坐骨神経痛&腰痛(BeBe)
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2002年07月29日(月) 期待外れ

検査結果を持って紹介された病院へ行く事にした。バスが苦手なので出来れば、別の交通機関にしたかったけれどバスしかなかった。片道小一時間かかった。
病院の受付で来院の目的を伝えると、病院長が出てきて「自分は専門が内科なので整形の先生に呼ぶから」と言って待合室で待つ事となった。暫くして、診察室から医師の呼ぶ声がして中に入り、検査結果を渡して今までの経緯を概略話をした。
違和感はその時点からあった。それは、検査結果を見ようとしないのです。やはり、医師のプライドとして自身の検査内容で無ければ診断を下す事に抵抗があるのかなと思った。多少の身体上の検査をした上で、CTをとる事となった。
今回はなぜか胸の検査だった。





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検査が終わり、現像が終わるまで待合室で待機していた。待っている間、診察室から医師の声が聞こえて来て「僕も忙しいんだから、院長の依頼だから仕方がないけれど・・・・」と言っていた。それで相当ショックを受けた。
検査結果が出て診察室での会話は、何れも異常なしとの事。これでは、何のためにイヤなおもいまでして、検査結果を借り出してここまでやってきたのか分からない気持ちだった。その後、その病院の院長とも会話をしたけれど何かを期待する気持ちは薄れていた。検査結果の一部を焼き増しをして、腰の治療に詳しい医師が知り合いにいるので診て貰うように頼んでみるとの事だった。
特別に扱って貰った事は事実なので、お礼を言ってその病院を出た。


2002年07月26日(金) 入院と今後の治療について

病院が発行した入院案内書には、受付への来院時刻が13:30となっていた。幾度となく入院を繰り返しているので、これが間違いだと分かっていた。無視してそのままでも良かったのだけれど、ほっておく事も出来ず電話をして10時半に病院へ着いた。この日は、病棟からの迎えもなく一人で病棟のナースセンターへ向かう。そばでは、初めてのような入院患者がいて看護婦さんが迎えに来ていて、荷物を持ったり車椅子で迎えに来ている人もいた。思わず初めての頃を思い出していた。病室にはいると、便秘の処置も頼んでいないのに始まり、オペの時間までにするべき事がドンドンと進んでいる。私の方も、ブロックの後の安静時間の間にありそうな出来事に備えて準備を進めていた。
ブロックのためにオペ室へ行くのは14:00の予定だった。昼食抜きも指示内容なのに、配膳されるのでこちらから『絶食の筈です』と言う始末だった。
オペ室での出来事はいくら同じ事の繰り返しでも、これだけはなれる事はなかった。やはり治療場所が背後で行われる事と、動かないように抱え込まれるようにされる事、手術着に着替える事などが雰囲気を変えているのだと思った。
少しでも気持ちを和らげるためなのか、ラジカセがおいてあり音楽が流れているには驚いた。





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注射の痛みは今までよりも痛いように感じた。最初にする局部麻酔すら痛い。薬剤の注入後の効果は、その場でいくら聞かれても違いは分からない。
この日は決心を決めていたので、事前に看護婦さんに検査結果の写真を借りるための依頼をしていた。「会社の指定病院へ行く必要がある」という名目にしていた。

夕食時間の少し前に、看護婦さんが検査結果の写真を病室に届けてくれた。レントゲンや、ミエロ、MRIなど膨大な量だった。受け取った時は、まるで病院から見放されたような惨めな気持ちになった。

さて、これからの事はどうするのか?
悩みながらベットに横になり、幾度となくウトウトとしていた。時計を見ると、既に消灯時間は過ぎていて21時半くらいになっていた。それから、眠剤を飲んで次に目が覚めたのは深夜の3時頃だった。何となく、寝付けなくなりロビーのソファへ行ってボンヤリとしていた。考える事と言えば、「帰りたい」「もう来たくない」こんな事ばかりだった。暫くして、病室に戻って横になっていたがウトウトしているばかりで6時には、もう寝るのは諦めた。退院時の薬も早く届いたので、11時頃には病院を出た。家に帰る途中に考えていたのは、紹介して貰った病院で果たして何が出来るのか、今よりも遠い所などで通院が出来るだろうかなどと考えていた。


2002年07月23日(火) 治療方法の転換兆候

医療窓口経由で予約をした事が心の中で後ろめたい気がしていた。でも、そんな事も言ってられない程だった。診察(と言っても僅かな時間会話をするだけ)で主治医から出てきた言葉は、「ブロックはいつが良いの?」だった。外来で出来る神経根ブロックもあるけれどという事も出てきた。
昨日の事が気になっていて、もう一度『硬膜外ブロック』を受ける事にして入院日を決めた。入院治療を受ける事にしたので、検査結果を借りる事は言い出す事が出来なかった。
今の治療も限界を感じていたし、鍼も試してみたけれどダメのようだった。
TMSだとすると(この頃は、こんな風に考えていた)8/1の機器入替がうまく行けば、仕事のストレスから解放されて疼痛も緩和されるかも・・・・、などとも考えていた。既設設備の撤去日程も工事指示も契約終了の手配も全て済んでいる。もう、引くに引けない所まで来ている。万が一の時は処分勧告も受けていた。
痛みの場所を鰹節のように削り取って欲しいくらいに、痛みに対して苛立ちを感じていた。





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翌日は、紹介して貰った人とその病院長と会う約束をしていた。片方で、入院して治療を依頼しておき、別に違う病院の人と会う事に対して、罪人のような意識を持っていた。


2002年07月22日(月) 医療相談の窓口

20日(海の日)朝から疼痛もひどく、情緒不安定になっている事も自覚出来ていた。少し前、知人から別の病院を紹介すると言う話も出ていた。
但し、検査結果を借りて持ってゆく必要があるので抵抗感があった。いくら、今の治療に効果がないとは言え、まだ、この病院に対する期待がゼロになったわけでもないので掛け持ちにする事も気持ちの整理がつかない。

仕事の迷いは、”あいつ”を含む一連の人間関係に疲れ切っていた。それでも、残件としてある以上は逃げ出せず、この日も朝から話し合いが行われた。積極的な行動は何一つ無い、相手の話す言葉を耳にするだけでも嫌悪感がわいてくる。





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午後から、どうしても辛くて前回と同じ結果でも良いからと言う気持ちで、病院へ電話をした。電話口での会話は「予約がないからダメ」とか「外来の担当日ではないから医師と連絡が取れない」などなど出来ない事を、いろいろと言うばかりで話が進まない。怒りを出すだけの元気は残っているのが不思議だった。
電話を切って、その足で病院内にある「医療相談の窓口」へ駆け込んだ。
この日の事や治療の事、検査結果のかり出しの事なども全て話をした。受け付けて話を聞いてくれた人は親切に話を聞いてくれたので、言いづらい事も含めて話をする事が出来た。
勤務に戻り何とか仕事をしていた。夕刻に病院から電話が入り、外来の診療時間が済んでから主治医と話をするための予約を取った。その結果で入院するか、紹介をしてくれた病院へ出かけるのか決める事とした。


2002年07月19日(金) 交渉不成立

設備の入替に対する準備として社内役職者に対して、社長からの訓示を今週2回に分けて実施をした。この手筈をして最終日を待つのみの状態までなっていた。
しかし、最後の最後として2週間足らずではあるけれどすることは残っていたし、積み残しとなってしまった”あいつの管轄分”などを交渉材料として社長と面談をした。最終日の体制や準備作業などを必死の思いで作り上げ、告知をする段階までやってきたが(交渉)、最後は部長名で通達をするとの事。
あいつのことも(遠回しで)、申し入れをしたが却下された。この交渉が不成立になった事で正直なところ、精魂尽き果てたという気持ちになった。これ以上は言っても仕方がないと諦めて社長室をでた。





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体力だけではなく、脚の調子も良くなくて頑張りがいがないと感じ始めると精神的にダウンしてしまう。心の支えをなくしたようで「再入院」の事を考え始めていた。この時期に現場からの逃避は、ある意味では非常識と自分では思っていた。長い間、何とか自分が出来る力を尽くして望んで来たつもりだった。けれど、誰もがそのように見ているとは限らないと強く感じた。


2002年07月12日(金) 7度目の入院

10時頃に病院へ着いて入院受付へ足を運ぶ。何度も同じ事の繰り返しで、これで7度目になる。受付の事務が終わり、病棟へ連絡が行き待つようにとの事。
なぜか、随分と待たされた。座っているのが辛くなり椅子の上で横になる。
入院の記録が残っていて事情を分かっているのか、大した問診もなく病室でオペの時間がくるのを待つだけだった。心配していていた同室患者もいなくて、一人だったので少し安心をした。病棟内の雰囲気は何となく違っていて、お役所の中みたいな雰囲気を感じて冷たく思った。
オペ室への移動、ブロックの手順、終わってから病室に戻るまでの事など何も変化はなく、これまでと同じだった。ブロックの終わった後の麻痺感覚も一緒。





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消灯時間に眠剤を飲んだけれどなかなか眠れず、痛みも出てきた。今回も、ブロックの効果は無いように思い始める。何度もTMSの本を読んでいたので、原因はこちらの方が正しいように思い始めていた。
眠る事も出来ず、廊下をふらついていると看護婦さんに病室へ連行される。何時頃に寝たのか分からないけれど、深夜に目が覚めて時刻を見ると4時だった。その後も、寝たのか起きていたのか分からないような状態が続いた。
検温のために起こされたのは、6時半頃。脚はやはり痺れたままだったので、がっかりした。朝から土砂降りで帰りが憂鬱になっていた。ここにいても、仕方がないので退院の意志を伝えて午前中に病院を出た。13日は鍼治療を予約していたが、入院の電話をしたときにキャンセルをしていた。


2002年07月11日(木) 入院することの悔しさ

○仕事の事
5日に出来るだけの手段は講じた。
○治療の事
翌6日に、再度、鍼治療へ行く。治療後はやはり体が異様にだるく、眠気も強い。
しかし、脚の疼痛に対しては効果が出てこないだけでなく、10日にはついにダウンした。朝からふらつきがひどく勤務中も座っている事すら出来ない。
午前中一杯は医務室で寝ていた、何も考える事は出来なかった。午後から電話でブロックのための入院依頼をした。運良く整形外来の中でもいろいろとよくしてくれている看護婦さんが電話に出てきてくれたので、病院へも行かずに手続きをして貰えた。
仕事の事を考えると、間際になっても回復せずについに再度の入院となった事がひどくショックで悔しかった。硬膜外ブロックに対して効果が期待出来ない気持ちを持ちつつ、鍼治療も効果なしで頼るところが病院だった。





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入院の手続きは当日でよいと行ってくれていたけれど、書類を受け取り受付を済ませてから出社した。ふらつきなどの身体の異常は昨日より少しは、楽になっていたけれど脚だけはどうにもならない。この日は終日、導入準備の会議が続いて座っているのが苦痛だった。


2002年07月05日(金) 何かに頼ろうとしている?

ブロックから離れて約一月が過ぎようとしている。あまり効果が感じられない事も離れている理由の一つ、多少楽な日もあったし、治療費が辛くなってきている事もあった。当然、仕事で休む事が辛い状態になっている事、いろんな事が重なって半ばやけくそ気味にもなっていた。
せめて何か一つでも、楽しい事があれば気も晴れるのにと考えるときがあった。
8/1の設備入替までするべき事を確実にこなす事が出来るか否かが勝負だったので、そのための手段を交渉すべく小一時間、社長へ依頼事をした。社内外へも、残された作業の事を最終通告の形で申し入れをした。
我が身の体調は正直なところ訳が分からなくなっていた。激痛が伴うわけではない。楽な日もあれば、奇妙な変調を訴える日もあった。
明日も鍼治療の予約をしていた。『腰痛の広場』での治療に関する知識も増えていたし、TMSの本での痛みの原因なども知識として、知っていた事が関係している様に思う。





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社内での人間関係に対してストレスを感じている。この事以上に、今回の仕事を決めるに当たり発注先を信じてやってきたが、いくつか『裏切られた気持ち』が出ていた。そのことは、何度も話をしていたが受け入れられることなく最終日を迎える以外に道は無い状態だった。対外的には責任はとれないものの、実務上責任はとる必要がある。これも辛い事だった。


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