umityanの日記
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2001年07月17日(火) |
ホスピス病棟に叔母を見舞って(3)-(6) |
僕はインターネットで予約していたホテルへ向かった。大きなホテルかなと思っていたが、そうでもなかった。値段も安いからこんなものだろう。すんなり、チェックインできた。やせ衰えた叔母の姿が頭から離れず、どうも、ホテルで静かにテレビを見ている気にはなれない。シャワーを浴びて、食事にいくことにした。海とも山ともつかない異国の地で、一人街をさまようのも淋しいものだ。こんな時、フレンドでもいれば、少しは心もやすまるのだが、現実はなかなか思うようにはいかないものだ。 駅の周辺をうろうろしていたら、こじんまりした小料理屋を見つけた。中に入ると、中年のママさんが一人と、お客が一人いた。カウンターがあって、冷凍庫のなかに、魚が安置されていた。早く食べてもらいたそうな目をしていたが、どうも、食指が動かない。とりあえず生のビールに枝豆と冷奴を注文した。ここの店は居酒屋みたいに、値段が壁に貼ってあり、良心的な店のようだ。湿度が高く、汗びっしょりだったのでビールがおいしかった。中ジョッキで生を二杯も飲んでしまった。つまみはと言えば、冷奴の次が、鮭のオイル揚げ----これは本日の目玉商品らしい。、イカ納豆、これが実においしかった。ビールの次に焼酎のお湯割を頼んだ。やがて、サラリーマン風の客が数人やって来た。ビールを飲みはじめた。ほぼ小1時間たっただろうか。時計は8時を回っていた。さああ、アルコールはそこそこ飲んだ。最後に「おにぎりはないかなあ」と言ったところ、シャリ、ご飯はありますとの事。「じゃあそれ、お願い」と言って、漬物で食した。いやあああ安上がりのうえに、味も上々。とりあえずホテルに戻ることにした。まだ9時前である。夜のネオン街に繰り出すには、金は十分でも、心が今ひとつ燃えない。叔母の見舞いが本題に付き、静かにベッドで横になることにした。(続く)
ほどよく利いた空調のせいか、ぐっすり寝込んでしまったようだ。朝は5時半に目がさめた。場所が変っても、目はほぼ同じ時間にさめる。朝食には早いし、もうひと寝入りすることにした。おお、もう7時半か。深寝入りをしたようだ。すぐおきてシャワーを浴びた。今流に言えば「朝しゃん」ってとこだ。8時に朝食に下りた。和食と洋食。朝はやはり和食が良いようだ。例によって、卵、のり、味噌汁、鮭に漬物。お決まりのコースである。この程度が胃にもたれずによい。 さあ、今日は時間の許す限り、叔母のそばにいてやろうと思った。9時に病院に到着した。それにしても、患者さんの多い病院である。朝から一階は外来の患者で、ごった返していた。僕は7階へ急いだ。7階はまるで、まだ深い眠りの中にあるかのごとく静かだった。案の定、叔母も息苦しそうに寝ていた。僕が来たことにもきずいていない。看護婦さんたちに挨拶をして僕はベッドのよこの椅子に腰掛け、叔母の眠りにあわせて、うつらうつらすることにした。もちろん、真のねむりではない。頭の中はピリピリしていた。10時ごろ、看護婦さんが様子を見にやって来た。いや、まず驚いた。ホスピス病棟の看護婦さんたちは、それはそれは、親切丁寧、思いやりのある言葉使い、すべてにおいて、普通の病棟の看護婦さんたちと違って見えた。別に看護婦さんたちの良し悪しを比較しているのではない。心のケアを中心とした看護であれば、当然と言えば当然なのかもしれないが。今日、叔母を担当する若い看護婦さんが僕に話があるという。僕は個室に案内された。多分、叔母のこれから先の運命と言うか、状況についての説明でもあるのだろう。僕は何をいわれても、心の準備は出来ていた。もちろん、看護婦は自分の領域を越えてしゃべることは出来ない。僕は単刀直入に聞いてみた。「叔母の余命はあとどのくらい?」。もちろん彼女に答えうる資格はない。ただ、察するに、年を越すことは難しいようだ。看護婦さんは僕に聞いてきた。「叔母さんはどういう性格の方で、どんな趣味をおもちだったのですか?」今後、叔母に接していくときの参考にしたいとの事だった。なるほど、ホスピスとは、家族同然の一体となった心のケアをめざしているのだと言うことを理解した。確かにそうだろう。どんなに、医者や、看護婦や、設備が優秀であっても、家族同様の心のケアがなくては、患者の本当の心の平安は得られないのだ.僕は叔母について知っていることを彼女に告げた.また彼女は担当医ではないが、チームを組んでいる医師を紹介するから、聞きたいことがあれば聞いてくださいと、医師との接見を取り計らってくれた。 思ったとおり、叔母の余命は年を越せそうにはなかった。(続く)
もうここまでくれば、一気に書かねばならないだろう。日が経つと、心の高ぶりもしぼんでしまうからだ。ホスピス病棟に移ったと聞いたときに、叔母の余命について、ある程度、覚悟を決めていた。驚きはしなかった。よく人が「人生は命の長さが問題なのではない。いかに命を燃焼させたかが問題である」と言う。こういう第三者的表現には大いに嫌悪を感じる。命の燃焼がどうこうのなんて、本人以外には分かるはずもないではないか。本人にだって分からないかもしれない。ただ、叔母は自分の余命を知ってか知らずか、ホスピスに身を投じ、達観として生を全うしたいと心に決めたのだろう。僕には叔母が「十分に命を燃焼させた」なんて、到底思えない。生も死も人生の裏表。ただ形をかえただけであり、宇宙の真理、絶対的なものは、何も変っちゃいない。要は宇宙に生まれ宇宙に帰っていく。これが、絶対的真理であり、さけられない宇宙の法則である。叔母はたぶんあきらめと同時に、そういう宇宙の真理にきずいたのだと思う。僕はそう思って叔母の最後を見取ってやりたい。今、そう考えている。 昨日と違い、今日の叔母は始終、眠ったり、移ろう眼で僕の顔を眺めているだけだ。僕は「ゆっくり休んで」と、笑顔で応えるのみ。時が流れて、昼を告げた。昼食だ。僕は叔母に外で食事をしてくるからと言い、しばらく、ベッドから離れることにした。(続く)
病院の外へ出た。蒸し暑い。何でも梅雨が明けたとテレビかラジオが言っていたそうだ。今の僕には関係のないことだった。ぶらりと近くを歩いてみることにした。どこにいってもあるような平凡な風景。そういう印象だ。レストランか喫茶店か、そういう店を探して歩いた。病院の周りを一回りする頃、小さな喫茶店を見つけた。中に入ると業務用の埋め込み式エアコンが気持ちの良い風を僕に送ってきた。小気味の良い中年の女性と愛想の悪いアルバイト風の若い女性がいた。僕は昼の定食を告げると、中年の女性が、今日は昼の定食(いわゆるサービスランチのこと)はありませんときた。「えええっ、そうか今日は土曜日で、サラリーマンはお休みか」。ぼくは自分に納得しながら、メニューを見て、「冷やめんにしようか」言ったところ、すかさず「冷麺でしょう?」と訂正されてしまった。「なるほど」と言って思わず笑ってしまった。ここは日本といえども異国の地なのだとあらためて、自分のいる場所を確認した。 30−40分いたであろうか。そう美味くも感じない冷麺を食し、アイスコーヒーを飲んで、病院に戻った。 叔母はベッドに座って食事をしていた。というより、はしは、もう動いていなかった。おもむろに、お膳を下げて欲しい旨を看護婦さんに告げ、再び横になった。ちょうどそのとき叔母の母方のいとこがやって来た。もちろん僕は初対面である。なんでも、こちらには叔母の母方の親戚は結構、いるのだそうだ。それも、ほとんど、いとこで、叔母の母方の叔父、叔母はもう亡くなっていないのだそうだ。僕は数少ない父方の親せきである。そうか、叔母は孤独ではなかったのだと、少し安心した。いずれにせよ、近い将来、父方であれ、母方であれ、親せきは何らかの形で顔を合わせることになるのだろう。ひとしきり、今までのいきさつや、今後のことを話し合った。こういう機会がもてたことは、今回の見舞いは良いタイミングだったのかもしれない。 午後2時を過ぎた。もうお別れを言わなければならない。いとこが来てくれたので良かった。 僕は叔母の手をとって、言わないつもりだったことを言ってしまった。「叔母さん、病気なんかに負けちゃいけないよ。やっつけなくちゃ。たくさん食べて体力をつけなくちゃ」。ホスピス病棟は病気の治癒の為に、励ますところではないと分かってはいたが、思わず言ってしまった。励ましてしまった。後悔はない。僕は叔母に手を振った。叔母もじっと僕を見据え、手を振った。「またくるからね」という言葉を最後に僕は後ろを振り向かずまっすぐ、病院の外へ出た。(続く)
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