エース 5 - 2006年10月29日(日) ■幸せ 「神山君…、想像してみて。」 「そんなに遠い未来の事じゃないの…想像してみて」 蒼衣さんは一人暮らしだが、このマンションは一人暮らし用のものではなかった。ましてや一大学生がここに住むとなると、手に余るものがあるだろう。何でも家の訳ありのようで、母親が自分に「要らない」お金を使ってくれるのだという。察して、離婚した際の慰謝料といった所だろうか。だが真相を確かめるまでも無く、彼女はそれを俺に話した。 「まぁ、不倫が原因だから。それにお父さん結構有名な人らしいし」 俺がほぼ昼に近い朝食を食べているにも関わらず、目の前の彼女はコーヒーを飲んでいる。 「有名?どんな人?」 「………。秘密」 引っかかる要素は十分にあったにしろ、それ以上追求する気にもならなかった。 「……昨日は、悪かったッスね」 俺が食べた後の片づけをする蒼衣さんの後姿を見ながら、聞こえるように呟いた。なんとも情けない自分の一面を垣間見ているような気分だ。いや、実際そうなんだろう。 「…何が?」 それ故、そんな答えが返ってくるのは想定の範囲だった。 「いや、その、シーツ…とか汚したし…血で」 あぁ、と一言言うと、彼女は振り返り皿を拭き始めた。 「まぁシーツ汚れたのと、あの痛さは計算外だったわ」 「…いや」 「でも、なんだか…嬉しかったけど」 「…漫画の読みすぎだろ」 「それはあなたよ」 俺は正直彼女の気持ちを信じていない。未だに「何が目的だ?」なんて考えてしまっている。しかし、昨日も感じていたこの妙な抱擁されている感が持続しているとは、なんとも自分でも不思議な気分だ。その間、考え事をしていた俺に蒼衣さんは言った。 「なんなら、シーツ洗う前にもう一回する?」 甘美な響きではあったが、自制が利いてしまう。 「いや、こんな昼間っからそんなことばっかするのはサルもいい所だ」 「…そうなの?」 「あぁ、そうだ。今日は出かけよう。映画でも見に行こうじゃないか。」 蒼衣さんはこれ以上、俺に縋ったり甘えてくる事は無かった。街中を歩くにしても腕を組んできたり手を繋いだりすることはない。いつでも俺の半歩後ろを歩く。人ごみの中でも上手い具合に人を避けてついてくるので、普通に歩くペースで進める。その上優柔不断な所は見せず 「何観ようか…」 「うーん、最新のもいいけど、観たかったのがそろそろ終わるから…それで良い?」 映画を見終わった後 「蒼衣さん、なに食べたい?」 「えっと…うどん」 何でも良いという答えは一度も返ってこなかった。 誰でもと言ってしまうのは過言になるかも知れないが、少なくとも自分の中で彼女にするには完璧な女性だと思う。月見うどんを啜りながら彼女は言った。 「何でも良いって言われたら私は困るの。だからちゃんと具体的に答えるようにしたいって思うだけよ」 ご尤も。 しかし人間的に弱点が少ない様に見える彼女でも、部屋に戻るとちょっとした女の子らしさを出した。俺が荷物を片付けて自分の部屋に帰ろうとするときに 「神山君、また来てくれるよね…?」 逆にそんな弱さは有り難かった。誰でもそうだろう。こんな素敵な女性にそんなことを言われてしまうと、抱きしめてキスしたくなるだろう。無論、俺もその中の一人だ。 次は蒼衣さんが俺の部屋に来る事を約束して、俺は彼女の部屋を出た。帰り道、オレンジレンジの「ラヴ・パレード」の一節を思い出し、口ずさみながら歩いた。さすがに帰って直ぐに部屋の掃除をしなければならないことは無いが、やはり、片付けないと駄目だ。今の状態だときっと彼女は、俺の部屋を掃除するに違いない。 先週末の俺の話に、堺はともかく奏さんは目を輝かせた。 「うわー、やったなぁ、神山君!!」 「い、いや…」 何故か奏さんは自分の事のように喜んだ。 「ほんまや。来るなりお前、そんな青臭いの思い出すような髪形してきおってからに。おまけにこんな美人の彼女捕まえるとはなぁ」 前に見た蒼衣さんの記事が載っているページを見ながら堺はぼやいた。 「別にまだ…彼女となったわけでは…」 「ないの!?」 奏さんの食いつき様は凄い。そんなにこの類の話が好きなんだろうか。…それでよく堺とやっていけると思ってしまう。 「ま、まぁやってることは限りなく恋人っぽいけど、お互いそんな確認なんてし合ってないし」 「あー、なんか、ヤり逃げしようとか考えてない?」 「じょ、冗談じゃない!あんな素敵な人逃がしてたまるかよ」 「…じゃあ、束縛って言うんかな。形きっちり決めてしまうのが嫌とか、そんな感じ」 まさしく、それかも知れない。自分の正直な気持ちが語れない今は、それが一番近いとしか思えないが。 それから奏さんはありとあらゆるアドバイスを俺につぎ込んだ。半分以上覚えきれなかったが、彼女なりに必死になってくれていたようだ。それが自分の体験談からくるものだとすれば、堺に不満でもあるのだろうか。…あるんだろう。 バイトのシフトが深夜だった。上がり際、久々にバッターボックスと言う物に立ってみた。不思議といつも感じる、嫌な思い出による左肩の違和感はない。向かってくるのは、120km/hの球。快音を響かせて、右に打ち返した。 「おー、やるもんですねぇ!」 後ろから声。今日のバイトのシフトが同じだった川瀬さんがそこに立っていた。黒が基調のパンキッシュな格好。しかし似合っている。 「そぉいうの、職権乱用って言うんじゃないですか?」 俺はバッティングの構えを解いた。飛んで来たボールはキャッチャーの絵が描かれたゴムのカバーに鈍い音を立ててその勢いを止められる。 「ちゃんと店長の許可は取ってるよ。いつも真面目に出勤してんだから、こういうこともあるよね」 また次の球が飛んできたのを見送って、バットを構えなおす。次の球は、また右に打ち返してしまった。センター返しを狙っていたのに、蒼衣さんのようには上手く行かないものだ。 「バッティングも上手いんですねぇ…」 俺の後ろのネットに指を引っ掛けて川瀬さんは言った。 「バッティング『も』ってなんだよ」 「『蒼衣彩華』さんに取られるのも、ムリ無いかぁ」 ボールがズバッと、ゴムカバーに決まる。俺がスウィングして無いので、当たり前だが。 「…今、なんて?」 「……もう!こっち向かない!ほら、ボール来ますよ、振ってください!勿体無いじゃないですか」 俺は慌ててボールを打ち返した。振り遅れの、ボテボテの打球が左に跳ねていく。その後は、会話も無しに20球あまりのボールを打ち返していった。午前3時のバッティングセンターに、どこからか聞こえる機械の作動音と金属音のみが響いていた。川瀬さんはずっとそれを見ていたようだ。 バットを定位置に戻すと、川瀬さんと目が合う。 「たまにはね、打ちたくなる時もあんのさ」 「…これ、あげます、お疲れ様でした」 差し出されたコーヒー缶を受け取る。俺がいつも飲んでる銘柄だった。 「お、いいの?ありがと。」 いいえ、と一言言うと、川瀬さんは受付の方を見ながら呟く。 「よく打ちますよね、あの人も」 「あぁ、蒼衣さんか」 「神山さんの球でも、打ち返すんですかね」 俺が甲子園経験者と知っている人は、ここのバイトでは川瀬さんだけだ。一時注目された甲子園球児など、2年も経てば誰もが忘れるものだろう。俺もそっちの方が有り難かった。 「だろうね。でも、どの道今はムリだよ。ストライクも投げれやしない」 「…そうですか」 川瀬さんはうつむく。どうしたものか。顔もさっきとは打って変わりといった感じだ。 「…ん?どうしたの?」 「蒼衣さんも、神山さんがボール投げてる姿が好きだったんだと思います」 「………」 「だから、あのポラノイドも、神山さんが撮った時だけ、笑ってるんですよ?気付いてますか」 それは最近、薄々ではあるが気付いていた。彼女の違う表情を見る機会が増えた今では、僅かな顔の違いもなんとなくわかる気がする。 「悔しいんですよ。蒼衣さんが、羨ましくて仕方ないです」 気付いた時に、酷く心が揺さぶられた。川瀬さんの目には涙が溜まっている。 「な、何が?」 間が持たない。 「…あたしは、神山さんのことが好きだったんです!」 ぬるま湯をぶっ掛けられた気分になった。何も言えない俺を放っておいて、彼女は続けた。 「そりゃ気付いてくれっていうのは無理な話ですけど、あたしなりに頑張ってたつもりなんです。今はあたしにも彼氏いますけど、それは神山さんに女の子に対して興味がないんだって言い聞かせて諦めたのに、あっさりあんな美人な人に持ってかれちゃったら悔しくて仕方ないじゃないですか!掘り返しちゃうんですよ!!」 「…す、すまん」 「もう、謝らないで下さい!!…神山さんはちっとも悪くないじゃないですか!完全にあたしのエゴなんですよ?わかってて言ってるんです、反論したってそれが正しいです。しちゃいけないってわかってるんです。…もう、こっち見ないでください!」 ヒステリー気味の彼女を宥めることもできず、突っ立っている俺。一体何を言えばいいのかわからない。もし蒼衣さんならなんて言うだろうか。 「ごめんなさい…ほんとに、ごめんなさい。彼にも申し訳ないです。こんな優柔不断な気持ちで付き合わせて。」 「…あのさ、川瀬さん。それは誰も責めるべきじゃないよ。自分でもそう。」 「………」 「一つだけ、一つだけなんでも頼みごとしてくれないか?何でもいいから、それでお互いチャラにできないかい?」 少し間をおいて、川瀬さんは赤い目のまま、顔を上げた。不敵な笑みが俺を凍りつかせる。 「じゃあ…」 「ホントにこんなんでいいの?」 「いいんです。もうどこも閉まってますし」 「うーん。別に今夜じゃなくても良いと思うんだけど」 「ほっといてください。あたしがそうしたいって言ってるんだから」 「…わかったよ」 公園のベンチで2列の曲がった湯気が立つ。コンビニで買った298円のカップラーメンを、川瀬さんは美味しそうに食べている。 「うーん、やっぱカップ麺はどこまで行ってもカップ麺ですね」 美味そうに食べてるじゃないか。 「まぁね、確かにこれが屋台のラーメンなら最高だね」 星空。今日は空気が澄んで、星がよく見える。しかし今は午前4時。もう少ししたら明るんできて星が消え始める。 「今の彼氏は、『当たり』なんです」 「あんまり良い言い方じゃないな」 「あはは。でも、ホントなんですよ?神山さんのこと忘れられるようにって、別にいいやって感じで付き合い始めたんですけど、好きになる人間違えたって思っちゃいました」 言ってくれる。しかしそれだけ吹っ切れているということだろう。彼女の笑顔を直に見ることができて、素直に嬉しいと思った。 「誰かが言ってたんだ、女は自分を幸せにできない男を好きになるんだって」 その俺の言葉を聞いた蒼衣さんは、いかにもつまらなそうな顔をした。 「悪酔いしたらろくなこと言わないわね」 「…そんなことねぇよ。いつもだよ」 「で、神山君は私に何が言いたいわけ?」 「蒼衣さんは幸せになりたか無いのかい?」 蒼衣さんは立ち上がり、俺の頭をグーの尖った部分で殴った。激痛を伴う、ゴッという鈍い音。 「ぃって!!」 「それ以上つまらないこと言ったら、今度は本気でやるわ。きっと血が出るわよ」 それは御免こうむりたい。 「今日はもう寝ましょ。今日の神山君は変だわ」 「…そんなことねぇよ、いつもだよ」 蒼衣さんは手を振り上げた。 「わ、わかったわかった。じゃあ風呂入ってくるよ」 下手に酔いが覚めてしまい、下着を準備してに風呂場に行こうとした。 「…私は今幸せだと思ってる。それは否定されたく無かったの」 俺はドアノブに手をかけたまま、回せなかった。蒼衣さんはテレビの方を向いたままだった。 「でも、殴ってごめんなさい。…痛い?」 謝ると言う事は、彼女にとっても不本意なものだったのか、そう思うとやはり、自分がつまらない存在に思えてくる。 彼女に幸せを与えられることと、同時に悲しませてしまうこと。板ばさみだ。俺は彼女のために、少しでも良くあるべきなのだ。 「…いてぇよ、氷嚢用意しといてくれ。頭冷やすのに、丁度いいから」 頭を洗う時に、彼女の拳がどこに当たったのか、良くわかるほど痛みは残っていた。半分は冗談のつもり。わかっている。「今は幸せ」。それも嘘じゃないんだろう。 「神山君…、想像してみて。」 「そんなに遠い未来の事じゃないの…想像してみて」 しかし、蒼衣さんは寝言でそう言った。 俺に何を求めているんだ。わかってるよ。でも、あんたが望むモノに、俺はもう成れないんだよ。だから俺に求めるのが嫌なんだろう?想いを打ち明ける事が荷物になるって、そう思ってるんだろ。 「蒼衣さんも、神山さんがボール投げてる姿が好きだったんだと思います」 知ってるよ。俺も、あの時の自分が、一番好きなんだ。 戻りたいよ。 戻りたいんだよ、俺だって。 でも、期待されると、重いんだよ。 応えたい。 成りたい。 できない。 離れたくない。 頭の中がぐしゃぐしゃのまま、風呂場から出てしまった。テーブルの上には氷嚢が置いてあった。それを頭に当てて、部屋を見回したが、彼女の姿はなかった。 案の定、ベットが膨らんでいる。何も言わずに、俺も身体を潜り込ませた。間を置いて、寝ているフリをしていると思っていた背中から、声がした 「歯磨き、した?」 「うん、したよ。蒼衣さんは?」 「私も、した」 寝返り。唇を合わせてくる。 「でもお酒臭いわ」 「…悪かったな」 俺は、できる限り、この人の期待に沿いたいと思う。今が幸せでも、それ以上を望む。素直になれないのは悪いと思うけど、許して欲しい。 想像してみよう。そんなに遠い未来の事じゃなく。もっと現実的で、温かいモノを。自分にだってできることは、他にもたくさんあるはずだ。 想像、してみよう。 -
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