「静かな大地」を遠く離れて
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題:284話 砂金堀り14 画:ノビル 話:あきれたことだが、わしは熊に焦がれるようになった
砂金掘りのおじさん、山の神の偉容に打たれて人生を誤るという意外な展開。 いや、まだ誤ってないけど、鰊獲りや砂金掘りで暮らしを立てて、気ままに 生きていたいという、取り立てて主義もない、“ろくでなし”だと思ってた。 勝手にこの章の位置づけは世俗的な余所者キャラが見る遠別ユートピアだと 思っているのだが、山でずいぶん途方もないものに出会ってしまったようだ。 否が応でも『クマよ』の作者を想起せずにはいられないが、展開や如何に…。
北海道つながりで、昭和新山の誕生を描いた手塚治虫の短編劇画『火の山』 があるが、その登場人物の構図が、上の思い込みの根拠のひとつ。犯罪者が 善き人物に出会い最終的には信望者となってゆく、そうすると人物造形上の “説得力”が強化されるというプロット。古来沢山あるパターンなんだろう けど、たまたま御大が文庫版解説を書いている『火の山』で説明したまで。 まだこの砂金おじさんが、いつの時代の人かもよくわからないんだけど(^^;
『週刊読書人』紙(4月5日号)に、御大のインタビューが掲載されている。 お題は「9・11以後の世界を語る」だそうで、次号にも続きが載るみたい。 『新世紀へようこそ』を読んでいる人には目新しい話ではない。それよりも 早く『Switch』誌の新井敏記さんによるインタビュー集を読みたいのだが。 『未来圏からの風』から『静かな大地』に向かう流れを辿り直しておきたい。
いま欲しいものは、ロングスパンの思考、それを可能のする環境作りの方策。
2002年03月29日(金) |
声に出して読みたい星野道夫 |
題:282話 砂金堀り12 画:ラディッシュ 話:わしはもともと親孝行なたちではなかった
題:283話 砂金堀り13 画:ヒメニンジン 話:五里四方におのれ一人しかいないという山の中で、のんびりと皮算用する
やっと思いついた。“声に出して読みたい×××”というフレーズで、何か自分的に 可笑しいネタをずっと考えていたのだ。いつも頭の中がそんなことでいっぱいなのか と問われると答えに窮するのだが、何かを言い当てるフレーズは力になるし楽しい。 過去の“作品”で言えば「上條恒彦オトコ」とか「ガイアおばさん」などは、ある種 “カウンター・ミーム”とも言うべき、威力を発揮しうる傑作だと思う、自分では。 とか言いつつ、あえてこの場では語義を解説することはしない。そういう性格(笑)
それで、“声に出して読みたい”の下にいろんなものをハメてみていたのだけれど、 (ノリは、みうらじゅん氏ね(^^;) どうも面白いのが思いつかなかったけど、これは 「できた!」って感じ。「声に出して読みたい星野道夫」。表題とかで検索して来た 方がいたら、あらかじめ謝りたい、…と珍しく読者を意識したもの言いしてみたり。 僕の書いた、ちゃんとした(?)ミチオ関係の文章は↓このへんに掲載しています(^^; http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=25026&pg=20010717 http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=25026&pg=20010718
『静かな大地』の現在の章の語り手も、“五里四方におのれ一人”の環境を楽しんで いる様子だが、どうもこういう状況は、セスナで原野に降りて野営の支度をして珈琲 を沸かすミチオさんを連想させられてしまう。テントの中で執筆をしたりもしたのか、 そのへんのことはそういえばちっとも知らないのだが、あの文体は書いたことを声に 出して推敲しているような感じがする。普段の生活で主に英語を使っていたであろう ことも影響しているのだろうか、手になじむ“ベーシック・ジャパニーズ”を使った 短めの文章の積み重ね方。わかりやすく、それでいて臨場感にあふれた情景描写の力。
何より、想像してみよう。夜、テントでランプの明かりの下、書き上げた原稿用紙を 光にかざして、大真面目に自分の文章を声に出して読み上げるホシノミチオさん…♪ 気に入らないところがあると立ち止まり推敲したりしながら、次第にロマンティック でドラマティックな世界が出来上がっていく。それを聞いているのは、熊や狼たち。 あるいは日本語のわからない友人が、焚き火のそばでミチオさんの声を聞いている。
そうして、あの文章が生まれたのだと思い込んでみよう。本当のところは知らない。 ただ、その気になって彼のエッセイを、声に出して読んでみること。たった一人で、 あるいは愛しい人の傍らで。結構ハマる、そして意外と笑える、というかミチオさん のキャラクターが微笑ましくて愛しくて、つまりは本に登場する多くの人々と同じく ミチオさんと対話しているような心持ちになってくる。しまいには彼の文章を読んで いながら、読む調子の変化で彼にツッコミを入れる、という高等テクも入ってくる。
「声に出して読みたい星野道夫」。手軽でお得なアラスカ追体験を、お楽しみあれ。
題:281話 砂金堀り11 画:フキノトウ 話:しばらく喋ってからわしを見て、何の用と言った
3月27日「アイヌ文化伝承の第一人者、葛野辰次郎氏死去」の報(asahi.com)。 “静内のエカシ”の享年は91歳。『静かな大地』の物語上では、明治末に由良さん が志郎から遠別の話を聞いていた頃にお生まれになったか否か、という年回りになる。 時間軸上の距離感とでも言うべきものを、あらためて実感させられる、エカシの死だ。
先祖を代々タテに辿れば、百年くらいの歳月は案外簡単に遡れる、という例の論法は 時間単位を千年に引き延ばしても有効だ。去年の3月末には雪が降ったが、例年この 季節になると暖かい雨に浸るような旅をした記憶が、身体の底からよみがえってくる。 16歳、高校1年が終わったあとの春休みに、学校の万葉旅行で明日香へ行った記憶。
あの年、甲子園の開会式が雨で順延になった3月26日、当時住んでいた広島県から 新幹線で関西へ向かった。旅行は任意参加で、十数名くらいの参加人数だったと思う。 万葉旅行というのは国語の授業の行事で、事前に多少お勉強をして、テーマに沿った 場所を訪ねるもの。その年のテーマは、大津皇子で、二上山と当麻寺を最初に訪ねた。
奈良盆地の西側は、大阪平野とのあいだを隔てる屏風のような山並みが連なっている。 生駒山、信貴山、葛城山系。その屏風が途切れて大和川が流れ出るあたりに二上山が 独特の山貌でそびえ立っている。その名の由来となった通り、二つの峰が重なる姿だ。 折口信夫の『死者の書』を読んでからこの二上山を訪れると結構“その気”になれる。
明日香の里から見て西にある二上山は、コスモロジーから言えば太陽の沈む死の山だ。 反対に日が昇るのが三輪山。この山そのものをご神体とし拝殿のみで本殿を持たない 大神神社は、大物主命を祀る古い神社だ。皇室が成立するよりも前からの聖地だろう。
東の三輪山と西の二上山、その間の天地に古代日本の中心地が造られた。大和三山が 神々の箱庭のように配されている。うるうると緑が濡れる雨の中、万葉旅行の一行は 予定された明日香の史跡の数々を、自転車でめぐった。全身ずぶぬれになりながら、 水にたゆたう天地を走り抜ける。一度濡れてしまえば、もう構うことはない、寒くも ない春の雨だ。生憎の悪天候ならぬ、はしゃぎたくなるような、恰好の自転車日和。
国生みの神話の地。古代の人々のように宇宙の死と再生を体感することが出来たのは、 あの羊水のような暖かい雨に浸されて、思う存分に駆け回った身体の感覚ゆえだろう。
2002年03月26日(火) |
伝説のトランスナショナル・アメリカ |
題:280話 砂金堀り10 画:行者大蒜 話:アイヌであろうがなかろうが、ともかくよい揺り板は欲しい
ここは明治期の北海道を舞台にした小説の併走日録なのだが、アメリカの話をするぶんには もはや前提は要るまい。「〜100冊」にもアメリカ関係の本が結構入っている。先月出た 巽孝之先生の新刊は、たまたま「9・11以後」のアメリカ研究本バブルの中で出たためか 鼻息の荒い宣伝文句がついていたが、なかなかに手堅いところもあるエキサイティングな本。
■巽孝之『リンカーンの世紀 アメリカ大統領たちの文学思想史』(青土社) (帯惹句より) その瞬間、世界は劇場と化した すべては1世紀半前、当代の名優が観劇中のリンカーンに向け放った銃弾から始まった。 演劇的想像力が世を覆い、大統領暗殺は、アメリカのみならず、世界全体へのテロリズム となるだろう。20世紀前半の再評価を経て、いま新たなるリンカーンの世紀が始まる。 (引用おわり 巽ゼミ公式HP http://www.mita.keio.ac.jp/~tatsumi/)
この巽先生の本、あの高山宏御大が『週刊文春』で“本芸爆発”の手のつけられない書評を 寄稿している。これは一読の価値がある。書評としてもそうだが、徹頭徹尾“胡散臭さ”を 振りまきながら(<失礼!)、バナナのたたき売りの口上にも似た、知のたたき売りの如き 様相を呈する過剰な褒めまくり攻撃を仕掛ける、その至芸を堪能することをオススメしたい。
(以下、引用) 長く誰もが疑わなかった神話を、そこに秘められた政治学やイデオロギーの歪みを白日の 下にさらすという分析なり批評が時には脱構築、時にはカルチュラル・スタディーズ なんて呼ばれながら、文系の人間では一番最先端とされる人々の腕の見せ所、才能の競い 所のようである。 そうした今や定型になったお約束の批評で巽氏がとっくにナンバーワンであることは知ら ぬ人はいまい。ところがとうにそのレベルを越えてしまった芸、というか一種のスペクタ クルとしての批評宇宙にこの本で読者はあっといわされるのである。(中略) 小さな分析から大きな歴史観の改変まで、多彩な批評の方法とびっくりするような材料を 組み合わせ、ふと気付けば一冊の歴史改変小説の趣さえある。タツミは新しい風に乗った。 (引用、終わり)
「アメリカ文明」を対象化して研究するという態度そのものが、グローバリゼーション全盛 の世界の中では、ちょっと奇異に聞こえてしまうことがある。反発でも同化でもない姿勢を キープしながら、隘路を切り開くための矢を放つのは非常に困難な、そしてクールな仕事。 高山御大や巽先生の仕事を読んでいて思うのは、まず滅法面白い、瞠目するほどの切れ味に 参る、そしてそのあとに来るのはしかし、どちらかといえば痛快さの後のニヒリズムだろう。
これは悩み所ではある。世界の様相を読み解く、とびきり高性能な道具を手にしてスパスパ と世界を切り身にして解剖してみても、つまるところ我々は一体どうすればいいのだろうか、 などという無様な疑問には直截には答えてくれない。文学的モチーフに潜む政治学に精通し、 「物語」リテラシーの“すれっからし”になったところで、自分一個の抗うつ剤程度の効能 しか望めないのではないか、と思うと昂揚した気分も萎えるというものだ。学問の根本命題。
もっと真摯、かつ素人のお気楽な立場で学問を深めてみたい。北海道の田原プロデューサー も放送大学で文化人類学を勉強されるそうだし。『静かな大地』が課してくれる宿題は厖大 かつ意外と焦点のしぼられた領域を指し示しているように思える。アメリカ研究もその一つ。
大学生のころ、図書館で掲載誌をさがしてコピーを集め、夢中で読んだある研究者の論文が 今ごろになって突如、書籍にまとまって刊行され驚いている。これもアメリカ研究バブルか。
■奥出直人『アメリカン・ポップ・エステティクス 「スマートさの文化史」』(青土社) (帯惹句より引用) アメリカの夢の行方 摩天楼の下を軽快に闊歩する ニューヨーカーのイメージは、如何にして成立したのか。 アメリカ大衆の質朴な欲望が、スマートで<良い趣味>へと変貌し、 都市計画から食事・ファッションまで、 アメリカンドリームを真に誕生させた瞬間を大胆に描く。異色の文化史。 (目次より) 15年後のトランスナショナル・アメリカ(序) アメリカの都市デザイン 理想都市としてのワシントンDC ル・コルビュジェのニューヨーク 石、スチール、そしてジャズ 一八九三年シカゴ博のミッドウェイ ファースト・フード・レストランのデザイン史 マクドナルドに学べ 二つのポストモダニズム アメリカン・サブライムの誕生 ナイアガラ、巡礼から新婚旅行へ マイアミ・リゾート・パラダイス エレガンスの政治学 ダコタ・アパートメント サンボとモダニズム 黒人イメージの再発見 ステレオタイプのアメリカ文化史 テレビの中の黒人たち 『コスビー・ショウ』の登場 ミシシッピ州への旅 アメリカ美人のイコノロジー シオンの娘からマリリン・モンローまで 文化装置としてのハリウッド ノスタルジー・ブルジョワジー・ファンタジー イデオロギーとしての「良い趣味」 (序より) 政治的なイデオロギーはともかくとして、ローマ共和国の影響に自らを重ねる リパブリカンと、みずからの暮らしの先に未来を見つける「デモクラティック・ビスタ」 をもとめる別の種類のアメリカ人がいる。あるいは、一人のアメリカ人の中にこの二つの 側面が同居していることもあるだろう。巨大になり、さらにサイバースペースまで活動を 広げる「アメリカ」とともに生きて行くために、われわれは混沌としてダイナミックな 世界のなかから、自らの手でデモクラティック・ビスタすなわちトランスナショナル・ アメリカを見つけて行かなくてはならない。それが本書のメッセージである。 (引用、終わり)
いや〜ビックリしましたねぇ、もう一般向けの本は書いてくださらないのかと思っていた オブジェクト志向の奥出先生の、それも僕が大学にいたころに読んでいた名作論文が今頃 まとまるなんて…。巻頭の「アメリカの都市デザイン 理想都市としてのワシントンDC」 なんて、2000年秋にDCへ出かけた時、古いコピーを持参してしまいましいたよ(笑) マニアック、というか単なるミーハー。ほんと、あのアメリカ旅行も刈り取れてないなぁ。
久しぶりに読む、奥出先生、序文とあとがきも読み応えがあって、真摯でかっこいいです。 あれで結構人気があったクリントンに比べ、アル・ゴア・Jrが抱える困難の分析も膝が 抜けるほど打ちましたよ、ナンシー関風の言いまわしをするなら(笑)
とにかく、文化人類学や文化研究の眼で「アメリカ」を一度とことん対象化してみること。 かの国が「近代」の究極因で、地球を覆い尽くそうとしている文明の発生源ならなおさら。 闇雲に追随したり、あるいは反発したりすることこそ、覇権国の属国の民の愚行であろう。
彼岸過ぎ、また沢山の時間の層を折り重ねたような週末を過ごした。
先週、神楽坂で飲んだり、明治座で芝居を観て幕間に桜餅、そのあと 水天宮にお参りという江戸情緒路線に走った余勢を駆って、今週も桜を 求めて池上本門寺へ出かけたり。去年はじめて桜の時期に仕事で訪れて 日蓮宗の総本山が見事な桜の名所だと知って、どうしても行きたかった のだ。門前の店で葛餅を食べるのも、大事な目的だったのだけれど…。
先週末の明治座からの流れで言えば、60歳代の女性の友人でも作ると 趣味が合って楽しいかもしれないと、あながち冗談でもなく思う(笑)
土曜日は縁あって知己を得させていただいた門坂流さんのアトリエ訪問。 きっと多くの人が本の装丁などで目にしたことはあるにもかかわらず、 その作品世界を知っている人は少ないのではないか、と思える異能の人。 昔、池澤御大が「微粒子の流れのほとりにて」という名文を寄せた画集、 『門坂流作品集 風力の学派』(ぎょうせい)は、1988年の刊行だ。
他に文章を寄せていたのが荒俣宏御大に伊藤俊治氏と来ては、当時の僕 のアンテナに引っかからないわけがない。しかもあとになって考えると、 それぞれ荒俣氏は『帝都物語』、伊藤氏は『ジオラマ論』、そして御大 は『スティルライフ』と、世に揺るぎない地位を得るきっかけとなった 仕事をしたあとの時期。どれも現在の僕の「眼」を作ってくれた本だ。 まるで三人とも、はしゃぐ言葉を押さえかねているように、門坂さんの 作品を論じているのが、何だか微笑ましい。その気持ちはよくわかる。
もちろん、この並びの中だって「眼」ということで言えば圧倒的な力を 持つのは門坂流その人である。地図の等高線のように互いに交わらない 細密な曲線で、輪郭を描くことなく形象を立ち上がらせてしまう独特の 手法。水の流れや樹木など、好んで描かれるのは人間のいない風景だ。
何にも似ていないようで、何かに似ている。そう思って最近その答えを 思いついた。たとえば火星探査機バイキングやマーズパスファインダー が送信してきた火星の地表の写真を初めて見た時の感覚。人間の目には 晒されるはずのなかった風景が眼前に在ること。静かに覚醒した興奮。
名前も音も色も形も生まれる前、世界には流れだけがあった…、なんて 言ってみたくなるような作品群は、見ることの至福を謳っているようだ。 以前、花巻で北上川のイギリス海岸を訪れたとき、風景をみる目が既に 門坂流に「教育」されているのを自覚して可笑しかったのを覚えている。 渦巻く川面を見ても、雪原に佇む樹を見ても、どうにも門坂流なのだ(^^;
そんな門坂さんの作品を印刷ではなく原画で見る機会をいただけたのだ。 木立に囲まれた静かなアトリエの佇まいに魅了される。ずっとバロック 音楽が流れる中、版画やペン画の数々を拝見しながら一言も発すること が出来ないまま、いつのまにか、春分を過ぎたばかりの日が落ちていた。 ゴールトベルク変奏曲がかかったときは、精緻な線を刻み続けるための 静謐なアトリエにちょっとハマり過ぎかな、と思いつつ浸らせてもらう。
フェルメールに魅せられ絵の道に進もうと決意したという少年の日以来、 見ることの孤独と至福を突き詰めてきた、門坂流の世界を知るべし(^^) http://www.pci.co.jp/~moriwaki/ryu/
あ、アトリエ訪問の話だけでこんなにかかっちゃった(^^; うーむ、日曜日に世田谷パブリックシアターで観た三谷幸喜氏の新作、 「You are the top」も最高だったんだけど、詳しく触れる時間なし(;_:) ただ、やっぱり戸田恵子さんってスゴイ役者さんだなー、最高だなー♪
題:276話 砂金堀り6 画:トマト 話:砂粒を水で踊らせて、少しずつ砂を水に流す
題:277話 砂金堀り7 画:ボウフウ 話:北海道のヤマには砂金が落ちているが、その一方、熊もいる
題:278話 砂金堀り8 画:エシャロット 話:あんなやりかたで均せば日に一匁というところだったかな
題:279話 砂金堀り9 画:インゲン 話:ありそうな場所に本当にあるかないかは汗を流して掘ってみるしかない
題:273話 砂金堀り3 画:アスパラガス 話:砂金というのがそうそう簡単に拾えるものではないらしい
題:274話 砂金堀り4 画:タラノメ 話:寝ている時に雨が降ってもまあ濡れないというほどのものだ
題:275話 砂金堀り5 画:こごみ 話:冬越しで砂金を採る時には、罠を作って兎を獲った
桜満開の春分の日は、春の嵐。都市で暮らしていても、時折こうして自然の洗礼 に見舞われる日が訪れる。樹々のざわめきを聞くと、心が騒ぐのを抑られない。 北海道などと比べて自然環境の面ではずいぶん「遠く離れて」いるつもりでいる。 なにしろ、苫小牧の樽前山系でヒグマの冬眠穴の跡に入った経験もあるくらいだ。 でも最近、都心の自宅の近所の掲示板で、こんな告知を見かけて驚いた。
猿に注意
×××4・5丁目あたりで 野生と思われる猿が出没しています 散歩中に威嚇された、洗濯物をとられた、 庭を荒らされた、窓を開けようとした、 等の情報が寄せられています 注意して下さい
×××保健所衛生課 東京都衛生局獣医衛生課
逃げたペットとかじゃなく「野生と思われる」っていう根拠があるのだろうが、 いずれにしてもこの都心で猿が徘徊して生き延びているというのもスゴイ話だ。 何年もみたこともないけど『噂の東京マガジン』とかで取材したらどうか(笑) 僕の散歩コースで猿を目撃したことはないが、“あいつ”なら見たことがある!
川端裕人『緑のマンハッタン 環境をめぐるニューヨーク生活(ライフ)』に 先日ここで言及したが、ペットや家畜などの“アニマルライツ”という概念や ニューヨークを中心としたアメリカの動物事情が紹介されていて興味深かった。 ディープエコロジストたちの“生態”も面白く読めたが、具体的な動物たちの 置かれている現状が突きつけてくる問題は、やはり看過しがたいものを感じる。
他の生命を喰らうことで生きているドウブツとしてのヒトにとって、隣人である 他の種との“つきあい”が、どう「幸福」な形であり得るのかというのは難問だ。 普段そのことを忘却して生きていることの出来る環境に居るつもりでいたけれど、 いつ「野生と思われる」猿と出くわしたり「威嚇」されたりするかわからないと いうのはなかなか悪くない。彼(彼女?)とチャランケする日は来るだろうか?
2002年03月18日(月) |
地霊たちの声を聴く者 |
題:272話 砂金堀り2 画:土筆 話:嘘か真かこれを信じた
さて、新しい章に入りました。語り手は不分明であります。『忘れられた日本人』系、 ライフヒストリー好きの御大らしい章になりそう。ゴールド・ラッシュに目が眩んだ 男というのは、視点としては面白い。物語の小さな「支流」が、宗形サーガの本流へ どう流れ込んで、これまでとは別の角度から照射してくれるのか、とても楽しみだ。
蝦夷地や北海道を舞台にするのも、腰を据えてかかれば、文明や人間の業を描き得る なかなか「有利」で魅力的な選択だと思う。「困ったときの北海道」を覆えし得る、 北海道の地霊=ゲニウス・ロキの声を聞きつつ深く掘られた、グローバル射程の物語 が読みたいものだ。「静かな大地」には、まだその可能性が残されているのだから。 実際のところ連載期間は一年程度なのだろうが、個人的には二年くらいやってほしい。
昨日ちょっと紹介した明治座の「風の砦」、楽しいのでぜひご覧下さい、と言いたい ところだけど、商業演劇なのでなにせチケットがお高い。舞台でムックリが出てきて 台詞にクシュンコタンという樺太の地名が出てくるという“レア”さを愛でることの できる人は、何を於いてもお出かけ下さいませ。ちなみに何度も書いたかもしれない けど、僕はサハリンへ行って、クシュンコタンがあったところに立ったことがある。 そこは『武揚伝』の冒頭にも出てくる地名なので、ご記憶の方もあるかもしれない。
御大的には、松浦武四郎へのオマージュを、どういう形でか、色濃く作品に盛り込む という「仕事」もまだ残っているのではないかと思われる。三郎の人生は、あり得た かもしれない武四郎の人生だったかもしれないのだし。そして、さらにその先には、 「盟友」ホシノミチオが佇む姿が見える。そういえば坂本龍一のDVDブックの企画、 なかなか面白そうだけど、『ソトコト』の仕事なのね。『Switch』さんあたりでも すぐに出来そう、企画はもちろんミチオ系で。媒体が進化しても、勝負は企画内容だ。
場所、そして人への想い。裏切れない、嘘をつけない対象。それが人を駆動する力。
題:269話 栄える遠別29 画:煙草 話:会食中のみなが祝いの言葉を述べる
題:270話 栄える遠別30 画:鯛の鯛 話:ニプタサはおまえの馬鈴薯のおかげで生き延びた赤ん坊だ
題:271話 砂金堀り1 画:馬鈴薯 話:何か新しいことがしてみたくなった
よく晴れた日曜日。普段なかなか行かない劇場に足を運ぶ。都営新宿線の浜町駅、 明治座を目指す。いわゆる商業演劇というやつ。わざわざ行った理由は二つある。 一つはキャラメルの細見大輔氏が出演していること。もうひとつは演目の原作が、 ここの「静かな大地を読むための100冊」にも入っている『風の砦』だからだ。 原田康子さんのずいぶん前に出た小説。新潮文庫は絶版、わりと最近講談社文庫 から再刊されていたが、それも店頭から消えつつある。見かけたら要チェック。
蝦夷地へ赴くことが、ほとんど死と同義であるような江戸末期の侍たちの物語。 座長が西郷輝彦さんってとこが明治座なのです。われらが細見氏はスゴイいい役。 歌舞伎でいえば「二枚目」というポジションで、一番おいしいとこ。えらいもの をネタにするもんだ、と思いながら興味を持ったのは、アイヌ絡みのところを どう描くのか、という部分。いやぁ、なんかシュールでしたよ、商業演劇の中で アイヌの登場人物が沢山出てくるのって。鈴木ほのかさん演じるピリカメノコが ムックリを取り出して弾くに至っては、もう感慨深いものさえありました(笑) そのうち商業演劇で馬頭琴とかそういうのいいかも。<どんな筋書なんだろう。
幕間が2回、30分ずつあって、折り詰め弁当を食べたり桜餅を食べたりしつつ 客層のオバさま方より満喫してしまいました。ロビーでいろいろ売ってるのね、 北海道産の鮭トバとか帆立とか、西郷さんの故郷の鹿児島産のキビナゴとか(笑) もちろんそれも買いましたとも。スゴイいい客かも。劇場を出てもまだ15時、 早く始まるので芝居がはねたあとも、ゆったりしてるのがまたいい。久しぶりに 訪れた界隈なので散歩。清洲橋とかある辺り。水天宮を冷やかしてみたりしつつ 半蔵門線で表参道へ。そこからまたぶらぶら歩いてみる。どこも桜が綻んでいる。
昨夜は神楽坂で飲んでいた。温帯の至福の季節。ふと冷たい北の空気を思い出す。 表参道にアイルランド国旗が出ている。聖パトリック祭のせいだろう。緑の国。 北海道もようやくこれから緑の国に近づいていく。春の森。牧場。街路の樹々。 “遠別”を訪ねたくなってきた。夢の跡だと思うと、きっと切ないだろうけど。
2002年03月14日(木) |
迂回路ネットワーキング |
題:267話 栄える遠別27 画:画鋲 話:どんな競りでも宗形の馬は高い値をつけた
題:268話 栄える遠別28 画:錐 話:あれらは宗形三郎にも怪しい呪いを掛けているのではないかしらん
オールタナティブを志向する集団。それを「排除」しようとする人々。「近代」 の前線に、いつもつきまとう難儀な対立軸。そしてヒトは、どこへ行くのか?
ある本を読むのに、タイミングというものが作用する。奥付によると2000年の 3月20日に出ている本を、今ごろになって耽読している。その年の秋にアメリカ の東海岸を旅したのにもかかわらず、殊更にニューヨークを無視してワシントンと ボストン周辺を愉しんだのも、後になってみるとなんらかの必然に思われてくる。
■川端裕人『緑のマンハッタン 環境をめぐるニューヨーク生活』(文藝春秋) (帯惹句より) エコロジーはアメリカンドリームを超えるか? ニューヨークを闊歩する過激な環境保護活動家たち。 「人間以外」の生命に深い関心と共感をよせる彼らとともに行動し、 思索する中から生まれた体験的アメリカ文明論。 (引用終わり)
優秀で信頼できる著者であることは、少し読めばすぐにわかる。その上に面白い。 実に個性的で千差万別な「ディープ・エコロジー」の徒たちが、次々と登場する。 それを抜群のバランス感覚で取材しながら、全体として「環境」をめぐる問題を 通覧させてくれて、なおかつ一定の結論ではなく、考える材料を提示してくれる。 この本に登場する人々は、2001年の秋から冬をどのように過ごしたのだろう。 川端氏のサイトがないかと探してみたが、見つからず。継続取材の続編を期待(^^)
先日ちょっと触れた、枝廣淳子さんの『エコ・ネットワーキング!』(海象社)は そうした継続性、同時代性を体感できる、ワクワクするような好著だ。地方小出版 流通扱いになっているせいかどうか知らないが、2000年12月に出た本だけど 大きい書店でも見かけない。もともと著者による環境トピックのメーリングリスト を再構成した本。村上龍氏のJMMを筆頭に、ウェブ出自の出版物は数多いけれど これもその一冊。環境に関する厖大な情報が“一粒300メートル”という感じで 凝縮されている。でも抜群に読みやすくて飽きさせない。このメーリングリストは 現在も稼働していて、今日現在No.660信まで発信されている。下記で登録すると、 バックナンバーのリストと引き出し方も送信してもらえる。興味深い話題ばかりで 全部読みたくなったが、煩瑣なのと目が痛くなりそうだったので、書籍を購入した。 近いうちに書籍の第2弾も予定されているようだ。
■「枝廣淳子の環境トップページ」http://www.ne.jp/asahi/home/enviro/
環境問題に関してメディアによく登場するレスター・ブラウン氏と親交が深い方。 しかしもともと環境の「専門家」というわけではなく、通訳や翻訳の仕事を通じて 関心を深めていかれたらしい。それゆえかどうか、有吉佐和子『複合汚染』を彷彿 とさせるような好奇心と行動力と、なにより謳い文句通りのネットワーキング力で 情報としての価値が高い、なおかつ読み物としても抜群に面白いものになっている。
1999年の終わり頃に配信がはじまっているのだが、その頃と言えばまだ僕は、 御大の読売新聞連載「すばらしい新世界」と“併走”していたはず。「掲示板」と いうシステムを構えて僕が夢想していたことを、枝廣さんはちゃんと大きく育てて 「力」にしている。すばらしい。ネットワークの「力」は、昨秋の事態にも対応 出来ていて、あの『非戦』を坂本龍一教授らと作った主要メンバーでもあるのだ。
僕がティーンエイジの頃から信望する「思想家」と言えば断然サカモトリュウイチ だったりしたわけで、それはある世代の人たちにとってのジョン・レノンみたいな 存在、とまで言うと言い過ぎだろうが、少なからずの影響力があったのは確かだ。 月本裕さんのサイトで教授のことが触れられていた。相変わらずの編集的センス。
■「ツキモトユタカの癇癪日記」http://www.diary.ne.jp/user/19481/ 2002/03/13 (水) 坂本龍一のアフリカ エレファンティズム というタイトルのDVD BOOKSをいま作っているのである。 アフリカ行ったりニューヨーク行ったりしているのはそのせいなのである。 世界がどういうふうになっているのか、どういうふうになってしまうのか。 坂本龍一さんはそういうことを非常によく考えていらっしゃる方なので、 お話をしているととても面白い。 好奇心旺盛にアフリカを見て、象の研究者と話し、日本のことについて語る。
小説家の天童荒太さんとの対談本のラインか。辺見庸さんとの『反定義』もまだ 読めてないんだけど。辺見さんは90年代に旧ユーゴのことをちゃんと見ていた 人だから、アフガンについて語るのも“許せる”、というか切実に興味が持てる。 教授は天童さんとの本の中で「星野道夫」の名前を連呼してた覚えがあるけれど、 “坂本龍一が語る星野道夫”というのは、改めていつか聞いてみたい気がする。
ま、このへんを経巡った上で、『新世紀へようこそ』(光文社)書籍版を読むと なかなか流れがいいかな、という回りくどい話題の転がし方でありました(笑)
2002年03月12日(火) |
君は生きのびることができるか? |
よく晴れた週末、奈良に居た。生駒山の中腹の、修行者が籠もる滝で真言を唱えたり しつつ、日曜の昼前には京都市役所そばの本能寺境内に居た。鴨川沿いで鴨茶蕎麦を 食べて新幹線に飛び乗り、睡眠の中をたゆたいながら、巨大な富士の山体を遙拝した。 新横浜から、あんまり天気が良いので横浜の元町へ出て、港が見える丘公園まで散歩。 いくら何でも歩き過ぎだろうか、鍛え方が足りず、週明けには疲れが出てしまった。
とはいえ世間の人が風邪や花粉症に呻吟しているのを後目に、全く元気なものである。 身体が強い方ではないのだが、低位安定型というかシブトイというか、今年は風邪も ひいていない。風邪で寝込んだり休んだりしていないというだけではなく、熱っぽい とか喉が痛いとか鼻詰まりがするとか、そもそもそういう症状とすら無縁に過ごして もはや春を迎えているというのは世間から見れば“非国民”にも等しいような…(笑)
食生活には気を遣っているつもりだが、それは食事を出来る時のこと。菓子パンとか ウィダーインゼリーとかを「食事」と見なさないとしたら、例えば先々週などは平日 の食事の回数は計3回だ。もちろん朝昼晩トータルで。来週もそれに近くなりそうだ。 勝負はテーブルについての「食事」以外で、いかにモノを口に投入するかなのである。
一時、自分内でサプリメント・ブームが起こったのだが、さすがに“飲み合わせ”が 悪いだろう、というくらいあれこれ手を出したのと、総量が多すぎると思ったのとで 今はほとんど止めている。そのかわり、状況と体調に合わせて飲むものを変えている。 そういう人工的なものは口に入れたくない、という原理主義的態度を選択できるほど 「正しい」食生活を実践できている現代人は、そう多くないはずだ。食品の生産流通 システムからして、すでに我々にそれを可能とさせないシステムになっているからだ。
そこで“効く”のが、まず野菜ジュース。普通のカゴメ野菜ジュースの缶を朝晩1本 欠かさず飲む。昔の野菜に比べて、“旬”でもなければ、生育土壌も悪いと来れば、 いくら食べてもロクに栄養を摂取できない、青いまま採られたトマトが、スーパーの 店頭に出る頃に赤くなる、そんな野菜ばかりである。しかるに、カゴメさんの製品は 完熟トマト4個分だかを使用していて、採れたてをジュースにして封入しているので これを飲めば、下手にマトモな食事を心がけている人よりも栄養摂取効率は良いのだ。
それから、絞り込んだ常用サプリメントの主軸は、「ASAHIスーパービール酵母Z」。 ビタミンBとミネラルとともに、ポイントは「Z」。「Z」のついてるのは少し高い。 これは亜鉛のZで、風邪対策とか味覚異常対策とかに効く。微量元素は軽視されがち だが、実のところ身体の機能維持の鍵を握っている。精製塩=塩化ナトリウムでなく 海から採れた天然塩や岩塩を料理に使っていれば摂取できるのだが、いかんせん外食 ばかりしている身では、こうして意識的に採るのがいい。以前は天然塩を舐めていた ことさえある。特に真夏の暑い時期、汗とともに体内の微量元素系のものが外に排出 されてしまうので、いわゆる夏バテの原因になる。ちなみに僕は夏バテもしなかった。
あと、食事でもお茶や間食でも気をつけるべきは、とにかく“少量多品種”の摂取。 栄養学の先生を小一時間問いつめて、要するにどうなんだと詰問したら、きっと答え は「種類を多く、量を少なく」というところに行き着くらしい。とりあえずいろいろ 投入しておけば、あとは身体がなんとかしてくれる。ただし過剰な量の食物は体内で 老廃物となって最大の毒となる。この原則を実践するのは難しいようだが、外食でも 心がけ次第で結構品数は稼げるものである。増して居酒屋など自分で発注できる時は ヴァリエーションの稼ぎ時だ。調味料や食用油の類もカウントすべき大事な要素だ。
そして最大の極意。無理しない。疲れたら仕事やサービスの質を落としてサボること。 食事さえも、毎回“ちゃんと”しなければならないという強迫観念を捨てて実を取る、 そういう不真面目さが肝要。風邪ひいてサボるより、ひかないでサボる方が得だし♪
というわけで…でもないのですが、ここ数日間サボった分の「静かな大地」日録です。
題:263話 栄える遠別23 画:コテ 話:何かに力を注いで、天が翻意するのを待とう
題:264話 栄える遠別24 画:綴じ針 話:天は稲の分を減らして雪乃さんの分を増やしたのですよ
題:265話 栄える遠別25 画:ホネ貝 話:農業や牧畜についての新知識を広めるのも三郎の仕事だった
題:266話 栄える遠別26 画:燐寸 話:チコロトイは本当に困った時に頼るところであった
チコロトイ=遠別コンミューンのサバイバルは、出来ないのか、なぜ出来ないのか、 未来においても出来ないのか、そういう脳内チャランケを宗形兄弟としていくこと。 御大の新聞連載三部作(<誰も言ってないって 笑)の“未来篇”を構想すること。
身体も精神も含めて、ひとりひとりのプチ・サバイバルの手段を探る努力が必要だ。
2002年03月08日(金) |
現在、過去、そして未来 |
題:262話 栄える遠別22 画:やっとこ 話:双方わからぬままにするのが戦というものでしょう
戦争の話題がつづく。近代日本史と戦争は切っても切り離せないし、増して 軍馬の需要があった日高ではなおさらである。それにしてもこれは新聞連載 らしい、ジャーナルな話題ではある。御大が熱心に「新世紀へようこそ」を やりつつ「静かな大地」を書いていたのだということが、将来どんな時代的 文脈の中に置かれるのだろう?残る仕事は「静かな大地」であって欲しい。
かつて『すばらしい新世界』をはじめる時に、御大が有吉佐和子『複合汚染』 こそ新聞連載小説のお手本のような作品だ…的なことを書かれていたはずだ。 たしかに抜群に面白い本で『すば新』はもっとレンジの広い思考を目指した せいか、『複合汚染』のような新聞連載小説の大傑作とまでは行かなかった。
当時「BBSすばらしい新世界」というのを勝手に作って遊んでいたのだが、 そこでやりたかったのはきっと今この日録で僕がダラダラ書いているような お喋りではなくて、もっと「すば新」をきっかけに、環境ネタの渦みたいな ものが作り出せたらいいな、ということだったのだ。登場人物のアユミさん が関心を持つであろうような、環境問題に関する情報の流通インフラの整備。
そのへんをずっと現実にやってらっしゃるのが枝廣淳子さんの環境のページ。 http://www.ne.jp/asahi/home/enviro/ メーリングリストからバックナンバーも入手できるようだ。一部は書籍として 『エコ・ネットワーキング!』(海象社)という題で刊行されていて面白い。 レスター・ブラウン博士と親交の深い方で、NHK「地球白書」の番組にも 関わっていらしたみたい。懐かしのインテリ主婦アユミさんを彷彿とさせる。
御大の新聞連載小説は三部作ということにして、『すば新』が等身大の現在、 「静かな大地」がご先祖様の過去の話、と来れば次はもちろん未来もの(笑) ファン待望久しい(?)本格的な文明論風のサイエンス・フィクションだ! 山田正紀氏が『神狩り2』を書かれるご時世だし、テーマは「神」だね。
題:261話 栄える遠別21 画:ねじ回し 話:内地にとって北海道とはあの程度のものなのです
「愛国心よりも愛郷心」と言い放つ「北海道人」志郎の熱弁がつづく。 “ナショナリズム”の定義の議論。「外地」に在る神社の収まり悪さ。 「この地に忠誠を誓わせましょう」 危険な領域に踏み込む兄弟の情熱。
今日のくだり、個人的に格別に胸が騒ぐ。当然、BGMはU2ね(笑) 書きたいことは沢山あるけど眠れなくなると困るので止めときます(^^) 佳境に入る「静かな大地」、御大がどこまで踏み込んでくれるか期待♪
題:260話 栄える遠別20 画:蝶番 話:初秋の日射しが樹冠から下生えの草の上にきらきらと注いで美しい
だんだん暖かくなっていく。去年アテネで買った生成りのコットンの服を、 先日自分で染料を買ってきて風呂場で染めた。色は当然、スカイブルー♪
きょうは啓蟄だという。季節感なんて緯度や気候でまるっきり違ってしまう。 まだ北海道に在住していたころ、トウキョウに3ヶ月以上の長期出張をして そのあとの休暇をオキナワで過ごした、ということがあった。その年の僕は、 図らずも大好きな秋を追いかけて南下しつづけ、ずっと同じような気候の中 に身を置いていた。24℃の竹富島で思ったのは、札幌へ帰ったら真っ白な 雪の世界だな…ということだったけれど。北海道で24℃の空気に身を置く には、あと何ヶ月待てば良いのだろう、そんなことを考えたのを覚えている。
北海道の近代史は、北洋漁業の歴史でも炭坑の歴史でもある、しかし何より コメを作ることへの挑戦の歴史だったのではないか。品種改良、作付け方法 の工夫、 道具の開発…、内地とは異なる、稲にとっては厳しい条件の数々を 克服して、静かな大地をコメの産地に変える壮大なプロジェクト。食糧増産 の流れの中で、後に「減反」が行われる前の時期にはきっと現在よりもっと 沢山のコメが作られたのだろう。全道に数多ある、日本各地からの移民たち が作ったムラには、星の数ほどの篤農家たちが居て、農業試験所あたりでは 「プロジェクトX」ばりの努力と挫折と試行錯誤と歓喜があったのだろう。
それを現在の視点から否定することは出来まい。アフガニスタンでブルカを 着ける女性の選択を蔑ろに出来ないように、蝦夷が島でコメを育てることを 選んだ人々の選択を、文化を、人生を蔑ろにすることも出来まい。それとも コメは戦争に携行することの出来る軍需物資であり、それを増産させる国策 に従って稲の生育に不適な土地での米作を強いられた可哀相な人々…とでも 見るのか。そこに“被害者”が居るとしたら、鮭を捕ることさえ禁じられて 自らの選択を、文化を、人生を蔑ろにされた人々、それだけは確かだろう。
静かな大地と空に見合う暮らし方、そのエレガントな解もきっとあるはずだ。 三郎や志郎が幻視する“ユートピア”は、いまだって未来圏の風の中に在る。
もうすぐ春。桜の咲く道を散歩したりする、温帯の春の至福を噛みしめよう。 そして熱帯にも寒帯にも至福があることを想おう。もちろん、空色の上着で。
2002年03月05日(火) |
サステイナブルな北海道 |
題:259話 栄える遠別19 画:桜貝 話:その時に、おまえは北海道共和国のことを考えているのか
馬鈴薯の地、北海道の独立論。さまざまな思惑と経緯の中で、そういう近代史を われわれが見ることはなかった。何も行政的に独立国家となる、ということだけ に留まらず、もっと“資源収奪型”ではない形での静かな大地とのつきあい方が あり得たのではないのかという嘆きは、歴史上の多くの人々の声なき声だろう。
近代の産業国家とは多かれ少なかれ「利権構造の集積体」みたいなものである。 それをもっとスマートにやる術はなかったか?いわば“サステイナブルな近代” とでも呼べるものはあり得たのか、否か?ま、“近代”と言った時点で圧倒的な 非対称を表象している。そこに“サステイナブル”をつけるのも、悪い冗談か。
ものごとの道理をつまびらかにしながら、世の中をうまく取り運んでいく智恵。 三郎が少年時代に得た野心、即ち技術を以て静かな大地を豊饒の地に変える志。
榎本卿→北海道共和国という流れは、『武揚伝』なくしては無前提に語ることの できない「史観」で、榎本武揚を“過激な共和主義者”として描く、というのは 佐々木譲さんの強い主張を伴う「選択」である。これを正史へのマイナーな脚注 に終わらせてはイケナイ。われわれにとって近代とは何であったかを問う争点だ。
単なる反発や反動ではない、強靱な思考に裏打ちされた物語を立ち上げるには、 場所=地霊の力も必要だ。道東に仕事場を構えていらっしゃることが佐々木さん の創作にどのような力を及ぼしているのか、具体的には知る由もないが、サイト で書かれている日記では、狂牛病についても牛乳についても冬季五輪についても、 選出選挙区の代議士である渦中のS氏についても、当地在住ならではの視点から コメントされていて興味深く、日々そうした空気を“産直”してもらえて心強い。 新書で予定されているという、馬を飼う北海道ライフの本、とても楽しみです♪ ■HP佐々木譲資料館 http://www.d1.dion.ne.jp/~daddy_jo/
言わずもがなもいいところだが、御大にしてもオキナワに移住されたからこそ、 その余勢を駆って北海道というライフワークに手をつけることにされたのだろう。 「周縁」に住むことは、情報としてではなく、あからさまに事実に触れることだ。 “キレイ事”を並べて良し、と出来なくなる替わりに、背中を押してくれもする。
物理的に日本地図の「周縁」に住むことばかりではない。世間の「周縁」を知り、 そこから手ざわりのある物語を立ち上げる語り部もいる。半村良氏がそうだった。
つい先日、立春の日にもここで触れた『妖星伝』は、僕が今までで最も夢中で読み 耽った本。あれだけラディカルな「生命論」に踏み込んだ本は、そうないだろう。 生と死を見定めながら「嘘」を紡ぎつづけた語り部に深い哀悼と敬意を捧げたい。
題:255話 栄える遠別15 画:鑿 話:恩が巡り巡ってやがて仇になったりする
≪あらすじ≫明治初期、淡路島から北海道の静内に入植した宗形三郎 は弟志郎や信頼するアイヌと協力しながら牧場を開く。三郎はアイヌ に育てられた雪乃と、志郎は函館から連れてきた弥生と、それぞれ 結婚。牧場の経営も順調だった。鮭の孵化場も試みるが、周囲の理解 を得られず閉鎖した。
題:256話 栄える遠別16 画:ねじ釘 話:だから三郎さんもお米を作っているのね
題:257話 栄える遠別17 画:巻き貝 話:なにもわざわざ北海道で米を、というわけさ
題:258話 栄える遠別18 画:レコード針 話:ならば榎本卿なしでやりましょう
もしかしたら僕がもっとも春を感じるF1開幕。新しいカラーリングのマシン、 去年までとは違うチームのユニフォームに身を包んだドライバーたちの顔ぶれ。 もう10年以上見ていると、全員のデビュー時からの軌跡を知っているわけだ。 今年はジャン・アレジが不在。それでも観るのは佐藤琢磨のデビューが大きい。
雨中を疾駆する佐藤琢麿の黄色いマシンに、かつての中島悟の最高位4位を想起。 あれも豪州だった。琢磨はイチローやナカタを思わせる、否それ以上に世界標準 なタイプの日本人だという印象を振りまいている。合理的な行動様式から喋り方 に至るまで、なんとなくこの三人は似ている。幸い日本のプレスがF1の琢磨を 追い回す心配はないだろうから、彼がマスコミ嫌いになることはないだろうけど。
F1の本質は時間に在る、と思う。サーキットでの1000分の1秒単位の争い をしているからだけではない。テクノロジーの最前線がジリジリと漸進するのを 目に見えるデザインで見せてくれるからだ。未来と過去との狭間に在る時の断面。 数年前に地上最速を表象していたはずの流線型のデザインが、レトロな印象さえ 抱かせるほどに、エアロダイナミクスは進歩を続ける。どこへ行き着くともなく。
ドイツのニュルブルクリンクで実際にグランプリを観たことがある。まず圧倒的 なエンジン音に驚く。そして驚くべき加速、あれはテレビに映らない。ロックの コンサートを観ているような身体的興奮に包まれる。コースは目眩く色彩の乱舞。
観戦の前夜の宿泊地は、カール大帝が建てたフランク王国の古都アーヘンだった。 ゲルマンの土俗を覗かせる古い石の聖堂のアルカイックな佇まいとF1との距離。 しかし、なぜか、F1は音楽で言えばロックよりもクラシックのイメージなのだ。 きっとF1がとことん“ポリフォニック”なモータースポーツであることの至福。 自動車には、20世紀の欧州の未来派的な欲望のカタチが、脈々と息づいている。
広義のテクノロジーに夢をかけること、それが人の歓びであることに違いはない。 そのことを忘れずに時の断面を何度でも見つめ返して、世界の軌跡を見定めよう。
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