坐骨神経痛&腰痛(BeBe)
日記の目次|過去へ|未来へ
2002年02月28日(木) |
ミエログラフィーとCT |
昨夜は深夜に何度も目が覚めて、結局、4時半頃から眠れずおきていた。 7:00 朝食が運ばれてきた。食パンが1枚、牛乳が付いているだけのものだった。 午前中は何事もなくぼんやりとしていただけ。 13:00ごろ ミエロのための点滴が始まった。これが辛い事になるとは、この時は想像もしなかった。 13:30 予定通りミエロのために1階のレントゲン室へ移動した。 そこには主治医の医師と入院中の担当医が待っていた。白衣にレントゲンから身を守るためのエプロンをしていた。 レントゲン室のベットは、すごく幅の狭いベットでその上に横になって、医師の指示通りエビのように身体を曲げて造影剤の注射を待っていた。 頭の部分にレントゲンの映像が映し出されているテレビが用意されていて、レントゲンの位置決めがあった。痛みは局部麻酔のための注射が痛かった。 造影剤を入れるための針が一瞬、神経にさわったのだろう。左脚がぴくんと動いて痛みが脚に走った。造影剤を入れる場所が決まったらしい、レントゲンを見ながらこの辺かとか、異常はないとかの医師の声が時々聞こえてきた。
結果は後日になるが、検査が終わってストレッチャーで病室に戻った。
15:00ごろ CTのために再度、1階の検査室へ運ばれた。 これは、痛みも何もなく単に動かずにじっとしているだけだった。覚えているのは、検査中廊下で看護婦さんが待機していたようだった。 検査が終わるとベットで病室に戻り、造影剤が身体から出るまで安静にするように注意を受けて、ベットから起き出してはダメだという事になった。
この後、点滴は翌日の9時頃まで続いた。 この日、脚の痛みは辛い状態だった。しかし、それ以上の苦しみはトイレに行けない事だった。立ち上がっては行けないという事なので、ベットで横になったままでの排尿はガマン出来ない迄になっているのに、思うように出す事が出来ない。 看護婦さんの介助で尿瓶に出た量は、自分でも驚くくらいの量だった。造影剤と点滴のために尿の量が増えているとの説明だった。
初めての検査で疲れたのか、前日の寝不足がこたえたのか随分と早く寝ていた。 そのころのメモでは、21時頃までしか状況が残っていなかった。
入院の決心をして準備もおわり、いよいよ初日が来た。
13:00 入院の事務手続きが終わり病室で看護婦さんから説明を受けた。 807号室で、二人部屋の入り口側だった。 14:30 主治医より(外来の主治医とは別、入院は別になるらしい) 検査内容について承諾書のために、検査内容の説明を受ける。 検査は「ミエログラフィ(脊髄造影検査)」「CTスキャン」で、ミエロに関して造影剤を入れる事と神経の付近に針を入れるために、危険がゼロでは無いのでオペと同じで承諾書がいるらしい。 検査の予定は明日の午後になった。 15:30 何となくバタバタしていた事が終わって、少し落ち着いた。 18:00 夕食の時刻なり、病室に届けられた食事をみた第一印象は量がとても 少ないと思った。 21:00消灯でこの日何時に寝たのか、記録が無いのではっきりとはしない。
覚えているのは、検査が明日なら入院も明日でも良いのじゃないのかと思った事と、検査の事、治療の事、睡眠がとれるかどうかなどの不安が渦巻いていた。 仕事の事も、どうしても手放す事が辛くて入院をのばしてきた。 それも、「ここまでしたから、後は残った人に任すしかない」と言い聞かせて決心をした事など複雑に絡みあっていた。そんな事をベットの中で考えていたように思う。
入院のための休暇出して説明も済ませた。診断書を添えてはいるが、検査入院として届けを出した。関連する取引先には不在の通知を出し、重要な先にのみ入院の事を話をした。 休暇中の事務処理の事、導入の日程に関する依頼事項の整理、部下に対して入院をすることの説明と留守中の依頼を説明をした。机の上も片づけて、最終退室者になるまで会社にいた。 入院を決めてからも結構忙しい日を過ごしていたけれど、いざ日記に書こうとするとなかなか出来事を書く事が難しいかんじた。 事務所の戸締まりをして帰る時は、少し寂しさを感じた。
社内には、この程度の入院経験者が多い(?)からかあまり周囲は特別な目では見ていないようだった。
MRIの再検査の結果も異常所見なしだった。先週の段階で入院は決意していたので、今日は入院期間や何をするのかなどを聞く事にしていた。医師の返事は検査の結果次第だからハッキリとは言えないけれど2〜3週間でどうかといった。 休むにあたり診断書がいるので、病名「両根性坐骨神経痛」、入院期間「2週間」とした。入院日は、仕事の引き継ぎと後かたづけで少し日数が必要だったので、翌週27日で依頼をした。 入院中の検査内容は造影検査をするとだけの説明だった。原因の追及場所は腰の部分で神経に対して何が起こっているのかを調べる事だった。
入院を決意した心の中には、これからの仕事が今以上に大変だから、その場所から逃避するために入院を選択したかも知れない。そんな気持ちがあったように思う。
入院をして何をするのか、何のための入院なのか、どの程度の日数になるのか何一つはっきりとしていない。原因がはっきりしていて、その治療なら医師も返事が出来るのだろうけれど、今までの検査では異常なしで来ているので仕方がないのだろう。この日もいつもと同じで、ブロックは受けるつもりでいたけれど入院の事を聞くつもりでいた。 症状に変化が無くて、不安と辛い日々が続いていた事がその気にした。 しかし、これまで躊躇していたのは今回の仕事があったからだった事は間違いない。これだけは自分の手で仕上げたいという気持ちが強かったから。 それも、いよいよ準備は整いつつあった。導入準備の詳細日程も概略決まりつつあったし、支払い条件としてのリース会社との交渉ももう一息だった。 金融機関が融資に対して慎重な姿勢を見せていた時期だから、当社のような倒産の危険性があるところに対しては、都銀ほど慎重になっているようだった。 当然の事ながら、親会社の債務保証もなしが条件で一括支払いもムリだった。 契約行為は先の事になるけれど、見積が可能な目安も概ねついた。本当に後はやるだけだった。
入院の決意は固まっていた。その事を前提に医師と相談をしたところ、もう一度位置をずらしてMRIをやってみる事となった。その結果を見てから、どうするのか判断をする事になった。MRIは19日に予約が取れた。診察の予約を22日にして、その時に結果が分かるように依頼をして貰った。原因がそれで分かれば楽になれると思う反面、ダメだろうと気持ちも強かった。
2002年02月09日(土) |
ホントに痛いのはどこ? |
はじめからのやり直しと言う気分になって、7日にMRIをやり直した。 長く痛みとつきあい精神的にも滅入ってしまう日が多い。『腰痛の広場』に根ブロックの経過報告を書き始めても、良い結果も書けない。TMSも本を読んでいたし、掲示板でのアドバイスも受け取っていた。
ここが痛い、あそこが痛いとか痛い部分がハッキリと言える日があったのに、いつのまにか痛い部分を特定することに自信がなくなってきた。 左側のお尻から下が痛いことは間違いないけれど。。。 はじめの頃は、脛の外側・足の甲から親指のつけ根付近、硬膜外ブロックを続けて行くに従い、痛みが緩和されてくると、今度は脛の内側が痛くなってきた。 治療もこの頃は、神経根ブロックになっていた。今度は太股の前側や膝の内側に痛みを感じ始めた。 神経根ブロックも、5番、4番、3番と痛みの部位を伝えると、それにあわせて治療の位置を変えてくれた。
しかし、既に1年以上が過ぎて神経根ブロックも半年近く経過してきているので、再度MRIをすることになり、ブロックを受けることが中断しています。 すると、気のせいか当初の頃の脛の外側も痛みを感じることが出てきているのです。
痛みは、激痛では無いし痛みの感じ方もぼんやりしたした痛みなので、自分でもこの部分と言える自信がなくなってきた。強いて言えば、膝部分から下が全体で太股やお尻も痛い。痛みを感じるのは、座っている時が一番強くて、次に横になった姿勢が痛みを感じる。痺れかもしれない。
次の診察の時になんと言って伝えればよいのか、今から悩んでいます。
痛みを抑える方法が無くて、当初の頃は座薬を使っていたのですけれど殆ど効かず、痛みで睡眠がとれず疲れが溜まるので眠剤を使っている。 ロヒブノール2を1錠です。 これも、はじめの頃は飲んで1時間以内で寝ることが出来たのですけれど、最近はなかなか寝付けず翌朝も睡眠不足か体がだるくて痛みと両方でクタクタです。
整形外科ではムリで麻酔科への転院をアドバイスされたので、場所は見つけたものの紹介状が必要とのこと。無い場合は云々とある。初診料のことだけなら仕方がないと諦めがつく。でも、検査をきっと初めからやり直すのかとおもうと、なかなかこれも決心が付かない。優柔不断な自分が情けない。
昨年、入院が必要になった時、MRIでは分からないからミエロをするからと言って。それなのにMRIをやり直して何が分かるのだろう?これが、検査の手順だからやるのだろうか? 頼りにしている「腰痛の広場」の掲示板もいろいろと読み返してみた。非常に多くの情報があるので、随分と古いものも検索して見ていました。なかなか「これで完治した」というものはみつからない。 人それぞれの違いがあるのだろう。動くことも出来ないほどの激痛で無いことと、慢性化してきていることが、問題を複雑にしている気がする。
支払い条件はまだ整っていないけれど、導入物件に対して社内決裁は済んだので「内示発注書」という形式で正式に発注依頼を出す事になった。普段の小さな物件は決裁後の発注書は私の押印で済ませていたが、今回は発注金額も大きいし会社としても経営レベルの判断で決定している。その事を書類として残すためにも、社印を押印した書類として用意をした。そして、頼み事もあったので発注先へ足を運んだ。移動の電車や面談の応接セットは座るのが辛かったけれど、儀式としてはどうしてもしておく必要があったので、5日に出かけた。
同じ治療を繰り返している。症状には何も変化が出ない。診察を受けても医師からは特別何も無い。外来で出来る治療について尋ねてみると、原因が分からないから今の治療しか無いという。心の中では、治療は医師が決めるものだと言う気持ちが強かったので入院も医師からの指示でするものだと考えていた。 毎日のように使用している座薬も殆ど効果は無かった。無いけれど、使うしかない状態だった。
右腰と右脚は痛みが軽くなってきている。腰痛は再発の不安は常に持っていたけれど、普段の生活では痛みを感じる事は無かった。 脚の疼痛は変化なしで座るとお尻が痛くなり、直ぐに下肢部分が痺れと共に苦痛を感じるので今の治療に限界を感じていた。 今の病院へ来て、精神内科から整形外科へ移り、はじめの頃に入院の事が出たが、その事をいつか持ち出して考える必要を感じ始めていた。 心の中ではその事と同時に、今の仕事を考えていた。どうにかこうにか社内決裁を取り付けるところまでやってきた。これから支払い条件を整えて契約成立に進めてゆく事が残っていた。使用中の設備との入替なので、リース契約の解約や新規契約など保守条件の事も考慮して仕切をする必要があるので、簡単には他の人へは引き継ぐ事が出来ない。たぶん、出来ても渡す事はしたくなかったと思う。
この日も仕事の予定は全てキャンセルして、朝から仙骨ブロックを受けるために病院へ出かけていた。この頃は、痛みで治療が済んでから会社へ行く気力もなく治療の日は休んでいた。
|