「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2004年06月02日(水) 社会の生き辛さ 比較 言葉 

 社会の中に生きる自分を見つめていました。社会で生きる私は他者の視線に一喜一憂し、他者に受け入れられる自分を探していました。受け入れられていないと感じると、即座に人格を変えました。受け入れられる人格を探している事を知りました。そんな自分はとても疲れていて神経痛の痛みが増していることも気付きました。出てくる人格をとめることも出来ませんでした。
そんな自分に出来ることは、ただ今まで学んだ事を意識することでした。
意識出来たり巻き込まれたり・・つまり私はいつもこの状態で生きているのだろうと思います。社会の中で混乱と安定を繰り返しながら、何とか生きているのが今の私の姿なのです。そうですね。
そしてこんな気付きは大切だけれど、考え続けることには問題があるのですね。「此処もあそこも」と、自分に付いてもマイナスの収拾をしてしまうのですね。

 私は、世の中の流れの速さにまったく付いていけません。職場では一度に何個もの事をしようとします。ひとつでも多くの事を出来て当然で、何かを知らないことは力不足、落ちこぼれと評価されるのです。私は過去にその社会に染まろうと努力しました。個人の尊重ではなく金銭主義しか考えていない世界に。酷いものです。
そして今でも気が付くと同じ事をしています。なぜかな。否定されると辛いのですね。だから受け入れられようとしてしまうんですね。しっかりと自分を見て、真実を見ていきましょう。自分を信じていれば誰に否定されようと問題は起きないはずだから。

 職場で私より後に入職した人は辞めていき、新人さんが何人か入ってきました。世の中は比較の世界ですね。まずは年齢差で動きの速さを比較され、職の前歴で比較され、ついでにずいぶん前に入った人とも比較され・・・。私は「私がこの場所に居なければ比較の対象に入ってたの?」と思わず想像してしまいました。でも、その場所に居た人の全員がおそらく無意識の世界で比較されることの恐ろしさを感じ、他人の評価から漏れないようにと自分を奮い立たせてしまったのではないでしょうか。あるいはその逆に、自分は大丈夫だと思ったり・・。
事実「私はどう映っているのだろう」と一瞬感じましたが、今の私にその結果は余り関係ありません。

 社会に流れる言葉は乱暴です。私は職場で尋ねごとをするときに、私の質問の意味が相手に伝わりづらい上に、その返答の意味を私が理解しづらいのです。何度も聞きなおしてるうちにふと「私ってナニ人?」と思います。私は日本人で、話しているのは丁寧な日本語のはず。時には、相手の言葉が分からない自分を恥ずかしいと思ってしまうのですが、とりあえず「聞く相手を間違えた」と言う事にしておいて、その場は終了してしまいます。だって言ってる意味がわからないのだもの。考えようが無いのです。ちなみに私は方言はあっても良いかなあと思います。と言っても、それが相手に伝わらない程度となると問題かなあ。私は人に伝わりやすい優しい日本語を使っていきます。

 新人さんのうち一人の人は、二日続いて私の傍にぴったりとくっついて離れませんでした。昨日の私はその人の境界線を越えてその人のお世話をしてしまいましたが、今日はそんな彼女の邪魔をしないように私は私の事をしていました。私が自分の事をしていく、ただそれだけで良いのですね。


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