「静かな大地」を遠く離れて
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2002年02月28日(木) 音を視る人

題:253話 栄える遠別13
画:釘
話:今でもうちの馬は酔った旦那様を乗せて遠別から帰ってきますから

題:254話 栄える遠別14
画:金槌
話:馬と一緒に働いて、馬と一緒に寝たと

如月も終わり。北半球の温帯の春は、もうすぐそこ。北海道ではまだ先だけど。
雪がみたいなぁ。去年の暮れに盛岡と花巻で見たのと、トウキョウで粉雪が少し
降ったのを見たくらい。不満。つまるところ札幌に行けてないのが物足りない。
北海道が本格的に春を迎えるのは、実際のところゴールデンウィークのころだ。
それまでの間に馬の国・日高も含めて北海道を訪れたいものだ、と思いつつ…。

相変わらず夜にこの日録を書くとき、グールドのゴールトベルクと並んでよく
聴いている長根あきさんのCD『モノラー』について、田原プロデューサーが
日記で触れていらした『CDジャーナル』誌2002年3月号掲載の湯浅学さんに
よるレビューがなかなか興味深いので下に引用します。

 飛び跳ねる雨滴のようでもあり樹々のこすれ合う様や風の響きを描き出して
 いるようにも思えるムックリ(口琴)の音には耳にやさしいひずみがある。
 それがとても愛らしい。演奏者の肉体の共鳴がそこに現れているからだろう。
 モリンホールやホーミー、パーカッションの助演もムックリとの共振がテーマ
 になっているようで抑制の効いた好演である。自然音や風景を音で模すのでは
 なく、自らが木や草や大気に溶け合う試みの記録のようでもある。作為的な
 メロディなどここには必要ない。この淡い色彩にひたればよい。無理に自然を
 賛美するような歌とは正反対の大地と向き合い時に対決することも厭わない覚
 悟さえ感じられる。糸が引かれる音のアタック感が刺激的でたゆたう倍音が頭
 の中を飛びまわる快感を強化する。3種の口琴によるアンサンブルは電子音楽
 にも似ている。心の奥をノックされているようでもあり耳をくすぐられている
 ようでもある好盤。

そうそう、「電子音楽にも似ている」というのは思い当たる。音とはつまり振動
であり、フーリエ解析とか何だかわからないけどそういう世界で(<笑)原初的
なムックリの響きと、これまた「原初的」だった僕らが聴いて育った“電子音楽”
の振動感覚は意外と意外でもなく、似ている。『モノラー』を聴いていて、僕が
連想したのは、坂本龍一の1978年の最初のCD『千のナイフ』だったのだし。
両者に通じるのは、脳のある部分をツボ押しされるようなビョンビョン音の連打。

なぜ気持ちいいのかわからない、気持ちいいことに意味があるかないかなんて、
もはやどうでもいい、という一種の頽廃。これは、普通に音楽を聞いて心地よい
という状態とは意識としては違う。音楽という「制度」というか、スタイルの枠
を取っ払ったところにある、響き、振動としての音そのものと身体とが共鳴する、
そこではそれを能動的に「音楽鑑賞」しているはずの主体たる私が、その玉座を
みじめに追われ、ひたすら“音”の支配下で、なすがままの状態になっている。

どうもムックリに限らず、倍音系の作品群には、一見“なごみ系”なルックスで
近づく癖に、そういうラディカルなところがあるような気がする。油断ならない。
だいたい倍音アーティストの急先鋒タルバガンの二人はもともと理系の研究者だ。
思えば最近は『非戦』な坂本龍一@世界のサカモト氏が、ある時、大橋巨泉風に
営業テレビ出演目的「来日」したときに『SMAP×SMAP』に出演して、自前の
口琴を持ち込んでトークの最中にビョンビョンしていたぞ、ってなこともあった。
うーむ、倍音系は、あなどれない、そしておもしろい。誰かなんか書いて(笑)
一番解きたい謎というか、実態を知りたいネタは「江戸でムックリ大流行」ね♪

ジャケットも素敵な長根あきさんのCD『モノラー』のお問い合わせは↓こちら。
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2002年02月26日(火) 文脈クロニクル

題:251話 栄える遠別11
画:硬貨
話:しかし、北海道全体では孵化事業は着実に伸びていった

題:252話 栄える遠別12
画:栄螺の蓋
話:いや、むしろ潔いのだろう

日本の過去の時代を、どう物語的文脈をつけて受容するか、ということに関して
今の日本の多くの人々が、ひどくナイーブなのではないか、と思い続けている。
「静かな大地」は、御大がご自分の家系の一つの流れを核にしながら、北海道、
ひいては近代日本の“所業”に対する、自分なりの文脈を探りつつある小説だ。
こういう試みが上手く結実して有無を言わせぬ力を発してくれると良いのだが。

とりあえずマス・イメージにおいて、よく知られていることになっている時代に
いわゆる「戦国時代」と「幕末」がある。時代を遡れば「平家物語」「太平記」
の時代も、もっとポピュラーだったのだろうけど。他のマイナーな時代に大変な
ことが無かったわけではない。蒙古襲来の時代も壬申の乱や平安遷都の時代も、
“激動”と呼ぶにふさわしい事件が頻発した興味深い時代は、山のようにある。

にもかかわらず、ある時期に特定の時代がポピュラーになって、スタンダードな
歴史意識にまでなっているかのようにとらえられる。それも、ある強力な磁場を
形成して、その文脈に沿わない事件や人物を捨象してしまう。これに抵抗するの
には、極めて高度で強い物語力を要する。例えば佐々木譲さんの『武揚伝』など
を思い浮かべていただければ、そういう仕事の凄さと難しさがよく分かるだろう。

だいたい「戦国時代」と呼ばれている年表上の時代を「戦国時代」と呼ぶことが
既に、ある文脈への依拠を無条件で受け入れていることがまず問題の核心かも。
「幕末」とくれば“日本の夜明け”だという大前提を、呼称自体が含んでいる。
そうした認識が流布したこと自体が、歴史的には極々最近のことだったりする、
というのは容易に想像が着く話。司馬遼太郎氏が果たした役割も大きいはずだ。

信長も坂本龍馬も、今日のポピュラリティを得たのは最近の話で、時代が違えば
評価は大きく異なり、下手をすると誰にも名前さえ知られていないかもしれない。
反対に、今われわれが聞いたこともないような人物の名が、歴史上の偉大な人物
として取り上げられているというのは、実にあり得る話である。『武揚伝』の力
で別の文脈の見えかけた「幕末」のほうに、「戦国」よりも面白味を感じている。

とはいえ「戦国時代」って一体なにが面白かったんだっけ?…という疑問を解消
する糸口になるような本は在る。僕の趣味で言えば、隆慶一郎『影武者徳川家康』
半村良『産霊山秘録』のような伝奇ロマン色の強いものを、先にまず司馬遼太郎
が書いた同時代を扱った作品を「スタンダード」として読んでおいた後に読むと
なかなかに味わい深い。両方の面白さが相乗効果をなして、立体的に見えてくる。

本を読む快楽、ということでは、こうした時代小説の読み方に勝る体験は、そうは
ない。そうは思いつつも、時間の贅沢さの問題として、なかなか実行には至らない。
この際、長年の宿題になっていて、いい加減片づけたいと思っている作品群を一気
に読み耽ることが出来ないか、と目論んでいる。遠藤周作『反逆』(講談社文庫)
藤沢周平『密謀』(新潮文庫)、安部龍太郎『関ヶ原連判状』(新潮文庫)、
白石一郎『航海者』(幻冬舎文庫)、半村良『講談 大久保長安』(光文社文庫)。

しかし依然として、あの時代の物語化よりも、あるいは「幕末」よりも関心が深い
のは、昭和史だったりする。文脈の見つけ難さも格別だが…。今日は2月26日。
荒唐無稽でもなんでも文脈をつけるというのは力業で、荒俣御大の『帝都物語』は
狭義の小説としてはともかく、その意味では第一級の成果なのだ。続編が楽しみ。


2002年02月24日(日) 歳月のリアリティ

題:250話 栄える遠別10
画:帯留め
話:その成果は四年後に現れる

海へ出て育って、産まれた川へ戻ってくる魚、サケの孵化放流事始めの話の続き。
無数の卵から極一部の個体が生き延びて、それが故郷の川を上ってまた卵を産む。
生命の連鎖の、危ういようでいて力強いつながり方を、あたかも神様が“絵解き”
したかのような不思議な生態だ。正に神の魚=カムイチェプの名にふさわしい。

ヒトとて同じ摂理の下に生命をつないでいる生き物である。星野道夫が繰り返し、
角度を変えながら自らの身体で確かめ、つむぎ出した「物語」は、それだった。

歳月の経過は、絵空事ではない。不可逆な時間は、そこに在る。数年間の歳月は、
人を取り巻く環境を変える。死にゆく人もあれば見違えるほどに育つ子供もいる。
今日は、個人の人生のスケールと時間の経過というものについて考えさせられる
お芝居を観てきた。

■南果歩 一人芝居「幻の光」(シアタートラム)

原作は、よく知られた宮本輝氏の短編だ。是枝裕和氏の手で映画にもなっている。
この芝居は、その短編を“原作”にして一人芝居の戯曲にした、というものでは
なく、語りのスタイルで書かれている短編小説そのものを、南果歩さんが頭から
おしまいまでまるごと記憶し、演じるというもの。96年が初演で、今回は再演。

6年ぶり、パンフレットの彼女自身の言葉に拠れば、「5年3ヶ月ぶり」という
スパンは役者さんにとって、そして観客にとって、あるいは日本にとって、一体
どんな歳月だったのだろうか。そんな想いを抱かずにいられない時間の長さだ。

初演から「5年3ヶ月ぶり」に観る「幻の光」は南果歩さんの演技の熟成の結果
なのか、観客である僕の側の歳月の経過による人生経験のせいなのか、深く濃密
な質量を伴って味わうことが出来た。本物の役者さんの語りの威力はすごいもの
で、とりわけ南果歩さんは、尼崎弁のイントネーションと、その声が素晴らしい。
演技も流石に巧くて、映像でも舞台でも、演出家に信頼される役者さんだろう。
僕を舞台演劇に近づけた女優さんだと言って間違いないくらいに、彼女が好きだ。

「幻の光」は、宮本輝という作家の“存在意義”を煮詰めたような名篇だと思う。
尼崎と能登半島というトポスの軸も巧いし魅力的だ。宮本輝氏の小説は、沢山の
固定ファンを持っている。ある切実さを持って、彼の作品を読まずにいられない
心持ちの時が、僕にも時々訪れる。言ってみれば「魂の常備薬」のような作家だ。
知的に楽しむとか感覚的に愉しむとかいうよりも、深い部分に“効く”小説。

言ってみれば「泥の川」の頃に仕込んだ自慢の“出汁”を薄めながら種を変えて
グツグツ煮込んで、いつもの味を食わせてくれる、おでんやさんみたいな存在。
池澤御大も『真昼のプリニウス』や『タマリンドの木』の“変奏曲”を、ネタを
変えながら10年くらいコンスタントに出し続ければ、20代〜30代の女性の
“魂の常備薬”作家になれたかもしれない。それを望んだファンも多いだろう。
そのへんの機微は、今度『Switch』から出るインタビュー集で復習できるはず。

歳月は必ずしも敵ではない、そして味方とも限らない。でも間違いなくリアルだ。


2002年02月23日(土) イノセンス,デカダンス,エレガンス

題:249話 栄える遠別9
画:バックル
話:大地から涌いたばかりの水には汚れはない

イノセントな水。「自助論」を旨とする米国帰りのサケ孵化技術者・伊藤の自然認識。
若いアメリカ直輸入の清新なプロテスタント精神と、開拓期の北海道との相性の良さ。

まず先日の「演劇アンタッチャブル」に対して頂戴したメールにお応えしておきます。

***************************************
 21日の日録の「厚生労働省は朗読と芝居を禁止せよ!(笑)」というのは、
 中教審が文部科学省に提出した下記答申と呼応しているのでしょうか(爆)

 「国語教育を格段に充実する必要がある。その際,名文や詩歌等の素読や暗唱,
  朗読など,言葉のリズムや美しさを体で覚えさせるような指導の良さを見直す
  べきである。」
  http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/001/020201/0
20201ca.htm#05
***************************************

…ハハハ、「中教審」の答申なんてニュース、僕が知るわけないじゃないですか?(^^;
日本のいわゆる「教育問題」に関しては、自分が“教育される側”の頃、すでに考察を
終えております。すなわち、小室直樹先生が正しい!『偏差値が日本を滅ぼす』(笑)

かれこれ20年近く前の本になるでしょうか、日本社会は現在、あの頃に小室直樹御大
が予言していたとおり、急性(アキュート)アノミーが猖獗を極め病膏肓に入っている。
権威が崩壊し、規範が失われた社会を“掛け声”や“気合い”で立て直すことは不可能、
素読暗誦という名の「呪文」朗唱と呼吸法を強いる(<公教育でやるのならば)ことで
若い世代の中の「生きる力」が希薄な迷える子羊たちが救済されるならば、1995年
の上九一色村には、まごうことなき「救済」が実現していたはずではなかったか?(爆)

…というわけで、80年代世代の脆弱な精神から見ると、朗読カリキュラム化はどうも
いただけない。個人がゆるいサバイバルとして能動的にメソッドを取り入れる、という
のなら“いただける”という志向パターンも、それはそれで随分と紋切り型だけれど。
なんてコラムを山崎浩一さんあたりに書いてもらいつつ『別冊宝島 わかりたいあなた
のための 朗読トレーニング入門』ってなタイトルの本を出してもらえば転向したり(^^;
朗読の「有用性」の主唱者であり『声に出して読みたい日本語』の著者・齋藤孝氏は、
まさに私塾=寺子屋方式で成果を上げておられるようだし、それはそれでいいことだ。

今夜のテーマは「神は自ら助ける者を助けてくださる」という、ピカピカの「自助論」。
その確信のもとに、鮭の孵化放流事業という「自然改変」を行う若者たちのイノセンス。
米国仕込みの自然認識と技術で支えるユートピア=遠別は、どんな行く末を辿るのか?
星新一が実父で星製薬の創業者である星一の青春を描いた『明治・父・アメリカ』と、
その続編である『官吏は強し、人民は弱し』(ともに新潮文庫)を読めば、事態の推移
そのものは予測がつくだろう。そこに御大がどんな“文学”を持ってきてくれるか…?

なんだかんだ言ってるうちに2月も終わろうとしている。「地獄の黙示録」も見たいし
小沢健二@N.Yの復活の新譜ももうすぐ出るし、身辺も何かとあわただしかったりする。
12月に「吹雪の音楽」でディープに書いたキャラメルボックスももうすぐ次の公演だ。

■演劇集団キャラメルボックス2002春公演・第1弾「アンフォゲッタブル」
 …とくれば「ファイア」と続けたくなるのは、U2ファンならしょうがないところ(^^)
 この連想、成井豊さんの前口上を読むとあながち外れてなかったりするみたいです。
 http://www.caramelbox.com/
 主人公は「探している。自分の場所を。何度傷ついても、諦めずに。」ということで、
 これって“I still haven't found what I'm looking for”ってことじゃないかな。
 今回のキャラメル、久しぶりのSF設定の活劇になるようで、主演は大内厚雄君と
 いう期待のキャスティング。2月28日から新宿シアターアップルではじまります。

さてさて、『Favorite AYAKO kawahara 川原亜矢子写真集』(講談社)をもう一度
眺めて眠ろう。女優さんの写真集を買うことなんてないんだけど、この方のは別次元(^^)
フォトジェニックなのは死ぬほど当たり前なんだけど、なんというか漂うエレガンスが
見ている者の心までサラサラと心地よくさせてくれるようなショットが沢山あります。
ま、もちろん名コンビの“彼女”との「黄金のツー・ショット」も幸福度が高いです♪

あ、先日予告(?)した南果歩さんの一人芝居「幻の光」、明日観劇の予定に変更(^^;
というわけで、本日のキーワードは“ひとりで立つ潔さ、そして美しさ”でした。
 


2002年02月22日(金) 極私的・新世紀の探し方

題:248話 栄える遠別8
画:布巾
話:それに適う湧水が見つかったのが烏柵舞であった

鮭は美味い。すごく美味い。鮭が食べたい。
塩鮭の切り身も悪くないけれど、アイルランドでは何度もレモンバターソースの
ソテーを食べた。アラン島でも食べた。とても美味かった。北海道のトバもいい。
塩をして天日干しした鮭も、切るときれいなサーモンピンクで(<そりゃそうか)
食べると生ハムみたいな芳醇な味わいがある。美味い。カムイチェプ=神の魚。

きょう気になったのは“烏柵舞”という地名。“ウサクマイ”と読む。
何年も前からウサクマイというのは一体どこにあるんだろう?と心に懸けて来た。
支笏湖の近くだとは知っていたけれど、実際に訪れたことはないはずだ。いつか
行ってみたいと思っていた場所だった。漢字表記が烏柵舞だとも、初めて知った。

僕がウサクマイという地名を知ったのは、「キツネのチャランケ」という民話の
舞台として。御大の『母なる自然のおっぱい』(新潮文庫)所収の「狩猟民の心」
の中で、サマリーが紹介されている。チャランケは英語で言えば正にディベイト、
と御大も書いている通り。川の鮭を獲るのを人間に禁じられそうになったキツネ
が神様に異議申し立てする、というハーグ国際司法裁判所のような(?)お話だ。

コトバによる包囲網。道義なき強者に対する弱者の戦い方。

去年の秋、僕はいつもの癖でくだらない屁理屈を唱えて「非戦」系の人の顰蹙を
買うのを趣味としていた。いわく、アメリカの空爆を本当に止めたい、と責任を
持って言おうとするならばやり方は皆無ではない、考え得る限りの味方を募って
対米宣戦布告をするのがよろしい、あわよくば東海岸を分割占領してワシントン
DCを陥とそう、そしてブッシュ政権はおろか米国連邦政府をも解体して直ちに
地球連邦政府の発足を宣言するべし、ブレアは無理でもプーチン、うまくすれば
シラクあたりは乗ってくるぞ、あるいはアル・ゴアを擁し傀儡政権を作るか…?

世界の警察を気取るのは結構だが、絶対権力ほど腐敗しやすいものはないという
のはあまりにも当然の法則だ。ケイサツとヤ*ザは、裏世界では紙一重みたいな。
米国が育てたテロ集団が結果的に仇をなしたと言っては、またその頭をたたく。
この巨大な権力に抗することができるのは…なんだろう?20世紀のおとぎ話、
万国の労働者が団結したインターナショナルな組織による世界革命でもあるまい。

まったくもって“私たちは今どこにいるのか”、それを知ることからして難題だ。
確かに難題だけれども、不可能だとは言ってしまいたくないし、思ってもいない。


2002年02月21日(木) 演劇アンタッチャブル

題:246話 栄える遠別6
画:レース編み
話:栄えるところに妬みはついてまわるものだ

題:247話 栄える遠別7
画:飾りボタン
話:馬の心などはいつになってもきれいなものなのだが

巽先生の新刊がやっと入手できたので、“フィクションとしてのアメリカ”という切り口で
書こうと思ったけれど、ま、未読でもあり、読み出すとまた面白くて騒ぐと思うので今夜は
紹介に留める。なお、これは『ユリイカ』誌に連載された「<南北>の創生」をベースに、
徹底的に加筆訂正し、終章「モビィ・ディックの世紀」を加えたもの。『ユリイカ』の巻頭
連載と言えば、かつて超英文学魔・高山宏師が『ふたつの世紀末』としてまとめられた連載
「ぱらふえなりあ」を書いた枠でもありますな。

■巽孝之『リンカーンの世紀 アメリカ大統領たちの文学思想史』(青土社)
(帯惹句より)
 その瞬間、世界は劇場と化した
 すべては1世紀半前、当代の名優が観劇中のリンカーンに向け放った銃弾から始まった。
 演劇的想像力が世を覆い、大統領暗殺は、アメリカのみならず、世界全体へのテロリズム
 となるだろう。20世紀前半の再評価を経て、いま新たなるリンカーンの世紀が始まる。
(あとがきより引用)
 かくして、時代が再びリンカーンを中核とする演劇的想像力の方向へ回帰していくのを
 うすうす予感していた矢先、二〇〇一年九月十一日にはニューヨークとワシントンDC
 の国家的中枢を襲う同時多発テロが起こり、予感は確信に変わってしまった。十九世紀
 中葉、いまだ元首という頭脳と国家という身体から成る政治的主体が信じられた時代で
 あれば大統領個人の脳髄を狙ったであろう凶器が、二十一世紀初頭、指導的個人を高度
 情報ネットークそのものが上回り、それ自体が国家的営為と化してしまった時代には、
 実質的に政治経済軍事を司る構造そのものに向かって放たれる。だから、ブッシュ大統
 領が「これは戦争だ」と宣言した瞬間、わたしは知らず知らずのうちにこう言い換えて
 いたーー「これこそ暗殺だ」と。
(引用おわり 巽ゼミ公式HP http://www.mita.keio.ac.jp/~tatsumi/)

17世紀オランダでも18世紀英国でもなく、19世紀アメリカこそは、グローバリズム
という妖怪に姿を変えて、21世紀に入った現在なお我々を取り巻くリアリティである。
とりわけ19世紀半ばすぎの日本の歴史的運命を左右した南北内戦=シビル・ウォーの
時代、すなわちメルヴィル『白鯨』の時代に“演劇的想像力”という面からアプローチを
仕掛ける(らしい<なんせ未読ゆえ(^^;)本書は、2000年の秋に“予感”を胸にして
生まれて初めてアメリカを訪ねた僕の「宿題」を片づけるための力強い味方になりそう。

それはそうと…、今日は“演劇的想像力”というものが、とことん体験的、いや肉体的な
ものであり、台詞の威力の驚異を味わわされた夜であったことをぜひ書き添えておきたい。
観たのはこちら↓。

■自転車キンクリートSTORE公演「OUT」(PARCO劇場)
 原作・桐野夏生、脚本・飯島早苗、演出・鈴木裕美

平日のソワレ、今日はなんとか観に行けると思っていたのに仕事が予想外の運動会状態(^^;
こぼれたフォローは明日するつもりでどうにか走り抜けて劇場に駆けつけた。原作ありの
作品で上演時間が長いとは聞いていたのだが、一瞬の弛みもなく最後まで観せられた感じ。
長い原作を処理するためか、登場人物が劇中の随所でモノローグに入るの作りなのだが、
圧巻はラスト、主演の久世星佳さんと千葉哲也さんの二人が舞台に並び立ってはじまった
息をもつかせぬ“二人語り”。クライマックスの立ち回りが、逆に“語り”で描写される
ことで、本を読むのとも、アクションで観るのとも違う、深い浸透度を実現していたのだ。

役者という生き物の獰猛さ。台詞というものは素人が軽々と触ることのできない禍々しい
までの威力が備わっているのだ、と空恐ろしくなった。物語のテーマの現代性とか描写の
巧拙とか、そういうものも大事かもしれないが、今夜はそんなことはブッ飛んでしまった。
特に千葉哲也氏の実力には感嘆。今後、彼の舞台には何を於いても駆けつけたい思いだ。
決して叫んでいるわけではない、つぶやくように喋っている台詞がどうして届くのだろう?

ここでは朗読とか、演劇的メソッドとかの効用を面白がって称揚してきた感があるけれど、
あれは半ば冗談というかアイロニーがこもっているのだ。素人が触るのが危険な領域かも。
大体、台詞を喋るというのはトランス状態になる巫女のようなものだから、大した準備も
なくやってはイケナイ秘儀の世界ではないか。そう、朗読や台詞は「取り扱い危険物」だ!

天才でもない限り、「専門家」の指導を受けた鍛錬を行ってから触るべきものだと思う。
戯れ言としてならともかく、本気で扱うなら「演劇リテラシー」の底上げを100年でも
かけて行うべきだろう。僕はここに提唱する。厚生労働省は朗読と芝居を禁止せよ!(笑)
そのときこそ、地下活動として行われる演劇は、目眩く危険な快楽の世界となるだろう。

さて土曜日は南果歩さんの一人芝居、驚異の小説まるごと上演の「幻の光」を見に行く。
変に影響されて深夜に台詞を絶叫したり、ぶつぶつ呟いたりしないように気をつけよう。
野田秀樹さんの「キル」初演を観た時のように(^^;


2002年02月19日(火) 死の位相学

題:245話 栄える遠別5
画:目打ち
話:なぜこの土地を開くことをアイヌと共に始めたのだ

御大、カギ括弧無しのダイアローグに凝ってますね、っていうか「栄える遠別」
って語りの枠組みがわからないけど、この章も由良さんの手記なんだっけ?(^^;

この頁で早い段階から無前提に“三郎のユートピア”とか言い続けてきたけど、
実は「遠別だけがカムイモシリのようなのだ」という叙述が在った今日を以て
その無前提も解消。そうなのだ。推理小説の古典、中井紀夫『虚無への供物』
でも和人とアイヌの逆縁に拠る呪いが、氷沼家の連続殺人の端緒のフェイクと
して使われている。それがフェイクにもなりうるくらいには、そしてアイヌの
民族衣装を着た「犯人」を戦後の首都に幻視しうる程度には、その逆縁はこの
国に住む人々にとってリアルだったのだ。三郎たちの場所は“どこにもない”。

洞爺丸事件や太平洋戦争の大量死による「死」のインフレ、「植民地」の呪い、
それと首都のお屋敷。ご丁寧にも目白と雑司ヶ谷の間あたりの界隈にロケイト
された洋館を舞台にした殺人事件。推理小説が「場所」、空間への考察として
優れたものたりうることを、この古典は示している。そんなことを考えたのは
掉尾を『虚無への供物』への言及で締めた編みおろし文庫を手にとったためか。

■高山宏『殺す・集める・読む 推理小説特殊講義』(創元ライブラリ)
 ホームズ冒険譚を世紀末社会に蔓延する死と倦怠への悪魔祓い装置
 として読む「殺す・集める・読む」、マザー・グース殺人の苛酷な
 形式性に一九二〇〜四〇年代の世界崩壊の危機を重ね合わせる
 「終末の鳥獣戯画」他、近代が生んだ発明品<推理小説>を文化史的
 視点から読み解く、奇想天外、知的スリルに満ちた画期的ミステリ論。

ここでも何度となく触れてきた高山宏御大の初の文庫本である。著者存命中に
文庫が出るとは思っていなかったので、書店で見たときはちょっと驚いた(笑)
早速「出典一覧」をフムフムとみる。知ってるといえば知ってる文章ばかりだ。
でも「いずれも大幅な加筆を施しています」とある。おまけに著者自身による
文庫版あとがきとしての「この本は、きみが解く事件」が、よく書けている。
ダウンサイジングしてプライスダウンした(<でも文庫で千円だけど)高山本。

これは超おトクだ。で、一言。この本は、何故この世に推理小説なんてものが
存在するのだろう?…ってなことを考えてしまう人にこそオススメしたいかも。
僕だってそうだし。元のネタになってる本なんて、まったく読んでなくていい。
全体として「近代という凶事」の色鮮やかな模様が浮かび上がってくるだろう。

“三郎のユートピア”という孤島を取り囲む海は、どんな色合いなのだろうか。
「由良の視るハレー」は高山宏『ふたつの世紀末』(青土社)から着想を得た。
#ちなみに御大の『ブッキッシュな世界像』で↑この本の面白さは認定済み(^^)


2002年02月18日(月) 気配を掬う手業

題:242話 栄える遠別2
画:ルーレット
話:これから馬はいくらでも売れる、とシトナは言った

題:243話 栄える遠別3
画:チャコ
話:馬とて世間から逃れる術はないさ

題:244話 栄える遠別4
画:かけはり
話:おまえたちはアイヌにだまされていると仰られても、肯うわけにはいかん

馬牧場の情景がいい。当歳馬が草を喰むのを眺めつつ話す、志郎とオシアンクル。
「どこかで蜂の羽音がする」というフレーズが効いている。春から夏にかけての
牧場地帯のなんともいえない時間の流れかたを、身体ごと思い出すことができる。
「高い空で雲雀が鳴いていた」 も同じく。思わず雲を眺めて「平和だねぇ〜」と
つぶやきたくなるのは 『ルパン三世 カリオストロの城』の冒頭の引用だったり。

純白のウェディング・ドレスのクラリスが駆るシトロエン2CVを追いかけて、
絵に描いたような悪者が乗った黒塗りの車が駆け抜ける。平和はもはや破られた、
「どっちに着く?」「オンナァ!」「だろうな」で、フィアットが快音をあげて
走り出す。ジャズ・アレンジのテーマに乗せてアニメ史上に残るカー・チェイス
のはじまりだ。アニマを吹き込むこと、その原初的な快感への狂気じみた執着。

「あのそわそわしたのが意を決して歩き出すと、みなも付いて移動する」という
部分を読んでいて、今度は古井由吉さんの「先導獣の話」という短編を思い出す。
講談社文芸文庫 から、わりと最近出ている『木犀の日 古井由吉自選短編集』の
冒頭に収められているので手に取りやすいと思う。この方の景色を聞き分ける力、
そして叙述の密度。読者に読むという行為の真剣勝負を強いる作家さんである。

古井由吉と宮崎駿。スゴイ取り合わせだけど、意外になにか通じるものがある。
動きに転じる寸前の世界が孕む一瞬の狂気。それを掬い取る、細密な描写の力。
若い世代に追随者を見つけることができない一代芸のようなところも似ている。
幼少期に空襲を受けて育った人たちにはかなわない。彼らが世界を視る、その力
たるや、その覚悟たるや…、と思いかけて世代の問題でもあるまいと思い直す。

「静かな大地」が孕む気配、この先どんな奔流となって大地を覆うのだろうか。




2002年02月15日(金) 祝祭ストイック

題:241話 栄える遠別1
画:鋏
話:鱈場蟹一匹をまず全部ほぐして、身を鉢に盛り上げて、それから一気に食うんだ

欲深いんだかストイックなんだか、よくわからない性格のカリスマ三郎(笑)
これって準備段階にたっぷり時間をかける、一種の過剰ー蕩尽理論なのか?
ジョルジュ・バタイユというか栗本慎一郎@『パンツをはいたサル』の世界。
ユートピアというのは「時間」の中に存在するものなのだろう。

ソルトレイクシティーで冬季オリンピック の祝祭時間を生きている選手たち
もまた、ストイックで欲深い人たちである。先日佐々木譲さんが、里谷多英選手の膝
に感動していらした。北海道で身体を動かしている人たちは、ちょうど日本の戦後の
ある時期までの大多数の男の子たちが過剰に野球の身体を我がものとしていたように
冬季オリンピックの選手たちの動きを、身体感覚的に捉えることが出来るのだろう。
野球に関してなら、そのへんの素人でもバッティング・フォームや投手の配球にプロ
はだしの解説をしてみせたように。そのうちサッカーが、そうなるのかもしれない。

シドニー五輪がいつあったのかも俄には判じかねるくらいに、掛け値なしに記憶の中
にテレビ報道すら観た覚えがないのだが(何せマラソンで日本の女の人が金メダル
をとったらしいというのは知っているのだが、その選手の名前も顔もわからない)、
今回はそれよりはマシな程度には、状況を把握している。というのも98年長野五輪
の時は休暇の最中で、結構熱心に観ていたからだ。なので選手の顔も名前もわかる。

以下に、そのときのことを一年後に思い出して書いた文章を引用しておこう。
すこぶるややこしいのだが、当時北海道に住んでいた僕が、ギリシアへ旅行した先で
その一年前にオキナワへ行った時のことを思い出しながら書いた文章…、ですね(^^;

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「ガイアの泉」(@ギリシア 1999年3月30日)より引用

日本もあれでなかなか南北に広がりのある大国だ、と思う。
去年、那覇でクーラーの効いた喫茶店でコーヒーを飲みながら僕は
長野オリンピックの日本ジャンプ団体優勝を知った。汗をかいて
コーヒー豆の麻袋を担いで納入に来た兄にぃが、浅黒く日に焼けた
顔をほころばせて日本の金メダル獲得をウェイトレスに告げていた。
雪の長野や選手たちの故郷・北海道と、この国際通りが同じ国に
属することの不思議を感じた。

蛇足ながら長野五輪での日本の“歩留まり”は大したものだった。
夏季はバレーも体操も衰退して、水泳くらいしか期待できない以上、
こうなったら冬季に力を入れたほうがいいのではないか?
北海道では、子供のころから学校でスキーやスケートをやっている。
すべての小中学校の校庭にリンクがある。そういう背景からしか、
世界に尊敬されるアスリートは育たない。
ノルウェーやフィンランドに勝ってしまうのだから立派だ。

以前、物騒な思考ゲームとして北海道独立論を考えたことがあるが、
新国家は冬季五輪で、ただちにその名を世界に轟かすだろう。
経済ではふるわないけれど“北海道が日本で良かった”と日本中の
人が思うはずだ。今プライドの持てるものの少ない国だから。
オリンピアの国で、また妙なことを思い出したものだ。
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このときのギリシア旅日記に関しては、そのうちサルベージしてここに連続掲載する
ことにしよう。もう三年前のことになってしまうのか…。宇多田ヒカルのアルバムが
出た頃のことだもんね。ついでに言えば「ダンゴ3兄弟」の頃。ちなみに上の文章の
時期は、それよりさらに一年前、「モーニング・コーヒー」「夜空ノムコウ」の頃。
那覇のレコード店では、地元の歌い手のCDがバカ売れして話題になっていたようで、
僕も一枚北海道に買って帰って、気に入って聴いていた。それがキロロの「長い間」。

そういえば、そのギリシア旅日記には2004年アテネ五輪に言及した記述もあった。
先のことだと思っていても、歳月はすぐに追いついてくる。札幌冬季オリンピックの
記憶はなくて、菱沼聖子のように「虹と雪のバラード」が歌える世代よりは下だが、
経験しなかったシドニー五輪も含めて、祝祭は時間を統べる強い力を持つようだ。


2002年02月14日(木) 偏愛の埋蔵量

函館から来た娘、弥生さんの「遠別コミューン」への参入過程が続く。
三郎の創ろうとしている共生ユートピア、なかなかに魅力的に描かれているのだが、
弥生さんが三味線を捨てて農業グラスルーツ共同体に参入する、というのはちょっと
いかがなものか、という感じもする。三味線やムックリや馬頭琴のCDを扱っている
北海道のBooxbox@田原ひろあきプロデューサーのことを思い出したりすると(笑)

サトウキビ畑で三線をつま弾いていた古波蔵恵文のようなことにはならないのね(^^;
そういえば国仲涼子さん、平良とみさん「エランドール賞」オメデトウございます♪

題:234話 函館から来た娘24
画:毛糸
話:なかなか剛毅な気性だな、と三郎さんも笑って言った

題:235話 函館から来た娘25
画:編み物
話:きついけれど気力でなんとかなりそうなことはありませんか

題:236話 函館から来た娘26
画:粘土細工
話:夕御飯の後はだいたいいつも寄り合いになった

題:237話 函館から来た娘27
画:手鞠
話:なんて言うかね、地面の方が正直なのさ

題:238話 函館から来た娘28
画:風車
話:力ずくではなく、ゆっくりと強く

題:239話 函館から来た娘29
画:ヨーヨー
話:本当にこれからもここにずっといようと思っているのかね

題:240話 函館から来た娘30
画:飾り
話:あの人はものを教えるのが好きなんだよ

ディベート的にイジワルな見方をすれば、寄り合いで話し合いが行われているという
申し訳のような民主性も含めて、このコミューンが篠田節子『弥勒』(講談社文庫)
のゲルツェンの革命とどう違うのか、という視点を持ちながら読んでみたりもする。

もちろんあっさり「全然違う」と論拠を並べることもできなくはないだろう。
でも意外と微妙な問題なのだ。今のところ気分としてしか描かれていないのだし。

御大お気に入りの「自己定義権」@「新世界へようこそ 070無力な立場」にせよ、
http://www.impala.jp/century/index.html
そのへんの微妙さに真摯に悩んできたからこその、上野千鶴子さんへの快哉だろう。
「健全さ」への無防備な肯定を論旨としているようでいながら、長い回り道の果てに
“敢えて”選び取っている“ストレート”な物言いは一種の一代芸に近いものがある。
だからJMMなどで村上龍さんの言うことのほうが、わかりやすかったりすることは
多いのだ。そして元気が出る。御大のは甘いようで苦い。うむ。

否定と肯定、同調と異論、いつも単純にそれが出来るなら生きることは随分楽だろう。
でもそれとは対極にあるような姿勢を貫き、透徹した眼で世界を見透すような怖い人
がいる。僕が秘かに心の中で「深い耳」と尊称する作家・古井由吉先生である。
微笑みながら狂気を秘め持ったような、たたずまいに惹かれているのかもしれない。

古井さんの作品の魅力は、聴覚を中心とした身体感覚と精神との接触面の筆致だろう。
そして古井先生ご本人の魅力は、時に世界の底から響いてくるような、そのお声だ。

■古井由吉×齋藤孝「声と身体に日本語が宿る」(『文学界』)

“空前の朗読ブーム到来”というのは、みうらじゅん氏的ギャグとして僕が以前から
言い続けてきたのだが、いまや『声に出して読みたい日本語』のベストセラー化で
あながちウソでもなくなってしまった。斎藤氏が著書で主張しているようなことを、
ここでも書いていたりすることもあるのだが、どうも微妙な違和感も持っている。

この古井さんとの対談は両者のブレンド具合が程良くて、なるほど「日本語の埋蔵量」
という特集タイトルにふさわしい、興味深い内容になっているが。

■斎藤孝『子どもに伝えたい<三つの力> 生きる力を伝える』(NHKブックス)
(表紙見返しより)
 [あこがれにあこがれる関係を創る]
 引きこもる小学生。算数のできない大学生。他人と会話できず、
 すぐにキレてしまう若者。
 彼らの「冷えた身体」を暖め、
 「生きる力」を鍛えるために必要な<三つの力>を、
 教育学の俊英が、授業実践に基づき提言する。
 高い関心を集める「斎藤メソッド」の試みを紹介しながら、
 子供たちのアイデンティティをどう育てるのか、
 レスポンスできる「動ける身体」をどう作るのかを考える。
 自身を失った日本と日本人に活を入れる、注目の書。
(帯より引用)
 この本を通して強調してきたことは、生きる力の基本は何であるのかをはっ
 きさせ、それを反復練習によって鍛えるということである。基本を見失えば
 浮き足立ってしまう。困難な状況に陥ったときこそ、帰るべき基本を持って
 いることが強みとなる。しかも。何が基本であるかということについて、
 共通の認識を持ちあうことによって、この力は格段に伸びてくる。
 コンセプトを共有し、地に足をつけて、こうした力を伸ばしていくことこそ
 が、未来を作る王道である。
(引用、終わり)

なんだろう?ビジネスマンのためのハウ・トゥ本や武道オタクのための教則本とか、
『わかさ』や『壮快』を熟読する健康オタクのノリで、この人の本を読むのならば
自分的に問題ないような気がする。この人の情熱の寄ってきたるところ、世の中を
よくしよう、という意識への警戒感だろうか。口舌の徒ではない。実践の人だ。
主張は的を射て、実績も積んでおられるようだ。でも何か引っかかるものがある。
同じような感覚を僕に抱かせる人に、平田オリザさんがいる。

■平田オリザ『芸術立国論』(集英社新書)
(表紙見返しより)
 日本再生のカギは芸術文化立国をめざすところにある!
 著者は人気劇作家・演出家として日本各地をまわり、また
 芸術文化行政について活発に発言する論客として知られる。
 精神の健康、経済再生、教育などの面から、日本人に今、
 いかに芸術が必要か、文化予算はどう使われるべきかを、
 体験とデータをもとに緻密に論証する。真に実効性のある
 芸術文化政策を提言する画期的なヴィジョンの書。
 これは芸術の観点から考えた構造改革だ!
(引用終わり)

斎藤さんや平田さんの主張には妥当と思われることが多いし、社会政策的にも結構な
ことだ。教育問題に直接の関心がなくても、公教育や公的機関が担う演劇メソッドの
「効能」によって、5年後の日本社会に、精神的に追いつめられたキ××イが何%か
減って、自分や自分の愛する人々が物理的精神的被害に遭う確率が減少するならば、
増して自分が加害者になることを免れる道が少しでも拓けるのなら、税金も大いに
使ってもらおう、というもの。これが悪いジョークに聞こえないのが、今の日本だ。

朗読といい演劇メソッドのワークショップといい、両者とほとんど同じ関心領域と
主張を持つ、演劇集団キャラメルボックスの成井豊さんには強い共感を覚える。
■『成井豊のワークショップ 感情解放のレッスン』(演劇ぶっく社)

なんだろう?成井さんといい、プロデューサーの加藤昌史さんといい“いいこと”
を思いついたら、自分たちの出来る限界の範囲ギリギリで、「公共政策」を云々する
以前に、アップル社のMacintoshのようにまずそれをカタチにしてしまう、そうして
たくさんの人の心を動かしてつかんでしまう。初期動機は「死ぬほど好きだから!」。

お芝居も朗読も僕にとっては「ひめごと」のようなもので、時に切実ではあるけれど
義務ではなく、増して「心身を健やかにするために」というものではない。

斎藤孝さんも平田オリザさんも、もちろん「好きだから」やってらっしゃるんでしょう
けど、なんだか古井さんの静けさ、あるいは成井さんの良質なミーハーさ、その両極
のほうが僕には偏愛できるのかも。http://www.caramelbox.com/
キャラメルボックスの春の新作、もうすぐ公演なので、ぜひ観に行ってみて下さい(^^)


ちょいと更新の間が開いたので、気になった文章を列挙↓。明日以降触れるかも。

■川村湊「トンちゃん、南の島をゆくー中島敦・父から子への南洋だより」(『すばる』)

■碓氷早矢手『Cowboys on Mars --フロンティア・ナラティヴと火星文学史』
 http://www.mita.keio.ac.jp/~tatsumi/
■巽孝之『リンカーンの世紀--アメリカ大統領たちの文学思想史』(青土社)

■長嶋有「猛スピードで母は」(『文藝春秋』掲載)
■長嶋有×川上弘美「小説の道草、日常の輝き」(『文学界』)

■御大の「私の読書日記 神話と短編小説、詩人と昆虫学者」(『週刊文春』)
 #中沢新一氏のカイエ・ソバージュを取り上げてます(^^)

>酔眼犬さん
 さっさと高山宏『ふたつの世紀末』(青土社)以下、読みまくるべし(笑)


2002年02月06日(水) 恋と死が生まれた日

題:233話 函館から来た娘23
画:いろはカルタ
話:わたしはあの時に、世の中には自分たちもいればアイヌもいるのだと知った

由良さんによる、弥生さんの視点からみた、アイヌ邂逅期の聞き書きルポが続いている。
アイヌ語バイリンガルな三郎や志郎と異なって、弥生さんはまずもって言葉が通じない。
船戸与一『蝦夷地別件』(新潮文庫)の序盤で描かれたような、カルチャー・ギャップ。

異文化接触。第一種接近遭遇。カール・セーガン『コンタクト』まで引き合いに出して、
「他者」たるアイヌとの遭遇に想いをめぐらせてみたりしたのは、連載の序盤だったか。
ちなみに『コンタクト』は地球外知的生命体という他者との出会いという点だけでなく、
北海道が舞台の一部になっているということでも、「静かな大地」とリンクしていた。

「他者」でも「外部」でもいい。自分たちの共同体を中心とするコスモス=宇宙の秩序
の外側に属する存在。自己ではない「他者」。共同体の理法にとって、最大の関心事だ。
ヒトの身体で自己と非自己の峻別を司る免疫機能の挙動を、社会になぞらえて考えると
ちょっと面白い比喩ゲームが楽しめそうだ。おもしろうて、やがて慄然させられるかも。

しかし免疫機能が重要な役割を果たしている多細胞生物のはじまりには、単細胞生物の
共生が在ったと唱えたのが、カール・セーガンの元妻であるリン・マーギュリス博士だ。

単細胞生物同士が、事故的きっかけだったのか、何なのか「共生」するハメになった。
それが生物のサバイバルにとって有効な手段だったために、のちにシステム化される。
性の誕生である。その時、個体の死も生まれた。「地球交響曲第三番」の冒頭の部分
のナレーションがこのことに触れていた。恋と死は同時に生まれた、ということだ。

僕が御大の『未来圏からの風』に影響されて、ニューイングランドのボストンで彼女の
本を読み耽っていた、あのマーギュリス博士。TVで見た彼女は、チャーミングな人。
『未来圏からの風』で御大のインタビューに応じて、宇宙空間に出ていくかもしれない
人間の未来の姿を語った答えが素敵で印象的だった。

 しかし彼らは人間ではない。もう違う生き物です。人間というのは木や花や、緑の草
 など、今このニュー・イングランドの一角でこうして私とあなたが見ている風景を心
 から愛でる存在です。この風景の中でこそ自分の真の力を発揮できる生き物なのです
 から。(『未来圏からの風』P.272)

個体の限りある生。そしてその中で出会う偶然と必然。そのすべてを明るく愛でる姿勢。
生まれた日があり、死ぬ日がある。自分とは異なる他者がこの宇宙に存在し、そして
出会うことはトータルとして幸いである、そう思えるような愛しい時間を過ごすこと。

これはなかなかに難しくもおもしろい、人生を賭けた勝負だ。…貴方の勝利を願って♪



2002年02月05日(火) 住みなす力

題:232話 函館から来た娘22
画:デンデン太鼓
話:もうこの世の果てまで行くかと思ったころに、ようやく家に着いた

三郎たちが建設しつつある「遠別コミューン」の雰囲気が伺える叙述が少し出てきた。
札幌の学校で三郎が学んできた、アメリカ仕込みのテーブルと椅子のライフスタイル。
ゆんたく空間の参与観察ルポを弥生さんの目で描くという技、この章の残りが楽しみ。

住むこと。住む場所、働く場所、時間と空間の過ごし方。その豊かさと貧しさの諸相。
究極それは「国家」とか「歴史」、「文明」という規模の話につながってくる問題だ。
たとえば国家百年の夢として「とびきり美しい国土」を欲望してみる、のはいかがか?

“醜い利権複合体のモンスターと化した土建国家”という紋切り型を百年単位ででも
解消できるなら、結果的にこれに勝る仕事はあるまい、と思う。この場合難儀なのは、
「とびきり美しい」という、曖昧なヴィジョン。何せ美意識は検証不能なるがゆえに、
何をもって「美しい」としうるのか、そのコンセンサスの創りようが事実上ないのだ。

かといって、ものごとの経緯のまにまに行く末を任せれば、目を覆う現状が加速する。
↓住むことに関する思い込みを事細かにひっくり返しつつ、美意識を通す実践の書。

■林望『思い通りの家を造る』(光文社新書)

かつて、僕が現在の前に東京に住んでいた1987年から93年のバブル盛衰期には、
まだしもこの都市に関して語られる言葉も在ったように思うのだが、今回住んでいる
限りみんなそれどころじゃないというか、諦めきったといおうか、希望にせよ絶望に
せよ、およそ都市論めいたものが聞こえてこない。あの金で何が買えたか、じゃない
けれど「失われた10年」の間に、この都市をリデザインする時機もまた逸したのか。

あの95年に一度「廃墟」と化したのかもしれない東京では、下北沢っぽいスタイル
の暮らし方が似合うのかも。言ってみればバブル後の「焼け跡」「闇市」みたいな…。
荒俣御大も『帝都物語』を再開されるようだし、かつて『月刊東京人』を愛読してた
くらいの都市論ネタ好事家としては、自分なりの2002東京スタイルをさらに追求
してみたいと思っている。基本は、やっぱりカフェと自転車ね(笑)

ま、林望先生に見習えるのは、家を造ることではなく、自前の合理性を鍛えることか。


2002年02月04日(月) 運命のアジマァ

題:231話 函館から来た娘21
画:クレヨン
話:生きるも死ぬも、あなた様しだいです

昨日ここを読んでご心配下さった方たち、よぉく読んでみて下さい、もう一度。
この週末はむしろ奇跡的に思えるくらい、いいことづくめだったのでした(^^)
雨も雪も死も、生の震えを抑えきれない心象のスケッチであることに注意。

何か悲しいことがあるとしたら、この世に生まれてきたことくらいのものかな。
生誕の災厄を上回る苦痛はありません。その受苦と恍惚。…春と修羅、やね。
昨夜の心象スケッチ、自分で読むとしみじみと暖かい幸福感に包まれるのです。

だって…冷たい雨の日の夜に、鴨鍋をつつきながら土佐の酔鯨飲むんだよっ♪
そりゃあもう吹雪の中を歩き疲れて凍えた時に、ふと松岡修造の笑顔のポスター
に出会うくらいに、とても心暖まる取り合わせです(<おわかりかしら? 笑)
「生きてるって楽しいね。楽しいサァ!」(by古波蔵恵里)といったところ。

なんかね、酔鯨にこだわったのは、2000年末のジョン万次郎から坂本龍馬
ラインの思い入れの延長で訪れた高知の心象。もちろんその秋のボストン旅行
を通じて世界帝国アメリカともモービィ・ディックとも沖縄とも通底している。
その高知と下北沢のつながり方もまた、僕にとっては特別なものだったのです。

函館の三味線マスター弥生ねえさんと、静内のカリスマ牧場主の弟志郎くんの
運命の交差点(アジマァ)、なかなか劇的で素敵です。噴火湾を渡る逃避航路。
恵山と駒ヶ岳、有珠山に樽前山、立派な火山が揃い踏みで旅路を見守ったはず。
この周辺だけではなく十勝岳や雌阿寒岳など、静かな大地は火山で出来ている。

由良さんより少し年上の宮澤賢治は、見事な稜線美を持つ火山、岩手山を望む
盛岡から中学の修学旅行で北海道を訪れた。それが17歳の頃。十年後、彼は
最愛の妹を喪った傷心を抱えて樺太を訪れる往復で、再び北海道の地を踏んだ。
それが「オホーツク挽歌」や「噴火湾(ノクターン)」を生んだ旅だった。
http://www.shugakusha.co.jp/kokugo/meisaku/kenji/year.htm

ウェブ日記というスタイル、昔BBS推奨派だった頃には考えられないことに
とても気に入っています。一見リンクしていない「人生」がシンクロしてる妙。
保坂和志の『残響』とか『季節の記憶』みたいな感じで、些細な日常と形而上
の宇宙が当たり前に同居しながら、他人同士もまた時間軸の上を併走している。

運命をやり過ごしつつ、ゆんたくを続けていく強靱かつユルユルな心象の堆積。


2002年02月03日(日) 世界の中心としての耳

別離とか、転居とかが記憶装置たる自己存在の「小さな死」だとするならば、
さしずめ僕などはいつもいつも好きこのんで死につづけているようなものだ。
ほんとうに好きなのかどうかはわからない。大きな死に脅えているだけかも。

節分の夜更け、すなわち立春の刻限。 不可逆的なる現象…死。そして恋。
昔読んだ半村良の傑作SF伝記ロマン『妖星伝』の作中人物が、この刻限に
ついて語っていたのを思い出す。世界の「死と再生」の秘密が顕現する日。

不可逆的なる力のあまりに過ぎるとき、壊れないために、言葉は機能する。
外部との境界、魔の領域。普請にたずさわる者は皆、外部を見る鬼なのだ。
物語を普請する者にも、もちろんその資格はある。外部を見ているならば。

好奇心は兎を殺す。野ウサギが走れば時間が裂けて、外部との通路が開ける。
ゆえに外国との交易港は兎の故郷なのだ。世界のすべてを異郷と感じる者に
とっての故郷は港しかない。だから唱えよう「二兎を追う者、三兎を得る」。

凍るような雨が降る休日。また一日歩き回って、下北沢で鴨鍋を食べながら
土佐の酔鯨を飲んだ。死を溶かし込んだような深い色の海が見えた気がした。
あるいは降りしきる雪の底にたたずんで、もう静かにしているよりない感覚。

ふと森の中を、雪原の上を、外部への通路を嗅ぎつけて走る兎の姿を想った。
酔鯨を飲みながら、言語というものの本質と声との関係について考えていた。
言語にとって声とは何か?兎にとって耳とは何か?僕にとって港とはどこか?

人の声も荒い交通空間としての港、それと宇宙のかそけき音に耳を傾ける兎。
来週末はヨコハマを歩いて“あいつ”をさがしてみよう。きっと居るはずだ。


題:225話 函館から来た娘15
画:ハーモニカ
話:十勝と日高、どちらになさる

題:226話 函館から来た娘16
画:おじゃみ
話:港には誰も探しにきませんでしたね、と言って笑った顔が凛々しくてね

題:227話 函館から来た娘17
画:綾取り
話:こんなに静かな海は珍しいくらいだと言われた

題:228話 函館から来た娘18
画:腕輪
話:函館のあの苦界の隅っこでしか、暮らせない女だったんだよ、わたしは

  ≪あらすじ≫明治初期、淡路島から北海道
 の静内に入植した宗形三郎は弟志郎や信頼す
 るアイヌと協力しながら牧場を開く。アイヌ
 に育てられた雪乃と結婚し、戸長として多忙
 な日々をおくる時機までの伯父の歩みをたど
 った由良は、今度は父親志郎との結婚のいき
 さつを母親の弥生に聞いている。

題:229話 函館から来た娘19
画:メンコ
話:たまたま逃げ込んだ小鳥にずいぶん親切にしてくれる

題:230話 函館から来た娘20
画:紙風船
話:海は見えてるもので、わざわざ見るものではなかった


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