エース 2 - 2006年07月19日(水) ■左 ただでさえ暑い季節。さらに熱気がたかまる場所に、俺は立っていた。手にグローブをはめている腕で吹き出る汗を拭う。試合の状況は7回表、1対0。守備では大会随一のチームから奪った一点。その味方にもらった一点は、あまりにも大きく、そして重い。しかしその重さが、また俺の力になっていた。左肩に、力が入る。込めた力がどこにも逃げないように、俺は静かだった。このバッターで、この回の表は終わる。終わらせるのは、他でもない俺だ。 構えて、キャッチャーミット目掛けて一気に左腕を振り抜いた。その日最高のストレートがバッターの胸元近くを襲う。彼はバットを振ることしかできなかった。そして、高鳴るボールがミットに収まる音。観客の歓声。これで19個もの三振を奪った俺も、吠えた。 何もかもが、上手くいっていた。最高の日だ。思ったところにボールを投げられる。思ったように、相手から三振を奪える。 甲子園初出場のチーム。しかしメンバーは、カードゲームで言うなら勝利を確信できる役が揃った。そんな年だろう。経験不足の監督も、まさか自分の率いるチームがここまで来るとはとは思ってもなかっただろう。指示を出す声も、若干震えたり、裏返ったりしている。 決勝戦まで、あと一勝。 8回表。 前の回の味方の援護は無い。それでも、俺の勢いは留まる所を知らない。4番打者を、ストレートで三球三振。5番打者は変化球を絡ませて三振を奪った。これで奪った三振は21個目。相手に本塁打も、安打も、死球も、失策も与えない、完全試合が見えていた。 ここに来て、俺は緊張を感じていた。6番打者。初球、内角を抉るストレートを狙う。しかし 「……っ!」 左肩に、亀裂が走るような違和感。それが、ボールに伝わってしまった。堅実な野球が持ち味の相手チームだ。力のない球を、この日初めてでも見逃すわけがなかった。 ――快音。 相手チームに始めての出塁を許してしまった。場内はため息に包まれる。観客は俺に、勝利以上のものを求めていたのだ。観客だけでなく、チームメイトも、俺自身も。ここまで引っ張ってきた糸が切れたようだった。そんな俺を案じてか、キャッチャーの岡村がマスクを外しながらこちらに寄ってきた。 「大丈夫か?さっきの球変だったぞ」 汗を拭きながら俺は答える。 「…大丈夫だ。少なくとも、この7番は打ち取るよ」 そういうと、岡村は俺の腕を2回、軽く叩き守備に戻る。 しかし、なぜか上手く行かない。それまで思い通りだった球は荒れた。カウントもそれに伴いノーストライク3ボール。しかし、ここで逃げるわけにはいかない。俺は先程投げた最高のストレートを頭に浮かべた。あれなら、絶対打ち取る事ができる。 呼吸を整える。キャッチャーはミットをバッターの内角高めに構えた。投球モーション。力をためて、速く、鋭く。一気に振り抜… 「…っっ!!」 その時、俺の肩にあり得ないぐらいの痛みが走る。弾丸で肩を打ち抜かれたような。ボールの行方を確認することもできず、俺はその場に蹲った。 「おい!神山!?どうした!?」 「ぅあ…ボ…ぅは?」 「しっかりしろ!?何だ?どうしたんだよ!!」 必死で上げた顔の先にいたのは岡村。何をしている。試合はどうなったんだ。 「ぼ、ボールは、どうなって…。ランナー…は?」 誰かがまた走り寄ってくる音が聞こえる。場内は騒然となっていた。 「…ホームランだよ」 言葉の意味がわからなかった。 「ぇ…何だよ、守備に、戻ら、ないと…」 立ち上がろうとする俺をチームメイトは取り押さえた。 何をしているんだ。俺たちは勝たなければいけないんだろう。勝利はあともう一歩なんだよ。 ボールがバットに当たる音なんて、聞いていなかった。だが意味を理解してしまった俺は、再びそこに崩れた。そして、襲い狂う肩の痛み。 「…ぅ、あ、ああああああああああぁぁっっ!!!」 気が付けば、チームメイトではない誰かに、担架で運ばれていた。観客の声は、その時はもう遠くのものだった。 試合後。 自分達のチームは、1対3で敗れた。俺の代わりに入った投手が、その後の流れを断ち切れず、更に一点を許したそうだ。しかし、敗戦投手は紛れも無く俺。逆転ホームランを打たれた俺だ。 「まさか、お前が肩に爆弾を持っとったとはなぁ…」 三塁手の堺がそう言う。しかし、この場ではその後の会話が続かなかった。大舞台での逆転負け。エースの重傷。一点しか取れなかった、自分達の不甲斐なさ。 「本当に、申し訳ありませんでした。」 後ろで監督が俺の両親に謝罪の言葉を並べていた。自分の経験不足で、投手の異変を感じ取れなかった。監督はそれを負い目にしているみたいだ。誰かが悪いと言うわけではないのに。強いて言うなら俺のせいだ。あの場で力みすぎなければ、少なくともこの肩が壊れる事はなかっただろう。ホームランも、打たれなかっただろう。 だが皆、俺のせいにすることはできず一緒に落ち込むことしか、できなかった。左肩から腕にはめられたギブスが、この場の空気を更に重くさせているようだった。気付けば外では雨が降っている。一足先に帰る、新幹線の時間が、迫っていた。 選手生命は絶たれていた。可能性は無いわけでは無かったが。その後の壮絶なリハビリを越えていく精神力が、俺には無かった。あの時もそうだ、ヒット一本打たれたくらいで力まなければ、結果は全然違う物だったかも知れない。心が、身体についていけなかった。 雨が降る日は、右利きとなる。しかも最近では、何をするにしても、左手を使う事は少なくなってきている。高校を卒業して、進学も就職もせず、フリーターとなった今では、何をするということも無い。 バイト上がりのこのラーメンが、唯一の楽しみになっているような気さえした。 ラーメン屋から出ると、まだ少し、雨は降っていた。 左手で傘を持っていることに気付いたのは、家に着いてからだった。 -
|
|