Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
オブライアン5巻、出てますよ〜
パトリック・オブライアン5巻「囚人護送艦、流刑大陸へ」、無事5月25日に発売されました。 本屋さんに行らしてみてください。ジェフ・ハントの迫力満点の表紙画が並んでいます。
以下最終的なねたばれはなしで参ります。 コメントは「あとがき」に関するもので、本編に関係するものではありません。 テーマは「英語と日本語と読後感について」といったところでしょうか。
オブライアン5巻、早い本屋さんでは昨日の夕方に並んでいたので、早速入手して夜にぱらぱらめくっていましたが、やっぱり日本語だと速く読めますねぇ、私これ原書で2ヶ月かかったんですけど、翻訳だと一日で読了してしまわれる方もあるでしょう。これだけ波瀾万丈だと、たぶん途中で止まらない(止められない?)。 でもちょっとそれ、勿体ないかな。 …というのも変かもしれませんけど。 この迫り来る恐怖と襲いかかる苦難は、リアルタイムで2ヶ月間味わうと、じわじわと来るのでございますよ。
上巻の伝染病のシーンを1時間ほどで通りすぎてしまった時に「なんだか英語で読んだ時と恐怖感が違うわ」と。 もっとも私の場合は読んだ時期が時期だったということもあります。 私が5巻を読んでいたのはちょうど2年前の春、中国と東南アジアでSARSが大流行し、新聞には毎日、本日の発症者数と死亡者数が載っていた時期でした。 私の勤務する部署は海外出張者が多いものですから、全くもって他人事ではなく、毎日家に帰るとぴりぴりとして手を洗っていました。 そんなこともあって、この5巻は私には忘れられない1冊になっています。
などとつらつら考えながら「訳者あとがき」にたどりついたもので、この英語と日本語の読後感の違いについてはまた、今度は別の観点から考えてしまいました。 今回、翻訳者の大森洋子さんが書かれた「あとがき」にはいろいろ考えさせられることが多く、さすが同時代の海洋小説を6作品訳された大森さんならでは…と感心しています。 もう一つの、画家ジェフ・ハントの語る「英国で何故、海洋小説が人気か?」から考えてしまった問題は後日別項で語らせていただくとして、 ここでは、あとがきの冒頭に書かれていた登場人物の対等関係と、英語と日本語の読後感について。
大森さんも指摘されている通り、オーブリーとマチュリンのほぼ対等な人間関係というのは、海洋小説では確かに極めて珍しいものです。 海軍は上下関係の厳しい社会で、軍隊である以上、指揮官には絶対服従ですから、対等の関係を探すのは、サハラ砂漠で氷を見つけるようなもの。 他の同時代の海洋小説シリーズをざっと振り返ってみても、このような関係はちょっと思いつきません。 ニコラス・ラミジ艦長と商船船長のシドニー・ヨークは対等の友人ですが、これはヨークが同じ船乗りでも民間人だから成り立つのであって、同一指揮系統にあったらこうは行きません。 ゆえにヨークはあくまでゲスト出演者であって、シリーズのレギュラーにはなれません。
なぜオーブリーとマチュリンにはこの特殊な対等関係が成り立つのか?と言えば、もちろんオーブリーのおおらかな性格が基本にはありますが、マチュリンがその裏稼業ゆえに、時に単なる軍医以上の権限を持っていることが、対外的にはものを言っているのだと思います。 4巻のモーリシャスの例を引くまでもなく、マチュリンには別系統から独自の権限が与えられていますから、この二人には指揮系統上の上下関係が生じない場合がある。 任務遂行上の必要性から、サー・ジョゼフがマチュリンに、臨時で勅任艦長待遇(オーブリーと同等の階級)を与えたこともありましたし。 第二次大戦を舞台にした海洋小説では、艦長と同一階級の情報将校が派遣されてくるものもありますが、19世紀のこの時代、このようなことは普通には考えられません。 もっともそれを指揮権の混乱なく上手く治めているのは、オーブリーの器量なのでしょう。
ただしこの二人、とくにオーブリーは公私を意識して使い分けていて、公の話をする時はマチュリンをドクターと役職で呼んで、ファーストネームでは呼びません(※)。 でも逆に言うと、英語上は、この相手の呼び方以外には、あまり上下関係や公私を区別する手段がないんですね。 日本語で訳された時に、プライベートゆえにくだけた口調になる部分も、もとの英語を見ると意外と、使っている言葉は変わらない。 結果として、先に翻訳を呼んだ場合と原書を読んだ場合、吹き替えで見た場合と原語で見た場合で印象が変わってしまうことがままあります。 ※注)M&Cの艦内呼称については、2004年4月22日の日記参照。
その典型はたぶん、ホーンブロワーの第3シリーズでしょう。 あれとて、話している英語そのものは意外と、日本語訳ではブッシュがホーンブロワーに硬い敬語を使っている原作とあまり変わらないのだと思います。 ただTVではキャラクター解釈が違いますし、その結果、役者さんから受ける印象も違う、TVの吹き替え翻訳者はその印象から台本を作っていて、さらに吹き替えた声優さんの声質の印象も加わると、ハヤカワ文庫の翻訳とはかなりかけ離れたイメージが出来上がってしまう…と。
リチャード・ボライソーとトマス・ヘリックは、艦長と三等海尉として出会って、艦長と副長、共に勅任艦長の同一階級時代を経て、司令官と旗艦艦長、さらに司令官と副司令官…と立場は変わりながら総計35年に及ぶのですが、翻訳では基本的にヘリックはボライソーに敬語を使う訳になっています。 部下だった時は相手への呼びかけが「サー」でしたから、敬語訳で間違いありませんが、同一階級になって相手を「リチャード」とファーストネームで呼んでいても、勅任艦長時代は敬語が残っていた。 これ英語では、話し方に差があるわけではありません。オーブリーとマチュリンのかなりくだけた口調になっている英文と比べても、大きな差はありません。 でも、ここに敬語を残してしまった翻訳者の気持ちはわかるんですよね。日本人の感覚としては、たとえ今は同一階級でも、一才年上の以前の上司を前にしたら、やっぱり敬語が出てしまうものでしょう。 翻訳も20巻を過ぎ、ともに年齢を重ねて将官になってからの会話は、ときどきこの敬語が落ちるんです。 そうすると何だか急にヘリックがぞんざいな口調で話し始めたような気がして違和感を感じる…と以前に海洋小説系の掲示板で話題になったことがありました。 けれどもこの英語も、実はかつて同一階級だった勅任艦長時代の会話と、大差があるわけではありません。
大森さんのあとがき想定の中には、ボライソーとヘリックは対等な関係ではない、という仮定があるでしょうし、私もそれには同意します。 実際の上下関係以上に、軍人としてはボライソーの方が器が上なのは事実ですし、でも私生活の部分では、ちょっと家庭人としては問題ありすぎな人ですね、リチャードは。 そして、ヘリックが友人として苦言を呈しているのは、この私生活の部分が多く、その点では彼は引きません。 トータルで考えると、意外とこの二人の関係というのは、対等とはいえないまでも、日本語翻訳を読んでいる印象ほどには上下がはっきりしたものでもないのではないか…と最近ひそかに考えている私です。
2005年05月25日(水)
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