「静かな大地」を遠く離れて
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先週末は奈良に居た。日曜日に奈良盆地の南東にある神奈備の山の麓で 小さな集まりを設けたのだが、初夏の日射しが強くて少し暑いくらいの 天気になった。でも森に囲まれた境内には、涼しい風がそよいでいる、 もしかしたら一年の中でも最も美しい、きらきらとした新緑の季節だ。
この日を選んだのは、ものの都合というか行きがかりのようなもので、 日付そのものに何か意味があったわけではない。例によってバタバタと 準備する時間もないままに突入して勢いで駆け抜けた。困ったものだ。
前日に梨木香歩さんの『丹生都比売』(原生林)を読みながら移動して、 神話的世界と現世とのリンクの回路を、やや開き気味にしておいたので 一応ながら神道的な儀式にも気持ちよく身心を移入させることができた。 ま、後付で「計算通り!」と嘯くのは口癖のようなものだけれど(笑)
帰京するのは翌日にして、その夜は京都に泊まった。日中の好天の続き でよく晴れた低い空に大きな月。どちらかと言えば禍々しい、現実離れ したような大きな月に出くわして、よく驚かされるけれど、その夜の月 は一段と怖いような気がした。宿に戻って窓の外を見る。と、月が無い。
F1モナコ・グランプリを熱心にTV観戦している間に、雲はますます 空を覆って、絶え間なく激しい稲妻が走る。あれだけ長い間光り続ける 雷には、これまでの生涯でも出会ったことがない。やがて、雨も激しく なる。つい数時間前に賀茂川の側で鴨料理を食べていたのが嘘のようだ。
流石にぐったりと疲れて寝入った翌朝、目覚めると既に空は晴れていた。 雨だったら、ゆっくり朝寝の贅沢を楽しんで帰京しようかとも思ったが、 この天気では逃げる(?)わけにはいかない。先日の吉野訪問に続いて 長年の宿題になっていた、洛北・鞍馬寺と貴船神社を訪ねることにした。
行楽客も少ない平日、聖域の森が吐く神気溢れる空気に身を浸しながら、 思う存分に歩く。京都の街から、ほんの少し離れただけなのに俗界とは 遠く離れて古代の神話の世界に入ったようだ…と気分よく鞍馬寺の本院 に来て、前夜5月26日が「ウエサク祭」という祭りだったことを知る。
なんでもそれは月の祭りで、その日は一年中で最も月のパワーが強い日 だというのだ。ヒマラヤのほうに、よく似た秘祭が在るらしい。 (引用) ■五月満月祭(うえさくさい) 鞍馬山山頂は、16歳の美少年の姿をしたサナートクマラという金星 の王が地球の霊的な王となって降臨した場所とされる。この山にある 鞍馬弘教の本山、鞍馬寺は、もともとは天台宗の寺で、770年に 鑑真の弟子鑑禎によって創建された。毎年5月の満月の夜、ここで ウエサク祭という秘祭がとりおこなわれる。その日は1年で最も月の エネルギーが強い日とされ、それを授かるために水の杯に満月を写し て飲む儀礼などもおこなわれる。祭りは夜から明け方まで続く。 (須田郡司『VOICE OF STONE 聖なる石に出会う旅』新紀元社より)
…うーむ、無意識のうちに、なんという日を選んでしまったのだろう(^^; 「計算通り!」と嘯くことも忘れて、鞍馬の山中で絶句してしまった。 あの雷は、月のウサギの高笑いだったに違いない、そういう結論を出す。 満月と雷の夜、何かの結界が破れて、計算不能の異世界が開けたようだ。
題:334話 馬を放つ4 画:ススキ 話:近頃、このチコロトイのアイヌは飢えを忘れている
題:335話 馬を放つ5 画:ミズヒキ 話:あ、星が流れた
題:336話 馬を放つ6 画:コスモス 話:政治を理由に経済が動こうとしている
題:337話 馬を放つ7 画:ホタルブクロ 話:おまえとエカリアンはそれぞれみずからの意思で相手を選んだ
題:338話 馬を放つ8 画:ユリ 話:松浦殿が百人でかかっても止められるものではないのだ
題:339話 馬を放つ9 画:ボケ 話:すべてを私は自分で決めてきたと信じております
題:340話 馬を放つ10 画:ドクダミ 話:マッコイワク、妻恋星
題:341話 馬を放つ11 画:アジサイ 話:いや、愚かでなく、半端に賢いのだ
題:342話 馬を放つ12 画:ハルジオン 話:兎が好奇心に駆られて自ら罠に首を突っ込む
題:333話 馬を放つ3 画:ヤツデ 話:鹿の群れに似て、馬の群にも頭領格のものがいる
群を導く馬、というと古井由吉氏の「先導獣の話」という昔の短編を連想したりする。 氏は無類の馬好きで、それは競馬好きという俗な面もありつつ、馬という動物の持つ 気高さや、超越性のようなものへの偏愛というものも含んでいるようだ。お住まいも、 馬事公苑の近くだと聞いたことがある。馬の目。何を聴いているかわからない馬の耳。 呼びかけても答えの返ってこない、それでいて何かを感覚していることは確かな他者。
イルカでもクマでもいい、およそコミュニケートし得ない他者への想いに身を焦がし、 人生さえ変えてしまうヒトもいる。もっと厄介な他者は「神」と呼ばれる対象である かもしれない。先日ここで「もし君が“答え”を知っているなら教えて欲しい。」と 書いた二人称は、具体的な誰かではなく、観念的な“読者”とかでもなくレトリック としての「神」だったりする。「君」というくだけた二人称を、ラブソングの歌詞に 使う振りをして、都市とか国家とか「神」を表象するというのは、わりとありふれた 着想ではある。話の運びとしては、もっとも厄介な他者は自分、というのが落ちかな。
大きなガジュマルの樹の下で生まれた物語を城ノ内真理亜という作家が絵本にした時、 たしか出版社は「時風舎書房」で、絵は「嵯峨文彦」さんという人だったと思う(笑) もっとも厄介な他者は自分。それでも人は生きていくし、他者を想わずにいられない。 そう、真理亜さんは、そんな人だった。今ごろになって意外に懐かしく思い出される。 彼女が書いていたのも、きっと「宇宙一切ない物語」だっただろう、そんな気がする。
いつか君に言ったように、過ごしてしまった季節は幻ではない。これから過ごす季節 を確かめていくように、いつも君の存在を一番近くで感じていられたら…、そう思う。 ポケットの王冠で買えるくらいの幸福を握りしめて、宇宙の終わりまで歩いてみよう。 ここではないどこかは、いつも今ここにある。世界はいま、静かに結晶を育てている。
題:332話 馬を放つ2 画:エニシダ 話:宗形牧場は大変に不運なことになっている
グローバルとローカル。その位相関係。『からくりからくさ』の神崎氏にクルドの地 へと誘われてから、どうも青臭い懐かしさを伴う、苛立ちに似た感覚を押さえ得ない。 あの「圧倒的な非対称」を含む『緑の資本論』を刊行した中沢新一氏に耳を傾けよう。
■中沢新一インタビュー(『すばる』6月号) (引用) あなたは資本主義が好きですかと問われると、僕自身、「好きです」と答えるでし ょうね。それは資本主義を生んだ魔術が魅惑に満ちていて、生命の論理と結合して いるから、どうしても魅惑を生むのです。この魅惑のことを、僕は「エジプト」と 呼んで、戦い続けるのですが、まったく不利な戦いですね。一方で僕は仏教徒です からね。仏教は煩悩の消滅をめざすわけですが、生命の論理にしたがうと必然的に 煩悩に行き着いてしまうでしょう。 (引用おわり)
イスラームには、キリスト教とも仏教とも異なるアプローチで「魅惑」に抗う仕掛け が用意されている、がそれも今や“グローバリズム”に対抗する力を失いつつある、 日本の多神教論理も「そのままでは資本主義に対峙できない。一神教と神話的思考の 両方が必要なんです。」 というのが彼の見解。次作はスピノザを突破口に、人類史 スパンでグローバルに抗する思考を展開するとか。なんだかわからないけどスゴイ♪
グローバルとローカル話。もう少し現実政治的問題として。師匠筋の山口昌男先生が 昔フィールドとした地域に、いまホットな東ティモールがあったという。外務省にも いつか独立したら大使になりたい、などと外交施策を進言していたらしいが、まるで 取り上げられなかった由。インドネシア賠償ビジネスに夢中の体制下、むべなるかな。
■山口昌男「日本と東ティモールの知られざる関係」(『中央公論』6月号) (引用) そのときの私の発表のテーマは「日本と東ティモールの潜在的な関係」でした。 現地の神話を採取したので、日本の「因幡の白兎」の話が、そのまま東ティモール にも存在することを話しました。そのときインドネシアは東ティモールへの侵略を 正当化するために、双方の地域がともにオーストロネシア語圏に属していると主張 していました。だから、私は文化的な類似性を見出したとしても、日本が東ティモ ールを侵略する理由とならないのと同じ意味でインドネシアも侵略する理由はない、 とまず言いたかったのです。 (引用おわり)
十八番「中心と周縁」の真骨頂な話でもある。予断だけど、『からくりからくさ』を 読んでいて、たまたま藤村由加『古事記の暗号』を同時に読んでいたために、両者が ぜんぜん異なるジャンル、肌合いの著作物であるにもかかわらず、複数の女性たちが 浮世離れした話題でもってあーだこーだ謎解きをする、という一点において、重なる 気がしてしょうがなかった。その『古事記の暗号』を手にとったのは「因幡の白兎」 のことが触れられていたからでもある。来週末、また奈良の大神神社へ行くのだが、 あそこの神は大物主命で、大国主命の和霊である。その境内に“なでうさぎ”なる ものが鎮座している謎に関心を寄せていたのだが、まさか東ティモールにも兎の神話 が分布していたとは…。5月20日、今日まさに独立国家・東ティモールが誕生した。
■「沖縄から有事を問う」より池Z御大の発言 (引用) これはたまたま小説家としての自分の資質の問題ですが、沖縄を舞台にした作品が 書けないのです。書けるわけがない、僕は違うのだから。ウチナーンチュの心の動き ってわからないですよ。わかったつもりで書くことはできない。それは目取真俊に 任せる。そういう意味では、僕は沖縄社会全体の中では宙ぶらりんの存在なのです。 (引用おわり)
「中心と周縁」の練習問題として。沖縄に住みながら、沖縄に手を出しかねる、その ある種のストレスが北海道に手をつける“蛮勇”へのスプリング・ボードとなったの だろうか、と邪推してみる。それって一種の「困ったときの北海道」ではあるまいか? そのことをどう受け取るかは『静かな大地』の最終的な出来映え次第と言っておこう。
題:330話 チセを焼く30 画:筆 話:安心して暮らせる場所が欲しいのだ
題:331話 馬を放つ1 画:コバンソウ 話:これほど美しい生き物がいるかと思う
夏が来る。どういうわけか北海道から帰ってきて三度の夏を過ごしてきた はずなのに、昔トウキョウ時代に経験した酷い夏バテが嘘のように、楽に 秋を迎えてきた。なんだか暑い夏そのものが、もはや“わが事”ではない ような気分でいるのだが、まさかそのせいで楽というわけでもあるまい。 身体が北海道仕様になったまま、“模様眺め”でもしているかのようだ。
平和な牧場の情景描写で始まった新章「馬を放つ」、もうラスト前までは 由良さんたちの登場もなく、このままストレートな叙述が続くのだろうか。 梨木香歩『からくりからくさ』の叙述力に圧倒されたばかりなので、一寸 もの足りない気もするけれど。三郎話の推移より、それを受け止める由良 さん話の決着のつけ方のほうが、難しくて大事だという感じがしてしまう。
『からくりからくさ』については、先日触れた以上のことを書きたくない。 なぜなら愚劣な解釈言語で作品の主題をなぞる羽目になるのを怖れるから。 そういうものに還元できないからこそ、わざわざ絵空事の叙述スタイルを 選択して物語を紡ぐのであろうから。なので以下の記述は、お遊びとして。
先日「未完のスティルライフ」という題で書いた日録で当該作品のことに 触れた。それを僕が“『からくりからくさ』は「未完のスティルライフ」 である”と評した、と解された方がいて面食らった。まさか(^^;「未完」 であるのは僕の「ライフ」のほうなのである。『からくりからくさ』は、 「完成し過ぎ」が疵にならいないか、という危惧さえ寄せつけないほど 見事に織り上げられている作品である。久しぶりに作中人物と別れるのを 惜しむような読書体験をすることができた。児童文学系の梨木香歩さんの 作品は、僕にとっては長らく、知ってはいたけど読むには至らないという 範疇の作品だった。御大が書評をしていたこと、染色に興味があったこと、 など気になる要素もある。最近出たエッセイ『春になったら苺を摘みに』 に関心があって、せっかく読むなら多少なりとも小説を読んでおこうか、 という動機もあった。書店でパラパラ見た限りで言うと、須賀敦子ちゃん ファンには見逃せないエッセイだと思われる。ちなみに表紙は星野道夫!
(以下、『からくりからくさ』ネタばれ含む) お遊びをもう少し。女性たちの物語の中に登場する、神崎という男がいる。 彼の手紙が作中に挿入される。トルコから送られてきた手紙という設定だ。 これが『真昼のプリニウス』の壮吾さん入ってるのだ。わが愛する門田君 のポジションのキャラクターが登場しないのが、御大との違いと言おうか 時代の違いと言おうか。で、僕は長らく自分のことを「門田君っぽい」と、 自嘲的に言ってきたりしたのだが、神崎の手紙の部分を読んでいて、これ は自分だ、と思ってしまった。他の女性の登場人物たちに対してそんな風 な感情移入の仕方をすることはなかったのに。かといって、どこかの異国 へ旅立とうというつもりは、現在のところない。大事な行事もあるし(^^;
自分の中にある、「外部」に触れたいという欲望。生きていく根源的な力。 それと日常を生き抜くということ。その位相関係がわからなくて、今夜も ワインを痛飲する。もし君が“答え”を知っているなら僕に教えて欲しい。
2002年05月16日(木) |
反撃の拠点としての夢物語 |
題:329話 チセを焼く29 画:筆置き 話:だから、そこをなんとかと言っているのだ
「そこをなんとか」って、何だかすごく“日本社会”って感じの表現。
こういう表現って英語に訳せるんだろうか?…なんてことを思うのは、 枝廣淳子さんの日記とかを読んでるせいかもしれない。先日も触れた、 レスター・ブラウン氏の講演をコーディネイトしたのが、枝廣さんだ。 もともと実務翻訳の仕事をされていた方だが、最近はメールニュース で環境問題に関するトピックを配信したり、さまざまに活動している。
■環境トップページ http://www.ne.jp/asahi/home/enviro/
きょう送られてきた最新のニュースには、日曜日のレスター氏の講演 の日本語訳が早速載っている。新著の『地球のセーターってなあに?』 を“お土産”として配布してしまう豪華版の講演会だったので、得した 気分でいたのだけれど、本家のレスター氏は、『エコ・エコノミー』と いう新著をHPから無料でダウンロードできるようにしていると言う。 『すば新』のアユミさんだったら、きっともう読んでいるだろう(^^)
村上龍氏の『希望の国のエクソダス』に出てくる風車群は、なんだか 禍々しい印象があったけれど、チコロトイの意志を継ぐような、独立 した共同体を打ち立てるというヴィジョンには魅力がないこともない。 “困った時の北海道”と“疲れた時の沖縄”を禁じ手にしつつ未来の ヴィジョンを描くこと、“今ここ”を起点にした思考を止めないこと。
三郎に本当の意味でのベンチャー・キャピタルがアプローチしてきて、 チコロトイが21世紀にも大きな成功を収めて存続している、という 夢物語のような「パラレル・ワールド」をも信じる用意がないのなら、 “今ここ”から未来のヴィジョンを思い描くことも出来ないのだろう。 世界は悪意によって前進を阻まれているわけではない。そこが厄介だ。 善意は沢山の人を殺し、平和は多くの場合、相互誤解の上に成り立つ。
「そこをなんとか」と神にチャランケを挑みたくなるのも無理はない。
2002年05月15日(水) |
未完のスティルライフ |
5月15日は古波蔵恵里の誕生日だったりする。オメデトウねぇ、えりぃ♪ 「沖縄復帰」をめぐる現代史は、現在とも、あの戦争とも地続きで、とても 「オメデトウねぇ」なんて単純に言えるようなものではないけれど、誕生日 は無条件に祝福することが出来る。きっと毎年こんなことを考えるのだろう。
金曜日は茨城で雨の中を這いずり回っていた。月曜日は金沢から能登に居た。 それなりに先のことだと思っていた期日がどんどん過ぎていって、人生すら こうして終わっていくのか、と思ったりもする。飛行機や列車の移動中に、 梨木香歩『からくりからくさ』(新潮文庫)をゆるゆると読みすすめている。
どうして引き合いに出すのかわからないが、この小説には『スティルライフ』 に無いものが、ちゃんと在る、そんなことを思った。それはどちらの作品にも ネガティブでもポジティブでもない、ひとつの読みとして。時代とか世代とか 性差とか、そういうものに還元しても仕様がないところで重なりつつ異なる。
『スティルライフ』にシンクロしてしまった若い日を持つ者が、現在の時代と 自分の人生の時間をどう生きているのか、という問題でもある。『すば新』が 必ずしもその未来形というわけでもあるまい。どんなスティルライフを生きる ことが出来るのか、それはあるいはチコロトイの暮らしのようなものなのか。
日曜日に聴いた、レスター・ブラウン氏の講演会を思い出す。トマト農園から 地球環境へと視野を拡大した、彼の人生の冒険のワクワク感を共有できたこと が何より楽しかった。「情報」は、単独では生命を永らえない。講演会を主催 した枝廣淳子さんの“ワクワク感”が人々に共振現象を起こしているのだろう。
彼女のメールニュースを集めた新著『地球のセーターってなあに?』(海象社) の帯には坂本エレファンティズム龍一氏の推薦が載っている。『非戦』の盟友 からのエール、というわけだ。枝廣淳子さんは、自己啓発、生活術、英語学習、 ネット、そして環境…と今の出版メディアが欲しがるネタの引き出しをすべて 兼ね備えたような方。これはもう、早期の新書執筆を心待ちにしていよう(笑)
どんな小さな試みでも、共振の雛形となるような魅力的なヴィジョンが在れば 人の想いは案外とカタチになっていくものだ。変化は思いがけず急速に訪れる。
題:322話 チセを焼く22 画:十字ハンドル 話:今日の午後は客の相手でつぶれるのか
題:323話 チセを焼く23 画:おろし金 話:たくさんとしか言いようがない
題:324話 チセを焼く24 画:練り歯磨き 話:真歌の丘を見上げて、よい季節だなと思った
題:325話 チセを焼く25 画:ヘチマ 話:いずれにしてもこれは気の重いことだ
題:326話 チセを焼く26 画:靴ひも 話:今もって北海道では薩摩の力が大きい
題:327話 チセを焼く27 画:木の玩具 話:資本という言葉をご存じか
題:328話 チセを焼く28 画:写真 話:一万町歩の牧場をやってみるつもりはないか
題:321話 チセを焼く21 画:鍋ぶたのツマミ 話:いつか北海道全体がチコロトイのようになると信じることにしたのよ
雪乃=エカリアンを書くと格段に精彩が加わるように感じるのは気のせいか? 今日はどこを引用しようか迷うほどに力のある台詞が多かった。結局のところ、 池Z御大は小説の仕事においては、凛とした女性像を描くことにしか関心が ないのかもしれない、と思ったりもする。エッセイや論説では出来ない仕事。 それは「生きる」ということの局面において、「こう在れたらいいな」という モデルをありありと提示することかもしれない。彼らのユートピアの描き込み の彫りがまだ浅いのは否めないけれど、とても魅力的な主題であるのは確かだ。
そしてそれを補強するのが、エカリアンの“信じる力”、すなわち「妹の力」。 最小単位のユニットとしての、夫婦における共同幻想、ともに紡ぐ物語の魔法。 それと地続きのコミューン=共同体としてのチコロトイ=遠別ユートピア幻想。 そこではアイヌのみならず、馬たちさえもがコミューンの“構成員”である。 この異種間コミュニケーションのヴィジョンはいささか『風の谷のナウシカ』 めいていて、ちょっと今の日本の甘口な自然観に寄り添い過ぎな感はありつつ。
北海道・日高のいくつかの牧場を訪ねたことがある。そのとき見聞きしたこと によると、日本の馬の育て方は欧州の本場からすると現在でさえなおギャップ があるそうだ。端的にいえば育て方が荒い。市場における“良い馬”の基準が “人が扱い易い馬”ということならば、育成段階で人手をかければかけるほど “良い馬”が育つことになる。そういう手法で効果をあげている牧場も見た。
その聞きかじりの知識に基づくならば、馬の育成に一日の長のある諸外国人の 牧童(含む女性)たちは、よく馬の鼻先に顔を寄せて話しかけるのだそうだ。 だからチコロトイの戦略、すなわちアメリカ仕込みの三郎の知識と、アイヌの アニミスティックな馬との交感との組み合わせが成功するというのはあながち 作者の思い入れによる無理な設定ではなくて、なかなかリアリティがあるのだ。
にしても鉤括弧なしで登場人物がダイアローグを展開する『静かな大地』形式、 これを今日ここで勝手に“チャランケ小説”と呼んでおくことにしよう(笑) 「ちゅらさん」が、その本質において“ゆんたくドラマ”であったように…。 この“チャランケ小説”を、最も楽しく読んでいるかもしれない読者としては、 これからあとに来るはずの三郎たちの悲劇を直視するのはつらいかもしれない。 そこに御大が物語作者として、どんな光明を付与してくれるのか、期待しよう。
題:320話 チセを焼く20 画:骨抜き 話:アメリカというのは万事を民が決める立派な国だとまず教えられた
アメリカに眉をひそめて欧州のインテリの口真似をするという態度は、とりあえず 禁じ手にしておいたほうがいいのではないか…と思いつつ、21世紀を生きている。 なんだかわからない流れだけど2000年秋には初めて米国にも出かけた。東海岸 の一部、ボストン周辺のニューイングランド地方と、ワシントンDCだけだけれど、 僕はあの土地を好きになった。覇権国があって、文明のモデルが提示されて、それ をどう受容したり、あるいはそれに抵抗したりしながらやっていくのか、畢竟ヒト の歴史というのは、そういう風に最前線を進んでいくのだろう。そんなことは遥か 昔に通り過ぎてしまった、というギリシアの島嶼やイタリアの田舎町に住んでいる 老人とかもカッコイイのだけれど、ひとまず彼らのような面持ちになるには修行が 足りない身なので、それなりに世界の動向とつきあっていかねばならないとは思う。
一方でもうひとつ、「白州正子に頼らない」という禁じ手ネタもあったりする(笑) なんだろう、北海道に居た数年間のうちに、“日本文化”とか“日本的美意識”の ようなものにアクセスする「既得権益」みたいなものが、自分にデフォルトで在る、 という前提を否定するような心性が芽生えたのだ。これを僕は“強さ”だと思った。 今や僕にとって“日本文化”への距離感は“ハンガリー文化”や“チュニジア文化” への距離感と変わらない、そういうところから出発する認識と気概とが必要なのだ。
だからというわけでもないが、大学時代がバブル最盛期にぶつかった癖に白州正子 の本なんて読んで、隠れ里にでも出かけようかという変な若者だった僕がしばらく “日本文化”を禁じ手にしてきた。そうすれば逆にミーハーになりきれて、バリ島 への不届きな視線を行使するかのように“日本”を味わえる、というお得感もある。 時折お忍びで来日して近江辺りの古刹を訪ねるというシラク仏首相でも目指そうか。 とりあえず『サライ』誌をこっそり熟読していたりするのも、その線だったりする。
こんな不真面目なことばかり言ってないで、須賀敦子ちゃんを読み直さなければ(^^; ちなみに須賀系の名著を紹介しておこう。“良書”を紹介するのは恥ずかしいけど。
■小塩節『木々を渡る風』(新潮文庫) (帯より) 信州とドイツ。ゆかりの地で出会った木々の想い出……。瑞々しい筆致の名随筆。 (裏表紙より) 木々の枝や根の広がりは、まるで天と地を結びつける宇宙の軸のようだ−そう語る 著者は信州で多感な少年時代を過ごし、文学を志してからは、幾度となくドイツや ヨーロッパ各地を旅してきた。見慣れた木々も異国で出会うと新鮮で、驚きや感動 を呼び起こす。木への深い愛着を、旅の想い出と重ねながら綴った日本エッセイス ト・クラブ賞受賞作。著者撮影による木々の写真も多数収録。
小塩節氏は僕がまだ子どもの頃に教育テレビのドイツ語講座の講師をされていた方で、 よく響くバリトンの素敵な声が印象に残っている。『ドイツ語コーヒーブレイク』や 『ドイツ語とドイツ人気質』という著書を昔読んでいたけれど、木々を話の枕にした プライベート・エッセイは、また魅力的だ。こういう本を読んでいると、旧制高校と 独文学に表象される「教養」というのも悪くない、とミーハーなことに思ってしまう。 近代の日本のインテリにとっての欧州。その切実さ。これもまた今の若い衆には実感 として共有しにくいことなのかもしれない。小塩節氏や須賀敦子さん、阿部謹也氏の 著作などを読んで、“光は西方から”という時代の匂いを追体験するしかないけれど。
21世紀の“当事者”としては、では何を拠り所にするのかと途方に暮れるしかない。 だからこそ、静かな大地を出発点にして果敢に未来圏を望む気概を持てれば、と思う。
題:319話 チセを焼く19 画:鱗とり 話:アメリカにあこがれたのね
西から移入した学問が光をもたらす、ジレンマを解消する窮余の一策となりうる、 そう信じたり、実践したりしてきた人々の歴史が在る。宮澤賢治だってそういう 外来信仰の持ち主の一人だったとも言える。アイヌの狩猟生活も、和人の畑作も 「充分」な人口支持力を持たないのならば、北海道に似た気候風土の国の技術を 学んで、より多くの収量を得ようというわけだ。佐々木譲さんの『武揚伝』でも 描かれた、この魅力あるヴィジョンが何故に現実の歴史とならなかったのか、と いう問題には簡単な答えは出ないだろう。明治政府だって当初は本気だったのだ。
大事なのは未来に向かって魅力ある世界のヴィジョンを描く気概を失わないこと。 そのための材料は、今日もそこここで誰かの努力によって、生まれたり育ったり しているということを忘れないことだろう。「面白きこともなき世を面白く」の 精神で、絶体絶命の八方塞がり的な状況下でも何とか活路を見出そうとすること。 結構、個体としての輪郭を持った生命体は、ずっとそうして来たとも言えるのだ。 考えてみれば、なかなかに滑稽な、けれど愛しいと思えなくもない光景ではある。 あらためて憂鬱になるのも、道楽でなければ怠惰というものだろうと一人ごちる。
今夜食べたものも飲んだ酒も美味かった。「美味いね」と言うことだってできた♪
生きている時間は無限ではない、むしろ過ぎゆくほんの一瞬とも言える。 「だから虚しい」と思うか、「だから素晴らしい」と考えるかは紙一重。 そしてまた、「ほんの一瞬」の積算だけが、悠久の時間を構成している。 具体的な場所で生身の人間がやってきたことの歴史は、絵空事ではない。
『静かな大地』の作者は過去に喪われた地霊との交感などということが 試みてもおいそれと能うことはあるまい、という乾いたニヒルな認識を 出発点にしている。『夏の朝の成層圏』から近作の『花を運ぶ妹』まで、 そこは変わっているようで変わっていない。薄氷に片足を伸ばしてみて おそるおそる体重をかけてみる身振りの愛しさが、作風と言えば言える。
脳内チャランケをし続けること。それと、ゆんたく空間を確保すること。 この両者を案配良く、同時に出来るならば、その人生は悪くないと思う。
題:312話 チセを焼く12 画:すいてき 話:雪解けを待ってすぐにも働きだそうという気配が溢れていた
題:313話 チセを焼く13 画:分銅 話:我等は武ではなく牧を以て牙城を作る
題:314話 チセを焼く14 画:ひきて 話:シャクシャインの名が頭に浮かんだのはどうも縁起がよくないぞ
題:315話 チセを焼く15 画:箪笥のかん 話:自分たちはただ馬を育てているだけなのだ
≪あらすじ≫静内に宗形三郎と弟志郎が開いた牧場は、 アイヌの協力で優秀は馬を産出したが、周囲のそねみ は強くなる。兄弟に昔話をしてくれたモロタンネが亡 くなった。家を焼いて死者を送る習慣は禁止されてい たが、家は焼けた。息子の勉蔵は手ひどい取り調べを うけ、牧場の悪口も新聞に出た。
題:316話 チセを焼く16 画:ペン先 話:文明開化の今になって以来、結局ことは一層ひどくなったのではないか 題:317話 チセを焼く17 画:たわし 話:実際には故郷を追い出されてここへ流刑になったようなものだった
題:318話 チセを焼く18 画:山葵おろし 話:あのままで行ったら、私は二流の和人で終わっていたかも知れない
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