Memorandum
− メモランダム −
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あと10年もすれば、テレビのプロ野球中継はなくなっているかもしれません。
今年、低迷を続けている巨人戦中継は、 先日には遂にヒトケタにまで落ちこみました。 各局、ことに巨人の系列である日テレあたりは視聴率アップに躍起の模様ですが、 でも、まあ、無駄でしょう。 プロ野球そのものに関心や魅力が薄れているときに、 野球以外の要素を導入する事がどれだけ効果があるのか疑問です。 かつてゴールデンタイムで高視聴率を誇ったプロレス中継が 現在の深夜時間帯へと追いやられたのと同じ道を 遂にプロ野球中継も辿り始めたように思えます。
今までプロ野球人気、特に巨人人気を支えてきたのは 所謂ON全盛時代からの中高年ファン層だと思います。 逆に言うと、今日に至るもプロ野球の中心は常にON、 とりわけ長嶋茂雄だと言う事です。 確かに長嶋は稀代のカリスマです。 しかし当然のことながら長嶋も年をとるし、 そして長嶋世代のファンも年々高齢化して行きます。 こうしたプロ野球の旧態依然としたあり方に 若い世代が興味を持てなくなっている状況があると思います。 加えて、プロ野球が娯楽の王座だった時代と異なり、 現在では多様な愉しみが存在しています。 読売主導のプロ野球、そして巨人中心主義、 更にはいつまでも長嶋の過去の栄光と名声にすがっているやり方が 愛想を尽かされるのも理の当然と言うべきでしょう。
また、そもそも野球というもの自体、 観るスポーツとしては極めて退屈なものでしょう。 試合時間の殆どはダラダラと動きもなく費やされ、 プレー時間は実際にはほんの瞬間的です。 特にやたらと投球の間合いやら何やらの多い日本の野球は スローモーなこと甚だしいものです。 これが歌舞伎や能に繋がる様式美の日本文化の伝統と 関係があるのかないのかわかりませんが、 少なくとも眠気を催しかねない緊張感のなさです。 こうした事も時代に合わなくなっている要因か?とも思える次第です。
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久し振りに書いたけど、なんか、滅茶苦茶できが悪い文章ですね。 まあ、どうせ誰も読んでないからいいか(笑)
ではでは。
村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」は、 「1970年11月25日」という具体的な日付から始まっています。 「1973年のピンボール」をはじめとして、 彼の作品には具体的な年号や日付がしばしば登場します。 でもそれは逆に、そのような時代背景を無意味化するために あえて使われているようです。 例えば件の「1970年11月25日」とは、 言うまでもなく作家の三島由紀夫が自衛隊に乱入して 割腹自決した日です。 その事は作品の中にも当然触れられています。 でもそれはこう書かれています。 「どちらにしてもそれは我々にとってどうでもいいことだった」。
或いは「1973年のピンボール」の一節にはこうあります。
「あなたは二十歳のころ何をしてたの?」 「女の子に夢中だったよ。」1969年、我らが年。 「その子とはどうなったの?」 「別れたね。」
実際には1969年が「我ら年」であるのは、 それが大学闘争の最も(そして最後に)高揚した年だったからです。 でもそのような世代が共有するであろう経験や感性を、 殊更に無視するためにこの年号は持ち出されています。 つまり大事なのは自分自身、全く個人的な事なのです。
村上春樹がデビューし、そして受け入れられたのは1980年半ばでした。 この当時、村上春樹とほぼ同世代、 俗に「ニューファミリー」などと呼ばれた世代がだいたい30歳代前半の年齢を迎えています。 一概には勿論言えませんが、凡そのところ彼らは、若い頃には学生運動も幾多は経験したけど でも結局は「良い会社」に入って、そろそろ金銭的には幾分かの余裕ができ、 結婚もして子供でき、車も持ちました。 そして都心の郊外に一戸建て住宅を持つ事も、まだまだそれほど夢ではなかった時代です。 言いかえれば、「新保守層」などとも呼ばれたのもこの世代です。 つまり、実際には「いい生活」がしたくて、現実的で自分が大事で、 利己的で自己中心的であるにもかかわらず、 その反面、観念的には理想主義な尻尾をまだ切れずにいたりして、 口を開けば「愛」とか「真実」とか、美しい言葉が妙に好きな人たちだと思います。 実は彼らよりほぼ一回り以上は下の世代の私あたりからすると、 例えば会社などではこの手の連中が直接の上司だったりしますので、 一番鬱陶しい、そして胡散臭い、信用のおけない、だから大嫌いな世代です。 モロに被害を受けますからね。
それはともかく、村上春樹が描いたのは、 「1969年」や「1970年11月25日」が意味を持ってしまう事を、 あえてわざわざ否定して見せる事に対して、まだ「意味がある」時代でした。 私自身が彼の作品を主に読んだのは80年代も末の頃、 ちょうど「ノルウェイの森」が大ベストセラーとなり、 春樹ブームが頂点を迎えている時でしたが、 私などからすると春樹の日付へのこだわりには違和感があり、不可解でした。 と言うのは、私にはそういう特別の意味を持った「我らが年」もなければ、そして、 その日に自分が何をしていたのかを思い出せる、 時代の象徴的な具体的な日付はないからです。 つまり私には何も同世代と共通する体験はないし、 言いかえれば共感しない事自体がむしろ唯一の共通体験なのでしょう。 だから私には村上春樹が、一生懸命に世代的な共感を否定しているのが、 却って滑稽にも思えたものでした。
1970年代前半の井上陽水の曲に「傘がない」というのがあって、 これは多分、社会的な問題よりも個人的な事柄、 つまり「今の自分自身」の方が一番大事である、と歌った曲です。 でも、殊更にそのように言わなければならないところに、 やはり理想主義的な尻尾のまだまだ切れない、 村上春樹と共通する感覚を私は感じたりもするのです。。
都会では、自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は今日の雨 傘がない 行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ 君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ
つめたい雨が 今日は心に浸みる 君の事以外は何も見えなくなる それはいい事だろう? 傘がない…
愛のないセックスはしたくない セックスには恋愛が不可分という人が少なからずいます。 実は私もそうだったりするのですが、 尤も、では今までに、そんなに「愛」のあるセックスをしたのか と言われると、甚だ怪しい気もして来ます。 そもそも愛のあるセックス云々という以前に、 何が本当に愛でどれなら愛じゃないんだ、と既定しなくちゃならなくなります。 にもかかわらず直観的に、愛がなければ、と何となく信じ込まされて いるのは、やはりそういう「恋愛イデオロギー」に支配されているから なのでしょうか。
恋愛という感情は普遍的に存在するわけではなく、また、 恋愛が結婚やセックスに必要条件だとする仕組みは たかだかここ1世紀あまりの西欧近代に産み出されたに過ぎない、 という考え方があって、これを「ロマンチックラブ・イデオロギー」 と言うそうです。 イデオロギーだから、 それは単に特定の時代や社会の特殊な価値観に過ぎません。 つまり、近代の人間は、セックスには恋愛が不可欠なのが当然と 思いこまされているということです。 でも、それがイデオロギーに「過ぎない」と言われたからと言って、 急にそのイデオロギーから自由にもなれません。 逆に言うと、それが内面化されもう自由になれないほど 植え付けれている事がイデオロギーの本質だとも言えます。 結婚は、結婚後の生活にまで何も必ず愛が持続するわけでもないけど、 でも結婚自体には何らかの恋愛が必要と考えられているし、 それはたとえ見合いであっても、少なくとも何も感情がなくては 結婚にまでは至らないでしょう。 (独身なんでこの辺は想像的にしかよくわからない (泣) それが必要なのは、まさにこの「近代」というシステムを維持するために 必要だからでしょう。 つまり、近代が結婚によって生まれた一組の「男女のカップル」を 単位とする社会であり、そうした家族単位を中心として 全ての社会制度が編成された社会である事に 恋愛イデオロギーが必要だと言う事です。
さて、こうした事、 つまり恋愛や結婚のコインの裏側にあって必要とされているのが所謂売春です。 売春ではなくセックスワークだと言う人もいて、 実は私も迷うのですが、でもここでは単なる労働としてのセックスワークより 現象としての売春の方が問題に相応しいので、あえてそちらを使います。 売春は勿論古代から人間社会に存在しますが、 でも近代のシステムのひとつに組みこまれた売春は、 まさしくこの近代の恋愛イデオロギーと密接に関係しているでしょう。 例えば、売春婦蔑視は何故存在するのでしょうか? これは女性蔑視だから、或いは「性」は商品化してはいけないのが 人間的本質だからとか、いろいろ言えますが、 個別に恋愛イデオロギーにおいては、 「愛のないセックスをしてはいけない」とされるからです。 逆に言うと、そう言うものとしての売春の存在が、 「愛のあるセックス」やらそれに基いた結婚やら何やらの幻想を保証するのであり、 更にはそうした事々を中心に成り立っている 社会制度を裏支えしているとも言えます。 従って恋愛が至上のものとされる価値観に支配されている限り、、、 おそらく売春はセックスワークにはならないんでしょう。
近代は、人間を伝統的な共同社会のくびきから「個人」として解放しました。 それは人間を市民社会の中で欲望的存在として解放したと言う事でもあります。 しかし、その欲望、特に「性的欲望」に「愛情」という「護符」を貼る事によって、 同時に解放された性的欲望をコントロールする規範が設けられました。 それが多分恋愛イデオロギーでしょう。 つまり恋愛と結びついていないセックスや性的欲望を異端ものとして 忌避する考え方ですね。 さすれば、セックスと恋愛を切り離す発想もあり得るだろうし、 そして現にその方向に向かいつつあるのかもしれません。 しかし、セックスを必要以上に重要視したり過剰な快楽と見なしたりする考え方、 これもまた近代の欲望イデオロギーの副産物であるかもしれません。
2001年08月05日(日) |
親があっても子は育つ? |
誰だったか昔の小説家で「親があっても子は育つ」と言った人がいます。 勿論これは、「親がなくても子は育つ」のもじりです。 「親がなくても…」の方が、 「親はあるべきだが、でも…」という反語を暗喩しているならば、 この「親があっても」は、要するに 「親なんかはない方がよい」と言う意味でしょう。 これは、本当に親がいなくていろいろ苦労した人からすれば とんでもない言い草です。 でもおそらくこれを言った件の小説家は、 よほど親の被害に悩まされた人だったのでしょう。
動物の中で、人間ほど長い子供時代をもつ者、 つまり親の庇護下に置かれる期間の長い生き物はいません。 だから親は有形無形に子供に影響します。 特に現代の少子化と都市化した社会にあっては、 相対的に一人の子供に対する親の過剰な関心が必然的に強制される仕儀となります。 子供にとってこれは非常に窮屈な事です。 何故ならば、共同体の中に共有物として子供が存在しているのではなく、 全く親の占有物として子供は存在せざるを得ないからです。 こんな中で人が人として育つのは、まさに親の意向次第という度合いが強化されます。 だからこそ「親があっても…」です。 こんな時代では、親の弊害の方がむしろ大きくなるでしょう。 何となれば、子供は親によってもたらされる悪影響と闘いながら 自ら育たねばならないととうリスクとハンディを負わされるからです。 そうなればむしろ、親なんかいない方が、より自由に、奔放に、 あらゆる可能性を秘めて子供はすくすくと育つかもしれない ということになります。
でも、それでも子供はそれなりに育つでしょう。 だから親の方でも、「親があっても子は育つ」ぐらいの気持ちでいたほうが それはそれでよいと言う事かもしれません。
毎年8月15日が近づくと戦争責任の問題が云々されます。 特に今年は小泉首相が靖国神社参拝を明言しているので なおさらです。 靖国が戦前国家神道や軍国主義の象徴だったとか、 或いはA級戦犯が合祀されているからとか 問題は紛糾します。 でもそれはし枝葉末節的な事で、 私の見るところ元凶は戦争責任が結局はっきりされなかったことに 全ての根源があるように思えます。 はっきり言うと、天皇が何の責任も問われなかった事が いまだに尾を引いているのです。 このことは、天皇嫌いの左翼朝日新聞すら曖昧にしてはっきり指摘しません。 でも昭和天皇には個人的にも形式的にも責任があります。 昭和天皇は平和主義者だったとか人柄を立てにとったり、 或いは天皇には実権は何もなかったみたいな事を言って 責任を回避する事を言う人がいますが、 でも天皇が戦時中、かなり戦争指導に関わっていた事は いろいろな資料で明かですし、 また、形式的にも全ては「天皇の名において」行われています。 これで責任は全くないなどといえるのでしょうか?
戦時中、イタリアには実は国王がいて、 ムッソリーニは政権を委任されていただけでした。 だから戦後王制は廃止されています。 日本でも当時、天皇が何の責任も問われないなとど 誰が考えたでしょう。 むしろ近衛とか木戸、或いは東條たちは 天皇の責任を問われる事を怖れていたのであり、 逆に言えば彼らは天皇に責任がある事を熟知していたのです。
私は天皇制廃止、少なくとも昭和天皇は退位してしかるべきだったと思います。 それが政治的意図により全く不問に付されてしまった。 これが戦争責任がいまだに曖昧であること、 そして引いては戦後の政治的思想的・・・ 全ての総無責任体制の元凶だと思えるのです。
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