セクサロイドは眠らない

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2003年12月27日(土) 寝室にあるロープは淫猥な感じを受ける。ほんの戯れに彼と過ごした時間にロープを使ったことを思い出した。

このまま彼の寝顔を眺めていたかった。でも、きっと明日の朝が不機嫌になるから。

彼の背中をそっと揺する。

「ああ。眠ってたっけ。」
「うん。」
「今、何時?」
「ええと。もうすぐ十二時よ。」
「じゃ、帰るか。」
彼はそういって、私が手渡すワイシャツを着始める。

広い背中が。太い首が。愚鈍にも思える男の大きさが。

どうしてこんなにいとおしいのだろう。

「あれ?ネクタイは?」
彼が声を上げる。

「ない?その辺り。」
「うん。ないよ。」
「ちょっと待ってね。探すわ。」

だが、なかなか見つからない。さっき食べたピザの箱と一緒に捨てたのかしら、とゴミを探ろうとする私に、
「いいよ。いいよ。忘年会で騒いだついでになくしたって言うからさ。もし見つかったら処分しといて。」
と彼は言って、上着を手にする。こういう大雑把な男なのだ。彼という人は。そこが愛すべきところでもあり、腹立たしいところでもある。

「次に来るのは、もう来年よね。」
と私が訊く。

「うん。そうだな。」
と。これは、私が義務付けた、去り際の口付けを上の空でする彼。

きっと、タクシーで帰ったら何時頃になるかと計算しているのだろう。

次は年が明けるまで会えない。それが辛くて、彼の背中にしがみつきたくなる。

が、そういった事は彼が一番嫌うことだから、黙って玄関まで見送る。

「じゃあ。良いお年を。」
「ええ。また、来年。電話してね。」
「分かった。」

ドアがバタンと閉まってしまうと、いつものように激しい後悔に襲われる。彼と一緒にいる時間、今日も言ってはいけない言葉を幾つも飲み込んだ。その、行き場を失った言葉達が私に後悔の念を起こさせる。

--

彼とは、もう十年になる。入社して最初に配属された課の上司だった。私も彼も独身だったから、自然な成り行きとして結婚を考えていた。

だが、二年ほど付き合った頃か。彼は上司に勧められた見合いを受け、あっさりと結婚を決めてしまった。

「どういうこと?」
と、問い詰める私に、
「結婚してもきみとは別れる気はない。」
と言われて、なぜ、あの時はあっさりと彼の言うことを受け入れてしまったのだろう。

あの時は、愛人のほうが妻より愛される存在と、なぜかそう信じ込まされてしまっていたのだ。

考えてもみれば、後から来た女性に彼を奪われてからも、尚、愛人として彼を受け入れ続けるなんて、なんと都合のいい女であることか。

--

彼が帰ってしまった後、しばらくぼんやりとしていた私はノロノロと体を起こし、クローゼットを開け、彼が先ほどまで探していたネクタイを取り出す。彼が眠っていた隙に隠しておいたのだ。

私のあげたネクタイじゃない。きっと奥さんが選んだのであろう、品のいいネクタイ。

私は、あらかじめ用意していたロープに結びつける。

さようなら、よ。

私は、彼のネクタイを首に捲いて死のうと。

今夜そう決めていた。

だから、飲み過ぎると必ず眠ってしまう男の癖を知っていて、私は彼のネクタイを手に入れる事にした。

頭の中はひどく冷静だった。突発的な自殺と思われるかもしれないが、この計画は長く私の中に棲んで、実行される日を待っていたのだ。秋に、彼の奥さんが妊娠した事を知って、私はようやく分かった。私がまだ馬鹿みたいに彼を信じていた事を。彼がいつか、離婚して、私と暮らす日が来ることを、その時まで疑うことなく来ていた。だが、希望が打ち砕かれた時、私はもう、今までのようには生きている事ができなくなってしまった。

ロープのもう一方の端を、ベッドの足にしっかりとくくる。

その時、ドアチャイムが鳴った。

誰?こんな時に。

私は少し苛立って、玄関のドアを開ける。

「すいません。ピザ屋です。」
「あら。さっきもう戴いたわ。」
「え?そうすか?おかしいなあ。ちょっと待ってください。調べますから。」
「早くしてちょうだい。」
「すいません。やっぱり、この部屋の注文ですね。」
「そういわれても・・・。」
「じゃあ、こうしましょう。お代は要りませんから、ここにピザ置いて行きますね。」
「要らないのよ。お願い。お金は払うわ。持って帰ってちょうだい。」
「そうですか。じゃあ、持って帰ります。どうもすんませんでした。」

ピザ屋が去って、ほっとして。

そこに転がっているロープを見る。ひどく変な感じだ。見方によっては、寝室にあるロープは淫猥な感じを受ける。ほんの戯れに彼と過ごした時間にロープを使ったことを思い出した。

また、ドアチャイムが鳴る。

「どなた?」
「あの。ピザ屋です。」

さっきの男だ。

「また?なあに?」
「あの。すいません。さっきは嘘つきました。」
「なんで?」
「ピザの注文なんかありませんでした。」
「そうでしょう?一日に二回も頼むわけないもの。」
「あの・・・。」
「なあに?」
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「なんか。あの。普通じゃないっていうか。」
「大丈夫よ。」
「最初に届けに来た時、あれって思ったんです。なんか表情が虚ろっていうか。」
「ねえ。そんな事、あなたには関係ないわ。」
「ええ。そうですよね。関係ないです。関係ないけど。なんか気になるっていうか。」

私はため息をついた。

「ね。上がって。ピザでも食べながら聞くわ。」
「いや。そういうつもりじゃなかったんですけど。」
「いいの。あなたが怪しい人でも何でも。」

新しいグラスを出し、ワインの残りを注ぐ。

ピザ屋の青年は、優しくて善良な顔をしていた。だから、信じていいように思えた。

「すいません。去年、死んだ友達が、死ぬ前に会った時にあなたみたいな顔をしていたんで。」
「当たりよ。あなたすごいわね。」
「いや。なんか気になった。それだけです。」
「ピザ、食べて頂戴。」
「あの。あなたは食べないですよね。いつも、男の人が来てるときだけ注文してますよね。」
「ええ。苦手なの。ピザみたいな重いものは。」
「すいません。いただきます。」

彼が本当に美味しそうに食べるから。

私は、くすりと笑った。

「あの。本当に死んじゃうんですか?」
「え?ああ。うん。そうね。でも、今日はやめたわ。」
「もうちょっと生きてみてもいいかと思うんですけど。」
「そうねえ。でも、私には何にもないのよ。一人の人の事ばっかり考えてずっと生きて来て、気付いたら私の事を気遣ってくれる人が誰もいなかったの。そしたら、あー、生きててもしょうがないわってね。急に思えちゃって。」
「俺がいます。」
「え?」
「俺。あなたの事、気にしてます。あの変な意味じゃなく。でも、なんか気になってて。」
「そう。ありがとう。」
「俺が思うに。えと。上手く言えないけど。今あなたに必要なのは思い切り泣くことなんじゃないかな。」
「・・・。」
「なんかそう見えるんです。ずっと我慢してるみたいな。そんなに強くないくせに頑張ってるみたいな。」
「泣き方なんて、忘れたわ。」
「誰かのそばがいいんですよ。泣くのは。」
「でも、誰もいない。」
「俺、ついてますんで。あの。変なことはしませんから。」
「じゃあ、泣こうかしら。」
「ええ。そうしてください。」

私は思わず吹き出して。

彼も笑って。

それから温かい涙が流れ始めた。涙は一度流れ始めると、止まらなくなって。

私は大声を上げて泣き始める。

知らない青年の肩にもたれかかって。

気付いたら、彼はしっかりと私を抱き締めてくれていた。

心の中の塊りが全部涙になって流れ出てしまったら、もしかして私は死なずに済むかもしれないと思いながら、大声を上げて泣き続けた。


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