「在原業平」
本日は歌人、在原業平について語るのよ。 なぜなら、わたしが最もラヴな歌人だからよ。 たまには資料に埋もれ綴る、かういうのもよいでせう。 和歌は未だ恐る恐る触れる程度なのだが、業平の歌はさういうわたしにも風を魅せ、花を薫らせ、雪を降らせ、月を掬わせる。其の時代にもし生まれていれば浮名のみにも心馳せ、恋してしまったやもしれませぬ。 有名な歌を挙げると、 月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして *意訳詩* 見上げれば、月は昔のままなのに、春は昔と同じ春なのに 行き失せた君も何もかもが変わりゆき、 僕だけが変わらず此処に立ち尽くしている。 わたしが最初に巡り合った業平の歌で、かなりグっときた。この時はとりたてて在原業平という歌人を意識もせず通り過ぎたのだが、わたし的にグッとくる歌を辿れば必ず彼の作品であったので、単なる偶然の合致ではないと。同じプレイボーイの大伴家持の堂々とした才気あふるる歌も佳いが、何処か壊れそうに繊細で透明なくせに、己すら焼き尽くしそうな情熱。その在処に惹かれる。 この業平は六歌仙(正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主)の一人で、右近衛権中将。阿保(あぼ)親王の王子。『古今和歌集』に三十首収録。歌物語『伊勢物語』の主人公として知られている。 その歌は「その心余りて、詞たらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」とあり、「情感があり過ぎてそれを表現する言葉が足らず、しぼんだ花が色はあせたのに香りだけが残っているようだ」 と紀貫之の古今和歌集仮名序で評されている。 眉目秀麗な美だんすぃでプレイボーイ。しかもその恋色は、清和天皇の后・藤原高子との悲恋や斎宮との密通、常人の触るべからざる禁断の女性に恐れもなく挑んでいるではないか。敢えて禁忌に挑むその姿を冒険と取るか、純粋と取るか。或いはそのどちらともか。 多くの人の書いた各各の業平の姿の記述の一つに「藤原摂関体制から疎外された代償行為として、狂おしいまでに好色と和歌とに逃避し、風流の道にその生涯を蕩尽したと云うべきであろうか。」とある。だが、わたしが感じている業平像を正に感覚的に伸べてしまえば、其のやうに不遇さをただ嘆いていたとも思えない。 「そんな世の基準など、他人に任せてやればよいではないか。」 其れこそが彼の本質をかいまみる糸口のやうな気がした。 初心者にとっては異国語にも見ゆる和歌の上で、業平の歌だけは何処か心に直接響き渡らせるものがある。美しさに形づくられた美しさでは薫らない花が其処に薫り、ドラマティックに心と美が繊細に交差している。業平でなくては歌えないもの。わたしが惹かれるものの多くを持ってしまっている稀有なる歌人であると確信してしまった。 在原業平卿作の和歌いろいろ ↑こういうのであれば和歌も親しみ易いです。 |