「静かな大地」を遠く離れて
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題:311話 チセを焼く11 画:歯ブラシ 話:あれでせいぜい豪放磊落に見えるようにふるまっているつもりなのだ
『静かな大地』読者に、どうあっても読んでいただきたいと思う副読本をご紹介。 もちろん『静かな大地』読者じゃなくても、ここにシンクロして下さる方は是非♪
■姉崎等『クマにあったらどうするか アイヌ民族最後の狩人』(木楽舎) 長年北海道の山野にクマを追ってきた姉崎さんへの聞き書き本。これは良い仕事だ。 版元の木楽舎というのは『ソトコト』誌を出している小黒一三氏のところで、最近 坂本龍一氏のDVDブック『エレファンティズム』を、月本裕氏と作ったところだ。 僕が北海道に住んでいるころの「自然」との距離感からすると、『ソトコト』誌の 醸し出す気分はどうも“しゃらくさい”感じがしていたのだけれど、再トウキョウ ライフも3年近くなる今や、すっかりフィットするようになってきてしまった感じ。
その版元にしては…というと何だけど、とても志の高い出版物になっていると思う。 構成者の片山龍峯氏の「あとがき」によれば、宮本常一の『忘れられた日本人』を 多いに参考にして叙述スタイルを探ったという。血縁的には半分アイヌ民族であり、 北海道の自然の中で人生を過ごしてきた姉崎さんを、宮本常一スタイルで聞き書き の対象とするというと、西東始先生が村井紀氏の言を引いて『忘れられた日本人』 のインフォーマントの恣意性(?)に言及するメールを下さったことをご紹介した のを想い出したりしつつ。いずれにせよ、読む値打ちのある話であることは確かだ。
朝日新聞の書評欄で新妻昭夫さんというウォレスの本の翻訳などをされている方が この本を紹介されていたので、読んだ方もいるだろう。少し引用させていただこう。
姉崎氏は「アイヌ猟師」を名乗っているが、父親は「福島からきた屯田兵」。 母方のアイヌ集落で、和人からもアイヌからも疎まれながら育った。尋常小学校 に三年間かよっただけで、十二歳からイタチ猟などで家計を支えた。一人で山に 入って地形をおぼえ、野生動物になりきって生態を観察し、大人たちの話を聞い てアイヌの狩猟の智恵を学んだ。みずからの自覚的な努力によってアイヌとして のアイデンティティーを確立した稀有な人物である。
さんざんに絶賛したところでなんだけれども、この本、書名がどうもいただけない。 「アイヌ民族最後の狩人」というのは副題ではなくて、姉崎さんの“肩書き”なの かもしれないけれど、なんだか表題も副題もどちらも内容とズレていて正鵠を射て いない感じだ。敢えて言えば、プロローグの「クマが私のお師匠さん」というのが 近い感じがする。実を言うと僕は姉崎さんとお会いしたことがある。それも北海道 で、春先の山にご一緒させていただく貴重な機会をいただいた。そのときのことは ここでも掲載した「ディープフォレストにつつまれて」に詳しい。三年前の今頃だ。 http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=25026&pg=20010717
生活圏から概ねクマを駆逐して、さて我々はこれから何処へ行こうとしているのか? その問いに応えることの出来る人は、おそらくこの地上にはいないだろうけれど…。
場所の記憶、地霊=ゲニウス・ロキ、地理的想像力、そういう琴線が僕にはある。 「転校生」であったせいかどうか、幼い頃から場所への感性、関心を培ってきた。 栗本慎一郎師の『都市は、発狂する。』に触れて書いたごとく、都市論とか空間論 は身体的に気になる。あまり建築理論めいたお勉強的都市論本より、生理感覚的な ものにこだわったものに興味がある。坂口安吾の『安吾史譚』『安吾新日本地理』 などはその代表的なものといえるかもしれない。司馬遼太郎『街道をゆく』もいい けれど、僕の好みから言えば、ときに生真面目さが過ぎて退屈になる嫌いがある。
例によって未読ながら、惚れ惚れするほどに僕の嗜好に合ったシリーズが刊行中だ。 ■松本健一『地の記憶を歩く』(中央公論新社)
すでに「出雲・近江篇」「平戸・長崎篇」が出ていたが、最近「盛岡・山陽道篇」 が出ているのを見てたまらず三冊とも買ってしまった。松本健一氏の仕事を深くは 知らない。日本の近代の根源を執拗に掘り進むと、近世の硬質な層に当たる、その 接触面の手触りを確かめようとしている人である、というのが僕の松本氏に対する 勝手なイメージなのだが、如何せんハードに思想的な著作が多いので、比較的軽い ものを盗み読むくらいしかして来なかった。わりと最近出た佐久間象山の評伝もの なども興味はあるのだけれど少々大部なので手を出しかねていた、というところだ。
『地の記憶を歩く』は『街道をゆく』の本歌取り、松本健一版といっていいだろう。 通読するのももどかしく、いろんな頁をめくってみるにつけ、目を惹く要素だらけ。 「思想」を対象にして物事を腑分けしながら脈絡をつけて書くのも読むのも難儀な ことだが、そこに「地の記憶」というコンセプトを持ち込むことによって一筆書き で以て著者の思索の道筋を追体験することが出来る。現代も目や足で確かめること の出来る実在としての土地の深層に、過去の人々の思想を透かし見ることが出来る。 そして何より場所や人物への着眼の仕方がラディカルで良質な知的興奮を喚起する。
日本の近代と近世は、これまで不連続性において認識されることの方が多かったの だろうが、むしろその連続性、近現代の日本の人々の精神の基底に在る、近世以前 の思想、行動様式の影響をもっとクール見つめ直す必要があるのではないかと思う。 江戸期と明治以後を一貫して語ることの出来るジャパノロジストは、貴重な存在だ。
拙速で感情的なナショナリズムを歴史教育に持ち込むよりも先に出来ることはある。 “場所”と“記憶”と“身体”がキーワードだ。
題:307話 チセを焼く7 画:磁石 話:その舌先で和人を欺いてきたのか
題:308話 チセを焼く8 画:洗濯鋏 話:口裏を合わせておかないとといつかしっぺ返しが来る
題:309話 チセを焼く9 画:コンパス 話:それを私は神々の思いと受け止めることにした
題:310話 チセを焼く10 画:ネジ 話:これで落着すれば安いものだと思う
2002年04月22日(月) |
都市の舟、記憶を運ぶ |
雨の週末。妙に感傷的な気分で横浜の港を散歩していた。僕の身体の中には港町のリズム が刻み込まれている。それも活きている港というよりは、過去の都市となってしまった港 に特有の時間の流れ方、潮の干満と匂いと波の音がヒタヒタと身体の底を浸すような感覚。
以前、芝浦に住んでいたころにしみついたものだろう。その後、北海道で室蘭に住んだり、 小樽に足繁く通ったりしたせいもある。もっと若いころ、瀬戸内海の沿岸諸都市で育って 尾道みたいな近代以前からの港町に親しんでいたのも、原体験になっているかもしれない。
港町は、故郷を持たない者にとっての原風景である。大林宣彦の映画『転校生』の主人公 たちが港町を転々とする家の少年少女だったことを想い出す。寮美千子さんの『星兎』の 舞台がヨコハマであることも強い「根拠」のあることだろう。あのウサギが出現する空間 はミナト以外ではあり得ない。再び大林映画の奇跡の名篇『時をかける少女』と『星兎』 の持つ切なさの感覚の共通性に思いをめぐらせる。岩井俊二の『Love letter』が小樽を 上手に使っていたことも想起する。童謡「赤い靴」の哀切で空恐ろしいような他界感覚。
これらはすべて共通の深い「根拠」を有する事象だと思われる。そして僕の身体=世界の 琴線は何故かこれらに強く反応する。事は「港町ってステキ!」というところに収まらず、 もっとヒトの深い層に触れる問題だ。港、運河、川。水のシンボリズム。それと生と死。 都市という実体は存在しない。都市そのものが舟のごとく、寄る辺なく闇を航行している。 港町のみならず、すべての都市的なるものがそうなのだ。ハーメルンの笛吹男伝説などが 生成してくるのは、そんな空間なのだ。これは怖い。深い。そしてたまらなく魅惑的だ。
こうした関心を理論づけた1983年刊行の名著がある。僕の生涯ベスト本かもしれない。
■栗本慎一郎『都市は、発狂する。 そして、ヒトはどこへ行くのか』(光文社) (著者のことば、引用) ◎なぜ都市では女がきれいに見えるのか。◎なぜ一寸法師は都でもてはやされたのか。 ◎なぜアンノン族は金沢に行きたがるのか。◎なぜ都市では松田聖子を見つめてはい けないのか。◎なぜ寺山修司は上野駅に通ったのか。◎織田信長や徳川家康はどうし て天下を取れたのか。◎日本をあやつる闇の空間はどこか。……◎本書は、思いがけ ない問いを発しながら、いながらにして読者を謎の冒険旅行へと誘う。ひとりの学者 が漂流する。ブダペスト、トランシルヴァニア、プラハ、パリ、ロンドン、博多、金 沢、奈良、そして東京へと。◎そこに隠された謎とは何か。なぜヒトは都市を作った のか。ヒトにとって都市とは何か。なぜ都市が「大自然」で、ムラは「反自然」なの か。ヒャクショーと都市のイナカッペの違いはどこか。◎すべてわかって、旅費はた ったの六百八十円。安いよ、安いよ!◎推理小説よりも面白い! (引用、終わり)
その栗本師も代議士として奮闘の末、脳梗塞に倒れられて久しい。最近騒がしい永田町 の動静に関してもHPの更新がなく心配だ。師もよく訪れたというハンガリー料理店で 先日夕食を摂った。もうかれこれ10年以上、時折通っている店だ。他で食べられない、 という点では日本で唯一無二の店である。ハンガリー風パプリカ入りシチューが絶品だ。 この店の窓辺の席からは自由が丘の駅前が見える。夕暮れ時や雨の日に、ここから見る 風景が好きだ。もともと闇市を縦にしたかのような「自由が丘デパート」という不思議 な建物に入居している店で、つい去年改装するまではずいぶんと味わい深い建物だった。
雨の自由が丘を眺めながら店のBGMのハンガリー舞曲を聴いている内に栗本師のこと を想うと切ない気持ちになった。どうか政界のことなどに煩わされず元気でいて欲しい。
都市には「知る人ぞ知る」者だけがアクセスできる“闇”の空間が開けている。見える 者には見える、しかし見えない者にはついに気付かれることさえない異世界。ヒトには そういう空間が切実に必要なのだ。都市のウサギが一網打尽にされる前に、さらに深い 闇の空間へと走り逃れること。コトバに仕切られた空間の間隙を縫って生き延びること。
栗本師は『都市は、発狂する。』の中で、札幌にも言及している。「空間的可能性」を 感じたとして「すべてがハズレ者という都市の本来の性格にいちばん近いからであろう。 そもそも札幌という都市は、成り立ちからしてそうだ。おたずね者、流刑者、くいつめ 者、敗残者、引揚者等々、ありとあらゆるハグレ者が、勝手に寄り集まって作った都市 なのだ」と最大限の称賛(!)を送っている。僕の札幌贔屓は、すでにこんなところで 予言されていたのか、とあらためて思う。札幌つながりで↓ウェブ彷徨中に見つけた頁。
■「静かな」大地の回復〜環境・社会・文化〜花崎皋平(さっぽろ自由学校「遊」共同代表) 「社会臨床学会」の北海道での集まりに向けて http://sinfo.sgu.ac.jp/~inoue/inoue/kinenkouen.htm
ま、誰しも花崎ファンであることにおいては、池Z御大に完敗せざるをないだろう(笑)
題:303話 チセを焼く3 画:秤量瓶 話:要するに人が死んでも家を焼くなということです、と三郎は言った
題:304話 チセを焼く4 画:ガラス漏斗 話:死んで行った先で、家がないとなにかと不便だろう
題:305話 チセを焼く5 画: 話:ここは、火は自ずから出た、と考えるのが正しい
題:306話 チセを焼く6 画:ビーカー 話:出身はたしか薩摩ということだった
題:302話 チセを焼く2 画:寒暖計 話:アイヌの場合は言葉の力、ものがたる力が抜きんでていた
昨日は、風が身体を運んでしまうくらいの勢いで吹いていた。その風が新緑の街路樹を ごぅごぅと吹き荒ぶのを体感したくて、バタバタしている中を昼食をわざわざ職場の外 の店へ食べに出かけつつ、樹々の間を歩いた。そういえば室蘭にいたころも、そんな癖 があった。自席から、ふと何かに誘われるように数分も歩くと、人の気配もない樹木の ざわめきの中に身を置くことができたものだ。東京でもあれだけ吹けば、それに近い。
先週末は本当に深閑とした樹木の世界にいた。「春の雨に浮かぶ宇宙」で触れた奈良に 行って来たのだ。大神神社のある三輪山界隈を歩き、さらに今年は桜が早く通り過ぎた ばかりの吉野へも出かけた。バブル最盛期に大学生となって上京した世代にも拘わらず 「修験道研究会」でも立ち上げようか、と冗談にでも考えるような、反俗的な学生時代 を送っていた身には、吉野は一度は訪れてみたい聖地だったのだ。思い立てば出かける 機会はあったのだろうが、今回何かのめぐりあわせのおかげか初めて行くことができた。
他のどこでもない場所。地形、風景、光、風、産物、人々、さまざまなものがその土地 を特別なものにしている。言葉の原初的な意味での観光の快楽を味わうことができて、 あらためて“場所の力”というものは強いのだな、と思った。以前から考えていたこと であったが「ギリシアの誘惑1999」を再録したのには、そんな気分も関係していた。
すでに3年も前の旅なので、何か現時点のコメントを付けたくなるところもあったけど、 ひとまずそのまんまアップしておくことにした。去年の夏オランダへ旅行に行ったとき、 チケットが欧州内で一回どこの都市で行けるものだったので考えた末にアテネを選んで あの服屋さんを再訪したのだが、その時に買った生成りコットンのジャケットを自分で 青く染めた話はここにも少し書いた。三輪や吉野へは、そのジャケットを着て出かけた。
身体の中に降り積もるさまざまな場所の記憶。それがまた何かと感応して連鎖していく。 微細な繋がりをたどりながら、同じ時に一つの場所しか占めることの出来ない、身体と いう不自由な乗り物を乗りこなしていく。そここそ、不可避的に言葉が発生する現場だ。
題:301話 チセを焼く1 画:リボン 話:明治二十九年の三月、モロタンネが亡くなった
あと100回、と思うと終わりから逆算したくなるのは人情というものだろう。 これまで通り、30回が一章のユニットならば、残りは三章ということになる。 そのうちの一章が、モロタンネの死をめぐる章となる。偉大なるフチの昇天は、 遠別にとっての凶兆ともなるのだろうか。あとたった三章、どう描くのだろう。 宗形三郎という魅力的な人物の“最期”は“未来”にどう反映されるのだろう。
今ごろになって気付いたが、8月8日を誕生日に持つ三郎は、未来圏からの風 を星野道夫からだけでなく、羅須地人協会を立ち上げた人物からも受けている。 あの人の「ユートピア」は仮初めにも成功したとは言い難いが、三郎の場合は あり得たかもしれない、もうひとつの日本近代を幻視させる程度には成功した。 日本近代の歪みは、歴史のお勉強の上での問題ではなく“いまここ”の問題だ。
文庫に落ちたばかりの澤池久枝さんのエッセイ集に星野道夫氏への言及がある。 ■澤池久枝『六十六の暦』(講談社文庫)に所収のエッセイ「極北のいのち」
この取り合わせを「意外」と思ってはならない。ミチオは太平洋戦争に興味を 持っていた。太平洋にも歴史にも切実な関心を燃やしていた。僕は、彼が語る 太平洋戦争というものを、もっと聞いてみたかった。ベーリング海の上空遥か から視るような、不思議なタイムスケールの中で捉えられる太平洋戦争の姿。
一貫して「日本近代の歪み」を背負わされた個人を追ったノンフィクションを 書き続けてきた澤池久枝さんの代表作、『蒼海よ瞑れ』(文春文庫)はミチオ の本棚に、『ミニッツ提督海戦史』などとともに、しっかりと置かれていた。 動物の生き死にを写真で捉えてきた星野道夫が視た戦争。興味あるテーマだ。
そこでは戦争という、文明が作りだした「死」もまた自然の大きな文脈の中に 捉え返されているようだ。そこからなら、現在の世界も見えるかもしれない。
題:300話 砂金堀り30 画:ショウガ 話:うっかりするとここが気に入って、このまま長逗留しかねない
歴史は面妖なものであります。ほんの100年前、200年前のことがさっぱり わからない。まして「近代」というダイナミックで複雑な時代に起こったことの 顛末を読み解くことは容易ではない。特に日本の19世紀後半あたりは難しい。 列島を蚕食しようとする外国勢力と、それに抗する幕府・諸大名という構図には 収まらところがある。何が保守で何が革新か、諸勢力が入り乱れて理解しがたい。 三郎の拓いた遠別ユートピアも、その「近代」の混沌の海に浮かぶ小さな島だ。
ここを読んで下さっている方には今さら推奨するまでもないが、佐々木譲さんの 『武揚伝』(中央公論新社)は、“遠別ユートピア”の背景となる北海道の史実 を踏まえた骨太な歴史大作である。この度、新田次郎賞を受賞されたとのこと。 佐々木先生、おめでとうございます。今後も新しい読者を獲得していく力を持つ 作品だと思います。僕の想像以上にエノモトタケアキという人物への毀誉褒貶は 甚だしいようで、彼の評価や通俗的人気が現状から大きく変わるには、時代とか 人々の歴史意識そのものの変化を待たなければならないのかもしれませんが…。 ともあれ、こういう受賞によって作品が認知されることは良いことだと思います。
「幕末」「明治維新」に自ずとまとわりつく「神話」のようなものを解きほぐす ことは、われわれが立っている地盤そのものの自明性を疑い、再認識することに 他ならない。『武揚伝』が力強く切り拓いてくれた視点を以て、もう一度「維新」 を起こしたとされる側の歴史に目を向けてみることはディベートの勉強みたいで 正しい歴史の楽しみ方だろう。若手の長州研究者によるハンディな新刊も出た。
■一坂太郎『高杉晋作』(文春新書) (まえがきより引用) 「御一新」は成ったものの、日本に本当の春はまだ巡ってこない。それは二十一 世紀を迎えた、現代においてなおのような気がする。日本人がいつまでも晋作や 坂本龍馬といった、若くして死んだ幕末の政治運動家たちを「英雄」「偉人」と して奉らねばならないのは、ある意味での滑稽な悲劇なのかも知れない。我々は 本当の「春」が訪れるまで、永遠に晋作復活の幻を見続けねばならないのか。 そのように人々に期待させる高杉晋作とは一体、どんな人物なのだろう。果たし て、現代に蘇ったとしても、日本を救ってくれる力を持った人物と言えるので あろうか。史料に従いながら、晋作とその時代を探ってみたい。 (引用おわり)
著者の一坂氏は1966年生まれということもあってか、「明治維新」に対する ある種のドライな、しかしそれゆえにロマンティシズムに毒されない見方が特徴 かと思われる。エモーションたっぷりなだけの英雄史観は、何も教えてくれない。 回天の震源といっていい、長州というブラックボックスを覗き込む面白さがある。 歴史の経緯を追う叙述は枚数を食うので、出来れば選書のボリュームが欲しいか。 そこは著者自身による私家版の著作やホームページでフォローされているようだ。 http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/index.html
あとがきで今年刊行すると告知されている『高杉晋作史料』の版元、マツノ書店 は、山口県徳山市にある知る人ぞ知る古書店。実は小学校高学年から中学校の頃 の僕は、この書店の真価も知らず、フツウの古書店として熱心に通っていたのだ。 「維新」を心の拠り所にする「保守」な気風の初等教育の中に、転校という形で 突然放り込まれて、日の丸の掲揚時は「君が代」の校内放送を聞きながら掲揚台 の方向に向かって直立不動、などという70年代末とは思えない教育現場だった。 先生のギターで「戦争を知らない子供たち」を歌うべき戦後民主主義の世の中で、 校長が吉田松陰の言葉の素読暗誦の課題を毎月課してくる、というのもあった(^^;
まさに何が革新で何が保守だか子どもにはわからない教育だったような気がする。 時代の意味づけや人物の歴史的評価なんて、時の潮目でいかようにも変わるのだ。 その中で自分の居場所を確かめるため、過去をリフレッシュさせる目を養うこと。
唐突に3年も前のギリシア旅行をサルベージして再録してみたりもしつつ 沈黙している間、どこかへ旅行に出かけたわけでもなく『静かな大地』も ちゃんと読んでいる。先日テレビ番組の中で、挿画の山本容子さんが連載 は400回続くと言っておられたので、残り100回といったところだ。
「砂金掘り」の章の内容に関して、リアルタイムでコメントしたいことが なかなかないのが沈黙の最大の原因。ヒグマとアイヌの話は苦手なのだ。 まぁコトバ遊びの対象にはなりにくいということだ。くわばらくわばら。
まだしばらくは遠別サーガを愉しめるということで、ここも継続したい。 御大の『新世紀へようこそ』系のメディア露出も結構あるので、ファンの 方はチェックされるもよろしかろうと思う。有事法制がらみ等もろもろ。 これも上手い文脈がつくれない限りここで詳しく言及することはしない。
「戦争は嫌だ」とプロテストすること、それと戦争をも内包する人間存在 の深淵を時には命がけで覗き込むこと、その両者の往還運動が“作家”の 「仕事」なのだろう。形骸化したコトバに囚われたり紋切り型に頼ったり、 そういう怠惰や欺瞞は「プロ」には許されない。コトバにも「賞味期限」 がある。それを小手先で誤魔化そうとしても、もはや消費者は信じない。
うむ、なんと難儀なお仕事だろう。自分は頼まれてもやりたくない(笑)
それにしても、あと100回。百日後の世界は、どんな色合いだろうか。 百日後の僕が、どんな色合いをしているかは考えるまでもないけど(笑)
題:285話 砂金堀り15 画:セロリ 話:その代わりにという顔で、キセルを振る
題:286話 砂金堀り16 画:オクラ 話:なるほど熊は神かもしれない
≪あらすじ≫淡路島から北海道の静内に入 植した宗形三郎と弟志郎が開いた牧場は、優 秀な馬を産出し、おりからの日清戦争で潤っ た。兄弟にもそれぞれ、子どもが生まれた。 だが、働き手をアイヌでかためた宗形牧場の 繁栄に周囲のねたみの声は強くなる。静内で はそのころ砂金がとれた。
題:287話 砂金堀り17 画:ヒメウコギ 話:ここはね、この時間からは鍛冶屋でなくて居酒屋になるんだ
題:288話 砂金堀り18 画:ソラマメ 話:それまで火を見たこともない熊が火を恐がるか
題:289話 砂金堀り19 画:カタクリ 話:ところが又吉はそれで熊を獲ってくるのだ
題:290話 砂金堀り20 画:パセリ 話:静内の賑わいはみなおれたちがもたらしたものよ
題:291話 砂金堀り21 画:ミョウガ 話:先に口に砂金を入れておけば後は造作ないこと
題:292話 砂金堀り22 画:芽キャベツ 話:この静内はアイヌの天下になってしまう
題:293話 砂金堀り23 画:ホオズキ 話:アイヌばかりで固まっていては、いずれ狙い撃ちにあうぞ
題:294話 砂金堀り24 画:ワラビ 話:やはり一人はしみじみよいなと思った
題:295話 砂金堀り25 画:ナス 話:その夏の終わりに、得た砂金を元手に店を開こうと決めたのだ
題:296話 砂金堀り26 画:ピーマン 話:犬も多いし、なにかにつけて余裕が見える
題:297話 砂金堀り27 画:サトイモ 話:シトナが一泊では済まないだろうって、と若い女が言う
題:298話 砂金堀り28 画:レンコン 話:ぶらぶらして金を減らすよりは体を動かした方がよくはないか
題:299話 砂金堀り29 画:ニンニク 話:あれは神出鬼没のお人だ
2002年04月10日(水) |
Gの誘惑1999 ウィーンにて〜終章〜 |
1999.3.31「ウィーンにて〜終章〜」
飛行機の便の都合でまだ暗いうちにホテルを出たと行うのにアテネ空港でテクニ カルトラブルのために3時間の足止め。ウィーンで過ごす時間が大幅に減ってし まう。航空会社の手配で、別のフロアの食堂で朝食を食べて待つ。
同席することになった中年夫婦と同年代の女性はドイツ語を話す人たちだが、な んかカタい印象。そりゃ昨日の観光ツアーで会ったカリフォルニア&マイアミの アメリカ人みたいに外向的とは思わないけど、ちょっと「あれっ?」と思う。 こっちは多少はめずらしい東洋人なのだしもう少し反応してくれてもいいじゃん、 という気分になる。
ドイツ系の人は神経質というようなステレオタイプの見方が頭に浮かぶ。これま での少ない旅行経験の中ではドイツ語圏が多くて、ドイツ系親しみをもっていた のに…。それともわずかの間のギリシア旅行で、僕が南方系に変貌したというの だろうか?…それもありえないことではない。 そうだとしたら、それはそれで少しうれしかったりもする。
やっと辿り着いたウィーンでホテルに荷物を置いて街へ。 ランドマークは、ザンクト・シュテファン大聖堂。どこからでもその尖塔を見つ けることができる。道路に自動車が入ってこない欧州の都市の中心街は、どこの 街でも歩きやすくて好きだ。大聖堂の尖塔をめざして散歩する。
前回この街を訪れたのは、1991年の春だった。 ちょうど大学を卒業するころで、ウィーンからブダペスト、そのあとドナウ川沿 いを遡って南ドイツやザルツブルグ、夜行列車で足を伸ばしてベルリンへ往復し て、それから一気にパリへ入った。すごく楽しい旅だった。あれ以来、どういう わけか去年まで遊びで海外、とりわけ欧州へ出かけたことはなかった。
その理由がウィーンの街を少し歩いただけでわかった感じ。日本人がイヤになる くらい溢れかえっているのだ。 僕が見た欧州は、ちょうど湾岸戦争の空爆から地上戦にかけての時期だった。 日本人は女子大生をはじめとして、軒並み旅行の計画を取りやめたり、国内に変 更したりしていた。今にして思えば具体的なテロの危険性よりも「自粛ムード」 によるものだったという気がする。
「平時」のウィーンの日本人の数たるや大変なものだ。 別に日本人がいて実害があるというものでもないのだが、ウェストポーチのオジ サンや、ハイキングに行くような姿のオバさんたちは、見ていて特別美しいもの ないだろう。まだ明日香村や高山寺や京都御所や北鎌倉を歩いているオバサマた ちの方が、白州正子や立原正秋なんかを読んでいて美意識に敏感なような気がす る。きっと気がするだけだろうが。
すっかりヤル気をなくして目的地だった大聖堂の中に入る。
大伽藍の中の少し埃くさいひんやりとした空気。 ステンドグラスやロウソクや聖像の数々。祈りの場所。 建築を見物にきた観光客の列から離れてミサの時に使われる椅子に座った。 8年前も僕はここにきて座っていた。すべて同じだ。 地上戦に突入した湾岸戦争のことをぼんやり考えていた。 戦争なら、今だってやっている。 さっき飛んできたアテネとウィーンの間にコソボはある。 空爆、難民の発生、あれが戦争でなくてなんだろう? 世界で戦火の止む日はない。 それは数学の公理のような動かし難い物事の前提 。 だからこそ強靱な「幸福の定義」を人は必要とする。 …話が少し先走り過ぎているかもしれない。
旅のまとめ。 ギリシアと日本の間に既知の場所のウィーンを訪れて、精神の整理体操をしよう という目論見。去年の秋はバカなことに、パリと北ドイツの後にバリ島へ行って しまって、帰国してから地獄を味わった。
中途半端な一晩をどう過ごそうか?アールヌーヴォー建築を見て回るには時間が ないし、8年前にみた。クリムトの絵はもう一度みたいが、閉館時間までもう間 がないだろう。オペラでも見ようか? サントリーニで逢ったAさんが、将来アトランティス伝説をモチーフにした新作 オペラを完成させて上演するときに、オペラというジャンルそのものへの素養が ゼロでは、充分に味わうことができない。
8年前に来たときには立ち見席のチケットを並んで取った。 観た演目は「ラ・トラビアータ」だった。開演の2〜3時間前から並んだおぼえ がある。列には各国のジーパンを穿いた旅行者風の若者、音楽学生らしき地元の 人がいて、確か20シリングとか30シリングだった。 本物中の本物の芸術を若い人に体験させる機会を設けているあたりに欧州文化の 懐の深さを感じて一人で感心していた。
立ち見はなかなかシンドい。前回3時間くらいある上演時間の間に、フランス人 のきれいなおネエさんが貧血を起こしてぶっ倒れてドン!という鈍い音にびっく りした。でも青春の想い出を追体験するのは今日の気分にも合ういい時間の過ご し方だ、ちょっと並んでみるか…と思った。須賀敦子の本に登場する人物のよう でいいではないか。国立オペラ座を半周して、立ち見席受け付けのガラスのドア を覗き込んだ時…! 日本のウェストポーチ系のオバさんが、沢山並んでいた!
言うまでもなく、僕はドアを開けずに引き返した。 まったくみんなお金持ちなんだから、ツアー会社に頼むなりして日本でチケット 予約すりゃあいいのに、と自分を棚に上げて思う。欧州で音楽を勉強中の苦学生 の若い人が、確実に何人か、今夜の「ドン・ジョバンニ」を観る機会を奪われた わけだ。こういうことを気づかずにアチコチでやっているんだろう。
大聖堂の方へ戻るあいだにも、日本人が目に着く。 アテネで見た日本人は、まだしも他所の国に来ているという緊張感があったよう に見えたのは贔屓目だろうか? ましてサントリーニで遭った人たちはみんな魅力的だった。 訪れる意志の力、そして覚悟。 観光旅行にも人格は出るのだ。
須賀敦子のイタリア、星野道夫のアラスカ。 彼らの人生や姿勢はとても真似できないが、本は読める。 自分のことを棚に上げつつ10代、20代を振り返れば、心ある若い人たちには 彼らの本を読むことを強く奨めたい。 僕はまだ30歳だが、この歳になってからだと中途半端だ。 ロバート・ハリス『エグザイルス』も力になる旅の本だ。池Z夏樹のギリシアと いうのもあるにはあるが、あまり滅多な人には奨められない。御大自身も処理し きれない不発弾のようだから、準備のない人が触れるのは危険だ。 小説家は、まず小説から奨めよう。
なんとなくウィーンにいること自体が手詰まりになって、早い夕食を食べること にした。ついギリシアの影を追って「アルテミス」というギリシア料理屋の店先 のメニューを見たりしてしまう。値段がアテネよりずっと高いし、バカげている ので入りはしなかったが。
大聖堂の近くではあるが、薄暗い感じの食堂に入った。 いつも食べることにしているグヤーシュ・スープがなかったので他のものを頼む。 何の意地だか自分でもわからないが、英語を使わずに超初等ドイツ語だけで通し た。しょせん単語を並べているだけなのだが、それは英語だって大して変わりは しない。この程度だったらギリシア語も出来るようになるかな…そんなことを考 えた。帰ったら本を探して買おう。
2002年04月09日(火) |
Gの誘惑1999 ガイアの泉 |
1999.3.30「ガイアの泉」
早起き、外は雨降り。アテネの春は、やはり雨が多い。 でも「必要」な時にはきっと晴れる。僕の人生は、そういうことになっている。 昨日のスーニオンで図にのっている。 オポチュニスト修行は、うまく行っているようだ。 テレビのCNNではコソボの難民のニュースをやっている。近くにいるとリアル だ。明日は、あの近くを通ってウィーンへ飛ぶはず。
きょうはデルフィーへ出かける。車で3時間くらいかかる。 サントリーニ島への旅やスーニオンでエーゲ海を堪能したので、ギリシアのもう ひとつの顔である山の風景を見るのが楽しみだ。 昨日アテネの旅行会社に申し込んだ日帰りツアーで行く。
迎えのオジさんに指示された観光バスに乗り込んで出発。 ガイドのオバさんが、べーシックな英語で案内してくれる。デンマーク、オース トリア、あとどこだかわからない国々の人が参加しているので、ゆっくりと確認 するように喋ってくれる。おかげで何の説明をしているのかは充分に理解できる し、内容も本の予備知識のおかげで6割くらいはわかる。それにしても説明が神 話や哲学や歴史に及んで高尚なものにならざるを得ないのが、この国らしい。 デンマーク女性が哲学の概念について熱心に質問している。
雨が降りつづく中、巨大な岩山が連なる内陸へ入ってゆく。 海から500キロも離れれば全国土がカバーできる国だが、ギリシアの内陸部は 海とはまるで別の顔を見せる。 いまも紛争の絶えないヴァルカン半島の諸国へ地続きの山。 マケドニアやアルバニアの国境を越えて、難民たちが歩いてきても、あながち不 思議ではない地政。NATOの空爆はどうなっているのか、街のキオスクで見る 英字新聞の見出しくらいしか情報源がない。
ガイドのオバさんの獅子奮迅の解説に圧倒されているうちにデルフィーに近づい てきた。バスは、舗装された山道を登っていく。巨大な岩の山塊が凄絶な景色を つくりだしている。深い谷を隔てた岩山にジグザグの細道が白く刻まれている。 ロバに乗ってあの山道を行ったらどんな世界があるのか?道の彼方にはバルカン から東欧の国が連なっている。
雨は弱くなっている。空が明るさを増してきた。 ガイドさんが言う通り、デルフィーはアテネと天気が違うらしい。雲ともつかな い薄靄がかかる岩山の頂に、点々と白いものが見える。冬からわずかに消え残っ た雪! ギリシアの山の地方は、冬にはしっかり雪が降るという。サントリーニ やさらに南のクレタはアフリカまであとわずか、しかしこの山の彼方にはマケド ニアやユーゴスラビアがあるのだ。
日本もあれでなかなか南北に広がりのある大国だ、と思う。 去年、那覇でクーラーの効いた喫茶店でコーヒーを飲みながら僕は長野オリンピ ックの日本ジャンプ団体優勝を知った。 汗をかいてコーヒー豆の麻袋を担いで納入に来た兄にぃが、浅黒く日に焼けた顔 をほころばせて日本の金メダル獲得をウェイトレスに告げていた。雪の長野や選 手たちの故郷・北海道と、この国際通りが同じ国に属することの不思議を感じた。
蛇足ながら長野五輪での日本の”歩留まり”は大したものだった。夏季はバレー も体操も衰退して、水泳くらいしか期待できない以上、こうなったら冬季に力を 入れたほうがいいのではないか? 北海道では、子供のころから学校でスキーやスケートをやっている。すべての小 中学校の校庭にリンクがある。そういう背景からしか、世界に尊敬されるアスリ ートは育たない。ノルウェーやフィンランドに勝ってしまうのだから立派だ。
以前、物騒な思考ゲームとして北海道独立論を考えたことがあるが、新国家は冬 季五輪で、ただちにその名を世界に轟かすだろう。経済ではふるわないけれど、 “北海道が日本で良かった”と日本中の人が思うはずだ。今プライドの持てるも のの少ない国だから。オリンピアの国で、また妙なことを思い出したものだ。
デルフィー。神託で有名な聖地。あえて例えるなら日本でいえば、古代の宇佐あ るいは伊勢か?大理石の山塊そのものが磁場を放つ地霊の済み処という印象だが、 その神託の根拠は、ここが交通の要衝で情報の集散地であることと関係するらし い。一種の情報機関でありシンクタンクだ。
それにしても太陽神アポロンや月の女神アルテミスをはじめ、神々の何と多様な ことか?何と奔放で人間的なことか? いっそ八百万の神々と呼んでしまいたくなるような姿。 大聖堂を作り出すような一神教とは異なる信仰の対象だ。
大理石の神殿の遺跡とその背後に聳える岩山、振り返れば谷むこうの山々、そし て雲間から差してきた太陽の光。宗教学者の鎌田東二ではないが“聖地”は世界 のどこでも凄いパワーだ。ここはもともと大地母神・ガイアの居場所。 そこへ太陽神アポロンが、後から来た。世界中によくある、土着の地方神と征服 神の関係だろうか? オンファロス=”世界のへそ”。それが、ギリシア人の宇宙の中でこの場所が占 める地位。ゼウスが放った二羽の鳥が世界を回ってここで出会った。
“聖地”は、人の祈りをブラックホールのように吸収する特別な場所だ。たとえ ばオキナワ・知念村の斎風御嶽(セーファーウタキ)のように。 キリスト教がローマ国教となった時代に、ここは聖地としての地位を失った。 今は考古学者の手によって復元され、観光地として隆盛している。峻険な岩山の 斜面に宝物庫や劇場、競技場などが配置されている。
遺跡の周囲には、黄色い菜の花が一面に咲いて、聖地の春を彩っている。もとも とあったという泉は涸れたが、近くに水が湧き出している。その水を飲むと再び ギリシアに来ることができる、そう日本語のガイドブックに書いてあったので、 僕は一も二もなく手ですくって飲んだ。 顔まで洗って濡れたままの格好で歩き出すとドイツ人の子供がそれを見て笑う。 キミにはわからんだろう俺の気持ちが?
“デルフィー観光日帰りバス・ツアー御一行様”にはランチが用意された。ツア ー会社の系列のホテルが現地近くにあって案内される。こういうバス・ツアーに 参加したのは、交通の便が悪そうで路線バスやタクシーでは回れないと思ったか らだ。以前オキナワの南部戦跡も、観光バスで回った。ああいうところは、半強 制的に身体を運ぶしかない。一人だと深入りしてしまいそうだから。
バイキング形式のランチを一通り食べ終えたころ、隣のテーブルで食べていた白 人の老夫婦の奥さんに、彼女たちのテーブルに来るように誘われた。恰幅の良い ダンナともう一人、僕と同年輩か少し上くらいの金髪の女性がいる。彼女は老夫 婦の連れではなく、たまたまここで同席しただけらしい。
「ゴメンナサイ早くここに呼んであげれば良かったわね。」奥さんがそんなこと を言いながら一つ空いている席を示す。自己紹介を済ませて、老夫婦はカリフォ ルニアから、女性はフロリダから来たアメリカ人だとわかった。 僕は、自分の住んでいるホッカイドー・アイランドの説明を適当にした。老夫婦 は直に席を立って土産物を見に行き、僕はキャシーと名乗った女性と話していた。
彼女は今までの旅行経験を話し、僕の経験も聞きたがった。 「ホリデーは終わりで明日帰るの、来週はもう仕事よ。」と顔をしかめる。彼女 は、フロリダのラジオ局に勤めているという。旅行好きで結構いろいろ旅をして いるようだ。日本にもいつか行ってみたいというので、トウキョウに滞在するな ら近くのカマクラには行くべきだ、と勧めておく。 ギリシアに来ているくらいだから古いカルチャーは好きなのだろう。
こういう話題の運びは、先進国の給与生活者が共有できる。考えてみれば、コソ ボの難民の子供とか、内蒙古のお婆さんとか、ボリビアの荒くれ労働者には通じ ない“国際交流”だろう。今回ギリシアという観光超大国を歩いて、欧州人 (アメリカ人を含む)の観光に対する、年季の入った情熱には圧倒された。
彼らの文明の源流だからギリシアではみんな“お登りさん”になる。アクロポリ スや国立考古学博物館では様々な言語のガイドが声の大きさを競い、それをツア ー客や学生たちも、おしなべて熱心に聞いている。 日本の京都や奈良にも、陽気のいい週末などは中高年を中心とした男女が名刹や 古仏を目当てに沢山の繰り出すものの、一部の余程の好事家をのぞけば仏教思想 や寺社建築についてそれほど関心がある風には見えない。
そもそも他国の領土に属する古典古代の遺跡を地中から掘り出して一般の人々が それに強い興味関心を抱き、あまつさえ現地に足を運ぶ、そういう“観光”への 貪婪な情熱は決して普遍的なものではありえない。 日本にはまだしも江戸時代から“お伊勢参り”のような奇習があったので、その 素養はあったのかもしれないが、所詮は欧州人のグランド・ツアーに発する知的 胃袋の強靱さとは、比ぶべくもない。別に比べなくてもいいけど。
ただそのへんの驚嘆すべき胆力がルーブルや大英帝国博物館にオリエントの膨大 な発掘物の数々を持ち去るという蛮行をなさしめたのだろうし、産業という巨大 な文明の運動を可能にさせたのだろう。 英国人のトラヴェローグの質量は、藤原新也や沢木耕太郎の亜流どころかようや く“猿岩石ードロンズー朋友”の亜流を生み出す端緒についたばかりの日本とは 桁が違っている。まさしく「19世紀の英国は魔物でした」by司馬遼太郎、と いったところだ。『街道をゆく』ごっこをしているときりがないのでやめる。
ちなみに御大は“シバリョー”の仕事の中で『街道をゆく』をベスト・ジョブだ と書いている。どこかの地方へ出かける前に、ちゃんと読んで予習したりもする そうだ。そういえば御大は、アテネ在住時代に日本人の観光ガイドのアルバイト (?)なんかもなさっていたらしい。客を土産物屋に連れていって、その上がり のいくばくかを、見返りに受け取ったり、なんてこともしていたと講演の席で話 していた。なかなか商売人ですなぁ。 しかし’75年ごろには今ほど日本人も大挙して来なかったのだろう。その時代 に“池Zガイド”に連れられてアテネを観光した人って、今の僕のようなミーハ ー・ファンから見るとうらやましいような…。 でもあんまり愛想よくなかったりしたのかもなぁ(笑)
せっかくギリシアまで来て、愚にもつかないことばかり書いている。 でもあの“エーゲ海の青”に代表されるように、ここで経験したことはコトバに はならない。十年先とか何度も通ったあとなら、じんわりと効いてくるかもしれ ないが。すでにHP「池澤御嶽」での公開を前提としているので、こんな言い訳 めいたことも事前のディフェンスとして書いておこう。姑息なヤツだ(笑)。
バスで眠りながらアテネへ戻る。 僕の欧州旅行の定番企画で、チャイニーズ・レストランへ。ギリシア料理は口に も身体に合っているのに、なにゆえ?…という疑問もあるわけだが。 ベルトルッチの「ラストエンペラー」的なオリエンタリズムを味わおう。正体不 明の東洋人を演ずることへの二重三重の倒錯が、何とも言えずアイロニカルで心 地好いのだ。またしても不埒である。鴨料理と”チンタオ・ビア”を頼んでチビ チビ飲みながら、雰囲気に浸る。 あすは、この国を発つ。
便の都合もあってウィーンで1日滞在する。 日本へのインターバルには丁度いい旅程だ。 8年前にブダペストへ行った前後に足掛け6日いた街だからパリと並んで欧州では もっとも馴染みのある都市。 ドイツ語圏というのも、多少の単語がわかる程度とはいえ、安心感がある。 …こうやって、いろいろ自分を説得しているナ。
明朝、この国を発つ。やっぱり少し切ない。
2002年04月08日(月) |
Gの誘惑1999 スーニオンへの道 |
1999.3.29「スーニオンへの道」
昨夜遅くに、アテネ空港からバスでシンタグマ広場についてホテルに入った。
疲れていたのか熟睡してしまってデルフィーに出かけるには遅い朝になる。今日 は一日アテネで過ごすことになりそう。 街を歩く。島から戻ってみるとアテネは大都会だ。 ゴミゴミしているし空気も悪い。
「中進国」の都会は排ガス規制が日本なんかより緩いのではないか、と思えるほ ど車の排気ガスが立ちこめている。自動車大国・日本で鍛えた身にもキツい。マ スキー法案とホンダのクリーン・エンジンの開発は偉業なのだ、と思う。F1参 戦も良いけど、さらに未来型のクリーン・エンジンを作ってもらいたい。 それはともかく、これまでの経験の中ではブダペストに近い排気ガスの濃厚さだ。 ハンガリーの首都にしてハプスブルク二重帝国の都の座をウィーンと分かち合っ た伝統ある美しい都市だが、現在は資本主義化の度合いが中途半端。同じ都会な ら人によってはパリの方が好きだろうし、また人によってはアジア色の強いイス タンブールの方がおもしろいというだろう。その気持ちもわかる。 しかしそれでもブダペストもアテネもいい街だ。
ここで何か商売をやって生きて行けるなら幸福だろう。 現代ギリシア語を猛勉強して、アテネで日本企業やメディア相手の怪しげなコー ディネーターでもやろうか? 2004年のオリンピックで需要が高騰する前に 「仕込み」を済ませておけば、案外うまくやれるんじゃないか?などと妄想する。 もし本当に「ギリシア病」にかかってしまったらそうするしか生きていけない。
日本の高校生で考古学を志している少年少女はサントリーニで出会ったフィリピ ーノの考古学徒のように、アテネに留学すればいいのに、と思う。門外漢の邪推 かもしれないが、日本の考古学会も他の分野同様に旧弊なのではないか?東大と 京大間で遺跡の縄張り争いをしたり、最重要な遺跡である皇族の古墳が、宮内庁 の所管になっていて、発掘が禁止されていたりするのではないか? それなら考古学の歴史も深いギリシアで勉強すればいい。すでに重要な遺跡は発 掘され尽くされているのかもしれないが、もしかすると2004年のオリンピッ クのための工事で発掘ラッシュ、なんてこともあるのかもしれない。
学びたいと思えば、どこでも可能なのだから。 世界は広く、選択肢は無限にある。 まずそれを知ることから人生ははじまる。 自分の10代はそれとは遠い感覚で過ごしてしまっただけにそう思う。人はみん な星野道夫のようには生きていない。 でも思い立ったときから、ミチオの精神を胸に刻んで生きることは可能だ。 アクロポリスへの登り坂を歩きながら、またそんなことを考える。
中腹のあたりには、先史時代の穴居人の痕跡もあるらしい。 先日アテネの街を見下ろした大理石の丘の下にあたる部分に深く切れ込んだ谷間 があった。先史時代の遺構らしきものは見当たらないが、ゴツゴツした自然石に 混じって一枚の板状の白い大理石が、やや斜めになりながら立っている。 文字も絵も描いてないからただの石なのか?
“白いモノリス”…、岩の形は、その形容が最もふさわしかった。衝動に駆られ てモノリスに背中を乗せて斜めにもたれかかってみる。 朝のギリシアの透明な空が、両側の大理石の崖に切り取られているのが見える。 意識を預けると何が見えるだろうか? 空を無心に眺める。遠く鳥の声だけが聞こえる。
その時、視界の隅に何か蠢くものを認めてビクッとした。
よくみると岩のすき間に子犬が何匹かまとまって寝ている。 寝ているというより、目も充分に開いていない生まれ立ての子犬だ。数えてみる と6匹いた。母犬は見当たらない。 アテネの逞しい野良犬たちの故郷は、アクロポリスの中腹にあったのか! 一人で大発見でもしたような気になる。
丘に登ると各国の観光客がパルテノン神殿を見学している。 パルテノンの完璧。 これについて多く語ることはない。 「ギリシアの誘惑」で池澤御大が書いている通り、一度見に行くだけではなくて 一年や一日のあらゆる時間に見続けなければ、その真価は沁みてこない気がした。
サントリーニで身についた買い物癖が出て、プラカの通りで見つけたコットン地 の服屋に入る。僕好みの紺系のザックリした服が沢山あって目移り。マダムにい くつか出してもらった候補の服の値段を聞いて「エンダークシ」とうなずいたら マダムは笑ってウケていた。急にギリシア語で「わかった」とつぶやいて真剣な 面持ちで品定めをはじめた日本人はさぞかし滑稽だったのだろう。
昼過ぎには、懸案だった国立考古学博物館へ。 ここには結構日本人もいる。 ミケーネの出土品は、やはり見応えがある。 シュリーマンの本も一度読んだほうが良さそうだ。 しかしギリシア彫刻はルーブルなんかでもそうだったが、あまりよくわからなく て退屈してくる。もどかしくなって二階のサントリーニの部屋へ行く。 あのアクロティリ遺跡の大きな壁画がここにあるのだ。 壁画は予想以上に大きくて色彩が鮮やかだった。 結局飽きずにずっと見ていられたのは、ここのコーナーだけだった。 壺や壁画に描かれたイルカの絵を見て、エーゲ海の青とマリアンナを思い出しな がら、「デルフィーニア」と一人つぶやいたりしていた。重症だ。
近くのインターネット・カフェに寄ったのも予定の行動。 また少しローマ字で書き込む。 これでアテネへ戻ってやろうと思ったことは、とりあえずやってしまった。 デルフィーに行く日帰りバス・ツアーは、すでに申し込みを済ませてある。 明日は一日がかりだから、アテネは今日で最後も同然。 しかし何となく浮かない気分だ。空が晴れなくて雨が降ったりやんだりしている せいもあるが、旅も終盤に来ての憂鬱だろう。
日本に帰国したくないというわけではない。 幸いに仕事もプライベートの付き合いも楽しみが多い。 新聞連載の「すばらしい新世界」も、帰ったらまとめ読みしなければならない。 ずっとギリシアに住んで暮らせるというわけではない、さりとて慌ただしく移動 して隙あらば観光地を見るというリズムでもない、その中間のような、半住人の 気分。これがパリあたりなら、1日の滞在でも1週間でも1年でもそれなりに、 最大限に楽しめそうな気がする。半住人の過ごしやすい都市。 アテネは観光客と住人の間を許さない街なのかもしれない。そこに御大がギリシ ア時代を語るときの、何か切ない感じが由来しているのではないだろうか?
そんな中途半端さを抱えて行くあてもなく歩いていたら、通りの向こうからH君 が歩いてくるではないか!きょうの午後は、スーニオン岬のポセイドン神殿を見 に行くと言っていたはずだ。話を聞くと天気が悪いからあきらめようとしている という。出会ってしまったからには、勢いで出かけてみようということになった。
バスを見つけて乗り込む。 車掌さんのいる路線バスだ。一般市民の生活の足である。 観光客は我々くらいのもののようだった。
バスはアテネの中心街から海沿いを目指す。 天気は良くない。現地についたときが問題だが、どうなるかまるでわからない。 まぁ神様が一番いい天気を下さるだろうとすっかりオポチュニストになりきって いる。旅の疲れからか、H君も僕もウトウトとしていた。
ふと気がつくと、車軸を流すような雨がバスの天上を激しく叩いている。 これはすごい。海の方の空には稲妻まで走っている。 大音響の中をバスは走る。 乗客のギリシア人たちは、豪雨にも何でもない表情。 車掌さんも淡々と仕事をしている。シブい。 ワンマン・バスが増えているらしいが、車掌がいるバスに乗れて良かった。何だか ギリシアのロード・ムービーの世界に入ってしまったような感じ。春の雨も人生の 一部、そんな感じで老若男女みんな良い顔をしている。 バスに運ばれていく人生。 思いがけず良い経験をした。
そのうち進行方向の空が明るくなってきて、なんと見る見る晴れてしまった。つく づく僕は天気運だけはいい。 H君が驚いている。神様に感謝。 バスは、海沿いのくねり道を走っていく。 右手は、晴れてきた海。 ピレウスからキクラデス諸島への航路にあたるのか、懐かしい船が沢山行き交う。 ところどころに、小さな島々が見える。 左手は、岩がちな丘陵。 白い岩に緑の灌木が薄く繁り、黄色い花をつけた草が萌え、白壁に朱色の屋根の家々 が高台の上に海に向かって立ち並んでいる。
アテネではなく島でもない、人の幸福な暮らしの気配を感じさせる景色。 こんなところに家を建てて住んだら、どんな風だろう?とまた考える。 キラキラ光る海を見ながら、やがて見えるはずのポセイドン神殿の列柱を目でさがす。 岩が切り立った海岸と、淡い色の海と、古代の遺跡…、まるで『MASTERキートン』 に出てくるコーンウォールみたいだ。
スーニオンの遺跡はエーゲ海に向かって突き出した岬の断崖の上にあった。 バスを降りると意外に多くの観光客がいる。 ツアー日程に組み込まれていると、天候なんて関係ないのだろう。あのアテネの天気 で、誰がここまでくるだろうか?ここの観光地としての売りはポセイドン神殿から見 る夕陽。その時間帯に合わせて、多くの観光客がここへ送り込まれてくるわけだ。
バイロンも訪れたというポセイドン神殿。 海の神様の居場所に、こんなにふさわしい環境はない。 船からこちらを見てみたかった。きっと航海の良い目印だったのだろう。崖の上から 海を見ているのに満足できず、他の観光客が視界に入らない位置へ移動する。 崖の途中へ降りていく、道とも呼べない道を少し下る。崖の上から崩れ落ちてきた大 理石の破片が積もった場所に腰を下ろすと、もう波が砕ける音しか聞こえない。 そのまま夕陽を見ている。 何も考えない。
大理石の小さな破片をひとつだけポケットに入れた。 もはやここのは遺跡のものでもないから許されるだろう。 空気が冷たくなってきて、そろそろ帰る算段をしようと崖の上に戻る。もうあまり人 は残っていない。管理人が鍵を閉めようとしている。 H君はギリシア旅行で写真に目覚めてしまったのか、しきりにシャッターを切っている。 一眼レフを買うのだ、という。彼は明日の朝の飛行機でロンドンに発つ。 アテネに戻れば、今度こそお別れだ。
少し離れて振り返ると、もう暮れてスミレ色になった空に白い大理石の列柱が並んでい る。広い空の反対側には、円い月が浮かんでいる。 ふと星野道夫のある写真を思い出す。 クジラの骨が、大地からスミレ色の空に向かって突き出している光景。列柱とクジラの 骨の白が僕の中でシンクロしたのだろう。あの写真に星野はどうしても月を入れこみた かったのだと思う。そんなアングルだった。 ギリシアとアラスカ。同じ地球上にある別々の場所。 まずもって自然の大きさが違う。でも同時に存在している。 いつかアラスカに行った時、ギリシアを思ってみるだろう。 風景を眺めるだけでも、世界を見ることは無駄ではない。
誰もいなくなった停留所で最終便のバスを待ちながら、お約束通りに一番星をさがした。 遺跡の上に見つけた。
2002年04月07日(日) |
Gの誘惑1999 聖イレーネに恋して |
#「ギリシアの誘惑1999 G−Who極私的旅日記」の再録です。
1999.3.28「聖イレーネに恋して」
目覚めて窓の外を見る。雨風が強い。 サマータイム初日は嵐のようだ。村上春樹が「遠い太鼓」で言っていた通り、冬 から春のエーゲ海は悪天候が多い。 ボートが出航しないというので、ヴォルケーノ見物を断念せざるをえなかった。 H君も僕もすでにこの島にイカれていてネクスト・タイムを期しているので、や り残したことがあるのもよし、とする。オプチミスト精神が身についてきた。
しばらくして天気は好転するも、船は出ないのでまた散歩と買い物三昧。サント リーニ産のワインも買った。池澤御大はシチリアのワインに味が似ている、と書 いている。日本に戻ってからどんなシチュエーションで飲もうか…と考える。 すっかり旅の道連れとなったAさんとH君と、崖の途中のカフェテラスで休む。
本当にこの海の眺めは飽きることがない。 一方で、もしたった一人でこの風景と渡り合っていたら、正気でいられないので はないかと思う。饒舌に言葉にしないと神経が感じすぎてまいってしまうのだ。 そういう意味では日本人の道連れに出会えて助かった、というところ。御大のよ うな、鍛えられた旅の精神力と詩的な情報処理能力があれば大丈夫なのだろうが。
まだシーズン初めのカフェ。海が良く見えるテラス。 入り組んだ坂の小径には、猫が沢山住みついている。住人たちがエサを与えてい るようだが、飼い猫と野良猫の区別がつかない。足下にすり寄ってきた三毛猫を かまっていると「昨夜からモテますね」とH君にからかわれる。そういえばマリ アンナも猫系の性格だったナ、自分では犬好きのつもりなのだが…。
猫をカフェのテーブルの横の壁に持ち上げて写真を撮る。 絵はがきになりそうな猫と青空と海と白い街並み。日本の女子大生やOLにこの 光景を見せたら、悲鳴をあげてここに来たがるだろう。 大の男3人が、猫ちゃんと代わる代わる写真を撮っている。 「猫と一緒に写真とります屋」でも開いたら儲かるかな、などとバカを言う。
カフェの奥から不思議な曲が流れてきた。 音楽家のAさんが耳ざとく聞いてマダムにCDを見せてもらった。映画「アリゾ ナ・ドリーム」などのサントラを手がけている作曲家のオリジナルアルバムだと いう。ヴァルカン出身の著名な人のようだ。東欧のサカモト・リュウイチみたい なもんか。“DEEP FOREST”の「ボエム」というアルバムも面白かったので、 東欧系は要チェック。帰国したら詳しそうな人に尋いてCDを入手しよう。
マダムは、日本の山形に弟がいるが、まだ行ったことはないと話してくれた。 ギリシアと日本は意外につながっている。 夕方、船でピレウスへ帰るH君が乗るバスをAさんとともに見送った。 僕とAさんは今夜の飛行機で、それぞれに飛び立ってゆく。
街はどこもシーズンを迎えるためのお色直しに忙しそうだ。いろんなところで 壁を塗り直している。教会の前の広場から崖を見下ろすホテルの屋根で、老人 が一人コツコツと作業をしていた。小さな石を敷き詰めて模様を作っているよ うだ。島の火山性の石には、灰色のものと赤いものがある。それを使ったちょ っとしたアート。円形から外に向かって、4つの尖った部分が着いている図柄。 眼下数百メートルの海を背負って絶景に目もくれることなく模様の出来ばえだ けに心を配っている老人に声をかけた。 「ヤーサス!これは太陽?」 「いや、東西南北の方位だ」と老人。 ほとんど空の上のように見える屋根の上、何やら哲学的なものさえ感じるでは ないか!何かに似ている…と思ったら、チベットの砂マンダラとの連想だった。 カーラチャクラという儀式の時、ダライラマと高僧たちが作る色砂で造られた 精妙なマンダラ図。それとサントリーニの火山岩で造られるホテルの屋根の飾 りが似ていると思えたのは、老職人の哲学的風貌への勝手な思い入れだろうか。
カルデラ越しの日没を観るべく、Aさんと崖の上のベンチに陣取った。 巨大なカルデラの舞台の中で太陽と水蒸気が綾なす光の啓示にも似た光景を見る。 またしても言葉が出ない。 雲間から差す強烈な光線がカルデラの内海の火山島の奥のあたりを照射している。 全体としては靄がかかった周囲とのコントラストが激しい。 海は一刻たりとも同じ色に留まらない。 その中をミニチュアのような客船が薄い光に守られるように航行してゆく。 やがてカルデラの淵を通過して、この世界の外へと出ていった。 依然として光の核の部分は、橙色さえ帯びて輝いている。 今あそこからアトランティスの遺跡が浮上しても不思議ではないような光だ。 雲の悪戯が創り出した天空の織りなす光の神話劇。 それはどうしようもなく思考を天上のものへと引き上げる。
アトランティスの風景。 Aさんは、そうだとしか思えない記憶をもっているという。 海へと続く大理石の緩やかな階段を歩むと足が波に洗われるその暖かい感触まで “覚えている”のだそうだ。 こうした現象はオカルティックな話だけとも言い切れない。人間の記憶とか時間 というものの概念そのものが、脆弱な基盤しか持たないもので、実態はまだまだ 解明されていない。
集合無意識的に記憶が「運ばれる」メカニズムが、我々の身体や意識の中にはあ るのかもしれない。単線的な輪廻転生ではなく、記憶のプールのようなものがあ る、という考え方にはすぐにもうなずける。個人が個人として他の誰でもなく特 定の時空間を占める一人の個性として生まれること、そこにも意味はあるだろう。 魂なり業=カルマなり、あるいは識なり、記憶を運ぶ主体は何者とも断じ難いが、 今の世に「アトランティス」の記憶と業を保持している人もいないとは限らない。
きっと滅んだ文明にはそれなりの錯誤や不幸があったはずで単にアトランティス に立ち戻ることは、カルマを刈り取ることにはならない。ただしまるで同じ失敗 を低レベルで繰り返すのはつまらないことだ、とは思う。どうせ「失敗」するな ら、もっと派手に悪虐の限りを尽くすのもいいかもしれない。もしかしたら20 世紀は、ほとんどそれに近い時代だったという恐れもあるが。
滅びがあったとしても、またこの先あるとしても、その中で強烈に想ったことは 宇宙の中で消滅はしないのだろう、ポジティブにもネガティブにも。 過去の他人の思惟をなぞること、記憶のデータベースにアクセスすること、そし てそれぞれの限定された時空間の中に置かれた身体の生において、まだ誰も考え ていない領域を何ミリかでも進むことができたとしたら、その人生は大成功なの ではないか?その前にまず自分のカルマを刈り取るだけでも精いっぱい。 個々人に与えられた他人と違う初期条件のバイアスは、その機会を提供している のだ、というと説教臭すぎるだろうか?
老職人は、ずっとホテルの屋根に方位を形づくっている。 先刻からの天空の神話劇は、彼にとっては「こりゃまた雨が降るかな?」という 風情の、天気読みの対象でしかない、とでもいうように、僕とAさんが絶句しな がら海を見ている間も、彼は彼の仕事を続けている。 まるで神話の登場人物だ。 彼が造っているのは世界のミニチュア=ミクロコスモスで、その出来栄え次第で 外の世界=マクロコスモスの気象や運行が決定する、・・・そんな妄想さえ浮か んでくる。「う〜む、今回の“世界”は、なかなか良くできたわい。」いまにも そんなことを言いそうな顔をしている。 屋根の石絵づくりは、やりがいのある良い仕事だと思った。
見るべきものを見て、とうとう刻限が来た。 Aさんとタクシーをシェアして空港へ向かうことにする。 アレッサーナに預けてあった荷物を取りにいく。 マリアンナには会えなかったな、と少し寂しく想いながらフロント係のレイラさ んに“Say goodby to Marianna!”と頼んでサントリーニの“わが家”を出た。
タクシーで着いた空港は、小じんまりとしていた。 知っている中では石垣島の空港のようなローカルな感じ。飛行機はバスのような 感覚なのだろう。アテネでも随分オキナワを引き合いに出したが、あそこが那覇 だとすると、このキクラデス諸島のあたりは、先島に当たるだろう。 船では10時間近くもかかるが、飛行機ではたった40分ほど、という距離感。
ハイ・シーズンの前だったせいもあるが、北の人間が南の島に期待するフレンド リーな感じも、先島っぽい。東京に転勤したらトランスオーシャン航空で先島に 通おう、などと思う。それじゃあ池Z御大そのもののコースだが、必然的な流れ なのだからしょうがない。
Aさんとしばらくまた夢中になって話していたが、やがてクレタ島のイラクリオ ンへ向かう飛行機に乗って去った。 サントリーニで出会った友人たちの中で、僕は最後まで島に残ったというわけだ。 急に空港のロビーで一人になる。 現地の人は大勢いるのだが、日本人は僕だけなのだ。 もともと一人旅だったのに、日本人が誰もいないのが不思議な感じだ。 それも悪くはない。旅はまだ終わったわけではない。 これから“わが町・アテネ”へと帰るのだ。
たった一人、知る人もいない異国の島の空港…、そう思ったとき、見たような顔 の中年男性の顔が見えた。奥さんらしい人もいる。アレサーナの従業員夫妻だ。 遠くから見ているが、こちらに気づきはしない。 しばらく見ていると、そのそばに幼い女の子を連れている。
彼女は売店の方にミネラルウォーターを買いにきた。 よく顔を見る。間違いない、マリアンナだ! でも彼女はここにいる昨夜の日本人に気づかない。 小走りに両親のもとに戻っていく。 誰かの見送りに来ているようだ。こちらから声をかけようか? でも小さな女の子は気まぐれだから、僕にどんな反応を示すだろう?
そもそもあれがマリアンナだと、本当に確信できるのか? よく似た別の女の子が、そっくりに見えるのかも知れない。 もしそうだとしたら僕も重症だけど…、そんなことを考えているうちに、搭乗 時間が近づく。ゲートに入るには彼女たちの方へ近づかなければならない。 意を決して荷物を持って立つ。 ホテルの従業員夫妻に近づいて挨拶する。 日本人はこの中で一人、記憶にもあるだろう。
そして娘と目があって…! マリアンナは一瞬あっけにとられたように眼を丸くして、そしてこの世のもの とは思えない可愛らしい笑顔で、僕に向かって近づいてきた。 昨夜の「やんちゃ姫」ぶりは、すっかり影をひそめてシャイな島の娘に戻っている。
「これから発つんだ。君に逢いたかったヨ!」 そう字幕スーパーなら訳すようなつもりの英語で言う。 父親が微笑みながら「彼女の母親がアテネに出かけるんだ」と説明してくれた。僕が それに応えていると、マリアンナは何も言わないで小さい手で僕の左手を握ってくる。 しばらくマリアンナと手をつないでいてあげた。 どうやら彼女にずいぶんと好かれたらしい。 ロビーにいる現地のギリシア人たちは、島の子供と手をつないでいる日本人を何者だ と思っているだろう?
昨夜のことを思い出して荷物からブルーベリーチョコレートを取り出して差し出す。 今度はうれしそうに受け取って両親に見せに行く。父親と母親が口々に彼女に何かを 言うと、マリアンナが、僕の眼を見てなにか言おうとしている。 少ししゃがんで「なぁに?」という感じで見返してやる。すると照れ臭そうにしなが ら彼女はおずおずと口を開いて、“Arigato!”と発音した。
日本語で“ありがとう” 昨夜はさんざんギリシア語の発音練習をさせられたけれど、きょうは逆に彼女が日本 語でお礼を言ってくれたのだ。こんなことなら、もっと日本語を教えてあげれば良か った。両親が楽しそうに笑っている。 僕は、ほとんど心臓を射抜かれたみたいだった。 マリアンナが、もう10歳も年上だったら、ギリシアの宿屋の娘に恋したという詩人 ・バイロンのエピソードを地で行っただろうか?…とまたアホなことを考える。
マリアンナのおかげでサントリーニは、僕にとってさらに特別な島になってしまった。 「またここへ来たら、ギリシア語を教えてくれる?」と聞くと、マリアンナは、少し お茶目な表情で笑ってうなずいた。 搭乗ゲートに入るまで、僕が振り返るたびに何度も彼女はこちらに笑いかけた。
夜間飛行。オリンピック航空のアテネ便。 ついにこの島を去る。”島に恋する”ということがあるのをここで初めて実感した。 池澤御大の「ギリシアの誘惑」によると、サントリーニは「聖(サント)イレーネ」 という乙女の名に由来する。 4月3日を祭日とする聖処女が島の守護聖者なのだそうだ。 僕は、ものの見事に彼女に恋をしてしまった。
船で一日かけて移動した距離を、飛行機はすぐに越える。 アテネの夜景が見えてきた。 心はまだサントリーニに奪われたままだ。
きっとまた「彼女」に逢いにいく、すでにそう決めている。
2002年04月06日(土) |
Gの誘惑1999 アトランティス幻視 |
#「ギリシアの誘惑1999 G−Who極私的旅日記」の再録です。
1999.3.27「アトランティス幻視」
サントリーニ島の最初の朝、深夜までの宴がたたったのか、寝過ごしてエーゲ 海の夜明けを見のがした。窓からは崖の反対側の海が見える。 水平線の上、すでに赤さを失った太陽が昇りつつある。 雲が多少あるものの、この季節としては天気はまずまずだ。 ブレックファーストを待ちかねて席につく。
窓の外にはまだ水が張られていないプールが見える。 夏には絵に描いたようなリゾートになるのだろう。 たとえば白人の中年夫婦が絶景を見飽きて退屈しながらプールサイドで分厚い ペーパーバックを読み耽っている、そういう南国の島のイメージ。 朝食で、いかにもそんなアメリカ人の老夫婦に出会った。 ご主人は半世紀も前の戦争中にオーサカに居たことがあって少し日本語を話す。 あいさつ程度で会話を終えたが、もっとちゃんと話せばいろいろなストーリー が聞けたに違いない。
アテネへの帰りは、明日の朝の飛行機を予約していたが、せめて夜まで滞在を 伸ばしたい。ホテルのフロント係に相談したら、リザベーションを変更して、 ツーリストからチケットも持ってきてもらうよう手配してくれると言う。 これでオリンピック航空の夜間飛行が予約できたわけだ。
きょうは、すでに昨日島内を回ったAさんのアドバイスにしたがって、Kさん、 H君と3人でシェアしてタクシーを雇うことにする。 目的地は遺跡のあるアクロティリ、島の最も高い山の上、そして島の北端の断 崖に立つ小さな町・イア。
町の広場でタクシーの値段交渉を済ませてアクロティリへ。 途中ワインを作るためのブドウ畑や、数少ない牛の牧場、青と白に塗られた教 会が、車窓から見える。もちろん背景はすべて海だ。
アクロティリの遺跡に着く。 ついにアトランティスの入り口に立った。 昔、竹内均の本を読んで興奮したものだ。アトランティスはここなのだという 説がある。テントのような屋根におおわれた遺跡は、想像したよりも広かった。 ショボくてがっかりしないように身構えていたのは無駄だったようだ。すばらしい。 紀元前15世紀。何しろ石の遺構はタイムマシンだ。 人間が暮らしていた空間が、そのままの形で出てくる驚異。
まったくため息しか出てこない。 ここは火山灰の層が厚すぎて、大規模な発掘作業が不可能なため、一体どれだけの 遺跡が眠っているか全貌はわからないという。 有名な壁画はすべてアテネの博物館にあるのでここには写真しかないが、色彩豊か で自由な描き方から想像するだけで、この文明の未知の魅力を感じさせられる。
出口近くにいる管理人のオジさんに、Kさんが声をかける。オジさんは「英語は話 せない」と言っている。肌は浅黒く髭をたくわえて味わい深い顔。 その中に青い眼が印象的だ。 「ヤーサス!」とガイドブックで見た「こんにちは」の挨拶をしてみた。「ヤーサ ス」と帰ってくる。観光大国の首都アテネでは、みんなが英語を解するので新鮮な 体験。なんの臆面もなく、わかりやすい観光客そのものの歓びに浸ることができる。
同じ出口付近でKさんが、一眼レフで遺跡を撮っている青年に声をかけた。彼はロ ス出身のフィリピーノで、アテネ大学の考古学専攻の留学生だという。キラキラと 好奇心に満ちた眼で快活に話す彼は、アテネの北方の聖地・デルフィの写真を見せ て説明してくれた。 『ギリシアの誘惑』の「サントリニ紀行」で御大が出会ったパーマー教授みたいに、 自分たちにもそんな出会いがあったことが妙にうれしい。 ガールフレンドたちと写った写真を見ていると、彼がアテネでとてもいい青春を過 ごしていることが伺えた。日本の高校生だってアテネへ来れば可能なのだ、と思う。
車は一路、島の最高峰へ。 「サントリーニ島の“いろは坂”」とKさんが名付けた、驚異のつづら折れの道を 登る。だんだんと海抜が上がってきて、なだらかな方の海岸線の波打ち際が遠ざか る。ほとんど空撮のような大パノラマが展開した。 タクシーの運転手のオジさんは黙々と仕事をこなしている。ラジオからギリシアの 音楽。やや中東系のBGMが妙に風景にマッチする。頭上には、巨大な岩塊がそび え立っている。まるでアンデスそっくりだ、と旅の経験豊富なH君が言う。頂上ま で行くと反対側の海、つまり島の内側の崖の方の海も見えた。
遠近感が狂うような巨大さ! なにか合成写真でも見ているようにリアリティーがない。 サブライム=崇高美学とは、この風景のためにある言葉だ。確実に脳のどこかを刺 激する風景だ。両側に海、眼下に崖。「コンドルが飛んでゆく」がかかって空中都 市マチュピチュが出現してもおかしくない。ケーナを持って旅していたら面白いか もしれない、などと話す。 下りもまたエキサイティング、なんとか無事に下界へ帰還。
島を半周して岬の町イアへ。 ここは崖の途中に密集して家並みがある。白い通りが迷路のように入り組んでいて、 そこここから海がのぞく。フィラもそうだが、イアはさらに徹底している感じ。 日本でいえば、瀬戸内の町・尾道の坂の途中の路地に迷い込むような楽しさがある。 もちろん色彩はまるで異なるが。 まだシーズン・オフの避暑地なので人がいなくて寂しい感じも迷路っぽさを増す。 白と青の鮮やかな色の教会があって、バス停があった。 バスを待つ地元の人々のたたずまいが良い。
フィラに戻ってスブラキ・ピタの軽い昼食を終えた後、断崖の道を船着き場まで歩 いて降りてみることにした。 「エーゲ海の青」を間近に見つめるのが目的だ。 途中観光客を乗せるロバの一群とすれ違う。せまい道なのでロバのそばをすり抜け なければならない。ロバとはいえ結構大きい。蹴られたら危ないのだが、日高で馬 を扱った経験を生かして上手くおじ気付かずに横を通りぬけられた。
エーゲ海の青。その秘密は解けない。 手が届く距離で見ても、水そのものが紺色のような深い色に着色されているとしか 思えないような感じ。光の差し込み具合と反射、その波長…、理屈は何となく想像 がついても、どうにも腑に落ちない。 今夜の船でアテネへ戻ってそのまま日本へ帰途につくKさんは、海の青を見て一人 黙りこんでしまった。H君と僕は、昨日の船以来はじめてエーゲ海に魚の姿を認め て少し安心しながらも、やはり怖いような色に吸い込まれそうになっている。
先刻から客引きに熱心だったロバ牽きのオジさんが「早く乗れ」とせかす。 雨が落ちてきた。小一時間も海辺にいただろうか?僕たちは値段交渉の上ロバに乗 って数百メートル上のフィラの町まで戻ることにする。 ロバは、以前に日高で乗った乗馬用の馬みたいな感じでおとなしい。ただ道が石の 階段上になっているのに加えて雨が降ってきているので、時々ロバの蹄がツルッと 滑っている。ノロノロ歩いているかと思うと、急に思い立ったように加速したりし て、エキサイティングなことこの上ない。 もちろん眼下は例の断崖。 H君と僕は、雨中の大レースを展開した。 インコースから抜きにかかるが、進路を塞がれたり、逆にコーナーで外から差そう としたり…、まるっきりのガキになって、はしゃいでいるうちに上までついてしま った。わざわざ足で下まで降りて、金を出してロバに乗った価値は充分だった。
雨でもあるし、コテコテの日本人観光客らしくショッピングに精を出すことにする。 サントリーニの写真がいっぱいの英語版ガイドブック、ギリシア料理のレシピ本、 2000年版の小さなカレンダー、ポストカード、しまいにはコットン・ニットの セーターやTシャツを漁る始末。これまでの人生にないことだ。オキナワでさえ、 観光客向けの土産物屋で買い物なんかしなかった。 値引きの交渉なんかも自然にしている。 これが本当の観光地マジックか。 買う側はここで逃すと二度と買えないかも…、売る側はこの客を逃すと二度と売れ ないかも…、というのが商業の本源的な姿かもしれない。 島のフォトCDーROMまで見つけた僕は大満足していた。
崖の上のカフェで少し休む。 曇天に霞む島も、また違った表情ですごい。 輪になった外輪山の淵からのぞき込んでいる形。 真ん中には小さな火山島がある。 北海道の洞爺湖が海になっているようなものだ。実際洞爺湖もカルデラ湖で、形成 されたプロセスはここと同じ。しかし崖はこんなに切り立っていない。 ご近所で言うと地球岬の断崖に近いか。北海道の夏の海は、エーゲ海とは言わない までも、かなりきれいだ。とことん火山地形マニアかもしれない。
雨に煙るカルデラの真ん中の小さな火山島を見ていると、妙な感覚にとらわれる。 その島自体が独立した一つの大きな島の模型のように見えてきたのだ。島は世界の 模型。地図に描かれた大陸のように。自分が眼下遥かのあの島の中に居ながらにし て、しかも神のような、俯瞰の視点でその島を眺めている。 ちょうど夢の中で、自分の目線と自分を見ている目線が併存しているような感じで 、四次元的に島を見つめている。 H君と現地のツアーで火山島とその近くの海中温泉を訪ねる計画を検討する。 Kさんは今ごろ船でピレウスへ向かっているだろうか? 妙にあっけない別れ方をしてしまった。
来るときの船から話題にしていたシーフードへの情熱を満たしに、レストランへ。 雨が降り込む中をやせ我慢して、H君とオープンの席に陣取る。 グリルド・オクトパスを中心にしたディナーを済ませたあとホテル・アレサーナへ 戻った。フロント係の女性の隣に、もうひとり小さなレディーが座っていたので 「ハロー」と声をかけた。 彼女が黙っているので、フロント係の女性が「マリアンナ、ごあいさつしなさい」 みたいなことを言っているようだ。
少しお茶でも飲もうかとロビーのソファに座っていたが、H君はテレビ・コーナー へサッカーを見に行ってしまった。テーブルに置いてあったアクロティリ遺跡の写 真集を眺めていると、さっきの女の子が観葉植物の陰からこちらをうかがっている。 「おいで」と言うと、「No」と恥ずかしがる。 田舎の子供らしいシャイさ。 「いくつ?」と尋くと「8」と応える。英語は話すようだ。 そのうちこちらに寄ってきたので日本から持ってきたお菓子をあげようとするが、 受け取らない。花や本を指差しながらギリシア語を教えてくれようとしているみた いだが、要領を得ない。お互いに微笑むしかない状態。
そのうちH君も戻ってきて、マリアンナのギリシア語教室のようになった。 と言っても、彼女がホテルの説明書を開いて、いろんな地名や物の名前を発音する だけなのだが、なかなかに厳しい先生で正確に復唱しないと何度でも直される。 なにしろ、ほとんどその発音が何を意味しているかさえ理解しないうちに、発音練 習をさせられる。名詞ならまだしも、センテンスとなるとお手上げだ。
彼女が発する言葉で意味がわかったのは「デルフィーニア」すなわちドルフィンの ギリシア語くらい。マリアンナが、一生懸命にイルカの泳ぐ姿を真似しながらデル フィーニア、と抑揚をつけて発音する。復唱していると英会話を習いはじめたばか りの子供に戻った気分。実際彼女はいい先生だ。口の形で発音を教えてくれて、上 手に復唱できると「ブラーヴォ!」と、小さな手を叩きながらホメてくれる。 そのしぐさが大人びていて、妙に可笑しい。
先生は、当初のシャイネスはどこへやら、やがて専制君主として君臨しはじめた。 H君の持っていたカメラという格好の玩具を見つけて、僕やH君にポーズをつけさ せて撮りまくるのだ。貴重なフィルムが見る見る減っていくのを嘆いているH君を よそに、マリアンナは次々に思いついては、僕らにポーズを取るよう命令を下す。 セルフタイマーで、みんなで写真を撮ったあと、迎えにきたお祖父さんらしき人に 連れられて帰っていった。
やれやれという感じで疲れ果ててバー・カウンターに移動。紅茶を飲んでいると別 の宿に泊まっているAさんが現れた。きょうはボートで火山島の見物ツアーに参加 したという。明日は自分たちが行くつもりの場所なので真剣に話をきいていると、 背後からマリアンナが笑いながら再登場。日本人が気に入ってしまったのかまとわ りついてくる。バーの高い椅子に座らせてやったら、大人しくしている。 しばらくAさんとの会話に夢中になっていると、刻限がきたのか、短く別れを言っ て帰っていった。もしかしたらレディーに失礼な振る舞だったかもしれない。 明日も一緒に遊べるかな…と思いながら見送った。
再びAさんと話す。 この島については、いくら感嘆しても尽きることがない。 Aさんは、僕以上にアトランティス伝説に思い入れをもってサントリーニを訪れて いるようだった。大学で仏教を学んだりしながら、輪廻転生という観念に関心を持 ちつづけて来られたそうだ。いまははパリでコンポジションをしているが、いつか アトランティスと輪廻転生をテーマにしたオペラを書きたいという。 三島由紀夫の『豊饒の海』や竹内均の地球物理学的考察などを引きながら、アトラ ンティスと輪廻に対する見地をお互いに話した。
サントリーニ島はギリシアとも違うアナザー・ワールドだ。 ここにいると時間と空間の尺度が狂ってくる。 火山活動という地質学的年代のスケール。 古代遺跡という文明史のスケール。 観光地としての旅の慌ただしい時間スケール。 …それらが混然一体となって、このリング型の島の上に重なっている。 すべての時間が層をなして、世界を覆っている。 こんなところは他にない。
無意識の記憶のアトランティスを幻視する夜が更けていく。 そういえば今日深夜から、欧州はサマータイムに入る。 みんなで時計を1時間進める。 時間のスケールについて話しているうちに、日付は変わっていた。
2002年04月05日(金) |
Gの誘惑1999 エージアン・ブルー |
#「ギリシアの誘惑1999 G−Who極私的な旅日記」の再録です。
1999.3.26「エージアン・ブルー」
まだ薄暗い朝、ホテルをチェックアウトして、昨夜確かめておいた地下鉄の駅 へ向かった。正教会の横を通り過ぎる。キオスクの開店の準備をしているオジ さんたちがいる。
きょうも晴れ。 太陽はまだ出ていないが、アクロポリスの丘が見える。 地下鉄の駅でチケットを買って、通勤客たちと一緒に車両に乗り込む。 地下を走るのは都心だけで、あとはピレウスの港まで地上を走る。
取り留めない街並みが広がる中を20分ほど走って、ピレウスの駅に到着。 駅を出ると、すぐに沢山の船が見える。港だ。 朝食にクルーリを買って、食べながら埠頭をめざす。ほのかな甘みのあるドーナ ツ・パンにゴマがまぶされているもの。手配しておいたサントリーニ島行きの船 を捜して、港を歩き回る。人に尋ねながら捜し当てて船に乗り込んだ。
朝日が降り注ぐ甲板に陣取って、出航時間を待つ。ここからは、いくつかの島に 寄りながら10時間もかかるらしい。
船が出る。甲板で陽光を受けている。風は冷たくない。 スペインかイタリアか、ラテン系高校生軍団が後部デッキを占領して、ギターを 弾く男子生徒を中心にいくつもの歌の輪を作っている。見たところ外国人の老夫 婦、ギリシアのビジネスマン風など、さまざまな船客がいる。 穏やかな風と陽射しの中、船はエーゲ海を進んでいく。
エーゲ海の青。 最初は、ポスターや絵はがきやテレビのイメージのきれいな青だった。途中の海 域から、いつしか海は濃い青にかわって何とも形容しがたい深みをたたえるよう になっている。 群青あるいはインクブルー、いっそ濃紺と言ってしまってもいいような深い青…。 海の色とはこんなにも美しく、また吸い込まれそうな怖さを内包しているものだ ったか!
頭は、勝手にこれまでの人生で体験したさまざまな場所の海を参照しようとする。 しかし瀬戸内海でも、オキナワでも、バリ島でも、こんな色は見たことがない。 太陽の具合や海の深さ、溶け込んでいる物質の組成…、 それこそ池Z御大は、この青をどう形容していただろうか?…などと思いつつ、 船の舷側が分けてゆく眼下の波から目が離せないでいる。
これがエーゲ海の青…、ひとまず、そう言い切っておくことに決める。
甲板で二人の日本人に出会った。 一人は東京で塾の先生をしながら、小説を書いているという30歳のKさん。もう 一人はアイルランドに留学中で、高校の時サッカー選手だったという20歳のH君。 Kさんは塾の春休みの期間を利用して、もう3週間もトルコからギリシアを旅して いるそうだ。イスタンブールやカッパドキアは、いつか行かなければならないと思 っているので、僕は彼の話を興味深く聞いた。
H君は、アイルランドの留学先の小さな街から、イースターの休みを前倒しして、 ギリシアを訪れているという。僕が北海道に住んでいるというと、アイルランドで は北海道のことが意外によく知られている、と教えてくれた。
実は僕は以前から個人的に北海道=アイルランド論をぶっていたので、そういう認 識が当たっていたと聞いて興味深かった。牧場が多くて、ケルト民族とアイヌ民族 という先住民族がいて、大きさも気候も何となく似ている。 北海道・日高のサラブレッドの牧場には子弟をアイルランドへ修行のために留学さ せる人も多い。逆にアイルランド人もニュージーランド人やモンゴル人と並んで、 日高に馬の調教スタッフとして働きに来ているケースが、ままある。
僕は、冬に知り合ったアイヌの博物館の人が、いま大規模なアイヌ展の準備のため にワシントンのスミソニアン博物館へ行っていて、その帰りにカナダ太平洋岸のイ ンディアン集落を訪ねて、太古のアイヌとの交流の可能性を調査しに行くという話 をしたら、H君は興味をもってくれたようだった。 エーゲ海の船の上で、大スケール話になったものだ。
僕たちの船は、キクラデス諸島に寄港しながらサントリニ島を目指す。何せ10時 間だ。甲板で風を受けながら、陽光を浴びて海を見る。 いつまで見ていても飽きることがない。 またぞろ想いは、あらぬ回想に向かってしまう。 今までの人生の中で、こんなに長い船旅をしたことがあっただろうか?僕が育った 瀬戸内海は言うに及ばず日本でこんなに長く船に乗る機会は、そうはない。
昔、東京港の近くに住んでいたとき竹芝桟橋から夜中に出る船で伊豆大島に行った。 あれが明け方についたから、6時間くらいは乗っていたのだろうか? あれも火山の三原山見物が目的だった。’86年に噴火したばかりなので、溶岩の 流れ出た跡の生々しい姿を見ることが出来た。木が立ったまま焼け焦げていたり、 頂上への観光道路が溶岩に埋まってしまっていたり…。 民家の庭先にアロエが繁っていて、オレンジ色の花が満開になっていた。黒潮のせ いか、冬でも暖かい南の島なのだ。
宮澤賢治が人生で見た南端の地もたしか伊豆大島だった。ちなみに北端はサハリン。 そこも仕事で行ったことがある。最近では鈴木光司がヒット作「リング」でうまく 伊豆大島の場所の力を使っている。御大の『バビロンに行きて歌え』にも伊豆大島 の場面が出てきた。東京都でありながら、小笠原から遥かにハワイイへ連なる太平 洋の火山島の一つとしての伊豆大島。
同島出身の石川好さんの新作も、そんな大スケール話だ。 若いころカリフォルニアの農園で働いた経験を出発点に、アメリカについて数多く の著作をもつ石川さんは、数年前に参院選に出馬したこともある、見識の人だ。 いっそ混迷の東京都知事選に出て勝ってもらって、アメリカ仕込みの民主主義ステ ートにしてもらう、というのはどうだろう? 移民にも適度に寛容なトウキョウ。 もちろん都庁舎や臨海副都心などの、巨大ハコ物は民間に売却する。その資金で 都庁を伊豆大島に移転。日本の国家像を変えるには、面白い試みではないか?
船旅というのは、ボンヤリとものを考える時間がいくらでもある。いま「島」とい う原型について考えようとしている。池Z夏樹は、何より「島」の作家だ。 ギリシアのこのエーゲ海の島々に、その思考の源流の一部を求めることは、そう外 れてはいないだろう。ミクロネシアに通い出したのはギリシアへ来る3年前の20 代後半だったらしい。デフォー、スティーブンスン、中島敦、メルヴィルにモーム …それよりもJ・ダレルのコルフ島。先達は沢山いるにしても、とにかく「島」と いう世界の模型を思考実験の場として設定することの愉しみが、彼を強く捕らえて いる初期衝動であることは間違いない。
それなら少年時代に「もうひとつのサントリーニ島」を執筆した僕だって…などと、 『街道をゆく』的な思索ごっこに浸っているうちに、やがて大きな島影が見える。 あそこに船が着くようだ。だんだん近づいて来る。
パロス島。 港に入ると海は浅くなって明るい水色に変わる。 船が底の白い砂を巻き上げて、クリームを入れてかきまぜたコーヒーカップのよう に色が変わる。何とも不思議な色だ。丘の上まで白い家並みと教会がびっしりと建 っている。岩がちな山にはあまり植物は繁っていない。段々畑のような棚が見える。 何を育てているのだろうか? 実際のところこの島は、観光以外にどんな産業があるのだろう?日本の南西諸島の 離島やミクロネシアのような経済体系なのかもしれない。
島の風光は映画「グランブルー」の冒頭の場面そのままだ。こんな島で一夏過ごし てみたらどんな感じがするだろうか?港の周りには何台かの車とバイクがあるが他 には音を立てるものは何もない。岬になった岩場へ降りてみたいという誘惑に駆ら れる。幼いジャック・マイヨールとエンゾのように海に飛び込んでみたくなる。 しかしここでは島に降りることはできない。 船は乗客と積み荷を降ろすと、15分ほどでまた出航する。
さらに2つの島に寄って、太陽が傾きかけたころ、遠く島影が見えてきた。寄港地 の予定からしても経過時間からしてもあれこそ僕の目的地、サントリーニ島だ! 今回のギリシア訪問でどうしても外すことのできない場所。 このためにクレタ島のクノッソス宮殿をあきらめたくらい。 僕のサントリーニへの思い入れは、20年以上になる。
紀元前15世紀ごろに円い火山島が大爆発を起こして真ん中部分が陥没して海にな ったカルデラの島。内側に向けて切り立った高い崖にはりつくように街が広がって いる様を写真で見た。その奇想天外な地形と噴火で滅んだ文明の遺跡が、世界に類 を見ないオリジナルなこの島の観光資源である。 プラトンが伝説を記述したというアトランティスは、この島だったという説があっ て、それがサントリーニの幻想性をいやが上にも高めている。
島影が徐々に近づくにつれて、いくつかの島が寄り集まった地形が、地図で見るサ ントリーニ島そのものだと確信した。もはや間違いない。ついに来てしまった! しかし何という地形の島なのだろう。大きなカルデラ地形が海から立ち上がってい る。そして想像以上の巨大さ! だんだん左手の島の上に白い建物の集落が見えてきた。
船が左右の島で形づくられた門を通過していく。まるでここから先は、別の世界へ 入っていくとでもいうような感覚! 左手に弧状に続く最大の島は、内側からみると数百メートルの崖が海からいきなり 立ち上がっている形だ。その上に集落がある。こんなところにも人の暮らしがある。 世界は本当に広いのだ。
すっかり傾いた陽の名残りを受けて、船は崖の下の小さな港に接岸した。Kさんと Hくんの今夜の宿を求めてインフォメーションに寄ってから、バスに乗り込む。崖 を登るつづら折れの道路は迫力満点だ。対向車でも来ようものならテレビゲームを 地で行くスリルが味わえる。ここは年配の人には奨めないほうがいいかもしれない。 ほどなく島を半周して、フィラの街へ。 アテネから予約しておいたホテルに辿りつく。
まだ町はシーズンを迎える前のリゾート地のたたずまいで、「アトランティス」と いう島最大のホテルや、20数年前に池澤御大が泊まったホテル「パノラマ」は、 開業前だった。サントリーニでの”わが家”は、ホテル「アレサーナ」。 小ぎれいな半バンガロー式ホテルだ。フロント係のお姉さんも親切で感じがよく、 ついでに言えば美形。部屋に落ち着くとH君が訪ねてきた。結局ここに泊まること にしたという。Kさんとも落ち合って、一緒に夕食を食べる約束になっている。
ホテルを出てすぐの教会の前は、断崖の上のヴューポイントになっていた。観光客 たちがカルデラの中の海を見ている。 そこでもう一人の日本人Aさんに出会った。Aさんはパリ在住で作曲を仕事にして いるという、芸術家らしいダンディでエレガントな感じの男性。 Kさんも合流して、断崖にはりつくように広がる街を散策しながら、レストランを 決める。出会いを祝してワインを開けながら、互いに自己紹介を済ませた。みんな それぞれに一人旅。年代や背景が異なるのにも拘らず、話はとても弾んだ。 テーブルの横の足元に入ってきた猫にパン屑をやったりした。
料理を存分に味わった後、そのまま僕たちのホテルに流れた。夜のテラスに椅子を 並べ、さらにワインを開けて話し続けた。スカした言い方だが、極自然に人生と芸 術を語り合っていた。これは僕には極めて珍しいことで、やはりこの場所に何か特 別なものを感じたのだろう。みんなもそれは同じようだった。
KさんはLAに住んでいた時のことや小説や芝居のこと、H君はサッカーや旅の経 験やアイルランドのこと、Aさんはご自身の結婚経験や将来書くべき曲のこと…。 みんな日本を出て何かを体験することに貪欲で、かつそれを消化しているように見 えた。僕自身は、いまだ語るべきものを持っていないような気がした。 ただサントリーニ島には子供のころからずっと思い入れていた、という話をしたら 少し興味を引いた。
4人が解散したのは、すでに夜中の1時ごろだった。 明日はこの島を見て回る。旅の至福の時間。
2002年04月04日(木) |
Gの誘惑1999 夕焼けコレクター |
#「ギリシアの誘惑1999 G−Who極私的な旅日記」の再録です。
1999.3.26「夕焼けコレクター」
朝、まだ暗いうちに目覚める。時差の関係。 しばらく身支度をしたり、今後の予定を考えたり。 本を読むにはまだボーッとしていてキツい。。 まだ柔らかい状態の脳に刺激が過ぎるのだ。 自宅でも起き抜けにテレビをつけて、うっかりワイドショーのドギツイ事件ネ タが飛び込んできたりすると、ひどく後悔することがある。
きょうは独立記念日。 パレードでも見物するか、雨なら博物館系か…。窓の外が明るくなってくる。 カーテンを開けると・・・雲ひとつない快晴!昨夜の「オプティミスト修行」 の心がけが良かったのか、二日目にして早くもギリシアの信じ難いまでの青い 空を見ることができた。すぐに出かけることにする。
フロントのお兄さんに聞くと今日はナショナル・ホリデー。 インディペンデンス・デーか?と聞くと、似たようなもんだと答えた。そのも のズバリではないらしい。思うにインディペンデンスというのは、アメリカが イギリスに隷属していたような形から独立した時のことを言うのかもしれない。 ギリシアの場合は、オスマントルコから独立したとは言え、国家としては老舗 も老舗。アメリカなんかと一緒にされたくないのかも。
外は心地よい早朝の空気。 その中で沢山の警官や兵士がパレードの警備の準備に当たっていた。ひとまず サンドイッチ屋で朝食を済ませる。パンも中身も美味い。人通りは段々増えて くるがパレードはなかなか始まらない。キオスクで英字新聞を買って、見出し をみる。NAT0軍がセルビアを攻撃している…というので正しいだろうか? 戦争だ。 ギリシアから見れば、旧ユーゴスラビアは目と鼻の先だ。何せここは世界の火 薬庫・バルカン半島である。8年前に欧州を回ったのも湾岸戦争の最中だった。
警官や観光客、市民とともにパレードを待つ。 昨日も思ったがアテネの町にはハトがやたらにいる。みんなたくましい。あと 野良犬もたくさんいる。 ヤツらが妙に大きい犬ばかりなのが目につく。大型犬 とはいわないまでも、中型犬くらいのいい身体をした犬が、わが物顔に街を闊 歩している。一体これだけの犬が、どこから沸いて出るのだろう? 街全体が野良犬をたくさん養えるというのは、幸福な街の証のような気がする。
通りは、昨日と打って変わって陽射しが強い。 きっとかなり日焼けするだろう。 そこここで犬たちが、気持ち良さそうに寝そべっている。 街全体がまぶしいくらい。負け惜しみじゃなく、昨日が雨でよかった。いきなり 快晴のギリシアから入ったら、こんなに陽光の存在感を知覚できなかっただろう。
シンタグマ広場前を各国の旗を立てたVIP車が行き交う。 ようやく軍楽隊のマーチとともにパレードがはじまった。「手前にパイン・ツリ ーの街路樹ひっかけの、道路越しにギリシア風建築」という構図のフレームの前 を、ミサイル弾頭搬送車や戦車が通過するという、テレビ的なアングルに陣取っ て見物する。兵士や車両が通過するたびに、市民から拍手が起こるのが新鮮。 近代国家というのは軍隊を「頼もしい」と思う心情を含んだシステムなのだ。 つい自衛隊のことと、今世紀前半の日本軍について考えたりしてしまう。
各部隊の後尾にウェットスーツと丸刈りの潜水部隊が、元気よく手を振り上げて 行進しているのが、何となくユーモラスで可笑しい。ギリシアは海の国なのだ、 と思う。お目当ての(?)女性兵士の部隊の行進もしっかり見届けた上で、パレ ードの終わりとともに昼食へ。 街の通りの名前や配置も、少しずつ飲み込めてきた。 プラカという、土産物屋や観光客相手のカフェが多い界隈。 つい気に入ったデザインのTシャツを買う。そのあとオープン・エアのカフェテ リアで食事。カチッとしたレストランではなく、こういう店をさがした。この界 隈には集中してあるようだ。バリ島のカフェ・エグザイルスやワルンを思い出す。
バラエティ豊かな前菜盛りあわせと鳥肉のスヴラキとサラダとパン。野菜食いィ の僕にはにはたまらんものがある。グリーク・サラダという、トマトとキューカ ンバーを主体にしてオリーブオイルをたっぷりかけたサラダは、ほとんど僕が休 日にスーパーへ買い物に行って自分で作るのと同じだ。やはりこの国の食事は僕 にとても合っている。うれしい。 こんな観光客相手の店でも、材料はずっしりと本物の味だ。
食事のあと、すでにアクロポリスの中腹まで来ていることに気づいて、このまま なだれこむことにする。崖になっていてグルリと周囲を歩く。頭上に巨大な石の 建造物が見えているのだが、崖に阻まれてなかなか行き着けない。 (いまこれ書いててデ・ジャ・ヴュ!ギリシアに既視感!) 小さな民家の密集する狭い道をすり抜けて登りつめていく。白壁と朱色の家。ま たしても那覇の首里城と周囲の家並みを連想する。だんだんとアテネの街並みも 遠望できる。坂の町を歩く楽しみだ。
実際、那覇のコンクリート建築と良く似た建物が沢山ある。 屋上の空間を使うことへの情熱も共通しているようだ。俯瞰で見ると、空に向か って開かれた造りをしている。そこにベンチとかテーブルを置いてある家も多い。 坂の小道を歩いていると、仮にそのへんの家の門や屋根の上にシーサーがいたと しても違和感がないくらいだ。
また不埒なしょうもない悪戯を思いつく。 国際通りの土産物屋あたりで売っている、小さなシーサーを沢山買ってきて、ア テネの街のそこここに置いて歩くのだ。それを、しばらくして訪れる日本の友人 に見つけさせる。沖縄とギリシア双方の文化を冒涜するとんでもないゲーム。
ナショナル・ホリデーの影響でパルテノン神殿には入れず。 まあ今日は来るつもりじゃなかったので、それもよし。そばの丘の上に人だかり がしている岩場があった。高い場所マニアなので早速登る。この場所はいい。 大理石のボコボコした頂上に、沢山の観光客が集まっている。 周囲はアテネの俯瞰パノラマ。 昨日雨の中を這いずり回った街を神の目線から見る。
ジャケットにネクタイ姿で、ハンティング帽のジイさんが、日焼けした顔で、そ のあたりを駆け回る孫を見ている。孫が無邪気に高い崖の淵に近づくと大きな声 で叱る。欧州のどこの国から来たのだろう、若い男女のグループも多い。身体を 日に焼いている男もいる。眼下手前にはアゴラの広場の遺跡があって、足元には 小さな花が咲きはじめている。黄色、赤、白、薄紫・・・。 春の風が気持ちいい。さっきの男の子がこっちを見て笑う。
否応なく、「幸福」とか「人生」の定義を考えてしまう場所かもしれない。いま の僕と変わらない年齢のナツキさんが、御嬢さんの手を引いてこの丘に来たりし たのだろうか・・・とまた要らん想像をする。ジョン・レノンのような子育て。 ボイジャーたる娘さんも随分と遠くへ飛んでいっているが。
ふと柄にもなく、自分もいつか子供を育てることになることを想う。それこそま さに「幸福」や「人生」の定義を、否応なく自分に問う行為だろう。ナツキさん の場合は、ギリシアに来たことと子供ができたことと、どんなタイミングだった のだろうか?本当にに余計なお世話なのだが・・・。
沢木耕太郎「深夜特急」にもギリシア滞在の記述がある。 遺跡で妙な中年男に出くわして難しい話をふっかけられるのではなかったか。 そのあとパトラスの港からイタリアへ渡る船で「飛光よ」のくだりになる。 旅は老いてしまった・・・という辺り、数年前文庫になった時に読んだのだが、 大沢たかおのテレビと記憶がゴッチャになっている。それ以降の欧州のくだりは、 何か精彩を欠いていてあまり印象に残っていない。
ギリシアに来てしまうと何事かに「完」マークが出てしまうというような面があ るのだろうか?ナツキさんもがんばって日本に帰国した後しばらく沈んだようだ。
さてアテネには、もう一つ大きなランドマークがある。アクロポリスからアテネ の街を見渡してもひときわ高く奇観を呈しているリカベトスの丘だ。あちらの方 が高いと聞いては、高所マニアの血が騒ぐ。きょうはボーッとしているつもりだ ったのに、好天に誘惑されて歩きモードに入ってしまった。ちょうど街の中に、 函館山が浮かんでいるような感じのリカベトスの丘を目指す。
普通の人は歩こうと思う距離ではない。 しかもケーブルカーを使わずに足で登る。かなりの行程。 ギリシアまで来てやることじゃないかもしれない。 ハイキングなら日本でもいい。でも日本にいても、人の歩かないようなところを思 いつきで歩いたりするのが好きな人間だから、同じ習慣を異国でも守るという態度 は、それはそれで悪くないな、と思い直す。 さすがに登り応えのある丘で、標高は200mそこそこだが勾配がきつい。登りき ると汗だくで息絶え絶え。情けない。健脚と心肺機能にだけはずっと自信を持って いたい。北海道に春が来たら、山でも歩き回ろう。
リカベトスからの眺めはアクロポリス以上の大パノラマ。 当たり前だがアクロポリスも見える。風景のアクセント。 そしてその奥に遠くエーゲ海! まだ春先の水蒸気を含んだ空なので、空気遠近法が働く。 明日サントリニへ行く船が出るピレウスの港のあたりか、巨大な船が沖の方に何艘 も停泊しているシルエットが見える。
丘を降りて街に戻って夕暮れのカフェで休んだあと、思いついてもう一回アクロポ リスの丘に戻った。夕景を見ようというわけだ。 風が肌寒くなっているが、観光客はまだ沢山いる。陽が西の山へ沈みかけたとき、 教会の鐘の音が鳴り響く。オレンジ色の太陽が少しずつ、最後は急速に山に隠れる。 雲一つない広い空。夕映え。残照のあざやかな朱色から、藍色に暗くなった東の空 まで、色のグラデーションを楽しむ。
こういう時の自分内ルールとして、寒かろうが空腹だろうが寂しかろうが、一番星を 発見するまで空を見つづける…というのがある。 いろんな場所でやってきた「夕焼けコレクター」ごっこ。 これでアテネの空も登録できるぞ! ギリシアの一番星を待つうちに、だんだん冷えてくる。 それより何よりも、そんな「もの好き」は自分くらいだろうと思ったのが浅薄で、周 囲は俄かにカップルの巣と化した。
さすがにいたたまれなくて、立ち去ろうかと思いかけた時、西の空の真ん中くらい、 スミレ色のゾーンに一番星! 惑星の金星か木星だろうか、それともシリウスとか…、それこそ池澤御大なら何食わ ぬ顔で即答するのだろうなぁ。金星ならばヴィーナス、ギリシアではアフロディーテ。 木星ならばジュピター、ギリシアではゼウス。星の名前はギリシア神話から名付けら れている。惑星探査機の比喩がまた思い起こされる。
明日はいよいよ船に乗って、サントリニ島だ。
2002年04月03日(水) |
Gの誘惑1999 オプティミストの青空 |
#「ギリシアの誘惑1999 G−Who極私的な旅日記」の再録です。
1999.3.24「オプティミストの青空」
朝、やはり曇天か・・・というのが目覚めて最初の印象。 こんな日は何もしないのが一番だ。何しろ休暇で来ているのだから。といいつ つ8時台には、もう外を散歩。平日の朝は通勤客の風情なども伺えて面白い。 昨夜みた街の印象を、朝日の光でもう一度確かめる。 道行く人の「顔の配合」がパリなどとは違う。南方系な顔もいて、眉毛が濃い オッサンとか、丸眼鏡に長髪のおにいさんとか、いい味出してる。女の子は、 時々えらく整った顔だちの娘がいるが、総じてハッキリしすぎていて「濃い」 感じ。スロットマシンのようにピシャリ当たると凄い美人になる。以前それと 同じようなことを那覇で思ったことがあるが。
湿気と埃と排気ガスのまじり合った匂い。街のにおいだ。昨夜も車窓から見た ソテツ系のデカいヤツが、結構あちらこちらにある。やはりここは、南の国な のだ。車も多くて人通りもあまり秩序がないように見える。 バンコクだのカイロだのサンパウロだのには行ったことがないので何ともいえ ないが、街路のこの雑然とした感じはアジア的(?)なのだろうか。 街角にベーグル状のパンを売っているオジさんが目につく。通勤客が買って歩 きながら朝食を摂るようだ。マネしようかとも思ったが、こっちはヒマな身。 店に入ることにした。
日本のドトール式のスタンド。チーズパイとエスプレッソ。欧州を旅している と何がうれしいといってパンとコーヒーがどこでも及第点以上に美味しいとい うことに尽きる。サンドイッチ屋も充実してる。日本にも普及しないものか? それと、ギリシアがかつてトルコ領だった影響もあるのか、シシカバブ風の肉 を店頭に出した店が目についた。そのうち試そうと思うが、コワそうなお兄さ んたちがたむろしている店が多いので躊躇。
食事も済ませたので今後の作戦を立てる。 今夜の宿は昨夜と同じにしているので問題ないが、その後は帰りのウィーン便 まで白紙だ。調べてあったJCBのアテネ事務所へ行く。現金もそんなに持っ てなかったし国際カードも持ってない。我ながら綱渡りしている。関空のカウ ンターでもらったJCBオリジナル地図も便利。先日タッチの差で届いたばか りのゴールド・カードがこんなに活躍することになるとは思わなかった。
日本語で旅の手配を進める。 明日の独立記念日の休暇の影響か、週末まで飛行機は混んでいるらしい。オフ ・シーズンのはずなのだが、島の出身者が帰省したりするせいだろうか?希望 の日程だと便がとれず。 『ギリシアの誘惑』を読んだ身としては船だろう、ここは!・・・とばかりに ピレウス港からの船の手配を頼んだ。 サントリニ島の宿は、御大の泊まったパノラマ・ホテルが、冬季休業中なので 別のところ。20年前は3月の同じ時期に開けていたのに!
結局以下の通りの予定が決まった。 3・25 明日、アテネで独立記念日の街を見物。 3・26 朝から10時間船に乗ってサントリニ島へ。 3・27 同島滞在。ホテル・アレッサナ連泊。 3・28 飛行機でアテネへ戻る。 3・29 終日アテネ 3・30 終日アテネ 3・31 朝ウィーンへ移動。 4・ 1 帰国便に搭乗。
アテネ後半日程で、アクロポリスだのリカベトスの丘だの歩きまくろう。…そう 思った矢先から今日もメチャメチャ歩いてしまう。市場地区あたりをまずはチェ ック。那覇の公設ではないが、市場は確かに人を元気にする。豚の頭を見ても平 気、那覇で慣れてる(?)から。本来世界中の人間の生活の中に、動物を殺めて 食べる過程は含まれているはず。にもかかわらずこうして異国の市場に来る時く らいしか、その実感がないのは異常な話だなぁ、などと思いつつ歩く。 それにしてもペット・ショップで、いろんな種類の鳥を売っているのを見た直後 に、市場で羽根のついたままの、多種類の鳥を見たのは妙に可笑しかった。北海 道の苫小牧のウトナイ湖でバード・サンクチュアリを見てきたばかりだけに、星 野道夫の本の、カリブーを見て「食べたい」と思う女の子の話を連想。 ともかく食べ物だけでなく、芝刈り機からウェディングドレスまで売っていた。
街路は小雨に濡れている。やはり石の町だ。 それはいいけど大理石の濡れたのは、とても滑りやすい。パリなんかが石の町、 というのとはまた違う感じがする。もっと石そのものや、石の砕けた粉の質感の ようなもの、石の匂いがする感じ。たとえがワンパターンで経験の狭さを露呈し ているが、坂がちであることや石が白い感じも含めて那覇の首里の丘を思い出す。 パリだともっと石が素材から遠ざかって、それ自体が有機物めいた生命を獲得し ている感じがする。「レミゼラブル」の地下水道の場面とか。ここはもっと素材 に近い感じ。
歩き回っているうちに、雨が本降りになる。傘をもって歩いている人も結構いた。 さんざん歩き回って、カフェに入る。しつこいようだが那覇のA&Wに入って朝 飯を食べていて雨が降ってきたのを眺めていた時を思い出す。
さっき独立記念日の関係と思われるパレードを見かけた。 いろんな民族衣装の若い男女やボーイ&ガールスカウトなど多数。民族衣装はかっ こいい。顔からして似合うし。日本人の若い娘があの衣装着てもRPGのキャラの コスプレにしか見えまい。制服姿の女子高校生の群れにも遭遇。 明日もパレードがあるのだろうか。
この国の独立記念日の意識は、なかなかに複雑そうだ。 古代の栄光、オスマントルコの支配、19世紀欧州の革命の余波。そもそも今アテ ネを闊歩している日本人の僕自身が、テミストクレスだのペイシストラトスだの、 古代の政治家や哲学者のマイナー目な名前なら何人も挙げられるのに、近代や今現 在のギリシア人の個人名は、まるで浮かばない。東京に観光に来た普通のガイジン が、蘇我馬子だの稗田阿礼だのは知っているが、その後の日本人の名前は全く知ら ない・・・というくらい、考えてみれば奇妙な話ではある。神様の名前だって、日 本の神話とどっこいどっこいくらいによく知っている。
今、日本で「独立記念日」にあたる日はない。2・11ではないだろうし。いっそ のこと1868年なり1945年なりにそういう区切りができていれば、人々の国 家意識も違うのだろうが。高杉晋作とか大久保利通が建国の父であるような近代国 家・ニッポンも見てみたかった気がする。 近代天皇制のヌエ的性格の問題。私たちのナショナリズム。
古代天皇制のイメージを、もっと脱神話化することも有効な気がする。天智・天武 期をもっとリアルに語れないものか?井沢元彦の『逆説の日本史』みたいに、『歴 史のロマン』を排して。橋本治『平家物語』がそれに着手しているようだ。流石に 「源氏」の次には「平家」なんて単純な人ではない。シバリョウ亡き後、指針を求 めるオジサン方には、塩野七生の『ローマ人の物語』以上に橋本治『平家物語』に 注目してもらいたいが、きっと世間で評判を聞かないナ。 ギリシア史は現代史のみならず古代史をも考えさせる。
ともあれ子どものころからの宿願の地・サントリニ島まで手が届いた。事前のお勉 強もしたいので国立考古学博物館へ。「ボクシングをする少年」の壁画とかタコの 描かれた壺とか子どものころに見た覚えのあるヤツはアテネにあるのだろうか?エ リック・サティの「ジムノペディ」を、脳内BGMにして壁画をみるゾ!と勇んで 行ったら、なんと14時閉館。・・・やられた。 博物館の前庭は、パイン系の南方植物がいっぱい。 樹の繁った陰に籐椅子のカフェがあったので、バリ島を思い出しつつそこで休もう か・・・と向こうに目をやると、通りにインターネット・カフェ!
モーリー・ロバートソン氏やヤマネカズマ氏じゃあるまいし、モバイル完備で来れ はしなかったものの、可能ならマネしてみたいとは思っていた。今これを書いてい るモバイルギアを入力装置にして帰国後一気に送る「インチキ疑似モバイル」を敢 行しているわけだが、アテネにインターネット・カフェがあったとは・・・! 当然日本語OSが入った端末などないが、わがHPのURLは覚えている。BBS にローマ字で書き込めばライブで日本につながることができる!
文字が化け化けの画面を開けて、ローマ字を書き込む。 すごくワクワクする。池澤御嶽の題は画像なのでそのまま。ギリシア人に囲まれて エスプレッソを飲みながら化け化けの画面に見入る東洋人。ガラス張りの窓を通し て、通りからもよく見えるシュールでスノッブな光景。 しばらくして植木タクロー氏の例のページもアドレス覚えてるのに気づく。ここは 池Z春菜嬢の生誕の地なわけで、春菜フリークにすれば聖地だ、などと一人で盛り 上がるバカ。アテネまで来て、こんなことするヤツもおらんだろうなぁ、と思いつ つ書きこむ。そのうちウチのHPのBBSの方に、かおりんさんのレスが帰ってき た! 他の人の反応も楽しみ。数日後にまた来よう。
雨がちな中、ホテル方面へ戻る。 靴下とか水とか足りない生活物資を調達しつつ。島へ行くと難しいだろうし。欧州 の都会に滞在する分には、やたらと荷物を持ってくる必要はないなと思う。なんで も現地調達が可能だから。日のあるうちに部屋に戻るのも、いくら雨模様とはいえ 能がないが、きょうは歩きすぎで疲れたのと天気が悪いのとで降参・・・しかけた 時、ホテルのすぐ近くの通りにギリシア聖教会を見つけた。 昔ウィーンの聖シュテファン大聖堂で、湾岸戦争の終結を祈っていたことがある。 去年は北ドイツのアーヘンにあるカール大帝の石の聖堂を見に行った。パリのノー トルダムのドームも二度行った。あとはやはりミラノかと、須賀敦子ばりの大聖堂 マニアとしては思う。
ギリシアはビザンチン帝国の担い手。 東方的なるもの。イコンなんかも見たい。イスタンブールはトルコだから、そうし た東ローマ的なるものはギリシア正教の文化の中にこそ見いだせるのだろう。『ギ リシャの誘惑』の「都市の星座」で御大は、スペインのカトリックと違って「正教 の精霊は空気中に漂っている」と書いている。 「時には教会で蝋燭を奉納するようなことも、それこそ子供でも連れていれば、ご く自然にできる。」・・・だそうな。フ〜ム、子供ねぇ(笑) というわけで、一応ノリでローソクも奉納しておいた。涜神的異教徒の荒業である。
聖堂の中のイコンは確かに東方っぽい。 新しい教会のようだが、ビザンチン博物館に行けば古いのも見られるのだろうか? …そう言うには滞在日程が短い。帰国したら中沢新一『東方的』を読み直そう。 ア ーヘンの聖堂はとても古くて精霊っぽい空間だった。あの直後に行ったバリ島とさ え連続するような、ゲルマンの土俗を感じた。欧州の基層には精霊が溢れている。 中世の途中から、異なる原理が立ち顕れたのだろう。 いつかキートンさんばりに、ケルト遺跡も見たいなぁ。
教会から外へ出る。日が暮れかけている。 空の一角に今日はじめての青空が、わずかにのぞいていた。まるで図ったかのよう に。こう書くときれいに落ちをつけようとしているみたいだが、ホントにそうなの だから仕方がない。はじめてのギリシアの青空。それもほんの少し。 このあともし悪天候が続いても、不機嫌にはならないことにしよう。普段仕事では 驚異的なまでに天気の神様に贔屓されているのだ。
イメージの中の晴れたアテネやエーゲ海の青を、アラスカのオーロラのような特異 な現象と見立ててみよう。木の芽が吹き、花の蕾がふくらむ。ギリシアの春の青空。 正味1週間という滞在期間はそれを「観測」するための滞在として長からず短から ず丁度いいところではないだろうか? この旅は、筋金入りのオプティミストになる修行に、絶好の機会かもしれない。
れて、カリキュラムが整ったというところだ。先は長い。
2002年04月02日(火) |
Gの誘惑1999 アテネの宿 |
#「ギリシアの誘惑1999 G−Who極私的な旅日記」の再録です。
1999.3.23夜「アテネの宿」
ウィーンの空港で4時間もトランジット、眠気のピークはそこから機内。せっか くの移動待ちだが、あまり『哲学者の密室』もバリバリ進んだとは言い難い。機 内食も出たものをすべて食べていたら最後のほうにはツラい。 空港でサーターアンダーギーを食ったのが満腹感のもとだったのだろう。出発前、 札幌駅で時々やっている沖縄物産の販売を見かけて、つい黒糖を切っているオジ さんに乗ってしまった。梅干し入りの飴という珍妙なものとサーターアンダーギ ーを購入、賞味期限はまだ先のはずだがバクバク食っている。
眠りこけていて何の感慨もなく曇った空を降下、アテネの空港に着く。ウィーン の空港で少し両替もしていたし、荷物の転送も手続きしてもらっていたので少し 余裕。気がつくと同じ便に日本人の団体さんがいて添乗員のおネエさんもいる。 しょせん短期滞在の観光客がギリシアで行くところなど限られているのだから、 あっちの方が楽で人と喋れて楽しそうかな、とも思う。 別に今ひとりで感傷に耽りたい心境でもないし。 たとえば失恋したとかいうわけでもない。 どっちかというとまだ仕事モードのギアが入っている。 ここの乗りこなし次第では帰国後に社会復帰できなくて酷いシンドい目に遭う、 去年の秋の旅行のように・・・。
ともあれ市内までの足。 ガイドブックによるとアテネのタクシーは悪名高い。 バリのデンパサール空港なんかは、公設らしき専用カウンターがあって、そこで 行き先を告げて料金を支払うと伝票をくれて個々のタクシーの運転手に渡すよう になっていた。あれならそんなにヒドいヤツも出てこない。
しかし見たところ、ここにはそういうシステムはないようだ。だいたいウィーン 便以外にも深夜にアテネに着く便がいくつかあるようだったが一体何のためなの だろうか?乗り継ぎさえスムースなら今ごろはホテルで安眠している。
しょうがないのでタクシー交渉。 もっと値切れた雰囲気だったが高めの金額で決めてしまった。後に続く同胞には 少し謝罪する気分、これでまた日本人のタクシー運賃の相場はわずかながら上が ってしまっただろう。運転手は愛想のない30代の男。はげ上がっているが、歳 はそんなにいってない。隣席に女性を乗せたまま商売している。ここでは普通の ことなのかどうかわからない。黄色い車体でタクシーの看板も掲げたれっきとし た営業車なのだが・・・。街中に入る。二人はずっと早口で喋っている。
空港ではギリシア語がこれまでの経験の中ではロシア語の響きに近い気がしてい た。ハンガリーのマジャール語は感覚としてはもはや覚えていないが、あそこは アジア系の言語だからまた違う。オーストリア航空はドイツ語だからなぜか安心。 第二外国語だし響きに馴染みだけはあるからか。ドライバーとその彼女の会話か ら、ギリシア語は僕の中でロシア語とフランス語の間くらいの座標に定位された。
街の風景には間違いなく南方系の気配が混じっている。 これまでの経験からすると、やはりハンガリーのブダペストあたり、準EU的な 「くすみ具合」をしているのだが、極端に言うならバリ島の街を車で走る感じに 似ているところもある。その気で見るとソテツ系の大きなのが街路樹風に立って いる。四国の宇和島でそんなのを見たことがある。鹿児島や高知にもきっとある だろう。空は薄曇り、噂通りの雨がちな季節のようだ。何となく湿っぽい空気が ひんやりしている。とはいえ、こちとら北海道の吹雪の洗礼を受けてきているか ら、平均気温で東京より暖かい街など「南の島」の範疇である。
トラブルもなくあっさりホテルに着く。 昨夜日本から電話で入れた予約がちゃんと通っているのに少し感激する。フロン トマンの案内で客室へ。北海道の田舎町のビジネスホテルみたいな風合いの部屋。 欧州の宿にありがちな塗装のペンキのわずかな匂いもする。
しかし最初からやたら高い宿に泊まるのも精神に悪い。 確信犯でやった、去年のバリのような感じならそれもいいかもしれないが。快適 でうれしいのだが、妙に落ち着かない。那覇でも国際通りのシーサー・イン那覇 あたりが使いやすくて別の意味で快適なのと同じ。東京なら目白のリッチモンド ホテル。規模が小さくて最低限の設備で、地の利がよくて、単身者の旅にはそう いう快適さの方がありがたいのだ。そう思えばテレビもエアコンもないこの宿の ストイックさも好ましく思える。
…というわけでベッドに入ってこれを書いている。 あんなに眠かったのに、倒れ込むように眠れはしない。 ウィーンからまた1時間時差が戻っていてわけわからん状態。でも普段の生活か らして常に時差ボケみたいなもんだから、大してペースが狂いはしない。 普段から無国籍雑食性だから、日本食を食べなくても平気なのと一緒か?ガイド ブックや紀行本を見ているとギリシアは「野菜食いィ」天国のようなところらし い。那覇に滞在する時と同様、毎日の食事が楽しみだ。
ナップザックの中に昨日買った読売新聞が入っていた。 きょうの新世界 (65) 遠い異国14 画・ラバか何かに乗って帽子を被った人物 キャプション・神様の横顔 内容は、工藤先生の毀誉褒貶について。
来る途中で本を読んで得た知識で、ギリシアの現代史が苛烈なものだと知った。 19世紀の独立戦争もそうだが、ナチスに占領されたことも、その後の内戦のこ とも、1974年の事件のことも、よく知らなかった。御大が来たのが1975 年だったことは、そういう外的要因と無縁ではないだろう。第二次大戦から60 年代末、そのあとの挫折感と苦渋に満ちた時代。僕が物心ついたころの話。
僕が生まれて最初に住んだ工業都市の原風景は、小学校の校庭の朝礼台に立つ赤 い旗。赤が立つと光化学スモッグ注意報で、黄色になると警報。旗が立つと外で は遊べなかった。窓からみる誰もいない校庭と朝礼台の旗。 日本を出る前、有吉佐和子の『複合汚染』を読んでいたからそんな連想になった のだが、あれも74年の連載。『哲学者の密室』の設定も連合赤軍事件もこのこ ろだろう。ヴェトナム北爆も、オイルショックもある季節。現代史はついこの間 までリアルなものだったのだ。日本にも「沖縄復帰」があった。沖縄海洋博へと つながるころ。そのころに日本を出て、アテネに移住する30歳の青年というの は一体どんな心境だったのだろうか?
何となくそんなことを考えながら、明朝のギリシアとの出会いの時を待っている。
2002年04月01日(月) |
Gの誘惑1999 彼岸過ぎの成層圏 |
#「ギリシアの誘惑1999 G−Who極私的な旅日記」の再録です。
1999.3.23「彼岸過ぎの成層圏」
僕がギリシアについて持っている角度は、そう多くないと思っている。もちろん 言葉もわからない。欧州へは過去に二度行っているが、ドイツ語やフランス語が できなくてもなんとなく単語に馴染みがあるだけで安心するものだ。サハリンに 行った時にそう思った。もっともあの時は仕事で、日本人の通訳さんと一緒だっ た。ハンガリーに行った時は、当然マジャール語など知りはしなかったが、結構 いろんな本を読んで予備知識を持っていたので、意外に不安はなかった。
さてギリシアである。 中学1年の夏休みの読書感想文は、確か『ギリシア神話』を選んで書いた。どう せ荒唐無稽な超絶ボクシング漫画『リングにかけろ』の影響だろう。世界ジュニ ア選手権で、ギリシア・チームと死闘を演じるヤツだ。小学5年生の国語の授業 で物語を創作するという課題が出たときには、「もうひとつのサントリニ島」と いう題のお話を書いたくらいだからギリシアには興味があった。
そっちは、アトランティス伝説とか超古代史への興味。 『消えた大陸アトランティス』という題の児童向けの本を小学校3年生くらいの ころに好んで読んでいた。大陸移動説などを引きながら、地学的な説明がされて いる本だ。伝説の根拠となったと思われる事実としてサントリニ島が出てきた。 エーゲ海に浮かぶ円い火山島が大昔に大爆発を起こし、大半が陥没してカルデラ 型の島が残ったという事実は、どういうわけか子どもの頃の僕の琴線に触れた。
しかし現代ギリシアのイメージはテレビを通してもまるで伝わってこないため、 ほとんど何も知らないまま育った。橋本治が本の中で、我々が欧州を考えるとき に、その淵源としてのギリシアを考えるというのは尤もだが、ギリシアを考える 時には何も常に西欧のことを考える義務はない、「サシ」で向かい合ってもいい はずだ…みたいなことを言っていたが、かようにギリシアに関しては妙に偏った 情報しか提供されてこなかった。
大人になって村上春樹『遠い太鼓』でギリシア滞在の記述を読んだが、冬のエー ゲ海は嵐が多いという話などを断片的に覚えているだけ。あと宮本輝『海辺の扉』 もギリシアが出てくる話。ブッキッシュな方面で言えば先入観を作る知識はそんな もんだったと思う。
サントリニ島は見てみたい、と映画「グラン・ブルー」の海を目にしてから思った。 子どものころに書いた物語は他愛無いものだったが、その後も火山と聞けば反応す る人間になっていた。サンテグジュペリや宮沢賢治にもある「火山愛」とは一体何 なのだろう?東京港から船に乗って伊豆大島へ行って、三原山の溶岩跡を見たりし たこともある。仕事で有珠山の火口原を歩いたときも、うれしかった。高山宏が言 うところのサブライム=崇高美学というやつだろうか?『スティルライフ』で衝撃 を受けた作家・池Z夏樹の次作『真昼のプリニウス』を何の違和感もなく読めたの も当然というものだ。
さて、そういうわけで池澤フリークの僕のギリシア紀行。 動機もノリもミーハーだ。 アテネを歩き回ることと、サントリニ島へ行くことを目的としているが、これとい った縛りは何もない。オキナワと違って、池Z御大がギリシアを語るとき、そこに は妙に感傷的なものが混じるのが気になっている。
その気分は『マシアス・ギリの失脚』から『楽しい終末』や『未来圏からの風』を 経て『すばらしい新世界』へと続く、ある意味で求道的ともいえる軌跡にも大きな 影響を与えているのだろう、という直観がある。 HP「池Z御嶽」の主催者としては、そのへんをギリシアの地で何となく疑似体験 してみたい、というのもあった。
…なんていうと、長年の計画を着実に実行に移したかのようだが、今回は普段から ズボラな私でさえ考えられないくらいに勢いだけで日本を飛び出してきてしまった。 須賀敦子ブームが去年から続いていたので北イタリアとか星野道夫のアラスカとか、 今年こそモンゴルかとか、去年行ったバリ島を再訪するかとか、いろいろ行きたい 場所はあったのだが、どういうわけかギリシアはあまり現実的な候補としては考え ていなかった。村上春樹の本で、冬場は気候が悪いと言っていたような気がするし、 成田空港には懲りていたので千歳から直行便でハワイイというのもいいな、という 方向にも傾いていた。マウイのハナを訪ねるとか。
しかし3月の雨のギリシアも、やせ我慢すればそれはそれでいい。コートの襟を合 わせて、雨の中を走り抜けるのもペッピーノみたいでいい。卒業旅行で日本の学生 だらけの北イタリアというのもイヤだし、そこそこにひとり旅的なハードさも欲し い。金銭的にも仕事的にも今のような旅ができる状況がつづくとも限らない。話の タネとして面白いのは、やっぱり池Zミーハー旅だろう。 御大じゃなくて御嬢さん生誕の地でもあるわけだし(笑)考えてみると、いま僕は 丁度30歳。1975年に御大がギリシアへ移住して御嬢さんが生まれた、という 年回りだ。彼女自信は「里帰り」したことはない、と言っていたが。 うむ、とりあえず僕が見てきてあげよう、という意味不明な動機も芽生えた。
実はいままで『ギリシアの誘惑』を、じっくり読んだことがなかった。簡単に言う と純度が高すぎてキツイ酒みたいな感じでこわかったのだ。中でも「サントリーニ 紀行」は、手をつける気になれなかった。今回持ってくるかどうか、読むかどうか、 という選択を迫られたわけだが結論としては・・・さっき機内で読み終えたところ。
ちなみに遅ればせながらいうと、千歳空港から関西国際空港へ飛んで、オーストリ ア航空でウィーンへ、そこからさらに乗り継いでアテネまで行く。東京から出ると、 下手したら去年ドイツへ行った時のように羽田ー成田間を自力移動したりするハメ になるのだが、それを避けるには千歳からKLMオランダ航空でアムステルダムま で直行するという手もあった。しかし便が少なくて日程が限られるのと、都合のい い便が満席だったため関空をにしたというわけだが、これが快適!前に羽田ー成田 間でした苦労は何やったんやぁ?!・・・と叫びたくなる。何せエスカレーターで 2フロア昇るだけで、すぐに国際線のカウンターなのだ。二度と成田は使わない!
それにしても国際線の機内って、すごく読書に向いている。 宮沢賢治の童話が角川で生誕100年の年に沢山出たのを、いつも持ち込んで読む。 成層圏の気分で読むとハマるのだ、これが。ケンジさんに見せてやりたかったね、 この光景。 シベリア上空を渡るジェット機から見る、春分の日を過ぎたばかりの 北半球。ところが今回は、あまりのバタバタで文庫本を鞄に入れるのを忘れてきた。 それで話はギリシアに戻るのだが『ギリシアの誘惑」はケンジさんに匹敵する透明 感、そしてそれに伴う痛みもまた・・・キビシい。
…パンドラの箱の底に残った希望、それは人類の存在を肯定する最後の意志か? この地上に人間が幸福に存在することは可能か? そしてそれは許されることなのか? その難問のエレガントな解法はどこにあるのか?
御大の問題の立て方がいつになくクリアに読めた気がする。 これはへヴィーだわねぇ、ちゃんとものごとを見て、ちゃんと感じて、ちゃんと考え ることだから。ほかにも20世紀を射程にそれを考えるミステリーの大作、笠井潔の 『哲学者の密室』を買ってきたので、フライト時間はいくらあっても平気。おかげで 今世紀中にこの本も読める。 ネタはハイデガー(らしき)哲学とナチスのジェノサイド。以前カート・ヴォネガッ ト『母なる夜』も飛行機で読んだ。ギリシアとハイデガー。何となく20世紀末の総 括としては必要ではあるかもしれないが重いなあ。難しそうだし。
しかし大体昨日国際電話をかけて、ウソ臭い英語で予約したアテネのホテルまで、ち ゃんと辿り着けるのかなぁ? 知ってるギリシア語は「クックラ・ムー」だけだし(笑)
さてさて、どうなることやら。ジェット機は飛んでゆく。
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