「静かな大地」を遠く離れて
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2002年07月27日(土) 大きなミズナラの樹の下で

題:398話 あの夕日38
画:砂
話:そう言えば一滴の涙も落とさなかったな、あの男は

題:399話 あの夕日39
画:犬の歯
話:私は、今の兄の気持ちならばどこに行くかと考えた

題:400話 あの夕日40
画:鹿の毛
話:兄はあの水楢の根本に背を太い幹にあずけて、静かに坐っていた

題:401話 遠別を去る1
画:豆板
話:雪乃さんが亡くなったことを虫か鳥のカムイが教えたのかもしれない


三郎さんが亡くなった昨日、信州戸隠の森の中で大きなミズナラの樹を見上げていた。
「下界」が暑くてたまらないのと、先週末の“遠別”探訪の余韻が響き止まないのを
どうにかするために出かけたのだ。美味しい蕎麦が食べたいという大目的もあったし。
戸隠には10年くらい前の冬、一度行ったことがあった。その時、雪に阻まれて行く
ことが出来なかった戸隠神社の奥社をいつか訪れてみたい、そう以前から思っていた。

スキー場を横目に、普通の靴で道路に積もった雪を踏みしめながら奥社の大鳥居の前
までは行ったのだが、そこから先はカンジキでも履かないと足がハマって進めない、
そういう状態の時に山スキーを履いて長い望遠レンズを装着した一眼レフ・カメラを
持った自然写真家みたいな人が目の前を通り過ぎて奥社への参道をスイスイと進んで
行くので、こりゃだめだと諦めたのだ。機会がないまま10年経ったというわけだ。

戸隠は古くからの修験の山で伝奇小説では忍者が修行したりする場所として知られる。
切り立った断崖が屏風のように連なる、荒々しい岩肌の山容が特徴。周囲は一面の森。
中社から奥社へ向かう自然遊歩道の途中で、かなりの樹齢に達すると思われる大きな
ミズナラの樹に出会った。ミズナラは僕が北海道にいたころに、最も親しんだ樹種だ。
冬の山林に入って木の肌だけを見て樹種を見分けることができるようになった、最初
の樹がミズナラだったのだ。その名の通り、水気が多く日当たりの良い南斜面の場所
に多く見られる樹で、秋には沢山ドングリの実をつける。ドングリは冬眠前のヒグマ
の大事な食糧源だという。エゾシカなどを襲って食べるのは、ドングリの生育が悪い
時で、基本的には森の恵みを貪るように食べて、あの巨大な身体を支えているらしい。
そんな記憶も相俟って、ミズナラと言えば僕にとっても北海道の森を代表する樹種だ。

自分では先週“遠別”から戻るまで具体的に戸隠行きを考えていたわけではなかった
と思うのだが、間接的に僕を戸隠再訪へと導いた本があったことに、後で気がついた。
前にもここで触れた、小塩節さんの『木々を渡る風』(新潮文庫)だ。その中の杉の
ことを書いたエッセイの中で、しっかり戸隠神社奥社の参道の巨大な杉並木について
書かれている。あらためて何編か読んでみて、しみじみと素晴らしい良書だと思った。

深閑とした奥社の参道の佇まいも、そこを抜けて辿り着いた社から見上げる戸隠連峰
のサブライム美学に満ちたギザギザの岩肌の質感も、夏空の青さと雲の流動の様も、
この際すべて脇に置いて、森の静けさと鳥たちの声に身を浸しながら想っていたのは
“遠別”のことだった。400話を目安に連載が終わる、という頭もあったせいか、
なおさら最近は落ち着かない思いで新聞を手に取る日々が続いていた。もしかしたら
最後の一日かもしれない、と思いながら。ラストの展開は僕の中では見定めている。
由良さんが志郎の最期の時に見た巨大なハレー彗星の威容を回想しながら、次の周期
が巡ってくる頃の子供たち、孫たちと北海道、日本の在り様に想いを馳せるという、
連載が始まった頃にここで予測した結末だ。三郎さんが静内の山中で見た“妻恋星”
の描写などを思い出すにつけ、やはり最後は星界に話を返すのが美しいというもの。

昨夜、泊まっていた宿の方が、夕食後に蛍を観に連れて行ってくれる、というので
いそいそとついていった。普段の生活で真暗闇というものに接することがないので
足下も覚束ない場所をおどおどと歩くのはなかなか愉しい。そして空を見上げれば
これまで何度と見たことがないような、零れるような星、星、星…。蛍そっちのけ
で首が痛くなるくらい空ばかり見ていた。すごい速さで空をよぎるのは人工衛星か。
樹々の梢の影のあたりから迷い出るように蛍の光がひとつ、星の光の粒に交じった。



2002年07月24日(水) 遠別挽歌

東静内から春立の間は、全路線の大部分の区間を海岸線沿いに走る日高線が
少し内陸を走る。ちょうど今の季節、生い茂る緑のトンネルを抜けるようで
何やら別世界への回廊を潜っているような、不思議な非現実感覚に包まれる。
もちろん次の停車駅が“遠別”だ。

雪乃さんが亡くなった日、“遠別”を訪れていた。
二両編成の下り列車が無人駅に滑り込んでから、次の上り列車が来るまでの
短い滞在だった。飛行機の時間に間に合わせるためのリミットが迫っている。
人の暮らしはある。田畑もあるし、家もある。でも人影はほとんど見えない。
わずかに放牧地に放たれていた三頭の若馬だけが闖入者に関心を寄せてくる。

何より静かだ。「静かな大地」というのを、政治的表現として捉えてしまう
よりも前に、聴覚的に本当に静かな場所に身を置いてみること。主義主張も
騒々しい相互干渉も排して静けさに身を浸してみること。自分の耳が静けさ
に戸惑いながら方々から拾ってくる遠い鳥たちの声を聞き分けてみること。

映画「グランブルー」で、ジャックやエンゾを魅了する深い静けさに満ちた
“青”。それと雨上がりの瑞々しい緑の気配に充たされた“遠別”の空気。
静かで美しい姿の馬たちの佇まいは映画で見たイルカの姿を思い出させる。
どうにも緑と青が通ずるように思えて、言葉を失ったまま歩き続けていた。
と、空から何かの鳥の羽根が、ふわりふわりと舞い降りてくる。…静かだ。

胸が痛くて読むのがつらい叙述が続いているけれど、連載開始からわかって
いたのにも拘わらず、こんなに切ないのは長編小説の力というものだろう。
移動中に中沢新一の「カイエ・ソバージュ」を読み進めることが出来たのは
心のバランスを取る上で有効だった。『緑の資本論』所収の文章は、結論
だけのエスキスという感じがあるが、この講義集は思索のプロセスをガイド
してくれる感じで、すこぶる良い。これから続巻で一神教をめぐる所説が
展開されるのが待ち遠しい。“あまりに根源的な”思索には怖ささえ感じる。

帰途につく列車でウトウトとしながら車窓を見ると全天のうちでそこだけに
狭いスリット状の晴れ間が出来ていて、微かに赤い陽の光が射している。
思わず「あ、あの夕日!」とつぶやいて、隣席の同行者と顔を見合わせた。


題:382話 あの夕日22
画:クリーム瓶
話:しかしあのバードさんの一言で私は開眼した

題:383話 あの夕日23
画:鏡
話:大きな山の力によって生かしめられる己を知って、人は謙虚になる

題:384話 あの夕日24
画:芽
話:私たちはシトナを救えなかった

題:385話 あの夕日25
画:クチナシの実
話:このチャランケは負けだと覚った

題:386話 あの夕日26
画:ヒョウタン
話:昔からアイヌと和人が交渉してアイヌが勝ったためしはない

題:387話 あの夕日27 
画:笹
話:チコロトイは一種不思議な活気に満たされた

題:388話 あの夕日28
画:葉書
話:エカリアンはそろそろ臨月のはずだ

題:389話 あの夕日29
画:鴨の羽根
話:今の時代、官と戦うには新聞を味方につけるに如くはない

題:390話 あの夕日30
画:赤煉瓦
話:兄は今や万事を疑っていた

題:391話 あの夕日31
画:アザミ
話:昔のことというのはわからぬことばかりだな

題:392話 あの夕日32
画:茅
話:神々が何かの企みをもって力を奪うかのような心の病があるのだ

題:393話 あの夕日33
画:サラシ
話:辛いからお父さんは思い出したくないのよ、と弥生は娘に言った

題:394話 あの夕日34
画:髪の毛
話:男の子だったから、いよいよ悔しくてね

題:395話 あの夕日35
画:爪
話:今それを知ったら、三郎さんは本当に崩れてしまうかもしれない

題:396話 あの夕日36
画:珊瑚
話:私は敬愛する人を亡くした

題:397話 あの夕日37
画:アオサギの羽根
話:それだけでオシアンクルは事態を察した


2002年07月07日(日) 7月7日

風の心地よい日曜日。屋上へ出てハーゲンダッツのバニラを食べながら空を見る。
西の空が赤く焼けて、雲に鮮やかに照り映えている。少しずつ、星が見えてくる。
きょう、7月7日。一年以上前から、既に『静かな大地』の連載は始まっていた。
一年前と言ったら、まだ「ちゅらさん」がオンエアー中のころ。ちょうど恵里と
文也君が、小浜島の“ガジュマルの樹の下で”抱き合ったのが7月7日の放送分。
なかなかの長さの歳月である。世界も、自分もいろいろな変化を経た一年だった。

わが愛するチコロトイの物語は日々読むのが切なくなるような展開を迎えている。
連載が始まった時から、その展開そのものはわかっていたはずなのに、酷く痛い。
先日の夕刊に御大がトルコや欧州へ行くという記事が出ていて、「静かな大地」
のクライマックスは向こうで書くとの由。「新世紀へようこそ」の配信もあちら
からするらしい。ギリシアへも行かれるようだし、旅先からの配信が面白そうだ。
村上龍氏のJMMでも、旅先の些事を書いている時が、一番面白かったりするし。

ちなみに僕が楽しみにしているウェブ上の日記は、演劇集団キャラメルボックス
の加藤昌史プロデューサーの「加藤の今日」と、作家の佐々木譲さんの「近況」。
「加藤の今日」http://www.katoh-masafumi.com/diary/index.html
「佐々木譲資料館」http://www.d1.dion.ne.jp/~daddy_jo/

加藤さん、「銀河旋律」シビレました、やっぱりすごいことが出来る劇団ですね。
佐々木譲さん、『武揚伝』の新田次郎賞受賞記念の馬、おめでとうございます!
…以上は、寄り道(^^;

トルコという場所の位相も面白い。単なる『からくりからくさ』ファンとしても
「新世紀へようこそ」の配信者としても、クルドが気になるようだし、以前に
「とんぼの本」でイスタンブールに関するエッセイを寄稿されてもいるし(後に
『明るい旅情』に入っていたはず。)さらにカッパドキア好きの日野啓三さんと
もシンクロする。ギリシアとは指呼の間で“地続き”とも言える場所でもあるし。

きょう僕にしては珍しく熱心に「Nスペ『ドキュメント・ロシア』」を見ていたら
なかなか興味深い内容だった。なまじ日々流れるニュースを聞き流すよりも、普段
天気予報すら見ないくらいにしておいて、時々書籍とか、こういう番組に能動的に
アクセスするほうが“費用対効果”が上がる気がする。どうせ国際情勢には野次馬
的な関心しか持ち得ないのだし、ひとまずは。「後編プーチン苦渋の決断」という
副題の今夜の放送分は、ロシアが昨年の同時多発テロを契機にアメリカに屈服する
過程を辿った内容だった。面白かったのは、タジキスタンなどの中央アジア諸国を
巡るエネルギー戦争の構図。地政学の教科書のようなわかりやすい図式で世界情勢
というやつが今でも動いていることに懐かしさに似た安心感さえ覚えそうになった。

秘密警察畑の出ながら経済にも滅法強い切れ者プーチン、ロシア再生の起死回生の
秘策は中央アジアの旧ソ連邦諸国の地下資源のパイプライン網を制すること、その
ために黒海を横切るパイプラインの大動脈を作って、欧州に供給するというプラン、
ブルー・ストリーム計画というもの。一方アメリカのメジャーもトランス・カスピ
計画というパイプライン網構想で、ロシアをパスして直接に欧州のエネルギーの元
を握ろうとする。まるで19世紀の帝国主義時代の、3C政策対3B政策みたい。
そのベタな地政学上の拮抗点となるのが、まさにトルコというわけだ。興味深い。

チコロトイが潰される経緯。それとトルコの地政学上の位相。案外とわかりやすく
繋がっている。その中で『からくりからくさ』に出てくる、クルドの織物のような
手ざわりのある“実在”を、どう見つけられるか。やすやすと“わかりやすさ”に
与することなく、感覚と思考を働かせつづける拠点を持つことができるかが大事な
ような気がする。ひとつひとつ感覚を確かめながら、言葉を使って思考しつづける
のは一面で難儀なことだし、贅沢なことでもある。違う時間の使い方もあるだろう。
今どき新聞連載小説を一年も読みつづけながら、あれやこれやとものを考えるのも、
かなりの道楽だろう。でもそういう時間の過ごし方をこそ、反撃の“拠点”として
持ちつづけていたい。たとえば夕方の屋上に出て、愛しい人と星を見るとかして♪

「夏は時間が溶けていて、いつかの夏とつながっている…」という恒例のフレーズ
を引きつつ遠くユーラシアの彼方へ想いを込めて。誕生日、おめでとうございます。
日本はもう日付が変わりますがトルコはまだこれから星の夜を迎えることでしょう。
チコロトイから吹く風、しかと受け止めて今日7月7日という日を記憶に留めます。



題:357話 馬を放つ27
画:ヒナタイノコエウチ
話:会社というのはどういうものですか

題:358話 馬を放つ28
画:ヒゴユリノハナ
話:何か意地の悪い神が兄さんによくない夢を見させている

題:359話 馬を放つ29
画:ヒゴユリノネ
話:今度は男の子かもしれない、とエカリアンは夫の耳元でささやいた

題:360話 馬を放つ30
画:スノーフレーク
話:次の子には違う生き方を教えねばならぬ

題:361話 あの夕日1
画:ガラス
話:自分の前半生はこの伯父の始末に費やされる

題:362話 あの夕日2
画:サクラノミ
話:兄ほどの逸物ではなかったとは言え、弟には弟の意地がある

題:363話 あの夕日3
画:新聞紙
話:家内が脇で、男というのはいくつになっても子供だと笑っております

題:364話 あの夕日4
画:オニグルミ
話:行く先が内地と聞けば、探索を諦めるのではないか

題:365話 あの夕日5
画:眼帯
話:やがてはチコロトイを担う子ですからね

題:366話 あの夕日6
画:指サック
話:市井の人として世の隅で寿命を全うすればよかった

題:367話 あの夕日7
画:ザクロの花
話:どの夏にもチコロトイはきれいだった

題:368話 あの夕日8
画:コブシの若い実
話:だからもっとシニランケで働けばよいと前々から俺は言ってきた

題:369話 あの夕日9
画:陶片
話:熊に連れ去られない気をつけてください

題:370話 あの夕日10
画:サルノコシカケ
話:中から脅えた馬のいななきが聞こえた

題:371話 あの夕日11
画:落ち葉
話:頭を打たれた私は昏倒し、気が遠くなりかけた

題:372話 あの夕日12
画:鷲
話:シトナはもうこの世にいないのか

題:373話 あの夕日13
画:炭
話:人と人が争うと煙が立つ

題:374話 あの夕日14
画:柿の花
話:火の中に入れなかった、と兄は言った

題:375話 あの夕日15
画:ヤママユの抜け殻
話:まるで別の人を葬っているようだと思いながら、私はその名を書いた

 ≪あらすじ≫由良は父親から聞いた伯父宗形三郎の物語を書き続ける。
 兄弟は、アイヌの人々と協力して牧場を開拓、優秀な馬を産出した。
 それぞれ結婚、子供たちも生まれた。繁栄に狙いをつけた東京の実力者
 からのいやがらせにも、何とか対応する。その矢先、馬房が火事になり
 シトナが死んだ。

題:376話 あの夕日16
画:ヘタ
話:人を殺すつもりはなかったと私は思いたかった

題:377話 あの夕日17
画:石
話:松田の本拠である麹町の明朋会に乗り込んで火を点けてくる

題:378話 あの夕日18
画:樹皮
話:だが金のために私らは馬を飼っているわけではない

題:379話 あの夕日19
画:流木
話:和人はアイヌをいないものとしたのだ

題:380話 あの夕日20
画:封筒
話:ここの経営に見も知らぬ和人を加えることなど最初からできない相談だったのだ

題:381話 あの夕日21
画:ガラス瓶の欠片
話:エカリアンを娶ったのはその仕上げでしかなかったのだ


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