へい太の日記

2004年04月17日(土) おばあちゃんクロニクル

野菜の支柱に使う緑の園芸用ポール
杖代わりにして向こうから歩いてくるのは
ずいぶんサイズが小さくなった
しわだらけのおばあちゃん
畑へ向かい ビールケースに座って草取りをしている
世の中美白だ リフトアップだ 若返りだと浮かれているけれど
おばあちゃんのしわの美しさに勝てはしまい
おばあちゃんの目下の最大の悩みは
年金の中から3万7500円も介護保険料を取られること
近所のケガしたおばあちゃんの話を聞いて
「まだ73か、わけえのに」
なんてつぶやいてる

大正2年5月1日
おばあちゃん 赤磐郡仁堀村戸津野に生まれ 沙恵と名付けられる
そのころは赤ん坊だったけど
関東大震災の時にはもう10歳だったことになる
昭和10年
邑久郡行幸村富岡の小山碩夫と結婚 22歳
翌年 長女記誉が生まれる
記誉はやがてはぼくの母となる そのころは考えもしなかったろうけど
昭和13年次女フミが生まれる
ぼくの母に妹がいた ぼくはずいぶん大きくなってからそのことを知る

じいちゃん碩夫の姉公子が体調を崩し家に戻ってくる
フミがひざの上でだっこしてもらってかわいがられているのを
ぼくの母は記憶している
風邪と診断されていたけれど実は肺結核だとわかったのは亡くなる直前
昭和15年義理の姉公子没
同年12月次女フミ没 2歳
そして昭和19年じいちゃん碩夫没 34歳
だからぼくはじいちゃんの顔すら知らない
残されたのは
母31歳と子8歳
そしてぼくにとってさらに見たこともないひいじいさん保三とひいばあさん麻佐

昭和20年3月13日深夜から14日の未明にかけ
大阪港区では274機のB29が焼夷弾を投下
港区の東半分が焼き尽くされた

空襲で焼け出された碩夫のもうひとりの姉
三宅のふみおばさんとその旦那さんが身を寄せてくる

昭和20年9月 枕崎台風がもたらした豪雨により
八日市の土手が切れ 吉井川氾濫
死者92名 浸水家屋14798棟を記録する
我が家でも土塀が崩れ去り 床上1メートル近くまで浸水
子どもの頃 下半分がぼろぼろの土壁を見て不思議に思ったものだ
水が引くまでの数日間 6人が2階の二間で暮らす
その間に1階の畳は流され
牛が流れてゆく様子を眺めながら
階段で用を足す日々であったそうな

昭和21年じいちゃん碩夫の弟陸(むつ)おじさんの一家6人が
満州から引き上げてくる
そのうち子どもは4人 男の子二人女の子二人のやんちゃ盛り
睦おじさんの弟 豊おじさん夫婦も加わって
小山家は総勢14人になる
昭和26年まで14人の生活が続く
三膳からのご飯を平らげる子どもたちのために
おばあちゃんの炊事との格闘が続く
庭一面がかぼちゃ畑になり
庭木を売り払った
残ったのは古くから残る梅の木1本だけ

そのころ戸津野からは弟が戦死したので戻ってこいと言われていたが
ひいばあちゃん麻佐が「記誉がかかり子」と宣言したので
戸津野へ戻る道も閉ざされた
やがて満州引き上げ組と空襲組は大阪へ
その後昭和二七年ひいじいちゃん保三没
昭和三六年ひいばあちゃん麻佐没
母ひとり子ひとりの生活になる

昭和三七年記誉結婚
一二月ここでぼくが生まれる
おばあちゃん50歳
続いて昭和四〇年ぼくの弟
昭和四三年もうひとり弟ができた

昭和六三年ぼくの結婚
昭和20年に水に浸かった家を改修して住むことにする
この家はじいちゃんが生前歯医者を営んでいた家でもある
待合室の小窓や青いペンキで塗られた技工室が残っていて
風呂も台所もない不思議なつくりになっていた
家族がさらに増えていく
平成五年ぼくの長女誕生沙紀と名付ける
平成一三年その妹瑞希が誕生した
一家は8人になった

遅咲きの桜をライトアップ
一畳台をテーブル代わりにして
焼き肉ホームパーティー
四代がそろう
おばあちゃんは後2週間で91になる



2004年04月04日(日)

野菜の支柱に使う緑のポールを杖代わりにしながら
歩いてくる
ずいぶん小さくなった
しわだらけのおばあちゃん
畑にビールケースを置いて座り
草取りをしている
世の中美白だリフトアップだ若返りだと
でもおばあちゃんのしわの美しさには勝てない
現在の最大の悩みは
年金の中から3万7500円も介護保険料を取られること

大正2年5月1日
岡山県赤磐郡仁堀村戸津野に生まれる
昭和10年小山碩夫と結婚
昭和11年長女記誉生まれる
昭和13年次女フミ生まれる
その後体調を崩した碩夫の姉公子が戻ってくる
ひざの上でだっこしてもらってかわいがられているのを
長女記誉が記憶している
風邪と診断されていたが肺結核とわかったのは亡くなる直前
昭和13年次女フミ没
昭和15年12月義理の姉公子没
そして昭和19年碩夫没
残されたのは
母と子 碩夫の父と母

昭和20年3月
大阪から空襲で焼け出された碩夫のもうひとりの姉
三宅のふみおばさんとおじさんが身を寄せてくる

その年の9月豪雨で八日市の土手が切れ吉井川が氾濫
土塀が流れ床上に浸水
水が引くまでの数日間2階の部屋で暮らす
その間に畳は流れてゆき
牛も流され
階段で用を足す日々であったそうな

昭和21年碩夫の弟陸(むつ)おじさんの一家8人が満州から引き上げてくる
さらに豊おじさん夫婦も加わり
総勢14人になる
昭和26年まで14人の生活が続いた
子どもは三膳からの飯を平らげ
麦ごはんだけでなくさつまいもやらかぼちゃやらの日々が続く
庭先までかぼちゃ畑にした
庭に残ったのは梅の木だけ
後は全部売り払った
碩夫の父保三は村長やら選挙管理委員長まで務めた人物であったが
そのため田畑を売り払い生活に困窮していた
三宅のおばさんが買い戻してくれた
そのころ戸津野では弟が戦死したことから戻ってこいと言われていたが
碩夫の母麻佐が「記誉がかかり子」と宣言し
戸津野へ戻る道も閉ざされた
昭和二七年保三死去
昭和三六年麻佐死去
母ひとり子ひとりの生活になる

昭和三七年長女記誉結婚
一二月孫が誕生
続いて昭和四〇年第二子
昭和昭和四三年第三子

昭和六三年孫が結婚
平成五年曾孫誕生
平成一三年曾孫誕生
再びにぎやかになる

野菜の支柱に使う緑のポールを杖代わりにしながら
歩いてくる
ずいぶん小さくなった
しわだらけのおばあちゃん
畑にビールケースを置いて座り
草取りをしている
世の中美白だリフトアップだ若返りだと
でもおばあちゃんのしわの美しさには勝てない
現在の最大の悩みは
年金の中から3万7500円も介護保険料を取られること


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