泣いた記憶はあるんだ。 余りに数少ない事だから覚えてる。 約、年に一度、あるかないか。
声をあげて日々を泣いてすごした。 母親から切り離された乳飲み子。 すぐに、声をあげて泣く事をやめた。 そして泣く事自体を切り離した。 泣いたら負けだと誰かは言った。 勝ち負けには、こだわらなかった。 泣かないから褒められるわけでもないし、 泣いたから殴られたりするわけでもなかった。 ただ、泣かない方が良かったから。 だから泣く事をやめた。
そして泣く事を忘れた。 泣き方を忘れた。
「今泣き方を思い出したら、 きっと僕は、泣くだろう。 もし、叫び方を思い出したら、 おそらく僕は、泣き叫ぶだろう。」 そう思った事が何度もあって。 しかし泣き方が甦らない。
そうしている内に、泣きたいと思う事すら無くなった。 「泣きそうだ」という単語を乱用して。 でも普通に笑えてる。 泣きたい・という感情は嘘だ。 この感情はとても薄っぺらな物になってしまった。
だが、それでも己の涙に問いかけ続ける。 同じ様な話題は、常にそこにある。 どうして?何故?
本当は泣きたいんじゃないのだろうか。 泣けない自分・泣きたい自分。 忘れたくないから? 忘れて欲しくないから?
・・・・・駄目だ。 ここまで考えたのに涙なんて出てこない。
もう何年も流れていない涙はどこへ? 溢れる事も無く、苦しくも無い。 それはきっと、イイコトじゃないんだろうな。
大切なあの人を、大切にしたいです。 本当に本当に大切にしたいです。
今すぐに何かしたい。 大切な人だから。 大切にしたいんです。
言葉でいうだけじゃダメ。 何ができるんだろう。
何もできない。
大切なあの人を、大切にしたいです。 本当に本当に大切にしたいです。
なのに。
誰かを大切にしたいと思った時、 それは自分が無力だと悟った時だった。
甘える事が上手な自分は、 愛される事に慣れすぎていて。 本当の愛も、偽物の愛も、 全てが紛れなく愛だと知っていて。
それが孤独を生む事も知っていて。
それでも尚、あまりに無力。
機械に2002年と打とうとして、 必ず2001年と打ってしまう自分がいます。 「にせんにねん。」と口に出しておきながら、 それでも2001年と打っている自分がいます。 毎日のように打ってきたので身体が覚えてるんでしょうな。 脳で理解していても、身体の記憶が先に出る。 記憶は脳と心(心臓)だけじゃないんだな。
よく臓器移植を受けた人が、 術後に体質変化するという話を聞きます。 何か人間の底力を見た気になります。 獣のようなその力強さにはドキドキします。
この身体に私の記憶を。 叩き付けて、染み込ませて。 誰かの身体で再び目を覚ます。 考えただけで恐ろしくなってくる。 とても素敵な事だと思う。
私の臓物は私の脳が生きる事を止めた瞬間、 誰かの身体で生き続ける事に決めています。
生まれてこの方、何度か人を殺そうと思いました。 今回は殺すのも嫌なほど嫌悪感満々です。 私の心の中は何やら色々と複雑なようです。 今まで人を殺した事は無いのに、 この手には、人を殺した記憶が染み付いてます。 夢での殺人はあまりにもリアルで、 いつしか私は、現実と虚実との区別が付かなくなるでしょう。 今既にこれは現実ではないのかもしれません。 朝起きると、誰かが死んでいるのかもしれません。 今私に出来るのは、その虚実の経験を元に物語を綴る事だけです。 完成まで後一歩の物もあれば、出来上がらない物もあるでしょう。 現実と虚実を元にした小説では、必ずと言って良いほど、 どこかで誰かが死んだり、殺されたり、消え去ったりしています。 この場面で死んだ彼は、虚実の人ですか? あそこで殺された彼女は、現実の人ではないですか? 彼等は、本当に架空の人間達ですか? これは私の殺人なのではないのですか? 答は私の中にありますか? 何年探しても出ない答はどこにありますか? 私はここに居ても良いのですか? ここに居るべき人間なのですか? 殺意を殺意だけで終わらせていたでしょうか? 私は誰かを殺してはいませんか?
この手に残る数々の感覚は何を意味するのですか?
年明け直前に死んだ人はどれ位いるだろう。
テレビを見ながら・メールを書きながら・ そんな事を大真面目に考えてしまっている自分。
冬になるとどうも調子が狂ってしまうのです。 精神状態が変動する・と言うか、 バイオリズムが一本の線に繋がらない。
「最近の若者は軟弱になった」と言われたとして 殴り掛かりたくなる衝動も込み上げるし、 そんな事言われたところで、どうでもいいし、 全くだと嘆いてみたりするだろうし、 たくさんの思いの中に、本当の気持ちを探すんだろう。
それはどこにあるのだろう。
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