umityanの日記
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2001年07月19日(木) 海の日に寄せて

7月20日は祝日、海の日だ。海と言えば、思いでもたくさんある。遠くまで泳げることを自慢したくて、一人で沖まで行き、なんだか急に恐くなり、あわてて岸に戻ったこと。「ああああ、だれも注目していない。疲れたなあ」と、がっかりしながら泳いだこと。山瀬まみさんではないが、海にぽっかり浮かんで流れ行く雲をみていたら、いつのまにか、あらぬ方向に流されていて、大慌て。時には海の中で、縮んで丸くなった一物を取り出して、太平洋に放尿したこともあった。沖の場合は、誰にも疑われずに処理できるが、人が一杯のところではそうもいかないようだ。冷たい海水の一部分がやけに、生暖かくなり、「おや変だぞ」と気付かれてしまう。おまけに、あぶくが「ぶくぶく」と浮かび上がってくる。何もしらずに、その海水を口に含んでははきだし、呼吸をしている人もいる。おめでたいことである。これは、かならずしも、僕の経験ばかりではなく、友達をも含めた経験であることをまず、断っておかなければならない。「弁解がましいぞ」と言われそうであるが。いずれにしても、生命が海から生じたのであれば、われらは「海の子」である。しかるに、長い地上生活は、われわれを「海の子」から「山の子」というか、「平地の子」へ、変えてしまった。最近、泳げない人が結構いるそうである。確かに、小さい頃から水泳教室に通わされて、プールで泳ぐことは得意な人も多いが、海となると事情は違う。海は塩辛いし、寄せては返すし、生き物だから、扱うのが厄介である。プールのようには、うまくいかない。海では、オリンピックみたいに早く泳げなくても良いが、少なくとも海に体を任せ、いつでも一体感を体得できるようになれば幸いである。その海であるが、最近、どんどん汚れてきている。われわれの先祖が海から生じたことを思うとき、海を汚くは出来ないはずだ。海は甲羅を焼くところではない。母なる海の懐に抱かれて、悠久の歴史に思いをはせる場である。「海をきれいにしよう」。「海で泳ぐことに慣れよう」。「決して自信過剰になってはいけない」「海に優しく抱かれよう」。海の日に寄せてなんだか、説教じみたことを書いてしまった。


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