「揺れる球体」
ああ、そうだな。 今気に入っているACIDMANの同題の歌を聴いていて思う。あれから日々は流れ、わたしも何時母になってもおかしくない歳になっている。生へのノスタルジア。何時までもとりついて離れなかった消滅への願望は根強い。それもただの驕えであり、護って貰っているという内側でしか懐き得ない妄想。 「命」という柳美里原作の映画で、「子供が出来たら死ねないのよ。」という台詞があって、それはそうかも知れないと思った。今、子供は居ないけれど、ふとシュミレートした。身を呈してどうしても護らなければいけないものを手にした時から人は自分の為だけには死ねない。居なくなってはいけない。 もう、なにもかも遅過ぎる。そう、生きるしかない。 消える事を望んでいた頃よりたくさんのものを諦めて、たくさん背負うものが眼の前にある今だけれど、あらゆる人と関わってゆく日常の中で交わされていく会話やこころ、なんでもない時間となんでもなくない時間を飽きるほど繰り返してゆく。それが時折、笑えるほどいとおしくなるから。 止めるには遅すぎるようだ 青く澄み過ぎてる空 |