坐骨神経痛&腰痛(BeBe)
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2002年03月29日(金) 激痛の再発

退院後、何とかなると言う気持ちになっていた。3月21日頃から、脚に違和感を
感じ始めていた。それが何なのか正確には分からない。
退院を決めた時の感覚、、、、痛みが無くなった感じ、それが時折突っ張り感が
時々、顔を出すようになっていた。
ところが、29日の夜の事。送別会があり、義理出席で立席のパーティーで2時間の予定で始まった。30分が過ぎても終わる様子が無く、途中退席も出来ずにガマンしていた。そんなとき、ただ立っているだけなのに突然、左脚のいつもの部分に激痛が走り、治まるまでの数分間がとてつもなく長い時間に感じた。

痛みが治まったものの入院前の突っ張り感と痺れが始まった。

ショックなどと簡単な言葉では言い表す事が出来ない。相当な思い切りをして、
ようやく2週間の病欠の届けを出して完治はしていないものの何とかなると思って退院したのに、また、振り出しに戻ったのかと愕然とした。


2002年03月12日(火) 悪夢

深夜、気がつくと意識があるのに身体が動かない。手も足も動かない、ナースコールも押せない。そして、今自分がどこにいるのかさえも分からない。
決して夢ではない、とにかくこわかった、それからどのくらいの時間が過ぎたのか
よく分からない。
どうにかこうにか、ナースコールを押す事が出来てその事を話をした。
返事はしてくれているけれど、多分信じてはいないと思う。トイレに行きたくなり、付き添いをして貰い身体を支えられて病室まで戻った。

それから暫く、寝ていたが、再び同じ事が起こった。時計を見ると、1時間半程度
しか時間は過ぎていなかった。

朝起きた時は、退院を決意していた。午前中に看護婦さんに退院の意志を伝えた。
すると、昨日に言っていた神経内科の診察を受けるように、診察室まで連れて行ってくれた。予想通り、検査結果の写真を見て異常がないから退院はしても良いというのが返事だった。ここでは、何も得るものはなかった。
診察が終わってから、退院のための事務手続きと退院のための薬を手配してくれた。いろいろとあって、退院が出来る状態になったのは、14時くらいだった。

最終日になって、病室の片付けをして薬を待つ間ロビーで待っていた。
婦長さんが薬を持ってきてくれて、「みんなが夜の事を心配していたよ」と言ってくれた事がうれしくて身にしみた。この日の痛みくらいなら、何とかガマンが出来る様な気もしていた。

2週間ともなると、着替えやなんやと結構な荷物になったので、駅までの徒歩の距離も電車の中も結構な重労働だった。一人でするのも結構大変な事だと思った。
この日は何とか家にたどり着いた時は、ぐったりとしていて何もする気にはなれなかった。


2002年03月11日(月) 退院の決意

午前中は入院中の2度目の部長回診があった。その時に神経内科の診察の事が出てきたが「まだ診察はありません」と言った。直ぐにでも診察の手配をするという。
ホンネとしては、なんどか診察を受けたけれど「何もして貰えず」単に異常なしと
言うだけなので意味が無いように感じている。

病棟の担当医の意見は、神経系の痛みなので完治する事は無いという。退院をしても、外来の予約をしておけば、診察も受けられるのだから安心でしょうと言う。
そして、痛くなったらまたブロックをすれば良いという。

金曜にした硬膜外ブロックは、当日は効き目を感じる事が出来なかったけれど、
土日と2日間随分と楽だったので、そろそろ2週間が過ぎているし治療もする事がないので退院をしようという気持ちが強くなった。


2002年03月10日(日) 2日連続

今朝も早朝に目が覚める事がなく、10時頃まで熟睡していた。
遅い朝食を済ませ(と言っても、食パン1枚)、外出許可を取って病院から散歩に
出かける事にした。
姉(姉弟二人)と叔母が見まいとしてくれたもので、本でも買って読もうと思い
本屋さんへ出かける事にした。多少の痛みはあったけれど、楽な状態だったので、
天気も良かったので歩く事にした。
今日で2日目のことだから、この程度で諦めるしかないのかという気持ちもあった。何度か考えたけれど、症状に関しては病棟の医師も言っていたが完治を望む
のではなくてある程度のところで妥協して、痛みと上手につき合う事を考えるしか
無いのかと言う気になってきた。
これも、ある程度の状態だから思える事なのかも知れない。

夜になると多少辛いのが、これをガマンする事が出来ればだけれど。
こう考えられるのは、入院を決めた頃に比べると楽になっているからかもしれない。


2002年03月09日(土) 初めての感覚

眠剤は毎日飲んでいる。入院中にそれまで飲んでいた薬(マイスリー)をロヒブノール2に変えて貰っていた。これは、短時間型から長時間型の薬に変えて貰った。
それなのに、朝まで熟睡はなかなかできずにいた。

今朝は、朝食を運んで貰った事も気づかず目が覚めたのは、既に10時頃になっていた。入院前でも、こんな事は初めての事だった。
それだけではなく、左脚の脛の突っ張り感が全くなく痛みを感じ無くなっている。
まるで、完治したような気分だった。

外出許可もでたので、病院の近辺を散歩する事にした。片道20分くらいの散歩だったけれど、歩いていても痛みはなかったし、座っていても大丈夫だった。
この調子なら明日にでも退院出来そうにすら感じていた。

ところが、夜の7時頃、突然痛みが出てきた。昼間の調子が良かっただけにショックがおおきかった。薬や治療など手放す事ができない状態になってしまった気が強くなった。


2002年03月08日(金) 2度目の硬膜外ブロック

入院が少し長くなってくると、病院内での出来事が生活の全てになっている。看護婦さんとの事や、別の患者さんとの事が考える事の多くになってくる。
睡眠が満足にとれない事も辛い。毎日の事で、今朝も5時くらいだった。

今日は2度目の硬膜外ブロックを受ける日になった。
詳しい薬剤は聞いていない。しかし、前回とは違い別の薬を使うと言っていた。
ブロックの後の自覚症状に違いを感じた事がある。それは、麻酔の効き方です。
臀部から股間部分にかけて、麻痺する感じが強い。手で触っても麻痺している事が明らかに分かるのです。糖尿があるので、前回は使用しなかったという。
病棟の担当医は、糖尿の程度もこれくらいなら使用しても大丈夫とのことで試してくれる事になった。

病棟の担当医は、少しくらい危険でもやってみて効果が出ればその方が良いという考えのようだ。しかし、整形外科の部長の了解がいるように感じた。
こちらは、少し考えが違っていて脚が痛くても命まではなくさないのだから、副作用や危険な事はしない方が良い。私には、治療に望む違いがそのように感じられた。痛みの原因が特定出来ないから、出来る治療はどうしても対処療法になってしまうと説明を受けた。


2002年03月07日(木) 2回目の来客

昨夜は痛みが強くて座薬を使う事になった。初めての硬膜外ブロックを経験したが何も変化が無く、もう一度やってみようと言う事になっている。
医師は来週と言ったけれど、一日も早く帰りたいし痛みから解放されたいから、もう一度してみる価値があるのなら一日も早くして欲しいと頼んでいた。

あのときの痛みを思うと少し躊躇する気持ちもあった。けれども、それ以上に痛みからの解放を望む気持ちが強かった。

同室の人は内科病棟の部屋が空いたらしくて、移っていった。

午後に2回目の見舞客が来た。社内の人ではない。今のところ、症状に変化が出ていないので、人が来ても作り笑いで「ダメなんです」とか「検査結果に異常なし」とかの話をしていた。
全く歩けないとか、痛みで動けないとかの激痛ではない。どちらかと言えば、緩やかな疼痛が終日続いている症状、なので病室ではなく、病棟内のロビーで話しをしていた。仕事上のつきあいの人だったので、久しぶりに仕事の事を思い出した気がした。この頃は、仕事の事を忘れてしまって入院患者になってしまっていた事を感じた。


2002年03月06日(水) すっかり入院生活風

一週間以上も入院を続けていると、時々仕事の事を忘れる時間もでて、すっかり入院生活が身に付いてきたような気がする。

朝方、内科の患者さんが入院してきた。
その人に対する説明を看護婦さんがしていて、引き上げる前に『すごくこの部屋あついね』そう言って、部屋の暖房を切っていった。同じ部屋に私もいるのに、何も声をかけずにした事が、とても腹が立った。ちょっと、一方的だったから廊下に出て看護婦さんを呼び止めた。そして、私は寒いと感じているのにどうして何も聞かずに暖房を止めるのですか?
そう言うと、病室に戻ってきて『この人が寒いと言っているから入れるわね』といって、スイッチをオンにした。そして、私に向かって「これでいいの」という。
私は、私にも聞くのが普通じゃないのですか?そう言いたいだけなのに、このような事ですっかりイライラしてしまった。

すると、急に腰や脚が痛くなってきた。このままずっと、この痛みを抱えて生きてゆかないとダメなのかと憂鬱な気分になる。


2002年03月05日(火) 初めての硬膜外ブロック

処置の予定は、13時だったけれど救急患者が来たという事で開始がずれた。
始まったのは、15:40位だった。病棟内の処置室で幅の狭い処置台の上で、身体を曲げて横になる。背骨の隙間を広げるようにして、その隙間にブロック針を入れて薬剤を入れると言う内容だった。

最初に局部麻酔をしたけれど、あまりに痛いので途中で麻酔を追加した。
注射の針が刺さる痛みも痛かったけれど、それ以上に身体の中で風船でも膨らましているのかと思うような感じて、身体のなかがとても痛かった。
終わって直ぐに「どうですか?」と尋ねられたけれど、注射そのものが痛かった事、不安な気持ちが強くて良く分からなかった。
しかし、脚の痛みが消えた感じは無かった。

午後9時頃、痛みが強くなり座薬を使う事にした。今日の治療は効果が無かった様である。


2002年03月04日(月) 苛立ち

何度も深夜に目が覚めて、熟睡が出来ない日が続く。
6時くらいからおきてくる人が出てくるので、病棟内も何となくざわつきはじめる。今日もこの時間になると、寝る事も諦めて起きる事にする。
既に1週間が過ぎているけれど、この間にあった事は検査を1度して異常なしの診断があっただけ。日が過ぎてゆく事に苛立ちを覚えはじめる。
当然の事ながら、左脚の痛みに変化はない。

午後から「部長の回診」と言って、病棟内の患者の状況を担当医と看護婦さんを連れて、整形外科の部長(私の外来の担当医師)がきた。この時は、自分の担当医として接しているのではなくて、多くの患者の一人でしかない。
検査結果に異常が無かった事と硬膜外ブロックをすることを言われただけで、多分、数分間病室にいただけだと思う。

この日もそれだけで、痛みは座薬で調整して消灯時間が来れば、看護婦さんが病室の電灯を消しに来る。直ぐには眠る事が出来ないので、少しTVを付けていたりして横になっているだけの生活。殆ど身体を動かしていないので、対しておなかがすく事もないので、はじめの頃に感じた食事の量にもなじんできた。

今日は初めて見舞いの人が来た。社内の人ではない。


2002年03月03日(日) あっという間

入院して瞬く間に5日目となる。何もない日が2日もあった。昨日くらいからおなかが痛いので、ナースコールをした。原因は便秘、「毎日出ていますか?」と聞かれて初めて出ていない事に気がついた。
次に、左腕の肘の内側あたりが赤く腫れている。今日は日曜で皮膚科の先生がいないので明日、診察が出来るようにしておくとの事。
入院すると、何もなくてもいろいろと出てくるものだとおもった。

看護婦さんとの会話はナースコールをするとあるだけ、他には何もない。
治療でも検査でも良いから、何かあれば入院していても諦めがつくけれど、こうも
何もないと「何のための入院なんだろう?」と考えてしまう。
自分では、貴重な日を削って休暇届を出しているというおもいで焦る気持ちがあった。


2002年03月02日(土) 治療の方法

今朝は同室の高校生の子が退院していった。詳しい事は会話をしていないので、何も知らない。様子は右足を何かで骨折をしたらしく、ギブスをしていて移動は車椅子だった。退院後は、松葉杖での通院になるらしい。
これで、一人になるので看護婦さんに頼んでベッドの位置を交代して貰う事にした。二人部屋で窓側と廊下側なので、しきりのカーテンをするととても暗いので、窓側の方がベットから景色も見れるし、少しでも気が晴れる気がした。

午後から担当の医師が来て、治療の方法として原因が特定出来ないから「硬膜外ブロック」をしてみようと言う事になった。直ぐにでもして欲しいとおもったが、何故か来週の火曜日にするという事になった。
まあ、入院の予定が2週間という事だからのんびりという事かと思う事にした。


2002年03月01日(金) 何も無し

入院3日か目。
長い点滴がようやく終わった。
点滴の辛さではなくて、ベットで横になったままで動いては行けない事が辛かった。
TVをみたり、うたた寝したりして何事もなく一日が過ぎた。
入院をしたものの検査が1日あっただけで、治療をしたわけではないので脚の痛みに対しては座薬で凌いでいた。この頃は、座薬の使用は2〜3回/日が続いていたので何時頃に使えば寝る時にガマンが出来るか、そんな調整を自分自身でしていた。

ナースセンターで検査の結果に対する説明を受ける事になった。
神経が映し出されたレントゲン写真を見せて貰って、説明は病棟の担当医から異常は認められないと言う。
これで異常が無いのなら、私がガマンしているこの痛みは何なのでしょう。
検査の結果を説明してくれただけで、これからどうするのかは説明なしだった。


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