今日テレビを見てたら、外務省に勤める日本人が二人イラクで殺されたそうな。大使館が銃撃を受けた時とか、ラディンがテロの対象に日本を名指しにした時とか 大使館員をイラク国内から撤退させる機会も口実も充分あったと思う。
もちろん、命令なくしては彼等が日本に簡単には帰られないことも、この状況下でイラクに留まることの危険性も、充分に日本政府は知っていただろう。
つまり、今回二人が死んだのは、日本国政府の人命軽視の態度による人災であると言っていい。テロリストが殺したのが悪いのは確かだが、この事態が起きることは充分予測できたのに、放置して二人の死という事態を招いたのだ。
さて、それはともかく。 こんな事件が起きると、決まって日本人の取る態度がある。 社会的立場からそうしなければならない場合、まだ仕方ないのかもしれないが、全然そんなことを言う必要すらない人間が、そんなことを言う必要のない場で、
「(故人とか、被害者とかの)冥福をお祈りいたします」
と言う。私はこの言葉が大嫌いだ。というのも、冗長な挨拶であり、そこには何の信仰も考えも思いやりもないからである。
こういうことを言った人に、 「では冥福とはなんですか?」と聞いたら大抵の人は 「なんでそんなことを聞くんですか?」とか 「冥福は、冥福じゃないですか?」とか言う。 つまりは言った本人が何を言っているのかわかっていない。
Goo辞書で検索してみた。 >めいふく 0 【▼冥福】
>死後の幸福。みょうふく。 >「―を祈る」
>三省堂提供「大辞林 第二版」より >凡例はこちら つまり、冥福という言葉は人が死んだ後になお幸福になったり不幸になったりする死後の生とでも言うべきものがあって初めて成り立つ言葉と言えよう。例えば、死んだらなんにもないと思ってる人間が「死後の幸福を祈る」のは明らかに矛盾である。だから「冥福を祈る」とか人前で口に出すからには死後の生が存在し、そこにはなおも幸不幸が存在する(存在しなければわざわざ祈る必要はないのだから)というはっきりとしたある種の宗教観、もしくは死生観、あるいは信仰のようなものを持っていなければならない。
現実には、ほとんどの人が、何の考えもなく「冥福を祈ります」と言う。それは、「いい天気ですね」とか「どちらにおでかけですか」と同様、言葉自体に意味はなく、ただ社会的役割としてそう言うことが求められているから言うという空虚な繰言にすぎない。
誰も本当に冥福を祈ってなどいないのだ(余程の例外はおいといて)。
それから、学校や職場などで黙祷や冥福を祈ることを強要するのもやめてもらいたい。例えば公立の学校や役所でも終戦記念日などに黙祷の時間をとって冥福を祈らせたりする。しかしながら、たくさんある宗教の中には一旦死んだら全ての人が救われるとする教えもあれば、死後の生は存在しないとさえするものもある。もちろん一切宗教なんてものは信じたくないという人、霊魂の存在は信じないと言う人もたくさんいる。そういう考えと、黙祷や冥福を祈ることとは折り合わない。彼等がそのような場にいれば、自分の良心、信仰と異なる宗教的儀式を無理やりやらされたと苦痛に感じるであろう。
2003年11月21日(金) |
「題名のある日記」は「題名のない音楽会」よりは意外なことだと思う |
WEB日記の特徴のひとつは、「題名」だと思うのです。 自分だけが読む日記、つまり昔ながらの日記帳につけるような 日記を書くときに、題名ってつけないような気がします。 僕がつけないだけかもしれませんが。題名の効用ってなんだろうって 考えると、その日記のおおまかな内容がわかるってことですよね。 人に読んでもらうときに題名があったほうがいいってことでしょう。 やっぱり「読まれることを意識して書く」のがWEB日記であり、 その一点において、普通の日記と異なるのでしょう。
日記というよりも、個人の書く「天声人語」みたいなもの、 新聞の社説欄のようなものかもしれないですね。
ちなみに僕の場合、自分以外に読んでくれる人がいないと 基本的に物を書く気にならないので、WEB日記は付けてても、 普通の日記は付けていません(笑)。自分が思い出すためなら 書かなくても思い出せばいいと思う性質なので。 でも自分で書いた過去のWEB日記や、MLへの過去の投稿を読み直して いると、「ああ、あんなことがあったな」とか「またあそこに行こうかな」 とか思えます。これは普通の日記と同じ効用ですね。
結局のところ、何かを言葉にするのに、聞き手、あるいは読み手に 存在していてほしいのだと思うのです。誰かがいると、あるいは誰かが いると仮定すると苦もなく言葉がつらつらと出てきます。そして自分が 言ったり書いたりした言葉から自分自身がヒントを得たりもします。 大学の時に、とにかくなんでも書いてみる「ブレインストーミング」という 技術を英語の先生より簡単に教わりましたが、似たようなものかもしれません。
フランスの実存主義哲学者、サルトルは晩年インスピレーションを得るため だけに、カフェに女性の話し相手が同席するようにしていたと聞きます。 彼もそのようにして自分の考えをまとめたり、新しい着想を得ていたのでしょう。
時に、行動が自然にとまり、 何をするわけでもなく、ただただ、ただただ 心の内側の声に耳を傾けていたりします。
特に、コオロギが鳴かなくなった後の秋の夜には そういうことがよくあるのです。
何を為すわけでもなく、何かを読んだり聴いたりすることすらなく、 何かのプロセスが内側で起こり続けていくのです。
それが、いったいどこに続いているのか。 わたしには、わからないことです。 それが、どこからやってくるのか。 それもまた、わからないことです。
書き綴られる言葉が、もしもあなたの心にとどくなら。 たとえたった一語でも、あなたの心のどこかに響くなら。
私は天と地の間で安らぐことができるでしょう。
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