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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
ビクトリア号の航跡 1519-22年

フェルディナンド・マゼランが企画した世界一周航海、現代の装備をもってしても決して楽だとは言えないその航海は、実際はどのようなものだったのでしょう?

手近の文献を幾つか読んでみたのですが、予想通り予想を絶する…というか、
地図・海図や気象衛星を持ち、危険予測と回避と安全率が当たり前の現代に生きる我々から見ると、
…想像を絶する世界です。

1519年5隻280人でセビリアを出航したマゼランの船団のうち、1522年に無事帰還したのはビクトリア号1隻と18人の乗組員に過ぎませんでした。
途中、ホーン岬付近で(他の船の食料も積んだまま)勝手にスペインに帰国してしまったサン・アントニオ号とその乗組員を含めても、無事にスペインに戻れたのは50人そこそこです。
遭難、難破、沈没はもちろんのこと、裏切りあり反乱あり復讐ありで、これは確かにドラマだけれど、ドラマ化されたら見終わると同時にぐったり消耗するに違いない、凄まじい3年間。
以下、参考資料は「大航海時代の風雲児たち」飯島幸人著(成山堂書店)とカルガリー大学歴史学科のHPにまとめられていたFERDINAND MAGELLAN : Circumnavigating the Globe
このふたつの文献は一部、データが一致しないところがあるので、人数、日数など史実が確定できないところがあることをご承知おきください。

マゼランのこの時代、世界一周というのは、今で言えばおそらく太陽系外に出るようなものだったと思われます。
地球は丸いというのは、まだ学説の一つに過ぎず、証明した人は誰もいませんでした。
新大陸アメリカが発見されたのが27年前の1492年、そのアメリカの向こうにまだ海(太平洋)があるらしいとわかったのが、わずか6年前の1513年なのです。
南アメリカ大陸を迂回して、太平洋を横断すればインドやジパングに行ける…とはわかっていても、その太平洋というのがどのような海でどの程度の広さがあるのか、まったくわかっていなかった。

というのも、当時はまだ経度を正確に測定することができませんでしたから(太陽高度などから想定する緯度は、そこそこあってましたが)、大西洋を航海していても、自分の船がこの大海のどの辺にいるのか、実はよくわかっていませんでした。
さらに海外についての知識も不正確で、ゆえにコロンブスはカリブ海をインドだと思いこみ西インド諸島などという名前をつけてしまい、地理の勉強をする現代の中学生を混乱されてくれたわけです。

経度が正確に測定できるようになったのは、なんとビクトリア号から200年以上後の18世紀、ジャック・オーブリーが生まれた頃の話です。
1768年に英国を旅立ったキャプテン・クックの世界一周航海の任務の中には、ほぼ世界初となるこの経度の正確な測定が含まれていました。
それでも、クックと当時の英国海軍には南太平洋の正確な知識がなく、オーストラリアもニュージランドもまだ島とは確認されていませんでした(ニュージーランドが島であることを確認したのはクックの功績)。

ちなみに…、この18世紀の経度の発見を題材に、TV版ホーンブロワーを手がけたA&E社が製作したドラマが「Longitude」。(ビデオ在庫切れですがUS版かUK版のDVDはまだある筈)
ホーンブロワー第一シリーズ同様のクォリティとこだわりの、良くできたドキュメンタリー・ドラマです。
マイケル・ガンボン、ジェレミー・アイアンズ、イアン・ハートと役者さんも演技派ばかり。エドリントン伯爵ことサミュエル・ウェストも出ています。
当時を知りたいという方にはおすすめ。ただしドキュメンタリー・ドラマですから大変に地味です。ドラマというよりプロジェクトXだと思って見てくださいまし。

すっかり脱線してしまいましたが、つまり何が言いたかったかといえば、最初に戻って、
マゼランの冒険航海は太陽系を飛び出すくらい無謀なものだった…ということです。

以前に説明した通り、マゼランはポルトガル人でしたが、母国から援助が得られなかったので、ライバル国であるスペインに乗り換えました。
スペインはスポンサーになりましたが、お金を出した以上は当然この航海の主導権を握ろうとし、副指揮官のホアン・デ・カルタヘナ(サン・アントニオ号船長)を始めとし主要ポストにスペイン人を送り込みました。
もちろんポルトガルはマゼランのこの裏切りを許す筈はなく、船団はポルトガル領に寄港することはできませんでした。
航海は最初から大いなる緊張を抱えていたわけです。

大西洋を横断するよりも前に、マゼランとカルタヘナは衝突、マゼランはカルタヘナを更迭します。
船団はラ・プラタ川付近で太平洋に抜ける水路を探しましたが発見できず、季節は冬へ、悪化する天候にマゼランはサン・フリアン(現アルゼンチン・パタゴニア)付近で越冬を決意。
これまでの困難な航海、先の見えない不安、食料不足。部下たちからは帰国の提案がなされますが、マゼランはこれを拒絶。
そして反乱が起きます。

船団はマゼランのトリニダッド号の他、サン・チアゴ号、ビクトリア号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号の5隻で構成されていましたが、このうちの3隻、ビクトリア号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号が反旗を翻します。
マゼランはビクトリア号に斬り込んで船長を殺害して船を奪還。これで3対2と情勢が逆転し、反乱は鎮圧されました。
首謀者であったコンセプシオン号の船長は処刑、サン・アントニオ号の船長はサン・フリアンに置き去りにされました。

安全な越冬地を探そうとする船団ですが、偵察中にサン・チアゴ号が座礁、沈没。
何とか越冬地を確保し、再び春を迎え、残る4隻はマゼラン海峡から太平洋をめざします。
けれども不満の火種は残っていたのでしょう。海峡の中で船団が互いを見失うと、サン・アントニオ号の航海士が船長に反乱を起こして船を乗っ取り、食料の大半を乗せたまま、勝手にスペインに帰国してしまいます。

マゼラン海峡を抜けてようやく太平洋に出た3隻は、しばらくは沿岸に沿って北上し、南緯37度付近で西に向かい太平洋を横断する航路をとります。
その結果、オーストラリア、ニューギニア島などの北を通過することになり、98日間、陸地を見ずに航海する羽目に陥りました。
地図がありませんから仕方ありませんけど、よりにもよって、途中にもっとも島の少ないルートを。

6週間目の1521年1月中旬から壊血病が広がり始めます。食料は底を尽き、船のネズミやゴキブリも食べ尽くした乗組員は、最後には帆桁の皮や木を削って食料にしたと言います。
13週目の3月4日、トリニダッド号では19名が死亡、20名が衰弱し立つこともできず、動くことが出来たのは数名にすぎなかったと記録されています。
3月6日、北西方向にようやく島を発見、これは現在のグアム島であろうと思われます。

この島で一行は
「食料を略奪したり、住民を殺したりしたが、住民があまりに泥棒をはたらくので、島を泥棒島と名付け、3日ほど留まっただけで出発した」
飢餓状態であったことを考えれば食料を略奪した事情はわかるものの、取られたら取り返すのが人間の常ですから住民が泥棒をはたらくのは当たり前で、グアムの島民にしてみれば迷惑この上ない船団であったことでしょう。

1521年3月27日、マゼランはフィリピンのセブ島に到着します(4月7日という本もあります)。
マゼランはむかし1505年に東回りでマラッカに航海したことがあり、その時現地から付いてきたBlack Henryというマレー人従者がいたのですが、この島の住民にはこのBlack Henryのマレー語を解する者がいました。
そして贈り物として差し出された中国製の陶器を見た時、マゼランは自分が地球を西回りで世界一周したことを確信したのです。

ところがマゼランは、無謀にもここで、この島と近隣のマクタン島をスペインの領土として征服しようとしました。
当然、住民は反撃して戦闘となり、マゼランは1521年4月21日、戦闘中に命を落とします。
マゼランの死については、実はフィリピン人にではなく、彼のやり方に不満をもっていた一行のスペイン人に、どさくさまぎれに殺されたという説もあるようです。

マゼランの死後はデュアルテ・バルボサが指揮官となりますが、彼は間もなくマゼランの従者だったBlack Henryに殺されます。
これもHenryの復讐だったという説あり。
混乱の中セブ島で捕虜となった次席指揮官セラノは、船に残っていたカルバルホ(?Carvalho)に船と自分の交換を求めますが、Carbalhoはこれ幸いと上官のセラノを置き去りに、セブ島を出航してしまいます。

残された船は3隻、乗員は115人。
この人数で3隻の操船は無理と判断したCarbalhoは、コンセプシオン号を自らの反乱の証拠とともに処分し、残る2隻、ビクトリア号とトリニダッド号で海賊行為をはたらくことを決定。
これに対してトリニダッド号のコンスタブル・エスピノザが反抗しCarbalhoを廃し、3人目の指揮官となりました。

エスピノザが指揮をとるトリニダッド号と、エルカノが船長となったビクトリア号はようやく当初の目的地であった、スペイン勢力下のモルッカ諸島ティドレに到着。
ここで船体を修理し、食料と積荷(もちろん香料)を積み込み、スペインを目指して帰国することになりました。
が、ポルトガルが攻めてくるという情報が流れてきたため、2隻は別行動をとることとなり、修理の完了していたビクトリア号がエルカノの指揮のもと先に出航することになります。
トリニダッド号と指揮官のエスピノザは結局、ポルトガル人に捕らえられ、エスピノザは処刑されてしまいます。

難を逃れたかに見えるエルカノのビクトリア号でしたが、それからの航海も決して安楽なものではありませんでした。
インド洋を横断し、喜望峰をまわる航路途中の港はことごとくポルトガルの勢力圏、2ヶ月の間水と食料の補給ができず、結果としてさらに21名が死亡、やむなく夜陰に乗じてベルデ岬諸島のポルトガル領サンチアゴ島で食料と水を補給しようとしたものの、スペイン人であることがばれ、やむなく乗組員13名を置き去りにしたままで出航、1522年9月、ようやくスペインに帰り着いたということです。
ビクトリア号の乗員はエルカノを含め、わずかに18名でした。

エルカノが4番目の指揮官と言われる経緯はこのようなものです。
実は彼は、南アメリカ・サン・フリアンでの反乱時には、反乱軍側にいました。
その彼が最終的に生き残った最上位指揮官として世界一周を果たし、スペインに帰りつくことになるのです。

エルカノの名前は、スペイン海軍の練習帆船として現在も残されており、この帆船が何年か前に来航した時には、私も晴海埠頭まで船内公開を見学に行きました(去年来航したチリ海軍のエスメラルダ号によく似ています)。
しかし、ここまで壮絶なドラマを背負った人だとは、今回詳しく調べるまで私も全く知りませんでした。

ビクトリア号とは、そういう船だったのです。


2005年05月26日(木)