セクサロイドは眠らない

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2003年12月15日(月) 「この町のいいところは、無理に忘れようとしなくてもいいところですね。元気なふりをする必要もない。」

その町は晴れることがない町だった。いつも、どんよりとした曇り空。しとしと雨が降り続くこともあれば、たたきつけるような大粒の雨が激しく降ることもあった。

その町が気に入った。旅の途中だったが、そのまましばらく暮らすことにした。

曇った天気のせいかか、何もかもの輪郭がはっきりしない町。誰も、大声で話さない。静かな語り口。ここでは誰も、他人の生き方に口を挟まない。

しばらく、町で唯一のホテルに滞在することにした。どうせ、待っている家族もいない。仕事なら、メールやファックスで片付く。

ホテルには私と同じように、この町が気に入ってそのまま居ついてしまったように見える人々が何人か泊まっていた。

私は今朝もモーニングセットを頼み、新聞を広げる。だが、新聞の内容はどれ一つ頭に入らない。世の中で何が起ころうと、真剣に捉えることができないのだ。結局、何をしても、考えるのはただ一つのことだけ。

--

町を歩く。今日も、いまにも泣き出しそうな空だ。いつもの煙草屋に寄る。店の老人は、すっかり痩せ細って、ぼんやりと死んだような目をしている。実際、ほとんど死んでしまっているのかもしれない。

「マイルドセブン・ライト。」

のろのろと、染みだらけの手が煙草を差し出す。

「ありがとう。」

老人は、うう、と呻いて、また、その暗い絶望の淵に戻って行く。

私は、それから、コーヒーが美味しいという店に入る。

店のマスターは、私の顔を見ただけで黙ってうなずき、手を動かし始める。この店に通い始めて一週間だが、店内はいつもの常連が静かに座ってコーヒーを飲んでいる。大概の客は一人きりで座ることを好む。

しばらくして目の前にコーヒーが置かれる。そのコーヒーは、酸味も苦味も強い。

--

今日も、大して何もしないままに一日が終わって行く。昼の食事は取らなかった。体が欲しがらなかったのだ。それどころか、何もする気が起きない。

だが、このままでは眠れそうにないので、7階のラウンジに行く。

その日はまだ、私の他に客は誰もいなかった。

少しきつめのアルコールを口にして、さっさと眠ろう。

そんな投げやりな気持ちでカウンターに腰掛け、ギムレットのオン・ザ・ロックを頼む。バーテンダーが黙って差し出したギムレットは、ひどく酸っぱかった。普通なら、文句の一つも言うところだが、この町では全てにおいて、苦く酸っぱいのだ。

「いつまで滞在のご予定ですか?」
バーテンダーが静かに訊いてきた。

「分からない。ずっとかもしれない。」
「この町に辿り着いた方は、みなさんそうおっしゃいますね。」
「あんたは?」
「私は、生まれた時からこの町の人間ですから、一生をここで終えるつもりです。」
「そうか。どうりで。」
「ええ。私には、語るものは何もない。この町で、ただ、生まれた時からここに立っていましたから、聞かせていただくばかりなんです。」
「聞いてばかりってのは、どうなんだ?」
「そうですね。それはそれでお役に立つ場合もあるので、結構気に入ってますよ。」
「そうか。」
「良かったら、お客さんも話してみませんか。」
「そうだな。じゃあ、もう一杯くれるかな。」
「分かりました。」

バーテンダーは、生まれた時から禿げて、ひどく酸っぱいギムレットを作り、人の話を聞いていたのだ。

「無理に話す必要はないんですよ。」
「分かってる。話始めると、終わらないんでな。みっともないことだが。」
「みなさんそうです。」
「先月だ。女が死んだ。」
「長いお付き合いの方だったんですか?」
「そうだな。もう、十年近くなるか。急だったんだ。癌だったんだがな。若いからだろう。あっという間だった。最後は、痛がってな。なのに、病院には戻らないと言った。」
「あなたのそばが良かったんですね。」
「いや。そうじゃないと思う。ただ、一人が怖かったんだろう。何度も結婚しようと言ったのに最後まで嫌がった。死ぬ間際まで、私には何もできなかった。彼女の心が分からなかった。私は、『俺を幸福にできるのはきみしかいない』と言い、彼女は『私を幸福にするのはあなたじゃないの』と言った。」

今日も、ベッドに倒れこんで、朝まで目が覚めないといい。

意識がなくなる寸前まで飲み続け、ヨロヨロと立ち上がる。

バーテンダーは私の背中に向かって言う。
「あなたは、そう長居はしないと思いますよ。」
「なんで分かるんだ。」
「とにかく、分かるんです。」

私は、部屋にようやく辿り着く。

--

「私はもう、このホテルに5年もいるんですよ。」
「そうですか。私は3年です。」
「この町のいいところは、無理に忘れようとしなくてもいいところですね。元気なふりをする必要もない。」
「ええ。他人の励ましなんて何の役にも立たないのに、以前はそんな言葉にいちいち礼を言わないといけなかった。」

そんな会話を耳にしながら、モーニングセットのオレンジジュースを飲み干す。

何も胃に入りそうにない気分だったが、何とかトーストも食べた。なぜだろう。なぜ、この期に及んで、私は朝食を食べ、仕事をするのか。好きな女が死んでしまった。もう、生きることに未練はない筈なのに、死ぬ勇気もない。

来るべき時のため。

そんな言葉が頭に浮かぶ。

来るべき時が来ると、私は頭の中で信じているのだ。本当には絶望していない。いや、絶望していたと思っていても、そこでとどまることは私にはできないのだ。

散歩に出る。

犬の散歩をさせる少年とすれ違う。

少年の体は、ひどく薄くしか見えない。

「もうすぐなのかい?」
私は声を掛ける。

「うん。パパと一緒におうちに戻るんだ。その方がね。ママが喜ぶって。」
「そうか。」
「いつまでもこの町にいたら、ママが悲しむって。パパはそう気が付いた。僕も、そう思う。ここにいると何にもしなくなるんだ。ご飯もあんまり食べなくなる。でもね。ママは、僕が絵もいっぱい描いて外で遊ぶほうが、ママは好きだったんだ。」
「そうか。えらいな。」
「おじさんもだね。もうすぐだ。随分と薄くなってる。」
「そうかい?」
「うん。煙草屋のおじいさんみたいに、見え方がはっきりしてないもん。」
「ああ。煙草屋のじいさんか。」
「あのおじいさんは、もう、10年も前に死んじゃったおばあさんの事で、今でも時々町に大雨を降らせる。おばあさんに暴力をふるったことを反省して、いつもいつも悲しんでる。」

私は、今日は酒を飲まずに部屋に戻る。

それからワープロを立ち上げ、亡くなった女へ当てた長い長い手紙を削除する。

--

「そうですか。明日、お帰りですか。」
バーテンダーがうなずく。

「ああ。」
「それがいいでしょう。いつまでもいたがる人も多いですけれどね。今日は私の奢りです。」

最後のギムレットは、さして酸っぱくなかった。

--
あの町から戻って来て一ヶ月。

晴れた午後、私は散歩に出る。

「パパ。早く行こうよ。」
少年の声が響く。

いつかの少年だ。

少年の父親は、少年に手を引かれ歩いている。

少年はすれ違いざま、
「あれ?」
という顔で私を見た。

私は、笑顔を返してやった。

少年の手には花束と丸められた画用紙。母親の墓参りに行くのかもしれない。


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