**In my heart of hearts**
心の奥のこころ


2012年04月30日(月) いつものパターン

晴れの天気でじっとしていられない、そんな朝ではない。でも世間が休日モードだと遅れとりたくないぞと、心は落ち着かない。

誰とでかけられるわけでもないけれどね。人ごみに紛れれみたくもある。来週は連休があるし、まだ無駄遣いは我慢のしどころ? 料理らしいものをこの頃したがらないのはなんでかな。

不安があると外のものへ気持ちが向く。そこからエネルギーを欲しがる自分がいる。 どこへ行こうかな〜〜〜! まだ決まらないの!

都会・田舎・気取るところ・のんびりするところ・お金かかるところ・安いところ・ どうする、どうする、どうしたい。



2012年04月25日(水) また人を嫌ってしまう

どうにか、夜勤につけるようになれたと喜ぶのもつかの間だった。
人の命を預かる大変さへの理解が薄いようなこと、安心して仕事を一緒にできないとか、そういう否定の言葉を師長は私へ告げるために離れた所へ私を呼んだ。 辞めてもらってもいいという通告とも受け取れることだな。馬鹿げている。金銭面でもマイナスになる、夜勤からの排除だ。
私にいけないところがあって、それに自分で気づけなければ、受け入れられない、大きな意味で厳しいくて、正しいことのように思えたりはする。 それが大人としての社会の冷徹さというわけね。 

普段から人にうまく関われないこと そこがいけないと言うに言われないところなのかもしれない。 人格の問題だから。しかも欠陥的なレベルだから。 怖くていえないから、遠まわしにぼかした排除のやり方。 根は深いのかもしれない。師長の言葉は軽いものではない事。 あー・・、またか、ここでも同じ。



2012年04月24日(火) だんしゃりストへ変身を

今日もいいお天気 風が肌にとても心地よい。そんなことにかこつけて外へ出たいきもする。 断業、捨業、離業、か。自分と物との関係を問い直すという思考を始めることによって、自分と向き合わざるを得ない状況を作り、自分を啓発し改善が痛みを伴いながら、行われていくといった、これほど現実に則した、真実はほかにどこにもないのかもしれない。そしてまたこれがいとも簡単に無意識になおざりにもできるという恐さ。 精神世界で現実から少し離れたような次元でものを見ることが何か導きの醍醐味であるかのように本の世界へ没頭してばかりきた自分。そんなところへ清い水をざぶ〜っとかけてくれたのがこの思想を伴う行動、行動が主体の思想だなと思った。

この提唱者のやましたひでこさんの噛んで含んでくれるような、やさしい時には強い話言葉を夜中になってPCから聞いている私。 分かっているようで分かってこなかった自分を心の奥でもどかしくことが気持ちを少し噛んで痛む。

できない自分を責めないこと。いきなりのエベレスト山を誰も登れはしない。フルマラソンを走るのに、誰もいきなり望む事はできない。 そういう励ましの切り口からがまず この断捨離のすばらしさだな、なんて思った。
そしてこれは終わりはない、一生続くものだととう忘れがちな大事なことまで付け加えてくれる。



2012年04月23日(月) ニュートラルな休日

若かりし頃の証明写真が出てきて、3つを並べて見比べると、みごとに顔の老化具合が手に取るようにしてわかるものだった。たるんでくる顔の皮膚は正直だ。  引き出しのかたづけがおっくうなのは、昔の記憶が雑音のように心に蘇るのを恐れるところがあるからなのかなと、変な納得をしてみたり。眠りの中の夢で、いつもは見ないようなわけの分からない雑然としたものを追っていたりするのに気がつくときそう、思った。

気候が優しくなってきたから、外へ出かけたい気分も盛り上がりがちなところ。満喫してもよさそうなのに、引き止めているものは、何だろう。ひとりぽっちで、街中をうろうろするのも、楽しむストーリーが見つからないような、想像力のなさというか。過去をなぞって感慨に浸るようなことにも、もう飽き飽きしている。 

新しい何かを始めたい。自分の心の汚れ、垢落しね。自分を建て直したい。
後ろの事はもうどうでもよくなった。 これまでは過去の自分を影のように引きずりながらもきちんと、向き合う事もできなくて、心の闇に押されていた。それを証明するかのような部屋の隅ずみに固まる重いほこりをかぶったモノたち。そして蓄積したほこり、ごみそのものたち・・。

ようやく そんな自分に別れを告げられるときはやってきたと思える。
そんなことを考えていたら、ここへ住むようになった日までちょうど一週間であることに気がついた。その日がくると丸22年か。無事にここまで生きてこられたことを感謝!



2012年04月21日(土) 淀んではいけなかった

机の引き出しを全部取り出して、中身をぶちまけて広げている。その真ん中に座ってものたちを一々手に取りどうするかを頭が考えるという作業、簡単な事、そこから派生してくる想像や想念が結構なエネルギーを消費するという事も分かっている。

だからいつも何気に躊躇しているんだということに気がつく。片づけをすることは深いこと。そういう意味で自分と向き合うエネルギーが生じる。断捨離が説くのはこの自分啓発メソッドであるということなのだと、そこでまた気がつく。

やり始めてそういう概念を心の片隅においておくとこれまでは片付けの苦痛面だけを記憶に残していたものが ちょっと楽しみや希望に変わろうとしているようでうれしくなった。 

夜中になってもごみに仕分けする作業を厭わずにやって満足するという、人生で初めてに近いようなことやっている私。

そのせいもあってのことかな、眠っているときの夢は昔のことが出てきて、おたおたしているあの頃の仕事が思い出されていた。洋服を売りつける仕事だ。 心の中のごみも吐き出しているようだ。

そうしながら、知恵をつけていかないと。思考を鍛えていかないと。元をただせば、こんな片付けの作業ができないということが脳の働きの衰えと直に繋がっているようだ。 

私の今現在の姿。 物事の理解力、判断力がどれだけ劣って、お粗末であるのかということを毎日、自分で嫌というほど、些細な出来事から見せ付けられているというのに、これ以上、もう誤魔化す事はできないと本気での自覚が迫られているといえる。 恐ろしい事だ。

早く、素直になっていくべきだった。 自分から目をそらす事ばかりに長けていた。そんな行動ばかりしてきた。 その付けを払う時か・・。

全ての事に感謝。 それは決して忘れたくない。



2012年04月16日(月) 断捨離をはじめます

春にも慣れて来た。季節が進むのを見ている。時間は過ぎるのに心だけはどこかへ置き去りだ。

体が動きを鈍くし始めた中に甘んじていれば待っているのは退化。熟していく老化ならまだいい。そうではなく、働きを封じ込めて衰えていく神経なのだ。 

まして、リューマチの鈍い痛みと腫れを持つ私にとって、リハビリのような手先の作業は人一倍必要だ。 なにか、どこかがおかしい。意地悪な人もそんなことを言ってきた。 

確かにどこかが狂っているんだろうと思う。 過去に遡って自分のことを見つめてみたいと色んな節目で思うのだけど、すぐに嫌になる。 何度もどこででも同じことを繰り返しているのは 自分のことを良く分かろうとしていないからなんだということまでは分かる。

思うだけで実行しなければ何もならないということがここでも証明されるだけのことか。 父のことを見限るしかないと少し思い始めたりして、むなしい。親が子を愛するのは当たり前ではないらしい。

知りたくなかった現実を知るという恨みを心のどこかに隠して、すねてしまう癖。こころが人とは、繋がれない次元がある。そのことを低い次元のこととして、見下げて 突っ張って、気取ることで自分を慰める癖。 

それでも何か社会の中で自分の基盤を持てたのなら、いいのだけれど、幻想だけで実際はあまりにも幼稚で無能ぶりに人はあきれて離れていく。

そして嫌われて、疎まれて、仕事から追い出される。そんなことを何度繰り返してきたことか。 どこか何かがおかしい私の生き方。


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