ぶらい回顧録

2004年08月16日(月) My generation

7月24日、ついにこの日が来た。ザ・フーが演奏する姿を、音を、観ることが、聴くことが、できるのだ。

ことロック・ミュージックに関しては「遅れてきた世代」であるはずの僕が、いっぽうで、思えばずいぶん幸運な目にも遭ってきた。それは「海外にでも行かない限り絶対に見られない=来日などありえないとあきらめていた、そういうアーティストがなんとまあ、来日したよ」という幸運だ。

ポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズ、ジョージ・ハリスン、ブライアン・ウイルソン、(ロックじゃないけど)ジョアン・ジルベルト。こうしたジャイアント(ツ)が、奇跡と言ってよい来日を果たすたびに、長生きしていてよかった、と思う。

さらに幸運だと思うのは、僕が10代の後半から20代の前半にかけて熱狂した彼ら巨人たち、その音楽が自分のなかでまだ新鮮であり続けているうちに、その音楽が自分のなかで新しい細胞を生み出し続けているあいだに、彼らの「生(なま)」の音なり声に接することができた、という点。ありていに言えば「間に合った」ということだ。本当に幸運なことだと思う。

まあ、この「間に合った」というのもはなはだ主観的な問題で、では何歳になったら「間に合った」と言えなくなるのか、30代後半になった現在、本当はなにも間に合ってなんかいなかったんじゃないのか、そう突き詰めて考え出すと、せっかく「幸運だ」とした結論が変わりそうで怖いのであまり考えないでおく。ロックンロール。

さあ、ザ・フーだ。生で観る、聴くことの一番のバリューを、そのライブ・パフォーマンス、ステージ・アクトに接することとするならば、ザ・フーほど、生で観ることを熱望していたバンドはないだろう。映像で観ても、とても冷静ではいられないピートのジャンプ、もし生で観たら僕はいったいどうなってしまうんだろうか。

ただ、たとえば前述したジャイアント(ツ)と比べると、ザ・フーは、なんだか変、だ。

もちろんブライアンにせよ、ジョアンにせよ、際立って変、なところはある。ありすぎる。しかし彼らの場合、その「変」さをポピュラーなものに変換し得うる、そういう力、そういう普遍性、より万人に受け入れられるようなスタンダードなところもあらかじめちゃんと備えているように思える。

ザ・フーはそうではない。「変」なところを「変」なまま、ストレンジネスはストレンジなままで放り出してしまっている。それを作品にしようとすると、当たり前のことだけどそこに軋轢が生じるのだが、ザ・フーはそうした軋轢を解消してきれいなものにまとめようとはしていない。全然していない。彼らは力業でねじ伏せ、強引につなぎ合わせ、その痕跡を隠そうとすらしない。そりゃあクレバーなところがまったくないわけではない。でも、僕がザ・フーの作品を聴いたあと、いつまでもしつこく残る響きは、その「変」さであり、その「軋轢」なのだ。

ある種「奇形」と呼んでもいい、このサウンド。鍵を握っているのはひとりの天才だ。ピート・タウンゼント。

もちろんザ・フーの魅力はピートだけに拠るものではない。キース・ムーンの一切のコントロールを拒否するドラム、ジョン・エントウイッスルの縦横無尽なベース、ロジャー・ダルトリーの無骨なボーカル、どれも愛すべき重要なファクターだ。でも編み棒を握っているのは、ピート。ザ・フーはピートのバンドなのだ。「奇形」なのはピートなのだ。

僕はピートに会いたかった。彼の脳内で生まれた、僕のような凡人には想像もつかないストレンジネスが、彼の部屋でデモテープとなり、そしてザ・フーという世界最高のクソ・バンド(イエエエエエエーーー!)が表現するサウンドとなって世界中をティーンエイジの荒廃地にしてしまったのだ。僕は世界を、僕をファックした、その張本人に会いたかった。その、世界最高のクソ・ヤロー(イヤアアアアアアアアーーーーーー!!)をどうしてもこの目で観たかったのだ。

チケットは手に入った。フェスのいち出演者であること、演奏時間はじゅうぶんなものではないこと、そんなことはどうでもよかった(本当のことを言うとどうでもよくはない)。ザ・フーが、ピートが来るのだ。クソ・ヤロー、待ってろよ。あ、待ってるのはオレか。


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