お盆になりました! 前後不覚になるような暑さでしたが、北海道民にとっては貴重な「夏らしい夏」を堪能できてこれも楽しいのではないかと思います。あまりにも疲れてしまうので帰宅すると速攻電源オフ状態。 去年は八月はすでに寒かったですからね。 今年も夏は七月でおさまって八月は雨がはいっていきなり湿るとの予報でしたが、あたったのは「湿る」だけで十分暑いしかなり晴れていることしきりです。 うっとうしいですが、最近掃除にめざめた自分は「湿度が高いときは汚れが落としやすい」と「掃除の本」に書いてあったことに勢いづいて床磨いたりもしました。
というわけで、「才能」について思う事をしたためます。 みなさんのまわりにも「センスのよい人」「筋の良い人」「勘の良い人」いらっしゃると思いますが、同時にそういう人をみて、「もっとこうしたらよいのにもったいないなあ」と感じることもあるんじゃないでしょうか。 あそこどまりじゃないよなって。
そうなんです。光るものをもっている人は確実にたくさんいるんだけど、本人はもともと持ち合わせていて当たり前の感覚なので、多少の自信はあるにしろ、はたからみたうらやましさは実体験できない。つまり、だから、貴重な才能なのに、あんまり大事にもしない。欲がない。ので、もったいないのです。 しかし、センスのよい人というのは、本能的に「自分よりセンスのない人」と感じた人の話しはまず響きません。たとえ褒め言葉であっても流してしまうので、意外と自信もありません。 なので、センスがよければよいほど、「もっと上のセンス」オンリ−でうけいれるけど、それ以下は却下してしまいます。正しい忠告であってもです。 ある意味これはとっても正解(半分正解)です。けど、「筋、センス、勘」が『比較的よい』のになぜ『抜群』にはいたらないのか?というときに、「バランスをとる」という感覚がないと持ち前のうらやましい才能が生かしきれないってことなんです。
部分的な才能が一流にならぶくらいの輝きをもっていても、いろんな勉強をいろんな角度からしないと完成にむかっていけないということです。 勘に恵まれている人は、自分の得意な勘以外の部分をあなどりがちです。 もちろん、わざわざ勘をつぶす必要もないんですけど。 勘以外の部分を吸収しようとするとこきに、一瞬その人はスムーズじゃなくなるし一瞬不器用になるけど、乗り越えたらもっと柔軟で強くなっているから、不安にぶつかっていく対価は必ずあると思います。 幸い、教える立場になる時間にも恵まれて、いろんな人たちと接してみて、よい意味で『勝ち気な』才能にもたくさん出会いましたが、「5年後、10年後」さらにのびているだろうか?と考えると、心配なタイプもたくさんいる。 人の心配をしてる程自分にはゆとりがないんですけど(笑)、たてえば「自分はそのへんの人よりいい勘をもってる」と思われる場合、今いる畑に固執せずもっと大きな、もっと高きをめざし、もっと深く掘り下げる、そういう世界に前進していってほしいなといつも思います。 持ち前の才能にふさわしいだけの勉強をしてほしい。
あなたの才能には、苦手な種類についての努力をするだけの価値がある。 それはきっとあなたにもっとゆるぎない喜びを与えてくれる。 逆をいえば、学ぶこと、力を積み重ねて自分をつくることについて、それをやっても意味がない人は存在しないんじゃないでしょうか。
カリスマプレイヤーの夢のようなひととき・・・というレッスンは一生できないかもしれないけど、もっとのびることができるんだ、ということを方法論として必死に伝えたいなと思います。 自分とは違う才能にたいして、自分とまったく同じ方法だけを提示してもうまく交流できないので、ない頭を駆使して考えてみたい。
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