者?」

小人は、とても醜く、痩せ細っていた。見たこともない、瞳の色。

「私は、何者でもない。旅をしている。」
「見ず知らずの人を家に入れるわけにはいかないわ。」
「でも、もう、入っちまった。」

小人はニヤニヤと笑う。

「とにかく、出てって。」
「いいじゃないか。あんた、寂しいんだろう?さっきまで、泣いてた。そういう時に一人でいるのは良くない。」
「心配してもらわなくて結構。」
「別にあんたを心配しているわけじゃない。私が心配しているのは、今夜の宿だけだ。」

小人は、荷物の中から酒瓶を取り出す。異国の酒。甘い香りが漂う。その香りが、何かとてもなつかしい気がして、私は、それを思い出そうとする。

「飲むか?」
「ええ。」

私は、グラスを二つ出してくる。

私ってば、何やってんだろう?

恋人が去った後、私は一人ではやりきれなくて。

グラスの酒は、甘い香り。なつかしいと思ったけれど、新しい味。知らぬ風景を呼び覚ます味。

小人と私は、酔っぱらって。小人は踊る。私も、踊りたくなる。小人の顔は相変わらず、醜い。

「何を泣いていたんだ?」
小人が訊ねる。

「あの人が、行ってしまったの。」
「どこに?」
「どこにも分からない場所。もう、追い掛けても、追いつけない場所。あの人は、追ってくるなと。」
「そんなに、その男が好きだったのか?」
「ええ。」

私も、いつの間にか一緒になって踊っている。

「楽しいだろう?」
「楽しいわね。」
「男なんて、たくさんいる。」
「ええ。でも、あの人は、この世でたった一人。」
「たった一人、なんだ?」
「私を分かってくれた。」
「誰にだって、お前のことくらい分かるさ。」
「あの人だけが、私を正しいと言ってくれた。だから、あの人がいる間、私は自分の正しさを信じていられたのに。」

踊りは激しくなる。

酒が体を軽くして、私は、息を切らすことなく踊ることができる。

「それは違うね。」
「なにが?」
「あんたは、最初から正しかった。誰にも、正しい、なんて言ってもらう必要はなかったのさ。」
「なら、なんでこんなに寂しいの?」
「あの男が、お前の一部を持って行っちゃったんだな。」
「一部?」

小人は、荷物から、分厚い手帳を取り出す。
「ちょうどいい。私は、喪失について。不在について。詩を書いていたところだ。」

彼は、異国の言葉で、不在についての詩を朗読する。

意味は分からないが、美しい響き。

大事なのは、与え続ける、喪失。と、小人は歌う。

「あの男は、奪うばかりだった。」
「そうかしら?あなた、彼のこと知らないくせに。」
「だけど、あんたのことは分かる。あんたは、最初から正しかった。そうして、あんたの、その欠落した部分は、美しい。前よりずっと美しいのさ。」
「口説いてるの?」
「いいや。踊ってるだけさ。一緒にね。ステップを踏む。いち。に。」

小人のステップはだんだん早くなる。

私もつられて、早くなる。

私は、何も考えなくなる。ただ、自分が解放されている感じ。

私は、唐突に、目の前の小人に抱かれたいと思った。あんなに醜いと思った顔を、激しく欲している。

彼は、私の心の中が分かったのだろうか。

「酔ってるだけさ。」
そう言って、彼は笑う。

体がフワリと浮いて、もう、足を動かす必要もないのだ。そうやって、朝まで踊る。

--

目を覚ますと、小人はいない。

夢だったのかしら?と思うが、そこに、小人の残して行った手帳。空っぽの酒瓶。

手帳を開くと、異国の言葉。

意味も分からない言葉が、私に優しく語り掛けて来て、私は、以後、その手帳をたびたび開くことになる。いつも、出会う。何度も出会う。同じ言葉は、手に取るたびに、新しい響きを持ち、知らない国へと私をいざなう。

大事なのは、与え続ける、喪失。


2001年12月05日(水) あなたといると気持ちいいから、もっとそばにいてよ、なんて、言える筈もないから。

職場の新人のMは、美しい顔立ちだった。性格も、明るく、周囲に気を遣う気持ちのよい青年だ。

「今日から面倒を見てやってくれ。」
と、部長のRから言われた時、私は、正直に言えば、気持ちがはずむのを感じた。

初日から、Mと、少々はしゃぎ過ぎで会話をしてしまった私に、Rからの社内メール。「今日、寄るから。」と。

「面倒だな。」と思う。

男のために、部屋着を選び、化粧を直し、シンクに溜まった食器を片付けなければならない。

来るとなると、多少気持ちは浮き立つものの、もう長いこと続いた関係は、面倒なことのほうが多くなる。それでは、なぜ、そんな関係を続けるのかと聞かれたら、私はどう答えるだろう。寂しいから。情が移ったから。今更、生活のリズムを崩すのが嫌だから。

別れてしまったら、ぽっかりと空いた時間に、「一人」を感じてしまうのが怖いから。

--

その夜のRは、なかなか帰ろうとしなかった。

「もう、帰ったら?」
と、言いたいのをこらえて、空いたグラスを満たし、氷を入れる。

化粧を落として、息がしたい。

「結婚。」
「ん?」
「おまえも、そろそろ結婚したいか?」
「なんで急に?」
「俺、お前のこと縛ってたから。」
「別に、あなたのせいじゃないわよ。」

思い違いを笑い飛ばそうとして、男の悲しげな表情に気付く。

最初の頃だけよ。あなたを狂ったように求めていたのは。でも、今はもう。

ああ。分かった。嫉妬しているのね。Mのせいだわ。じゃ、なぜあなたは、Mをわざわざ私の下につけて面倒を見るように言ったのかしらね。

--

結局、夜中の二時過ぎ、飲み過ぎて動けなくなった男を、タクシーに押し込めてようやく解放されたのだ。

仕事中、思わずアクビが出る。

Mが笑う。

「やだ。見てたの?」
私も照れ笑い。

--

「ねえ。誰かに似てると思ったら、ね。」
私は、ランチの時、Mの顔を見ながら言う。

「あなた、私の弟に似てるんだわ。」
「弟?」
「うん。顔じゃなくて、しゃべり方とか。笑い方とか。ずっと、誰に似てるんだろう、って考えてたのよ。」
「そうかあ。弟か。弟でも嬉しいや。」

私は、Mといると、弟と一緒にいるみたいに、わがままを言って困らせたくなる。

「今度、飲みに行こうよ。」
と、誘う。

「いいですよ。」
と、Mは微笑む。

--

私は、随分酔ってしまって。それでも、Mをそばに置いて、いつまでもおしゃべりしていたくなる。

ピンク・レディーのメドレーなんて、カラオケで入れて、年上の女性にソツなく接してくる男の子。

気持ちいいのだもの。

若い子前にして説教臭くなっちゃうおやじの気持ち、分かるなあ。だってね。そうやって引き止めておくしかないの。あなたといると気持ちいいから、もっとそばにいてよ、なんて、言える筈もないから。

--

酔ってふらふらする私を、Mはアパートまで送り届ける。

「上がって行く?」とは言わず、ドアの前で、握手する。

「ねえ。なんでこんなに付き合ってくれるの?」
じゃあね、と別れるのが寂しくて、訊ねてみる。

「あなたが・・・。」
「ん?」
「あなたを見てるとね。両親、仕事行っちゃって、一人ぼっちで朝食食べてる子供みたいに見えたから。」
「それって、可哀想、ってこと?」
「ううん。一緒に朝ご飯食べてあげたくなって、どうしようもなくなっちゃうっていう意味。」
「あなたって、まったく・・・。」

私は、笑い飛ばそうとして。

あれ?

あれあれ。

なんだか、涙が出て来ちゃった。

私って、可哀想だったんだ?

Mが、私の頭をそっと自分の胸に引き寄せる。まったく、近頃の男の子は、お姉さんを泣かせるのも、慰めるのも、なんて上手なんだろうと思いながら、私は、そのまま顔をうずめる。


2001年12月04日(火) 私は、まだ男に抱かれていない。私は、男が私に与えてくれそうなものを推し量っている。

大概の人は、恋愛に落ちるのはあっという間だと考えているが、恋の終わりはもう少しゆるやかだと考えているようだ。実際のところ、恋の始まりと同じくらい唐突に、恋は終わる。

私は、恋の賞味期限について、詳しい。

私は、死んだ恋にしがみついたりせず、恋から恋へと渡り歩く。

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私は、自分でデザインした服を売る、小さなお店を持っている。その服は、若い子には割と人気で、その地域のちょっとした流行すら生み出していた。

尽きることなく繰り出されるデザインはどこから?と聞かれて、私は迷わず答える。「恋よ。」と。

その店を持たせてくれた男のことはよく覚えている。男は、精力的で、田舎から出て来たばかりの私にたくさんのものをくれた。私は、男の家に敷かれたトラの毛皮を見て、トラに抱かれるウサギになった気分を味わった。そうして、ウサギの毛皮で作ったジャケットは飛ぶように売れた。

その男と別れたた後、私は、家具のデザインをする男が作ったドクロの背もたれを持つ椅子に座って黒い羽のついたTシャツをたくさん作った。

そうやって、何人もの男が私に何かを与えてくれた。

--

そうして、また一つの恋が終わり掛けて、私は女友達を呼び出す。

「なあに?また駄目になったの?」
「ええ。まあね。」
「あんたが私を呼び出すのって、そういう時だけよね。」

私は、多少飲み過ぎているのを感じながら、曖昧に笑った。

「お店、うまくいってんの?」
友達に聞かれて、私は正直に首を振る。

「もう、男が何か持って来てくれるなんて信じるの、やめたら?」
「私が探してるのは、何かを持って来てくれる男じゃなくて、私の何かを引き出してくれる男よ。」
「じゃ、あんたに、もう引き出すものが何にもなくなっちゃったら?」
「嫌なこと言うわね。」

私は、飲み過ぎだと分かっていて、グラスをまた一息で空けてしまう。

「ねえ。あの男。」
女友達が顔を寄せて、教えてくれる。

「なに?」
「小説家よ。」
「ふうん。」
「それも、離婚歴が何度もあるのよ。」
「へえ。いいじゃない?」

私は、興味を持つ。

それから、女友達のことなど忘れて、その男の横に座る。多分、女友達は、あきれたように首を振って店を出てしまったことだろう。

「ねえ。小説家なんだって?」
「ああ。」

冴えない男。眠たそうな顔。着古したジャケット。

--

「ねえ。何で離婚したの?」
「さあ。みんなどっかに行っちゃうんだよね。気付いたら。」
「それはあなたのせい?」
「そうかもね。」
「ねえ、小説家ってさあ、面白い?」
「面白いかな。どうだろう。だけど、自由だよ。」
「自由?」
「ああ。何にだってなれる。」
「うらやましいわね。」
「きみだって、幾らでも自由になれるさ。」

私は、まだ男に抱かれていない。私は、男が私に与えてくれそうなものを推し量っている。男も、私を抱こうとしない。

私の迷っている顔を見て、彼は微笑んで言った。

「ねえ。馬になろうか?」
「馬?」
「ああ。こっちにおいでよ。」

彼に連れられて、隣室に入ると、そこは草原だった。

「なんだか・・・。すごいわね。」
「すごいだろう?」
彼は、嬉しそうに笑った。

私と、彼は、栗毛色のポニーだった。

「走ってごらん?」
「ええ。」

最初は、おそるおそる。だが、すぐに馬であることに慣れた。

私と彼は、風に乗って走った。

「結構楽しいわね。」
「そうだろう?」
「どうやって、馬になることができたの?」
「小説家は、何にだってなれるんだ。雲にでも、ウサギにでも、悪魔にでも。」
「前の奥さんは?」
「鳥になって、飛んで行ってしまった。」
「その前の奥さんは?」
「魚になって、泳いで行ってしまった。」
「あなた、捨てられちゃったの?」
「いいや。みんな幸せそうだったから、僕は、それを見て嬉しかったのさ。」

私は、走りながら、今度、風をイメージした柔らかな服をデザインしてみようと考える。

それより、今はもう少し走るのを楽しんで。

私も、尽きることのない小説のように、自由になれることを知ったから。

誰かに自由にしてもらうのではなくて、自分が自由になること。それが大事なんでしょう?孤独な小説家さん。


2001年12月02日(日) 明日の私を約束したなら、必ず約束を破る悲しい日が来るから。だから、私は約束が嫌い。

☆ クリスマス雑文祭参加作品 ☆

目を覚ますと、一時間十分寝過ごしていた。

やばっ。

私は飛び起きて支度する。今日はデートなのだ。息子のタクと、恋人と、三人のデート。なのに、寝過ごした。多分、恋人は「いつものことだね。」と笑い飛ばしてくれるだろうけれども。今日は私達の一足早いクリスマス。

恋人は、今日、ニューヨーク支店に旅立つ。だから、ちょっと早いけれども、私達のサンタさんになってよ、と、恋人にお願いした。

「タク、ほら、急げ!」
自分が寝過ごしたのを棚に上げて、私は息子の尻を叩く。

--

あの日。

ニューヨーク支店に転勤になった話を聞かされて。
「一緒に来てくれないかな?」
って言われた時、私は結局、断った。

彼は、少し悲しそうに黙り込んでいたけれど、
「やっぱり。」
と、うなずいた。

だから、今日が最後。恋人とは、もう、会えないかもしれない。

私の手は小さい。抱えていられるものは少ししかない。私自身と、タクと。あとは、ほんのちょっぴり。私は、私の中を埋め尽してしまうほどの愛は苦手で。少しだけ。少しだけ、ね。と。私の手の平におさまるほんのちょっぴりの分量だけを貸してくれる、優しくて強い男に甘えて来た。

「あなたのこと、忘れないわ。ずっと。」
恋人に抱かれながら、私はつぶやく。

恋人は、黙って口づける。私の言葉が嘘であることを知っていて。

恋人は、私が約束嫌いなのを知っている。約束は嫌い。息ができなくなってしまう。明日の私を約束したなら、必ず約束を破る悲しい日が来るから。だから、私は約束が嫌い。

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恋人の家で、ダンボールのテーブルでシャンパンで乾杯。

恋人は、私とタクにプレゼントを手渡す。

私には、目覚まし時計。
「やだ。なによ、これ!」
「最後まで遅刻魔だった、きみに。」
彼は微笑む。

タクも、急いで包みを開ける。
「わー。サンタの衣装だ。」

そこには、恋人と、私と、タクの三人分のサンタの衣装。
「僕がお願いしてたの、覚えてくれたんだね?」
「そうだよ。三人でサンタになりたかったんだろう?家族みたいに。」
「うん!」

恋人とタクは、白い口髭をつける。私はキュートなワンピース姿のサンタ。まるで、どこかのイベントのコンパニオンみたいな格好だ。私達は大笑いする。いつまでも笑う。

「そろそろ、行かなくちゃ。ね。」
恋人が、言う。

「ね。空港まで、このままの格好で行かない?」
私は、寂しい気持ちを振り払うために、つい茶目っ気を出してしまう。

「このままで?」
恋人は、苦笑する。

「サンタ、さんたいがった〜い。ガキーンッ。」
タクが、私と恋人の間に入って。腕にぶらさがってくる。

空港で、みんなが私達を見ている。私達は、照れ笑いしながら、時折みんなに手を振ってサンタ・ファミリーを演じる。

「じゃあ、ね。」
ゲートで、彼を見送る。白い口髭が私の唇に触れる。

私と、タクは、飛行機が見えなくなるまで見送って、それから帰宅する。

--

「ねえ。ママ。」
「なあに?」
夜、ベッドで、タクは私に話し掛けてくる。

「僕、大きくなったら、本当のサンタになるよ。」
「そう?」
「それで、ママを幸せにする。」
「ほんとに?嬉しいわ。」
「約束だよ。」
「うん。約束。」

タクには、不思議に「約束」という言葉がすらすら言える。そう。一つだけ、絶対裏切らない永遠がここに。

タクは
「ねえ。やさしい思い出、ママ、覚えてる?」
と聞いて来た。

「やさしい思い出?」
「うん。サンタさんの思い出。」
「随分、前、タクが小さい頃の事だよね?」
「うん。あれ、パパだったんでしょう?」
「え?パパだったの?ママは本当のサンタさんかと思ってたな。」

タクは、とぼける私を見て、クスクス笑った。

「あの時ね。サンタさんが僕にだけ言ったんだ。誰とでも、簡単に約束なんかしちゃ駄目だよって。本当に好きで、大事にしたい子とだけ、約束しなさい。って。」
「へえ。そうなの?」
「うん。僕、なんとなくわかるよ。約束はね。大事な人とだけっていうの。」

私は、タクのほっぺを撫でながら、言う。
「ねえ。タク、約束ってさ、なんだかあったかいわね。」
「うん。ママもあったかいよ。」

私達は、手をつないだまま、一つのベッドで眠りに就くのだった。


2001年12月01日(土) 「ねえ。セックスの上手さって、技巧じゃなくて才能だと思うのよ。」

妻の帰りを待つ、グラスの手が震える。

多分、彼女は今、あの男に抱かれている。彼女がどんなに上手に痕跡を消しても、私には分かる。

彼女が帰宅してくる頃には、私はグラスを片付け、ベッドで眠っているふりをするだろう。彼女も、私が眠ってなどいないことを知っていて、気付かぬふりをする。そうして、二人とも、眠っているふりをしながら、朝まで、どうにも手のほどこしようのない結婚生活について考えることだろう。

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「おはよう。」
彼女は、化粧で上手に目の下の隈を消し、完璧な笑顔で微笑む。

彼女のほうが出勤時間が早い。彼女は、小さなデザイン会社を経営している。

「昨日は遅かったのかい?」
「そうでもないわ。」

知っているくせに。ああ、知っているよ。

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正直で傷付き易い彼女。私は彼女と一緒に傷付くことこそが、彼女を理解できる手段だと考えて、彼女と結婚することを望んだ。彼女も、それを望んだ。

そうして、私は、彼女とたくさんのことを話し合った。

彼女は、自分のことを「夫に恋する女」だと言っていた。「いつまでも、この魔法が解けなければいいのに。」とも。

だが、ある時点から、彼女は私と話をする時、どこか上の空になった。

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「ねえ。セックスの上手さって、技巧じゃなくて才能だと思うのよ。」

あの日、なぜ別の男と寝たのかと私が彼女を責めた時、彼女はそう言ったのだ。

「才能?」
「ええ。私は、才能あるセックスに巡り会ってしまったの。」
「それだけが理由なのか。ただ、それだけが?結婚生活にはもっと大事なものがあるだろう。セックスだなんて・・・。」
「本当にそう思う?」

私には答えられなかった。

でも、彼女があの美貌の若者と寝るのには別の理由があることを知っている。彼は、彼女を理解しようとしない。ただ、性の対象としてのみ、彼女に興味を持つ。そして、彼女はあの若者と一緒にいることで安らぐ。

「彼のセックスが見せてくれるものはね。飛躍する才能。解放する才能。考える暇を与えない熱情。あなたにはないものばかりなのよ。」

なんと残酷な言いぐさ。

「でも、僕は誰よりもきみを理解している。」

彼女は、私に殴られた頬を冷やしながら、言う。
「理解って支配と似てるよね。」

そうだ。理解は容赦ない。見て見ぬふりなどしてはくれない。

そうして、彼女は、欲張りだ。理解されることを望み、理解されないことを望む。両方望むなんて間違っている。

私は、そんな彼女から離れられない。

--

「じゃあ、仕事行くわね。」
「なあ。」
「ん?」
「今夜、ちゃんと話し合おう。」
「何を?」
「結婚生活について。きちんとしよう。」
「今のままでは駄目なの?」
「ああ。駄目だ。」

--

夜、彼女は帰って来ない。

電話が鳴る。あの若者からだ。

「彼女、今僕の部屋で・・・。」
彼は、泣いている。

どうして泣くのだ?なぜ、彼女は、ここではなく、きみの部屋にいるのだ。彼女はどうしているのだ?答えなさい。と言いながら、私は知らず知らずに涙を流す。

「少し・・・、疲れたと言ってました。」
彼が、ようやく答える。

「そうか。じゃあ、そのままもう少し眠らせてやってくれないか?」
私は、他にうまい言葉が見つからないまま、受話器を置く。


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