「静かな大地」を遠く離れて
DiaryINDEX|past|will
2001年07月31日(火) |
犬と生きる世界(1) |
題:49話 最初の夏19 画:栗 話:狩猟採集生活者の生活と言葉と神様
『母なる自然のおっぱい』(新潮文庫)や『旅をした人』(Switch)で 御大が深く傾倒した狩猟民の心。 思えば『スティルライフ』の背後にも、広い意味での狩猟民的な感性への 共感が謳われていた。そういう心の傾きが強い人が、世の中にはいる、 あるいはそういう気分に共鳴しがちな時期、時代というものもあるのかも。
人工支持力ということでは、穀物を量産することには勝てないかもしれない。 安定性ということでも不安はあっただろう、と特に「農」を選び取った人々 からは思われてきたに違いない。 自然に働きかけて、作物の実りを頼みにする農耕という選択は、 なかなか面白くて快感もあったのだろう。そうでなければ広まらないはずだ。
それにしても…、それにしても農業を拒絶したい人々だって、いたわけだ。 「支配ー被支配」システムに伴われた農耕。 その秩序を掻き乱す、スサノオ的な存在。 二つの勢力が、日本列島の歴史もまた綾なしてきた。
最後の前線、まだ品種改良ならざる稲が穂をつけない、開拓初期の北海道。 世界観の衝突は、ひどく具体的に食物のカタチをとって現れる。 サケを捕ることを禁じるのは、ひとつの世界を圧殺することに等しい。 それをやったのが日本近代史である。
題:48話 最初の夏18 画:干し葡萄 話:学業を心配する母、勝手に遊ばせる父
この父の少年時代の物語、構造は都会(まち)の子供が北海道へ移住して そこでいろいろな「他者」と出会いながら展開していく文明批評という形。 しかも「学業を心配なさる母上と違って、父上は勝手に遊んでおれと言われた」 なんて図式は、ほとんど『北の国から』明治編、といったところか。
先日、西東始さんからメールを頂戴しました。許可を戴いて、以下に転載。 ***************************** 件名:フラノは「故郷」
『北の国から』のロケが始まる前までの三年間、富良野に 住んでいました。20年以上前のことです。当時の富良野 は、鉄道による輸送基地の役目を終えたのだけれど、単な る農村には戻りたくないと、観光都市化を盛んに計画して いたのだと、今更ながら気付かされます。ワールドカップ スキーと、それにあわせたプリンスホテルの進出。ワイ ン。(もともとは土地流出のために農家が植えたに過ぎな い)ラベンダー観光。倉本聡さんの移住と『北の国か ら』。ところが、私の頭の中の「故郷」としての富良野 は、そういう観光資本とは一切関係ない自然豊かな町なの です。帯広にやってきてからは、旭川行きの高速バスで富 良野に寄ることもあるのですが、現実に見る観光都市と頭 の中の「故郷」の間にものすごいギャップがあり、とにか く複雑な気持ちです。
猪瀬さんの「故郷論」はまだ読んでいませんでした。富良 野のことを思い出しながら読みます。 *****************************
先日も書いたとおり、僕も北海道富良野へは何度も行った。 『北の国から』に関してはオンエアーのあとの再放送で見たあと やはり「’87初恋」でハマり、88年の再放送を全話見て 以後のスペシャルは欠かさず見ている。 パロディー心を誘う“泣き笑い”感覚、翁面のようなクニエの顔、 自然番組並みの実景映像のストック、キャラたちの“立ち”の良さ。 あの反則技の集積体のようなドラマは、真似のしようのない文体を 作り出していて、好き嫌いはあるかもしれないが大した番組だと思う。 魅力は、計算を超えた、制御不能なまでの田中邦衛の生態観察(?笑) 松本人志が『北〜』フリークなのも、頷けようというものだ。
公式サイトは、↓こちら。 http://www.kitanokunikara.net/ ここで告知されている通り、来年2002年に完結するようだ。 田中邦衛さんではなく、倉本聡氏の限界だろうか。 いずれにしても楽しみなことである(^^)
以下は↓、とある「北の国から」研究。 http://www.ceres.dti.ne.jp/~ysk/fragment/daigaku/index.html ファンサイトとかじゃなくて、まじめに学問的に研究している論考。 あの番組は、こういう生真面目なアプローチも可能な懐の深さがある。 ほんとなら、これに触発されて以下、長々と文章を書きたいところだが ひとまず今日はご紹介に留めておきます(^^; 「北の国から」&倉本氏が作り出した北海道イメージの大きさは 疑いようがないわけなので、今後も話題にしていくつもり。
御大の記憶の中の戦後の帯広と、現在の北海道のパブリック・イメージ との落差たるや、恐るべきものがあるのだろう。 そのへんが『静かな大地』の明治初年と明治末という時間構造の中にも 反映されているのかもしれない。
追記。 御大と倉本氏に共通する意外なテーマが、ハワイイ日系人。 倉本脚本作品『波の盆』というドラマは、その大傑作だと思う。 主演は笠智衆、演出がなんと実相寺昭男!ビデオも出てます(^^)
ちなみに次期次期NHK朝ドラはなんとヒロイン日系ハワイイ人の設定 だそうですな(^^; オキナワの次は熊野、そのあとがハワイイ。 どうもニューエイジなスピリチュアル系のロケーション選びだね。
2001年07月29日(日) |
山と海と川、そして鈴原冬二の“声” |
題:47話 最初の夏17 画:落花生 話:マキリとタシロは日用の具だ。それがなければ暮らせない。
武士の腰の大小は儀礼の具と成り下がり、彼らは都市官僚そのものだった。 少年たちは、“日用の具”を腰に帯びた同年輩のアイヌの子どもたちを見て 周囲の山と海と川の声を聴く。それなしでは「ここでは生きていけない」。
ヒトが他の生物の命を摂取して生きている動物である以上、この声は プリンシプルとしてずっと有効だ。闇雲に祝祭の狂乱を演じてみたりして 純経済的には一見非効率な蕩尽を繰り広げたりする奇妙なサルであっても。 狩猟者の共同体の暮らしぶりには、とりわけそれが鮮明に見て取れる。
道具を巧みに操る快感。 斉藤令介『田園生活の教科書 辛口のカントリーライフ入門書』(集英社) という本が面白い。気分としての田園趣味を排して道具のマニュアルに徹した ところが企画の勝利。ほとんどミリタリー・マニアが武器や携行用具に注ぐ 熱っぽい視線に近い。なにかに似ていると思ったら、柘植久慶氏の本か(笑) 元グリーンベレー教官の触れ込みのコワいおっさんで『サバイバルブック』 という著書がある。他にも戦記物と国際謀略物の本を多数書いている人。 ぜひ彼を起用してETVの夜の手芸とか園芸ノウハウ講座をやっている時間帯に 「週刊サバイバル」という番組を放映してほしいものである(爆) 余談でした(^^;
で、斉藤令介氏のほう。彼の田園生活は、よくある都会から田舎へ、という ベクトルではなく、ほんまもんのハンティング・フィールドから田園へ、 という特殊なケースで、そのままでは一般人の参考になるわけがない。 それゆえにこそ、本としては極度にハウツーに寄せているのだろう。 さまざまな道具の使用法を詳しく写真入りで紹介しているのを見ている だけで、結構その気になってきて、なかなか楽しい。 しかし、その背後には自然と世界に対するハードな思考がある。 彼には『原始思考法』など狩猟者の目線からの社会評論の仕事もあって、 その“辛口”ぶりは筋金入りなのだ。 佐々木譲先生もご自身のホームページでこの本を取り上げて、一寸大仰な 著者の姿勢に突っ込みを入れてらっしゃる。 #その佐々木先生も北海道生活をネタに集英社新書を出される予定(^^)
この斉藤氏、誰あろう、あの鈴原冬二のモデルなのだ。 村上龍の『愛と幻想のファシズム』のカリスマ狩猟者→独裁者の主人公。 斉藤氏がフィールドで得た経験値から世界のことも社会情勢のことも 透徹した物言いでズバズバと「真実」を語るのを聞いて、村上龍氏が、 「この男が、良い“声”を持っていたら独裁者になれるかもしれない」 と思ったのがきっかけだったとか。もう古い話なので「意訳」ですけど。 僕は鈴原冬二と、その仲間たちの物語を、ずいぶん夢中になって読んだ。 いま考えると、その後に関わることになった要素が沢山詰まっていた。 物語の冒頭はアラスカが舞台だし、冬二が若い頃に狩人の老人に師事して 歩いたフィールドは日高ではなかったか? そして北海道がダミー・クーデターの舞台となっていくあたりは、 後年の『希望の国のエクソダス』へとつながっていくモチーフだ。 九州男児・村上龍の北海道。
そして帯広生まれの池澤御大の北海道。 五郎のマキリを見たときに、自然の“声”を聞いてしまった由良の父は いったいどんな「向こう側」を見てしまったのだろうか。 そして兄・三郎は、どんな世界へとエクソダスして行ったのだろうか。 すべては、これからだ。
2001年07月28日(土) |
『武揚伝』に首ったけ |
題:46話 最初の夏16 画:枯れた花 話:小さな敗残者の胸中
さて、もうすぐ本業がちょっと一段落するのもあって、 8月4日から観光旅行に出かける予定。朝日新聞をフォローするのは 難しくなるので、また何か手段を講じて帰国後にまとめ読みします。 まだ一週間もあるのに、なにゆえこんな予告をしてるかと言うと 来週もそこそこ忙しそうなのね(^^;
それともうひとつ、浮気の宣言もしておこう。 佐々木譲さんの『武揚伝』が、ついに出たのだ! 読書スピードがとても遅い僕としては、何日も真剣に読みふける時間が 必要で、濃い日録を書く日は睡眠時間を削っているような状況なので 来週は『武揚伝』を優先させたいのです(^^)
今日の『静かな大地』は、侍の子の誇りと、その喪失がテーマだったが 『武揚伝』は、まさしくそれを歴史劇として展開してくれるはず。 刊行日に買って、異常に忙しかった数日を経て、ようやく今日、上巻の とば口まで読んだところ。 導入部から、すばらしく僕好みのネタの目白押し。これは楽しみだ。 渾身のエンターテイメント大作であり、浅薄な歴史認識を覆す骨太さを 併せ持つ、近年のベスト作品になりそうだ。
ちなみに僕が今まで理屈抜きに「滅法面白い!」と思った本を挙げるなら、 栗本慎一郎『パンツをはいたサル』、 村上龍『愛と幻想のファシズム』、 半村良『妖星伝』、 高山宏『ふたつの世紀末』、 荒俣宏『帝都物語』、 山田正紀『顔のない神々』、 隆慶一郎『影武者徳川家康』、 司馬遼太郎『竜馬がゆく』、 …といったところ。意外に思われるラインナップかもしれませんが。 本として重要とかいうより「夢中読み耽った度」の高さで選んでます。 かつ博覧強記にしてサービス精神が過剰、そして認識を覆すラディカルさ を併せ持っている、というのが大体の好みの傾向。 きっと『竜馬がゆく』も刊行当時はラディカルな作品だったのだ。 司馬作品を「おじさん向け」と敬遠する輩も、手放し礼賛する向きも、 ともに「視えてない」人たちだ、と思う。
で、『武揚伝』は、この域に達しそうな期待感が持てる。楽しみだ♪
あ、一言添えておきますが、池澤御大も榎本武揚ファンなんですぞ、 以前にここにも書いたとおり。「文春図書館」で書評を書かれる前に みなさんも読んでおきましょう(^^)
2001年07月27日(金) |
ジョルダーノ・ブルーノに首ったけ |
題:45話 最初の夏15 画:枯れ草の実(?) 話:小さな戦闘
タイトル見て「なんのこっちゃ?」と思った方も、 「おっ、面白そう!」と身を乗り出した好事家の方もゴメンナサイ。
今日の日録のタイトルと『静かな大地』は、まるで無関係です。 ネット上で書いておけば、何か良いネタが入ってこないかな、と(^^; 「ジョルダーノ・ブルーノに首ったけ」って、なんかフレーズとして 気に入ってたりもする。女性誌の特集タイトルみたいで。 それはともかく、学術書じゃなくってジョルダーノ・ブルーノのことを 面白く読める本がほしい、ほしい、ほしい!
1600年に火炙りの刑で死んだ、宇宙論の革新者。 彼の足跡と思想を嘘八百も織りまぜていいからフィクションで読みたい。 ヤングアダルト向けの なんとか文庫とかでも構わない。 戯曲でも良い。ブレヒトの「ガリレイの生涯」みたいな。 もちろんノンフィクションでもいい、けど面白いやつね(^^) 誰か書いて!
題:44話 最初の夏14 画:胡桃 話:林の中の道でオシアンクルたちと対峙
道。林の中の狼や熊が辿るような道から、商人が往来する街道、 そして兵隊たちが行軍できるような道路。 北海道の道、特に峠とかトンネルは、もし自分に霊能者的な資質が 備わっていたとしたら、きっと近づきたくない場所だろう(^^;
なぜなら明治期に、いわゆるタコ労働者が沢山、命を落とした場所 だろうから、恨みを呑んで死んでいった者たちの白骨が埋まってそうで。
北海道は、そういう歴史を背負った土地でもある。 「納涼、怖い話特集」どころではなく恐ろしい、白骨の大地なのだ。 ま、関東も特に鎌倉あたりは“濃い”らしいけどね。 視えない人でも、心身に変調を来したりはするものなのだろうか。 こわい、こわい。
題:43話 最初の夏13 画:枯れた茎 話:獣道を辿ってアイヌの子らを追う
棒を持つ。歌を歌う。心細い藪を漕ぐ時の防衛手段。 「遠くで鳥の声はするけれども、人の声はしない。 だいたい人の気配がまったくない。」ことの不安、それと恍惚。
「あの頃は唱歌などなかったな。」と語る父。 猪瀬直樹『ふるさとを創った男』(文春文庫)を参照のこと。 “しみじみとした日本情緒”を醸し出す唱歌は、賛美歌のパクリで 急造された「感覚の制度化装置」とでも言うべきものだった。 由良さんたちの世代だと、そのへんをモロに被ってるということか。
考えてみればドイツのリートを移入したような山田耕筰メロディー とか、 スコットランド民謡とか、そういうもので「懐かしい」日本 を彷彿とさせることが出来るのだから、情緒というのはコワくて いい加減なものである。
題:42話 最初の夏12 画:笹の葉 話:普請場でアイヌの男児たちと邂逅
結構、建築好きな僕としては普請の様子やアイヌのチセ(家) なんかにも関心を持ってしまう。 なので三谷幸喜氏の映画「みんなの家」は、とても面白く見た。 そういえば田中邦衛つながりの「北の国から」も、ずいぶんと 家屋とか普請ということへの関心を募らせる作品だった。
“北海道の表象イメージ論”を関心の守備範囲とする当日録の 執筆者的には「北〜」は最重要作品のひとつ。 単なる田中邦衛マニアというわけではない(笑) 富良野にも何度も行ったけど、まぁ観光と仕事と半々くらい。 一度客を案内したというか、観光につきあった際に観光バスに 乗ったことがある。夏の盛りの季節だった。
何しろ列車を降りると既に駅舎で、さだまさしのハミングが 聞こえてくるような有様。バスは「中畑のおじさんの家」とか 案内しながら「五郎の家」を目指して進む(笑) 車内でガイドの口上がない時間帯は、サントラがエンドレスで かかっている。
まだ撮影に使われる予定の「新五郎の家」も一寸離れた場所から 見物できるようになっている。なんだかなぁ、と言いつつ結構 喜んでみていた。 妙に記憶しているのは、あの爽やかな夏の日、一冊の本を夢中で 読んでいたこと。 個人的には、トータルでとてもバランスの取れた楽しい一日だった。
…その日、読んでいたのは、『魍魎の*』(←字が出ません(^^;) とっても楽しい夏の想い出です(歪笑)
2001年07月22日(日) |
懐かしき「和製」のナゾ |
題:41話 最初の夏11 画:麦の穂 話:函館で三味線の師匠だった母・弥生さん登場
なんかカラーの日は「山本容子」作品って感じの版画になるのね(笑) きょうは母上・弥生さんが登場です。三味線のお師匠さんなんですね。 “移民”たちは故郷の音楽を持って移動し、また新しい歌を作り、 そうやって生きてきたのでしょう。 音楽がヴァナキュラー(<これの日本語訳がわからない(^^;)な形で 所有されている状態。 のちのち流行歌がメディアと結びついて、なんだかわけのわからない 「音楽シーン」みたいなものが形成されて、それがまた拡散してみたり。 佐藤良明先生の『J−POP進化論』(平凡社新書)の世界ですな♪
さて今日は今日とて、下北沢の本多劇場で観劇。 作・松原敏春 劇団岸野組『まだ見ぬ幸せ』
テレビドラマのシナリオで活躍していた松原敏春さんの脚本、 最近故人となられたばかりとのことで「人は去り作品は残る」の感慨。 序盤はイッセー尾形氏の一人芝居を見る如き、ディテールの可笑しさ、 後半は男女のディスコミュニケーションの“痛さ”がラストの切なさに つながる、細やかな大人のための芝居、という感じの作品。 お目当ては、スーパー・エンターテイナー戸田恵子さんのお芝居(^^) 期待に違わず、全然キャラの異なる二役に、歌まで披露して下さった。 「油断のならない」という誉め言葉が似合う魅力的な役者さんです。 一昨年のクリスマスに中尾隆聖さんとやられた舞台も最高でした。 歌謡史、芸能史みたいなのを視野に入れた舞台作品って面白いです。
では、今夜のインチキ更新ネタ。これも1999年に書いたもの。 すでに多少、例が古いのが何とも言えない(^^;
*******************************
「懐かしき『和製』のナゾ」
「和製***」と呼ばれるものって何なんだろう? いきなり問われても困るわけだが、語義としては外国の優れた人や物事に なぞらえて日本のものにありがたみをつけ加えるということのようだ。 「和製ビル・ゲイツ」みたいな感じですな。
この和製というコトバ、なかなか含蓄が深くてクセ者だという気がする。 そしてワールド・スタンダードを彼岸に見ているだけの国だからこそ定着 している概念だ!と村上龍が怒りそうな、足腰の脆弱さと貧しさを連想させる。 あとワールド・スタンダードが近づいてきたような90年代になってくると、 かなりベタで使うのが恥ずかしい常套句。新聞社でデスクが見出しを「和製〜」 とかにすると若手記者が失笑しそうな時代遅れ感も募っている。
そのへんを昔ズバリ言い当てていたのが、古館伊知郎氏。 「夜のヒットスタジオ」で「1986年のマリリン」を歌っていたデビュー当時 の本田美奈子の紹介して曰く、「まさに和製山本リンダ!」(笑) ネーミング・マイスター・古館の至芸である。 本田美奈子のことはともかく、トウの立った「和製」という概念の鮮度を 余すところなく料理に生かしたレトリックであった。
かくも和製はパチもん臭い。そして時代がかってきている。 平尾昌明の「ダイアナ」のような音楽はいま必要ないだろう。 「ケアレスウィスパー」のカヴァー曲「抱きしめてジルバ」を西城秀樹が歌っていた のだってかなり昔のような気がする。石井明美が「ランバダ」を歌っていたのは・・・ 例にしてもしょうがないので引っこめる。 ベンチャーズなんかは面白い。和製ベンチャーズが本物のベンチャーズそのものだ というセルフ和製化の往還運動の例である。他に例を見ないわけではあるが…。 #佐藤良明「郷愁としての昭和」(新書館)
日本には「見立て」の文化がある。日本アルプスなんてのが典型的。 箱庭的な国土の中で、何でもひっぱてきて見立てようという発想。 これが今の時代になると「全国テーマパーク争奪!世界の国さきに穫ったもん勝ち合戦」 で日本中にカナダだのスペインだのオランダだの…と国の奪い合い状態になるわけか? 経営努力はそれぞれだろうが、全体としてはゲンナリとした脱力度を競うハメに 陥っているようだ。和製おそるべし。
いま私たちの周囲の生活全般を覆っている倦怠感のもとは和製だという気がする。 和製という以上、日本風そのものではなくてイミテーションであり、 パチもん的な貧乏臭さがついて回る。すなわち遠く遠くに立派な本物があって、 その果実を日本人にもお裾分けしてあげますよ、という発想。
まあ純粋に日本風・・・などと言い出すと、そんなもんどこまでさかもぼっても ないわけだが。たとえば日本民謡やいわゆる古い楽器で演奏される邦楽みたいなものは、 むしろいまの日本人にとっては違和感のあるものに感じられてしまう。 そのへんに「問題」の一端があるような気がする。
楽器といえば西洋音楽、クラシックでピアノやバイオリン。 さもなくばエレクトリックギターやシンセサイザーか。 いずれダイアトーンで書き表せる音楽を「音楽」として認知し、特別な趣味や仕事として でないかぎり、邦楽や和楽器になじんでいる人はいない。考えてみれば妙なもので、 ここまで自らの音の文化を喪失した人たちは、世界的にも珍しいのではないか?
楽器や音楽はまず習うもの、であってクラシックはカルチャー、 ロックならカウンターカルチャーの枠に閉じこめられてしまう。 聴覚という原初的であるはずの感覚が、外から押しつけられる音律に支配されている。 「調律される身体」とでもいえば、現代思想のキャッチフレーズっぽいかもしれない。
かといって普段着で手に取る楽器や音楽を自前でもっているわけでもない。 いきおい突然モンゴル音楽だの、琉球民謡だの、キューバ音楽だのに出会って ノックアウトを食らう人も多い。 それらの音楽に感激したとして、さて日本民謡に向き直ってみても、それはそうした 民族カタログのひとつにしか感じられないだろう。 まばゆいくらいにエキゾチック・ジャパン、というわけである。
身体の外部から押しつけられる音の暴力。 それはバイオリンのスパルタ教育を受ける子供のことだけでも、街の騒音のことだけでも、 小室サウンドの洗脳効果のことだけでもない。 それら全体、さらに聴覚だけでなく味覚も視覚も含めての話。 ファクトリーで作られて供給される五感・・・。 安くて便利でみんなと同じ、それが「和製」のもつ属性ではなかったか?
いきなりだがシュタイナー教育というのがある。 子安美智子氏の本で、その音楽への取り組みの枢要さが紹介されている。 そこでは徹底的に子供の身体感覚の成長に心を砕くという。 そして幼少期はペンタトニックだけを発する発弦楽器ライヤーだけを使わせる。 不協和音がでないこと、よって身体感覚から弾く音が立派に音楽になることが理由らしい。 徹底して内から出てくる音への欲求を育てた上で長調短調の音階へ移行する。
ご存じの通り、日本の邦楽や琉球民謡などを含めて世界の音階の基本はペンタトニックだ。 コテコテのドイツ人たちによるシュタイナー教育の場で、ここまで配慮したメソッドが 組まれているにもかかわらず、日本の音楽の授業では「お江戸日本橋」が暗くて辛気くさい 印象を残すだけで、明治に作られた唱歌というやつは全部賛美歌のパクりらしいから、 そこから我々の身体の調律は始まっていたわけだ。 ペンタトニックだと軍隊は組めない、とかあったのだろうか?
手触りのあるペンタトニックから出発することもなく、出来合いの音を外部から 注ぎ込まれてわれわれの耳は育つ。それが和製。 イミテーションな見立ての中で本物は文物としてしかやって来ない。 柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社学芸文庫)のような仕事を、 音楽や視覚表現や都市や建築まで、広範にわかりやすく展開した本が待たれるところだ。
しかしいったいこの吸収力といおうか、あるいは吸収力のなさとでもいおうか 、いっそ赤瀬川原平風に「和製力」という造語でもしようかと思わせる、 日本の文化ってなんなんだろう? 実は遣唐使廃止のころからの国風文化の美風の名残だろうか? すなわち日本特殊論、島国文化論。
まあそういう議論のウソ加減は、高山宏『江戸の切り口』などで展開されている キメラ的日本文化像によって、これから跡形もなく塗り替えられて行くだろう。 だいたいアイヌの楽器として民族音楽関係の人たちにお馴染みのムックリという 口琴の一種は、江戸時代に本州でも大流行したことがあるらしい。 江戸にも民族音楽好きはいたのだ。
もはやエキゾチシズムでもオリエンタリズムでもなんでもいい。 モンゴルもアイルランドもハワイもレキオもリミックスして耳を鍛え直してみよう、 というのが、この期に及んでわれわれの採りうる、残された道なのではないだろうか? 個人がその力を持ちだしたとき、ようやく「和製」は歴史的使命を終えて退場するだろう。
思えばパチもんのアチラ文化を誤解して作ったスタイルも文脈の中ではなかなかに カッコいいものだった。北鎌倉から横須賀線に乗って東京に出かけてきた笠智衆が、 白い麻のスーツと帽子で資生堂パーラーに入って、フォークの背にライスを載せて食べる姿 など想像すると、和製っていい時代があったんだな…と思う。
懐かしき和製に、サヨウナラ。
題:40話 最初の夏10 画:唐草 話:おまえたちは静内のことをどれほど覚えているか?
自分が経験したことのない、遠い過去の出来事の追体験。 それと自分が体験した近過去の記憶。 それらが綯い交ぜになって、一個の小宇宙を成している、 個々人が流れていく時間の中で、一つの肉体を持って 生きていることの不思議、そして重み…。
折悪しく前日1時間ほどの睡眠で、本業の修羅場を抜け出して 「なんで三鷹やね〜ん?」と言いながら観劇に駆けつけました。
原作・脚本・演出・主演 今井雅之、 『The Winds of God ー零のかなたへー』 (三鷹市芸術文化センター星のホール)
どうしても、どうしてもこの舞台は観ておきたかったのです。 僕にとって特別に思い入れのある、知り尽くしたお芝居。 これほど台詞の間まで身体の中に入っている舞台作品は他にない。 NODA MAPの『キル』や、キャラメルの代表作も生やビデオで 何度も見ていますが、この「ウィンズ〜」ほどではないのです。
僕がよく知っているのは昨年上演された2000年ヴァージョン。 今回はほとんどメンバーも一緒なのですが、細かいところで ずいぶん変わっていました。 その日の役者さんのコンディションや、観客のノリで日々変化する のが舞台演劇の面白さであり、怖いところでもあります。 僕は1時間睡眠の頭で、冷静にディティールを見ていたつもりでしたが、 片時も眠くならないどころか、とてもエキサイティングな経験が 出来ました。知り抜いた作品と1年余りの時間を経て再会する、 その距離感の隔たり具合と、圧倒的な懐かしさ、愛おしさ。
はっきり言って睡眠不足で感情の琴線も緩んでいたのでしょう、 泣きのツボの遙か前のアニキとキンタが初めて空を飛ぶシーンの 今井さんの表情に一発でやられて、グズグズに泣けました(^^; あとはもう怒濤のような展開、どっぷり浸かることができました。
ひどく客観的に冷静に観てる立場なのに、いつのまにか感情の潮の うねりの直中にいる、この極端な両者の間の往還は僕の特徴かも。 シニカルで老獪でさえある中年男と、感傷的な女の子みたいな感覚の 両方が、一個の人間の中に同居している、と形容されたこともある。
…なんか幸福になりにくいタイプ、かも知れない(笑)
題:39話 最初の夏9 画:団栗 話:自分たちは捨てられたのだ、と気づいた人々
『海の日特集 ちゅらさん 美ら海の約束』、ご覧になりましたか? おばぁが“命どぅ宝”の話をするシーンは、何度見ても圧巻。 数週間前の、おばぁ上京篇「おばぁの秘密」で一風館管理人・みづえさんと おばぁとの会話が、なにげにとても深かったのも「ちゅらさん」ならでは。 『怪獣使いと少年』や『日本風景論』でお馴染みの評論家・切通理作さんも 「ちゅらさん」を熱心にご覧になっている方のお一人です。 ご自身のサイトでも、たまに触れていらっしゃいます。 http://www.gont.net/risaku/krdsh.shtml
『ちゅらさん』のヒットの仕方って、『踊る大捜査線』的なところも あるようで、事情が許せば“研究本”とか出ても良さそうな雰囲気。 実際、沖縄料理本やゴーヤーマンの絵本が出たりしてます。 うーん、切通さんのウルトラマン本みたいな濃い研究本が出たら 素敵なんですけど、ね。 80年代のコミック文化の影響とか90年代のオキナワ文化受容史、 いろんな文脈で読み込めるドラマではあります。
もっともコアな部分で「生」への肯定のメッセージを新鮮かつ骨太に提示 出来ているのが、オキナワに材を採った強みでもあり難しいところでもあり。 さて宮崎駿氏の新作には勝っているのか?、 そして『静かな大地』は、そういう文脈の中に置くことができるのか?、 そんなことを考えつつ。
2001年07月19日(木) |
艱難辛苦より物見遊山♪ |
題:37話 最初の夏7 画:干し柿 話:火事と海難、二つの災厄に見舞われる開拓民たち
今週は週末まで体力温存を目論んでペース配分しているつもり、 だがなかなか思い通りに事が進まなくて土日に時間の余裕が 出来るかどうか、まだ見えない。 僕にとっては大事な観劇の予定を土曜日も日曜日も入れていて、 ひとつは今井雅之さんの「The Winds of God」の公演、 もうひとつは戸田恵子さんが出られる本多劇場のお芝居。
ひきつづき来週は忙しくて、再来週はまあまあのはずだけど、 その週に仕事をしつつ、旅の準備をしつつ、次の仕事の準備もしつつ ぜひ佐々木譲さんの『武揚伝』を読まなければならないのだ。 これはメチャクチャ楽しみ!
美味しいフレンチも食べたいし、上質なケーキも食べたい。 どちらかと言えば痩せ気味だし普段小食に見えるらしいのだが、 僕は、城ノ内真理亜なみに食べることに欲深いのです(^^)
というわけで開拓団の重臣のエライ人が「艱難辛苦は人を磨く」と 演説していらっしゃいますが、僕は基本的に「棚からボタ餅」とか 「瓢箪から駒」とかを是にして、て〜げ〜に暮らしている者です。 さぁ、もうすぐ物見遊山の日々が待っている、あともう少し! …って、日常生活も既に物見遊山みたいな精神でやってますけど(^^;
さてさて物見遊山の計画たてなきゃ♪
2001年07月18日(水) |
そこにはエンヤが流れている |
題:36話 最初の夏6 画:玉蜀黍 話:熊、そして火とのつきあい方に表れる精神性
夏休みミチオ特集として、昨夜アップした文章の少し前に書いたもので インチキ更新いたします(^^; ええ、本業が多忙で難儀しているのです。
後に1999年から2000年の年越し=ミレニアム越しを、 独りダブリンで迎えることになった布石が、このへんにあったかも。 暑いトウキョウを基準に考えるなら、なかなか涼しい気分を追体験 していただけるタイムリーな文章かもしれません。
なお今出ている『ナショナルジオグラフィック』誌の特集が 「グリズリー」で、昨日紹介した本のようなことが簡潔にインパクトの ある写真とともに紹介されていますので、ご関心の向きは、ぜひ。
それでは、どうぞ、お読み下さい♪
********************************* 「そこにはエンヤが流れている」
3月の週末の朝、マンションの近くの地下鉄の駅の入り口にある いつもの喫茶店で本を読もうと、スコーンとダージリンを注文する。 北海道は生クリームの平均点が高いからというのもあるが、 ここはシフォンケーキなんかも美味しい。 昨夜黒ゴマのシフォンを食べたので、今朝はブルーベリー・ジャム 付きのスコーンにしたというわけだ。 本を読むことが充分できる明るさだが全体としては木を基調にした 暗めの店内で、日本の少し洒落た感じの喫茶店が予め申し合わせた ようにこういう内装を施すのは何故か、と思いつつもネルドリップ で淹れられるコーヒーや、店で作っている多彩な自家製ケーキの味 に魅かれて通っている。
休日の午前中のBGMは、エンヤに決まっている。 当番の女性のお気に入りのようだ。 凛とした面立ちのきれいな人で、こういう女性が、客のまだ少ない 静かな店でエンヤを聴いているのはなかなかいいな、と思っている。 と言っても、誓って彼女お目当てで来ているというわけではない。 むしろマスターがいない時は、ネル・ドリップの濃いフレンチが 飲めないのが不満なくらいだ。
このあいだの年末の年越しは、この店で本を読んで過ごしていた。 近くに大きな神社があって、二年参りの客のために稼働する地下鉄 にあわせて深夜営業していたのだ。 もっとも普段からここは24:30まで開いているが。 部屋で一人テレビを見ているのもいやになってここへ来たのだが、 年越しの30分前ごろ、彼女がCDをエンヤに掛け替えた。 エンヤの曲の何かしら聖的なイメージを、仕事先で迎える越年の ちょっとした儀式にしようと思ったのだろうか、 まだ神社から戻ってくる客もいない店の中には、僕しかいない。
はっきり覚えていないが、 どうせ僕はそのときホシノミチオを読んでいた。
ホシノミチオとエンヤといえば、 「タツムラジンつながり」と知れている。 一年半くらいまえ「地球交響曲第三番」を札幌市民会館でみた。 どういう態度で見ようかと考えていて、シニカルになるよりも先に感情に 任せようと思った。映画がはじまって80秒くらいで涙が出ていた。 この作戦は成功だったと思う。 終盤の追悼集会のシーンでは、ビル・フラーが訪れてきたところに爆笑し、 ボブ・サムが無表情な顏でタブーをカメラの前で話すと宣言するところでは 「言っちゃダメだ、ボ〜ブ!!」と突っ込みを入れている自分がいた。 タツムラジンというのは大した人物だ、と思った。 NHK時代につくった若書きのフィルム「18歳男子」などを見るにつけ、 とても彼が「ガイアおばさん」の教祖になるような善人じゃないことがわかる。 そういう大悪党だからこそ監督なんてできるのだろう。流石に胆力が違う。
高校時代にラブロックの本の邦訳が出て友人と田舎町の本屋で「すごい本だ」 と騒いでいたが高くて買えなかった。そのうちアーサー・ケストラーの 『ホロン革命』の方がすごいゾと、僕が言い出して結局読むことはなかった。 そんな80年代の現代思想キッズの冒険から早くも15年が経って、 ガイアといえば今やウルトラマンだ。 平成ウルトラマンはオタク的つくりで、「ティガ」「ダイナ」では実相寺昭雄 監督が1〜2本撮ったりもしている。いずれも歴史に残る怪作である。 先日ガイアを見ていたら、アグルというニヒリストの青いウルトラマンが登場 していて、人類は地球のバイ菌だから殺菌しなきゃいけない、と苦悶していた。
闇雲に人類の味方をする主人公のウルトラマンのネガとしてのダーク・ヒーロー は「鉄腕アトム」のアトラスとか「ブラックジャック」のドクター・キリコとか、 系譜をたどればいろいろ出てくるのだろうが、「ガイア」は子供に見せるには あまりにも息苦しい展開になっている。 地球の意志と人類の運命という巨大命題の議論を闘わせながらプロレスする二人 のウルトラマンというのはすごい。しかし変身前のお兄さん二人がゴチャゴチャ 喋りながらケンカする様には、「おまえらはシャアとアムロかあ?!」と 突っ込んでおくとしよう。 同種の苦しさは環境問題映画(!)「ガメラ3」にも濃厚に現れている。 地球、人類、文明のアポリア。21世紀世代の子供は前提からしてシンドそうだ。
・・・そんな話ではなかった。ホシノミチオの話。
あのころミチオのことが頭から離れなかった。 生前の星野道夫氏を知らないから、本の中の人として心の中ではミチオと呼んで みることにしている。「星野道夫さん」と世間が呼ぶときの聖人化的なドライブ のかかる感じが胸に痛い。 それは心の中のミチオを遠ざけて密殺してしまうような気がするのだ。 フィールドからのメッセージを書店でお金を払って消費するだけの立場の人間は、 もっともらしく彼の死の意味を受けとめたり、悼んだりする資格はない。 ロック・スターやグラビア・アイドルに対するように、 多少の自嘲的な諧謔もこめて、本に登場するアラスカのガイジンたちの真似をして 「ミチオ」と呼ぶのが、ねじれていて正しいみたいな気になっている。 そんな距離感の測りがたさを、ずっと持て余している。
アラスカへ行かずにミチオに出会える場所があった。 97年と98年のはじめ、冬の然別湖で開かれた氷のミュージアムの写真展だ。 湖畔に氷のブロックを積み上げてつくった大きなイグルーの中に、 寒冷地用特殊加工のパネル化された大きな写真がかなりの点数展示されている。 春には白い氷も溶けて、似ても似つかない風景になってしまう場所は、 生命の永遠と一瞬を詩にしたようなミチオの写真をみるのにハマリすぎ。 もちろん氷のミュージアムの中には、エンヤもかかっていた。
テレビドラマの終戦直後のヤミ市のシーンに、BGMで薄く「りんごのうた」が 欠かせないように、ミチオの行くところエンヤが自動演奏されるものらしい。 冬の予定に入れていたのに残念なことに今年の然別湖は開催が見送られたようだ。 全国のデパートで写真展が開かれていて、もうすぐ北海道にもやってくるという。 でもあのイグルーの静けさは再現できない。密閉式ヘッドフォンで大音量でエンヤ をかけながら見に行くというのは、バカげていて「買い」かもしれない。 その前にすでに会場でかかっている、という恐れは充分にあるが。
もうひとつ気に入っていたのは、凍った湖の上に点々と飾られていた写真パネル。 雪の反射で目が眩んで絞り機能がおかしくなったり、離れたパネルまで歩く途中で ちょっとしたブリザードに吹かれて近くのイグルーに避難したり・・・。 楽しみは、遠くのパネルに着いて少し弾んだ息で果敢に試みる「写真で一言」。 たとえばブリーチングする瞬間のザトウクジラの写真をみて瞬時に、 「ぷはーっ!苦しかったあ!!」と呟いて笑う、というような罰当たりな遊び。 場所が場所だけにハイになる。他にも笑える北の仲間達の写真がいっぱいなのだ。
生真面目な表情のミチオのセルフポートレイトが飾ってあれば、実はあれは セルフタイマーで撮っていて、発表されたお気に入りの写真のフィルムの前後の コマには、「立ち位置に移動するのが間に合わなくて慌てているミチオ」とか、 「もうOKかな、と思ってレンズを伺うミチオ」が写っている、などと冗談を思いつく。
今また不埒なことを思いついた。
先日仕事先で洞爺湖の湖畔の農家の若夫婦がイグルー作りをして楽しんでいる ところにお邪魔したが、ほんの少しだけ氷のブロック作りを手伝った。 そんなに難しいものではない。来年の冬も然別湖の写真展がなかったら、 どこかで小さめのイグルーをつくって、寒冷地用特殊加工は無理としても、 一日だけもつようなカラーコピー貼り付け式即席パネルにお気に入りのアラスカを 切り取って並べる。入場料をとるわけでなし、著作権の問題もないだろう。 内輪の仲間で氷を積み上げて、プライベートなホシノミチオ展をやろうか。
もちろん、そこにエンヤが流れているのは言うまでもないことだ。
2001年07月17日(火) |
ディープフォレストにつつまれて |
題:35話 最初の夏5 画:栃の実 話:熊についての話を聞く少年たち
※日録タイトルだけ、変更しました(^^;
さぁ、来ました、矢でも鉄砲でも持ってこい!ってな感じです(謎) いやね、ヒグマと聞けば過剰反応する、長い長い経緯があるのです。 でも、それは語れない、 御大が『旅をした人 星野道夫の生と死』(Switch)一冊分の原稿を 書いても、語っても、なお想いが尽きなかったように…。
なおヒグマとヒトの関わりについては、 S・ヘレロ『ベア・アタックス』(北海道大学図書刊行会) 熊谷達也『ウェンカムイの爪』(集英社文庫) それに『知床のほ乳類』という本があります。 難しいです、野生動物との関わり方の問題は…。
北海道へいらっしゃる方は、ぜひ登別温泉のクマ牧場を見て下さい。 あれが、我々とヒグマとの“エッジ”です。 ミチオの写真を見て、美しいアラスカに飛ぶのも良いでしょう。 でも「北の大地の大自然」なんてフレーズに騙されないで下さい。 そんなものは、もう過去に消費してしまいました、私たちが。 なんか『もののけ姫』の宮崎駿氏みたいに苦渋に満ちてくるね、 この話題は、やっぱり(^^;
僕はヒグマを駆逐するしかなかった「静かな大地」を遠く離れて まったく違うアプローチからヒトの文明と自然に迫りたいと思っています。 昨秋の北米ニューイングランドの旅は、その思索の楽しいエクササイズ。 今夏はまた、それとリンクしつつ、まったく異なる線を辿ります(^^) その準備や予習もしなきゃいけない、時間もないので今夜はここまで。 週末から来週にかけて、公私ともに気が抜けない時期なので、 体力をうまくペース配分して切り抜けたいのです。
今夜は僕にとっての“幸福のトラウマ”の時代かもしれない、 北海道時代、1999年の春の文章を再録して、全速力で逃げます(笑) 長いからねぇ、この調子でアップしててサーバー的には大丈夫なんだっけ? まぁ、いいや。では、G−Whoマニアの皆さま、お楽しみ下さい♪
*********************************** 「ディープ・フォレストにつつまれて」
・・・一歩ごとに足を捕られてなかなか斜面を登ることが出来ない。 カンジキをつけた足が、弛みかけた春の雪に半ば埋まりながらどうにか 身体を前に運んでいる。 街歩きには慣れていて、脚にはそこそこ自信を持っているつもりだったが、 歩くスキーからカンジキに履き替えての斜面は、なかなかに良い運動を 課してくれる。天気が穏やかで寒くないのが救い。
4月なかば過ぎの日曜日、僕はようやく春めいてきた北海道・支笏湖の 近くの山の中にいた。
ヒグマの研究者の方を中心にした一行は僕を含めて7人、H大学のA先生 の娘さんも一緒なので、山歩きとしてはビギナー向けのペースで進んでいる。 ポチとコジローという2匹の柴犬も一緒だ。 連中はまさに「犬は喜び庭かけまわる」という状態で、とても元気だ。 きょうの目的は、ヒグマの冬眠穴の調査。 もちろんクマはすでに冬眠から覚めて、穴から出たことは確認済みだ。
クマザサや木の枝に引っ掛かかりながら、尾根を上へ上へと登る。 晴れ渡った支笏湖が見える。周囲に広がる森はまだ葉をつけていない。 ヒグマの棲める森は、昔に比べるとほとんどないに等しいのだそうだ。 10代のころからもう60年もこのあたりの山を歩いている老ハンターの Aさんは森の変貌を嘆きつつ僕らを案内してくれている。 昔はヒグマを撃っていたが、数が減ってしまって狩猟をやめてから もうしばらく経つという。
ヒグマの穴を見に行く機会に恵まれるなんて・・・。 ほとんどホシノミチオの本の中のアラスカのようだ。 都会でミチオの写真を見て、いきなりアラスカ行きを考えたり、その勇気が なくて躊躇したりしている人たちに、自慢してやりたい! ・・・そんな子供っぽい邪心も手伝って、両足は快調に身体を山の上へと 運び続ける。他のことは何も考えなくてもいい、身体を動かす快感。
・・・その前の日、僕は函館にいた。 翌日の山歩きのために、函館の駅前の魚市場の中に入っている靴屋で雪用の 長靴を買って、その袋を手にもったまま道立函館美術館を訪れた。 全国を巡回している「星野道夫展」を観るためだ。 急に決まった雪山行きに相応しい靴を持っていなかったため、 函館で買うハメになった。ヒグマの冬眠穴を見に行くための長靴を手に持って ミチオの写真展に行くなんて、ちょっと出来過ぎか?
北海道は函館、旭川、札幌、釧路と、人口が少ない割に4会場も写真展が 巡回する。自然写真の愛好家が多いとか、ミチオが生前北海道のことが好き だったとか、いろいろ考えてみても説得力のある理由が見つからない。 そんなにやるなら、冬の然別湖の氷のミュージアムもやってくれれば よかったのに・・・。去年、一昨年と訪れた真冬の然別湖を思い出す。 大きな氷のイグルー、湖の氷の上にもある写真パネル、氷のバー。 あんなにミチオの写真を視るのに最適な場所は、他には考えられない。 そのへんは、以前にここ(「そこにはエンヤが〜」)に書いたとおり。
自宅のある室蘭からは、函館まで電車で2時間足らずで行ける。 道立函館美術館だけに、東京の友人たちから聞いた銀座松屋の喧騒とはまるで 違う静謐な空間。靴の音が響くくらい。 然別湖の氷のミュージアム2回を別にすれば、展覧会でミチオの写真を見るのは 初めて。地元のほとんど先入観のないオバちゃんが一枚一枚の写真ごとに素直な 感歎の声をあげているのはよかった。 然別湖氷のミュージアムに比べると、写真パネルの大きさも、その数もずっと あるのに、静かできれいな美術館でみる写真は、なんとなく全国のデパートを 回ってきた臭いがするような気がする。 そういうと何だが、ミチオが子供のころから憧れていたという北海道の景色を眺め ていた、行き帰りの「特急北斗」の車窓の方が、ミチオを近くに感じさせてくれた。 妙なものだ。
僕は北海道に住んで6年になる。 その記憶の降り積もった量だけは、いかに軽薄な日々を送っていても、否定しがたく 積み重なっている。 ちょうど毎年浴びてきた雪片が幻ではないように。
でも展示の順路の最後の直筆原稿には、してやられたナ・・・。 普通、小説家なんかの生原稿って有り難くもない、と思って見るのだけれど、 ミチオとなると・・・泣いてしまった(笑) そしてそれと並んでガラスケースの中にかしこまっているミチオのスノーブーツ。 ヒグマの穴を見に行くための長靴を持ってきた自分が妙に可笑しくて泣き笑いした。 変な客だ。
ま、その気になれば北海道は、旭川、札幌、釧路とグランドスラムも可能だ。 ミチオが愛した北海道、現在もヒグマが棲む北海道の春から初夏を見て回るのもいい。 帰りの列車でケイト・シュガックのシリーズ最新刊『燃えつきた森』を途中まで読んだ。 ちょうどケイトがフェアバンクスに着いたところまで。
ギリシアから帰って半月、その週末はアラスカ寄りのモードになった。
ここは瀬戸内海のぬくぬくした地方都市で育って、東京でバブル期に大学時代を過ごした 人間の身体蓄積データを「地球の平均値」に近づけるのには、結構いい場所かもしれない。 日本国内に限っていえば、沖縄と張り合えるだろう。 札幌には東京そっくりの商業テナントビルが沢山あって、特殊な趣味、 たとえば能楽鑑賞とか、大相撲の生観戦とか、鎌倉散策にこだわらない限りは、 東京的ライフスタイルを満喫することができる。 日本のありふれた都会の一面をもつ街だ。
でもやはり北海道。毎年山菜採りへ出かけて薮に迷い込んで行方不明になる人、 通学路に出没して撃たれるヒグマや、凍った湖でイグルーを造って楽しむ人たちが、 季節のニュースとして流れる環境は、ずっと自然に近い。
地球上のさまざまな場所は、すべてそれぞれに個性があって、 気候風土、資源、植生、人口密度、などいろいろな指標で偏差を計ることはできても どこか、「地球上の平均値」などという場所はない。 宇宙人に地球を紹介するための写真として、どこの風景を見せるか?と問われて、 ベナレスでもシュトラスブールでもユジノサハリンスクでもあるいはダーウィンでも、 どこか一ヶ所の写真だけでは公平を欠くだろう。 とりあえず「ナショナル・ジオグラフィック」のバックナンバーをまとめて渡すという のはいいかもしれない。(最近はDVD版も出ているらしいので持ち運びも便利かも。)
世界にはいろんな場所があって、風土があって、人の暮らしがある。 それを知ることは、物事を考えるうえで大事なことだし、結構楽しい。 気分としては北海道は、トウキョウとフェアバンクスの「間」にある。 (那覇に住めばトウキョウとバリ島ウブド村の間にいる気分になれる?) まあそういう発想は「平均値」っぽいものを前提としすぎているのだろう。 サッポロはサッポロ、ナハはナハ・・・。それはそうだ。 フェアバンクスごっこの色眼鏡を通して北海道を眺めるのも遊びとしては楽しいが、 たまにはフィールドへ出かけよう。ここにしかいない固有種の動物や植物、 そしてもちろんヒトもいっぱいいる。
そんな気分もありつつ、いま仕事で苫小牧の北大演習林に入っている。 今までに経験のない仕事を前にして、さっさと現地に入ればいいものを、 いつもの悪い癖でブッキッシュな逃避癖を発揮して、ここ最近 森や樹に関係する本を読んでばかりいた。
*真保裕一『朽ちた樹々の枝の下で』(講談社文庫) *猪瀬直樹『日本国の研究』(文春文庫) *田中淳夫『伐って燃やせば「森は守れる」』(洋泉社) *石城謙吉『森はよみがえる〜都市林創造の試み〜』(講談社現代新書) *井上民二『生命の宝庫・熱帯雨林』(NHKライブラリー) *ディナ・スタベノウ『燃えつきた森』(ハヤカワ文庫HM) *池澤夏樹『タマリンドの木』(文春文庫) *エイミー・トムスン『緑の少女(下)』(ハヤカワ文庫SF)
本を読みながら、耳からは超絶ヴォイス・サンプリング・リミックス芸の ディープ・フォレストのアルバムCD3枚を、取っかえ引っかえ聴いてた。 ヒトの近くの森、ヒトの近づけない森。世界中に広がる森。 地球の生命が陸上に上がってからの記憶を集積し、昆虫と花と果実と サルを内包している森。『風の谷のナウシカ』劇画版の元ネタ(?) とも言われる山田正紀『宝石泥棒』(ハルキ文庫)に描かれた、 魑魅魍魎が跳梁跋扈(すんなり変換できるナ 笑)している神話的な 森の世界。
ヒトは森から出てきたサルの一派らしい。それでも森を必要としている。
・・暖かな日差しが消え残った雪を溶かし、クマザサの下生えが露出する春の 北海道の山。乾いたクマザサを格好の休憩用シートにして昼食を摂る。 同行の柴犬のポチとコジローがエサをねだるように右往左往している。 クマザサに寝転んで空を見上げる、なんてベタなことをついやってしまう。
腹ごしらえを済ませて、いよいよクマの穴に近づく。 もちろん研究者の方が下見にも来て確認しているので危険はないはず。 ところが、あと30mのところまで来て二頭の柴犬の様子が変わった。 さっきまではしゃいで走り回っていたのに、ポチが急に前に進まなくなる。 前足を雪に踏ん張って、主人が引っ張っても動かない。
急に不安になる。クマが戻ってきているのではないか? Wさんが、クマに着けてある発信機からの電波を確認するためアンテナを向けるが、 やはり反応はない。大丈夫。犬はクマの残り香に反応したらしい。 不安がる犬たちを連れて、僕たちはそこに近づいた。
倒木の根っこの下をほぼ垂直に掘り込んだような場所に穴はあった。 数日前までそこで雄のヒグマが冬を越していた場所。その確実な痕跡は、 北海道に野生のヒグマが生きていることをはじめて実感させてくれた。 ものめずらしい野次馬の僕は、中の大きさの計測などが終わったあと 穴に潜らせてもらった。 入り口は狭くなっているが、すぐに横に広い空間がひろがっている。 しゃがんだ姿勢なら大人が二人入れるくらい。
一人で穴の中で、じっとしてみる。 秋にドングリをたらふく食べたあと、ここを掘って中に潜り込んで冬を越す。 穴の上を雪が被って、また雪が少なくなるまで待つ。 そうしていくつもの季節を過ごす。 なんだ、ヒトと同じじゃないか。 南国のヒトと北のヒトよりも、 ここのヒグマとの方が近い気分を共有できるかもしれない。 進化史上もクマはヒトの「隣人」らしいし。
・・・ヤア、ヤット春ガ来タネ!今年モ美味シイ山菜ガ食ベラレルヨ。
題:34話 最初の夏4 画:チモシー 話:異なる言語との初めての出会い
五郎ちゃんが、まだ出てきませんでした。 これから三郎兄さんを中心にした少年たちの「ひと夏もの」が展開する ものと決めつけている(笑)“幸福のトラウマ”の原体験となる夏。 つよく横溢する夏の日射しが作り出す、光と影のコントラスト。 良いことも、つらいことも、しっかりと焼き付くような“あの夏”。
御大の子供時代の帯広での体験に、そういう原体験を求めるのは 年代的に少し難しいだろう、何せ5歳までだから。 むしろ読書体験と、それに派生したギリシア体験が大きいかもしれない。 すなわちジェラルド・ダレルのコルフ島、それに感化されて御大が 住んだアテネ時代の体験と、日本帰国後に味わわれた「失楽園」感。 あるエレメンタルな暮らしへの絶対肯定と憧憬。
ジェラルド・ダレル『虫とけものと家族たち』(集英社文庫)は、 数年前にちょうど今の季節、夏の文庫100冊みたいな中に入っていた ので、そのとき再刷されたようだが、『鳥とけものと親類たち』は ずっと絶版状態のはず。ちなみに僕はどちらも持っている、実は(笑) これと坂本嵩『開拓一家と動物たち』を併せ読めば、オトナたちには ある種、シリアスな体験であるはずの開拓という難事業下の「夏」が、 少年たちにとっては輝きに満ちたものたりうる、というのは想像できる。
御大の“幸福のトラウマ”の原点は、 あくまでもそうした「男の子のユートピア」みたいなものなのだろう。 それに対して、図らずも北海道に材をとった時代ものの先行作品、 北方謙三『林蔵の貌』も、船戸与一『蝦夷地別件』もなんとなく事の 顛末のつけ方に、ガクセイウンドウの影が差している感じが色濃い。 ネタバレになるが、いずれ架空の部分が多いとはいえ、大枠の歴史は 踏み外していないわけだから、和人とアイヌが共に手を携えて豊かな 社会を築いた…ってな結末にはなりようがないわけで、主人公周辺の 人物は挫折し、敗残し、復讐に走ったり、仲間の死を悼んだりする。 なぜか北海道の歴史に材を採ってフィクションを作るときに、 この範型が妙に馴染んで説得性があるのは、現実の歴史の悲哀ゆえか。
同じことをやっても仕方がない。 御大の趣味でもないだろうし、現実の時代もさらに先へ進んでいる。 事はさらに根元的なところへ降りていかないと理解し難くなっっている。 『楽しい終末』を、遙かに通り過ぎた地点から書かれる作品なのだ。 『お登勢』は面白い物語だが、課せられている“お題”がまるで異なる。 この、ある意味での最大の難所を、御大がどう越えるのか? それとも、想像もつかない線から物語を立ち上げてくれるのか、 おもしろいところである。
#ま、そんなこんなで続いたり続かなかったりのこの日録ですが、 皆さまいかがご覧になってますでしょうか?(^^; 来月初旬から中旬にかけて執筆者国外逃亡のため、また中断します。 っていうか、来週も、先週と条件は一緒なので更新厳しいんですが(^^; ご声援のメールいただいた方、どうもありがとうございます〜♪
2001年07月15日(日) |
青いビルケンシュトック(改) |
題:33 最初の夏3 画:白樺 話:沖にむかって泳ぐ(with コンプ♪)
※後日、一部改稿しました
日高の海は過去にずいぶん見てきたし波打ち際で海水に触れたりもしたが、 そういえば泳いだことはないなぁ。 でも小舟に乗って昆布を採る漁師さんの仕事ぶりを見たことがあるのは、 以前6月19日のところに書いたとおり。 東静内のあたりは確か自○隊の対空射撃基地みたいなのがあって、 今は漁業はできないんじゃなかったかな?…などと物騒なことを思い出す。 様似の海岸でなんだか日が暮れて星が見えるまで佇んでたこともあった。 …しかしこんな経験してる俺は何者? 松浦武四郎か、伊能忠敬か?(笑) 北海道では本当によく歩いた。普通、車社会なのでかえって歩行距離は 短くなりそうなものだが、僕は公共交通機関を使いながら、好きこのんで 歩き回っていたような気がする。
よく歩くのは、僕の習性だ。 普段の生活でも、仕事でも、海外へ遊びに行っても途方もなく歩く。 ヴァーチャルな世界に体重をかけすぎてはイケナイ。 メディアのゴーグルを、ずっぽり被って呼吸している人が結構多いけど、 そしてそのクセ世界一エライかのような口ぶりで物事を断じる若い人とか 見かけるけど、なかなか格好悪いものです、生の貧しさ、露呈しすぎで。
とりあえず自分の足で歩けること、 それが対話できる、あるいは、したい相手の条件かもしれない。 難しい問題に対する知識や見識なんてなくてもいい、 ただ宇宙に対して謙虚で、それでいて自分の「欲深さ」を楽しむことが 出来れば、まずは合格。 そこから先、どこまで遠くへ歩いて行けるか、 それが人生の価値を知る人たりうるかどうかを決めるのだろう。
たとえば、須賀敦子のように・・・。 『ユルスナールの靴』という、マルグリット・ユルスナールに言寄せた “自画像”を、ちゃんと彼女が書いておいてくれたことに感謝している。 彼女の本を読めば、何でもわかったような口をきくような浮薄さから 少しは離れられるだろう。 ほんとうに全人格、全人生の時間、つまるところ人が与えられたすべてを 注ぎ込んで「生きる」ということを実践した人だから。 「結構な御本を拝読いたしました」という“趣味の良さ”みたいなところ に読者を安住させない強い力は、そのへんから出てくるのだろう。
最近まで刊行がつづいていた全集を、予約購入していたので彼女が短い 執筆期間に発表したもの、未発表だったものも含めて読めるものは すべて手元にあることになる。贅沢な話だ。 でも日々の暮らしの中ではなかなか彼女の文章は読めない。 今の部屋に引っ越した去年の秋、北海道時代に積もり積もった駄本の山 をブックオフの宅本便なるシステムで処分した。十数万円になった。 すっきりした部屋の棚にわずかな書物、とりわけ須賀全集を並べて 静謐なる読書生活を送ろう、と目論んでいたが、そうはいかないようだ。 生活が静謐じゃない以上、ジャンク・フード的な濫読は止まらない。
いっそ本など一切読まずに、緑の中を散策したり、愛する人と語らったり、 観劇や演奏会に出かけたり、そうして過ごせればどんなにか良いだろう? …ハハ、書いてて自分で空しいぞー、特に二番目のところが切ない(^^; ずいぶん前からこんなことを言っていながら何も変わらない気がする。 でも同じ去年の秋に出会って、僕の人生を変えてくれた相棒はいる。 ビルケンシュトックの靴だ。
立ち仕事が多くて、プライベートでも歩くのが趣味なのはいいけれど、 どうもピッタリした靴がなくて難儀していた。 それともうひとつ、青く染めた革製の靴を旅先のドイツで見かけて いいなぁ、と思っていたのだが日本では売っていなかったのだ。 ビルケンの靴自体は知ってはいたが、青のはあまり出回っていなかった。 ある時、青いヴァンクーヴァー・モデルを店先で見つけて購入して以来、 気に入ったので直営店に行って立て続けにスタンフォード・モデルと モンタナ・モデルの青を注文した。質実にして、特徴あるデザイン、 車にも時計にも服にも全くお金のかからない僕の唯一の贅沢である。
注文した、というのは僕の足の形が幅の狭い欧州人型だという店の人の 見立てで、日本にはナロウ・タイプというのがほとんど入ってこないため、 ドイツの工場からの取り寄せになると言われたから。 おまけに青にこだわったので、日本には全然ないタイプだったのだ。 2ヶ月待って、同時に注文したサンダルのボストン・モデルとともに、 今や彼らなしでは僕はどこへも行けない、という存在になっている。 で、さらに追加注文していたパサデナ・モデルとハイカットのヌバック の何とかモデルが入荷したというので取りに行った。もち、すべて青♪
ぴったりの靴があれば、どこへだって歩いていける…、 須賀敦子先生のコトバを、めちゃめちゃ即物的に実践してみました(笑)
あとは、歩くのを苦にしない、素敵なパートナーがいれば幸福なんですが。 金のワラジならぬ、青のビルケンシュトックで探しに行こうか(^^)
2001年07月14日(土) |
我が小泉ブーム、熊本、耳 |
題:32話 最初の夏2 画:南瓜の種 話:“コンプ返し”しようとする少年たち
結構いつもどうにか3行でやめようとしているのですが、 そして今も実際「今日は書くことないなぁ」とか思いつつ、 書き出すと歯止めがかからないのが危険なところ(^^; 休暇の準備、予習も今のうちからしなくてはならないし、 『静かな大地』絡みのお勉強のネタも尽きまじ、状態。 でもね、PCに向かっているよりも、ゆっくり入浴するとか ストレッチでもやるとか(<そんな習慣はないけど)、 たまには音楽を聴いてみるとか、休日の正しい過ごし方は いくらもあるのだが…。
しばらく長期スパンの静かなマイ・ブームになっているのが ラフカディオ・ハーン、すなわち小泉八雲@『怪談』である。 ま、本日のタイトルのネタって、これ↑なんですけど(笑) スミマセン、くだらなくて…。 いやね、僕は政治学科出身だし、元田中角栄氏の秘書だった 早坂茂三氏の本を愛読してたり、だいたいが栗本慎一郎氏の 支持者=師事者なので、永田町ネタは好きなんですけどね、 以前総裁選で栗本師が純一郎氏を担いで負けたこともあって 最近はあまりにも興味なくして久しいのです。
猪瀬直樹氏の『日本国の研究』なんかも面白く読んだので、 特殊法人にメスを入れてマトモな世の中にするべきだとは 思いますけれどね、「Jr.愛の関係」ってドラマが好きだった 単なる馬鹿な好事家というスタンスで政治が好きなんですね、 小室直樹御大の本を中学生の頃から読んでた、みたいな(^^; 電脳突破党・宮崎学氏に言わせれば、小泉政権の構造改革が 今叫ばれるのは、手を付けようがなかったバブル期の不良債権 を今こそ処理しようという腹、その心は往事に責任を持つべき 当事者たちの特別背任罪の時効が成立する時期だからだそうな。 コワイ、コワイ、悪党がいっぱいいそうですな。 『金融腐食列島・呪縛』どころではありませんです。 以上は余談。
で、明治の日本を見たラフカディオ・ハーンの話。 過去2年の間にギリシア、アイルランド、アメリカへ出かけた 身としては、ギリシアで生まれアイルランドで育ちアメリカで 文筆家となったハーンは長らくの「お題」だったのです。 大好きな俳優の佐野史郎氏が松江出身でかつ“ああいう”趣味 の方なので、ハーンにはかなり入れ込んでらしたのも一因かも。 とにかく自分の思考にハーンが絡んで来そうで、でも切り口が 見えなくて、妙に手探りの状態が続いていました。 「100冊」に何故か阿刀田高『怪談』(幻冬舎文庫)が入って いるのも、広くはいろいろな形でリンクしてくると思ったから。 これは八雲の「怪談」のサマリーとかではありません。
阿刀田氏は『ギリシャ神話を知っていますか』をはじめとした 西洋の古典を、サラリと読みやすく面白いエッセイにまとめる お仕事をされていてなかなか便利でもあるのですが、これは 一寸違います。結構分厚いフィクションになっていて、ノリで 言えば殺人事件とかは起こらないけど、文学ネタのトラベル・ ミステリーみたいな作風。主人公に着いていくと上手にハーン の伝記と主要な作品の要約を知ることが出来る、学習参考書的 なスグレものでもあります。でも体裁はラブ・ストーリーね。 実際に熊本や松江やマルティニークまで取材していると思われ なかなかお買い得な面白い本になっているのです。 チラと何故か北海道まで絡んでくるのがミソ。 (ほら、斉藤先生もチェックしてみましょう<以上、私信 笑)
ほかに軽く読めて伝記的な全体像を知ることができる本としては 工藤美代子氏『ラフカディオ・ハーン 漂白の魂』(NHK出版) がオススメです。ETVの「人間大学」テキストの出版化なので、 安くて軽い本なのが便利。 ただこのあたりの本だけだと、ギリシア、アイルランド、それに 南島マルティニークやニューオーリンズを経て日本へ至るハーン の特異な関心の持ち方を掘り下げるという感じではありません。
そこで西成彦さんの名前が出てきます。 実はこの方『森のゲリラ宮澤賢治』や『クレオール事始』という 一見派手に見える本を連打されていて、妙にケレン味のある学者 さんかと思って、どちらかというと敬遠していました。 ところが先日7月7日に紹介した『子どもがみつけた本』で、 長いあいだ熊本にいらしてハーンに関しても地道な良いお仕事を してこられて、今は京都にいらっしゃることを再認識しました。 この本は以前から所有していたのですが、西さんの他の仕事の イメージと合わないと勝手に思いこんで結びつかなかったのです。 で、最近また書店でご著書を物色していたのですが、さらに先日、 斉藤先生の英文学の方のサイトで『ラフカディオ・ハーンの耳』 という岩波から出ている主著が同時代ライブラリーに入っている ことを知り、あわてて買いに走ったという経緯であります。
まだ読み始めたところなのですが、つらつらと見るにこれ実に 面白い本です。「世界文学」の文脈の中にハーンを置くことで その仕事のグローバルな意味が初めて見えてくる興奮があります。 学問ギョウカイ的価値は全然違うとこにあるのかもしれませんし 僕が見当違いな興味の持ち方をしているのかもしれませんが。 「異国」での視覚体験と聴覚体験。明治日本の地方の街の音を 追体験すること。これはなかなか刺激的なエクササイズかも。 「好事家のヘンなガイジン」ではない小泉八雲が見えてきます。
サウンドスケープって、旅をすると意識化される部分ですよね、 その場所の音風景。耳って慣れやすいから、普段自分が住んでる 日常の音はどんどん意識から捨象されていってしまうけど、 旅先なんかだと現地の人にはきっと何でもない音を耳が拾うと いう現象が起こります。オーディオ・ドラマなんかを聴くと いろいろ効果音が凝っていたりして、上手く出来てるものは 視覚以上に場所への想像力を喚起したりします。 カフェの喧噪で、周囲の人々のお喋りも“サウンド”として しか認知することが出来ない状態もエトランゼにはオツなもの。
さて今度の旅先では、どんな音を耳にすることになるだろう?(^^)
題:31話 最初の夏1 画:枇杷 話:スタンド・バイ・ミーな子供たち
せっかく拾い昆布してきたのに退けられる子供たち。 なかなか哀しい。 昆布とか魚油とか山菜とか、アイヌが食べてるものを食べないと 冬は越せないってのは間宮林蔵の時代から知られてるはずだけど。 結構、北辺警備のために入った武士団が脚気で全滅したりした 歴史があるんですね、野菜とか欠乏するから。 気候風土が変わったら食生活を平気で変えることが出来ないと、 サバイブできないのです。
きっとこの大人たちは愚かな無類のコメ好きとして描かれるかも。 しかし実際そんなにコメ・フリークだったのかなぁ、日本人って。 すでにその実感の伝承が僕にはありません。 のっぴきならない理由でコメは一生禁止、ってことになっても 他のものが豊富にあるなら僕は全然大丈夫です。 味噌汁とクラム・チャウダーとグヤーシュの間に、そう差もない。 アーサー汁を飲む頻度と味噌汁を飲む頻度が同じでも平気。 美味いものはなんだって美味いのです、 なんて発言はマリー・アンントワネット的かもしれませんが。
いいんだ、普段本業多忙時にはウイダー・エネルギー・インが主食 なんだから、休日には贅沢するんだもん♪ そういえばギリシアへ遊びに行っててまたクアラルンプールに出張 してた友達がそろそろ戻ってくるかな。 渋谷の小さなフレンチ・レストランで苦しくなるまで飲み食いしよ。 しょせん東京では北海道に勝るものは安くは食べられないのだし。 なんだかウツケた日録になっていっている。いいことだ。 でもこの季節になると静内の隣の新冠で筏に乗ったのを思い出します。 期間限定の「緑の国」が出現するんですよね、あのへんの夏って…。 行きたい。
そうそう、この一週間の弁明と今後の方針。 これ本気でやっていると命に関わりそうだったので睡眠しました。 本業繁忙時はこの形態をとろうと思います。 そもそも新聞連載をフォローするという楽しくも面倒くさい作業を 挫折しないために、半公的な場所で書いているというだけなので、 別に僕が書いていることそのものは戯れ言みたいいなものなのです。 で、今週もちゃんと「静かな大地」は読んでいたので初期目的は 達成していた、ということで(^^;
でも遠からず一時それも出来ない状況になりそうです。 本業じゃなくて休暇で海外渡航するため。 以前「HP池澤御嶽」の掲示板では、僕が消えると皆さんが 行き先あてクイズをやったりしていましたが(笑) ギリシア、アイルランド、ニューイングランド&ワシントンDC、 そして次は…ほとんど一年に一度のこの機会、次はあそこだな♪ それにしても、どこも食べる物が美味しかったなぁ(^^)
2001年07月12日(木) |
「ことば」と「いのち」 |
題:30話 煙の匂い30 画:トドマツの松毬 話:作者によるアイヌ語表記についての説明
おおよその発音を移してカタカナ表記する旨。 「母国語と母語が一致しないケースのことは考えもしない。 これもまた我々が抱く単一民族国家という幻想の一つの例である。」 という引用部分にコメントしておきます。 まず“母語”という術語は田中克彦さんの本なりを読んだことがないと 一般的には普及してないかもしれない。マザー・タングですね。
先日のお芝居「ペンテコスト」では、バルカンと思しき地域の国家で 古ナゴルノ語がいきなり現代に復活した奇妙さと、ある時代以後は その言語を使うと死刑になったという設定が物語の重要な鍵になって いました。 日本絡みで国家と言語の複雑な関係を感じたければ、川村湊先生の とりわけ『海を渡った日本語 植民地の「国語」の時間』(青土社) が参考になると思います。 中島敦が南洋庁で教科書をつくる仕事をしていたことなど興味深い 話がいろいろ出てきます。
近代国民国家において「国境」や「言語」は人工的に規定される、 というのは、翻弄された側には視えても枠の中の大多数にはなかなか 実感できないものです。
表記のことについては、アイヌ語や琉球語はおろか、津軽弁や鹿児島弁、 いっそ江戸っ子のべらんめぇ口調だって正確には移しとれないのでしょうが。 アイヌ語の「音声」を聴きたい方は、↓こちらの「FMピパウシ」の ページへ。リアルプレーヤーで聴けます。 http://www.aa.alpha-net.ne.jp/skayano/menu.html
それにしても「単一民族国家という幻想」って現在でも一般的なのだろうか? ディベートの手管として御大は「我々が抱く単一民族国家」という 言い回しをしているのだろうか。 でもそういう「幻想」の“生態”として、思いもかけないアナクロな地平 から平気で何度でも時代を隔てて復活してくる妖怪みたいなとこはありそう。 憑きものを払うには、強靱な理性と狂気めいた強記が有効である、というのは 僕の趣味にすぎるかもしれない(笑)
私見。 言葉に関するまったく異なる2方向のエクササイズが必要とされている。 その1。 これは「欧米では…」という物言いになるが、ディベートやスピーチ系の トレーニングを若いうちから積むこと。 このことの必要性と有効さは結構「知識人」によって喧伝されている。 その時に大事なのは、以下のようなアプローチを併存させないと、 ディベート・チャンピオン上祐史浩氏のようなコトバ使いが生まれる 危険性が高いということ(笑) その2。 その一方でコトバに身体的実感を伴わせるための演劇的アプローチ。 ヴォイス・トレーニングとか声のキャッチボールみたいなゲームとか、 ゼスチャーやオイリュトミー、それに歌や器楽にもつなげたい。 よく知らないがヒッポー・ファミリークラブさんなんかもメソッドを 持っていそうな、音からの外国語遊びなんかも入るだろう。 アニマル・セラピー(馬に遊んでもらったりするやつ?)とか、 あと最近ではホーミーなど、のどうたのワークショップなんかも 楽しそうだ。なんせコトバと声やフィジカルな要素との連関の強化。
こういうのを初等教育のカリキュラムに詰め込もうというのではなくて、 選択肢の中で一般的になって欲しいなというのが希望。 いい大人になってしまっても自己啓発セミナーに駆け込まずに、 これらのスキルを向上させる機会が増えると楽しいと思う。 以前アイロニカルに書いたけど、アブナイ人も少し減らせるかも(笑)
全然アイヌ語の話から離れたような感じもあるが、そうでもない。 言語に関して上の「その1」みたいな部分では、もはや英語公用語論 に味方してもいいんじゃないか、と思えるくらいの状況になっている。 一方「その2」方面の部分で、少数者が伝承してきたコトバがもつ さまざまな自然観とか身体感覚とかを味わったり、それを交感したり、 そういうことがこれからもっと豊かになると面白いと思うのだ。 アイヌ語や琉球語のもつ季節感や生活感を味わってみること。 その眼は日本の古い世代の言葉に向けられてもいいいかもしれない。 明治の、江戸の、上代の人々の身体感覚にジャック・インしてみること。
あ、3行しか書かないつもりだったのに(;_:) まぁ大事なテーマなので、良しとしませう。 それにしても僕の関心の持ち方ってどうしてこう「不謹慎」なんだろう(^^; ポスト・サイバーパンク時代のマルチ・カルチュラルな言語観の持ち主 だからかもしれない(爆) 冗談はともかく実際は僕がコミュニケーション音痴だからなんだけど。
題:29話 煙の匂い29 画:綿 話:淡路から持参した“すべて”を燃やす火
題:28話 煙の匂い28 画:鶉豆 話:父が語る、倉の火事の記憶
#以後、後日、記録部分のみ書いた場合は タイトルを「煙の匂い28」みたいに しておきます。その時は本文はありません。
2001年07月08日(日) |
バベルの塔、現代史、田口ランディ |
題:27話 煙の匂い27 画:凍み豆腐 話:最初の出会いでアイヌに憧れた兄弟
「大地伴走日録購読申込み」という漢字の多いサブジェクトのメールを 頂戴してうれしかったです(^^) なんか広い土地をタッタカ走っている図が浮かんできて愉快ですね。 池澤夏樹というよりか、村上春樹ファン日録みたいで可笑しい♪
でも「大地」ったって、欧州の小国オランダの2倍の面積しかない、 裏を返せばそれだって条件さえそろえば独立国としてやっていけるって ことですけどね。北東アジアが列島も含めてもっと入り組んだ地図を 持っていたとしたら・・・そんなことを考えます。 だって第二次大戦後に連合国の分割占領が実現して定着していたら そうなっていたわけですし。 中国だってもっと派手に分裂状態のまま推移した歴史もあり得たと思う。 だとしたら欧州だって北東アジアだって変わりはしない。
さて、いきなりだが今日みた芝居の話から入りたい。
<文学座6月アトリエの会> 作*デヴィッド・エドガー 訳*吉田美枝 演出*松本祐子 「ペンテコスト PENTECOST」
【 物 語 】 東ヨーロッパの、とある片田舎に建つ廃墟と化した教会。 そこでフレスコ画が発見された。
「キリストの死を哀悼する聖母」の絵は、人類の悲惨な運命の予言なのか? 誰が描いたものなのか?
このフレスコ画の謎解きが、埋められていたヨーロッパの歴史を掘り起こす…。 そして、「時代」に翻弄され続けてきたこの場所に、 新たな1ページが加わろうとしている…。
…以上は文学座のHPより。 このお芝居、っていうかこの脚本、単純にすっごい面白かった。 前半はちょっとスノッブに会話を楽しみ、後半はグイグイ引き込まれる。 まぁ東欧バルカンの架空の国の話という時点で、僕の趣味ではあるが。 テオ・アンゲロプロスの映画とか、奇書『ハザール事典』で知られる 小説家ミロラド・パヴェチの『風の裏側』なんかも連想した。
冷戦終結後に“世界の火薬庫・バルカン半島”の面目躍如(?)たる 泥沼の紛争が勃発して旧ユーゴはこの世の地獄を見た。 まさかの事態に西側は対応する術もなく、世紀を越えて現在にいたるまで 火種は燻り続けている。 #なんか一年くらい前にどこかでこんな文章書いた覚えがあるけど(^^;
ディープな世界である。欧州の淵源は東にあり、という感じである。 そこへ狂言回しの西側の人間、意見を異にするイギリス人とアメリカ人 の二人の美術史家のキャラ立ちしたディベートが小気味よく展開する。 このへん『MASTERキートン』や『ギャラリー・フェイク』入ってる(^^) さまざまな民族ネタのアイロニー、カリカチュアの連続から、 後半は緊迫したサスペンス、それとフレスコ画をめぐるミステリーが絡む。 生々しい民族紛争の時事が盛り込まれているにも関わらず、 不謹慎にもウンベルト・エーコ『薔薇の名前』なぞ想起してしまいつつ。 おもしろい。けど難しい。
なにしろ、異民族、人種概念、他者、ディスコミュニケーションを主題と しているため、舞台上の登場人物達が平気で何語だかわからない言語で 喋り出すのだ。まぁ「スワロウテイル」と「アンダーグラウンド」でも 思い浮かべていただければ映画を見る人にはわかるかもしれない。 “バベルの塔”の問題、神が与えたもうた言語の違いが重要なモチーフ。 何でもD・エドガー氏は英国のジャーナリスト出身の著名な劇作家で、 1948年生まれだそうな。御大とあんまり変わらないね。 深い欧州。須賀敦子先生なら、これを観てなにか言ってくれただろうな。
二言目には国境が地続きの欧州の民族、宗教の問題は日本人には理解し 難い、みたいなことを便利な予防線として言いがちな人が結構いるが、 それは精確なもの言いではないのではないか、と思った。 それは「島国だから」みたいな隠蔽用の「物語」に依拠してきた戦後の 冷戦下の尻尾なのかもしれない。 すなわち、これまで多くの日本人、現行体制を多かれ少なかれ支持して 来た人たちにとっては、民族や宗教の問題について知らなくても良い、 いや、考えない方が都合が良い、という単純なコスト&ベネフィットの 問題でしかなかったのではないか?効率の問題である。
昨今とても支持を受けている書き手の田口ランディ氏が最近の文章で、 カンボジアへ行って自分がいかに無惨に現代史の知識を欠いているか について独特の、皮膚の痛みを耐えつつ「味わう」かのような文体で 書いている。決めも上手い。上手いとかいう問題じゃないのだろう、 そのへんが資質というやつなのだろうが、一寸小難しい事象に関しても 臆することなくベタとも思えるアプローチをしながら、肝は外さない。
無闇に現代史に詳しいのは、スノッブでイケ好かない男くらいのもの だったわけだ。このへんのランディ氏の物言い鋭いし上手い。 田口ランディ論はこの際どうでもいいのだけれど、今の日本人の現代史に 対する知識の欠如、無関心の基底には、明白な忘却願望があるのだと思う。 これまでは、細かいこと、その実は全然細かくなんか無いことに対して 目を瞑りさえすれば、それでやってこられた。 生身をさらした紛争地帯の生活者は、別にお勉強して現代史に詳しいわけ なんかじゃない。異議申し立て、サバイバルに必要不可欠だっただけだ。
そして日本の多くの人にとっても、かつて「大陸雄飛」なんかしちゃった 時代に人々はそれなりに近隣諸国や諸地域の事情に通じていたように、 今後はまた厳しいサバイバルのために知るべきことが出てきたということ なのだろう。一部の事情通やそれを売りにしている評論家みたいな人が 辛口の警鐘を鳴らす、みたいなことでは無くなってくるということだ。 落合信彦氏の時代ではなく、田口ランディ氏の時代とでも言おうか。 結構好きだけどね、ノビー・スーパードライ・落合のキャラクター(笑)
で、上で言ったところの「その実は全然細かくなんか無いこと」の中には まずオキナワのことがあるし、アイヌのことだってあるわけだ。 そういうことを70年代「反骨社会派」の芸風じゃないアプローチで 深いところから捉え直そうとする動きが、もっとメインストリームになる だろう。担い手はどこから出てくるかわからない。徒花もあるだろう。 変革期には沢山の選択肢が提出されて淘汰される。痛みも伴う。 でも何が起きようとしているのか精一杯逃げずに考えてみる覚悟は必要だ。 日本で「ペンテコスト PENTECOST」を書くとしたら、誰が、どんな風に? 野田秀樹氏なら書きおおせることが出来るかもしれないが…。
いったい何から考えればいいのかわからないままに、明日も「静かな大地」 を読む・・・って、新聞休刊日やないかぃ?!(<光速セルフ突っ込み!) というベタな落ち(?)で、夜も更けてきたので本日終了。
2001年07月07日(土) |
7月7日 コンタクト・隠し球・榎本武揚 |
小浜島では大変なことが起こりました(笑) きょうは7月7日。 ひとまず今日の日をコトホギまして、一言。
池澤夏樹さま、誕生日オメデトウございます。 『静かな大地』のことを考えると力が出ます。 よい作品になりますように。
ー*−
題:26話 煙の匂い26 画:小皿(鳥の絵付き) 話:“ドジン”とのファースト・コンタクト
春立(はるたち)とか遠別(とうべつ)といった小地名まで 脳裏に浮かべることの出来る、イヤな読者であります(笑) しかし「とうべつ」というのは北海道に沢山ある地名だけれど あそこにあるのは「東別」という字を当てなかったっけな? いずれアイヌ語の原語地名に音を当てただけだろうから、 漢字にさして意味はなかったのかもしれないが。
とはいえ本日ついに“ファースト・コンタクト”が描かれた “ドジン”の子供オシアンクルを「後にあんなに親しくなって」 “五郎”と呼んでしまうに至っては、なんでゴロウやねん? という感は否めない、そのへんがどう描かれるかも楽しみ。 船戸与一『蝦夷地別件』でも“ファースト・コンタクト”が なかなか説得力をもって描かれていたと思うが。 欧米文学にもこうしたテーマは多く書かれているのだろうか?
ところできょう連呼している“ファースト・コンタクト”だが、 カール・セーガン『コンタクト』(新潮文庫)からの連想。 ジョディー・フォスター主演で数年前に映画にもなったけど、 原作もなかなか面白い。 映画でも巨大トランスポート・マシンの2号機が北海道に建設 されるくだりがあるが、この部分原作で結構厚く描かれている。 たしか主人公が札幌の街を歩いたり、アイヌという少数民族に 関しての一寸した言及があったり、日本の七夕伝説とその習慣 についても触れていたように思う。読んでみて(^^)
さて、今日は普段あんまり「池澤夏樹ファン向け」と思えない 文脈の話ばかりしているのもなんなので、ちょっとファン向け っぽい話もしようと思います。 みなさんあまりご存じないかもしれない御大の仕事を二つ紹介、 言ってみれば僕の「隠し球」プレゼント企画です(笑)
まず、その一。 熊本子どもの本の研究会から出ている『子どもが見つけた本』。 鶴見俊輔、工藤直子、池澤夏樹、西成彦の各氏による講演や 座談会で構成されている、子供時代の読書体験をめぐる本です。 この中で御大は「世界はどこまで広いか」という題の講演と、 工藤氏、鶴見氏との鼎談、そして西氏との対談で登場してます。 この講演、今まで活字や生でいくつか僕が知っている中でも 非常に「池澤夏樹とは何者か?」という自己省察として 良くできている“掘り出し物”ではないかと思います。 よく知らないけどamazon.comには無さそうな版元ですな♪ (一応、ISBN4-9900585-3-4、本体1,400円+税)
では、その二。 ラムラス&シェイナー『戦艦奪取大作戦』(集英社文庫)です。 昭和58年刊行、御大が訳と解説を担当しています。
戦艦「ルーデンドルフ」を乗っ取れ!! 第2次大戦中、バルト海域での制海権を 掌握すべく、英国海軍が決行した奇襲作 戦。わずか15人の精鋭戦闘員はUボート 乗組員をよそおいゴムボートで巨大な海 の要塞に接近する。ナチスのどぎもを抜 いた命知らずの作戦を活写する戦争サス ペンス。 解説・池澤夏樹
…とは裏表紙の惹句。われながらあまりにもマニアック?(^^; 御大のこの仕事を「意外」に思われる方もいらっしゃるかも。 でもルカレのフリークで解説も書いているのはご承知の通り、 それに昔角川文庫のブックガイドもので選者として冒険小説 の項を担当したりもしていたのです。 「戦艦の魅力というのは蒸気機関車に似ていないだろうか」 とは解説での弁。この男の子ぶりで納得という方もいるかも。 上の「世界はどこまで広いか」では、子供の頃の自転車の 拡張が今は飛行機になっている、なんて話をされていますし。
ここで、ひとつ提案。 冒険小説フリークであり、北海道に人並み外れた関心を持ち、 歴史上の人物では榎本武揚が好きだ、という池澤御大には 7月25日刊行が予告されている『武揚伝』の作者・佐々木譲氏 との対談を、是非どこかの雑誌ででもやって欲しい。 佐々木氏と仕事のジャンルは違うが関心のニアミスは多いはず。 読者がついていけないような車の機構の話とか、外国の作家の 話とか北海道の話が聞けそう。『ネプチューンの迷宮』と 『マシアス・ギリの失脚』を並べて読んだ人もいるのでは? とにかく『静かな大地』を読みながら日本の近代を見直す過程 で、異なる側面から強力な光を投げかけてくれそうな期待大の 作品が『武揚伝』なのである。 御大も「文春図書館」で取り上げて欲しいものだ。
なお佐々木譲さんは言わずもがなだが北海道出身の作家さん。 『ベルリン飛行指令』や『エトロフ発緊急電』で“あの戦争” の捉え方の新しいスタンダードを作った人だと思う。 でも『武揚伝』はまたひとつ、それを超えて本源的で骨太で 過激な「歴史観」をクッキリと打ち出した大作になりそうだ。 今年の仕事として、集英社新書『北の大地で考える(仮)』 の刊行も予告されている、注目の作家さんである。 なお佐々木さんご自身の公式ページで『武揚伝』の熱い予告 を読むことが出来る↓。 http://www.d1.dion.ne.jp/~daddy_jo/newpage16.htm
2001年07月06日(金) |
オラシオンと北方四島と雪景色 |
題:25話 煙の匂い25 画:グラス 話:河口からシベチャリ川を上って、いざ上陸
アイヌ語地名に無理矢理な漢字を当てはめて作ったのが、 ほとんどの北海道の地名だったりする。 中にはカタカナのまんまの地名も少なくない。 「ヤリキレナイ川」という『VOW』系の川も知っている(^^; なにも北海道だけとは限らない。 四国高知のキャッチフレーズ“最後の清流”でおなじみ ニホンカワウソのふるさと(<長いっ!)四万十川もそうだ。 「シマント」である。「ト」って“水”だったような…、 僕のアイヌ語力はドイツ語力以下。つまり全然ダメってこと。 一応ウィーンでレストランに入ってから出るまでドイツ語しか 口にしなかったことがあるけど、それは黙ってただけだし(笑)
で、シベチャリ川。宮本輝『優駿』をお読みになった方や、 映画をご覧になった方なら聞き覚えがあるかもしれない。 緒方直人クンがオラシオンと一緒に遊んでいた設定の川だ。 実際の撮影地がそうかどうかは知らないけど。 ちなみに実際オラシオンを演じた馬なら触ったことがある(^^) それにシベチャリ川の白鳥にエサをやったり、河岸で犬の散歩 につきあったり、寒い7月に花火をやったりしたこともある。 サラブレッドと桜の街、静内にはなかなか詳しいのだ。
きょうの版画はグラス。これまでの穀物や乾物系とは違う系。 船に積んで来られた物品の中に、こういうものもあったのだろう。 NHKスペシャルで北方四島の自然を紹介する番組をやっていた ことがあったが、その中で妙に印象に残ったのが、戦前の日本人 の住人が残したのであろう、食器だか瓶だかが土中から出てきて 一帯が村落だったが今は鬱蒼とした茂みになっていたという場面。 自然そのものはテレビ番組だから「ここでしか見れない!」貴重 な自然、みたいな強調の仕方をしていたが、実際は北海道と さして変わりはしない。ナニワズやヒメイチゲなど、春咲く花も 同じだ。だからこそ、土中から出てくる食器が切ない。
別に「北方領土を取り戻せ!」というアジテーションをしようと いうのでは全くない。そうではなく人の暮らしの痕跡というのが 茂みの中に埋もれてゆくさま、ある人為的な国境線の押し引きで 「自然」の状態も左右されること、その妙な不可思議さ。 日野啓三氏の小説ではないが、意識と自然のあわいのザワメキを 感じるのだ。裏を返せば北海道だって五十歩百歩で似たような 環境だと実感すること。街があること、人が大勢いることを 「自然な状態」だと思わない、思えない感覚。 ススキノのビル街の飲み屋でカラオケを歌っていたとしても どこかで今、自分は茫漠たる自然の海の上の浮島のような街に 乗っかっているだけなのだ、という不安とも快感ともつかない 奇妙な感覚に襲われることがあるのが北海道の特色だ、 …なんてことは誰とも話したことがないから、誰もが持つ感覚 かどうかはわからないが。
札幌の藻岩山という標高500mばかりの山にロープウェイで 上って街を見下ろすと、緑の海に浸されながらコンピュータの 基盤のように集積されたちょっとメタリックな札幌の市街が 浮かんでいるのがわかる。 そこでは比較的容易にほんの150年さかのぼれば、人の痕跡 のなかった世界を想像し、実感することが出来る。 それを助長するもう一つの、そして最大の要素、冬季の降雪を 付け加えれば、そこに住む人の意識が謀らずとも「自然」に 浸されたものになるのは、むしろ当然とも思える。
やがてそんな冬も描かれることだろう。 しかし雪となると池澤御大は、取材しないと書けないだろう。 いかな降雪現象を描いて読者を圧倒した『スティルライフ』を 書いたお人だとしても…。そして「取材」のリポートと叙述は 異なるものだ。父が語る雪体験ではなく、由良が身体で感じる 雪の描写が出来るかどうか。水=H2Oというのは、まことに 面妖な物質でヒトの意識に色んなカタチで作用してくる。 だから海も川も、運河だって立派に魅力ある景観を作り出す。 そこには視覚以上のものが働いているのだ。
天の動きと人の意識、マクロとミクロの照応という話で言えば 北海道の米農家で真冬の“寒”の季節に、その年の気象の予測を する習慣を継承している方にお会いしたことがある。 寒冷地における米作への情熱、それと真冬の雪に関してはまた 『静かな大地』に関連する叙述が出てきたところで敷衍したい。
あ、なんか今日は難しいモード(^^; 北海道に暮らす感覚についてなんとなく3作品を紹介。 みんな「100冊」に入ってます。 原田康子『満月』、これも映画になってたね。 札幌の生物教師の女性とタイムスリップしてきた武士のロマンス。 北海道をよく知らない人にも入りやすい魅力的なお話。 もうひとつは佐々木倫子『動物のお医者さん』、いわずと知れた H大獣医学部を舞台にした傑作漫画です。 なんだろう、これもすごく札幌ライフを感じられる本なんです。 あと本田優子『二つの風の谷 アイヌコタンでの日々』。 アイヌ関係の本を一冊だけ読むなら、まずこれを読んで欲しい、 と思わせる本です。どんな色であれ幻想の色眼鏡で他民族を見る ことの愚かしさ、抜きがたさをポップかつ真摯かつ痛みを伴う 叙述法で書いてくれています。この人に新書で新作書いて欲しい。
「100冊」ですけど、そのうち「+50冊」とかリスト作る かもしれません(笑)
題:24話 煙の匂い24 画:焙じ茶 話:その日の夜から海が荒れた
また帰宅が29時なり〜♪ コメにこだわる明治の移民たちよ、 僕の昨日の食事は、昼も夜も菓子パン類を囓っただけだった。 時間がなかったのだ。贅沢を言うんじゃありません!(笑) 北海道の米作についても書きたいことがあるのですが、 まだこれから機会もあると思われます。
雪を頂いていて真っ白な日高静内の山。 僕にはその姿をしっかり思い浮かべることができる。 空気や雪の冷たさも全身で感じることができる。
じゃあ、あの静かな大地へ行こうか♪
題:23話 煙の匂い23 画:匙 話:東京は好きではなかった
昨日のこの頁はなかなかに面白かったのではないかと思ったり(^^) おホメのメールを頂戴したりして、とてもうれしゅうございました。
さて、鼻歌気分で遠足にでも行くように「棄民」されるお子たち、 東京はお嫌いのようです。 わざわざ東京の描写を入れたのに彼らがこうも嫌うのは、 ナチュラル志向のピースフルな子供たちだったせいだろうか?(^^; 都市が嫌いなのか、「日本の中心」が気にくわないのか? すなわち喧嘩と火事が華の江戸の街なら興奮して目を見開いたのか、 薩長の武張った連中が我が物顔で仕切りまくる東京がイヤなのか?
なんていうのも今日の叙述、オキナワへ行ってからの御大の物言い がダイレクトに反映されていて、『すば新』ならともかく、いまだ 物語の風呂敷も拡げる前にこういう描写は損なのではないかという 気がしたからだ。これが「結論」なのだと見えたら、物語の過程を 丹念に辿るという難儀な至福を誰も期待しなくなってしまうだろう。
父の世代の子供時代のプチ・ユートピア的な天地が静内で描かれて それが「中央」を背負ったイケナイ大人によって脅かされたりする ような凡庸な図式を透かし見て読んでしまう恐れがある。 そういう議論で住むなら大きな枠組みの「小説」という実験装置は まったくもって必要でないはずだ。 豊饒な物語にしか創れない世界、その広がり、深みに惑溺したい、 それが王様たる読者のご所望である(笑) きっと由良が父の語りを聴いている、という構造が、単なる転がし なのか、もっと本質的な要請から来たるものなのかによって そのへんの成否が分かれるはずだ。
さて、昨日のハレー彗星の話。 関川夏央・谷口ジロー『坊ちゃんの時代第4部 明治流晴雨』(双葉社) が正にハレー彗星が訪れる明治末を描いた傑作劇画です。 大逆事件に揺れる帝都東京、由良さんの同時代のトウキョウの空気が ビビッドにわかるシリーズ。 以前は『月刊東京人』をよく買っていたくらいに都市論好きだったので、 明治大正戦前の名残りを探して歩いたりしたものだ。 「東京都たてもの園」に行ったこともあるというマニアである(^^;
たしかに95年以後のトウキョウは、日本全体とともに精彩を欠く 都市だと僕も思う。特別この街にいなければ享受できないことも 思いつかない。たとえば能狂言のフリークだとか、そういう場所限定 の趣味でもないかぎり、コストの方が高くつく街なのは確かだと思う。 僕などは、無意識に払っているコストを取り戻すためでもあるまいが、 無理してでも演劇を観たりしている節もある。映画館には行かない。
うーんと、あとはねぇ、星の数ほど人がいるってことは、輝く星の ような素敵な人もいるってことで、そういう人たちとの接近遭遇も 大きな魅力ではある。しかしネット時代の昨今、会うとなれば 地方都市でも外国でも会いたい人に出かけてゆくことができるので ホームグラウンドが首都である必要もなかったりもするのですが。 というわけでトウキョウの真ん中のエアポケットのような生息範囲 を小さな自転車でウロウロしながら暮らしています。 #今日の言葉 「いやなら帰れ」(by城ノ内真理亜)
2001年07月03日(火) |
ピクチャレスクな明治東京とハレー彗星 |
題:22話 煙の匂い22 画:小豆 話:明治初年の東京を垣間見る
この話全体が、江戸ではなく明治初年の出来事を明治も末の“現在” から振り返っている、という形で今のところ語られている。
明治初年の東京の写真というのは不思議な色合いをしている。 横山松三郎とか内田九一などの写真師の手になる写真が残っているが、 もちろん当時はモノクロしかない。 それを浮世絵師の手で彩色したのだという。 過渡期の新旧技術の邂逅によるピクチャレスクな明治初年の風景は、 後のムービー・フィルムの登場をも上回る奇妙な視覚体験をもたらす。
「横浜写真」と呼ばれ、外国人への土産物として珍重された写真を ご存じだろうか?横浜開港資料館が出した図録集などでみられる。 僕は未訪だがきっと開港資料館でも展示されているのだろう。 これがまさに、オリエンタリズム/エキゾチシズムがバリバリの代物。 しかも彩色されているので妙にリアルかつハイパーリアル(ん? 笑) あるメディアの勃興期、それがまだ収まりどころを知らない時期のもの というのは、なんとも面白いものだ。きっと「小説」なんかも、ね(^^;
この『静かな大地』絡み、すなわち北海道をめぐる時代ネタで写真という メディアを考える上で、面白いのは、北海道開拓事業そのものを開拓使が かなり自覚的に“ドキュメント”として写真を活用していたこと。 北大の資料室にはかなりの量の写真資料があると聞く。デジタル時代に アクセスの手段が容易になれば、なかなか面白いことになるかも。
もうひとつ、鈴木明『追跡 一枚の幕末写真から』という滅法面白い本 の中で、著者が追った五稜郭のフランス兵の有名な写真の話もある。 綱淵謙錠『乱』で描かれているブリュネやシャノワールと旧幕軍との間 の友情、その立て役者が田島応親。彼の名は山口昌男氏の最近の仕事の 中でも見つけることが出来る。後にニューカレドニアへの移民事業にも 関わったりしている、幕府陸軍の士官だ。 『追跡』は、とにかくタイトル通りのノンフィクションの傑作で、 過去に読んだ本の中でも屈指に面白かった。見かけたら是非オススメ。
で、これらすべてに関わってくる大物として榎本武揚がいるわけだ。 「文春図書館」で御大が“告白”していたとおり、幕末に人物の中で 御大が好きなのが榎本なのだ。外国の言葉や事情に通じていたこと、 技術畑の知識に明るかったこと、北海道と深い関わりがあったこと、 「南洋」への視野を持っていたこと、など思いつくだけでも納得できる。 ちなみに榎本武揚に関しては、エンターテイメント作家の佐々木譲氏が 大作『武揚伝』を、今月にも上梓することが予告されている。 これを僕は待ちに待っているので、きっとここでも大いに話題にしたい。 榎本をローカル・ヒーローではなく、オールタナティブな日本近代を 構想した過激な共和主義者として描く、今ならではの意欲作になるはず。
・・・視覚メディアによる記録の話、書誌的アプローチによる歴史像の 転換の話、そして膨大な史料の読み込みもさることながら作家の構想力 と構成力による斬新な国家イメージ。 これらに対して我らが御大は今、努めて“口承の物語”にこだわっている。 最初のころに僕も書いたが、いま進行している明治初年の物語を由良が 覚えて孫に話せば、平気で記憶は100年の歳月を渡ることが出来るのだ。 そして『お登勢』の世界で忘れそうになっているが、由良が父の昔語りを 聞いている“今”は明治末、20世紀初頭なのだ。 今日の記述にもある通り、札幌から東京へは汽車で行けるし、津軽海峡は 連絡船で渡れるのだ。
依然として由良がいくつなのかわからないが、すでに幼女ではなく、また 既婚者でもないらしい。10代半ばから後半くらいではないかと思われる。 そうすると由良さんから見て「孫」の世代というのは、1945年生まれ の池澤御大に充分届くわけだ。 明治末に中継ステーションを置いて、明治初年と現在をつなぐ。 その物語を書いている作家もまた、下の世代の子孫を意識している。 …にしても、家系のモデル小説なんぞ書くわけもない御大が、なにゆえに 時代を具体的に明治末と設定したのだろうか? 下の場所にある年表を見ていただきたい。 たまたまではあるがある作家の個人年表である(笑)
http://www.shugakusha.co.jp/kokugo/meisaku/kenji/year.htm
明治43年、すなわち1910年。 「日韓併合」というポストコロニアル文脈なトピック(なんじゃ、それ?) とともに眼に飛び込む、「ハレー彗星」の文字! 1986年の76年前の回のハレー彗星は、かなり派手に接近したという 記録が残っている。彗星の尾のガスに包まれて窒息するのでは、とパニック も起こったとか。天体現象にやたらと関心を示す御大が、これを考えずに 時代設定をしているとは思いづらい。 由良さんは、きっと天を覆わんばかりのハレー彗星を見るだろう、 僕が室蘭にいるころに見たヘールボップ彗星よりもずっと大きなハレーを。 そして76年後に空を見上げる子孫のことを思うのかもしれない。
ついでに年譜を見る目を少し下に送る。そうすると3年後の大正2年には、 17歳の宮澤賢治その人が修学旅行で北海道を訪れるのだ!(笑) 由良さんの年齢が 上で類推したとおりなら、ほとんど同世代である。 「詩人・金子みすずのトポス」で書いた、モダン都市トウキョウの誘惑は 札幌に住む由良の心にも及ぶのだろうか?
#『静かな大地』って、こんな想像を喚起する面白い物語です。 みなさんよろしければ、この併走日録におつき合い下さいませ。 ご意見、ご感想、苦情、叱責、励ましのメールお待ちしています♪
題:21話 煙の匂い21 画:爪楊枝 話:大人は不安だったのだろう
よるべない船旅の途上。 鍋焼丸は石炭機関船なので航路は紀伊半島を廻って遠州灘からだろうか。 江戸後期に同じ淡路から蝦夷地へ赴いた高田屋嘉兵衛の北前船は日本海を 陸伝いに通った。海上交通の重要性に着目した日本社会の歴史像に関して 碩学・網野善彦先生と村井章介先生の本を、ぜひ新書で読みましょう(笑)
「煙の匂い」が稲田騒動の武力の表象だけでなく「文明開化」を背負わ された石炭機関の表象でもあったという配置において、序章は完結した。 口承の歴史のもつ、ふくらみみたいなものを、情報ではなく五感の問題 として語らせている。 おそらくあとは静内に到着する、あるいはその直前で章がわりでしょう。 興味は、このあともこういう語りのテンスで進行するのか、否か。 まぁこのまま単線路線で行くとしても途中でアイヌの民話みたいなものが 大事な挿話として入ってくることは容易に予想できる。 『母なる自然のおっぱい』で「キツネのチャランケ」なんかに触れていた ことを考えても、きっとそうでしょう。 にしても異言語の使用者が接触する際の、ディスコミュニケーションの 描き方はなかなか難問になるだろう。
#須賀敦子さんは忙しく仕事をしたあと夜一旦眠りにつき、 深夜に起き出して文章を書かれたそうだ。書くことへのこだわりが強い 人だったので、ずいぶん推敲を重ねて書き直したりしていたらしい。
・・・と書いているうちに眠ってしまった(^^; 上の三行は、要するに「眠い〜〜〜っ」ってだけの意味(笑) でね、なにも須賀アツコちゃんのお名前を出さずとも、 田中角栄氏だって同じようなエピソードを持っているわけで、 ようするにヒトカドの「仕事」した人は、 再起きしても意欲がはじけるくらいに強い「欲望」と「快感」が あったってことでしょう。ま、中長期的に肉体に悪いのは確かだが ヤメラレマヘンナァという状態に入るのでしょう。
タイトルのエグザイルからロバート・ハリス『エグザイルス』へ展開 してそのへんの「生きる欲望」みたいな話へと、流亡の旅人たちの話 からつなごうという遠大な野望があったのだけど、とてもじゃないが 睡魔に負けました。このへんがナマケモノですな(^^;
2001年07月01日(日) |
詩人・金子みすずのトポス |
あらすじ引用部分、後日校正いたしました。 ご指摘いただいた方どうもありがとうございました(^^) ー*−
題:20話 煙の匂い20 画:唐辛子(カラー) 話:待っても待っても春が来ないところへ
桜の季節、4月13日の船出。北海道に桜はあるのか、とささやき 交わす人々の心細さたるや、大変なものだったのだろう。 季節のめぐりの進み具合は緯度によってまるで違う、そのことを 身体で飲み込むことはなかなかに難しい。4月の瀬戸内地方なんて 空気がとろとろと春の甘さを孕んで天上界のようなところなのだし。 香川、兵庫、山口、広島の4県で18歳まで育った僕が言うのだから 間違いない。人間が甘くなるくらい穏やかな気候風土なのだ(^^; 『時をかける少女』の映画の季節設定が4月の中旬だったはず(笑)
南北の緯度差による季節感のズレに関しては北海道に住んでいるころ にしみじみと身体で実感した。トウキョウとの行き来も頻繁だったし 以前書いたようにオキナワと往復したこともある。 冬なんて気温差40℃の移動になってなかなか面白かった。 道楽や仕事でジェット機に乗って移動する現代人には、 北海道へ「移民」した内地の人々の不安は理解できまい。
石炭船の煙の匂いの記憶の、「異国風のいい匂いだった。」あたりは 御大の幼少期のSLへの記憶を重ねているのかしら、とか思ったり。
さて、父の話はいよいよ船出まで来た。ちょいと今朝のを引用。 ≪あらすじ≫ 三郎、志郎兄弟の父親、宗方乾は淡路島の稲田家の家士だった。 明治維新のあと、徳島藩士が稲田家側を襲撃した稲田騒動のとき の血と煙の匂いは、幼い兄弟に強烈な印象を残した。明治4年に 北海道の静内に一家をあげて移った経過を、約40年後、志郎は 娘の由良に語りきかせている。
いろいろはっきりしましたけど、本文の記述からは知り得ない情報 がずいぶん入っているような…(^^; 宗方乾(むなかたけん)って名前、結構剣の使い手みたいな印象の 名前ですな、さもなくば漢学者か医者(笑) あと重要なのは、完全に明治末の設定であることが判明したこと。 なにゆえにそう設定したのか、今後の御大の「差し手」が楽しみ。
明治末だと既にポーツマス条約の結果、南樺太が日本領になっている。 帝国主義日本の資源基地として北海道の延長上に位置した樺太。 三島由紀夫の祖父・平岡定太郎が樺太庁長官として赴任したのは いつごろだっただろう? 猪瀬直樹『ペルソナ』(文春文庫)参照。 樺太の産業的価値としては石炭と紙パルプの供給あたりだろうか?
北海道にいくつも工場を展開していた王子製紙などの製紙会社の工場 が大泊、真岡などいくつかの都市に建てられ森林を消尽していった。 それが大正期の国家運営や出版事業など都市文化のインフラを支えた という連想は、あながちウソでもないだろう。 石炭で走る鉄道のネットワークが地方の各地を東京にコネクトした頃。 そんな波が日本各地を覆った大正期の物語を、今日舞台で観劇した。
大藪郁子・作「空のかあさま ー童謡詩人 金子みすずとその母ー」。 知っている人には説明不要の金子みすず、どちらかというと僕の関心の 枠からすると外れる存在だった。95年に放送のNHKスペシャルは 見た気もするのだが、今日彼女の生涯を辿ってみるとあまり記憶に 残っていなかったようだ。そもそも詩そのものが守備範囲外だし…、 って一応「池澤夏樹ファン」だと言ってる僕が言っちゃいけないか(^^; #近代文学に関心が薄いのと同じように詩にも興味がない少年時代を 送っていて、読んでたのは小室直樹『ソビエト帝国の崩壊』とか、 栗本慎一郎『パンツをはいたサル』とか、現在の悪文書きの元凶に なるような、曲者の学問通俗書ばっかり(笑)
その僕がなにゆえこのお芝居を観たのかというと、「ちゅらさん」に 出てらっしゃる丹阿弥谷津子さんが出演されていたことや、僕が作品 を読んだことのある数少ない“詩人”の斉藤由貴さんが出てることも ありつつ、ある種ブームを巻き起こした金子みすずの「トポス」を 測ってみたかった、というのが実のところ。そして上でも触れた通り 彼女が生きた山口県は、僕の故地の一つでもある。
演劇には、新劇とか小劇場とかいろいろジャンルがあるらしいけど 「空のかあさま」はいわゆる商業演劇というやつ。役者さんが初出 したときや、ちょいいい場面で暗転するときはいちいち拍手が起こり、 幕間が25分もあってロビーで幕の内弁当を販売してる、お客さんの 年齢層が高く、それに合わせてかマチネ11時半、ソワレ16時開演 という、普段僕が新宿や下北沢でよく観る芝居とは勝手が違う。 実録みすずストーリーがどう「日本の正しい人情世話物」になるか、 非常に勉強になりそうな舞台だという期待もあった。 よって、ちゃんと監修者もついているとはいえ、以下で金子みすずに 関して僕が書くことは今日のお芝居で得た情報だけに基づいています。
まず時代と場所の設定で一気に引き込まれた。 って、実録なんだから本でも読んでればすぐわかることだったのだが、 主な舞台は、大正末期の山口県下関の大きな書店。 だいたい下関ってのが既に地政学的な地名。 舞台冒頭で、既に日韓併合寸前に暗殺されてこの世にない伊藤博文公の 名前が出てくる、小森陽一『ポストコロニアル』を読んだ僕は身構える、 …って、そんな見方してる無粋な観客いないって(笑) 港湾都市・下関から、天津だのシンガポールだのアジアの都市へ書籍 を卸している。言ってみれば東京発信の文化のアジアへの流通インフラ の結節点にカメラを置くようなもの。なるほど情報の流通はこのように 「地方」を組織化していったものか、そして若い人たちはみんな鉄道の 彼方のモダン都市・東京に死ぬほど憧れたのか、と納得できる。
時代は大正末、本編には登場しないが芥川龍之介の時代である。 時代劇のことを“髷もの”なんて言うが、僕はこの“袴もの”とでも 言うべき明治末から大正期を描く映画や舞台が妙に好きだったりする。 近代文学には興味がないが、風俗としての時代の雰囲気は面白い。 #まぁ『帝都物語』とかキャラメルボックスの芥川さんが出てくる演目 あたりのこと。『サンタクロースが歌ってくれた』の上川隆也さん がクライマックスで芥川さんに叫ぶシーンは、もろ琴線で歴代1位(^^) 主宰の成井豊さんが元国語の先生だけのことはある(笑) あと森田芳光・筒井ともみ・松田優作の映画『それから』も好き。
で、面白いのは金子みすずが元祖「投稿少女」だったこと。 トウキョウから鉄道で送られてくるモダーンとしての雑誌を心待ちにし、 そこに投稿した自分の詩作品を見つけて狂喜する場面が印象的。 地方の新興事業家の「家」の係累として、あの時代に女学校を出ていて 西条八十に憧れていた文学少女が、20歳になって詩を発表しはじめ、 それが評価される。明るく突き抜けたモダンの調べに踊るような青春。 それが「家」と血縁の重力に深く足を捕られて、悲劇へと墜ちてゆく。 …なんとなくどこかで聞いたような哀切なストーリーではないか?
宮澤賢治。それもリリカル方面ではなくて、吉田司『宮澤賢治殺人事件』 で喝破されたような、宮澤賢治のトポス。すなわち東京でもない、花巻 でもない、虚空間のようなワンダーランドに意識を遊ばせるしかなかった 地方金満家の子息としての(この強引サマリーの文責G−Who(^^;)、 その時代には全く以てレアだった詩人の“立ち位置”、とそこから見える 一種ヴァーチャル・リアルな異空間の風景。 それが1990年代の人々にとっては、ようやくはじめて広く共有される 問題であり琴線であったからこそ、の再ブームだったのではないか。 で、これ、金子みすずを“代入”しても成立するのだ。
まぁ、そういう構造的なことと、それを越える詩の生命みたいなこととは また別の問題なんでしょうけど、もちろん。 こうしたメディアとか流通インフラと近代の文学との関係に関しては、 今やってるNHK教育の人間講座・猪瀬直樹『作家の誕生』テキストが 超ベンリで面白いです。 あとポストコロニアル研究とやらのお勉強本も買ってきてしまいました。 『越境する知6 知の植民地:越境する』(東京大学出版会)ってやつ。 こういうお勉強が秀才学者さんたちの間で流行ったあとで何が残るのか、 次代の誰かの幸福につながるのか、というのは難しいところでしょうが。
…けど、それは小説家さんのお仕事だっておんなじサァ、ちばりよ〜♪
※あの〜、なんだか“クローズド”とか言いながらカウンター1000も 回ってるんですけど、読んで下さってる方、おもしろいですか?(^^; 結構疑問に思いつつやってます。だからといって芸風は変わりませんが。 ご意見ご感想、疑問、苦情、叱責のある方はメール頂戴下さいますよう。
|