⊂リストカット症候群。⊃ |
2002年02月25日(月) |
あたしの手首には傷が少ない。 少ないというより、ほとんどない。 あるのは、うでに。 桃色に変色した、線の群れが無数にちりばめられている。 腕を切る行為をあたしは、死のう、と思ってしているのではなく。 殺そう、と思ってしている。 最初から、ずっとそうだった、気付けば。
初めて自分を傷付けた日、まだ10歳にもなっていない頃だった。 覚えているのは、泣いた、弱い自分を殺そうと思っていたこと。 強くなりたかった。 どうしてそうしたのかは全く覚えてなんて居なくて。 ただ、強くなりたかった。 『死にたい』とは、数えきれないほど思ってきたけれど。 『死のう』と思ったことは数える気になれば、数えれるほどだと思う。
自傷行為を否定するひとは当然いるし、医者も例外では無いと思う。 それらはあたしが自傷に至る衝動と同じエネルギーを上手く昇華出来るひとで。 また、あたしみたいに自傷という行為で、そのエネルギーの逝き場を見い出しているひともいる。 ただ、同じものに関して世間的に謂れ器用か不器用かなだけ。 自傷に立ち入らないひとは、もしも自覚が無かったとしても、 何処かしらでそのわだかまりを発散出来ているのだと思う。 でもそれは摩擦になって、相手がそれを昇華する時、それがあたしに籠ったりもする。 喜びや、寂しさや、苛立ちを発散させる対象にされて。 自分を抑えて漸く頭をあげられたとしても、空気はエゴに汚される。 だからあたしはひとが嫌いで、恐いのだと思う。 そして結局は弱い自分を殺したいと思って仕舞い、悪循環に陥って。 身動きの出来ない無様なあたしは、発散の対象に自分を選ぶだけ。 弱さをひけらかしているようで、でも強くなりたい意思表示であるそれを。 否定されたり、理解されたりすることが煩わしい。 自傷は生理現象に沿った、ごくありふれたあたしの一部だから。
生きて在る人間として、見えるか見えないかだけの傷なのよ。 だけど、サイトやらでどれだけやりました、って写真はウザイ。 そんな風に感じるようになったのは、ごく最近だろうけど。 それに嫌悪感を抱くのは、あたしはこの痕を否定されているように感じるから。 だからあたしは夏、半袖のTシャツを着ている。 ひとの目を気にしたりもしないし、気にする必要もない。 幾ら傷がついていようと、これはあたしの腕であって、自然。 敢えて書いてみたけれど、あたしには、この腕が必要。
存在している限り、否定されることは苦しいのよ。 否定されているだけじゃ死にそうなのよ。 弱いことが気に入らないの、ちゃんと、生きて往こうと思えるようになれた。 このままじゃ埒が明かない、傷に依存したとしても。 強く生きれるのならば、幾らでも。
⊂自由というものは、⊃ |
2002年02月05日(火) |
誰にでも平等に、きっと有るべきもので。 それを束縛する者は、死に値する。 この世でいちばん大切なのは、自由であり。 命などではない。
腕と、足と、頭と、繋いで。 切られたはずの糸が絡むのよ。 自由だと思って腕を拡げても。 冷たい壁に苛まれている。 走り出す脚に括られた錠のようで。 拘束された頭を、抱えながら泣くばかり。 放してもう、あたしは蛹なんかじゃなくて。 胎児などでもなくて。 ちゃんと自分で感じた筈の十八年間。 誰かに縛られたくなんかない。
御願い、
御願い、
御願い、
御願い、
ねぇ。 此れ以上、あたしを想わないで。 見えないように、触れられないように。 どうにかするわよ。 信じたいと思うなら、最初から何も信じなければいい。 重たいばかりの温かな優しさに。 本当は気付いてる失望を、期待なんてしないでよ。 あなたなんてどうなってもいい、
あたしにあたしの自由をかえして。
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