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2002年06月23日(日) 【W杯】朝日の馬鹿げた今日の社説

朝日新聞が今朝の社説でW杯を取り上げている。
「W杯 確かに残るものがある」と題するその社説を読んでいて、
あまりにも愚劣な論調に、飲んでいたお茶を吹きこぼしそうになった。
以下、読者を小馬鹿にしたような「です・ます」調で書かれたその内容を抜粋する。

「…世界には日本とはずいぶん異なった文化があることに、あらためて気付かされます。
快進撃を続ける共催国・韓国の試合ぶりは、絶賛のほかありません。精神も肉体も実にタフです。」

そりゃ確かにタフだ。まともな精神状態なら、
数々の不正疑惑に対する世界中の非難を浴びながら
狂気乱舞していられない。面の皮が、足の裏ぐらい厚いのだろう。

「一方で、ベスト8に進出したあと、韓国政府は選手の兵役免除を決めました。
これも日本との相違です。」

いったい、何が言いたい?日本にはそもそも徴兵制がないのだ。
代りに消費税でも免税しろと言うのか?
日本との相違を言うなら、韓国ではヒディンク監督が韓国籍を取得するよう、
ありがたくもない押しつけ運動が行われているらしいが、
こんな夜郎自大なバカ気た「文化」は、日本にはあり得ない事を挙げて欲しい。

「世界を見渡すと、サッカーに関する限り米国は発展途上国なのです。
こんどのW杯の予選大会に参加した国・地域は195。ワールドシリーズと称して
米国一を競う野球などとは、ちょっと違います」

言うに事欠いて、何もサッカーにかこつけてアメリカ批判をしなくてもよかろうが。
朝日はいちいち反米意識を剥き出しにしないと気が済まないのか?
それに、「野球などとは」とは、何たる言い草か。野球ファンを愚弄する気か。
「異なった文化」の理解を云々しながら、アメリカの野球文化は認めないらしい。

「よくW杯を戦争にたとえる人がいます。ボールを介した国と国との名誉をかけた戦い
だと。そうでしょうか。」

朝日の脳内お花畑には、サッカーから戦争になった実例の知識はないらしい。

「W杯には、参加チームすべてが了解したルールがあります。
選手の数も決まっています。法外な軍事力や核を持ったチームはありません。
許されてもいません。」

わかり切った幼稚なたとえで何が言いたいのか、わからない。
侮辱的な文句を連ねた横断幕で相手国チームを罵る事、
レーザーポインタでの相手選手への攻撃、そして審判の買収は
核兵器よりましだとでも?

「もう一つ残るのは、日韓の確かなきずなでしょう。
いまや日本中が韓国チームに声援を送っています。」

結局、これが言いたかったわけだが、バカも休み休み言ってもらいたい。
日本が敗れた時、韓国のスタジアム中で大歓声に包まれたそうだ。
朝鮮日報東京支局の自画自賛、我田引水とは裏腹に、
残ったのは、韓国への不信だけではないのか?
いまや世界中が韓国に罵声を浴びせている。


2002年06月22日(土) W杯の憂鬱

サッカーWカップは日本代表が決勝トーナメント進出を果たし、
しかも共催国の韓国は歴史的な4強進出、
大変な盛り上がりを見せアジア初、そして初の共催は大成功、
更に日韓の友好も深まり万々歳!!

…などと、マスコミの描くような綺麗事の世界とは大違い、
実態は史上最低の大会として歴史に汚点を残したようだ。

勿論、日本代表はよくやったし、
にわかサッカーファンのはしゃぎ振りが少々目障りだったものの、
世界的イベントに対して開催国がシラケていては仕方がないので、それはまあいい。
問題は、共催の隣国・韓国だ。
いや全くもう、実に酷いものである。

品性下劣な横断幕で対戦相手国チームを罵り侮辱し、
アメリカ戦での恥知らずなスケートパフォーマンス、
更にはイタリア戦でのレーザーポインタ攻撃、
そして極めつけは、度重なる判定疑惑で浮上する審判買収問題…。
見事にアジアの恥を晒しまくってくれたものだ。
こんな醜い国と誰が何のいわれがあって友好を深めねばならないのか、
むしろ「謝罪と賠償」を要求したいくらいで、ふざけるなと言いたい。
ここ数日、怒りを通り越して憂鬱な気分に陥り、何も書く気になれなかった。

もっとも、こうなったからには八百長でもなんでもいいから、韓国には是非優勝して欲しい。
で、さぞ民族の誇りとやらを深めるだろうから、
それを機に自立し、今でのように歪んだ性根できゃんきゃん吠えて
日本に絡みつくのは今後一切やめて欲しいものだ。
そもそも誰も相手にしていないのだから。

でも実際には、ウリナラを過信し、ますます居丈高になるんだろうな。
嗚呼…。

それにしても朝鮮日報東京支局、いや朝日新聞のご都合主義には驚いたものである。
最近とみに評判の悪い「天声人語」の6月21日(金)付コラムでは、
イタリアの例のペルージャ会長の発言を取りあげて、
「あの国(イタリア)のサッカーへの熱狂ぶりは尋常ではない。
ただ、それが粗野な愛国心に直結するとうんざりする」
等と称し、以下、ヨーロッパの排外主義の動きに強引に話を結びつけて
言いたい放題の批判していた。
えっ、「尋常ならざる熱狂ぶり」!?「粗野な愛国心」!?
それって、今回のお隣りの国の事ではないのか??
あの狂乱振りに対しては、朝日お得意の「偏狭なナショナリズム」批判はしないのだろうか?
韓国(や中国)の愛国心は良くて、日本を含め他国は「粗野な愛国心」呼ばわり、か…
全く、恐れ入り奉る偏向振りである。


2002年06月15日(土) 衝撃、「ウルトラマン」逮捕さる!

「ウルトラマン」シリーズのヒーロー役は、その後の俳優人生では悪役を演じる人が
多い。
初代「ウルトラマン」のハヤタ隊員こと黒部進は、すっかり時代劇の悪代官イメージ
が定着している。
「ウルトラセブン」のモロボシ・ダン役の森次浩嗣に至っては、最初はダン役を髣髴
させる善人に見せかけて、実は悪人だったというようなシチュエーションの役柄が
多く、当時、子供心に私なぞは結構、ショックだった。
映画『ああ野麦峠』でも、善良誠実と思わせて実は冷酷非情な製糸工場の若主人役を
演じていた。
勿論それが役の上の話である事はすぐにわかるし、そしてモロボシ・ダンは、
やはり我々の心の中で永遠にモロボシ・ダンである。
10年前に放映されたNHKドラマ「私が愛したウルトラセブン」の中のアンヌの台
詞にあったように。

現在放映中のシリーズ第12作「ウルトラマンコスモス」の主演俳優が
なんと傷害恐喝事件で逮捕され、番組自体も急遽、打ち切りになってしまった。
役の上ではなく、実生活で「悪人」になってしまったのである。
ファンの子供には少なからずショックだろう。
というより、そもそも親が困るのではないか。
突然、何の脈絡もなく終了してしまった事に戸惑う子供から、
「ウルトラマンコスモスはどうしたの?」
と聞かれても、親は答えようがないだろう。
それとも、折角の機会だからこの際に現実を知らしめて、教育の糧にすべきか?

もう40年近い昔になるが、初代「ウルトラマン」の最終回で、
ウルトラマンは「光の国」へ帰って行った。
その放映終了直後、全国の多くの子供たちが窓を開けて夜空に向かって手を振って
ウルトラマンとの別れを惜しんだというエピソードがあるそうだ。
当時まだ健在だった円谷プロの創始者・円谷英二はその話を聞いて
非常に喜んだという。
円谷英二は、怪獣やウルトラマンの着ぐるみから役者が顔を出した写真を
嫌っていた。子供の夢を壊す、と…。
円谷英二が今もありせば、この事件を聞いて何を思うだろうか。


2002年06月13日(木) 三島由紀夫と太宰治

「しかし恥かしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、
言ったように思う。すなわち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。
『僕は太宰さんの文学はきらいなんです』」
(三島由紀夫『私の遍歴時代』)


年代によって読後感の変る作家の作品というものがあるらしい。
例えばドストエフスキーなどは20歳、40歳、60歳…読者が年を経る毎に
違う読み方ができると言われる。
埴谷雄高は「読者が成長させる作家」とドストエフスキーを評したものだ。
その逆に、ある年代の時にしか読めない作品もある。
例えば私は、三島由紀夫の作品を今後あまり読み返してみたいとは思わない。
10代の頃には三島文学に魅了され、主だった作品はあらかた読んだものだったのが、
その後は不思議に手に取る気持ちがおきない。
いや数年前に一度、『金閣寺』『仮面の告白』を再読しかけた時があったが、
空疎なレトリックばかりが鼻について閉口した。
中学3年の時に初めて読んで感動した三島作品である『金閣寺』すら、
ただの作りものめいていてがっかりしたし、
『仮面の告白』に至っては、アホらしくなって途中で読むのをやめてしまったものだ。
かつて松本清張が三島の事を「青年の文学」と呼んだが、そんな感じである。
私も年を取ったのだろう。

さて今日6月13日は太宰治の命日、いや正確に言えば玉川上水に入水した日だ。
三島の38才の時の半自叙伝『私の遍歴時代』には、太宰治とのたった一度の出会い
について記されている。
2人とも比較的若くして自ら命を絶ったので、随分と時代の違う人間のようにも思ってしまうが、、
2人が会ったこの時、太宰38才、三島22才である。ちなみに太宰の死はこの1年後である。

三島によれば、冒頭に引用した三島の言に対して太宰は、
「瞬間、軽く身を引き、虚をつかれたような表情を」したのち、横を向いて誰に言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。
なあ、やっぱり好きなんだ」
と言った事になっている。
10代の頃にこれを初めて読んだ時には、いかにも太宰の言いそうな事な気がしたし、
三島の影響で太宰嫌いになっていた私は、大いに溜飲を下げたものだった。
しかし、後に別の本を読んだら、この場面が全く違うように書かれていた。
それは、『回想 太宰治』 (野原一夫  新潮文庫)で、太宰サイドから書かれた本である。
手元に今ないので引き写せないが、三島は、「ニヤニヤ笑う」どころか、緊張のあまり
蒼白になっていたようだし、そして太宰は太宰で、それに対してこう言ったと言う。
「横を向いて吐き捨てるように、『嫌いなら来なけりゃいいじゃねえか』」――。

混乱してしまった。こちらの方も太宰の言いそうと言えば、言いそうな事だからだ。
それに三島が描いている太宰の姿は、太宰嫌いにとってはいかにもさもありなん
という感じの典型的な太宰像に過ぎる。
三島自身の発言、太宰サイドの証言、どっちが本当なのか…??

多分、真相は、後者が正しいのだろう。
太宰と三島、二大巨人の対決、と思うから錯覚するが、
三島はまだ後年の三島ではなく、短編を数編出しただけの、東大を出て
大蔵省の役人になったかならないかの時の、22才の平岡公威に過ぎない。
それに太宰はこの日、単にその場に酒を飲みにきたのである。
そしてそれは、そこを取り巻いていた人たちも同じだった。
だから酒の呑めぬ下戸の三島だけが1人、真剣勝負を挑んでいるつもりで、
滑稽な一人芝居を演じていたに過ぎないのだろう。

そしてのちに三島が太宰を嫌悪し罵倒し続けた理由も、多分ここにある。
勿論それ以前に文学的な問題もあるだろうが、
真剣勝負を挑んでいるつもりの三島はこの日、太宰に軽くあしらわれて
いたく傷つけられたのだ。
フロイトではないが、それに対する代償行為にほかなるまい。
三島が書いたのは、かくあるべき「太宰との出会い」であり、
何よりもそれを証明しているようである。


2002年06月10日(月) サッカーよりテニス

…と書きたかったのだけれど、肝心の全仏オープン決勝、観ないで寝てしまった…。
ちなみにサッカーも、裏番組の『十戒』に切り替えている間に得点シーンを見損なってしまった。
という事で、今日は書く事ありません…。

関係ないが、サッカーの監督は、英語では「コーチ」になる事に初めて気がついた
(野球の場合は「フィールドマネージャー」)。


2002年06月08日(土) 山崎豊子『華麗なる一族』

「読み日記」のジャンルは本来、「本や日記に思う事」について書くところである。
なので、読書感想文も書かねば…と思いつつも、最近まとまった読書をしていない。
そこで、再読で申し訳ないが山崎豊子の『華麗なる一族』(新潮文庫)について簡単に。

都市銀行第10位の阪神銀行のオーナー頭取・万俵大介が金融界再編の動向を先取りし、
「小が大を食う」合併を企て、成功させるまでの物語である。
万俵はバイタリティ溢れる人物、
しかし私生活では妻妾同居を営む暗い面も持ち合わせている。
更に、長男であり、万俵コンツェルンの中核企業である阪神特殊鋼の専務を務める鉄平が
亡父と妻の間に出来た「不義の子」ではないかという疑念に苛まれている。
このふたつの事が物語全体に影を落していく。
万俵は合併の相手に都市銀行第8位の大同銀行に目をつける。
そして、頭取の三雲が鉄平の親友である事から、
阪神特殊鋼をトリックに使う詭計を思いつき、それを成功させる。
が、しかしその事が意外な結末に結びついて行く事に・・・。

というわけで、単なる企業小説ではなく、人間ドラマを描いた山崎豊子の筆力に圧倒させられる力作だ。

一読すればすぐにピンと来るように、阪神銀行は神戸銀行、大同銀行は太陽銀行、
そして合併後の東洋銀行はかつての太陽神戸銀行をモデルにしている。
また、三白眼の大蔵大臣・永田は福田赳夫、党人派の実力政治家・大川一郎は河野一郎等々、
昭和40年代の政財界をモデルに配して、楽屋落ち的な楽しみも出来る。
(ちなみに後に山本薩夫が映画化し、万俵を佐分利信が主演している)。

戦後第二の金融業界再編が加速した現在、今日的な問題としても再読に耐える作品だろう。


2002年06月07日(金) サヨナラだけが人生か?!〜ホームページが消える時〜

「サヨナラだけが人生だ」
というのは、中国の漢詩の言葉を作家の井伏鱒二が意訳したものらしい。
ちなみに原詩と井伏訳の全文は、次のようなものである。

勧君金屈巵 (コノサカズキヲ受ケテクレ)
満酌不須辞 (ドウゾナミナミツガシテオクレ)
花発多風雨 (ハナニアラシノタトエモアルゾ)
人生別離足 (サヨナラダケガ人生ダ)
 
…などと尤もらしい話から始まったが、別に高尚な話でも何でもない。
人生も「サヨナラだけ」かもしれないが、ネット上でも出会いがあれば別れもある。
ネットをサーフィンしていて、気に入ったホームページや日記がある。
ブックマークして巡回コースに入れ、日々読む事が日課になる。
でもある時を境に更新がなくなったので、どうした事かと思っていたら、
ある日、突然、

ページが見つかりません

ヘコむよね…。
「袖擦り合うも他生の縁」、じゃないが、
顔も名前も知らなくても、何かしら共感する事があったからわけだから。
「サヨナラだけが人生」かもしれない、
が、現実の世界では、それ相応に別れのための場面もある。
しかしネット上では、ある日忽然としていなくなってしまい、それっきり。
なんか、釈然としない、割り切れない思いや欠落感だけが残ってしまう。

話が飛ぶようだが、私は昔、「葬式」という白々しい「儀式」が嫌いだった。
坊主呼んで、下らない読経やらアホらしく花輪飾って…、
人の死を悼む切実な気持ちに何の関係もないじゃないか、と思っていた。
でもある時から、その意味がわかった。
あれは現実に区切りをつけるために必要な形式なのだ。
その人の「不在」を認識させるためなのだよね。
誰もバカバカしいと思っていても、それが必要なのは、そういう事なのだ。
人は、その「空虚」に耐える事で、現実を受け入れるものなのだ。

でも、ホームページの「死」には、勿論そんな「儀式」はあり得ない。

私は掲示板カキコが苦手で、ROM専が多い。
かしこまったり改まったりしてしまうので、なかなか気軽く書きこめない。
閉鎖になってから「残念です」なんて言っても、何の役にも立たないのはわかっているのだけれど、
その前に何か一言、言ってあげていればよかった、と、
後悔する事がしきりである。

嗚呼、
所詮、「サヨナラだけが人生」、か…。


2002年06月06日(木) ドイツ語習得にはオーストリアが最適!?

ドイツ語できぬ外国人は国外退去 オーストリアが新法案(朝日 6/5)

もう7,8年前になるが、オーストリアに1ヵ月程、行っていた事がある。
と言っても私に海外旅行の趣味はないし、勿論仕事でもない。
実はその頃、会社を辞めてヒマだったのだ。
すぐに仕事が見つかりそうもなかったし、また、探す気にもならなかったので、
その機会に外国に行ってみる気になり、貯金を叩いて一人で出掛けた。
行き先にオーストリア−ドイツ語圏を選んだのは、大学の第二外国語がドイツ語だったからだ。
それまで私には外国旅行経験は一度もないし、英語もロクに喋れない。
でもドイツ語圏なら、英語とドイツ語を両方混ぜれば何とかなるだろうという、
甚だ心もとない目算だった。
また、ドイツではなくてオーストリアに行ったのは、古い映画『第三の男』が印象的だったからで、
あまり深い理由はない。
ちなみにこの『第三の男』、オーストリア国内では評判がよくないそうだ。
終戦直後の四カ国占領当時のウィーンの暗い影の部分を描いているからだろう。
でも『第三の男』の名場面を巡回する観光コースがちゃんとあって、
映画の中でオーソン・ウェルズが逃げまわる、例の地下道の中まで(入り口だけだが)
専門のガイドが案内してくれる。勿論外国人観光客向けである。

そのオーストリアがドイツ語のできぬ外国人を国外退去させる法案を決定した。
低賃金の外国人労働者排斥する政策の一環である。
オーストリアは極右台頭が著しい欧州諸国の中でも、
いち早く極右政党である自由党が連立政権の一翼を担っている国だ。
かのヒトラーもオーストリア出身である。
でも私が行った頃は、そんな気配はまだ微塵も感じなかった。
勿論あったにしても、観光客は大事にするだろうから、気付かなかったかもしれない。
ハンガリー、ポーランド等の、隣接する旧社会主義国にも行ったが、
自由化されてまだ日が浅いせいか、街の印象が暗く市民の愛想も甚だ悪かった。
ブダペストではカフェでボッタクリにもあった。
ウィーンに戻った時には、故郷に帰ったようにほっとしたものだ。
でも今だったら物騒で、臆病者の私はとても行く気にならなかったろう。

それはともかく、
100時間でドイツ語習得というのは経験的に不可能である。
国外でやっているのと、ドイツ語圏内で日常にもドイツ語に接しているのではわけが違うだろうが、
せえぜえ話の要点がつかめ、簡単な意志表示できる程度が精一杯ではないのか。
この「統合法」のいうところ要求されているドイツ語力の程度がわからないが、
ドイツ語を習得して生活可能レベルと言えるまでには、倍以上の200〜300時間は必要だろう。
記事中の言語学者や左派系のシンクタンクの言うように、
明かに「外国人を社会に受け入れたくない」意図が見え見えの法案だ。

もっとも、もし私なら、生活がかかる事になれば、ちんたらやっているより必死にドイツ語習得に励むかもしれない。
ドイツ語を短期間で完全マスターしたい人は、今すぐオーストリアへGO!
…だろうか。
私も、もう1回行こう…かな?!


2002年06月05日(水) 『毎日あきれることばかり』

『毎日あきれることばかり』(三木睦子 アートン 2001年)

今日は軽い政治の本について。

著者は故三木武夫元首相夫人。
かつて三木派の「ゴッドマザー」して84才になる現在も健在、のみならず多方面に活躍中で、
つい先日も社民党の辻元清美・前衆院議員による秘書給与流用問題に関して、
社民党擁護のアピールに顔を連ねていた。
自民党の総裁・総理まで務めた政治家の夫人がなぜ社民?
三木氏は保守傍流、自民党左派と言われ、戦後すぐにはロバート・オーエンの協同主義
を標榜する国民協同党党首だった事もある。
1970年代の政治地図で言えば、社会党右派よりも「左」だったかもしれない
(ちなみに社民党の土井たか子党首は三木氏を尊敬する政治家に挙げている)。
ただ夫人は、夫に輪をかけて更に過激で、「なんでいつまでも自民党なんかにいるの?!」と
いつも夫に離党を炊きつけていたそうだ。
三木元首相には参謀役らしい側近がいなかったが、
もしかしたら夫人が1番の参謀だったのかもしれない。

この本は、そんな三木夫人が今の政治への憤懣を綴った、
いわば「毒吐く記」であるが、読むと、護憲、教科書問題、従軍慰安婦、北朝鮮etc、
本当に社民党と同じような事を言っている。
旧三木派関係の議員も閉口しているだろう。

それはどうでもいいが、面白いのは三木氏に関わる回顧部分で、
夫が政権から引きずり降ろされた「三木おろし」には四半世紀経った今でも恨み骨髄だし、
とくに河野洋平の新自由クラブが大嫌いであるようだ。
ロッキード事件を契機に金権体質を批判して自民党を飛び出した河野一派だが、
実際には三木政権を不利に陥るため、裏で反三木派と繋がっていたというのが、
三木夫人の見方である。
これは四十日抗争の時に、新自由クラブが大平・田中派から買収されていた
とする石原慎太郎の証言(『国家なる幻影』)にも符合する。

しかしこの夫人のややいい加減なところは、「秘蔵っ子」の海部俊樹には甚だ甘い事である。
小沢一郎の操り人形化し、クリーン三木の名を辱めた不肖の弟子だと思うのだが、
三木夫人は海部政権当時から最大の擁護者に終始している。
まあ、「身内」に甘いのは誰しも同じか。
でも海部が竹下派に担がれて総理・総裁になる時、三木家に挨拶に行こうとしたが、
金丸に脅かされて慌てて引き返した、という話もあるのだが…。



2002年06月04日(火) 福田長官の一人ニ役

「『政府首脳』は官房長官」 福田長官が“告白”(ZAKZAK 6/3)

「政府首脳」はやはり福田康夫官房長官だったか。(大ハズレでした(^^;)
しかし読む方も混乱するが、昼は記者会見で官房長官、夜は記者懇談で「政府首脳」と、
一人ニ役を演じる福田長官も内心苦々しかったろう。
朝日の社説は「核容認発言――あまりに軽々しい」というもの。
確かに有事法制反対に格好の口実・材料を与えた福田長官は軽率だった。
今後は若い記者に激励なぞする事なく、懇談の席でも建て前に終始するのが賢明だろう。

石坂浩二、「水戸黄門」降板(ニッカン 6/4)

その昔、福田長官の父・赳夫元首相は「昭和の黄門」を称して「世直し改革」を訴えていた。
黄門様の衣装一式を着用して悦に入っていた写真を見た事がある。
その本家・4代目水戸黄門役の石坂浩二が病気のため僅か2シリーズで降板。
長寿番組「水戸黄門」も黄昏て来た印象である。
かつて助さん役だった里見浩太郎は、将来黄門様役で復帰するのが夢だったらしく、
黄門ファンの期待も高いようだが、果たして今更急な代役を受けるだろうか。
いっその事、福田長官、官房長官を辞めた後は父の意志を継いで(?)
黄門役に名乗りを挙げては…(なんならニセ黄門役でも)


2002年06月03日(月) 検索エンジンからのリンク

先週からアクセス解析をかけているが、
エンピツにも簡易アクセス解析機能(MyReferer)があるので、
これでリンク元だけはわかる。
とくに検索エンジンから何のキーワードで自分の日記にリンクされて来たか
確かめるのはなかなか興味深い。
時事・社会ネタが多い関係で、私のところにもいろいろある。
でも大抵の人は失望したろうから、恥かしいような申し訳ないような気持ちだ。
中には「memorandum」という検索も時々ある。
まさか私の日記を探していたわけではあるまいが。

意味不明だったのは、ここのURLをキーにした検索。
私の日記が検索エンジンに引っかかってくるかどうかを、
わざわざ確かめたのだろうか?
実に不思議である。


2002年06月02日(日) 「政府首脳」って誰?

政府首脳、非核三原則見直しの可能性に言及(朝日新聞 5/31)

政府首脳の「核保有可能」発言が問題化している。
でも、この「政府首脳」とは何者なんだろう?

名前を出さない約束でマスコミの取材に応じる場合、
自民党の三役クラス(連立だから自民党に限らないが)なら「与党首脳」となる。
でもこれは「政府」だから、閣僚だろう(副大臣の可能性もある)。
うち、小泉首相、福田官房長官は除外できる。
また、既に講演で公けに「憲法上は核保有可能」発言している、
安倍官房副長官でもないだろう。
時系列的にはこの「政府首脳」は、安倍副長官、更に福田長官の公式発言を受けて
コメントしているからである。
所管に直接関わりがありそうなのは外相か防衛庁長官あたりだが、
彼らの場合、むしろ不用意な発言をする事は差し控えるだろう。
一見、全く無関係なポストで、しかもタカ派的発言をしそうな閣僚に絞られてくる。
最近は、昔ほどハト・タカの区別がはっきりしなくなったが、
岸−福田派の流れを汲む森派、中曽根派系列の江亀派及び山崎派が
防衛問題でタカ派と見なされている。
この中の誰かだろうか。

しかし誰が言ったのかもわからない(マスコミは知っているが)発言で騒ぐのも、
理不尽な話だ。
そのせいか、件の「政府首脳」発言よりも、それをフォローした福田官房長官の
記者会見での発言(「法理論的には持ってもいい」)の方にマスコミや野党は
噛み付いている。
しかしこの発言は従来の政府答弁と同じ。為にする批判である。
朝日新聞は
「有事法制審議がさらに遅れることになりそうだ」と見通しを述べているが、
「なりそうだ」ではなくて、朝日の願望として「なって欲しい」、
更には朝日自身が「遅れさせてみせる」が本音だろう。
客観的な見通しを述べるような振りをして主観を書いたり、
それによって世論を誘導するのも新聞の常套手段である。



2002年06月01日(土) ギミック投票ボタン使用の日記

エンピツ(に限らず、投票ランキング制度のあるあらゆるWeb日記)の投票ボタンに
ギミックを使用している日記が多い。
今更説明するまでもないが、ギミックとは、





↑エンピツ投票ボタン(※これはサンプル。投票されないので安心して押して下さい)

である。
つまり押すとメッセージが変わるタイプの投票ボタンである。

個人的には、この手のボタンは好きではない。
本文に共感した日記でも、このタイプのボタンだと却って投票したくなくなる。
「投票しなければ続きは読ませないよ」と言われてるような気がして、
甚だ興ざめである。
まして、それによって得票数を稼ごうとする意図が見え見えなので
へそ曲がりの私としてはますます押したくなくなる次第だ。
ギミックの使い手が、必ずしも全て得票稼ぎ目当てではないだろうが、
実際、ギミックボタンを使用するとやはり得票数が違うらしい。
エンピツに人気投票システムがある以上、
票は少ないよりもたくさんあった方が、確かに気分はいい。
得票以前に、そもそもアクセス数自体の少ない私の日記なぞにとっては
どうでもいい事だが、そんな私でも、たまに1票あるとやはり何となく安心する。
まして、ランキングの形で「客観的」な優劣の評価が現れるからには、
そこで他との競争意識が生まれるのは自然の事であり、
その結果、利用できるものは何でも利用して票を得たいと思うのも
ごく普通の成行きであろう。
人間は自己顕示欲の動物である。
したがって、ギミックそのものには私は肯定的である。
ただ私自身はやる気しないし、また押す気もしないだけの話。
これは単に趣味の問題である。

ただ、ギミックを含めた得票稼ぎの過熱によって、
良質の日記が下位に埋もれてしまう事を危惧される方もいるようだ。
何をもって「良質」というのかはわからないが、得票数を稼ぐ事が自己目的化し、
その一翼をギミックが担っていると言う事になれば、
ギミックボタンを使用していない日記は甚だ不利になる。
つまり悪貨が良貨を駆逐する、というわけだ。
しかもこれは単なる書き手側の問題だけではなく、ギミックを使用しないがゆえに
目立ちにくい良質の日記を、なかなか読めない読者の不利益に繋がる、と言うわけである。
確かに、そういう考えにも一理はある。

でもこれは、だからギミックを使う日記に問題がある、と言う話でもないように思う。

例えばの話。
無能な世襲議員が当選するのは、立候補した当人が悪いのではなくて、
所詮、投票した選挙民、国民の責任である。
でも、だから国民はバカだ、衆愚政治だと言ってしまっていては、
民主主義は成り立たない。
同じ様に(?)もしギミック日記が質的な優劣を反映しないにしても、
しかし現にそれに釣られて投票するような類いの読者が多いのだから仕方あるまい。
ただそれだけの話である。
ギミック批判の日記をしばしば見掛けた事があるが、この事は誰も指摘しないように思う。
当たり前だ。
書き手が、読者の質が低いと言うのは、言わば天に向かって自ら唾するようなものだろう。
公開日記は、質が高かろうが低かろうが、総体の読み手がなければ成立しないのである。
「良質の日記が…」云々は、
例えば、教養書が数壱千部しか売れないのにマンガ本が数百万部売れるのを嘆いている、
時代遅れの知識人みたいである。
どうしても教養書が読みたい人は、書店の棚になければ出版社に直接注文してでも読むだろう。
つまりランキングに惑わされずいい日記を読みたい人は、それ相応に心得て自分で探すのではないか。
埋もれてしまう「良質の日記」が読めない事を、お節介に心配する事はあるまい。


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