泣く声が美しい町があった。
伽藍と、教会の鐘の鳴るのを遠望するみたいにして、
女はそう言った。
本のページからひょっこり顔を覗かすものもあるように
その記憶は突然僕を捉える。
色褪せない巧みな表情のさまを辿り
思わず息を呑んでしまう。
窓のそとは、まだ雨だった。
その町に着いたのは、午後過ぎのこと。
心細いバスに、乗客は僕一人だけだった。
その町に降りたのも僕一人
じっとりと額に汗を浮かべたバスの運転手は
何か眩しいものでもみるように僕を一瞥すると
またエンジンを掛け、内側に折り込んだ扉を再び閉じた。
誰もいない通り、車は二・三台止まっている。
どれもピカピカに磨かれて、
どれも原色でペイントされていた。
見上げれば、手が届くくらいに空が青い。
西部劇でも見ているみたいだ。
通りの並びには
薬局、煙草屋 雑貨屋が店を空けている。
それ以外の家屋のおもては、全てシャッターがおりている。
とてもひっそりとしていたが
薬局に入る。
ツンとした薬の匂い。
その一番奥で、何かを編みこむみたいな手付きで
チョコンと婆さんが店番をしていた。
「ここらで、休める場所はないでしょうか?」
そう訊くと、老婆は一寸間を空けて、目は宙を泳ぐ。
「ないねぇ」
と、ため息まじりに返ってきた。
「ここでお茶でも飲んでくかい?」
そう水を掛けられ、
あっさりと、脇にあった踏み台に腰を下ろす。
喫茶店をとても見つけられそうになかったから。
そして、別に一人旅を楽しむ向きでもなかった。
それから婆さんはとめどなく喋ったが、
僕は片時も耳を澄ませるのを忘れない。
そうそうと
婆さんは奥に引っ込む。
戻ってくると
爺さんの形見だという古い腕時計をまたたくまに僕の腕に巻きつけた。
そうこうするうちに、陽は傾き始めた。
帰りのバスのこともある。
遮らずにいたら、布団まで敷かれかねない。
「そろそろ帰りますよ。」
そう言って立ち上がると、
老婆はいかにも淋しげだった。
時計を外そうとすると、
それも押し止める。
頂けませんよと引き剥がそうとするが、
どうにも振りほどけない。
「また誰かがきたときに、見せられなくなっちゃいますよ。」
と、諭すが、今度は次から次へと時計をカウンターに並べ始める。
「だから、一個くらいいいんだよ。」
と、淋しげに笑った。
僕はまるで、賽の河原の石積みでもみるような按配になってしまったが、
時間も切り始めている。
「ありがとう。」
そう言って、店を出ることにした。
外に出ると灼熱の夏の日も、随分柔らかいものになってきていた。
耳を澄ましても、昼から起きはじめた虫の声しか聞かれない。
それでも例えば突然降りだした雨みたいに、
何かが何かの為に一斉に泣き始めるであろうことは
疑いようのないことのように僕には思える。
その期待と、この静寂と、 被さる疲れと
それらが交錯するところに
その泣き声は聞こえることだろう。
僕は既にその声を知っていて
しかもまだ泣いているというのに
ただ、心の中の青い痣としてしか残ってないだけなのかもしれない。
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