「静かな大地」を遠く離れて
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2001年06月30日(土) |
夏は時間が溶けていて |
題:19話 煙の匂い19 画:干し蝦 話:「彼方の事情に詳しい者など実はいなかったのだ」
とことん土地にも組織にも血縁関係にも帰属意識のない根無し草が 身に付いてしまっているライフスタイルのせいか「先祖伝来」なんて コトバが出てくると逆に興味深かったりする。
なにせ一代前の先祖とも疎遠なので、それ以前を遡る知識はほとんど 絶無に近いのだが、そのへんは日野啓三氏や龍村仁氏ではないけれど 「個体」としての「私」を超越する時間スケールの記憶みたいなもの に大きく身を委ねているので、さして寂しいとも不義理だとも思って はいない。…いや、まぁ単なる親不孝者というヤツやね(^^;
一日遅れで昨日の日録をやっつけで書こうと思って書き始めたら ついリキ入れて書いてしまって、もう深い時間です(^^; 明日は芸術座へ金子みすず(詩作をした女性)を描いた舞台を観に 出かけなければならないので、これ以上の睡眠不足は避けたい。 よって本日の日録は簡単に終了。明日から7月に入ります。 なんだかんだいってどうにか無理矢理続けてますな。
北海道から本州=南の島へ戻ってきて二度目の梅雨〜夏なんだけど、 最近世間の人が暑い暑いと言っているのを聞いても、今週あたりは 朝から晩まで窓もないような場所で労働してたので実感なし(^^; 昨年に至っては恐れていた夏バテにもなった記憶がない。 昔は10月になると万歳するくらいに夏が苦手で難儀してたのに。 今年は何か夏らしい体験があるかな? すっかり日付も変わって7月なので、毎夏の恒例文句を書いておこう。
「夏は時間が溶けていて、いつかの夏とつながっている…」
ふと射し込むように亡くなった二代前の先祖のことを想起したりする。 誰も自分がどこから来たかなんて知らない。 でも憶えているような気がすることもある。 どこかで、何かがきっとつながっている…、
2001年06月29日(金) |
移民文学としての『静かな大地』 |
題:18話 煙の匂い18 画:枝豆 話:北海道行きをめぐる稲田家中の事情を俯瞰
なるほど、「移民文学」が可能ではないか!・・・、 非常に意識的にそういうことを長年考えてこられたのだろう、御大は。 『マシアス・ギリの失脚』の時は南米のガルシア・マルケスみたいなのが 太平洋を舞台にして書けないものかな、という発想からだったようだし。 #余談。イッセー尾形さんが好きで、以前よくライブを観ていたのだが、 たしか『むくどり〜』で御大も那覇で観られたというネタで「移住作家」 というのがあった。なんか笑える(^^;
『花を運ぶ妹』のタイトルだけ知ったとき、当時「HP池澤御嶽」のBBS には書いたが、僕の内容デッチ上げ予想は沖縄ハワイイ移民の物語だった。 90年代後半の御大の仕事の内容、星野道夫のアラスカに対して自覚的に ハワイイの仕事をしていた感のあること、“沖縄という宿題”を正面からは やらないだろうけど、ある種それに応える形になるのではないかという邪推、 などなど考えて、あとは「妹の力」や「おなり神」の連想、“運ぶ”という 語感が太平洋の海を脳裏に拡げたこと、例えばキー・モチーフを短編の 『骨は珊瑚、眼は真珠』所収の「眠る女」と表題作あたりから育てて・・・ なぁんてことを期待していた。なのでバリ島は結構意外だった。
『未来圏〜』ではアラスカの対偶みたいな位置づけで登場してはいたけど。 バリ島は記号として登場したときの磁場が強すぎてイメージが消費されすぎ の感があったので、なかなか扱いが難しいのだ。 “欧州文化vsアジア文化”の短絡的図式にハマリかねないロケーション。 伊藤俊治『ジオラマ論』(ちくま学芸文庫)などを読むと、正統に律儀な 欧州人目線からのバリ島へのハマリ方が、手際よく追体験できて面白い。 #バリ島 のリゾートホテルでヴァカンスを過ごすのは正直言って快楽だけど なかなか欧州人のようには様にならないのが哀しい(^^;
さて、“北海道移民の末裔・池澤夏樹”が書く「移民文学」の目論見、 ほんとうは2000年あたりに書かれるべきだったはずの“沖縄という宿題” をやり過ごした御大が、ライフワークたるべき北海道に前倒しして着手した のだ、という決めつけの上に決めつけを重ねたような深読みをしてみる(笑)
そうそう、「100冊」にもチラホラと見えて、お勉強不足の僕が無手勝流で 理解せずに援用しようとして出来ないでいる、「帝国と植民地」みたいなネタ への関心に応えてくれるのが川村湊先生。なんと公式HPが出来てました。 ※「川村湊公式HP」 http://minato.kawamura.ne.jp/
ちなみに、そういうネタに言及する人たちの理論的バックボーンの大元は、 エドワード・サイード『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)らしく、 大学時代に図書館で借りたりしたことあるけど、大著でとても読めず(^^; ちゃんと読んでおけば帯広畜産大学の斉藤先生のように感激したのかも(;_:) で、サイード氏らの学問的波紋が「ポストコロニアル」なる概念となって ある小さからぬムーブメントになっているようだ。ま、学界という「業界」 の細かい諸事情を精査するほど学も余裕もないけど、そういう理論的知恵と 関心を持った若手の優秀な学者が、日本と周辺地域との間の「歴史」について マトモな見識を育んでくれたりしないものか、と他力本願。 ※「ポストコロニアリズム・ニュース」 http://www.orig.com/~msano/index.html
よくわかりませんが、以前にもお名前を出した小熊英二先生の仕事なんて 画期的なものだと思うのです。『インド日記』もすごく面白そうで期待大(^^) http://www.sfc.keio.ac.jp/~oguma/top.html しかし筑波でラシュディ『悪魔の詩』翻訳者の五十嵐一先生が何者かに 刺されて亡くなるという、奇怪で恐ろしい事件も昔ありましたねぇ。 まだ今ほど物騒なアノミー状態以前の日本での出来事で印象に残ってます。 良い新書を書く人でもありました。“枠の中の思考実験としての小説”という 前提を共有しない文化の担い手が、地球上には大勢居るわけですな。
そんなこんなで今日垣間見えたポイント。 利発だが早世したらしい兄・三郎をめぐる物語として、アイヌ話が展開する ことが仄めかされています。さてどこまで行けるのか、緊張したりしてます(^^; 移民文学とは、いきおい異文化間コミュニケーションの物語でもあるわけです。 #冒険小説リーグから船戸与一『蝦夷地別件』(新潮文庫)を強力オススメ、 クナシリ・メナシの蜂起をめぐる臨場感あふれるフィクション巨編です。
題:17話 煙の匂い17 画:ちりめんじゃこ 話:よく覚えておけ。覚えた話は後まで残る。
集団的記憶喪失。歴史を喪失した人々。 この現代病を貧しいとは思うまい。 万世一系の天孫降臨神話に絡め取られるよりは、 物語の“すれっからし”となって世界中の記憶にアクセスできる 環境の方がずっといいだろう。 大切なのはクエストする能力を持つこと。 アップデート可能な、自前の神話を調達すること。 物語の汀を歩むのは、危険と悦びを伴う行為だ。
唐突だが、以下は去年の秋に小説家の寮美千子さんのBBSへ 僕がカキコミした文章。 掲示板での話題はアインシュタイン来日、寮さん自身が花巻へ 行かれたときだったはず。
<以下、引用> 呼応する時間 投稿者:G−Who 投稿日:11月28日(火)01時11分21秒
そう、モダーンの果ての20世紀。物理学とアートは四次元の啓示を謳う。 ロシアでは革命が起こり、各国はシベリア出兵の泥沼に足を突っ込んでいた。 翌年、1923年には関東大震災が起こっている。 昨日観たキャラメルボックスの芝居は、その時代を背景としていた。 キャラメルボックスの主宰・成井豊さんだったら、 宮澤賢治とアインシュタインの交錯する大正を、どう描くだろうか?
僕がサハリンへ行ったのは1995年春、東京が悪夢を見ていたころです。 阪神大震災の余波は消え去らないうちに起きたテロ事件のせいで。 初めて花巻へ行ったのも、仙台でキャラメルが賢治を題材にした芝居を 上演したのを観た、その直後のことです。 だから僕の中では、どうにもそれらの事象が連なって見えるのです。
日本時代の名残りを留める現実のロシア極東サハリン州は、 重層的な時間の地層が褶曲した断面を見せつける異空間でした。 サハリンに身を置いて「樺太」を幻視すること。 そこから逆照射して北海道を、ひいては日本列島を観ること。 戦争や経済や歴史の時間、ヒトやクマの時間、森や岩石の時間。 それらが呼応しあう空間を縦横無尽に読み解くことができれば・・・。 北の空には、そんな幻像が渦巻いて視えました。
そうした希求を、同時代に力強く表現の形にしている人がいました。 当時北海道に住んでいた僕は、その人の仕事に強く惹かれました。 はるかな過去、北海道とも地続きだったという土地に居を構えて、 北の空に時折り視える、時間が褶曲した地層の断面を写しとって そこから採集した標本を丹念に言葉に移し替えようとしていました。
翌年、1996年にロシア極東カムチャツカで亡くなった、あの人です。
どういうわけか花巻から届けられた強い蒸留酒のような「北」の空気に あてられて、サハリンから遙かアラスカにまで思考が飛んでしまいました。
<引用、終わり> 20世紀にはいろいろなことがあった。 それ以上に言えるのは、前の時代と後の時代の不連続性が際立った時代 だったのではないかということ。 そのなかで、どんな抵抗が可能か? 「開かれた個」を突き詰めること。机上で思考を完結させないこと。 重い。エキサイティングだけどキツい。 宮澤賢治や星野道夫を日常生活の中で読むことが出来ないのは そういう想いがあるからかもしれない。 宮澤賢治は海外旅行へ行った帰りの国際線の旅客機の中が暗くなって 人々が寝静まったころによく読む。 星野道夫は北海道の空気の中でしか読んだことがない。
なんて言いながら、そんなに輪郭と手触りのある「日常生活」というものを 持ち合わせていないズボラな人間なので、なおさら危険なのだけれど(^^; この日録、誰に向かって書いているのか、ひときわ不明なところがある。 言葉は広義のコミュニケーションを求めるためのものだが、 最もオーソドックスな日記の機能としての、未来と過去の自分を対話者と するために書いている、というのが近いかもしれない。
2001年06月27日(水) |
「北海道は日本ですか」 |
題:16話 煙の匂い16 画:御猪口 話:「北海道は日本ですか」(三郎)
さぁ、来た。 幕末生まれの洲本の子供に「北海道」「日本」という妙にスッキリした概念が あったかどうかは疑わしいところだが、そこは父の語り、そもそも彼ら語りの 中の人物たちは、洲本の人々なのだから関西弁亜種の言葉を喋っていたはず。 言ってみれば映画「ラストエンペラー」で溥儀たちが英語で会話するように、 彼らは後の「標準語」に翻訳されたコトバで喋っている。 イケザワ系「ベーシック・ジャパニーズ」は、妙に翻訳不能な表現を嫌うのだ。 さすが「世界文学」系作家である♪ ゆえにここで概念の用語法に浅薄にこだわるのは、作者の術中にハマることか。 なぁんてもろもろの浅知恵を全部吹き飛ばす、開き直りにも似た言い切り様こそ 御大が最近特に前面に出そうとしているのかもしれない、ぎりぎりの芸風。
「北海道は日本ですか」、そう一行目に書きたかった、ということだ。
「周縁」「外部」としての北海道。その明治以来のイメージ喚起力。 なにゆえ夏目漱石『それから』が、殊更に「100冊」の中に入れてあるのか? 何故いまどきの「和製」冒険小説やミステリー、文学に満州が頻出するのか? 北と南はなぜ、どのように通底しているのか? さらに、このような「なぜ」を追求することが、我々をどこへ導くのか? そうした問いを、ここでしつこく、かつエレガントに解いていきたい。
大まかに言うと、日本の国家イメージの「周縁」が近代において植民地の形を とり、なおかつそれが1945年8月15日を以て断ち切れるように喪われた、 そのことが現在のわれわれと、世界との間の「ミッシング・リンク」なのだ、 と直感している。そしてオキナワを考えるよりも、北海道のほうがその構図が 見て取りやすいのではないか、と思っている。 世界とのリンクを回復することとは、歴史との、外国との、大地との関わり方 の新しい視角を得ることなのではないかと思う。
物事をよく知り、楽しみ、丹念な知的作業を経て、構想力豊かな未来を描くこと。 御大の主戦場は今、さまざまな時空が折り重なった、非現実の北海道の上にある。
※6月28日、一部改稿
題:15話 煙の匂い15 画:するめ 話:「北海道には何がありますか?」
すべてがある。 そして、何もない。 きっと世界中のあらゆる土地と同じように。
ただ言えることは、それを知ったのが北海道に 住んでいた頃だった、ということ。
静かな大地を遠く離れて、 僕は、いま此処にいる。
G−Who
題:14話 煙の匂い14 画:魚の骨 話:あやふやな“昔のこと”の有りよう
昨日重大な情報に言及し損ねた。 この物語の少なくとも今掲載されているくだりが、御一新から40年後のこと だということ。厳密に稲田騒動が何年の事件なのか知らないが、40年とも なると日露戦争の前か後かというくらいの時代になる。 今後舞台になるはずの北海道日高地方の静内で有名なのは、サラブレッドと “二十間道路”なる道の桜並木。毎年ゴールデンウィークのころに満開となる。 映画「優駿」にも登場したのでご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。
なんだって牧場の町に“二十間”もの幅の道路などが存在するのか。 それは、その道路がある特別な牧場へのアプローチだからだ。 その牧場とは、御料牧場。“御”の着くやんごとなき牧場である。 赤木駿介『日本競馬を創った男』(集英社文庫)などで、紹介されている 米国人エドウィン・ダンが関わった牧場でもある。 「人間の静かな大地」を切り開いて作られた近代の国家プロジェクト、 あるいは“公共事業”という見方もできる。 明治政府の強力な「富国強兵」路線をなぞるように軍馬の生産地となった日高。 大いに胡散臭い人物が徘徊していたであろう北海道の空気感を得るためには、 手塚治虫『シュマリ』が良い。あるいはもっと美麗でラブコメ調の『NY小町』 という大和和紀の作品も、違う意味でめっちゃおもしろい。
2001年06月24日(日) |
F1と移民と「維新負け組」合衆国 |
題:13話 煙の匂い13 画:アサリ 話:「行くか行かぬか、むずかしいところだ」
今日は、F1ルクセンブルクGP決勝の日。 他のモータースポーツは知らないけどF1だけは特別。 とりわけルクセンブルクGPは、98年に現地で観戦したせいもあり 見逃せないのです。ルクセンブルグという小国の名を冠しているが それは同一国で二回GPが開催できない事情によるもので実際は 北ドイツのニュルブルクリンクというサーキットで開催されている。
オランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に地理的にも 近い場所で、EUの拠点マーストリヒト(<条約の)にも近い。 それともう一つ、僕がわざわざここでF1GPを見たいと思ったのは 宿泊地となる最寄りの街が、古都アーヘンだったからだ。 アーヘンは世界史選択者ならご存じ、フランク王国のカール大帝の都。 言ってみれば汎欧州の核となるのが、この地域。 古い石の聖堂が街の中心部に残っている。 西暦800年とか、そのころだから、ほとんどアルカイックというか ゲルマンの深い森の海に浮かぶような都だったのではないかと想像する。
今年はミハエルとラルフのシューマッハ兄弟フロントロー対決という展開、 母国ドイツGPのホッケンハイムより自宅が近いのでホームグランプリだ。 98年に訪れたときのドイツ人たちの真っ赤な盛り上がりを想起する。 今回は弟も出てきたからきっと、あれ以上の大騒ぎだろう。 流線型のマシンもさることながら、F1の魅力はドライバーやチームが 欧州の国の順列組み合わせの妙で、実に面白い綾を成すところである。 その中でキャラが立つドライバーが出てくると、たまらないものがある。 まぁ最近はサッカーも、そういう感覚で報じられるようになったけれど。
現役で贔屓ドライバーは、絵になる男ジャン・アレジ。 あとはブラジルのホープ・ルーベンス・バリチェロとエディ・アーバイン。 フェラーリからジャガーへ移籍したアーバインは、アイリッシュだ。 99年から2000年の年越しをダブリンで迎えたくらいのアイルランド 贔屓の僕だから、フェラーリでチャンピオンシップ寸前まで行った彼の 応援には熱が入ったものだ。
アイルランド。近代において新大陸アメリカへの移民を輩出した国。 JFKを含む、多くのアメリカの著名人がアイルランド系出身だ。 ニューヨークにはアイリッシュの影が濃い。 変わったところから例を引けば、J・フィニィ『ふり出しに戻る』と 続編『フロム・タイム・トゥ・タイム』(角川文庫)という時間テーマ SF(?)作品などに、その雰囲気が伺える。
アイルランド本国は、大英帝国の支配化で苦難の歴史を歩んできた。 僕はこのアイルランドという国と北海道をなぞらえて考えるという 物騒な思考ゲームをよく楽しんでいた。 どこまでも牧場が続く緑の国、北の海に浮かぶ島嶼国家、ケルト民族がいて アイヌ民族がいる、ジャガイモと馬の産地・・・。 実際訪れた際の印象も「わぁ、北海道だ・・・」という感じだった。 しかしメキシコ湾流恐るべし、地図上では途方もなく寒そうに見える国だが 北海道に慣れた僕から見れば年末年始のアイルランドはずいぶん暖かかった。
さて、きょうの『静かな大地』のテーマは、社会変動と移民。 大陸へ、南洋へ、南北米大陸へ、近代の日本人は実に多方面へ移民している。 中には「棄民」と評されるような過酷な運命を辿った移民団も多かった。 そうした歴史を描いたノンフィクションも数多く出版されている。 日本民族(<わざとこういう表現を使うが)の繁殖力は旺盛で、 20世紀初期に米国の排外移民法などの動きがなかったとしたら西海岸には 大和民族の華が咲いただろう、と新渡戸稲造が言ったとかいう話も 読んだことがある。 新渡戸稲造と言えば札幌農学校出の米国通で、日本の植民地経営の エキスパートとなっていく人物。なんで5000円札に肖像がのって いるのかはわからないが、伝記はなかなかに興味深い。 日本近代の「英語」「植民地」「北海道」を語るキーパーソンだ。 ※杉森久英『新渡戸稲造』(学陽書房人物文庫)が手に取りやすい
古代や中世の人の集団の移動はともかくとして、 日本の移民体験の皓歯は明治初年の北海道への集団移住ではないか。 その体験が全体として、のちの近現代の日本の人々の行動様式に どのような影響を与えたのか、興味あるところだ。 外へ外へと拡散して行った人々が1945年以後、 雪崩を打って「故郷」へと帰ろうとする。
トルーマンが首を縦に振ればホッカイドウの留萌〜釧路ラインから 北側はスターリンに提供された、という話を聞いたことがある。 歴史的事実としてどうだったかは知らないが、あのときもしそういう 事態になっていたら、樺太の40万人に加えて北海道の北半分からも 「引き揚げ者」が押し寄せた、ということか。 裏を返せば、北海道が日本国であることそのものが「かりそめ」の ことなのだろう。樺太と本質的に差があったわけではあるまい。
洲本の下級武士が北海道移住を迷うのも当然のことだ。 明治初年の北海道は、さながら「維新負け組」合衆国のような様相で 稲田家と似たような状況で、家中を挙げて移住したケースは数多い。 そういう諸国配置図みたいな地図を見たことがある。 先年噴火した有珠山の南麓にある海辺の町、伊達市もそのひとつ。 北海道の中では積雪も少なく温暖な土地で、作家の宮尾登美子さんも 住んでいるはず。野菜も海産物も多くて温泉も近い。
ここの伊達家は仙台の伊達政宗の直系ではなく、支藩の亘理藩で 大河ドラマ『独眼竜正宗』では三浦友和さんが演じた伊達成美の子孫。 ここの家中を挙げて移住してきた組。殿様自身が先頭に立ったという。 そのせいか、街のメインストリートが書き割りのように日光江戸村風 にデコレイトされているのは、ご愛敬(^^; 北海道の自治体ほど、町単位のアイデンティティーを打ち出しにくい ところはないかもしれない。担当者もご苦労がたえないことだろう。
ちなみに有珠山については、先日書いた「いけざわKCB:火山」で 書いたとおり、静内を拠点としたシャクシャイン蜂起の「遠因」とも なったという説がある。過去に山体崩壊を起こしている活発な火山だ。 噴火周期が短くデータが豊富なため、噴火の短期予知の成功例として 全国に知られている。 記憶が曖昧なのだが、「有珠」の名前はアイヌ語起源だっただろうか。 あの九州の「阿蘇」と同じで、ウスもアソも音韻変化こそしているが なんだか火山とかなんかの意味の一般名詞ではなかったか。 メッチャいい加減な記憶で申し訳ない(^^;
というわけで(<どういうわけやねん?)この日録、サボろうと思っても 書き始めるといろんなことが浮かんできて、つい書き耽ってしまう。 明日からマジで吐きそうなくらい忙しいはずなので、しばらくメモ書き 程度の更新に留めることにします、と一応ここで申告しておこうかな。 すでにこれまでの「原論篇」だけでも、少々じゃ読み切れないくらいの 文章量があって、読んで下さる方からお叱りを受けている現状なので、 ここらでちょっとスローダウンして同伴者が増えることを願っています(^^)
2001年06月23日(土) |
那覇〜千歳便の悦楽と90年代の「病」 |
題:12話 煙の匂い12 画:梅干し 話:「父上、うちは蝦夷に行きますか」(父の兄)
『BRIO』誌の「アマバル日誌」近況欄によると、北海道取材へ頻繁に 行かれている模様。つくづく“自分のため”に本を書く人だなぁ(^^; 日本最長の航空路線「那覇〜千歳便」は一度だけ乗ったことがあるけど、 すごく高価で贅沢な路線だ。正規だと欧州や北米へ行けるくらいかかるが、 日本の脊梁山脈を貫くように飛ぶので、たいそうパノラミックでよいのだ。 九州を抜け、模型のような屋久島のこんもりした山容を見下ろし、馬毛島は どこだったかと、わかるはずもないのに目を凝らし、南西諸島を点々と 伝いながらオキナワ本島にいたる。運賃に見物料も込み、な路線なのだ。 しょっちゅう乗れるもんじゃないけど、一度は体験されることをオススメ。 日本が大きな国だとよくわかる。
北海道と沖縄の気温差は大きい。僕が乗ったのは冬だったので、北海道の 自宅からダウンジャケットを着て出て、そのままそれを持って那覇の空港で タクシーに乗った。年輩のドライバーに「内地からですか?」と問われて、 「(うっ、北海道は「内地」ではないよなー、けど自分はヤマトンチュ)」 とかわけのわからない内的逡巡があったあと、北海道から来たことを素直に 告げた。そうしたら何だか“食いつき”のいいこと!あとでいろんなとこで 話してもオキナワの年輩の人は「北海道から」というとヤケに感激して、 実際行ったことのある人は旅の想い出を陶然として語り、行ったことのない 人も、憧れの眼差しを禁じ得ない。北と南はつながっている。 それが一体「どのように」つながっているのか、それを硬軟聖俗いろんな 座標平面で考えてみるのも、この日録のテーマのひとつだ。
ここ数日の睡眠不足、と言っても職業のせいだけではなくてこれを書いてる せいなんだけど、ともかく睡眠を補うべく朝ダラダラしてたら仕事上の緊急 の電話が入って泡を食う。こういうとき職場と自室が近いとラク(^^) あわてて出かけたものの、その件を片づけたら他に進められることもなく、 結局明日も一寸行く必要が出てきた。思いがけずシャキッとした状態で昼に フリーの時間ができた。トラブルがなければ午後までウダウダして疲れが かえって抜けなかったりしたパターン。これ幸いと、気になっていた芝居の 予定を急遽入れて六本木へ。交差点近くの俳優座劇場へ駆け込む。
今日の芝居のチラシより。 東京芸術座制作「NEWS NEWSーテレビは何を伝えたかー」(作・平石耕一) 1994年6月27日 松本サリン事件が起こった。 その日からテレビ各局の「ニュース戦争」が始まった。あれから7年。 結局、テ・レ・ビ・ハ・ナ・ニ・ヲ・ツ・タ・エ・タ・ノ・カ…… 東京に先立って長野でしばらく上演されたらしい。 熊井啓監督の映画「日本の黒い夏ー冤罪ー」の原作、とも書いてある。
平石耕一さんは、今ドキちょっと面食らうくらいにストレートに社会問題を 扱う劇作家さん、という印象だけを持っていた。今回の芝居はメディアの問題が 遡上に乗せられることと、サリン事件そのものへの関心、あるいは事件の忘却の され方というか、90年代という時代への距離感の取り方、みたいな視点でも 関心が持てそうだったので、時間が許せば観たいと思っていたのだ。
内容はとても面白かった。長野の高校生にも見てもらおう、という意図もあって 上演時間もタイトだし、適度にわかりやすい引っ張りを入れながら作られていて 好感を持った。法廷劇ではないが、ある事件の経緯を探りつまびらかにしていく プロセスが上手く描かれた舞台や映画というのはなかなか日本にはないものだ。 しかも事件が飛ぶような早さで「消費」され風化する世の中で、こうして近過去 のことを巻き戻してヨイショコラショと考えてみる、しかも小難しくはせずに、 そういう情熱と技術には尊敬の念を覚えた。
時代が平成に入って湾岸戦争などを潜り抜け、93年くらいまでの妙に危機感と 明るさが入り交じったような空気。それと平成大不況、いわゆるバブル崩壊。 そして“日本が見た最悪の悪夢の年”95年。あれからもう6年が経っている。 あれ以前、僕が前にトウキョウに住んでいたころはフリッパーズ・ギターとか 聞きながら、鼻歌交じりに浮薄な日々を送っていたような気がする。
いま思うに93年に一度自民党政権が瓦解して細川政権が出来た時、あのときが 何か重要なチャンスだったのではないか、それが誰かの失策で失われたのでは ないか、そんな気がしている。あの時もう少しマトモに事態を進めていたら、 現在の小泉政権のカラ騒ぎなどという事態はなかっただろう。 誰か、というのは例えば小沢一郎氏とか細川護煕氏とかそういう個々人ではなく もっと相関関係の中で起こったことなのだろうが。だが彼らの罪も重いと思う。
劇中でサリン中毒の症状についての描写があった。あれとて村上春樹の分厚い本、 『アンダーグラウンド』を読んでいなかったら、古ぼけた時事ネタの復習として しか認識できなかったのだろう。数日来、「物語」のことばかり話している。 『アンダーグラウンド』、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』などで語られた 村上氏のものの考え方の推移は、僕にはとても納得できる。「物語力」の練度を 高め、誰もが「物語リテラシー」を高くしておけば、ジャンクな物語に足下を すくわれるのを避けられるのではないかという、物語る側からの真摯な回答だ。
僕が北海道にいたのは93年の夏から99年の夏までの6年間。 このころ御大は『週刊朝日』の「むくどり通信」連載を主要な仕事として、 後に『ハワイイ紀行』や『未来圏からの風』にまとまる仕事をしていた。 『マシアス・ギリの失脚』を終えて、次の「長い話」が7年後になるとは 思わずに、沖縄の時事に深入りしていった時期でもある。 畏友・星野道夫との交感を深め、96年夏に彼を失い、埋め合わせるかの如く 『旅をした人』にまとまる量の原稿を書き紡いだ時期もあった。 そうした御大の90年代の彷徨は『花を運ぶ妹』と『すばらしい新世界』に結実。
作家の90年代は、どんな時代であったか? オキナワとホシノミチオ。物語作法、作劇テクニック、そういうものではなく、 「生きる」こと、そのものの層に作用してくるような大きな存在。 これらの体験が後にあって、背中を押してくれなかったら、ライフワークの 「北海道」に着手するのがこんなに早くはなかったのではないか、そう思う。
2001年06月22日(金) |
語りと眠りの交錯する宇宙 |
題:11話 煙の匂い11 画:胡麻 話:「話」の多面体としての記憶空間
幸い北海道にまつわる胡麻の想い出は、特にない(笑) しかしこの博物誌のような挿し画シリーズ、どこまで続くのかな。 今日はNHKのドラマ『お登勢』が、最終回を迎えてました。 予想通り、静内へ向かう船の中の描写までで終わりでした(^^;
今日のポイントは、語りと眠りの交錯。 『マシアス・ギリの失脚』や「眠る女」(『骨は珊瑚、眼は真珠』所収)を 想起していただければ、御大のヴィジョンがわかるだろう。 これはもう“周到な戦略”とかではなくて、好きなのだ、としか言えない。 だから僕らも「またやってる」ではなく、「待ってました」と読むべきだろう。 ただ「事実」、とりわけ「語られた事実」というものへの御大の向き合い方に 少し過去作と比べて自信、なのか覚悟なのか、骨太さなのか、何か力強いものが 加わっているような気がする。とはいっても、連載ではまだ語りの枠組みが準備 されつつあるだけで、“具”にあたる部分は見えてきてはいないんだけど、 すでににそんな印象を得ている。 これはなんなのだろう? あまりにベタに「時代小説がはじまるのかな?」と思わせるような叙述ゆえに 逆に「語り」の構造への視線が強く感じられたりするのである。面白いものだ。
眠り。意識の途絶、記憶の限界。トランスな夢見のアナザー意識への入り口。 睡眠そのものが脳の機能の問題として、一面「記憶」との関係があるらしい。 語り部の物語を囲炉裏の側で、あるいはイグルーの中の長い夜に、聞くこと。 そういう環境で培われる、「話」の集積体としての世界像。 「あることないこと」とつきあう「お話リテラシー」みたいなものが高い人は 物理的に追いつめられることがあっても土壇場で精神的に強いのではないか? それもソリッドに強いのではなく、弱さも甘さも綯い交ぜになった大胆不適さ。 とことんシニカルだったりアイロニカルだったりする訓練が出来ていれば、 逆に平気でベタベタにエモーショナルなツボにハマることも自在だ。
舞台芝居などでも、「笑い」と「泣き」の振れ幅は比例する、という。 ライブの演劇は日によって出来不出来がある。 役者と観客が作り出す空気は回によって微妙に違う。 しかし言えるのは、笑いどころで大きな笑いが来た回は間違いなく「泣き」の 場面で沢山の観客の嗚咽の気配が感じ取れるという。 おそらく人間の感情などというのはダイナモの回転みたいなもので、 回転数が上がっていれば、あとは喜怒哀楽どちらにでも転がるものなのだ。 これはある俳優さんが、自ら演出を手がけている作品の稽古場で聞いたことだ。
喜怒哀楽の振れ幅を大きく、伸びやかに生きられたら・・・という想いは 少々ひねくれた根性の持ち主でも、心の底に飼っている想いではないか? しかし言ってみれば「心の運動神経」の鈍さに、自分で苛々してしまう人が 多いのも事実かもしれない。 これは以前から結構本気で思うのだけれど、初等から中等教育のメソッドの中に もっと「演劇的知」をよく練られた形で盛り込めないものだろうか? 学校演劇みたいなのを全員が強制的にやらされる、みたいなことでは絶対なく(^^; 演劇には「身体」「ことば」「対人交渉」の要素が入っている。 ヒトは微妙にロールプレイングする動物で、自分の「立ち位置」を測ったり、 他者に声でコトバを投げたり受け取ったり、そういう基礎トレーニングは必要だ。
演劇にあふれたアーティスティックな世の中を夢想しているのではなく、 単純に処方箋として「有効」だ、と思うのだ。 社会的不適応者の群れが有形無形の形で世間にもたらす「コスト」を事前の 然るべき「投資」で軽減できるのならば、やる価値はあるのではないか?
メソッドの着想源は、一部はシュタイナー学校だったり、小劇場の劇団なんかで 行われているトレーニングだったり。ETVの「課外授業ようこそ先生」で、 野田秀樹氏がやっていた、身体を使った遊びみたいなのをイメージしている。 #にしても「桜の森の満開の下」は見れないねぇ、混みすぎだし。
筋肉を動かして、声を出して、そして感情の限りを尽くし、ただの空間に 物語宇宙を現出させる「役者」という人種は、見ているだけで元気になる。 ジャンルとしての演劇を持ち上げたいのではなく、演劇のメソッドは「使える」 と思うのだ。「語り」は「騙り」、ありとあらゆる手管を使った大嘘である。
そんなことを、山口昌男現札幌大学学長あたりがウソぶいて「社会的実績」を あげてくれちゃったりしないものだろうか?(笑) この文化人類学の泰斗の仕事は図書館か書店へ行けばいくらも読めるのだが、 北海道との関連でジャーナルな関心を喚起するハンディな本を薦めるとしたら、 『独断的大学論 面白くなければ大学ではない!』(ジーオー企画出版)が ツルっと読めて面白い。マイナーな版元だし、「大学論」と書名をつけることで 読者を限定してしまっている気がするが、なかなか内容豊富で愉しい本である。 御大の『沖縄式風力発言』と併せ読むと「周縁」からニッポンを逆照射できる。 (願わくば札幌大学へ行ってからの仕掛けごとや、北海道と日本の文化の関係の 彼ならではの考察を、広い関心と購買層を見込んだ新書でまとめてほしい 爆)
その山口昌男氏が仕掛けた沖縄関連の企画が明日、札幌で開かれるらしい。 6月23日。 「命どぅ宝・・・、命がなによりも大切っていう意味サァ」、 『ちゅらさん』の平良とみさんの台詞だ。 上で述べてきた小理屈みたいなものはすべて超えて、平良とみさんの存在を 思えば何も疑問はあるまい。『ちゅらさん』は、おばぁの語りによって 不思議に重層的な時間を獲得している。そして感情の振れ幅が大きくなっても 「まぁいいか」と身を任せることの快楽へと誘う。 あの番組は「ドラマ」とは銘打っていない。ドラマならぬ連続テレビ小説、 すなわち「語りもの」なのだ。 来週の『ちゅらさん』は「第13週 おばぁの秘密」というサブタイトルで、 ついに東京へ行くおばぁの活躍する顛末を描く「おばぁウィーク」になる。
2001年06月21日(木) |
ミニマルな朝(就寝前) |
題:10話 煙の匂い10 画:干し椎茸 話:“稲田騒動”の帰結としての、八丈島と北海道
私事になりますが、帰宅が29時というのも切ないものがありまして、 午後まで寝ていられるならともかく、今日はそうも参りません。 雲があるせいか、もう日は昇っているのだけれど、妙な明るさと翳りが 同居した、でも間違いなく朝の空気の中を例によって水色の自転車で 走り抜ける。周りは樹木が生い茂る森のような場所。
もう朝刊を売っているけど、これからここを更新して寝るとしよう。 こんなときは、グレン・グールドのゴールトベルクが効く。 普段から夜かけるCDはほとんどこれ一枚というくらい音楽に疎遠な 暮らしをしている人間なのだが。ちなみに朝はモーツァルトの何枚かが ヘビー・ローテーションで、他はいらないと言っても過言ではない。 音楽でもなんでも、そう無闇に消化する胃袋は持ち合わせていないのだ。 本だって実は超遅読なので、一冊手を出すのに結構勇気が必要になる。 できれば本なんて読まずに満ち足りた精神生活が営めればかっこいい。
さて「静かな大地」。 今日も本気になれば書きたくなることはいくらもある。 「シイタケと北海道の森と四国」だって語れてしまうし、 昨日の坂本龍馬とジョン万次郎の書誌的補足もしておきたいし、 「南」(=八丈島)と「北」(=北海道)の話もしたい。 これは、さりげなく今日描かれた重要な見取り図。試験に出る(笑) それと身体感覚としての植生に対する感知能の曖昧さと強さの関係。 どれもそれなりの要素が入った、長い話になりうる。 いったいなんでこんな「ネタ持ち」みたいになっちゃたんだろう?(^^; 来週はもっと忙しくなるので、なかなか欲求不満になりそう。
あと作品コメントとしては、いま“史実”(らしきディテール)を 積み重ねて丁寧に、一生懸命積み上げて、いったいどんな大きい嘘を つこうと画策してくれているのか、なんだかしっかり書き込んで あればあるほど「さぁ大嘘つくぞぉ」と、ほくそ笑んでいる御大の顔 が思い浮かんできます、ちょっと人相悪いけど(笑)
その池澤御大、この週末は札幌だとか。 僕はトウキョウで惰眠を貪っていることでしょう。 できればせめてマトモな食事の一回でもできればいいな(;_:)
題:9話 煙の匂い9 画:シジミ×3 話:「北海道では撃剣も何の役にも立たないな」(父の兄)
どうもこの日録は「書き過ぎ」のようで、我ながら尤もな話だと思う(笑) 昨夜にしたって、過去の文章を引用する前までの部分で充分普通の日記かも。 休日のカフェの話とか、ああいうのも意外と「需要」があるようだったり(^^;
今のところ池澤系?のサイトでのご案内はしていなくてクローズドなのですが 僕個人および知人関係から、もしくは新着やランキングから飛んで来られる方 もあるようです。身の回りの池澤ファンに教えてあげても、あんまりこの日録 にシンクロしてくれる方はいらっしゃらないかな・・・と思います。 ちょっとアプローチの仕方がね、「濃い」ですからね(^^;
さて、海への想いと、撃剣の道。これはもう坂本竜馬の世界でしょう。 「龍馬伝説」は虚像にすぎない、という立場もある。 薩摩のエージェントとして働いただけの人物だ、という見方。 西暦2000年の年の暮れ、僕は高知に居た。 一代前の先祖は四国の出なのだけど、僕は高知には行ったことがなかった。 その前の年、すなわち1900年代末の年末年始はアイルランドに居たのだが 今回はそれほどの時間的余裕もなかったし、会いたい人もいたので出かけた。 出不精で人見知りで怠け者だと自分のことを思うのだけど、 思い立つと途方もないことをやってしまうのも、反面の性格としてある。 「三年寝太郎」「ものぐさ太郎」の民話の分析をした小松和彦先生なら、 こういう人種の存立要件を簡単に列挙してくれることだろう(笑)
その小松先生が研究テーマにされてきた“憑き物筋”だ“いざなぎ流”だ、 そういう呪術的世界が存続している、というイメージが高知にはある。 横溝正史、つのだじろう、板東真砂子の三氏に責任が問うべきか?(^^; だいたいが四国というのは奇怪な国だ。「さぬき、いよ、あわ、とさ」という 四つの国名からして、大和言葉で解けないのではないか? 「静かな大地」で舞台になっている淡路は阿波の蜂須賀家と微妙な関係にある。
それはそうと坂本龍馬だ。 やはり司馬遼太郎『竜馬がゆく』の力に負うところが大きいだろう。 たしかにあれは読んでいて幸福な読み物だ。 「耽読した」と言える読書体験はそれなりに沢山あるけれど、 あの本を読んでいる期間の幸福感は他で感じたことのないものだった。 単にとても面白い本だから寸暇を惜しんで読んだ、というだけではない。 司馬作品にも、他の人のものにもない、サムシングが宿っている作品だ。
歴史の表舞台に躍り出て八面六臂の活躍をしはじめてからも面白いのだが、 江戸の千葉道場のあたりをうろうろしている無名時代が何とも楽しい。 読んでいるうちに、つい「土佐っぽ」言葉の真似をしてたりして。 普段は一人じゃアルコールも飲まないくせに、急に日本酒に走ったり。 龍馬の魅力はきっと、様々な立場のドグマティックな思想の狂熱の時代に、 独り天が抜けたように「自在」であったこと、なのだろう。うむ。
土佐の風土、海に開かれた国、なんてことで説明しようにも龍馬の個別性は 際だちすぎている。あの土佐から、龍馬は一人出ただけだ。 しかしそういう背景的説明を信じたくなる要因としてジョン万次郎の存在がある。 これを話だすと長くなるので今夜はやめておくが、僕はジョン万次郎が暮らした アメリカ東海岸マサチューセッツの町フェアヘイブンまで、去年出かけた。 このニューイングランドの旅こそ、池澤御大と北海道をリンクする特異点だと 言い張っていたのだが、なかなか理解されない(^^; ひとまずメルヴィルやソロー、それにクラーク博士やケプロンらの名前を 挙げておくにとどめよう。ボストンもナンタケット島も楽しかった。 そのあとワシントンDCへ行ったのは、オキナワの地政学的“対蹠地”を 見ておきたかったからだったりする。世界を統べる意志としてのアメリカ。 国立公文書館とか見て盛り上がれるのも、かなりの特異体質だろう。 以上は、余談である。(<司馬風 笑)
桂浜の夕景を味わったあとで、地元の龍馬党の方の経営する店へ行った。 贔屓の劇団キャラメルボックスが「また会おうと龍馬は言った」という演目を 持っているのだが、カウンターでそんな話をしてたらご主人が割り込んできた。 店の奥に上川隆也さん以下、劇団のメンバーが来たときの写真がある! その話を皮切りに地酒を飲み、鰹のタタキを食べ(<美味い!)とても楽しく 過ごせた。龍馬党のご主人の目論見は、新たな時代の龍馬イメージを築くべく フレッシュな企画でテレビドラマを作るよう運動すること。
司馬竜馬を原作としたものはTBSが上川さん主演で作られたこともあるし、 きっとあの小説は“昭和”の龍馬像の究極だったという想いもおありなのか、 ぜひ非司馬原作の新作で、と力説されていた。で、役者はどうするか? ご主人は21世紀の龍馬イメージを真剣に、切実さをもって考えている。 ここらで、今後も古びない、愛される龍馬像を明確にしたいらしい。 さて誰か?・・・名前があがった。香取慎吾。
うむ。よく考えてみる。 日テレで「蘇る金狼」をやった。身体はできているし、乙女姉さんに対して シスター・コンプレックスっぽい、龍馬の甘さの部分の感じも充分にある。 女にも男にも滅法好かれた、共通イメージの龍馬にハマるのではないか? そこらのプロデューサーより、ちゃんと考えている、それだけ一生懸命なのだ。 もう少し歳をとってからの方が良いかもしれないが、今でもできる。
高知を訪ねたあと、関西にある実家へ行った。 トウキョウへの帰りの新幹線に乗るために京都へ出て、そこで人と会った。 数時間だけの滞在で食事時間を除けば、訪ねることが出来るのは一カ所が関の山。 そこで訪ねたのが、東山の霊山神社にある龍馬の墓だった。 京都の街を見下ろす、見晴らしの良い場所にある。あの坂は良い。 またそのうち訪れてみよう。 『竜馬がゆく』を読まれた方は、北海道についての記述をご記憶だろうか? そこを読み返してみて欲しい。 そうすれば、もし暗殺されずに存命して「世界の海援隊」を切り回す龍馬が、 維新後の北海道にどんな視線を向けたか、想像したくなるはずだ。 薩摩出身の官僚たち主導の開拓とは異なるヴィジョンを描いたかもしれない。 ありえたかもしれない、もうひとつの、あるいは千の「静かな大地」。 まずそれを、現実の北海道の彼方に幻視するトレーニングをすること。
#あ〜あ、結局結構真剣に書いてしまった(^^;
題:8話 煙の匂い8 画:昆布(だよね?(^^;) 話:勇気と分別は並び立ちがたい、と思い知った侍たち
きょうも書き出せばいくらでも書きたいことはある。 日高昆布についてはうるさい(笑) 浦河町の昆布漁師の老人の舟に乗せてもらったこともある。 水深が浅い岩礁には太陽が射し込んで肉厚で良質な昆布が採れる。 老人の家の目の前の海が正にそういう地形だった。 棒の先に鉤のついたような道具で昆布を引っかける。 あとは腕力で巻き上げるようにして最後は日本の腕で舟に引き上げる。 昆布産地で日高の名に勝るのは最北の島・利尻島くらいしかないだろう。 昆布の消費量で抜きんでているのが最南の沖縄県なのはよく知られている。 日本海を北前船の行き交い、コンブ・ロードを形成していたのだ。 そのへんは御大の『むくどり〜』でも詳述されていたとおり。
で、話はようやくなんとなく今日の「静かな大地」に結びつく。 江戸時代の水運と北海道、そして淡路島、とくれば、 今年ドラマにもなった司馬遼太郎『菜の花の沖』(文春文庫)だろう。 高田屋嘉兵衛という野心的な商人と、日露交渉史の接点の物語。 ヴァーチャルで200年前の蝦夷地に行ける気がする本、 主人公が竜馬なんかに比べると地味に見えるかもしれないが、 話のスケールは大きいし司馬作品の例によって、成り上がってゆく プロセスがとても楽しいビルドゥングス・ロマンになっている。
『竜馬がゆく』をお読みになった方はご存じの通り、 幕末の志士たちの間では「北海道」というのは一つの争点になっていた。 およそ日の本の天下を憂えるものならば北海道のことを知らぬでは通らない、 そんな対象だったのだ。 一方で左幕か勤王かどっちにつくのか、諸藩の中で細分化された派閥争いが 展開された。時流に乗った者も乗り遅れた者もいた。 如何ともし難い流れの中で、無念の涙を飲んだ者も数多いただろう。 後の時代から見ると彼らの居場所は川の流れに飲み込まれる寸前の砂州の ようなところでも渦中の彼らにはどうすることもできなかっただろう。
僕が偏愛している演劇集団キャラメルボックスにも幕末を扱う作品が何作かある。 本来ハートウォーミングでファンタジックな作風を臆面もなくストレートに 押し出してくるところに魅力がある劇団なのだが、最近は作品の幅が広がっている。 99年夏の「TRUTH」は、幕末の嵐に翻弄される信州上田藩の若者たちを描いた 素晴らしい完成度の芝居になっていた。長年キャラメルを見ているが、ある意味で あれは起死回生の公演だったと思います。あんなに人気があってお客さんも入って いるけれど、いつもある意味で危機一髪の綱渡りみたいなことをしている劇団で、 時々こういう「起死回生の一発」みたいなことをやってくれるのが好き。 創作に携わるって、でもそういうことですよね。 前作の成功の栄誉は次回作の出来を保証してくれはしないっていう・・・。 ま、小説だって、そうですな♪(また作家さんを恫喝するファンの図 笑)
今夜は「成層圏の宮澤賢治」という題で、“詩”に疎い僕がアプローチする “池澤御大と宮澤賢治”のお話をたっぷり展開するつもりだったけど、 それをやっていると睡眠時間がゼロになりそうなので今日のとこは止めときます(^^; う〜む、これくらい忙しいのが普通の状態なのが問題ですな。 こんな生活でいいのか?・・・という自省も込めつつ、 2年前北海道からトウキョウへ来た日のことを書いたG−Whoの文章を、 以下に引用して皆さまにさらしておきます。 これも僕の北海道体験を総括した文章の一つとして「原論篇」になるかと。 文中の“ミチオ”とは故・星野道夫氏のことです。 彼については池澤御大と同じく、沢山の時間を費やして考えてきました。 そのことは彼も憧れたという北海道のことを考える間に次から次へと 沁みだしてくるはず。 彼の存在がなければ、僕が今これを書いていることもなかったと思います。
************************************* <1999年8月2日にG−Whoが書いたもの>
僕らが旅に出る理由
浜松町で羽田からのモノレールを降りてからタクシーに乗った。 荷物も重いし、外は真夏の東京だ。 普段仕事で東京に来るときに常宿にしている目白ではなく、 渋谷のホテルに数日泊まる。 いつもは山手線で行くのだが、この際タクシー代くらいケチらずに渋谷まで行こう。 7月の終わり、梅雨明け間もない夏の東京。
タクシーのドライバーが白い髭を蓄えた温厚そうなベテランで、 金曜日で月末の都心をスイスイと抜けてゆく。 北海道では長らく見かけなかったような、モータリゼーション以前の区割りの 古い街並みをクルクルと方向を変えながら巧みに距離を稼いでゆく。 冷房の効いた車内で6年ぶりの東京を見ている気分になっていた。
大学時代と就職してからの合わせて6年、東京に住んでいた。 そのあと転勤で北海道に行ってからも出張や遊びで何度となく来た。 100回までは行かないかもしれないが、50回を下ることはない。 中には95年の秋のように4ヶ月もホテル住まいしてたこともある。 6年分の違和感、なんてものを感じるわけはない道理なのだ。
ところが今日からこの都会の住人となる、となると勝手が違う。 この暑さも信じがたい人混みもすべて他人事ではないのだ。 それだけじゃなくて、都会の暮らしの全体に巻き込まれるということそのものが 何か北の大きめの島で培われた僕の現在の感覚と微妙な違和感を奏でるのだ。 たまに来る立場で無責任に構えているわけには行かなくなったということだ。
北の島に住んでいたって、僕は都市的なライフスタイルが好きだし、 札幌のカフェで本を読んでいるのが最大の息抜きというような人間だ。 ただここ数年でものの見え方は変わったと思う。 たとえば横浜市緑区あたりの郊外住宅地。かつて第四山の手なんぞと呼ばれて そこそこに所得の高い層が沢山住むベッドタウンの光景などを見ていると、 人々は直立二足歩行したころからすでに電車で通勤していたんじゃないかと 思いこんでしまうような盤石かつ野放図な広がりがある。 街がありショッピングセンターがありカイシャから銀行振込された給料で 衣食を購って、そうやって暮らす街がどこまでも平野の限り続くことが 自明のことのような気がしてくる。 しかし北の島の光景に眼が慣れると、街や人の暮らしの痕跡がない状態がまず 「地」としてあって、その上に原初的な経済活動の「図」が目に見える形で 展開されていることに気づく。
そのぶん見方によってはやり切れないほどに露骨で品のないのが地方の典型たる 北の島の人の営みだ。物事は剥き出しの形で横たわっている。 地下から燃料の石炭を掘り出して対価を得る、北洋に漁船団を繰り出して 漁獲を揚げる、じゃがいもや豆を育てて売る、牧草を植えて競走馬を育てる、 森を伐採してゴルフ場を設えて客を集める・・・。 大きな産業構造が変化すれば炭鉱町からは潮が引くように人が減り、 やがて町が完全に消滅する。 あまりに当たり前にあったはずの人の暮らしの集積が消えてなくなる。 他の産業立地も然りである。 そもそもほんの100年くらいさかのぼるだけで、すべてなかったものなのだから、 町があるほうが自然だなんて思えるわけもない。
そのうえアイヌの人々と自然との蜜月の関係を破壊して収奪した原罪まで 背負っている。鉄道や道路やトンネルやダムなど大規模なインフラ工事を明治以来 支えてきたのは歴史的にタコ労働者と言われる人たちだったりもする。 すべては隠蔽しようもなく露骨だ。 別に6年間住んでいたくらいでそうしたことに社会的な意識が目覚めたわけではない。 ただ東京に住んでいたときとはリアリティーが違う。
東京で電車に乗りながら、遥か北海道のヒグマのことを想像してしまうような精神は、 極まれにしか現れない。 彼の乗っている電車やレールやビルディングや高速道路や家並み、 そのすべてが遠く遠くに広がってもう視えなくなるほど彼方の前線でヒグマを排除し、 撃ち殺してきたのだと想像せよ!というのは無理な注文だろう。 でも北の島ではそれがわかる。 クマ牧場へでも行けば、ヒトが経済活動の利便性のために排除してきた誇り高い種族 (キムンカムイ)の哀れなまでの情けない姿をいくらでも見ることができるだろう。 まるで強制収容所、我々は勝者。
北の島に憧れた少年は、そこを飛び越して遥かアラスカへ旅立った。 そこで年々歳々紡ぎ続けた、かすかな希望の光の織り物を残して去った。 でもワタリガラスの神話を辿りながら、北の島のほんの手前まで戻ってきていたのだ。 早い「晩年」にはアイヌと南東アラスカの部族との関係やイヨマンテへの関心を深めて いたらしい。もう少し、ほんの少し・・。 気の遠くなるような南の都会と北の自然との懸隔をたった独りで渡ろうとして、 ほとんどそれに成功しつつあった。彼は勇敢な戦士だ。
ミチオがニューヨークを愛していたことを思い出そう。 都会の緊張感はアラスカのフィールドにいるのに通じるものがある、 というような感覚。人は誰も長い旅の途上にいる。 都市で人は時空を旅している。人が出入りして情報と物流が奔流をなしていて、 そこで持ち寄られた沢山の人の人生の想いが練りあわされて物語が生まれる。 アラスカのことも北海道のこともサハリンのこともギリシアのことも記憶の中に 持ち続けながら、南の島の首都で日々を旅として生きる。
・・・次の日、僕はなかなか勇敢な面立ちの旅人と行き合った。 場所は劇場の舞台の上。性別は女性。 彼女は、いつだってどこだって旅の途上なのは当たり前でしょ?、 ・・・というような顔をして笑っている。 「流線型に突っ走るスペシャル・ゴージャス・ハッピーな未来」、 かつて彼女が発したコトバは、都市を旅する覚悟と楽しみに満ちた予感を いまも僕に与えてくれている。 結構あれで手強い戦士かもしれない。 ***************************************
・・・この文章の題が「僕らが旅に出る理由」、だから今夜の日録のタイトルが 「昆布が旅に出る理由」・・・すみません、話題がバラバラすぎて思いつかなかった(^^; 上で話題にした浦河町の隣の三石町というところは幹線道路に立つ街灯のデザインが コンブをあしらったものなんですが、この町には「コンブマン」というキャラクター がいるらしいです。声優の三石琴乃さんがおっしゃってました(笑) なんか「ゴーヤーマン」みたいですな(^^; でね、三石町のまたお隣が「静かな大地」の舞台、静内町なのです♪
※追記 上の文章、僕版「静かな大地を遠く離れて」ってテーマにも読めるね。
2001年06月18日(月) |
語りの威力と新書マニアック |
題:7話 煙の匂い7 画:煮干しの巨大拡大図(×2) 話:眠気をこらえて遠いところの昔の話をインプット
口承伝承の力。由良が生きているうちに父の話を子孫に伝えれば、 この淡路の情景は100年の時を平気で越えることができる。 口伝というのは外部記憶装置が発達した現代から見ると頼りないようだが 案外と正確で再現度も高かったという話がある。 文字を持たない部族にはそういう語りをスペシャリティーとする者もいた だろう。語り部には、野生の「物語」が立ち上がる場を見切る身体能力 が備わっていたに違いない。
共同体と別の共同体が軋轢を起こしながら、やがて一方が他方を支配する形で ひとつのクニとなる。正統性を創造するために神話を作る。法を作る。 あるいは税の記録をつける。文字への要請。支配を円滑に進めるための知恵。 文字による歴史が発生し、改竄の可能性も同時に生まれ、偽史が正史となる。 「歴史」が支配する世の中では、語り部の超常能力は生き延びにくい。 支配する者も反抗する者も、もはや「歴史」の虜であることにかわりはない。
近代に起こった出来事、そしてその膨大な記録は、その膨大さゆえに目隠し のような機能を果たしているのかもしれない。 たかだか200年あるいは100年スパンでものを見ることが出来ない。 つまるところ、我々に起こったことはなんだったのか? そんな究極に素朴な問いに応えるのがとても難しくなってしまっている。 事実では語りえない。絵空事だけでもだめだ。 虚実が渾然一体となった、あり得たかもしれない一つの真実の物語、 それが単線的ではない歴史の進化過程で見失われた可能性を見せてくれる。
記憶装置。メモリーコイルとしての人間。サイバーパンクSFにも造詣が深い 池澤御大が描く『静かな大地』、どんなフレームを出してきてくれるだろう。
・・・なぁ〜んつって、日々スタイルの変わるわが日録です(笑) 職業絡みのネタは差し障りがあるし、家族がいるわけでもないとなりゃ 愛読している「加藤の今日2001」(演劇集団キャラメルボックスの スーパー・プロデューサー加藤昌史氏によるハイテンションな日記です) みたいに面白くはなりませんなぁ(^^;
帯広畜産大学の斉藤一先生とは入れ違いに相互のサイトに言及していたという シンクロ現象。すばらしく興味深い研究と講義の進展に大期待しております。 僕自身は英語にもアメリカにもイギリスにもロクに関心がなくって、 去年アメリカに出かけたのが「歴史的国交回復」だったりしまして、 東海岸を訪ねるのにニューヨークを無視したというくらいアメリカへの憧れが 欠如した日本人なのですが、どういうわけか本の世界ではアメリカ文化通の 著者を結構好んで読んでいたりするんですよね。 『トランスナショナル・アメリカ』(岩波書店)の奥出直人先生のファンだし、 SFファンジン系超米文学者の巽孝之さんは大学の講義以来の贔屓筋だったり、 『ラバーソウルの弾み方』(ちくま学芸文庫)の佐藤良明先生も好きだし。
で、この先生方にまとめてお願いがあります。 良い新書だして〜!!(笑) かねてから無類の新書マニアとしては、洋泉社から出た浅羽通明さんたちの ムック『この新書がすごい!』に非常に無念なものを感じていたりします。 (普通そんなもん出てたの?ってくらいのもんでしょうけど (^^;) いやね、極端にいうと生真面目なのはわかるけど・・・根性が貧乏臭い(爆) 新書の悦楽というのはもっともっとミーハーなカルチャーセンターおばさんの 感覚で美味しいネタをアバンダンスに“よりどりみどり”できるとこにある。 しかもネタは平易に噛み砕いた「啓蒙」ではなくて、とりあえず得した気になる キャッチーなわかりやすさの一本勝負。 「この新書がすごい!」って企画は彼らがムックを出すよりずっと前々から 口にしていただけに、「違うんだよー」と言いたくなった。 自然科学系も含めて新書の年度別格付け企画、ひきつづき切望中。
で、どういうわけか乱立する新書市場、どうやってマーケット・リサーチして、 どうやって良質の「おいしい」著者をさがして口説くのだろう? なかなか編集者だって育たないだろう。なんなら変わってやってもいい(笑) 著者の側の良い新書を書くモチベーションって、残念ながらなかなか高くない ような気がする。原稿料も啓蒙の志も有効じゃなくて、きっと生まれながらの サービス精神みたいなもんが備わっている著者が良い新書を書けるんじゃないかな。 巽さんは最近ヒット作(売り上げは知らないけど)を連打してますね。 「静かな大地を読むための100冊」にも入れましたけど。 『「2001年宇宙の旅」講義』(平凡社新書)は構成も叙述もこなれてて、 わかりやすいキャッチーなネタも満載で良くできてます。 そういえば御大も「文春図書館」でホメてましたね。
佐藤良明さんといえば『JーPOP進化論』(平凡社新書)ですが、 あれもう少しケーススタディーの列挙じゃなくて理論的なところを厚くして 2割くらい長い本にしたほうが良かったかもしれません。『ラバーソウル〜』と 重複してもかまわないから、ちゃんとわからせて話を進めたほうがよかった。 ぜひ今度は最近売れ線の「英語」ネタ、あるいは硬派にポップなベイトソン本を 書いて欲しい、期待の人材です。<うれしくないかもしれないけど(笑) 奥出さんは出版界から遠くへ行ってしまいましたね。マルチメディアだITだ、 で大騒ぎしている“文盲”みたいな連中を啓蒙しようなどという気はないみたい。 企業や大学で具体的なプロジェクトで成果をあげる方が面白いのでしょう。 でも書いて欲しい、新書で(笑)
星野道夫氏がご存命ならば、岩波ジュニア新書あたりで若い衆に語りかける ようなやさしい本を一冊書いて欲しかった・・・。 骨太系では新潮選書で満州国のことを書かれた芳地さんが向いてそう。 アメリカ、東欧などを書いた堀武昭さんも、また違う切り口で書いて欲しい方。 インドネシア研究の倉沢愛子さん、アフリカでゴリラの研究をされた岡安直比さん あたりは新書じゃない形ですが新書マインドのある著書を出されてます。 NHKスペシャルなんかは、ほんとはバラバラに出版せずにNスペ新書みたいに まとめられると、フローの番組を上手くストックにつなげられるんですがねぇ。 あとはやっぱり快刀乱麻を断つスマートな俊英・小熊英二先生に「日本人」を 終わらせる新書を書いて欲しいです♪
近い将来に刊行が予告されていて、僕が期待している新書を2冊紹介しときます。 まずは『怪獣使いと少年』(宝島社文庫)の社会派ウルトラ論客・切通理作さんの 『宮崎駿の<世界>(仮)』(ちくま新書より8月刊行予定)。 かなりの力作のようです。書いてて枚数がかなりオーバーしたらしいので 編集してまとめたときにわかりにくくならなきゃいいな、と心配してます。期待大。 丸田祥三さんとの対談本『日本風景論』の路線の新書も書いて欲しいです。
それからG−Who的に見逃せないのが、北海道系歴史冒険小説作家・佐々木譲さん。 『北の大地に生きる』(集英社新書より刊行予定)というライフスタイル&文明論の エッセイになるらしいです。骨太さと現代的ポピュラリティーを編み合わせる職人の ような作家さんだと思っていて、日本の近代とか旧植民地なんかを考えるときにも 佐々木さんの仕事が念頭にのぼってきます。近く小説で畢生の大著『武揚伝』を 発表されるのにも大注目したいです。 そのうち「池澤夏樹・冒険小説・榎本武揚」という三題噺で佐々木譲さんについて ここで書こうと思っています。しかし読者層ってカブってなさそうだなぁ(^^;
「良い新書」には失われた語りの秘術が垣間見えるのだ、と無理矢理まとめて 今夜は逃げよう(笑)
#エンピツで日記を書くことを教えてくれた酔眼犬さん、新書ばなし書きましたゼ(^^) みなさまからのご意見、ご感想、リクエストをお待ちしております♪
題:6話 煙の匂い6 画:粟 話:ぜんぶのひっかきまわしのおかしな時代
お気に入りのプジョーの水色の自転車で、公園の側の自宅から近所の私鉄駅前へ。 おそい昼食はタイ風グリーンカレーにする。 階上の喫茶店がなかなか明るくてコーヒーがちゃんとしてて悪くないと最近知った。 でもここはケーキ・メニューが貧しい。ガマンして上質なコーヒーのみ楽しむ。 本を読んでいるとオバサン軍団が入店してきたので早々に退散。 良いカフェの条件は、静かなこと。飲み物はもちろん甘い物も上質なこと。
ちょっと歩きたかったのでM神宮の杜に寄った。1時間くらい歩きまわる。 神社にはここに限らずよく立ち寄る。年に100回くらいは行くかもしれない。 ちょうど花菖蒲苑が公開になっているので人が多くて混んでるかもなぁと 思いつつ御苑に入る。山葵田みたいな形状に整えられた池に花菖蒲が満開だ。 このなかなか広壮に見える杜は、80年前人工的に作られたという。 しばらく前の『サライ』誌で紹介されていたが、最近の東京の温暖化の影響で 林学者が計画していた樹種を押しのけて棕櫚の下生えが勢力を増しているらしい。 なんとなく荒俣宏御大の好みそうな『帝都物語』っぽいネタである。 トウキョウは実は人知れず「南方楽園」に回帰しようとしている、みたいな。
隣接するY公園は戦前は練兵場、戦後はワシントンハイツと呼ばれる米軍の住宅が 立ち並ぶ敷地となり、その後東京オリンピック時には選手村が作られた。 日本の20世紀現代史の変遷を縮図にしたような奇妙なトポスである。 都心も極まるとあまりにも静かで夜は暗いし怖いくらいだ。 トウキョウは、その中心が空虚である、とはよく言ったものである。 ほとんどの生活は自転車と徒歩圏内で間に合う。かの龍村仁氏もこのスタイルらしい。 現代のピカレスクは自転車に乗って現れるのだ(笑)
最近見つけたカフェに行く。明るくて本が読めるし(これ大事)、意外と空いている、 おまけに滅法ケーキも美味い。僕はケーキには相当キビしいのである。 この店の謎はBGM。前回行ったときは、きっとアンビエント系とでもいうのだろう 曲がちょいスノッブな感じで悪くない、と思ってたら突然サザンのアルバムが流れて 店の空気が一遍に変わった。あれはいったい何だったんだろう?(^^; ともかくこのお店、いまお気に入りです♪
・・・なぁぁぁんてこと書くために、このページやってるわけじゃありませんな(笑) いやね、毎日出来損ないのレポートみたいなの書いても読むほうがシンドイかな、と。 で、きょうのテーマ「見立ての王国」って何のこっちゃでしょう?
うむ、なんかね、「北の大地」ってフレーズについて書いたことあるけど まぁ現在なら帝都トウキョウから見て、昔なら京の都から見て「北」なわけです。 北海道って名前だけど、座標軸の原点を自分ちにすれば「うちは北でして・・・」って いちいち都に対してわかりやすいプレゼンしなくてもい〜んです! 1972年冬季オリンピックの際に札幌の地下街が整備されたやに聞いていますが そのネーミングが「オーロラタウン」に「ポールタウン」!(よく歩いたなぁ) しかし、北緯43度やっちゅうの!そんな低緯度オーロラがしょっちゅう見えたら コワイわ、それにポールってキミ、北極かぃ?・・・みたいなことを、 北大の中国文学の泰斗・中野美代子先生が書いてらしたのを読んだことがあります。 あの西遊記のポップな研究で文化的諸記号の機能に精通してらっしゃる中野美代子先生です。 卓見だと思います。(言うまでもなく関西弁風なのは“意訳” 笑)
翻って考えてみれば、この手の「見立て」の思考法って日本に深く根付いてますね。 おかげでバブル期の北海道なんてカナダだドイツだスイスだ、とテーマパークが乱立 して各自治体で“国”の奪い合いみたいになってたり(^^; 京の御所の中で和歌を詠んで、季節の移ろいゆく様を愛でていれば人生は儚い夢の如く 過ぎ去る、みたいな王朝文化の季語のコード体系の中に荒戎の地、蝦夷なんぞもキレイ に位置づけられたりしていたのだろうか?
ギザギザした荒々しい「周縁」をコード化して理解の範疇に飼い慣らす文化装置。 そういう中央からの視線、ないし中央に憧れたり反発したりする周縁からの視線、 それが錯綜して「生」のリアル/「生」の自然なんてどこまで行っても到達できない ような状態の中で「北の大地」なんてフレーズが力を持つ。ありえたかもしれない 北海道という土地とのつきあい方の可能性を限定するような偏狭かつ強靱なコピー。 そのコピーから「ロマン」めいた幻想を剥奪すると「試される大地」などという 思考停止の極みみたいなコピーが生まれるのだろうか・・・?
「ハワイ」を「ハワイイ」と呼称し、本の帯に「楽園は可能だ」という名コピーを 冠して長年培われたハワイという土地へのステレオタイプな見方を、反発ではなく 変換させる仕事をした池澤御大なればこそ、そして北とか南とか東とか西とか、 そういうことの「政治学」をそれこそ体でも頭でもトコトンわかっているからこそ 「北の大地」を解体し、「静かな大地」との“出会い直し”を開拓期に遡行して 描いてくれるのではないか、と期待している。
それにしても日々の挿し画、「リアル」に密着しすぎですな(笑)
#みなさまからの「こんなネタで」「あんなテーマもあるよ」的メール待望中♪
2001年06月16日(土) |
新聞連載小説ト云フコト |
題:5話 煙の匂い5 画:砂糖 話:淡路と徳島の大人たちの事情・幕末編
今日は砂糖(笑) 川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)でも読んで、 その戦略商品ぶり、世界史への影響の大きさをふりかえるも良し。 琉球のサトウキビが薩摩の回天資金に化けたりもしたのかな?
開拓地の物語でこうもエレメンタルな物資シリーズが続くと、 僕なんかは十勝の画家・神田日勝(1937〜1970)を想起します。 帯広の北の鹿追町に神田日勝記念館というのがあります。 開拓地で“物そのもの”の手触りを確かめるように描いた画風が なんとなく今の山本容子さんのアプローチとつながったり。 そのうち馬とか牛とかチセとか熊とか描かれるのでしょうかね。
さてまだ物語は導入部、ますます船山馨『お登勢』(角川文庫)に 近づいていく世界。ドラマは次週金曜日が最終回、北海道静内へ 旅立つシーンはイメージショットで終わるのかな(笑) 原作は後半まるごと北海道が舞台になってるけど。
土地の物語。時代小説。新聞連載。となれば御大の頭には司馬遼太郎 の語り芸があるはず。前回の新聞連載『すばらしい新世界』では、 E-mailを仕掛けに使ったり、っていうかむしろE-mail時代の夫婦間 コミュニケーションのお話だったという話もあるがそれはおくとして、 環境やボランティアなど時事ネタ情報を食べやすい一口サイズに料理 していて、挿し画も自分でフォトショップで結構凝って作っていたり、 “新聞連載小説ト云フコト”をかなり生真面目に意識して作っていた。
実はハードカバー本買ってないんです、僕、きっと読まないから(笑) 挿し画とともにT-Time形式で収録されたCD-ROM版がインパラさん から出るんでしょ?いろんな関連サイトへのハイパーリンクもついてて この銀盤一枚あれば「すばらしい新世界」へ行ける!っていう・・・。 スミマセン、雑談してしまいました(^^;
新聞連載小説として、という話。 『すば新』の時に御大が言っていたのは有吉佐和子『複合汚染』が 新聞連載作品の一つの成功例、みたいなこと。 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を受けて、日本ではどうなって いるのか・・・という興味を作者がグイグイと引っ張ってくれる。 しかし同じ環境問題を視野に入れるにしても時代も芸風も違いすぎる、 というのが御大の言い分だろう。 『複合汚染』、当然ながら情報的には1975年ごろの話だから古い のだが、語り口が滅法面白いので、読んでみられてはいかがだろう? いきなり代議士の選挙応援に行った話から始まる。 若き日の菅直人や青島幸男が登場したはず。石原慎太郎だっけ(^^; とにかく、ぶっちゃけ方が並じゃない。 あれを読むと『すば新』も沖縄県知事選挙の太田昌秀前知事の陣営 内部の描写からはじめて欲しかった、とないものねだりしたくなる。 ともあれそれでも『すば新』は『複合汚染』に倣った情報型。 ほんとに「情報型」でやるのは自分ではなく村上龍氏の仕事だ、と 御大には言われそうだけど。
で今回長年の構想を形にするに当たってなにゆえ新聞連載という形 を選んだのかな、というのは少しある。 『Switch』誌のインタビューとか真面目に読めば話されてるかも しれないけど、ひとまず出てくる作品を読みながら忖度していきたい。 で、話は司馬遼太郎に戻る。 『すば新』でも試みてはいたけど、司馬小説の新聞連載的強みは 作者がどんどん前面に出てきて雑談とか挿話とかできること、的な ことを御大はどこかで話されていた。 この北海道開拓期を舞台にした物語は御大の仕事の系譜で言えば 『マシアス・ギリの失脚』のような路線になるのだろうし、 そうあって欲しい。だから単純ナラティブにはならないはずと予想。
「小説の公理として同じものを書くわけには行かない」とどこかで 書かれていたくらいだし、枠の中の思考実験として普遍的価値のある 物語でなければならないわけだから、作家さんの個人的事情を斟酌する するのは邪道というもの。それは研究者か好事家の仕事だろう。 『すばる』誌の日野啓三さんとの対談も読んだ。 あの80年代トウキョウの「都市の感触」から遠い道のりを経て 「私はここにいます」という宣言にも似たものが例の「日本の根」発言 を裏で支えているのではないかと仮説してみる。気負いでもあるかも。 もっと悪いコトバなら「開き直り」。 今住んでおられる村の眺め、季節の巡り、そうしたものとのトータル バランスは取れているのだろう。 『花を運ぶ妹』のラストのアジアへの言及も含めて「オリエンタリズム」 に関してあえて無防備に見えるもの言いをされるのは、「都市の感触」 からすっかり「オリエンタリズム」の対象となる側に立脚しおえた、 根を下ろした、という自信なのだろうか?・・・そうではあるまい。
今回はアイヌとの間のエッジが描かれるはず。 あるいはヒグマの生息に代表される列島の原自然と「開拓」という行為。 うーむ、なかなかに難物であります。
さて、そろそろご案内を差し上げた方もいらっしゃるのであらためて 僕が作家・池澤夏樹氏のファンとして何をしてきた人間か、簡単に。 まず挙げられるのは、意識的か“なりゆき”かは別にして池澤氏の 足跡を結構辿っているということ。ギリシアへも行きました。
今回舞台となり主題となる北海道には93年から2000年まで 住んでいましたし、氏の生まれた帯広や『静かな大地』の舞台となる 静内周辺には何度となく通いました。 ちょうど氏の畏友・故星野道夫氏の仕事が「動物写真」ジャンルから 大きく自然や文明論的なところへ展開を遂げ、96年にクリル湖で 亡くなられてから発刊された遺著群を読みながら、北海道の季節の巡り を存分に味わうことが出来ました。
ヒグマの冬眠穴に潜ったり、サハリンに出かけたり、昆布漁師の老人 の船に乗り込んだり、カヌーや馬に乗ったり、イグルーに入ったり、 広葉樹林の遅い春を観察したり、どうにもこうにもイケザワ的ライフ を送っていたのです。
99年の初めに読売新聞で始まった『すばらしい新世界』に呼応して 「池澤御嶽(イケザワウタキ)」というホームページを作りました。 そのころはピュアなファンだったのか、こんな文章↓書いてました(笑)
********************************** 池澤夏樹さんは、惑星探査機ボイジャーを「ヤーチャイカ」の中の娘さん、 そして故・星野道夫氏を形容する時の“たとえ”として使っています。 遠い世界へと飛んでいって、見えた光景を送信してくる愛しき「他者」、 ・・・今も宇宙を飛んでいるボイジャーさえ愛しく思えてくるような、 温かさと切なさに満ちた比喩です。
翻って僕たち読者にとって池澤夏樹さんはどんな存在だろうか? それで思いついたのが、ハッブル望遠鏡。 ボイジャーのように遥か遠くへ飛び出して行くこともなく、 日常という重力に支配されきってしまうこともない、 地球の衛星軌道上を巡りながら、大気に曇らされることのない とびきり高性能のレンズで深宇宙を見つめつづけている・・・。
でもハッブル望遠鏡って故障したりしてなかなか稼働しなかったんだ と思い出す。それじゃ、不適切で失礼な比喩かもしれない。 でも僕は最近ギリシアへ行ってみて“幸福のトラウマ”のことが 気分だけは想像できる気になっているので、 39歳まで処女小説を書かなかった池澤夏樹さんのことを ハッブル望遠鏡に例えるのは、あながち外れてはいないのではないか、 と一人で楽しんでいます。 **********************************
・・・とまぁそんなわけで(?)北海道経験値は御大よりも幾分高いはず。 オキナワに関しては二度ばかり観光旅行に出かけただけで単なる沖縄料理 フリークです。「ちゅらさん」にはとっても詳しいですけど、ゆえあって。 坂本龍一氏も結構詳しいらしいですが、絶対負けません(笑)
あーあ、明日早起きできたら自転車で東京オペラシティーまで走って 「贋作・桜の森の満開の下」当日券のために並ぼうかと思ってたけど、 すっかり深夜になってしまった(^^; また夏のキャラメルボックスまで芝居は見れないかもなぁ。
#ご意見ご感想苦情叱責などG−Whoへのメールお待ちしています♪
2001年06月15日(金) |
日本人とはダレダロウカ |
題:4話 煙の匂い4 画:塩 話:木の上から見た戦禍の町
今日は、塩・・・だよね?(^^; 妙にエレメンタルな挿画が続くのは何のフリなんでしょうかね。 この日録、もっとG−Who個人の身辺雑記の要素を強くしたい と思っているのですが、どうも滑り出しなせいか「原論」的な ムズカシイ話を消化不良に書いてて読みづらいことでしょう。 良くも悪くもこのペースでは続かないと思います(^^;
NHKで放送してるドラマ「お登勢」がたまたま『静かな大地』 の導入とめちゃめちゃシンクロ。ちゃんと見てはないけど。 今回この物語が淡路島から始まっているのは先に静内ありき、 というか御大ご自身の先祖が静内にいらしたからなんでしょう。
淡路島と言えば日本神話において神が最初に創った島、 いわば日本の根は淡路島にある、のである。 もう話の展開が読めた方もいるだろうけど(笑) 今日は「日本の根」問題を敷衍しておくことにしませう。
ことのはじめは、池澤御大が帯の宣伝文句を書かれた 比嘉康夫『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』(集英社新書)。 ま、宣伝文句だし、まんま引用しちゃおう。 池澤夏樹氏絶賛! 「日本の根は沖縄にある。 沖縄の根は久高島にある。 ぼくはこの本を百回読むだろう。 これは新書ではない。古典だ」 このコピーが何かもっと長い文章の部分抜粋なのか、 純粋にこれだけで書かれたものなのかはわからない。
村井紀『南島イデオロギーの発生』(太田出版)や 小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社)を読んだり、 それらの仕事が登場する思潮をそこはかとなくでも共有している 同時代の人ならば、このコピーの危うさ、キワドさを感じるはず。 そのへんをチクチク書いた僕の以前のBBSへのカキコミは、 この日録にも引用した。
雑誌『國文学』の村上龍特集での池澤×村上対談でも話題に出た 俊英・小熊英二氏について、あの分厚い著書を読まずにお手軽に アプローチするには、まずご自身のカッコいい写真も拝める↓ここ。 http://www.sfc.keio.ac.jp/~oguma/top.html あと最近文春文庫で出た村上龍対談集『存在の耐えがたきサルサ』 にも対談相手の一人として登場しているのでオススメ。
オキナワを日本の古俗が残る場所としてとらえて、 何かウェットな幻想の絡まる視線を注ぐのはよろしくない。 そんなことは御大こそ百も承知のことだろう。 あえて言い切ることを意図したとしか思えない。 そのへんは昨日勝手に紹介した斉藤一先生のサイトでの 『花を運ぶ妹』への重大な疑問とも関わるところだ。 “あえて言い切れば免罪”というのでは文化系のトンデモだ。
とはいえ「日本人」「日本」を単位にものごとを云々するのに いちいち引っかかってみせるだけなのも退屈でウザい態度ではある。 そのへんの気分を文化系クセ球の名手・井上章一氏が突いてくれた。 新刊『キリスト教と日本人』(講談社現代新書)の「はじめに」は、 学界のはやりで「日本人」というタームにくどくど言い訳めいた言説 を連ねていればとりあえずお利口に見えるとでも言うような若手の 学者への牽制球が効いていて面白い。井上氏と張り合えるくらいに オリジナリティーと芸がある学者の輩出を望む(無責任な読者 笑)
アンチ日本とか アンチ中央とかアンチ東京というのはまだ相対化が 足りない。反発は最も敵を利する屈服の一形態だったりする。 近代文明に対してもクールに相対化するには知恵がいる。 その知恵の実を獲得する冒険の旅、それが『静かな大地』を読むこと。 きっと『すばらしい新世界』よりも深く遠くへ行けるはず。 アラスカとオキナワの間で考え続けた「のっぴきならないこと」を 具体的なフィールドで物語化するには昔の北海道は最適だと思う。
僕の場合はそこにアメリカ東海岸の旅、ニューイングランドと ワシントンDCで考えたことがキレイな伏線となって効いてくると 思っている。それと高知。 ま、そんな話もおいおいしましょう。 しかし想定していたより既にいろいろ書き溜めてしまっているので そろそろ「公開」しないと、読んでくれる人は大変かもね(^^;
題:3話 煙の匂い 画:蕎麦 話:武断統治と“どうしても我慢できないこと”
きょうは蕎麦ですか(笑) 北海道って生産量としてはかなりの蕎麦大国なんですよね、たしか。 地味の痩せた土地でも育つせいなんだろうけど。 日高のあたりは印象ないけど上川地方の幌加内なんかは有名な産地だし。 JR深名線っていうローカル線が90年代半ばまであって、 札幌と旭川の間の深川から朱鞠内湖のほうを通って名寄まで走ってた。 幌加内はその途中にある町だったと思う。 鉄道マニア的な興味はないのだが、廃止直前に乗ったことがある。 このへんになると『日本風景論』の世界だ。 『日本風景論』(「100冊」の026)はウルトラマンなどの批評で 有名な切通理作さんと『棄景』の写真家・丸田祥三さんの対談本で、 昭和39年生まれの二人が風景の記憶から時代感覚とその変容を 読み解いていくとても面白い本。
「すずらん」じゃないけど北海道って鉄道大国の感じもあったりして、 産業上の立地で引かれた線路がどんどん廃線になって行ったところ。 もうひとつ廃線路で印象に残ってるのは、幸福駅で有名な広尾線。 昔札幌から日高の浦河町へ出かけて、その足で襟裳岬を回って北上して 帯広へ行ったことがある。仕事の出張でたまたまそうなったんだけど、 路線バスなもんだから時間かかってしょうがなかった。 既に廃線になっていた駅だけがバスターミナルみたいに使われてる所が あったような朧気な記憶がある。しみじみと寂しくて味わい深いのね(^^;
帯広から新得町とか鹿追町とかウロウロしてたら、あのへんも蕎麦の産地 らしくて結構よく蕎麦を食べたなぁ。もともと和麺ものでは蕎麦派だし。 僕の両親は讃岐=香川県の人で母の実家がウドンの製造卸をやってるから 逆に外では舌が肥えていてウドンは食べられなかったりするのもあり、 あと日本の成人男子としては例外的にラーメンというものを食べない人間 なので(たとえば過去5年で食べた回数はゴーヤーチャンプルより少なく グヤーシュ・スープ@ハンガリー料理よりは多いか、という感じ(^^;) 美味い蕎麦は大好き。信州戸隠に蕎麦を食べに行ったこともある(^^)
ちなみにこのあたりで出てくる地名、坂本直行さんから池澤御大の生誕地 からミチオ系の聖地・然別湖@氷のミュージアム写真展への流れですね。 で、いきなり“十勝つながり”で下記のサイトを強力推薦。
http://www.obihiro.ac.jp/~engliths/index.html
こういうことをキッチリやってくれる人がいてくれるのならば僕がBBS で愚にもつかないカキコミして理解されなずに孤独になる、みたいなこと ももはや必要あるまい、と思ったりしたのはホントです。 この先生、僕と同世代の英文学者の方なのですが、「100冊」にも妙に 高山宏氏だの巽孝之氏だのアヤシげな英米文学者の名前が散見されたり、 川村湊さんや小熊英二さんの名前があったりするところからしても、 北海道の表象イメージの話なんかをされてるところなんかももろ関心が 重なるのですが、何よりこの方は信頼できる池澤夏樹読者なのです。で、 彼の『花を運ぶ妹』へのネガティブな評価に「言いたいことはわかる」 とか思いながらも、御大の抱えてこられた必然性、辿られてきた軌跡の のっぴきならなさ、みたいなものを切り捨てる気にもならないのが僕の ポジションだったりします。そして例えばこの先生のような読者への 「回答」になりうるのが今回の『静かな大地』だと思いたい。
御大はかつて沖縄移住は直接的に沖縄に材をとった小説の形になるのでは なくて池澤夏樹という人にコンピュータの例えで言えばOSレベルで作用 するのだ、みたいなことを書くか話すかされていたが、ある意味で御大の 沖縄移住の“小説家としての野心”が初めてもっともストレートな形で 表出されるのは、『花を運ぶ妹』でも『すばらしい新世界』でもなく今作 になるのではないかと願っている。 だってなんとなく、沖縄を描くことの不可能性を目の当たりにしつつ歳月 を過ごしていると、そのプレッシャーがうまく作用して、北海道のご自身 の祖を辿るという「宿題」がよく進みそうな気がする(笑) 僕はずいぶん昔に北海道の構想をインタビューで語られているのを読んだ ことがあるけど、まだまださらに先のことだと思っていた。 というかオキナワを描けてから、老後のお仕事、あるいは司馬遼太郎の ハンガリーのような“最後の仕事”としてイメージされているのかとも 思っていた。でもそうではなかったようだ。 長期スパンではすべてが計算ずくというわけではないだろう。 この時期に『静かな大地』に取り組むことの意味。これをやらないと先へ 進めないのだ、という感覚。 オキナワと北海道、南と北は通底している。 アマバルで『萱野茂のアイヌ語辞典』とか読みながら百数十年昔の北を 想うことの至福の贅沢。それを少しでもガメツク共有したいものだ(笑)
なんか筆が滑らないなぁ、北海道のこととなると記憶の絶対量が多すぎて まとまらない。すべてがすべてとリンクして野放図に広がってしまう。 まさに僕という人間に北海道は“OSレベルで作用”したわけですな。 う〜、佐々木譲さんと榎本武揚とラフカディオ・ハーンの話も書きたい(^^; あと北と南の政治学、明治初年の薩摩人の北海道支配とウルトラマンとか、 三題噺みたいなのもいくらでも出てきそう。 ま、おいおいやっていきます。
2001年06月13日(水) |
「幻代史」とシバリョー君 |
題:2話 煙の匂い 2 画:麦 話:鉄砲の匂いの記憶が「歴史」を物語る
オーラル・ヒストリーという学問的用語がある。 よくわからないけど『沖縄ハワイ移民一世の記録』なんかは そういうジャンルの秀作と呼べるだろう。(「100冊」の062参照。) ベタ訳なら口述史、って感じ。聞き書きの個人史。 星野道夫『ノーザンライツ』にもそういう側面がある。優れた資質と 「立ち位置」を要する仕事。「歴史」を語る際に、客観的な事実などは そうそうあるものではない、もしかしたら金輪際ありえないもの かもしれず、確かに在ると言えるのは当事者たちそれぞれの「言い分」 だったりする。最近の夥しい数の脳関係の本のタイトルを書店で眺めていたり するに、どうやら「記憶はウソをつく」という科学的根拠があるらしいし、 視えている世界像自体も個々人によってまるっきり異なるのだろう。
原初的な感覚に伴われた記憶というのはデジタル・データのように 扱いやすいものではないけれど、喚起力は確かに強い。 優れた(高機能な)物語は共感覚に巧みに訴えるコードの体系をなしている。 「根拠のあるウソ」とか「ツボを心得たホラ話」というのはおもしろいものだ。 御大が今回はじめようとしているのは僕の大好きな「幻代史」とでも 呼びうるスタイルかもしれない。ナビダード共和国もずいぶんと念入りに 「ツボを心得た」お話だったけれど、マシアス・ギリの一代記であり、国家の モデリング遊びであり、つまるところ空間的というかヨコの展開だったような 感じがする。とするなら今回はタテの線を描こうとしているように見える。 まずもって作家自身の祖先が生きた時間域を走査する物語なのだろうし。
「自虐史観」超克派(?)の歴史教科書を作っている人たちと、それに異を 唱える人たちの双方に、大前提としてまず「歴史」と「物語」が拠って立つ ところの、あまりに曖昧模糊として頼りなく、そうかと思うと感心するほどに 精妙な仕組みに出来ている「記憶」というものの成り立ちを再認識して もらいたいと思う。 まず高級なウソのつきかたをこそ、子供たちに見せてやること。
歴史の語りの名手としてシバリョーこと司馬遼太郎をあげる人も多かろう。 でもあれはきっと思い切ってつくウソだからおもしろいのだろうと思う。 というか、あのベストセラーたちは徹頭徹尾、司馬遼太郎本人のために 作られた言ってみれば「オーダーメイド」の物語なのではないか? 青年の日に満州の野でブリキのような装甲の戦車モドキに乗せられて 「敵」と対峙させられた人がそのあとの人生をカウンター・バランスを とりつつ生きていくための治療装置、あるいはドラッグみたいなもの として、あの作品群が切実に必要だったのではないか? それは別に彼の仕事の価値を低く貶めることではない。 普遍は個別の追求を突き抜けてのみ到達できるのだろうし。 ただ一点、そうした彼の前半生を共有していない人は、すなわち満州で ブリキ戦車に乗ってない人は『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を読む時 に気をつけましょう、という「使用上の注意」である。
もちろん一種のアイロニカルなジョークとして言っている面もあるのだが、 実際彼の作品を不用意に「聖典」にしてしまいかねない雰囲気が日本の オジサンたちにはある(笑) 彼を(誰でもいいのだが、たとえば)カート・ヴォネガット・Jrのように、 あるいは渋澤龍彦のように大好きだ、という受容の仕方ならば良い。 愛でるアイテムこそ違えど、元少年が紡ぎ出すロマネスクとしてたまらなく 上質で味わい深い、というのならOK。僕はそのように彼の本は大好きです。
さもなくば日本株式会社の財力と技術力のすべてを傾注して、電脳ご託宣マシン 「シバリョー君」でも開発して、何か新しい時事問題が持ち上がる度にコメント を求めて安心する、というのがいいかもね。 なんかサイバーパンク全盛期の作家にでもホラを吹き込んだらホントに書きそう なネタだけど、日本の財界人のジイさんが、電脳端末に顕現する「シバリョー君」 にお伺いを立ててたりするの(笑) なんか白髪のCGキャラで大阪弁で喋るんだ、きっと(^^;
<G−Whoメモ> これ、なんだかんだ言ってBBSより睡眠時間食うなぁ(;_:) もっとしょうもないこと書きたいんだけどなぁ。 ま、とりあえずまだ読んでる人もほとんどいないし、いっか。
題:煙の匂い 1 画:米 話:由良の父が語る「北海道の外の世界」の記憶
はじまりました(^^) なにげにasahi.comの「きょうの朝刊」の一番下に「『静かな大地』は掲載しません」 って書いてあったので急に妙にやる気が出たりする(なんでや? 笑)
のっけから「徳島の侍」だ「洲本(すもと)」だ、とNHKで放送中の「お登勢」の世界。 “由良(ゆら)”というキャラクターが主人公と思われるが、性別も年の頃もまだ不明。 幕末の薩摩藩の「お由良騒動」の連想で女性の名前なのだろう、と思いつつ読む。 ほんの導入部分。血縁者の口から直に侍の記憶を聞ける世代の物語なのだろう。 なんとなく漱石の『それから』の中の高知の寺田寅彦の家の事件をモデルにした挿話を 思い出したりする、なぜか。あとは『真昼のプリニウス』の江戸時代の女性の手記とか。
「挿話」好きの御大のことだから、まだまだ物語の時間軸は見えない(^^; まぁ新聞連載だから『花を運ぶ妹』みたいに冒頭1章まるごと挿話、みたいなことは ありますまい(爆) でも今回のノルマは『マシアス・ギリ〜』以上に跳んだ物語世界の構築なので (<勝手に決める 笑)単線的な構造になるとも思いがたい。 このあたりを「よーいドン!」で頭から追えるので新聞連載小説はおもしろいかも。 どこかの連続テレビ小説なんかだと、ネタばれ広報の嵐なのでウェブの掲示板などで この手の先読み深読みを楽しんでると、絶対ネタばらし攻撃に遭ってしまう(^^; (#ようやく文也クンと逢えた月曜日は視聴率もよかったらしいなり〜♪)
とりあえず、舞台は静内と札幌のようで。 静内町は僕が北海道へ行って最初に仕事で行った土地だったりする、なんと。 名前が結構全国区だとすれば、まず宮本輝の『優駿』とその映画化のせいかな。 オラシオンを演じた馬とか、見たことある。いっぱいいるらしいけど(笑) あと船山馨『お登勢』(上記ドラマの原作)が、もろに淡路島と静内だし、 久間十義さんはお隣の新冠町。『魔の国アンヌピウカ』『オニビシ』といった “北方マジックリアリズム”系な作品も意欲的に出している作家さん。
変わったところでは、ゆうきまさみの競馬漫画『じゃじゃ馬グルーミンUP』が 静内を舞台にしてる。競馬漫画って書いたけど、なんというか生産牧場を舞台に した古き良き青春ラブコメ風のタッチで「競走馬の牧場のお仕事」学習マンガ としての出来のよさたるや素晴らしいものがあります。 馬って描くのが難しいらしくて、ゆうきさんもずいぶん取材されたことでしょう。 静内の描写も妙に丁寧でスーパーのピュアとか出てきたりして当地に宿泊日数で 30日まで行かずとも2週間はゆうに越えてる僕としてはニヤリとする漫画(^^) #出版社名とか全部6月10日の「〜100冊」リストに出てます。 あれ、何げに日々刻々と入れ替わったりしてるんですけどね、まだ(^^;
<G−Whoメモ> きょうはサボって三谷幸喜「みんなの家」と地人会「アンチゴーヌ」観劇。 ギリシア悲劇に材をとった重い作品を南果歩さんが鋭利に演じていた。 「形而上の価値」とか「美意識と生と死」とかなかなかシンドイけど 普段ごまかしてやりすごしている琴線をえぐり出されたりもした。 ちなみに南果歩さんは昔から贔屓の女優さんの一人で舞台見るのも何度目か。 しかし順番が逆の方がよかったかもなぁ。「みんなの家」のムック買ってきた ので三谷氏のインタビューとか読むの楽しみ。公式サイトも充実してる。 あの秀作(!)「DVDラジオの時間」で解説トラックに出ていた 八木亜希子さんの女優デビュー、ほんとにちゃんと台詞いっぱいあるの。 でも他の誰を思い浮かべても彼女よりベターとは思えないところが流石の 演出というものでしょう。「ラジオ〜」マニアには細かいハイパーリンクが 続々出てきてたまらんものがあるし、早くDVDで解説トラックでみたい(笑)
2001年06月11日(月) |
いけざわキーワードコラムブック:火山 |
さて本家の連載開始前の「原論編」的プロローグ企画シリーズ、 といえば格好はいいが、ズル更新(笑)のネタも尽きてくるので とりあえず予告通り最終兵器を投入しませう。 このネタ、今回の御大の作品に「採用」されないかな、 とかしょうもないミーハーなこと言ってたやつ。 中にはもう見飽きた人もいらっしゃる文章ですが、 また大幅に改稿しています(^^; っていうか、ズル更新しようと思って手を入れはじめたら エライ時間かけてしまった。明日仕事をズル休みするとしよう。 こんなもんが日々アップされると思って読みに来られても困ります(笑) 御大の連載がいよいよ始まるので、しばらくはスタイルを探りますが ラクに続けられるようにするつもり。 ともあれ『静かな大地』前夜バージョン「いけざわKCB:火山」を ご堪能あれ(^^)
「いけざわキーワードコラムブック」 (どこにもない、不可視の書物、組成はイケザワ的なるコトバたち)
か:火山
『真昼のプリニウス』の主人公・火山学者の芳村頼子は、 火山・浅間山を通して巨大な「自然」そのものと対峙する。 江戸時代、山麓の村々に甚大な被害をもたらした大噴火で 成層圏まで広がった噴煙は地球を半周して欧州にまで及び、 同時代のフランス革命の遠因ともなったと言われている。 アイスランドの火山との複合噴火が決定打になったという。 作品中で頼子がアイスランドでの研究生活に心傾けていた ことを思うと因縁めいたものを感じたり。でもそんなこと は当然なのだ、だって火山をめぐる想像力は地球の深部で 世界中につながっている。
火山の複合噴火をめぐるもうひとつの物語/歴史がある。 北海道の先住民族アイヌの最大の蜂起事件として史上に残る 「シャクシャインの乱」。1669年に起こったこの事件の 原因を、有珠山(1663)と樽前山(1667)の二つの 火山の相次ぐ噴火による食糧危機に求める学説があるのだ。 シャクシャインのお膝元、日高管内の静内町は競走馬の生産 で有名な緑の牧場町だ。池澤夏樹の祖を辿ると流れの一つは 静内に遡ることができるらしい。北海道を舞台に幻想と現実が 入り交じった大きな枠組みの小説作品の構想もあるやに聞く。
森の植物や川に上るサケを主な食糧としてきたアイヌの人々に とって、大量の火山灰の降下は死活問題だっただろう。 松前藩の圧政は、それに追い打ちをかけたはずだ。 為政者に不満が募る中での自然災害は、充分に革命や戦争の 「原因」となりうる。歴史の動因が、ひとりの英雄の出現や 政治的駆け引きなどよりも自然環境の変動に求められるのは もっともな話。「自然とともに生きる」とはそういうリスク と共にあるということだ。 学説の提唱者は、歴史学者ではなく火山学者、それも女性。 29歳で若くして世を去ったという札幌出身の徳井Y美さんが お茶のM女子大大学院修士論文(1993)として発表した。
この話を知ったとき、僕は頼子さんのことを思い出していた。 頼子さんの着想源の一つは宮澤賢治「グスコーブドリの伝記」 だったという。サン=テグジュペリの『星の王子さま』の星にも 火口の煙突掃除を必要とする可愛らしい火山が描かれていた。 『ハワイイ紀行』のキラウエア、『ギリシアの誘惑』の中の サントリーニ島、『バビロンに行きて歌え』の伊豆大島三原山。 星野道夫が若き日にその生き方を決めたのに、火山の噴火で 大切な友人を亡くしたことが大きな影響を与えたともいう。 思えば福永武彦の傑作『草の花』の浅間山の描写も印象深い。 いったいこの池澤夏樹の周囲の「火山癖」は何なのだろう。 火山愛、あるいは足穂の天体嗜好症に倣えば火山嗜好症か。
池澤夏樹の火山をめぐる想像力の痕をたどるように、これまで ずいぶん火山を訪れてきた。芝浦に住んでいたころ東京港から 一晩かけて船で訪れた伊豆大島の三原山、ヘリコプターで上空を 旋回しながら眺める機会を得られた樽前山、エーゲ海を船で 10時間堪能してたどりついたサントリーニ島、ビーチリゾート を背にしてわざわざ見物に行ったバリ島のキンタマーニ。 あるいは多摩川を渡って通勤していたころ晴れた冬の空に遠望 できた富士山の神々しい姿。
都会の真ん中から遠望する火山と対極の体験をしたことがある。 シャクシャインの乱を惹起したという有珠山や樽前山の火口原を 歩いたのだ。絶え間なく噴出する礫や灰のせいで草木が着床せず まばらな植生しかない死の世界。月の表面にも近いかもしれない。 1977年の噴火まではうっそうとした森をたくわえていたという 有珠山の火口原には、当時火山噴出物を浴びて死滅した木々が 今なお20余年の歳月を経て風化の途上にある。白々とした巨木 たちの亡骸は、やがて粉々の木片となって火山灰に混じり有機物 の提供者となり、小さな草の糧となるのだろう。いつの日にか、 巨樹の森がふたたび姿をあらわす時が来るのだろうか、そんな 感傷とは無縁に、2000年の噴火はさらなる火山灰を重ねた。 火山の火口原ほどに、人間に無関心なる自然そのものと向かい合う 感覚が得られる場所は今どき少ないかもしれない。 外輪山に囲まれて人工物は何も目に入らない。空は太古のまま。 ガスが吹き出すかすかな音と岩が崩れ落ちる乾いた音がすべて。 無様に動き回る動物はおろか、静かに居場所を拡げようとする 植物さえ、地球的時間スケールの中で身の置き所を見つけにくい。
「静かな大地」北海道は、現在気象庁の常時観測火山が5つもある 火山の島でもある。駒ヶ岳、有珠山、樽前山、十勝岳、雌阿寒岳。 江戸時代に英国の船の船長が名付けた噴火湾という名前の湾もある。 生誕の地ならずとも、池澤夏樹を呼び寄せる力が充分にあるはずだ。
2001年06月10日(日) |
『静かな大地』を読むための100冊 |
かねて予告しておりました企画、まだはじまってもいないのに 「『静かな大地』を読むための100冊」です!
「いったいなんの関係があるねん?」的なタイトルも含まれてるように 思われるかもしれませんが、ひとまず「静かな大地を遠く離れて」を 書いているG−Whoの頭の中を、「池澤夏樹|北海道」で検索すると こんな書名がでてくる・・・というリストです。
ぜんぶに解題をつけることも考えましたが、のちのち新聞連載を 読みながらいろいろな本を引き合いに出すと思われますので、 そのときにこの100冊のリストを参照してもらえると便利かと。 なので今日は解説はなし(^^;
001 村上龍『愛と幻想のファシズム』(講談社文庫) 002 村上龍『希望の国のエクソダス』(文藝春秋) 003 村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社文庫) 004 久間十義『魔の国アンヌピウカ』(講談社) 005 久間十義『オニビシ』(講談社) 006 小森陽一『ポストコロニアル』(岩波書店) 007 夏目漱石『それから』(講談社文庫) 008 村井紀『南島イデオロギーの発生』(太田出版) 009 猪瀬直樹『ペルソナ』(文春文庫) 010 小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社) 011 上村英明『先住民族の「近代史」』(平凡社) 012 イザベラ・バード『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー) 013 中村/カン『21世紀へのキーワード 文化』(岩波書店) 014 テッサ・モーリス『辺境から眺める』(みすず書房) 015 川村湊『南洋・樺太の文学』(岩波書店) 016 川村湊『異郷の昭和文学』(岩波新書) 017 相良俊輔『流氷の海』(光人社NF文庫) 018 神沢利子『流れのほとり』(福音館書店) 019 星新一『明治・父・アメリカ』(新潮文庫) 020 西村英樹『夢のサムライ』(北海道出版企画センター) 021 星新一『明治の人物誌』(新潮文庫) 022 星新一『祖父小金井良精の記』(河出書房新社) 023 山口昌男『はみ出しの文法 敗者学をめぐって』(平凡社) 024 山口昌男『独断的大学論』(ジーオー出版企画) 025 山口昌男『知の自由人たち』(NHKライブラリー) 026 切通/丸山『日本風景論』(春秋社) 027 斉藤令介『田園生活の教科書』(集英社) 028 坂本直行『開墾の記』(北海道新聞社) 029 坂本嵩『開拓一家と動物たち』(朝文社) 030 J・ダレル『虫とけものと家族たち』(集英社文庫) 031 本田優子『二つの風の谷』(ちくまプリマーブックス) 032 萱野茂『アイヌ歳時記 二風谷のくらしと心』(平凡社新書) 033 赤木駿介『日本競馬を創った男』(集英社文庫) 034 花崎皐平『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店) 035 町田宗凰『縄文からアイヌへ』(せりか書房) 036 福田正巳『極北シベリア』(岩波書店) 037 池上永一『風車祭』(文藝春秋) 038 池上永一『レキオス』(文藝春秋) 039 岡谷公二『南の精神誌』(新潮社) 040 星川淳『ベーリンジアの記憶』(幻冬社文庫) 041 星川淳『環太平洋インナーネット紀行』(NTT出版) 042 星野道夫『森と氷河と鯨』(世界文化社) 043 G・スナイダー『野生の実践』(山と渓谷社) 044 津本陽『椿と花水木』(新潮文庫) 045 H・D・ソロー『森の生活』(岩波文庫 他) 046 稲本正『ソローと漱石の森』(NHK出版) 047 S・ヘレロ『ベア・アタックス』(北海道大学図書刊行会) 048 熊谷達也『ウェンカムイの爪』(集英社文庫) 049 J・A・ミッチェナー『センテニアル遙かなる西部』(河出書房新社) 050 巽孝之『アメリカ文学史のキーワード』(講談社現代新書) 051 巽孝之『恐竜とアメリカ』(ちくま新書) 052 高山宏『ふたつの世紀末』(青土社) 053 高山宏『奇想天外・英文学講義』(講談社選書メチエ) 054 伊藤俊治『ジオラマ論』(ちくま学芸文庫) 055 荒俣宏『レックス・ムンディ』(集英社文庫) 056 栗本慎一郎『幻想としての経済』(青土社) 057 栗本慎一郎『都市は発狂する』(カッパブックス) 058 石川好『南海の稲妻大和の虹』(岩波書店) 059 日野啓三『台風の眼』(新潮文庫) 060 日野啓三『光』(文藝春秋) 061 山田輝子『ウルトラマンを創った男』(朝日文庫) 062 鳥越皓之『沖縄ハワイ移民一世の記録』(中公新書) 063 マイク・レズニック『キリンヤガ』(ハヤカワ文庫) 064 ディナ・スタベノウ『白い殺意』(ハヤカワ文庫) 065 J・ディッキー『白の海へ』(角川書店) 066 カール・セーガン『コンタクト』(新潮文庫) 067 島田/笠井『日本型悪平等起源論』(光文社) 068 見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店) 069 鶴見良行『ナマコの眼』(ちくま学芸文庫) 070 網野善彦『「日本」とは何か』(講談社) 071 宮本輝『優駿』(新潮文庫) 072 原田康子『満月』(新潮文庫) 073 原田康子『風の砦』(講談社文庫) 074 佐々木譲『五稜郭残党伝』(集英社文庫) 075 佐々木譲『エトロフ発緊急電』(新潮文庫) 076 船戸与一『蝦夷地別件』(新潮文庫) 077 佐江衆一『北の海明け』(新潮文庫) 078 城山三郎『冬の派閥』(新潮文庫) 079 船山馨『お登勢』(講談社文庫) 080 安部公房『榎本武揚』(中公文庫) 081 阿刀田高『怪談』(幻冬社文庫) 082 鈴木明『追跡』(集英社文庫) 083 綱淵謙錠『乱』(中公文庫) 084 司馬遼太郎『菜の花の沖』(文春文庫) 085 司馬遼太郎『竜馬がゆく』(文春文庫) 086 司馬遼太郎『燃えよ剣』(新潮文庫) 087 北方謙三『林蔵の貌』(集英社文庫) 088 吉村昭『落日の宴』(講談社文庫) 089 小谷野敦『間宮林蔵<隠密説>の虚実』(教育出版) 090 安彦良和『王道の狗』(講談社) 091 手塚治虫『シュマリ』(講談社) 092 大和和紀『NY小町』(講談社漫画文庫) 093 ゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミンUP』(小学館) 094 佐々木倫子『動物のお医者さん』(花とゆめコミックス) 095 中井貴恵『ピリカコタン』(角川文庫) 096 中井貴恵『ニューイングランド物語』(角川文庫) 097 辻仁成『ニュートンの林檎』(集英社文庫) 098 福永武彦『夢見る少年の昼と夜』(新潮文庫) 099 池澤夏樹『旅をした人』(スイッチ・パブリッシング) 100 池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』(新潮文庫)
・・・なお、手元にない本が多くて記憶に頼って書いてるので、 出版社名とか間違ってるのがあるかもしれませぬ。 お気づきの方がいらしたら、ご指摘いただけると助かります(^^)
2001年06月08日(金) |
「すばらしい新世界」の誘惑again |
あらためて書くのもなんだけど、「静かな大地」の新聞連載は6月12日にはじまる。 それまではこの日録も助走というか、テスト飛行の状態。 この時点でこれを僕が書いていることを知っている人はほとんどいない。 連載開始とともに僕のやる気が失せなければ、もう少し告知の範囲を広げるつもり。 そして連載との「並走」のペースがつかめてきて、なお意欲が続き意義が見出せたら、 そう7月7日あたりに然るべき場所で情報リリースすれば届くところには届くはず。
1999年の春に読売新聞で連載されていた「すばらしい新世界」の時は、 ネット上のBBS=掲示板で何かおもしろいことが出来るのではないか、と思って サイトを立ち上げ掲示板を設置し結構真面目に世間に「呼びかけ」なんぞもした。 そのころ、ほんの2年前には僕が立ち寄っていたサイトはどこも掲示板などという 猥雑なメディアは採用していなかった。以下はその時の気負った「呼びかけ」の文章。 なんか企画のプレゼンしてるみたいで気恥ずかしい文章です。一応ファンらしいネタで 釈明すれば「真昼のプリニウス」の門田青年みたいになってしまう癖がありまして(笑) 海外に旅行などに出かけると自分を「夏の朝の成層圏」のヤシそのものだ、と思ったり もするのですけど。ま、2年前に嘘でもこんなこと考えてた人間が、これからはじまる 21世紀初頭の池澤御大のライフワーク(<と言ってよかろう)「静かな大地」を読み ながら、つらつら思うことを孤独に書いていこう、というわけです。
<以下、過去文より引用。題は、「すばらしい新世界」の誘惑>
池澤夏樹さんの小説、エッセイの愛読者の方、あるいはまだ読んだことはないけれど 興味のある方たちへの呼びかけです。
池澤さんは詩、紀行エッセイ、書評そしてもちろん小説などの創作活動を通じて多く のファンをもつ著述家です。地球の各地を旅した見聞や世界文学から理科年表に至る まで膨大な読書量を背景に、理科系的感性と地球上のヒトの営みへの鋭い批評をもり こんだ、平易かつ味わい深い文章を私たちに発信しつづけてくれています。 88年の芥川賞受賞作「スティルライフ」の、まるで結晶のような静謐な言語空間が 放つ輝きに魅了された読者も多いことでしょう。私も、その一人です。
ここ数年の間ホームグラウンドとされてきた「週刊朝日」の連載エッセイ「むくどり 通信」が、98年いっぱいで終了。93年のスタート以来、沖縄への移住にともなう 基地問題への積極的な発言や、「同志」であった故・星野道夫さんの急死とそれに まつわる顛末、そしてさまざまな国々からの興味深い、また美味しい話題の数々が 記憶に残ります。この6年の歳月、世界、日本そして自分には何があっただろうか? ・・・そんな感傷に浸る間もなく池澤さんからのメッセージは、さらに日刊の全国紙 への初の連載小説へと舞台を移します。 99年1月16日朝刊からはじまった「すばらしい新世界」が、それです。
世の多くの池澤夏樹作品の愛好家にとって、新聞連載小説というスタイルは馴染みが なかったり、少なからず意外だったりしたのではないでしょうか? 作品テクストの完成度への強いこだわりからか月刊文芸誌への連載すらしない小説家 ・池澤夏樹がなぜ今、新聞連載なのか?
読者にとっても年々歳々さらにいや増す繁忙感が募る世紀末、新聞連載の小説を日々 フォローして読みつづけるのは、いかな大好きな池澤さんの小説でもカンベンしてほ しい、ついては単行本化の暁に買い求めてしっかり池澤ワールドに浸るとしよう・・・ そう思われる向きも多いことでしょう。 でもちょっと待ってほしいのです。
池澤夏樹と新聞連載。 この一見似つかわしくない関係にメディア=媒体への見識を人一倍もっている池澤さん の戦略が潜んでいないわけはない・・・。 正直なところ、私も連載開始を知ったときには、何故?・・・と思いました。 あの人のことだから連載開始一回目で、すでに実は最終稿まで入稿済みなのではないか と冗談で勘ぐるほどに不可解でした。
しかし連載開始とともに疑問は氷解。 まず開始に際して掲載されたインタビュー構成の囲み記事(尾崎真理子記者による)で 環境問題や国際情勢、インターネットによるコミュニケーションの変容などジャーナル な関心を、これまでになく構えのない(・・・かに見える)文体で綴るとともに、 1999年の日々更新されてゆく最新の時事やデータを積極的に盛り込んで、環境問題を 読者とともに(!)考えていきたいという意図が語られていたのです。
作家というシェフが薦める食べ方。 すなわち日々の朝刊を開いて揺れ動く国際情勢や、環境問題をめぐる新たな報告、資本 主義のたくましさを感じさせる雑多な広告などを眺めながら、一回一回の連載を楽しむ が最も美味しい味わい方・・・というわけです。 実際、掲載が始まってみて日々のコピーをスクラップしていると週刊誌のドギツイ見出 し、宗教の祭典の告知、パチモン臭い通信販売の広告などと並んでイケザワ・ワールド が細長い長方形に収まっているさまは、なかなか面白い奇観と言っていいでしょう。
そうしてよく考えてみれば、池澤夏樹さんは「ジャーナル」な関心をふんだんに持ちあ わせた著述家であったことを思い出します。 「スティルライフ」の株投機、「タマリンドの木」のNGO、そして沖縄移住直後に 勃発した基地問題の再燃・・・。いずれも決して時事を泥縄で追いかけたのではない、 「予言的」ともいえるタイミングではなかったか?・・・それはとりもなおさず「正し い情報を正しいやり方で処理する」明晰さと賢明さの証明に他なりません。その彼が、 長年関心を抱きつづけてきた環境問題について、いよいよ正面切って私たちの生活レベル の話題から説き起こした小説を書きはじめたのです。 環境について、うすぼんやりとでも関心を持たない人が珍しいような世の中になって既 に久しいにも関わらず、たとえば自然保護運動の現場の方々と、文明の果実を享受する 生活者との間の谷間に落ち込んでしまうことのない、説得力のある思想、コトバ、実践 の試みを、私たち哀れで無知な羊たちの多くは未だ知ることができないでいます。
思想、コトバと実践の現場との間にある、気の遠くなるような距離・・・、池澤さんが 大田前沖縄知事の応援演説までされたと「むくどり通信」で読んだ時、97年の初春に 北海道・鹿追町へ聴きに行った、星野道夫さんについての講演会での彼の肉声を想い起 しました。 御自身を「所詮は机上でものを考える人間」と、自嘲と覚悟と誇りを綯い交ぜにしたよ うな言い方で「フィールド」の人・星野さんと引き比べた池澤さんは、星野さんが自然 について、そして宇宙の中のヒトの居場所について教えてくれようとしていたことを、 コトバでとことん考えている・・・、星野さんの生と死の意味も。 冷静な理知の人・池澤夏樹さんが、目の前で畏友の喪失に声を詰まらせている・・・。
「星野道夫の仕事」という、簡潔な講演の題が、その「仕事」という語感が、炎のような 覚悟を伝えていました。池澤さんも若いころから悩み、考えつづけ、真摯に生を楽しみ ながら世界を見つめ、コトバの力をたくわえ、友人を沢山つくり、自分の居場所を築いて そうして今にいたって社会への「反撃」に出られたのだろう、御自身の「仕事」をまた 一歩進められるのだろう・・・。
「地球環境問題」という、ヒトが抱えてしまった最大の矛盾・・・。 それはもしかすると最高の賢者にも解くことのできない難問なのかもしれません。 でも世界がこんなザマに至っているのには、それなりの理由とシステムがあるはずです。 そのシステムに抗する・・・、少なくとも理解するには、慎重かつ粘り強い理性の力が 必要でしょう。小さくとも自分の目の前にある「フィールド」を闘いつづけること、 そしてそれが誰かと遠くで交わるなら、ヒトはまったく孤独ではない・・・、少なくとも 甘えないで闘う覚悟をするフリくらいは、たとえヤセ我慢でもしたいものです、 ・・・たとえば星をみるとかして、ね。(あ、盗作だ。)
ささやかな実践として「すばらしい新世界」に触発されてみよう・・・地方紙のベタ記事 の中に、近所の犬のたたずまいの中に、海外へのヴァカンスで見た朝焼けの中に、大好き な本や音楽や食べ物の中に、愛する人の視線の彼方に、ヒトが必要とする「精神の食べ物」 の断片が沢山みつかるかもしれない、それが互いに触媒になって錬金術のように素敵な知恵 のアラカルトに化けるかもしれない、日常生活そのものが詩と冗談と音楽の歓びに満ちた ユートピアに一歩近づくかもしれない、そんな理想が少しずつ夢物語ではなくなっていく ことを願いつつ・・・。
というわけでこのHPは、池澤夏樹さんの巨大メディアを舞台にした果敢な試みを「補完」 しつつ時には愛をもって茶化し、茶化しつつ「補完」することを目指します。読売新聞紙 や池澤夏樹さん御本人とはまったく無関係に、管理人の責任で運営されます。趣旨に賛同 される方のご参加をお待ちしています。特定の思想、運動団体の宣伝や布教活動は、その ままだと歓迎されません。 読売新聞さんの販売促進活動にも与しないかわりに、好き勝手に立場を越えて楽しめる場を 作りたいと思っています。そこにいつしか本当の「力」が宿ればメッケもんということで ・・・。 何より類まれなる知のエンターテイナー池澤夏樹さんと、その作品につながる世界 を愛する方々、そしてまだ読んだことはないけれど、「すばらしい新世界」的なフィールド をお持ちの方々と、二度とない1999年をライブ感覚で楽しもう、という場所です。
そこのあなた、美味しい「精神の食べ物」を持ちよってライブ・パーティーに参加しません か?もしかすると大世紀末のポトラッチの狂宴になるかもしれないのですぞ! これは結構あなどれません。
<引用終わり> で、まあ新聞連載小説「すばらしい新世界」と、連動する掲示板をやったことそのものは なかなかに面白かったと思っている。全国屈指に「すば新」を読む日々を楽しんだ部類の 人間に入るだろう。そのことと↑この文章のアジテーションをどう総括するのか、という のはまた別の問題としてあって、だからこそ今またこんな日記をはじめていたりもする、 そして簡単には「総括」できないことがあるから作家さんは物語を紡ぎだし、読者はそれ を読んで作品世界と対話するのだろう。 連載がはじまれば結構おちゃらけそうなので、とりあえず「原論」篇として過去の文章を 掲げておいた、というところ。楽しようとしてかえって大変だったな、今日は(笑) こんな文章量や生真面目さで続けるつもりはありません。 むしろ「つっこみ」の鋭さが本芸のつもりなので♪
2001年06月07日(木) |
「日本の根っこ」vs「北の大地」 |
今日も過去の自分のBBSから切り貼り編集です(^^; お題は、オキナワ。というかオキナワへの視線。 それと「北の大地」というフレーズについて。
事のはじめは御大が書かれた比嘉康雄氏の新書の帯文句。 沖縄、そして久高島を「日本の根っこ」と称する文面があった。 これってそのまんま受け取るといわゆる「オリエンタリズム」というか 「帝国」の視線ではありますまいか?・・・ってなことを気にしつつ、 韜晦も含めてごちゃごちゃ書いていたのをまずは引用↓。
<BBS「すばらしい新世界」広場BBSへの過去のカキコミ> 比嘉氏の本の帯に御大が書いている惹句、 あれはフルテクストが別にあるのの一部なのか、 ああいうコピーとして書いたのか? まんま読むと足元をすくわれそうでありながら、 ひとつひとつの常套句を解きほぐして考えると きっとラディカルに強固な意志と態度が透けて見える、 ・・・ように計算したつもりなんだろうなと思いつつ、 なーんか低次元な誤解を招くような気がする。 そういうことを「もはや関係ない」と強がりたいがために わざと「骨太」ぶってみたりしてるのかなぁ? だとしたら男の子っぽくていいかも。 うまく使えそうなシチュエーションで真似しよっ(笑)
<またある日のカキコミ>
北海道へ行く前はもっと無邪気なオキナワ・ファン予備軍だったのに、 6年いてトウキョウへ戻って来たらなんだか南への心理的敷居が高い、 ・・・とここでも表明している僕だが、ゆえあって向こう1年くらいは オキナワ・シフト体制になる。 僕は「オキナワ料理店好き」だけど「オキナワ好き」かというと怪しい。 ぬいぐるみのクマちゃんが好きなのと野生動物の熊が好きなのの違い くらい遠い属性なのだろう、それって。 “野生のオキナワ”ってなんか中沢新一のエッセイの題名みたいだけど(^^; でもねぇ、案外とっかかりがなくて困るのよ、オキナワって。 よって僕の「オキナワ怖い」は「饅頭怖い」ではありません(笑)
<またある日のカキコミ>
『Switch』のデブリーフィング・インタビュー続いてますが、 オキナワのこと、来年の北海道連載のことなど触れてますね。 はやいとこ単行本にまとめて欲しいんですけど。 しかしインタビュー読み過ぎるのも問題集の解答ページを のぞきみるようで、いかがなものか、という話もありつつ。 で、インタビューの行われた場所が久高島、および見える場所と。 「日本の根っこ」発言の真意など、ちゃんと読めばわかるかも、 と思いつつ立ち読みもせず。 池上永一『レキオス』の方が、現在の僕のオキナワ経験値 からすると比嘉康夫さんの本より適当かと思いつつ読んでます。 あとオキナワへの距離感と同時代体験、ということでいえば、 福生小説『限りなく透明に近いブルー』再読してみたり。 ベトナム戦争のころの福生は濃かったようです。 今は繁華街も寂れ気味ですけど。 横田の向こうに沖縄があり、その向こうにベトナムがある、 そういう位相のオキナワも想い出しておく必要があるかと <引用終わり>
・・・で、生けるオキナワを「日本の根っこ」呼ばわりすることの 孕む、それこそ根の深いヤバさと抵抗感を僕は「北の大地」という 決まりフレーズにも酷く強く感じていて、自分自身が関与できる 範囲では絶対に使わないようにしている。 「北の大地」という決まりフレーズの持つハマリの良さと強さは 内地の人々や歴代の北海道人自身を呪縛、あるいは魅了している。 んがしかし、その幻想の生成の仕方に無自覚でいることには 住んでいたころから耐えられなかった。うむ。
「静かな大地」を読むことを通じて自分自身の北海道体験を相対化 しながら、「北の大地」にくくられることのない、なおかつリアル で充分にロマンティックな世界像を見出せたらいいなぁと思っている。 つまるところコトバとして疲弊した「紋切り型」をはみ出して、 未だスウィート・スポットに入らざる美意識を共同幻想の中に 汲み入れる・・・そんな作業かもしれない。 イチャモンが言いたいのではなく「欲深い」のだろう。 「物語」を読むことのギリギリの快楽を求めて。
・・・なんかこのテーマを「わかってもらう」ためには、かなりの 例を挙げたり笑いどころを作ったりしないと無理なんだろうなぁ、 と思いつつ、ひとまず予告篇的に提示だけしておきます。 腰砕けですみません(^^; 「日記」というか雑文というのもBBSとはまた違う意味で 「言い放つ」のが難しいメディアですなぁ、意外と。 まぁ連載が始まれば、日々の話題の焦点が提供されるわけで こういうあまりに総論めいたことで話が拡散してしまうことも なくなるでしょう。ま、て〜げ〜に行きます♪
以下は去年に自分ちのBBSにカキコんだ今度の連載への 僕なりの当時のスタンスです。御参考までに適当に切り貼りして引用。 (この方式で行けばかなりラクに更新できるなぁ(笑) ま、「静かな大地を読むための100冊」はやりますけど、ね。 ・・・っていうか「〜50冊」にしとこうかしら?(^^;)
<BBSすばらしい新世界よりG−Whoの過去のカキコミ引用>
しかし実際サーモン美味いんだよねー。(<『Switch』の話) 北海道に住んでいたのでサーモンっていうよりカムイチェプなんだけど。 塩漬けにして寒風に干した鮭って良質の生ハムみたいな味なんですよね(^^) 鮭が干してある光景を見ると、アラスカと北海道は“地続き”だと思います。 でもアイヌ民族が川で自由に鮭を捕れなくしたのが「明治という国家」。
池澤御大にはミチオの昇天で途切れた「北海道への回帰」を いつか果たしてもらいましょう。 ワタリガラスやエスター・シェイはもちろん、イヨマンテにも関心を 寄せていらしたミチオの遺志をストレートに継ぐべきは ご自身も帯広生まれで静内に縁戚を持っておられるらしい御大しかいません。 久間十義さん@新冠出身も北海道&アイヌのことを書いてらっしゃいますけど。 鳥海さんの言うとおり、ミチオの哲学をどう「現世」に照射しうるのか? これからの残された者の課題ですから。 ・・・しかしねぇ、拓銀が無くなって不況にあえぎ、公共事業だのみで 鳩山由起夫氏が落選しかける北海道、 ヒグマはかろうじて生息しているけれど人類と熊との生存競争の中で 「強制収容所」のようなクマ牧場を地上に在らしめてしまった北海道、 それを小説で描くのはきっと死ぬほど難しいでしょう。 村上龍氏は今月単行本になるらしい『希望の国のエクソダス』で あっさり北海道やってますけど、御大の場合また容易じゃないでしょうし。
以前に北海道の新聞のインタビューかなにかで遠い将来に北海道を 舞台にしたマジック・リアリズム的な小説の構想があるやに 話されていましたが(<うろ覚え (^^;)きっと難しいテーマなので 実現したとしてもまだまだ先のことかもしれません。 司馬遼太郎氏が『街道をゆく』で「最後はハンガリー」って言ってて 編集者が誰も「ハンガリー行きましょう」って言えないままに ついに永遠に実現しなかった・・・みたいなことにならないことを祈りつつ(笑)
<以下、しばらく後のカキコミより引用>
しかし「パレオマニア」な旅の今年が来年への伏線だった なんて流石に僕にも読めなかった(^^; っていうか「もう北海道やるんかぇ?!」というのが 正直なところだったりもする。もっとずっと先かと思った。 余程自信が出来たのか、生き急いでらっしゃるのか・・・?? 新聞連載というスタイルを「すば新」でやってみた 総括みたいなことも新井敏記さんのデブリーフィングで あまり多く語られていなかった印象があるだけに、創作スタイル として、どういう手応えを得て、次をどう行こうとされるのか、 そのへんも気になる。書くことに「蛮勇」を要する方だけに 新聞連載というスタイルは案外いまの時点での妙手なのかも。 でも今度はデジカメ写真つきトラベルエッセイ&時評風 というわけじゃなく骨太なマジックリアリズム調の長編 になるはずだし(<勝手に決めるな 笑)構成も重要だろう。 どのへんに新聞連載の必然性や勝算があるのだろう? そのあたりが主戦場となることでしょう。おもしろい。
100年前の北海道。ミチオが憧れ、現代のアラスカに求めた世界。 そして御大のご先祖がいたという日高の静内はウタリの里であり、 御料牧場があった軍馬の生産地であり、シャクシャインの 拠点でもある。樽前山や有珠山や駒ヶ岳の火山灰が厚く 層をなし、今は緑の牧場にサラブレッドが草をはむところ。 佐々木譲さんや久間十義さん、そしてもちろん村上龍氏とは まったく違ったアプローチの北海道が描かれることだろう。
なんにせよ、池澤御大よりも北海道経験値が高いことだけを 立脚点にしてエラソーな読者という芸風?をやっているだけに、 (6回季節のめぐりをくぐって、ヒグマの冬眠穴にも潜った 笑) もはや逃れられないイベントだろう。 なし崩し的にこのサイトの存続と2001年までのリニューアルを ここに宣言しておこう。 「すばらしい新世界の誘惑」というこのサイトのトップの 文章を書いた責任と自負もある。 2001年は北海道を舞台にした新聞連載小説と、 オキナワを舞台にした朝の連続テレビ小説と併走しよう! <引用終わり>
・・・う〜むむむ、サイトのリニューアルを宣言しているぞ、この主催者(^^; 思うところあってこれを書いている時点では、ほとんどこの日記の存在を 知る人はいない中、自分のHPは放置状態にしてあったりする。 BBS「すばらしい新世界広場」は、活用してもらえるものなら活用して して欲しいけれど、僕はここで孤独にヘンリー・D・ソローのように(?) 森のそばであ〜でもなくこ〜でもなくやっていたいというのが現状。 不義理している世間のみなさま、ごきげんいかがですか?・・・と♪ ついでに、「ちゅらさん」も見ないとだめサァ(^^)
ミーハーな読者としては「シャクシャインと火山灰」話が「静かな大地」で 「採用」(?)されるかどうかが楽しみなところ・・・なんて話がわかる人、 少ないでしょうね。 「いけざわキーワードコラムブック:火山」でもそのうち再録いたしましょう。 う〜ん、姑息な更新作戦だ(笑)
2001年06月05日(火) |
なりゆき主義@2001 |
作家・池澤夏樹氏の読者である私、時風が、好き勝手に テクストを離れて書きたいことを書こう、という日記へようこそ。
「ハナへの道」の冒頭を引用して「すばらしい新世界」伴走BBS なんてものを立ち上げてみたのは、1999年の初めだった。 (↑『明るい旅情』@新潮文庫に落ちたばっかりに所収) こんど朝日新聞紙上で連載が始まるという「静かな大地」は、 御大長年の構想による北海道開拓期に材をとった作品になるらしい。 極私的な事情になるが90年代の大半を彼の地で過ごした者としても ギリシアやサハリンやニューイングランドなどに御大の影を追った 単なる「濃い」読者としても、なかなかに軽んずるわけにいかない事態だ。
経験上、新聞連載をフォローしつづけるのはかなり大変だ。 けど面白い。同時代を日々生きているという実感もある。 今回も「自分が読みつづけるため」というのを最大の理由にして どーでもいい自分の日常などを交えつつ日録を残して行こうと思う。 BBS以上に「文体」の加減が難しいけど、肩の凝らない感じにしたい。 だいたいがWeb日記というのは「放言」するためにあるロバの耳、 顔文字も「(笑)」もOKで、そのうち近しい友人達に書くメール調に なってくることでせう。 ちゅうわけで本日の表題通り「なりゆき主義」で、て〜げ〜に行きます。 池澤御大の「静かな大地」を読んでチャランケ!というよりは、ゆんたく をして楽しもうという心、よろしければおつきあい下さいませ♪
日記の性質上、新聞連載の「ネタばれ」は当然あるものと思って下さい。 連載を読んでない人が読んでもおもしろいかもしれませんけど、 連載を楽しく読んでいるからといってこの日記がおもしろく読めるとは 限りません(笑) すべては僕とのシンクロ具合でしょう。 そのへんは連載開始までにすでに考えている企画、まだはじまってないのに 「静かな大地を楽しむための100冊」でもご覧いただければ僕の守備範囲 というか、池澤夏樹氏や北海道への関心の持ち方が多少見えると思います。 ま、おいおい学の無さもミーハーさもバレるということで・・・。
あと一応この日記のタイトルの解題。 『エデンを遠く離れて』から語呂を拝借、僕自身が「静かな大地」北海道から 遠く離れてしまったなぁ・・・という慨嘆を込めつつ、テクストたる新聞連載を 「遠く離れて」しょうもないことをあれこれ書くぞ!という意欲を表わし、 アイヌの人々が「人間の静かな大地」と呼んだ土地が今では一世紀半の果てに 開拓とは、開発とは、そして近代とは何だったのか?という問いさえ発せられ ている「遠く離れて」しまった現状をも匂わせて、もっともらしく粉飾 した苦し紛れのネーミングでもあります(^^; 果たして「静かな大地」とはエデンだったのか、という含みもあります。 「遠く離れて」どんな視線を注げるのか、それが重要だと思います。
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