umityanの日記 DiaryINDEX|past|will
昨日(8月25日)は、高校の同窓会のために故郷を訪れた。母にも会いたかったのでちょうど良かった。なんでも、我々の卒業年度が今年の同窓会の幹事役(世話役)とのことで、地元にいる仲間達は早い時期から準備やら設営で、大変だったようだ。こういうときは遠方にいる人間は、とりとめて手伝うこともなく得をするが、よく考えてみると、出席に旅費がかかるので、まあ、おあいこか。同クラスの気心の知れた仲間とはちょくちょく会って、盃を交わしているので、驚きも少ないが、十年ぶりとか、それ以上会っていなかったクラスメイトや、同窓生と再会すると懐かしく、お互いに生存していたことへの喜びに包まれ、目頭があつくなる。男はたいてい、額の毛のはえぎわが見事に後退し、照り輝いている。「わおおーーー、随分理知的になったなーー」と言えば、これは誉め言葉であると同時に、お互いに年取ったなああという哀れみ感が同居している。かたや、女性人は、でっぷりと貫禄のある人もいれば、相変わらずスタイル抜群を維持している人もいる。彼女らの共通点はお化粧により、顔に高校時代の面影を見出すことが困難なことである。旧姓を聞いて、「ああああそうでしたか。すっかりおきれいになって」と、一言お誉めの言葉を。すかさず、女性人より、「あら、まるまるさん。すっかり口が上手になって。皆に同じこと言っているのでしょ。」とやり返される。おお、恐い恐い。お互いに年は取りたくないものだ。ひとしきり、生存の喜びで、ピーチクパーチクとさえずり、いよいよ時至れりで、同窓会会長や名誉先生の挨拶後、乾杯となる。いつもながらの風景である。丸テーブルには、ところ狭しと料理が並べられている。僕はいつも思うのだが、料理が残ること、残ること。「なんかもったいないなあーー」。だからと言って少なめでは、「料理が淋しいなああ。予算が緊迫か?」。人間ってどこまでわがままで、贅沢なんだろう。そう言いながら、僕もせっせと箸を通わせ、料理に舌鼓を打った。まさに現金な僕である。続く。
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