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セクサロイドは眠らない

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2001年10月31日(水) 声が、細く高くなって行く。次第に艶を増し、部屋中を満たす。僕の官能は刺激されっぱなし。

僕の作った人形を、みんな、素晴らしいと言う。その生き生きとした表情。今にも動き出しそうだ、と言う。その愛らしい表情に魅了される、と言う。

そうかな?本当にこういうのがお好み?

どれも同じ顔。人に好かれる顔なんて、大してバリエーションはないものだ。似たような顔ばかり作るのは飽き飽きした。それでも、求められるから作るけれども。

--

その女は、深夜、電話をしてくる。僕のファンだと言う。電話番号なんてどうやって調べたのか?とにかく、悪い気はしなかった。その女の声は、ハスキーで甘く、耳元で低くささやく。その声がなかったら、即座にその電話を切っていたことだろう。

彼女が何をしゃべったかは思い出せない。ただ、僕は、彼女の声に聞き入っていた。

「とてもお会いしたいの。ねえ、会ってくださる?」
と言われて、僕は、
「いつでもおいでよ。」
と浮かれて答える。

--

「あなたの人形、素晴らしいわ。」

その、美声の持ち主は、僕の家のソファに座って、どんなに僕の人形が素晴らしいかを語り続けている。彼女の狙いが何だっていい。僕のアトリエを見たいのかもしれないし、ただ、高名な人形作家なるものに近付いてみたいのかもしれないし。

「ねえ。あなたが抱いた女にそっくりの人形を作るっていう噂、本当?」
「そんなこと聞いたことあるの?」
「ええ。その彼女のためだけに作るって。けれど、誰も、その特別な人形をモデルとなった本人以外見たことがない。そんな噂。」
「確かにその噂は本当だ。」
「素敵だわ。」
「きみも作って欲しい?」
「ええ。」

抱いてくれと言っているのか?それもいいだろう。

僕は、その美声を抱く。鼻にかかる甘い声に、顔をうずめる。素晴らしいBGMがずっと鳴り響く間、僕は、酔ったように彼女を抱き締める。その旋律は、甘く途切れることなく僕の耳をくすぐり続ける。彼女の声が、細く高くなって行く。次第に艶を増し、部屋中を満たす。僕の官能は刺激されっぱなし。

僕は、彼女のありとあらゆる声を指でなぞり、記憶に刻む。

--

彼女が訪ねて来る。

「ねえ。約束のもの、出来た?」
「ああ。出来たよ。」
「楽しみだわ。早く見たい。」

彼女は、欲に目をキラキラさせて、僕のアトリエに付いて来る。

「ここが僕のアトリエだよ。きみの人形、ついさっき出来たばかりだ。」

きゃっ。

彼女は、一目見て悲鳴を上げる。

「何これ?のっぺらぼうじゃない?」
「そう?素晴らしい出来だよ。気に入らなかった?」
「ひどい・・・。それに、何?この部屋の人形達。気持ち悪いったら。」

彼女は、真っ青になり、部屋を出て行ってしまう。

駄目だってさ。これで充分じゃないか?大体、僕は、街で会ってきみの顔を見ても、きみとは気付かない。声を聞かないうちは、きみを思い出せない。

そのアトリエで。

眼だけの人形が、その潤んだ瞳を僕に向けて、睫毛を伏せる。

唇だけの人形が、その肉感的な唇を歪めて微笑む。

美しい指を持つ人形が、その手をひらひらさせる。

僕は、新しく生まれたばかりの人形を抱き締める。人形は、甘く魅惑的な声で鳴く。

僕の指は、魅惑的なパーツをコピーする。それで充分。


2001年10月30日(火) 荒々しい息づかいと、シーツが払いのけられる音だけが、その夜の会話。

私は、今日もステージに上がって恋の歌を歌う。

私には、それが恥ずかしくてならない。酔った客の中の中にも、私の歌が嘘だということを見透かされているんじゃないかってね。

私は、もう、恋なんかできない。

それでも、恋を信じている顔をして、恋を求める歌を歌う。なんて嫌な仕事。それで、誰かが、「今日の、良かったよ。恋でもしてるんじゃない?」なんて言おうものなら、詐欺師の気分。

とっくに恋を忘れてしまった女が、恋を信じているふりをして、今日も恋の歌を歌う。素面でなんか歌えない。喉が焼けるのも承知で、安い酒をあおってから、恋の歌を歌う。楽屋に戻って、そんな自分を忘れるために、更に吐くまで飲んでどろどろになって眠りにつく。

--

それでも、毎日そんなことを続けていたら、平気で嘘がつける日もたまにある。恥ずかしがらずに、酒の力も借りずに、恋の歌を歌える日がね。いいじゃない。私は夢を売るのが仕事なんだから。ってね。時には、この歌で、自分さえも酔わせることだってできるのじゃないかしら。ってね。

そんな日に限って、あの男が、ステージのまん前の席で、私をじっと見ているの。

酒の飲み過ぎで目が濁ってる癖に、私の歌だけはちゃんと聞こえるみたい。ステージの上から男に気付くと、私の声は少し震える。

楽屋に戻ると、男が来る。

「今更、なにしに?」
私は振りかえらずに、訊ねる。

「お前の歌を聞きに、さ。」
「いつも、忘れた頃に来るのね。」
「ああ。お前が忘れたことを思い出させに、な。」
「部屋の鍵の場所は知ってるでしょう?」
「多分。」
「いつだって、あの場所から変えないでいることを知っているくせに。」

--

男は、私のドレス越しに背中を指でなぞりながら、歌ってくれよ、と言う。俺のためだけの歌を歌ってくれ、と。

「誰かのために歌うのはもうやめたのよ。」

男に服を脱がされるままになって、私は、その指の感触を思い出している。失くしたものではなく、ずっと心の中で眠っていたもの。あんまりにも長い時間ほったらかしになっていて、ほこりにまみれてしまっていたもの。

「ずっと一人なのか?」
「ええ。だけど。だからってあなたを待っていたなんて思わないで。」

男は、私の唇をふさぐ。私は、何で忘れていたのだろう、と思いながら、その感触をむさぼる。荒々しい息づかいと、シーツが払いのけられる音だけが、その夜の会話。

思い出させるだけでなく、内側から揺さぶられて。乾いたものは潤って。固まっていたものは柔らかくなって。

そんな一夜。
朝になれば、彼は、もう既にいない。私だけが一人。

--

その日の夜も、ステージに上がる。

酒を飲まずにステージに上がる。

何も考えなくとも、声が私の中から流れ出る。頭の中の甘美な記憶が流れ出て、恥ずかしがる暇もない。

歌い終わって、ステージを引き上げる時、「良かったよ。」と、声が掛かる。

「明日は、またどうなるかわからないけれどね。」と心の中で返しながら、私は楽屋に戻る。


2001年10月29日(月) 彼は静かに私の差し伸べる手を取って。そうして、一瞬、触れ合ったのが最初で最後。

誰にも知られないまま、我が心にだけ封じられた想いは、意味があるのでしょうか。

誰か教えてください。例えば、その溢れ出る想いを、肌を触れ合わせることもなく。その指先を絡めて、ひそやかにお互いの想いを打ち明け合うわけでもなく。今。たった今、あなたを想って止まないよ、と、声にして、表情にして、あなたに伝えられない。想いが、どんなに熱く存在しようとも、交わすことがなければ意味がないですか?

このまま、二人の死と共に、消えてなくなってしまったら。それは、最初から無かったことなのですか?

--

いつの間にか、私の心に忍び寄る。ある場所からの一日一度のアクセス。たまのメールを心待ちにして。何度もメーラーを起ち上げるようになったのは、いつからでしょう。

花の。

そう。花のことを書いた時ですね。あなたが初めてメールをくれたのは。ミヤコワスレの花を見て、あの街で出会った人、ただ、行きずりの人のことを、ささやかなホームページにエッセイとして書いた時、あなたがメールをくれた。私は、ドキリとしました。あなたもその街を好きで、よく散策していたことを聞き。その街は、過去を呼び覚ます街でした。どことなく童話のようにひっそりとして。日曜日ともなると、どこの商店も閉まってしまう。そんなのんびりした街でした。

私は、道端に咲く、名前も知らない花を見つけては、写真に撮るのが好きでした。その時、ふと思いついた言葉を書き散らした、そんなページを、あなたはいつも読んでくれて。少しでもアクセスが途絶えると、「お加減悪いのかしら。」なんて心配したりして。

それは、恋と言えるのですか?

いつからか、あなただけのために、あなたがどう反応してくれるかということばかりに気を取られながら、日々の心を綴る私がいました。

高原で咲く花々を撮影する写真家。

あなたを知って随分してから、私は、あなたの仕事を知りました。

--

初めてメール戴いてから、2年も過ぎた頃でしょうか。私は、もう我慢できなくなって、「逢いたい」と。わがままを承知でお願いしてみました。彼は、少々困惑したようで、最初は、「それは無理だ」と断って来たのでした。奥様の足が悪いこと。その車椅子の奥様を伴って、世界を巡り写真を撮っていること。だから、私が住んでいる街に行けるのは、いつになることか。ただ、それでも、私が日々更新するページを見ることが、ささやかな心の支えになっているとも。

「いつか、あなたの街で個展を開く機会があれば、是非、その時はお会いしたい。」

と、私を傷付けぬように、言葉を選んで返事をくださったのでした。

それでも、逢いたい、と。逢いたい、逢いたい、と。誰にも分からぬように花言葉に託して綴り続けたたくさんの言葉達。嫌わないでください。溢れる言葉を、ただ、笑い飛ばしてくれてもいいですから。お願いですから、どこにも行かないで。ネットの向こうとこちらで、24時間365日見つめ合っていると錯覚させてください。

--

ある日。

本当に突然。

彼から、「今から逢えますか?」とメールが来たのは、深夜。「もちろん逢えます」と、返事を返しました。彼は、無理をして、隣の街へと来たついでに、深夜タクシーを飛ばして来てくれたのでした。

「ここがあなたの部屋なんですね。」
「ええ。ここから、いつもあなたのために、言葉を綴っているのですよ。」
と、私はパソコンを指差しました。

彼は微笑んで、私に、「やっと会えた。」と。

今、本当に彼がここにいることに、私は、泣きそうになるのをこらえるのが必死でした。

朝になれば、彼は帰ってしまう。

私は、思い出の花で作ったしおりを彼に渡して。

「また逢う日まで。」
ミヤコワスレの花言葉を口にして、彼は静かに私の差し伸べる手を取って。そうして、一瞬、触れ合ったのが最初で最後。

--

そう。これでおしまいです。

たったこれだけが全ての私の恋の物語。これでも、恋と呼べますか?それからも、何年かの歳月。恋の言葉すら交わさずに。ただ、お互いを信じることだけが、恋の実体でした。

--

一度きりの逢瀬から、10年。

私の街でも彼の個展が開かれました。事故で不慮の死を遂げた、自然を愛する写真家の個展が。

車椅子の、やさしく穏やかな方が、あの人のおくさま?

彼の作品を見ながら涙を抑えることができずにいると、彼女がそっと声を掛けてくれました。

「夫の作品を愛してくださった方ですのね。」
「ええ。どれも素晴らしいですわ。どうして、こんな・・・。こんなにも、美しく、人の心に訴えてくるのかしら。」
「ありがとうございます。夫も、喜びますわ。」
「本当に、うらやましい。彼の生きていた証は、こうやって、写真として、何年も後の人にも伝わりますもの。」

嫉妬?ええ。嫉妬。彼は、こうやって、後々まで、人々の心を魅了する。私の心だけを魅了して。私だけに魅了されて。そうであって欲しかった。

彼女は、静かに微笑んで。

「でもね。夫はいつも申しておりました。誰も知らない場所で誰にも知られずに咲いてしぼんでいく美しい花のことを。その美の瞬間は、どうやったって、写真に封じ込めることができない、と。悲しそうに申しておりました。それでも、そうやって、誰に見られることもなくとも、誰に愛でられることもなくとも、生きて死ぬことが、花の美しさなんだね、って。」

ほんとうに。

ああ。私ときたら。どうして、存在したことすら、恨み言にすりかえていたのでしょう。

泣くのはこれで最後にしましょう。辛いと思っていたのは、それでも全て幸福だったのだから。あなたに会えたことに意味が無かったと、思い出を傷付けるのは終わりにしましょう。


2001年10月27日(土) 一昨日の舌も、昨日の指先も、彼女の中には残っていない。白い脚は、いつも初めてのように恥らう。

仕事を終えて、玄関のチャイムを鳴らす。

ドアが開いて、妻が顔を出す。

「あの、どちらさま?」
少し首をかしげて、妻は僕を見る。

「僕だよ。入ってもいいだろうか?」
少し考えてから、彼女は微笑んで
「いいわよ。」
と答える。

テーブルには、二人分の食事。

「ちょうど良かったわ。あの人、今日も帰って来ないの。食事が多過ぎるから、あなたもいかが?」

--

最初は冗談かと思った。帰宅した僕を、妻は覚えていず、まるであかの他人のように振舞うのだ。記憶喪失、でもない。他のことは全て覚えているのに、僕のことだけが、記憶からすっぽりと抜け落ちているのだ。

僕が悪いのだ、と思った。

結婚してから、僕に、幼な子のように付きまとって依存する妻が鬱陶しくて、僕は、妻から遠ざかるために帰宅せず、他の女のところに行っていた。最初は仕事を理由に、一泊、ニ泊。そのうち、一週間、といった具合に、僕は帰らなくなった。

ある日、着替えを取りに戻った時、彼女は僕の顔を見て「あなた、だれ?」と訊ねた。

僕にべったりと寄りかかっていなければ生きていけなかった女は、もういなかった。僕と一緒にいる時ですら、泣けるほどに孤独な女が、そこにいた。

--

「ねえ。寂しそうね。」
「ああ。とても。きみは?」
「さあ。どうかしら。」

棚に飾られたワイングラスを取り上げる。水を張った中に、赤い石。

「この石をね。昔、僕のきみを想って燃える心だよ。ってくれた人がいたの。その人は、炎が何もかも焼き尽くしてしまわないようにって、石を水の中に入れたのよ。おかしな人だったけれど、素敵な人だった。」

それは、僕だよ。その石を。燃えるような石を見つけて、その時の僕の心だと言ってきみに贈った。

「ほんとうに。あなた、とても悲しそうだわ。」
「良かったら、ここに。僕のそばにいてくれないかな。」

彼女の体温を感じる。柔らかな肌に包まれた孤独をめちゃくちゃにしたい衝動に駆られる。抱き締める彼女は、処女のようにぎこちなく罪悪感に身を震わせる。彼女は、僕を忘れてしまっている。一昨日の舌も、昨日の指先も、彼女の中には残っていない。白い脚は、いつも初めてのように恥らう。

自分の存在が相手に刻み付けられないほど、切ないことはあるだろうか?

--

この家は、氷より冷たく、捨てられた猫より悲しい。

日毎、新しいかさぶたが剥がされて、僕の心に血が流れる。

朝、まだ眠っている彼女に別れを告げて、僕は仕事に行く。365日繰り返される永遠の別れと、刹那の出会いに、僕の魂は悲鳴をあげそうだ。

それでも、僕が吹きかけた冷たい息で凍ってしまった彼女を溶かすことができるまで、僕は僕の炎を燃やそう。


2001年10月26日(金) そうすれば、きっと、あなたが失くしかけているものは、あなたの手に戻ってくるから。

もう、日曜日のデートはいつも、喧嘩めいた会話が増えて来た。最後には、肌に馴染んだセックスで、何とかお互いの気持ちが持ち直すというパターン。年下の恋人に、私はいつもイラついている。

「ねえ。だから、どうして、Nちゃんのためにあなたまで休日出勤しなくちゃいけなかったの?」
つい、とがめるような口調になる。

「同期の彼女がミスったんだから、手伝ってやりたかったんだよ。」
「でも、その前に私と約束があったんだし。」
「しょうがないだろう。仕事なんだから。」

私より2年遅れて社会人になり、「今、仕事楽しくってさあ。」と笑う彼。だんだん、私から遠ざかって行くような気がして、つい口うるさくなる。

「もう、いいわよ。前から思ってたんだけど。仕事のこととかで、最近すれ違いが多いじゃない?私達、ちょっと距離置いたほうがいいのかもしれない。私も、ちょっと疲れちゃった。」
「そうだな。俺も疲れた。」

ちょっと待って。喧嘩はいつも、拗ねた私を彼がなだめて、それで終わるんじゃなかったの?でも、彼の顔は本気だ。

「なんかさ、こういうのダラダラ繰り返すの、よそうよ。」
彼は、伝票をつかんで立ち上がると、私に背を向けた。

ねえ。待ってよ。追えば、追いつけるのに、私は妙に腹立たしくてそこを動けない。

--

次の日曜日。いつもの待ち合わせの喫茶店に、彼は現われない。電話も繋がらない。あんな会話で、本当に終わっちゃったの?私は、軽いパニックを起こして、店を出る。

店を出たところで、トンっと、小さな女の子にぶつかった。

「ごめんね。」
慌ててしゃがんだ私を、その母親に手を引かれた小さな女の子はじっと見つめて、そうして手に持っていた赤い風船を差し出して来た。

「あら、いいのよ。」
私が言うと、そばにいた母親が
「もらってくださいな。」
と言った。

「でも・・・。」
「いいんですよ。風船なら、また貰えますから。」

それから、そっと私の耳元でささやく。
「この風船、決して手を離さず、あなたのおうちまで無事持って帰りなさい。そうすれば、きっと、あなたが失くしかけているものは、あなたの手に戻ってくるから。」

気付くと、私は風船を手にしていて、あの親子はどこにもいない。

--

道をおばあさんが大きな荷物を両手に持って歩いている。私は、目をそむける。目が合ってしまったら、荷物を持ちましょうと言わないわけにいかないから。

--

「あっ。」と思った瞬間、風船が手から離れる。すぐそばでビラ配りをしていた大学生風の男の子が、すばらしい瞬発力で、風船を捕まえてくれる。

「ありがとう。」
ほっとして、私は、手に戻った風船の紐を握り締める。

--

小さな子猫がミイミイと鳴いている。思わず、手を差し伸べたくなったけれど、そこは我慢して、道を急ぐ。

--

そうやって、私の手は汗ばむほどに堅く風船の紐を握ったまま、部屋の鍵をあける。さあ。これで、どう?風船はどこにも飛んでいかなかった。私は手にしたものを離さずに済んだわ。

だがしかし。

驚いたことに、風船は知らないうちに割れてしおれた姿で、握られた紐の先にぶら下がっているのだった。

「なんだ。あんなに一生懸命握ってても、割れちゃったら駄目じゃない。」
私は、苦笑して、くず入れにそれを捨てようとして。

ああ。でも。この風船は、世界でたった一つの風船だったのに、と、握り締めた手を額に当てて、しばらく泣く。


2001年10月25日(木) 彼女は、僕の時とは違う体位で、男と絡み合っている。こんなに積極的な女だとは知らなかったな。

某月某日

「変な髭、伸びたねえ。」
彼女がセックスしながら僕に言う。

「ん?そう?」
僕は、鼻の下にぴょ−んと伸びた髭をひっぱりながら、気がなさそうに腰を動かす。

「んー。もう疲れた。体力ないのな。俺。」
「え?そうなのお?最近、イかないじゃない。」
「んん。そこまで気力が続かなくて。」
「やっぱ、仕事辞めたのがまずいの?」
「かもね。」

僕は、彼女に背を向けて寝る。

「あたし、ちょっと出てくる。」
「こんな夜に?」
「うん。なんか、まだ眠れないもん。」
「気をつけてな。」

バタンと玄関が閉まる音を聞きながら、僕は丸くなって眠る。多分、他の男のところに行くのだろう。それもいいんじゃないか?彼女が僕をここから追い出さなきゃ、何やったっていいさ。

--

某月某日

朝、起きたら、耳が頭の上に生えていた。んー。こりゃまずい。

「おはよ。あら〜。猫みたいよ。」
彼女が言う。

やっぱりまずいよなあ。でも、まあ、いいか。どこ行くわけでもないし。仕事を辞めて、彼女の部屋に転がり込んで、僕は何をするともなくここで暮らしている。彼女も僕を追い出さない。最初の頃こそ、働けだの何だのうるさかったが、もう、最近では何も言わない。夜一人で寝るのが寂しかったから、ちょうどいいんだって。

だんだんセックスもしなくなった。実は、尻のほうにはシッポも生え始めてる。

--

某月某日

僕は、とうとう、猫になってしまった。
これで、彼女の食費の負担が減って、安心だ。

--

某月某日

彼女が男を連れて来ている。前から付き合ってた恋人だろう。もう僕が猫になってしまったから、大っぴらに連れ込むというわけか。

彼女は、僕の時とは違う体位で、男と絡み合っている。こんなに積極的な女だとは知らなかったな。でも、もともと、こういう女だったのかもしれない。僕が仕事で一線級で活躍してた頃の彼女は、本当の自分が出せてなかったのかもしれない。今の彼女のほうが伸び伸びしていてずっとかわいらしい。

それにしても、わざとドアを開け放っているってことは、僕に見ていて欲しいんだろうな。見られてると、燃える?僕は、もう、猫だから人間の女には欲情しないけれどね。欲情どころか、去勢された猫という気分。だけど、希望とあれば、彼女が誰かと寝てるとこ、見ててやるよ。どっちでもかまわない。男が帰った後、彼女のベッドで丸くなって眠ることさえできればね。

--

某月某日

彼女が仕事から帰って来るまで、退屈だったので外に出る。路地を歩いて、いろんな小動物を眺める。この姿で外に出るのは初めてだな。ちぎった新聞紙じゃなくて、土の上で用を足すのも初めてだ。案外楽しい。これぞ、猫という気分になれる。

何人か人がいる。中学生だろうか。僕を見つけて騒いでいる。急にしっぽを掴まれて、蹴られた。目から火花が出るというのはこのことか。痛い。しっぽが切り落とされた。痛い痛い。何やら玉の出る道具で打たれたり。さんざんな目にあって、放り出された。

雨が降って来たが、動けない。

猫でいるのも、案外辛い。

このまま彼女の部屋には戻れないのだろうか。

彼女の部屋で、僕は、彼女の膝で喉を鳴らして、目を閉じていたい。今の希望はそれだけだ。僕は、猫になれて、本当に幸せだった。

雨がやんだら、彼女が捜しに来てくれるとちょっと嬉しい。

おやすみ。


2001年10月24日(水) ねえ。少しあなたのそばにいていい?と彼女が僕の冷たい体に身を寄せてくるから。

僕は歌を歌う人形。そんな風に作られた。

呼ばれれば、出向いて行って、歌を歌う。聞いた人は、みんな涙を流す。素晴らしい歌声だと言う。最初から、人の心を揺さぶる声と旋律をプログラムされただけの人形なのに。それなのに、みな、泣く。

「感動したわ。」
「素晴らしかったよ。」

僕が歌い終わると、みんな僕の手を握り、感謝の言葉を述べる。

泣くことは気持ちいいのだろうか。だから、みんな僕の歌をこぞって聴きたがる。涙を流した後は、人々は、何かが洗い流されたようにさっぱりした表情で、笑顔すら見せて僕を見送る。計算された声と旋律で、泣いたり笑ったり。人は何と単純なのだろう。

僕がやっていることは感動の安売り。

--

その女性の家に、何度出向いたことだろう。いつもいつも、呼ばれて、僕は彼女のために歌を歌う。悲しそうな眼をして、ハンカチを握り、僕が歌い終わるといつも涙を一筋こぼす。

「おかしいわね。どうしてかしら。いつも、最後の部分で涙が出ちゃうの。」
彼女は、慌てて、涙を拭く。
「そのうち、あなたの歌声に慣れて、泣かなくなる日が来ると思ってたのに、その日はなかなか来ない。」

「ねえ。お人形さん。あなたの声はどうしてこんなに心を揺さぶるのかしら?」
「泣かせているのは、僕の声じゃない。あなたの心が泣きたがっているのですよ。」
「どうして分かるのかしら?不思議ね。心も読めるお人形さん。」

ねえ。少しあなたのそばにいていい?

と彼女が僕の冷たい体に身を寄せてくるから。彼女は小さなため息をついて、僕の歯車の鼓動に耳を澄ませている。彼女の体温のせいで、僕の体までが少し温まった気がした。

他の人みたいに、あなたが僕の歌声で、涙だけじゃなくて笑顔を見せてくれる日が来るといい。僕は人形だから涙を流さないけれど、涙には悲しい涙と嬉しい涙があることは分かる。でも、僕にはどちらもキラキラと素晴らしく輝いて見えるけれども。

「ありがとうね。お人形さん。来週もまた来てくださるかしら?」

--

その日も、僕は彼女の部屋をノックする。

返事はない。

僕は部屋に入る。

彼女は眠っている。

時間が来ると僕は歌い出す。いつもの恋の歌を。魂を震わせる歌を。

彼女は僕が歌い終わっても、起きなかった。

僕の歌を最後まで泣かずに聴いたのは初めてですね。

彼女は人形のように冷たく、動かない。

あなたにとって、泣くことは辛かったですか?それでも、僕は、涙を流す人間がうらやましい。この空っぽの体が涙を流すことができるなら、どんなにいいかと。人形がそんな願いを持つのは変ですよね。

まだ、あなたは眠っている。もう一曲。今日はいつも歌ったことのない歌を。心が安らかに眠ることができる歌を歌ってみましょうか。


2001年10月23日(火) 美しい悪魔のレシピ

その美しい少女は、いつもまっすぐに前を見つめ、まさに存在そのものが、正義であり、強さであり、美しさであった。しがない個人塾を経営している私は、場違いなほど美しいその少女が部屋に入ってくるだけでどぎまぎとしてしまうのだ。他の生徒もそうだった。人は、あまりに人間離れした美しさの前には、ただ畏怖を感じるのみである。

多分、そのあまりに美しい少女は孤独であっただろう。だが、そのせいで、尚、その美しさは強いものとなるのだった。金持ちの父親と、すばらしい美貌は、だが、決して彼女の人間性を損なうものではなかった。彼女は自らの美しさに応えるように、必死で勉強し、心優しくあろうとしたのだ。私は、自分より遥かに年下の彼女を、人間として尊敬していた。ただ、目を奪われるのだ。奇跡を見ていたいのだ。その宝石は、何にも汚されないように守りたいのだった。

--

ある夜、授業が終わって、生徒達を送り出した後、一人の少年が立っているのに気付いた。

どこかで見た?

「きみ、何か用かい?」
「ねえさんのお気に入りの先生を見に来たんだよ。」
「もしかして、彼女の双子の弟かい?」
「そうだよ。一卵性。良く似てるだろう?中身は違うけどね。」

ああ。だから、どこかで見た顔だと思ったのだ。だが、少年と少女という違いだけではなかった。姉のほうが美しく真っ直ぐな黒髪を垂らしているのに引き換え、弟のほうは、フワフワと踊るような髪を金色に染めている。
「似てないな。」
「でも、顔は一緒だよ。」

ニヤリと笑う。その邪悪な微笑みに、僕はドキリとする。同じ顔の筈なのに、彼の微笑みは何とエロティックなのだろう。

「じゃ、ね。また、遊んでよ。」

--

その踊るような金髪は、それからというものことごとく目に付くようになった。地元の不良達と一緒に、煙草を吸い、酒を飲む。

姉のほうが僕に言う。

「弟に会ったのでしょう?」
「ああ。最初は誰か気付かなかった。」
「昔はいい子だったのに、いつの間にかあんな風になってしまったんです。」
「顔は一緒の筈なのに、全然違うね。」
「ええ。」

彼女は、ため息をつき、テキストをしまう。

--

夜、アパートに帰る道で、僕は、フワリと誰かに抱きつかれて、驚いて叫ぶ。

「僕だよ。大声出さないで。」

双子の弟クンだ。

「飲んでるのか?」
「うん。家にいられなくて。飲まずにいられない時ってのは、子供にだってあるんだよ。」

彼が吹きつける息が熱い。

「酒臭いぞ。」
「堅いこと言わないで。」

彼は、そのまま、絡めた腕に力を入れて、僕に口づけてくる。僕は驚いて彼を突き離そうとするけれど体が動かない。何と邪悪な。天使と悪魔の双子は、どこまで僕を振り回せば気が済むのか。僕は、その若い魅力に逆らえずに、彼の唇を受け入れる。

「先生、ねえさんじゃなく、僕を見てよ。」

何も言えないで立ち尽くしている僕に、彼は笑いかけてどこかに走り去ってしまう。

--

その、性悪な弟は、僕が逢いたくて身もだえしているのをあざ笑うように、時折フラリとやってくる。こんな子供一人に何を振りまわされているんだろう。双子の姉にはカケラも存在しない、匂い立つエロスを身にまとって。

--

ある夜、僕のアパートをノックする音。

また、その小悪魔が僕をからかいにやって来た。

「どうしてここが分かった?」
「好きな人のことなら、何だって分かるんだよ。」

彼は笑う。僕に抱きつく。びっくりするくらい強い力でしがみついてくる。

「ねえ。抱いてよ。」
「抱いてって?」
「こうやって、強く。」
「僕のこと、馬鹿にしてるだろう?」
「何言ってるんだ?」
「ねえ。僕のこと、本気で考えてくれてないだろう?みんなそうだよ。ねえさんのことは誰も傷付けない。みんなして守るんだ。でもね。あの美しさはどこか人をおかしくする。ねえさんに近付き過ぎると、あの美しさを傷付けたくなるらしい。で、どうすると思う?」

彼は、シャツを脱ぐ。

赤いミミズ腫れが、幾筋も走っている。

「ねえ。僕は代用品じゃないよ。僕は、僕だよ。」
「分かってるよ。」

しがみつく細い腕。もう、決して振りほどくことはできない。彼の金髪が、泣いているように震える。瞬間、少年が天使に見える。

本当は、どっちが天使でどっちが悪魔なのだろう。

美しい悪魔はどうやって生まれて来た?純白無垢な白い羽、闇に溶けゆく赤い涙。

それはそれは悲しいレシピ。


2001年10月22日(月) 私が忘れてしまえる日が来たら、あなたはまたあの女の所に戻るんでしょう?そうでしょう?

今日も雨が降る。雨が降ると、黄色いレインコートの小さな姿が、私に手招きをする。差し出された小さな手。握り返したいのに、いつも見失う。

「もう、忘れてしまえよ。」
夫が私を抱き締めて、言う。

「あなたは?悲しくないの?どうして忘れられると言うの?」
「そりゃ悲しいさ。僕だって辛い。だけど、辛そうなきみを見てるほうが辛い。きみは笑顔をなくしてしまった。」
「だって、どうすれば?あの子は、私達を捜して、雨の中を歩いているわ。」
「ねえ、僕の愛しい人。もう忘れておくれ。悲しい気持ちを。」
「いいえ。いいえ。忘れちゃ駄目なのよ。」

--

大雨の降る日。私達の小さな息子は川に転落して亡くなった。

そうして、夫は、戻って来てくれた。もう、長いこと家を空けていた夫が。あの女性の元から帰って来てくれた。私は、自分を責めて泣いたけれど、夫は「疲れていたんだろう。」と。「あれは不慮の事故だよ。」と、慰めてくれた。

もう、忘れろと?
どうすれば?

あの子の小さな手。黄色いレインコート。雨に煙る街角で、黄色い長靴が駆けてゆく。

--

「あなたは、あの子とあまり長い時間一緒にいなかったから、あの子がいなくなっても悲しくないのよ。」
私は、つい、彼を責める。

悲しそうに私を見る夫。

「私は、いつも、この小さな家であの子と二人きりだったのよ。」

私は、彼が悲しむのを知っていて、恨み言を繰り返す。何度も何度も繰り返す。この怒りも悲しみも消えてしまわないように、自分に言い聞かせる。忘れてしまえ、なんて、どうして簡単に言えるのかしら?ねえ。悲しみも苦しみも、私が忘れてしまえる日が来たら、あなたはまたあの女の所に戻るんでしょう?そうでしょう?

--

今日も、雨が降る。土砂降り。

街の中を、消防署の警戒を呼びかけるアナウンスが響く。

あの日も、こんなひどい雨だった。川は増水していて、ごうごうと荒れ来るっていた。何もかも、根こそぎどこかに連れて行こうと待ち構えていた。私は、息子と一緒に、雨の中夫を迎えに行ったのだ。そう。こんな雨の日は、一緒にいなくちゃ。

どこもかしこもびしょ濡れで、私の手にしがみつく小さな手も、雨のせいで、ちぎれてどこかに行ってしまいそうだった。

「ママ?」

増水した川を眺めていると、あの子が私を呼んだのだった。

「ねえ。タクちゃん、パパに帰って来て欲しい?」
「うん。」

そうよね。パパ、早く帰って来ないかしら。

それから。

私は、小さな手を離した。川があの子を呼んでいたから。立ち止まっている暇はないよ。急いでいるんだよ。だから、さあ、早くと。

ねえ。黄色い体はあっという間に、川に包まれて。小さな手が見え隠れして。ママ、一緒に、と、私を呼んでいたのに、私はあの時行かなかった。

そう。私があの子の手を離したのだった。

私は、あの子を?

それは忘れちゃいけないことだったのに、忘れていた。

ごめんね。一人にしていてごめんね。ママ、自分が一人になるのが怖くて、それなのにあなたを一人にしてしまった。

小さな手が差し出される。私は、その手を取る。

ママ、少し遅れちゃったけど、ようやく、パパが帰って来たから。ごめんね。一人で寂しかったね。

手を差し伸べる。小さな手に、やっと私の手が届く。タクちゃん、遅れてごめん。

「行くなーっ。」

あの人の声が背後で聞こえてくる。でも、私は、もうこの小さな手を離さない。


2001年10月20日(土) ね。一緒に。彼女が、そうささやいた気がして、私は、こらえきれずに、抑えていたものを。

その屋敷に主治医として招かれた時、私は、まだ若く経験の浅い医者だった。その屋敷の主人は白髪で悲しそうな顔をしていて、孫とも思える年齢の若い妻と暮らしていた。

「きにみには、妻の主治医になって欲しいのだ。」
「分かりました。」
「実は、妻は、二度ほど流産していてね。ちょっとおかしくなってしまったのだよ。」
「と言いますと?お体のほうが?」
「いや。ちょっとこっちをね。」
主人は、人差し指で頭のほうを差すと、窓から、若い妻が花を摘んでいる姿を悲しそうに見つめていた。

美しい。少女のような明るい笑顔で、花と戯れている。

「きみは、妻の心の病のほうにも付き合わされると思うが、大丈夫かな?」
「どうでしょうか。自信がありませんね。で、どんな風に病んでいるのですか?」
「そのうち、分かるさ。」

主人は、その白髪と、悲しそうな顔のせいで老けて見えるだけで、本当はずっと若いのかもしれない、と私は思った。

「ねえ。あなた、お花飾りましょうね。」
主人の若い妻が部屋に飛びこんで来る。

「あら、お客さま?」
「ああ。お前の体を見てくれるお医者さんだよ。」
「そうなの?よろしくね。」

彼女は、花瓶に、花を一輪一輪。目は澄んでいて、とても病んでいるとは思えない。

--

「ねえ。お医者さま。」
「何でしょうか?」
「あなた、主人から、私がおかしいって聞いてるでしょう?」
「いえ。」
「いいの。隠さなくても。本当におかしいんだもの。」
「でも、私にはどこも悪いようには見えませんが?」
「そう?」
「ええ。」
「主人は、ね。もう長くはないの。あと、半年くらいって言われてるわ。」
「そうだったんですか。」
「ねえ。私、夫を愛しているわ。どうしようもなく。」
「それが自然な気持ちです。」
「自然かしら?」
「ええ。」
「ところで。ねえ。どうして男の人って、時々やりきれないことがあるとお酒に溺れるのかしらねえ?」
「そうですね。束の間、楽しい気分になりたいからでしょう。だけど、その後、もっと辛く
なるんで、また飲んでしまう。そうやって際限なく繰り返してしまう。」
「よくご存知ね。」
「お酒を飲まれるのですか?」
「いいえ。前の主治医がお酒飲むようになって、ね。それで主人が首にしたの。あなた、お酒は?」
「あまり飲みません。」
「それがいいわ。」

彼女は、微笑んで私をじっと見つめる。

「ね。あとで、部屋にいらして。診察してくださる?」
「はい。」
私はかすれた声で答える。

--

彼女は、ゆっくり服を脱ぐ。僕の目を見ない。うっとりとした表情でベッドに横たわる。

「早く。早く。ねえ。お願いよ。」
うわ言のように。

何を?何を急いでいるのか?

「もう、あまり時間がないの。」
「時間?」
「ええ。あと少しで終わってしまうのよ。」
「何が?」
「愛することのできる時間。生を感じることのできる時間。」
「きみは、まだ、若くて健康で、先にはたくさんの時間が待っているのに?」
「いいえ。もう、おしまい。それに、私、子供を生むことができなかったもの。子供が生めなかった女に、一体どんな未来が残されていて?」

彼女の腕が絡みつく。私はその腕を振りほどけない。私は狂ったように、彼女の白い胸に口づける。彼女の肌は、私がそっと撫でただけで震え、愛らしい吐息をもらす。

「早く、入って来てちょうだい。」
悲しそうに懇願する。

もう、抑えきれない勢いが、体内から私を突き上げて来て、それは一生懸命彼女の中に入ろうとする。

「こうしていないと、死んでしまうわ。」
彼女は、泣き出しそうにつぶやく。

ね。一緒に。

彼女が、そうささやいた気がして、私は、こらえきれずに、抑えていたものを放出してしまう。

--

「最近、酒量が増えたんじゃないか?」
主人が私に言う。

「分かりますか?」
「ああ。分かるとも。どうして酒量が増えたかも。」
「すみません。」
「なに。いいさ。」
「知っているのですね?」
「ああ。私は、もう後少ししか命がない。あれの、生を受けとめてやる力もない。だから、きみがあれのそばにいてくれると助かるよ。それに・・・。」
「それに?」
「子供が生まれて来なくて良かった。お陰で、私は、あれの心を独占できた。」

分かっていますとも。あなたが、それでも、そんなに穏やかな顔をしていられる理由も。そして、私が酒を飲まずにいられない理由も。

--

そう。

ある朝、屋敷の主人は静かに息を引き取る。

私がそれを告げると、彼女は、無言でうなずき、部屋に入って内側から鍵を掛ける。

あらかじめ頼まれて渡してあった薬を、彼女は今ごろ飲んでいるのだろうか。

そうして、私は?共にそちらに行ける程、愛されていなかった私は、どうすれば?


2001年10月19日(金) 「その悲しみ、私に売ってくれませんか?」「できることならお願いしたいわ。もう随分と泣いて。もう涙も出ない。」

「別れてくれないか。」

そう夫から切り出された時、私は咄嗟にどう答えていいか分からなかった。ああ。もしかしたら、いつかそう言われるだろうと分かっていた。だけど、今は、もう少し。お願い。一緒にいて。

「先延ばしにしたところで、この先も、きみが僕を解放してくれる日は来ないと思うけど?」
無表情に答える夫。

そう。この結婚は、全て私の一人舞台。私が好きになって、懇願して、籍を入れてもらって、私の両親が用意した家に住んで。全部、私が作り上げて来た。私があんまり泣きつくから、夫も私を可哀想だと思ったのだろうか。彼は、どこまでもどこまでもついて来る子猫を拾い上げるように、そんな私の手を取ってくれて、このままずっとこうやって一緒にいられると思っていたのに。

「どうして?今まで一緒にいてくれたじゃない。」
「分かってるだろう?僕が悪かった。最初から、自分の気持ちをちゃんときみに知らせるべきだったのに。知らせてきたつもりなのに。どうすればいいか分からないままにここまで来てしまった。結局、きみを悲しませることになってしまって本当に悪かった。」

だが、その目はもう私を見ていない。

しがみついた私の手を、そっと振りほどくと、彼は部屋を出て行く。

--

私は、一人その家で泣き暮らす。思い出の詰まった家なんか早く捨ててしまえばいいのに。分かっていても離れられなくて。いつも夫が座っていたソファを見つめ、夫が好んでいたシリアルを買う。

食事もろくにできず、浅い眠りを繰り返す。

見るのはいつも、夫が帰ってくる夢。

「やっぱり戻って来てくれたのね。」
そう叫ぶところで目が醒める。

ねえ。もう疲れたわ。この悲しみは、いつになったら私を解放してくれるの?

--

公園で、ベンチに座ってハトを眺める。この公園にも、夫とよく来た。

少し離れた場所で、黒づくめの男が子供達を相手にパントマイムをしている。手品のように次々と風船を出してみせ、子供達に渡す。毒々しく塗りたくった顔は、楽しげに笑っている。

ふと気付くと、黒づくめの男が、ベンチの隣に座っていた。膝に大きなカバン。

「悲しそうですね。」
と話し掛けてくる。

「ええ。とっても。」
「その悲しみ、私に売ってくれませんか?」
「売る?」
「ええ。代わりに私は、あなたに笑顔を差し上げます。どうです?」
「そんなことが?」
「ええ。ええ。私は笑顔を売るのが商売。」
「できることならお願いしたいわ。もう随分と泣いて。もう涙も出ない。せめて涙を流していられれば、涙を拭くのに忙しくて少しは気も紛れるのに。」

男は、その唇の端を更に吊り上げて言う。
「じゃ、交渉成立。」

黒いカバンを開けると、私のそばをヒラヒラと舞う季節はずれの蝶がフワッと中に入って行った。

「私はこれで失礼。多分、今日の夜はよく眠れますよ。」

私はあっけに取られて男を見送る。そうして気付く。あの狂いそうなくらい激しい感情が私の中からスッポリと消え去ったことに。私は、足取り軽く家に戻る。もう、その家は悲しみの家ではなくなった。私は鼻歌を歌いながら荒れた部屋を片付けて回る。

私は、随分と長いこと時間を無駄にして来た。

久しぶりのたっぷりとした夕食。数ヶ月ぶりに干した暖かい布団で眠る。

そうして、深い、何もない、眠り。

明け方、消えそうな夢を見る。男と女が背を向けて去って行く夢。私は呼び止めるが、振り向いた二人の顔はぽっかりとした空洞で、私はそこで悲鳴をあげる。

まだ薄暗い部屋で、私は、汗を拭う。

ああ。どうして?確かに悲しみは去ったけれど、私は大事なものを渡してしまった。せめて、悲しみにこの身を任せていれば、彼の思い出と一緒にいられたのに。私は、彼と過ごした優しい日々すら引き渡してしまった。

慌ててカーディガンを羽織り、公園に行く。

少し白みはじめた公園で、黒づくめのジャグラーが大きなカバンを開けている。カバンからは、無数の蝶達が空に向かって飛んで行く。それは虹の弧を描くと、あっという間に消えてしまった。

彼は、最後にカバンの中に入り、カバンの蓋を中から閉じる。その大きなカバンだと思っていたものは、一羽の黒い蝶となり、ヒラリヒラリと空に舞い上がって。手を伸ばす私をあざ笑うように飛んで行ってしまった。

一人残された私は、立ち尽くす。

失くしたものは、私の一部。

嘘吐き。笑顔を売ってくれるんじゃなかったの?と空に向かってつぶやいてみる。


2001年10月18日(木) 彼女の唇は燃えるように熱い。パジャマ越しに乳首を噛むと彼女が小さくうめく。

「もう、こんな時間か。そろそろしまおうじゃないか。」
ふと気付くと、彼女と私だけが残っていた。

「週末なんだし、たまにはきみも早く帰りなさい。」
「はい。」

固い表情。気の強い女。

気まぐれに誘ってみる。
「どうだね?帰りに一杯やらないか?」

「いえ・・・。」
言いかけて彼女は
「やっぱりお付き合いさせていただきます。」
と言い直す。

「付き合ってくれるなんてめずらしいね。」
「ちょうど私も飲みたいと思っていたところですから。」

--

駅近くの店に入ると、取り敢えず頼んだビールを飲み干して彼女はほっとため息をつく。

「酒、強そうだね。」
「そんなことないです。年々弱くなります。」
「きみが酔ったところを見てみたいなあ。考えてもみれば、きみとこうやって飲むなんて初めてだ。」
「あら。そうですか?私が酔ったところなんて、いつでも見られますわ。」
彼女は、くすりと笑う。

「やっと笑ったね。」
「え?」
「きみはいつも難しい顔をして仕事をしている。」
「そうかもしれませんね。」

途中からワインに切り替えた彼女は、グラスを重ねるごとに表情をほぐして行く。

「仕事中のきみとは別人のようだな。そのほうがずっといい。」
「あら。口説いてるんですか?」
「かもな。」
「部長は、あまり変わりませんね。」
「美人を前にして飲んでいると、酒じゃないものに酔っちまう。」

彼女は、もうすっかり出来あがってるのか、笑い転げている。

「ひとつ聞いてもいいかな?」
「なんでしょう?」
「なんで離婚したのか、教えてもらってもいいかい?」
「離婚、ですか?そうですね・・・。部長は?結婚生活って楽しいですか?」
「そうだなあ。いいこともあれば、うんざりすることもある。ごく普通だよ。」
「私も。私も、ごく普通の結婚だったんですよ。なんていうかな。握力が足らなかったんでしょうね。ちょっと面倒なことがあるとぐっと握っていられずに、手放しちゃった。それだけのことなんですよ。」
「そうか。」

そろそろ終電の時間だから、と、店を出る。

「今日はごちそうさまでした。」
くるりと背を向けて去っていく彼女の背を、今日はこれ以上誘うまい、と、見送る。

--

翌日、彼女は、また、固い表情の女に戻って、てきぱきと仕事を片付けて行く。また飲まないか、と誘うきっかけもなく、日々は過ぎて行く。

そんな彼女がめずらしく仕事を休んだので、気になって電話を掛ける。

「どうしたんだね?」
「あ。部長。申し訳ございません。」
「欠勤なんかしたことないから、心配じゃないか。」
「ちょっとこのところ、微熱があって。」
「そうか。で?病院は行ったの?」
「行ってないんです。」
「行かなくちゃ駄目じゃないか。」
「ええ。そうなんですけど。」
「今日は?何か食べたの?」
「いいえ。」
「そりゃ良くないな。今から何か買ってそっちに行くから。」
「そんな・・・。」
「駄目かな?」
「いえ。いらしてくださったら嬉しいです。」

私は早めに仕事を切り上げて、彼女のアパートに向かった。

パジャマを着たまま玄関口に出た彼女は、少し赤い頬をしている。

「どうなの?」
「大したことないと思うんですけど。ずっと熱が続いてるから。」
「そりゃ、まずい。とにかく、座りなさい。」
「ええ。」

ソファに座った彼女は、そっと私の肩に頭を持たせかけてくる。

「明日は、病院に行くんだよ。」

ふと見ると、彼女は泣いている。
「怖いもの。ずっと一人でやって来たのに。本当は病院に行くの、怖いんです。部長は、私が強い女だって思ってるでしょう?ぜんぜん、そんなことないんです。」
「分かっているよ。だから、今日だって心配して来たんだ。」

私の手が彼女の華奢な手を包む。

少し熱っぽい彼女が、身を寄せてくる。
「体にさわるよ。」
「いいんです。」

彼女の唇は燃えるように熱い。パジャマ越しに乳首を噛むと彼女が小さくうめく。細い体がしなり、白い足が私に絡みついてくる。

「ねえ。」
「ん?」
「私を壊して。」
「ああ。」
「元に戻れないくらい、めちゃくちゃにして。」
「分かってるよ。一緒に、どこか行こう。もう、戻って来られなくていい。」

細い腕がしがみついてくる。泣き声のような声が長く響く。か細い悲鳴と同時に、彼女がきつく私の腕を掴む。

「手を離さないで。ぎゅっと握ってて。ここにあるものがどこかに行ってしまわないように。」
彼女の手が、子供のように私の手を求めてくる。

--

翌日、彼女のアパートを訪ねるが、誰も出ない。

後ろをすれ違った住人が
「引越して行かれましたよ。」
と、教えてくれる。

私は、体の力が抜けたようになり、そこに立っていられなくなってしまう。

「離さないで」と言ったのはきみじゃないのか?

だが、しかし、心のどこかで私の嘘を、きみは知っていたのかもしれない、と思いながら、アパートの階段を降りる。今の結婚生活を握った私のこぶしは、あまりにも固く結ばれていて、ほんとうはどこにだって行けないのだろうから。

それでも、一瞬掴んですり抜けていったそれがあまりに大きな穴を残して行ってしまったことに、少し泣く。


2001年10月17日(水) 何でも見たものを信じるのは良くないわ。それは自分の妄想が生み出したものかもしれないのに。

「ねえ。あの人、だれ?すごくきれい。」
「さあ。転校生じゃない?」

私は、その美しい黒髪に、しなやかな手足に、見ただけで胸がときめく。

「あら、女に興味があったっけ?」
「そういうわけじゃないけど。きれいなものはきれい。見惚れちゃうわ。」
「それよかさ、今度の化学の教師、ちょっといい感じねえ。」
「そうかしら?」
「あたしの好み。」
「ふふ。相変わらずね。」
「じゃ、あたし、今日部活のミーティングがあるから、さき帰ってて。」

--

下駄箱で、彼女に出会う。私を見て微笑む。

「あなた、隣のクラスでしょう?一緒に帰らない?」
「ええ。」
「まだ、お友達がいなくて。この前、リョウコさん?あなたの友達。彼女とあなたが同じ方向に帰ってるの見かけたわ。」
「じゃ、同じ方角?」
「そうみたいね。」

彼女の顔が動くたびにその髪の毛がサラサラと揺れる。カラスの濡れ羽色とはよく言ったもので。彼女の美しい顔を更にその黒髪が引き立てる。

「きれいな髪ね。」
「ふふ。ありがとう。この髪のおかげで、随分得したわ。」
「見惚れちゃう。」

そう。私はなぜか彼女から目が離せない。

別れ際、彼女は私の指先を握って言う。

「ねえ。お友達になってくれる?私のこと、アサミって呼んで。」
「ええ。」
「それにしても・・・。」
「え?」
「目は罪深いわね。人の心をもてあそぶわ。人は何でも目で見たものを信じてしまう。そうして、それが真実だと勝手に思いこむ。そうでしょう?」
「言っている意味が分からないわ。」
「ふふ。ごめんね。あなた、今日校舎からずっと私を見てたでしょう?」

--

「ねえ。あのアサミって女、嫌い。」

あらら。またリョウコの「あの女、嫌い」が始まった。

「なんで?」
「だって、先生もアサミにばかりかまって。」
「しょうがないわよ。あれだけ人目を引くし。何より、勉強ができるんだから。」
「なんか気に入らない。今日だって職員室でずっとあの女が先生のことつかまえて話してるんだから。」
「じゃ、リョウコも化学、もうちょっと頑張ったら?」
「だって、苦手なんだもん。」

その日から、リョウコの妄想は激しくなる。アサミを憎み、化学教師に付きまとう。

「ねえ。よしなさいよ。先生、困ってるわよ。」
「いいじゃない。アサミばっかり可愛がるなんて許せないもの。」
「リョウコ、あなた最近おかしくなっちゃたね。」
「そうかしら?アサミと陰でコソコソ仲良くしてるあなたのほうがずっと嫌なやつだわ。」

私に言葉を投げつけると、リョウコは化学教師に会いに準備室のほうに行ってしまった。

--

「遅かったわね。」
もう、外は薄暗い。準備室に行ったきりのリョウコが心配で、戻って来るのを待って声を掛けた。

「ねえ。今ひどいもの見てたの。」
「なに?」
「先生がね。あの女と。」
「あの女?」
「アサミと。」
「どうしたの?」
「抱き合ってた。あの白い体。黒い髪。悪魔だわ。」
「何言ってんのよ。早く帰ろう?」
「あの女が先生をおかしくしちゃったのよ。殺してやりたいくらい。」
「リョウコ、ねえ、落ち着いてよ。」

リョウコはフラフラと走り出す。

ねえ。待って。あなた、何を見たの?

リョウコの悲鳴が聞こえる。慌てて裏庭のほうへ行くと、そこに、カラス。リョウコの頭上を舞う。血の流れる顔をおさえるリョウコ。なおも襲いかかるカラス。リョウコの目を狙うくちばし。

背後でアサミの声がする。

「ねえ。何でも見たものを信じるのは良くないわ。それは自分の妄想が生み出したものかもしれないのに。ね?」

じゃあ、何を信じれば?

振り返ってもアサミはいない。

私はカラスの羽を拾い上げる。

人は容易く信じる。私だって、愚かにもあなたの美貌を信じている。目にうつるものが全てでないのなら、目にうつらない何を信じれば?


2001年10月16日(火) 男が、私に子供を産んでくれ、と言った時、それはかなわぬことだと分かって、静かに首を振った。

その時も、私は大きな光を作り出していた。その瞬間の孤独で胸ときめく気持ちを、どう伝えようか。

そうして、宇宙に新たな星がまた一つ生まれる。

遠く離れた場所で、会話が聞こえる。

男の子が泣いている。母親が抱き締めて、低い声で話している。
「ほら。今、新しいお星さまが空に生まれたよ。あれはきっとパパの星よ。ああやって空から見ていてくれるのよ。」

私は、一仕事終えて、その会話に耳を傾ける。

--

私は、生まれた時から、長い長い時間、こうやって星を作り出す民として、宇宙をさまよっていた。凍てつく空を、たった一人で。それはとても寂しくて、昔は耐えられないほどの孤独に胸が潰れてしまいそうだったけれど。いつからか、もう、自分がこうやって光を生み出している理由も、何も考えなくなった。

それでも、あまりに寂しくて、一度だけ人間の男と暮らしたことがある。自分が生まれ育った冷たい空を捨てて、乾いた大地に降り立ち、一人の男と出会った。男は、私がどこから来たか聞かなかった。私も、どこから来たとも言わなかった。ただ、一目見た時から一緒に暮らすことを決めて。私は男と畑を耕し、作物を育てた。誰かと一緒にいることの幸福を知り、私は空に戻れないと思い始めていた。

だが、男が、私に子供を産んでくれ、と言った時、それはかなわぬことだと分かって、静かに首を振った。

「どうして?」
男は、悲しい目をして訊ねる。

「それは無理な話。」
私は、空を見上げる。果てしのない空を。

人間の生涯はあまりに短く、すぐに尽きてしまう。それに比べて、星作る民の命は長い。星よりも長い。私は、愛する男と愛する我が子の消えゆくさまを見る勇気がなかったのだ。

男を置いて、私は去る。

また、孤独に戻る。

男のために、新しい星を作る。あたたかくて小さな星の光に、ほんの一瞬手に入れた愛を封じこめて、空に送り出す。

人が楽器を奏でるように、歌を歌うように、私は光を生み出さずにはいられない。

--

だが、私の命とて、いつかは尽きる。

私は、自分の力が衰えたのを感じ、その準備を始める。最後に、自分の命を封じこめて、光となろう。無数の輝く星の一つとなろう。

残っている全ての力を注ぐ。

私の体内で、その永遠とも思えるような長い歳月を封じこめた魂が炸裂する。

そうして、私も星となる。これからは、ここが私の住み場所。

--

「ねえ。パパ。新しいお星さまだよ。だいだい色の。」
「ほんとうだね。やさしいあったかい光をした星だね。」
「ねえ。パパ、人は死ぬとお星さまになるって本当?」
「ああ。ほんとうだ。」
「じゃあ、もし、パパやママや僕のうち誰かが死んでも、空からずーっとみんなを見ていられるんだね。」
「そうだよ。」

私は空にいて、届いてくる声に耳を傾ける。

永遠だとか、生きてきた意味だとか、幸福だとかについて、考える。


2001年10月15日(月) 私、本当に、手紙に恋していたのに。この手紙を書く人を、本当に愛していたのに。

「ねえ。僕の代わりに、僕の新しい妹に手紙を書いてくれないか。」
と、その美貌の息子は私に言う。

足を引きずってあるく、醜い私は、お仕えしていた奥様が後妻として嫁いだ先で、その美貌の青年と遭ったのだ。奥様のたった一人のお嬢様は体を悪くして療養施設に入っている。そのお嬢様に、手紙を書けと。

「何でも、妹が大きくなったら、僕の花嫁になるらしいからね。愛情たっぷりの手紙を頼むよ。僕に恋をするような。」
「分かりました。」

この屋敷は広過ぎる。この、悪い足では、どこに行くのもひどく時間がかかる。夜になると、旦那様の目を盗んで奥様と、美貌の息子の笑い声が響く。私は部屋に戻り、手紙を書く。愛を込めて。そう。愛を。お嬢様の愛らしい笑顔を思い出しながら。それだけが私の喜び。

すぐに返事は来る。

「おにいさま、お手紙ありがとう。新しくおにいさまができたと、ママに聞いて嬉しくて眠れませんでした。ここは寂しいです。お友達もいない。早く体が良くなって、ここを出られるといいです。」

私は、兄として、手紙を書く。美貌の写真を添えた手紙を。ああ。これだけ美しければ、私だって愛の言葉が書ける。こんなに美しければ、口をついて出てくる言葉を誰も笑ったりはしないのに。

--

「おにいさま、早く逢いたいです。私、昨日で15の誕生日を迎えました。おにいさまが送ってくれたドレスを着て撮った写真を送ります。16になったら、おにいさまのお嫁さんになっても恥ずかしくないような素敵なレディになりたいです。愛するおにいさま。おにいさまの手紙を読んで、元気になろうと思ったんです。手紙でしか知らないのに、おにいさまのことが大好き。あと1年。あと1年したら逢えるのね。」

私は、その手紙を、息子のところに持って行く。

添えられた、バラ色の頬の美しい娘が、あの小さかったお嬢様?私は、胸が高鳴る。息子は、その写真を見て、満足そうに微笑む。

「僕の可愛い花嫁は、もう、僕にぞっこんのようだね。本当にきみはよくやってくれるよ。」

私は床に投げ出された手紙を拾う。

--

美しいきみ。僕の心の全て。もうすぐ、きみはここに来る。そうして、僕を見て嫌うだろう。醜い私を見て。それまで、もうしばらく、僕は恋される男のふりをして手紙を書く。

本当のところ手紙を読んで何が分かるというのだ?きみが恋したのは、本当は手紙じゃなくて、写真なのに。幾通もの手紙から、きみは何を読みとっているのだろう?

--

そうして、もうすぐお嬢様の16の誕生日が来る。

婚礼の準備が整えられる。

手紙の束を手に、私は、自分の役目が終わったらどうやって生きていけばいいのだろうと考える。長い日々、手紙を書くことで、ようやくこのつまらない人生にしがみついていたというのに。

彼女が乗った車が、屋敷に到着した。花のように美しく、目をきらきらと輝かせて。その潤んだ瞳が、美貌の息子をとらえると、微笑み、走って行って飛びつく。私は目を反らす。

--

明日が婚礼という日、私は、屋敷の塔に上がる。生きる望みを失った今、私の命は続ける価値を失った。

だが、先にそこにいたのは、婚礼衣装を着た、明日の花嫁。

「おじょうさま・・・。」
「私、分かっていたわ。あなたでしょう?」
「ええ。すみません。」
「なんて愚かだったのでしょう。私も。そうして、あの人も。あなたも。」
「騙すつもりはなかったのです。」
「私、本当に、手紙に恋していたのに。この手紙を書く人を、本当に愛していたのに。でも、手紙だけでは何も伝わらなかったし、何も変えられなかったのですね。」

抱えていたリボンを巻いた手紙の束を、私に向かって投げ出すと、その花嫁はゆっくりと窓から身を投げる。月の光が凍るようにあたりを照らし、闇に純白の衣装がひらひらとゆらめいて、消える。

私は、手紙を拾い上げ窓の外をじっと見下ろして、そこから動けない。

失ったものは長い歳月。伝えられなかった心。


2001年10月13日(土) 私は彼女とは違う。どうすれば私の命を賭けて愛した人を忘れられるというの?

残業ですっかり遅くなり慌てて帰宅した。妹が待ち受けていたように私をにらみ、冷ややかな言葉を浴びせる。

「また、仕事押し付けられたのね。要領が悪いんだから。」

私は、むくんだ足をひきずって、冷蔵庫へ行き、牛乳を取り出す。

「だって、しょうがないじゃない。一人休んだんだから。」
「だいたい、おねえちゃんは、自分じゃ人が好いと思ってるんだろうけど、結局はいい子になりたいだけじゃない。」
「はいはい。別にあなたに迷惑かけてるわけじゃないんだから、残業くらい勝手にさせてよ。」

今日は機嫌が悪いみたい。

「おばさんから電話、あったわ。」
「なんて?」
「おねえちゃん、お見合いしないかって。」
「またぁ?」
「ねえ。おねえちゃん。頼むから、いい加減おばさんの道楽に付き合ってあげてよね。」
「私は嫌だわ。」
「どうして?」
「いつも言っているでしょう。カツユキさんを待ってるもの。」

妹は、わざと大きくため息をつくと、いきなり怒り出す。
「いい加減にしてちょうだい!あの人は、もう戻って来やしないの!おねえちゃんを捨てて、行っちゃった人なのよ?どうしてそれを認めないの?おねえちゃんだって分かってる癖に。ずっと連絡もなくて。おねえちゃん、このままじゃ、ずっと独身で年取っちゃうわよ!」
「いいえ。彼は戻って来るわ。」
「まったく。おねえちゃん、どうかしてるわよ。とにかく、おばさんにはおねえちゃんから電話しといてよ。」

妹は、怒ったまま、自分の部屋に戻り乱暴にドアを閉めてしまった。一体、どうして彼女はあんなに怒っているのかしら?

--

恋人のカツユキがいなくなって、もう2年。両親を亡くし、途方に暮れている私達姉妹の前に現われて、亡くなった父の部下だったと名乗った青年。私達は、彼を兄のように慕った。快活な妹と違い、男性と付き合った事もない私は、次第に彼にひかれて行き、食事も喉を通らないくらいになった。それを見かねた妹が、カツユキに私の気持ちを伝えてくれて、私達は恋人同士となった。

妹から見れば歯がゆいくらいゆっくりした恋。それでも、私とカツユキは、たくさんのことを話した。手紙も交わした。そうして、自然に結婚の約束をした。

妹もとても喜んでくれて。

そう。私達は結婚を控えて幸福の絶頂にあったはずなのに。突然にカツユキは一通の手紙を残していなくなった。

「また戻って来るから、待っていてくれ。」
と。
それきり。

どこに行ってしまったのか?それから私の待つ日々が始まった。

妹は、もう忘れてしまえ、と言う。私は妹と違う。どうすれば私の命を賭けて愛した人を忘れられるというの?

--

おばとの電話で無理矢理見合いすることを約束させられてしまい、私は、心の中でカツユキに謝る。どうして、あの人が生きて戻ってくることを、みんな否定するのかしら?

そんな時、郵便受けに一通の手紙。

カツユキからだ!

「長いこと待たせてごめん。早くきみに会いたい。」
と。

この字。なつかしい字。涙がにじむ。

バイトから戻って来た妹に、急いで手紙を見せる。途端に青ざめる妹。

「嘘!そんな筈ないわ。絶対、嘘よ。戻ってくるなんて!」
「何言ってるの?これカツユキさんの字よ。ねえ。やっぱり待っていて良かったわ。」
「嘘、嘘、嘘。」

妹は、裸足のまま、玄関を飛び出す。私は慌てて後を追う。裏山に登って行く妹を追いかける。ねえ。どこへ行くの?

裏山の薄暗い場所。私達姉妹が、幼い頃、ままごと遊びをした、笹で覆われた隠れ家。

妹が、地面を這いつくばり、狂ったように素手で土を掻いている。

「このあたり。このあたりに確か埋めたのよ。生きているわけないわ。」
「何を?何を埋めたの?」
「あの人よ。あたしを裏切って、おねえちゃんと結婚しようとした、あの男よ。」

ああ。そんな筈はない。

妹は何を言っているのだろう?

この手の中にある手紙は確かに彼の。

狂っているのは、私か、妹か?


2001年10月12日(金) これはどうしたことだろう。人形は愛らしく微笑む筈ではなかったのか?

生命維持装置につながれた娘の小さな体が痛々しい。顔は包帯で巻かれ、あの美しいきらきらと光る瞳を見ることはできないのだと思い知らされる。

「このままですと、」
医者がようやく口を開く。

「なんですか?」
「持って今月いっぱいでしょう。」
「そんな・・・。」

私は、ハンカチを握りしめる。

6歳の娘は、知人の家族に同伴されて一泊で遊びに行っていたのだ。事故が起こったのは、その帰り道。対向車が突っ込んできて、娘達が乗っていた車は横転した。私が病院に駆け付けた時には、もう、娘は昏睡状態だった。ああ。なんということが起こったのだろう。

「ねえ。ママ。」と、愛らしくよく動く口。

みんなから愛される、大きくて黒目がちの、瞳。

来年は、小学校に上がるから、と用意したランドセルが、部屋であなたを待っているのに。

「何とか方法はないんですか?」
「無理ですね。」

私は泣き伏す。

--

ロボットへの記憶の移植を提案された時、私は、それがいくら大金のかかることでもいいから、と、その話に同意した。

「時間が掛かることですよ。自分がもとの肉体を失ったことに関して、精神が対応するのはとても大変なことです。」
「分かってます。」
「まず、あなたが、お子さんを、ロボットなどではなく我が子として受け入れることが一番重要なことですが、これが一番難しいのです。」
「ええ。ええ。」

それでもいい。全力を尽くして、娘の心を回復させたい。

--

私は、動かぬ娘の体に語りかける。

もうすぐ、また、ママとお話できるわね。

アイコが大好きだった絵本、ママ持って来たわ。一緒に読みましょう。アイコはママの命。どこにも行かせないわ。

--

「よろしいですか?記憶の移植は完了しました。今から、この、新しいアイコちゃんとの対面ですよ。」

私はうなずく。

美しい、アイコとよく似た瞳を持った人形。今日からは、この子が私の娘。

技術者の手が、スイッチを入れる。

私は息を飲む。

途端に響き渡る悲鳴。アイコの声。

「ママ!ママ!目が見えないの。目が見えないの。真っ暗なのぉぉぉぉ。ママ、助けて。目が。何も見えないの。ここ、どこ?」

急いで抱き締めようとするが体が動かない。耳をふさぐ。これはどうしたことだろう。人形は愛らしく微笑む筈ではなかったのか?

終わるべき記憶は無理矢理目覚めさせられて、出口を求めて悲鳴を上げ続ける。


2001年10月11日(木) 彼の腕が、私の体を引き寄せる。年下の恋人の激しい口づけに、私は、戸惑いを感じる。

幼稚園の保母をしていると、いろんな子に出会うのだけれど、シュウはどこか他の子と違う。どこが?と言われても、うまく言えない。シュウは、私にべったりとなついているのだけど、他の子の甘え方と、彼の甘え方はどことなく違うのだ。

「シュウくん、ママ、お迎え遅いね。」
私は、園児達が描いた絵を壁に貼る作業をしていた。そうして、一人だけ、迎えの来ないシュウがじっと私のほうを見ているのにイライラしていた。

「でも、僕、先生といられるから、嬉しいよ。」
その切れ長の目が、私に微笑みかける。

「先生、これ終わらせちゃうまで、ちょっと待っててね。」
「ねえ。僕、手伝うよ。先生に、絵を渡してあげる。」
「そう?ありがとう。」

早くおうちの人は迎えに来ないかしら。

「ねえ。先生?」
「ん?」
「僕、先生のこと、好きだよ。」
「わあ。ありがとう。先生もよ。」
「僕、先生と結婚したい。」
「ありがとねえ。シュウくんが大きくなっても、先生が一人ぼっちだったらお嫁にもらってちょうだいね。」

子供らしい台詞。子供にとって、最初に結婚を意識するのはやっぱり幼稚園の先生なのかしら?子供達から繰り返し聞かされる、他愛のない求婚。

「ねえ。先生。絶対だよ。」
「うん。」
「ねえ。先生。」
「なあに?」
「僕が死んだら、先生は悲しい?」
「そりゃ悲しいわよお。でも、シュウくんは死なないよ。こんなに元気でおりこうなんだもん。」
「ねえ。ちゃんと答えて。僕が死んだら、先生は泣いてくれる?」
「うん。だって、シュウくんが死んじゃったら、先生、お嫁のもらい手がなくなっちゃうもんね。」

そんな会話をしていると、間もなく母親が迎えにに来た。

私は、シュウを見送ると、ほっとして部屋を片付けた。

そのまま、週末は、シュウとの会話も忘れて、恋人とのんびりと過ごした。

--

電話がかかってきたのは、月曜の早朝だった。園長からだ。

「先生のクラスのタキザワシュウくんが、池で溺れて亡くなっているのが発見されました。すぐ来てください。」

幼稚園に駆け付けると、たくさんの人。警察関係者。

「あなたが担任ですか?」
「はい。」
「念の為、あなたが週末どうやって過ごしていたか教えてください。」
「私ですか?友達が遊びに来て・・・。ねえ、シュウは殺されたの?」
「いえ。まだ分かりません。ただね。シュウくんの手には長い髪の毛が握られていたのですよ。ちょうどあなたの髪のような、長い、ね。」
「私、知りません。」
「ええ。分かってます。」

--

あれから、私は幼稚園を辞めた。シュウの死は事故だということになった。誰も私を責めなかった。当たり前だ。私は、あの週末、シュウとは会っていないもの。だけど、私の髪の毛。どうして?

私は、あの時、泣かなかった。葬儀の席でも。

先生、僕が死んだら、泣いてくれる?

確か、シュウは、あの日そう言った。あれは偶然だったのだろうか?

--

「どうしたの?」

私が暗闇でぼんやりしていると、彼が私の背中を愛撫してくる。

「なんでもない。」
「気になるなあ。」
「なんでもないわ。」
「じゃあ、こっち向いて。きみのきれいな顔を見せて。」

彼の腕が、私の体を引き寄せる。年下の恋人の激しい口づけに、私は、戸惑いを感じる。ずっと若い頃に、何かをどこかに置き忘れて来て、そのまま年取ってしまった女を、あなたはどうしてそんなに情熱的に愛することができるの?

「ねえ。僕を見て。目を反らさないで。」
「待って。ねえ。待ってちょうだい。一ヶ月前に知り合ったばかりのあなたに私の何が分かってると言うの?」
「全部。ずっと長いこときみを愛して来たから。」
「どういうこと?」
「僕、きみのこと何でも知ってるんだよ。ずっと一人でいたことも。ずっと悲しんでいたことも。」

彼は、私の体をすっぽりと包むように抱き締め、私は溺れそうな感覚にとらわれる。ねえ。あなた、誰?なんで私のこと知っているの?

「ねえ。僕が死んだら、きみ、泣いてくれる?」

彼の体が重さを増す。

私は悲鳴を上げる。

彼の体がぶよぶよと青白く光り、濡れた髪の毛が絡みつく。彼の冷たい手が、私の手首をつかむ。

ねえ。僕が死んだら、きみ、泣いてくれる?


2001年10月10日(水) 手を伸ばせば、すぐそこにいるけれど。彼女の美しくはりつめた体に触れることはできなかった。

母に言われて、入院中のいとこのアカリに会いに行った。拒食症とリストカットを繰り返していると言う。僕なんかが行ったら嫌がるだろうと言うのだが、母は、アーちゃんはあんたにはなついていたから、行って来てよ。お願いよ。と言う。

「久しぶり。」
「お兄ちゃん!嬉しい。来てくれたんだね。」

その痩せこけた顔に、笑顔が広がる。その細い腕に巻かれた白い包帯を見て、僕は胸がつまる。きみが、あの、ころころと太って元気だったアカリかい?そう言いそうになる言葉を飲み込んで、母からことづかって来た包みを渡す。

「で?どうなの?体は。」
「うん。元気だよ。すっごくね。」
「でも、当分入院なんだ?」
「そう。おかあさんのこと、ちょっと泣かせちゃった。」
「何年ぶりかなあ。」
「えっと。私が中学にあがる前だから、もう6年くらい会ってなかったよね。」
「僕が東京の大学に行っちゃったからね。」
「就職は?」
「うん。一応、こっち。だから、時々遊びに来れるよ。」
「ふうん。嬉しいなあ。」

アカリは、にこにこと僕の顔を見る。

「ねえ。お兄ちゃん、彼女とか。いるの?」
アカリが急にそんなことを聞くから、僕は顔が赤くなる。

「うん。一応ね。東京に置いて来ちゃったけど。高速飛ばせば、日帰りで会えるからね。」
「ふうん。お兄ちゃんも、いちお、男だったってわけだ。」
「はは。何言ってんだよ。」
「だって、不思議じゃん。」
「そうかな。」

アカリの少し寂しそうに見える横顔に、僕は、もしかしてアカリが僕のことを好きなんじゃないかと、どきっとする。はは。まさかまさか。

「ねえ。お兄ちゃん。」
「ん?」
「あたしがどうしてこんなになっちゃったか、分かる?」
「え?いや。聞いてないけど。」
「新しいお父さんがね。あたしのこと、いやらしい目で見るの。部屋、のぞいたり。で、あたし、だんだんおかしくなっちゃって。」
「そうか。全然知らなかった。」
「あたし、男、嫌いなんだよね。大嫌い。いやらしいもん。」
「そうだよな。男って、いやらしい生き物だよな。」
「あ。お兄ちゃんのことは、そんな風に思ってないから。あたし、お兄ちゃんのこと、本当の兄弟みたいに思ってるんだよ。」

僕もだよ。弟みたいだ。アカリが、僕のことを男と見なしてないことに、ちょっと寂しいような、ほっとしたような気持ちになる。

--

そうやって、僕は、時々アカリを見舞った。最初に見舞った頃には、短く男の子のように刈っていた髪の毛も少しずつ伸びて来た頃、アカリは、病院のベッドの上で、また手首を切ったそうだ。僕は、仕事が少しずつ忙しくなった上に、東京の彼女とも離れているせいでうまくいかなくなっていたため、自分のことで手一杯でアカリのところにはしばらく行ってなかった。だから、アカリの事を母から聞いてびっくりしてしまった。アカリはちょっとずつ良くなっているのだと思っていた。

--

アカリから手紙が届くようになったのは、それから間もなくしてだった。アカリは、少し離れた場所にある、農作業なんかしながら少しずつ心を治療する施設に入ったそうだ。

「お兄ちゃん、ここはとても素敵なところです。先生達は面白いし、友達も結構できたよ。今日の体重は、39kg。少しずつだけど増えてます。」

そんな短い手紙が、週に1度のペースで届く。僕は、恋人を失った痛手から立ち直れず、酒ばかり飲んでいたが、アカリからの手紙が心を温めてくれた。早く、良くなれよ。できれば、お前を傷付けた男のことなんか忘れて、恋人でも作っておくれ。そう手紙に書くと、僕は、夜道を歩いて近所のポストに手紙を放りこむ。いつも酔っぱらってフラフラしていた、時折、野良犬がそんな僕を見ていた。

--

「お兄ちゃん、私は随分とかけて、元気になりました。体重は、48kg。作業のおかげで、体も元気になったよ。明日、そちらに戻ります。着いたら、一番にお兄ちゃんに会いに行くから、覚悟しとけよ!」

仕事の忙しさと酒のせいで、ぐちゃぐちゃになった部屋で、僕は敷きっぱなしの布団に寝転んでアカリからの手紙を読んだ。アカリは元気そうだ。一歩一歩、這いあがって来ている。それに引き換え、僕は?

--

アカリが宿泊しているホテルから電話して来たのは、週末の朝早くだった。

「ねえ。ここまで迎えに来てくれる?」
「ああ。行くよ。すぐに。」

僕は、上着を着ると、アカリのいるホテルに向かった。

部屋にいたのは、長い髪をたらした、花柄のワンピースの似合う、美しい女性。これがアーちゃん?

「お兄ちゃん、来てくれたのね。」
「驚いた。どこのお姫様かと思ったよ。」
「私、すっかり元気になったの。お兄ちゃんに会いたくて、毎日、毎日。」
「よく頑張ったね。」
「うん!」

それから、僕達は、近くの動物園を散歩した。その、健康な美しさに、僕はアカリを初めて女性として意識した。アカリの希望で、ハンバーガーの夕食を済ませると、僕達は、ホテルまでの道をゆっくりと歩く。触れてみたい気持ちを抑えて、僕達はとりとめのない話をする。会わなかった日々、アカリがどうやって過ごしていたか。僕が、彼女と別れた話もした。

「ちょっと部屋に寄って行く?」
「じゃ。ちょっとだけ。」

アカリと僕は、ベッドに腰をおろす。長い沈黙。手を伸ばせば、すぐそこにアカリはいるけれど。僕は、彼女の心が男性を受け入れるに充分回復したかどうか自信が持てなかったから、彼女の美しくはりつめた体に触れることはできなかった。

ずいぶんと長い時間のあと、彼女が僕に手を差し出す。僕は、そっと彼女の手を握った。彼女の体がぶるっと震え、それから、深呼吸をするように、ほうっと息を吐く。とても長い時間のような、一瞬のような時間が過ぎ去って、僕達は自然に手を離す。

「ありがとう。これで・・・。」
「ん?」
「ううん。ずっと好きだったの。お兄ちゃんのことが。」
「そうか。」
「今日はありがとう。」
「また、明日、迎えに来るよ。」
「分かった。じゃ、明日、電話するわ。」
「待ってる。」

そうやって。

次の日、待っていた電話はとうとう鳴らなかった。電話が鳴ったのは深夜だった。

母の震える声が遠くで響く。
「アーちゃんがね。部屋で薬を飲んで。」

嘘だろう?きみは、元気だった。

母から後日手渡されたアカリの最後の手紙、やっぱり短かった。
「お兄ちゃんに、最後にどうしても会いたくて。体重を増やしました。昨日はとても楽しい1日だった。生きているのは辛かったけれど。まるでたった一人で暗闇の中に放りこまれたみたいだったけれど。お兄ちゃんにどうしても会いたくて。それだけを思って、施設を出られるように頑張りました。今日は49kg。病気になる前の体重と同じまで戻ることができました。今日は電話できなくてごめんね。」

アーちゃん、きみは、なんと長い時間を掛けて。その命を終わらせるために。

そうして、残された僕は、どちらに向いて歩いていけば?

分かっていたのに。アカリが必死で闘っていたことは。

--

アーちゃん、僕も手紙を書いたよ。きみに届くだろうか。今夜は、素面でポストまで歩こう。月が白い。野良犬が見ている。僕は一歩一歩、まっすぐに歩く。


2001年10月09日(火) いつか僕の手からすり抜けていなくなってしまっても忘れないように、舌でなぞる。

彼女に心を留めたのは、そのピアノの音色のせい。

彼女も僕も、楽器メーカーの雇われ講師だった。子供達のレッスンが終わって、彼女が一人ピアノに向かっている姿を見かけて、僕はそこから動けなかった。上手というより、一人の人間がむき出しになってしまうような、その音色を、僕はドキドキしながら聴いていた。

だから、声を掛けた。

「お茶でも飲みに行かない?」

彼女は微笑んで答えた。
「人妻だって知ってて誘ってる?」
「もちろん。」
「じゃ、行きましょう。遅くならないうちに帰るわ。」
「今のピアノ、素敵だった。」
「嘘ばっかり。」
「本当だよ。」
「私のは、駄目よ。駄目なの。夫がいつも言うわ。」
「でも、好きだ。」
「そんなこと言われたの初めてよ。」

彼女は、大きな楽器店のショウウィンドウの前で足をとめる。

「ねえ。あの人。上手だわ。なんて完璧な音なのかしら?」
「あれはロボットだよ。最近は、ピアノを弾くロボットが流行りらしい。行こうよ。」

僕は、ウィンドウに張りついている彼女の腕を無理矢理引っ張る。

--

それから、僕と彼女は、レッスンの合間をぬって、僕のアパートのベッドの上で抱き合う。彼女が人妻だって、どうだった良かった。ただ、彼女のピアノの音色を聴いていたかったし、彼女の白く伸びた指に僕の指を絡めたかった。

自信なさげに恥ずかしがってそらそうとする顔を捕まえて、僕は彼女に口づける。

「不思議ね。セックスって気持ちがいいものなんだわ。初めて知った。」
「僕も。」
「ねえ。もう帰らなくちゃ。」
「もう1回だけ。」
「だめよ。」

逃げようとする彼女の小さな体を押さえて、その肩を乳房を。いつか僕の手からすり抜けていなくなってしまっても忘れないように、舌でなぞる。奇跡を紡ぎ出す指に唇をつける。

--

彼女の病気が分かったのは、それから間もなくで、泣きながら電話をして来た。あと、もって半年。それでも、まだ体が動くうちは職場に黙って子供達にピアノを教えていた。それから、どんどん具合が悪くなって、もう、彼女はピアノを弾くことができない。僕は彼女の微熱のある体をそっと抱き締める。

「あなたにとって、私はもう役立たずね。抱けない女なんて、ポンコツロボット以下だわ。」

そんなことはない。そんなことはないよ。きみのピアノの音は僕に勇気をくれた。きみの体の記憶は、何よりも美しい。

「完璧に弾こうとすればするほど、曲全体がボヤけてしまって、一度だって完璧に弾くことはできなかった。」

彼女は、いつだってそうやって悲しんでいた。

「もう、今日は帰って。疲れたわ。」
「うん。」

--

翌朝、病院を抜け出した彼女は、あの大きな楽器店のウィンドウにもたれるようにして息をひきとった。

僕が駆けつけた時は、相変わらず、ロボットがピアノを弾いていた。その完璧な音色。自信満々の音。誰かが目の前で死んだって、その旋律は微塵も変わらない。

--

葬儀の席で、彼女の夫なる人物から声を掛けられた。

「生前、妻が大変お世話になったそうだね。」
「お世話になったのは僕です。仕事の上でいろいろアドバイスをもらいました。」
「きみは、あれのピアノの腕前をどう思った?」
「大好きでした。確かに彼女の音は、ところどころ欠落しているものがあって。どこか恥ずかしそうで。それでも、完成を求めてひたむきに弾いてました。」
「私も好きだったよ。だけど、1回も、好きだと言ってやれなかった。」

僕は、煙草を落として、足で踏みにじった。

「それは残念でした。好きだと言ってあげるべきでしたね。」

あの音色は、恋をさせる音だった。今となっては、記憶の中に響くのみ。


2001年10月08日(月) こんな希望のない世の中、耐えられないよ、と毒づいてばかりのあなた達に希望を。

「また、夕べ、帰ってらっしゃらなかったのね。」

家庭教師が、僕に言う。

「眠いんだ。放っておいてくれないかな。」
「いい加減になさらないと、おとうさまに報告しますよ。」
「どうぞ、勝手に。」

ドアが閉められ、僕は、久しぶりに安らかな眠りにつく。

--

ねえ。女の子達は、どうしてああも簡単に、「愛」だの「恋」だの「死んじゃう」だの「殺して」だの、口にするのかな。 僕は、夜な夜な、空っぽな女の子達を相手に、意味のない言葉の羅列にあくびを噛み殺す。

「ねえ。そんなに言うなら、きみの言うとおりにしてあげようか?」

あなたが付き合ってくれなきゃ死んじゃう、なんて言うから、僕はその通りにしてあげる。彼女の体を開いてみたところで、そこには「恋」なんてありゃしない。心なんてどこにあるんだろう。ただ、そこには血と肉が。死んじゃう、なんて言葉を簡単に言わせる「恋」って、一体なんだろう。僕は、むかむかする胃を抑えて、恋する体を切り刻む。

--

「もう、いい加減に起きてくださらないと。」

家庭教師が部屋の電気を点ける。

「もう、夜?」
「ええ。」
「今晩にも、おとうさまが出張から帰って来られますわ。」

美しい家庭教師。冷たい横顔。

「ニュース、見ました。」
「ふうん。」
「あれ、あなたでしょう?」
「さあ。」
「知ってるんですよ。」
「知ってたら、どうなの?」
「私が警察に駆け込むことも可能だってことです。」
「だから、勝手にすれば?それとも、僕が怖い?」

僕はニヤニヤしながら、家庭教師の華奢な手首を掴む。彼女は、一瞬、顔に怒りを走らせて僕の手をふりほどく。

--

空っぽの心。生きている理由なんか、微塵も感じられない、僕という存在。そんな自分に耐えられなくなるから、僕は、夜出かけて行く。何かがあるふりをして、笑い続けて、簡単に「恋」だの「愛」だのにしがみつく女の子達。みんなそんな生活を終わらせたがっているから、僕は、彼女達の言うとおりにする。

えーっと。僕に、性欲なんかないです。悪いけれど。僕はこんなにも空っぽで。そんな僕から何かを欲しがらないでください。その代わり、あなた達の希望をかなえてあげる。こんな希望のない世の中、耐えられないよ、と毒づいてばかりのあなた達に希望を。

--

「ねえ。」
僕は、家庭教師に訊ねる。

「恋って、なんだと思う?」
「その人の存在がなければ生きてゆけないと思う想像力じゃないでしょうか。」
「ふうん。あなたも恋をしたことがあるの?」

家庭教師は、さっと頬を染め僕をにらむ。

ママが、どっかの誰かを好きになったとかで、僕とパパを置いて出て行っちゃってから、パパがどこからか連れて来た身寄りのない女。この女は、パパに恋をしたのだろうか?

いつも、冷たい顔をして、僕に厳しい言葉を言う、この人なら恋なんかしないと思っていた。所詮は、恋だの、というタワゴトを口にする女の一人だったのかと思えば、突然腹立たしい気持ちがこみ上げてくる。

「馬鹿なことをおっしゃらないでください。」
家庭教師は、もとの冷たい顔に戻って、テキストを開く。

僕も、ほっとして、勉強に集中する。ああ。良かった。先生のことも、殺しちゃうかと思った。

今日も早く勉強を終わらせちゃって、夜の街に繰り出そう。

先生、そんな怖い顔して僕ばかり見ないでください。そんなににらんでると、なんだか、とても悲しそうにも見えるから。


2001年10月06日(土) 「あんた、最近笑わないね。」ママが、酔った目で、僕に言う。僕は、犬がしっぽを振らなくなる理由を知っている。

待つのは嫌いだった。

ママは、いつも夜になると僕の手を引いて、路地の奥の安アパートに行く。

「ここで待っていなさい」
と言って、錆びた階段をカンカンと上がって行く。

僕は、弱い明かりの街燈の下で、ママが戻ってくるのをじっと待つ。長い時間。僕は、退屈して、知っているお話を小さい声でしゃべってみたり。前は、あんまり長い時間待たなくちゃいけなくて、ママも恋しくて、ママが入っていったドアのところにそっと耳をつけたことがある。だけど、その時、ドアの向こうから聞こえてくるママの声は、あんまり悲しくて、怖くて、僕は逃げ出した。

もう、待ちきれないほど長い時間の後、ママはドアから出て来て、僕を見つけると嬉しそうに抱きついてくる。香水の匂いが、来る時より少しきつくなっているので僕は咳込みそうになる。それから、僕とママは、手を繋いで帰る。帰る時のママはちょっと嬉しそうで、僕は、随分待たされたことも許してしまうのだ。

--

今夜も、また。

僕は退屈して、街燈の下にしゃがみ込んでいた。

頭上の明かりが遮られたのに気付いて上を見上げると、見知らぬおじさんがいた。おじさんは、僕に飴を握らせて来た。

「ぼく、こんな時間に何してるの?」
「ママを待ってるんだ。」
「かわいそうに。こんな暗くて寂しいところで。おじさんと一緒においで。もっとあったかくて明るい場所でママを待とうね。」

僕は、おじさんの笑顔がなんだかとても怖かったけれど、暗くて退屈なのにうんざりしていたから、黙ってうなずいた。おじさんは、ちょっと離れた場所に止めてある車に僕を乗せて知らない場所を走った。僕は、おじさんについて来た事を後悔した。そうして、きれいな屋敷の部屋に通された。誰もいない。おじさんと僕だけ。おじさんは、ものすごく怖い笑顔を見せて、僕に、お風呂に入ろうか、と言った。僕は逆らえなかった。

それから、いろんなこと。怖くて泣いた。痛くて泣いた。気持ち悪くて泣いた。ああ。どうして、ママをあそこで待っていなかったんだろう。おじさんの力は強くて、僕は、逃げ出すこともできずに、そこにある嫌なものを見ないようにずっと目をつぶっていた。

--

気がつくと、僕は元の場所で、車から降ろされた。

「また、遊んであげるから。」
おじさんは、あの怖い笑いを浮かべてそう言うと、もと来た道を戻って行った。

僕は、体が痛くて、よろけながら僕とママのアパートに戻った。ママは泣き腫らした目をして僕が戻って来たことを喜んだ。だけど、僕がどこに行っていたかは聞かなかった。僕が戻って来たことに安心して、はしゃいで、夜中なのにパウンドケーキを焼くと言い出した。僕は、トイレに行って、何度も吐いた。すっぱい胃液で、涙が出た。

--

それからは、もう、僕は怖くて、ママについて行かなくなった。

小学校の帰り、僕は、スーパーの駐車場のフェンスにくくりつけられた小さな犬を見つけた。飼い主を待っているのだろうか。僕が近寄って行くと、犬は尻尾をちぎれんばかりに振った。僕が手を差し出すと、その手を舐めて来た。

僕は、犬の散歩紐をはずすと、犬はしっぽを振ってついて来る。僕は、誰もいない空き地へ犬を連れて行くと、思い切り犬を蹴った。それから近くにある木切れを拾うと、何度も何度も犬をぶった。犬はキャンキャンと鳴く。僕はその声を聞くと余計に腹が立って、何度も何度も。犬がぐったりしたのに気付いて、僕は犬をほったらかしにして走り去った。

--

もう、ママは、夜、出掛けなくなった。そして、たくさんのお酒を飲むようになった。

「あんた、最近笑わないね。」
ママが、酔った目で、僕に言う。

僕は、犬がしっぽを振らなくなる理由を知っている。


2001年10月05日(金) なぜって?誰よりも娘を愛していたのは、彼女だから。

最愛の妻が癌だと分かった時には、もう手遅れだった。まだ若いため、癌の進行は早く、手術したところで無駄だろうと医師から言い渡された。膝は震え、汗をかき、私は待合のソファからしばらく動けなかった。2歳になったばかりの幼い娘を残して、きみは行ってしまうと言うのか。

重病患者の家族の心をケアするというカンセラーが、そんな私の様子を見て、そっと切り出した。

「一番気がかりなのは、娘さんのことですか?」
「ええ。ええ。娘はまだ幼い。妻も、娘を残していくのは耐えられないと思います。何年も治療を受けてようやく授かった娘なんです。」
「一つご提案をさせていただいていいでしょうか?」
「と、言いますと?」

カウンセラーが切り出したのは、妻の特徴をAIに載せたロボットを購入してはどうか、という内容だった。

「ロボット?」
「ええ。ええ。まだ、一般的ではありませんが、少しずつ実用段階に来ています。そのロボットは、人間の世話をするのが目的ではありません。心理型人間型ロボットと言いまして、残されたご遺族の心のケアを目的とするものです。例えば、長年連れ添った奥様を失った老人の話し相手をする、と言ったことに使われております。」
「はあ・・・。しかしそんなことが。」
「できます。ロボットが愛したり恋したり、ということは昔の映画のような絵空事ではなくなっているのですよ。」
「そうですか。しばらく考えさせてください。」

--

病室に立ち寄ると、妻は、痩せた手でリンゴをむきながら、私に言う。

「ねえ。私、もうすぐ死ぬのでしょう?」
「まさか。変な思い込みしてると治るものも治らないよ。」
「ねえ。嘘は嫌なの。嘘はつかないで。」
「嘘だなんて。」
「私が死ぬのはかまわないわ。でも、チイちゃんはどうなるの?」

穏やかだった妻が、必死で訴える姿がいじらしかった。

数日後、私は、カウンセラーと医師の立ち合いの元、妻と、母親ロボットの事を話し合った。妻は、見ず知らずの他人が娘の世話をするくらいなら、自分の声や姿を持ったロボットに世話して欲しい、と言った。

それから1ヶ月後、妻の癌の転移がまた発見され、妻は逝ってしまった。

--

そのロボットは、私にとって嫌悪の対象でしかなかった。妻とそっくりの顔、声、癖。そのくせ、妻とは似ても似つかぬ緩慢な動作。中途半端に妻と似ていることに、私は憎悪を感じたが、後悔しても遅い。

娘は母親型ロボットになついた。

「ママ、絵本読んで。」
「ママ、お人形遊びしよう。」

妻であって、妻でない、そのロボットを見たくないために、私はよそに女を作り、無理に遅く帰宅した。

3歳を過ぎた頃、娘が急に訊ねる。

「ねえ。パパは、ママがきらいなの?」
「ん?ああ。どうかな。」
「チイね、パパとママとなかよくしてほしい。」
「そうか。」

娘のためにも、と思うのだが、なかなかうまくいかない。

--

だが、そんな私の悩みも、ある時急に解消されることとなった。娘が、少し離れた湖で水死体となって発見された。近所の男の子と遊びに行って誤って転落した、というのだ。

なんということだ。妻だけでなく、娘まで。

私は、ふらふらと帰宅した。家では、ロボットが待っていた。

「チイちゃんは?」
ずっと待っていたのだ。

「死んだよ。水に落ちて。もう、チイは帰って来ないよ。」
「帰って、来ない?」
「ああ。」
「チイちゃん。チイちゃん。私、チイちゃんの好きなお食事、用意しましたわ。」
「そうか。ありがとう。きみは良くしてくれたよ。チイの好きな食べ物って?」
「骨のないお魚。タマネギの入ったスープ。」
「そうか。きみは、僕よりずっと娘のことをよく知っているんだもんな。」

ロボットは、悲しそうに娘の名前を呼ぶ。

--

私は、ロボットを廃棄処分になぞしなかった。

なぜって?

誰よりも娘を愛していたのは、彼女だから。

彼女と娘の思い出を語り合う時、私は、随分泣いたけれども、同時に安らかな気持ちになることができた。

変だね。

娘が、ロボットとの仲を取り持つことになったなんて。

「チイね、パパとママとなかよくしてほしい。」
そう言った娘の言葉を今ごろになって思い出すよ。


2001年10月04日(木) ほら、ちゃんと反応してずるい。結局、待っていたくせに。ずっと私のこと、抱きたいと思っていたくせに。

金色に実り、頭を垂れる稲穂の間に立つ一人の少女。この季節、繰り返し現われるその少女だけが私の意味ある存在なのだと思う。

別に、そういう人々の声に耳を傾けることは私の仕事じゃないだろう、と思っていた。彼らが何を言いたいにしても、私が耳を傾ける道理はないのだと。そうやって長く耳をふさいでいると、心の中に澱のように溜まっていくものがあり、結局吐き出して行くしかないのだ。

私には死んだ人間が見える。

それはふとした瞬間、目前にいる人のそばに姿を現し、何かを言う。たとえば、子供の霊が「タンスの裏に落ちているビー玉」について、何か言う。私はそれを聞いて、場合によっては目前の人にそれを伝える。

いくら知りたくなかった、などと言ってもいろんな事を知ってしまう人間もいる。それが、私に無縁の、そうして、意味を成さないことのように思えても、私は、知り得たことで何か行動を起こさなければならないのだ。

それはひどく苦痛で、私は、しょっちゅう知人に頼んで睡眠薬をもらった。

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心理療法家を目指す知人の男性。アツシというのだが、その男は、どうやら私のことを好きらしい。好きらしい、というのは、友達の噂しているところの話であって、私は知らない。ただ、肩幅の広い、穏やかな瞳をした男が、私の体と心を気に掛けてくれていることは分かる。私は、アツシに、自分には霊が見える、なんて言ったことはない。言えば、多分、彼は好奇心に瞳を輝かせて、あれこれ訊ねてくるに違いない。そんなことになったら、私は多分、アツシの前から姿を消すだろう。

アツシは、どうやら、「癒し系」の男らしい。いつだって、相手の話にじっと耳を傾けているので、悩みを抱えた人間はアツシを相手に心の内を吐き出すという次第だ。私は、アツシになんか何が分かる?と思っている。知っている人間のことを、知らない人間がどうやって理解するというのだ?

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それでも、やりきれない思いを抱えて、精神が粉々になってしまいそうに苦しい時がある。

私はしこたまビールを飲んで、アツシのところに転がり込む。

「どうしたんだい?」
と、彼が目を丸くする。

「何も聞きたくない。聞こえない。お願いだから一人にしてよ。」
アツシは、私に水を飲ませ、震える体を毛布でくるむ。

私は、毛布を払いのけて、服を脱ぐ。

「ねえ。私のこと、好きでしょう?」
「ああ。」
「じゃ、抱いて。」
「そんなこと、急に言われたって、駄目だよ。」
「ふうん・・・。心理療法で、相手の心を見透かしてからじゃないと抱けないって寸法ですか?」
「まさか。ひどいこと言うなあ。」

私は、アツシの服を脱がせ、勝手に始める。どうせ、自分からは何も出来ないくせに、と、怒りをこめて、アツシの体に舌を這わせる。ほら、ちゃんと反応してずるい。結局、待っていたくせに。ずっと私のこと、抱きたいと思っていたくせに。決して言わない。ずるい男。

アツシは、私を抱き締めて言う。
「何か知らないけど、きみが苦しんでいることから解放してあげたい。」

本当にそうできるものならやってみて。

「催眠療法、試してみる?」
私はうなずく。

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暗い階段があって、そこを降りて行くと、いつも見る、あの稲穂の間に立って微笑む少女。

やっぱり。私を待っていた?

少女はうなずく。

そうして、私は、閉ざしていた心の中を知る。

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「どうだった?」
「ねえ。」
「ん?」
「私、ようやく分かったわ。」
「何を?」
「私ね。ずっと辛いことだと思っていた。だから、解放されたいと思っていたわ。」
「僕は、そのための手助けをするよ。」
「でもね。それじゃ駄目なのよ。」
「よくわからないな。」
「ちゃんと苦しむこと。簡単に楽にならないこと。あなたといると居心地が良過ぎるわ。」
「行っちゃうのか?」
「ええ。」

私が殺してしまった妹のところに行こう。

幼い嫉妬が招いた不幸を、私はずっと心に封印していた。

忘れていられたら、私は怒りだけを抱えてもう少し生きて続けていたかもしれない。

心を解き明かすことは、生きる理由にもなるけれど、死ぬ理由にもなるということ。

解き明かされない心こそが、私を生かしていたということ。


2001年10月03日(水) そう。それだけが私の楽しみでした。だから、やめられなかったのです。

毎日顔を見ていると、それが全く知らない人であっても知らず知らずに相手に親密感を抱いてしまうことはないですか?たとえば、いつも、同じ通勤電車の同じ車両。相手がたまに同じ時間に乗り合わせてこないと、体調が悪いのかな、なんて心配したり。

私の場合、通勤は自家用車ですから、その相手は通勤車両ではなく、同じ時間帯に隣の車線を走るある車に乗った女性でした。その女性の車はとても目立っていたので、私ではなくとも目をひかれたと思います。濃いグリーンのミニクーパー、助手席には毛並みのいいゴールデンリトリバーを乗せていますから。そうして、彼女自信は、背筋をきちんと伸ばし、長い髪を束ねていて、襟元から伸びたその白く長い首がまたなんとも言えず爽やかな印象を与えます。

平凡なサラリーマンで、平凡なセダンに乗った私は、彼女の横顔に恋しました。朝、彼女を見かけると気持ちが明るくなりますし、雨が降って渋滞に巻き込まれてもそれが彼女の車と近い位置だと、これまた幸福な気持ちになります。逆に出掛けに妻があれこれと話し掛けて来て出勤が遅れると、彼女の車と逢えないんじゃないかとイライラするのです。

そう。それだけが私の楽しみでした。だから、やめられなかったのです。

ある日、会社から首を切られても、職を失った事は妻に言えませんでした。いつもと同じように、ネクタイを締め、車に乗り込み、通勤しているふりを続けました。そんなことは問題の先送りだとは分かっていても、一日でも彼女の顔を見られない日があるのが耐えられなくて、私は、同じ時間に家を出るのです。

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もちろん、そんな日は長くは続きません。仕事を失った事はすぐ妻にバレました。

「どういう事ですの?」
「すまん。」
「なぜ、ちゃんと言ってくださらなかったの?仕事に行くふりまでして。」
「きみをがっかりさせたくなかったから、次の仕事が見つかるまで黙っていようと思った。」
「なんて独り善がりなことが言えるの?私がお友達から、ご主人大変でしたね、って言われてどんな気持ちがしたと思う?」
「だから、すまん。」

私は、朝、通勤するふりをする習慣を止めざるをえませんでした。夜遅くまで妻と話し合い、翌日は昼近くまで寝る。妻がパートに出掛けるのを見計らって酒を飲む。こんなことを繰り返せば、結果は見えています。

幸いにも子供がいなければ、家のローンを抱えているわけでもない私達は、あっさりと離婚届に印を押すことができました。

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妻が出て行くと、私には、またネクタイを締め彼女に逢いに行く生活が戻って来ました。久しぶりに、いつもの通勤道を通った日、彼女は私を見つけると、何かホッとしたような表情を浮かべて軽く会釈をして来ました。

ああ。覚えてくれているんだ。

私の心は幸福な気持ちでいっぱいになり、その日は眠れないぐらいに興奮しました。それから、毎日、顔が合うと、お互い軽く頭を下げたり、小さく手を振って合図をしたりするようになりました。

仕事を探す時も、同じ通勤経路を通ることができる仕事を、と思うのですが、40歳を目前にした私はなかなか、これという仕事に就く事ができません。前の職場で出た退職金は、さして大きな額でもない上に、妻に半分渡してしまったので、どんどん目減りして行きます。

次第に酒量が増して行きました。朝、彼女に逢う日課以外は、家にこもって酒を飲む日々です。一日中アルコールが抜けなくなって来ました。

このままじゃいけない。

このままじゃいけない。

ただ、彼女に逢うだけの日々。それも、名前すら知らない。

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朝、私は、相当飲んだ後で、足元もおぼつかない状況で車にふらふらと乗り込みました。ひどい顔をしていて、髭もそっていない私の顔を見て、彼女は小首をかしげて心配そうな顔をして見せました。私は、大丈夫だよ、と笑顔を作ってみせ、彼女に手を振りました。

それから、どうなったのでしょう。何もかもが、ゆっくりと起こりました。彼女の車がすぐ近くに迫っていました。私は、咄嗟に、彼女の車にぶつからないように、手が大きくハンドルを切ったのを覚えています。ゴールデンリトリバーの黒い目がじっと私を見ていました。激しい衝撃を感じ、私は、車体に強く抑えこまれて動けなくなりました。手も足も濡れていたので、多分血が流れているのでしょう。彼女の車が、私の車の少し前方に止めてあるのが見えました。彼女は?彼女はどこにいる?彼女は、私の顔を覗き込んでいました。それから、携帯電話を取りだし、どこかに電話していました。警察か消防署でしょう。

それから、彼女はゆっくりと自分の車に戻って行きました。

どことなく、いつも通勤中に見かける彼女とは別人のようでした。よく見ると、彼女の片足は義足でした。

彼女は不恰好に足を引きずり、遠ざかって行きました。

私は車の窓から見える彼女しか知らなかった。

そんなことを思いながら、意識が薄れて行く間、彼女の後姿を見ていました。


2001年10月02日(火) 彼が、絨毯の上に膝をついて、私のスカートに頭を突っ込むのを、眺める。彼が、下着をずらし音を立てて舐める。

少しずつ、肌に当たる風が冷たくなって来る季節。だんだん人の歩調も早くなり、帰る場所がある人とない人では、その表情が違ってみえる気がする。

もう、最後にしよう。

そうやって何度思ったことだろう。それでも、そこが帰る場所だと思いたくて、「おいで」と言われたら嬉しくて。本当はそこは帰る場所なんかじゃないのに、小走りで彼の部屋に行っていた。

彼は、いつもずるい事実を私に突き付ける。

「僕が恋しいんじゃなくて、人恋しいだけなんだろう?」

ええ。ええ。分かってるわ。分かっていても、人恋しいからと言ってあなたを求めたくなるのは、まるっきりの間違いじゃないと思うよ。いくら、本当の愛じゃないといくら自分に言い聞かせたところで、私は何もない空っぽの部屋に戻るより、あなたに抱かれていたかった。

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幼い頃、両親を亡くして、おじとおばのところに引き取られた。そこで、私はさして不幸でもない代わりに幸福でもない少女時代を過ごした。一つ違いのイトコと上手にやっていく方法は、分かっていたから。彼女よりちょっとばかり鈍くて、彼女よりちょっとばかり頭が悪くい子を演じれば、私はその家にいられる。

「まったく、ハルちゃんはドジなんだから。」
と、嘲笑のこもった言葉は、それでも愛情代わりになった。

大学に入った時は、ホッとした。一生懸命貯めたお金と、両親が残してくれたお金で、一人暮らしを始めたから。ようやく私の居場所が出来た。私はそれが嬉しくてしょうがなかった。

近くの設計事務所で始めたバイトも楽しかった。そこの社長や従業員に可愛がられ、ようやく無邪気に振舞うことを覚えた。

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事務所の社長は、やさしい男だった。やさしすぎて、経営なんかに向いていなかった。だから、社長の奥さんは、看護婦を続けて家計を支えていた。

「今日、うちの奥さん夜勤だから。」

20歳になったばかりの私に、ある日社長はそっと声を掛けて来た。私はうなずいた。

社長の自宅にはブランデーと小さなケーキが用意されていた。

「ハルちゃん、おめでとう。」
「ありがとうございます。こんな、わざわざ用意してくださったんですね。」
「ハルちゃん、長いこと頑張ってくれてるから。」
「いえ。私こそ、よくしてもらって。」

それから、慣れない酒を飲み、私は、ふらふらと社長の腕に倒れこむ。
「もう、ハルちゃんは20歳だろう?大人だよ。」
そう言われて、ぼんやりとうなずく。彼の手がスカートの中に入って来るのを、私は少し脚を開いて受け入れる。彼が、絨毯の上に膝をついて、私のスカートに頭を突っ込むのを、眺める。彼が、下着をずらし、ペチャペチャと音を立てて舐める。私は、何か感じたふりをしなくちゃいけないのかしら、と思いながらも、酔って頭ぐるぐるして、自分でもどうしていいのか分からない。そうやって、大して長くない時間、私はベッドの上で、彼の重みを感じている。

夜中に起こされる。

「もう、帰りなさい。うちの奥さんが帰ってくるとうるさいから。」
私は痛む頭を抱えて、夜道を自転車で帰る。

それから、明け方まで冴えてしまった頭にビールを注ぎ込む。

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それから、夜、人恋しくなると彼に電話をするようになった。

さしてセックスのうまくない男。
「もう大人だから、大人の付き合いをしようよ。」としつこいくらい繰り返す男。

ねえ。どう思う?私は、恋愛経験に長けた女友達に相談してみる。彼女は、煙草のけむりを口から吐き出しながら答える。

「そうやって人にごちゃごちゃ相談してる段階で大概の恋愛の結論は出てるようなもんでしょう。別れなさい。」

彼女の言葉に納得する私は、きっと誰かに背中を押して欲しかっただけ。

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設計事務所でバイトした1年3ヶ月。
最後の半年は、社長と寝た。

恋愛にしては短いのだけれど、私は帰る場所がないのに慣れている。

「本当にもう、バイト止めるのか?」
「うん。いろいろありがと。」
「で、俺とのことも?」
「うん。」
「最後もう1回だけ抱かせて欲しい。」
「駄目よ。これ以上好きになる可能性のない男とは、寝る気にならないわ。」
「なるほど。」

よれたネズミ色の上着を着て少し背中を丸めて歩いて行く男の後ろを行きながら、こんなくたびれた男は要らない、とつぶやいてみる。


2001年10月01日(月) 「みんな騙されてしまうんだよ。あの瞳に。邪悪な、瞳。あの眼は淫らで。そう。男を誘惑するのだ。」

私の好きなのはお人形遊び。おかあさまは死んじゃったし、お友達もいないから、毎日、一人でお人形で遊ぶ。お人形には、どれも眼がない。眼は駄目なんですって。おとうさまが言うの。人形の眼は人を殺すんだって。だから、私はお人形の眼をくりぬく。時々訪ねてくるおとうさまと会う時は、私はサングラスをかける。そうしなさいって、おとうさまが。

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「ねえ。おかあさまはどんな人だったの?」
私は、寂しくて使用人に訊ねる。

「とてもおきれいな方でしたよ。」
「そうなの?」
「ええ。異国の血が混じった、何とも言えない美しい色の眼をしていらっしゃいました。」
「その目で魔法をかけたの?」
「魔法を?いいえ。とても、おやさしい、穏やかな方でしたよ。」
「ふうん。」

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おとうさまがいないある日、おじさまが訪ねてくる。

「いらっしゃい。」
「久しぶりだね。なんだい?そのサングラスは?」
「これ?おとうさまが人と会う時はかけなさいって。」
「そんなものはずしてしまいなさい。」
「でも。眼が。」
「眼?」

私は、そっとサングラスをはずす。

「思ったとおりだ。きみは、きみの母上にそっくりだ。その瞳の色。」

私は、おじさまに見られて目を伏せる。

「こっちを見ておくれ。」
「はい。」
「ああ・・・。あの人の、あの瞳を思い出す。うつくしい、はしばみ色の。」
「ねえ。おじさま。おかあさまはどんな人だったの?」
「どんなって、そうだな。とても美しい人だった。それから、やさしくて。歌が上手で。」

また、同じ。おかあさまはやさしくて美しい。みな、口を揃えてそう言う。

帰り際、おじさまは、私を抱き締める。
「きみを手元に置くことができたら。」

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「ねえ。おとうさま。」
「なんだ?」
「おかあさまは、本当はどんな方だったの?」
「もう教えただろう。あれは邪悪な女だった。」
「みんな、やさしくて、美しい方だったって。」
「みんな騙されてしまうんだよ。あの瞳に。邪悪な、瞳。あの眼は淫らで。そう。男を誘惑するのだ。」
「この眼と同じ?」

私は、そっとサングラスをはずす。おとうさまは驚いて私の眼を見る。

「この眼。おかあさまと一緒なんですって?」
「サングラスをかけなさい。」
「ねえ。おとうさま、答えて。」
「その眼でこっちを見るな。」

おとうさまが叫ぶ。

「あの日も、あの男を誘惑して、俺のいない家で交わっただろう。」

そうだわ。思い出した。あの日。おかあさまの悲鳴が聞こえて、覗くと、目のないお人形が。真っ赤に染まった絨毯。あれは。あれはお人形でなくて、おかあさま。そばで血まみれのナイフを持って立っていたのは、おとうさま。

私は、部屋を走り出る。

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「ねえ。おじさま。」
「なんだ?」
「私、あのおうちで怖かったの。」
「お前の父親は狂ってる。」
「ええ。分かったわ。おとうさまは、おかあさまを殺したの。」
「ここにずっといたらいい。」
「ええ。」

私は、おじさまの目を見る。

おじさまの顔が、私の顔にかぶさってくる。

私、おじさまと同じところにホクロがあるわ。

ねえ。本当に、おかあさまの眼は、邪悪な魔法をかける事が出来たの?

眼を閉じようとする私に、眼を開けていなさいとおじさまがささやく。


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