セクサロイドは眠らない
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2003年12月04日(木) |
私は、おそるおそる人形を振り返る。だが、人形は、人形のまま。ピクリとも動かない。封筒の中には |
五十四年間。私はひっそりと生きてきた。そして、このままひっそりと終わって行くだろう。そんな風に思っていた。人目を惹くことなど一度もなかった容貌。ここ数年で髪の毛は後退し、そろそろ腹も出てきたが、そんな事も、さして私の評価を下げなかった。最初から、誰も私を見てくれていなかったのだ。この程度の変化、誰も気付きはしない。
今日も定時きっちりに仕事を終えて、会社を出る。小さな会社の経理屋というのが私の仕事だった。
一度、女性の社員に言われたことがある。 「うちの会社の人が今の仕事してなかったら何の仕事してたかなあ、ってみんなでいろいろ噂したことあるんですけどね。佐伯さんだけは、なんだか全然思いつかなくて。でね。お役所で、あの、何ていうんですか。黒の腕抜きっていうの?あれして働いてる人って誰かが言って、みんな、そうそう、って納得しちゃったんですよね。」
彼女は悪気などなかったにちがいない。私は、その時、別に腹を立てたわけでもない。ただ、自分でも他の人生を思い浮かべることができなくて、思わずうなずいてしまったのだった。
それが私という男だ。
だが、そんな私に小さな変化が起こった。いつも立ち寄る駅前のコンビニで、私は出会った。その女に。
どこといって取り柄のない。いや、むしろ、他人に不快感を与えかねないような髪がボサボサの女。レジで品物を差し出しても、無言で受け取り、必要がなければ一言も声を発しない、三白眼の女。まだ若いだろう。三十前かもしれない。
私は、初めてその女を見て衝撃を受けた。
それから、毎日立ち寄りその女がレジに立っている姿を見て、次第にその衝撃は同情へ。それから、恋慕へと変わっていった。
つまらない話だ。たいして見栄えの良くない男が、これまたひどい外見の女に心惹かれる。
私は、決して彼女の醜さを憐れんでいたわけではない。むしろ、彼女が、いつかこのような接客業から外されてしまうのではないかと心配して見ていたのだ。だがそのうち、彼女のあまりに毅然とした態度。ときに、若い男性客から文句を言われても淡々と対応する姿勢に、何かを感じたのだ。
「何か」としか、言えなかった。
ただ、私は、次第に彼女に惹かれ、彼女に会うためにコンビニに通うようになった。
コンビニの名札には、芹沢ヨリコという名が書かれていた。
私はある日、勇気を出して彼女に声を掛けた。 「あの。仕事が終わるまでそこの喫茶店で待ってます。もし良かったら、覗いてみてくれませんか?あの。私は別に怪しいもんじゃありませんから。あの。これが名刺です。すみません。変なこと言ったりして。」
彼女は相変わらず無表情で、私の名刺を受け取った。
私は慌てて店を飛び出した。
軽蔑されたろうか。それとも、彼女自身が、間違った理由で屈辱を感じていなければいいが。
私は、悶々とした心持ちで喫茶店に座り続けた。
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果たして、彼女はやって来た。夜も十時を回る時間だった。
私は慌てて立ち上がった。 「来てくださったんですね。」
彼女は、ゆっくりとした声で言った。 「ご用は何ですか?」
仕事以外で初めて彼女の声を聞いた。どこか幼いしゃべり方だった。
「あの。私は、名刺の通り、佐伯といいます。実は、あなたの事が前から気になっていまして、お友達になりたいなあと思った次第です。あの。決して怪しいものじゃありません。嫌なら嫌と言ってください。二度と付きまとったりしませんから。」
彼女は随分と長く、黙って私の名刺と私の顔を交互に眺めていた。遅いCPUをフル稼働させているパソコンみたいに、何かを一生懸命考えているようだった。私はその間、暑くもないのに噴出す汗を拭いて、彼女の返事を待っていた。
彼女は、ようやく重い口を開いた。 「妹を預かってください。」
意味が分からなかった。
「は?」 「妹です。私の。足に怪我をしているの。お金なら払います。」 「しかし・・・。私は仕事をしていますし、そういった方の面倒を看るのは無理じゃないかと。」 「妹は、お手間をかけません。夜だけご飯をあげて、足の包帯を代えてください。」 「いや。そう言われましても。」 「お願い。」
彼女は真剣だった。何か事情があるようでもあった。
「失礼ですが、妹さんはどんな方ですか?」 「妹は・・・。とても可愛くて、素直で。私よりずっとずっと素敵です。」 「分かりました。」
私は汗を拭きながら答えた。
わけが分からなかったが、彼女の芯を形作っているものが、そこにあるような。そんな必死な願いだった。いざとなったら、貯金を崩してでも、彼女の妹さんを病院に入れてやろうと思った。
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次の日曜が約束の日だった。
ドアチャイムが鳴る。
私は急いでドアを開けた。
そこにはマネキンを抱えたヨリコが立っていた。
「あ・・・。どうも。」 咄嗟に、間の抜けた声を出してしまった。
「妹。連れて来ました。入っていい?」 「ああ。どうぞ。」
私は、妹というのが人間でなかったこと安心した一方で、彼女のどこか狂った心をどう扱っていいのか戸惑った。人形は随分と綺麗な洋服を着せられていた。ヨリコ自身が、ひどくヨレたトレーナーを着ているのに比べて、人形は流行のファッションに身を包んでいたのだ。
「服はまだいっぱい持っているの。また持って来ます。」 それから、ヨリコは、手にした大きな鞄から、人形のものであろう細々したもの。それから、包帯なんか。
「足は、バイキンが入るから、毎日包帯を換えてあげてください。」
私は、ただ黙って、ヨリコがしゃべるのを聞いていた。
最後にヨリコは、封筒を取り出して私に渡した。
「これは何です?」
だが、ヨリコは返事をせずに、頭をペコリと下げ、 「来週また来ます。それから、これが妹の好きな食べ物。お願いします。」 と、紙を渡して去っていった。
紙には、まーぼどうふ、とか、ぷりん、とか。平仮名で書かれた食べ物の名前。
私は、おそるおそる人形を振り返る。だが、人形は、人形のまま。ピクリとも動かない。封筒の中には三万円入っていた。
夜になるまで、私はヨリコの事を考え続け、これからどうすればいいのかと悩んだ。そうして、時計が二十時を差す頃に人形に声を掛けた。 「ご飯にしようか。」
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ヨリコは、それから毎週のように私の元を訪ね、お金やら服やら食べ物を置いていった。コンビニで働いているのはこのためだったのだ。
私は、そんなヨリコとの淡い関係が、それでも気に入っていた。ヨリコの小さな脳みその中は、いつも、「妹」と呼ばれる人形で一杯で、それが彼女の人生の一番重要な事柄だった。私は、その世界を壊したくなかった。ヨリコの望むように、包帯を換え、食事を用意し、時に本を読んでやったりした。ヨリコは、日曜日には私の部屋で、人形が大事にされていることに安心した笑みを見せ、それから、バイトの時間だと言って帰っていった。その生活は、本当に嘘偽りなく楽しかった。
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ある日。いつもの時間、私はコンビニに寄る。だがしかし、ヨリコの姿はなかった。私は思わず訊ねた。 「あの。前のバイトの人は?」 「ああ。あの人ですか。辞めました。」 「なんで?」 「よくは知らなかったけど、お客さんからクレームがあったんじゃないですかね。ちょっと変わった人だったし。」 「でも、一生懸命仕事してただろう。」 「そう言われても。店長が決めた事だし。私、よく知りません。接客態度が悪かったら、首になってもしょうがないと思いますけど。」
私は慌てて店を飛び出した。
それから必死で走って。走って。走って。
ヨリコが、「妹に何かあったら」と教えてくれていた住所まで訪ねて行った。
チャイムを鳴らすと、出て来たのは美しい娘だった。
「誰?」 冷ややかな声が、私を切り刻む。
「ヨリコさんは?」 「ああ。お姉ちゃん?さあね。バイトじゃないかな。」 「バイトは首になったって。」 「じゃあ、そこいらで仕事探してるわよ。居酒屋とか、手当たり次第、仕事させろって行くもんだから、近所からも文句言われるのよ。まったく恥ずかしい。バイトだって、あんな人、誰も雇わないわよ。」 「きみは妹さんかい?」 「ええ。そうだけど。」 「足に怪我をしてる?」 「怪我って。小学校の頃よ。あの時、お姉ちゃんが張り切ってずっと病院についてたんだけどさ。あの人の頭の中では、今でも私は小学生のままなのよ。おかしいわよね。人形に洋服を買っても、自分があんな格好でさ。」 「どこへ行けば会えるかな?」 「さあね。でもさ。昼間はハローワークとか行ってんじゃないの。あの人形捨ててやるっていったら、ひどく怯えてさ。それからどっかやっちゃったみたいだけど。それでもお金要るみたい。変よねえ。」
美しい女はケラケラと笑う。
私はただ、悲しい気持ちでヨリコの家を後にする。
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翌日は休みを取ってハローワークに行った。不景気はまだ続いているようで、多くの人でごったがえしていた。私は、一日ヨリコを待った。
午後の三時頃になって、ヨリコが顔を見せた。人が多い場所は怖いのか、キョロキョロと辺りを見回しながら歩いている。
それから、求人票を真剣に見つめる目。
私は彼女を驚かせないように、そっと近付く。
「ヨリコさん。」 「あら。佐伯さん。こんにちは。」 「探したよ。」 「佐伯さんも、お仕事やめたの?」
ヨリコは、心配そうに訊ねる。
「いや。違う。ヨリコさんを探しに来たんだ。」 「仕事を首になってしまって。」 「知ってる。」 「お金。ちょっと待ってください。また仕事して持って行きます。」 「いいよ。いくらでも待つ。」 「ごめんなさい。」 「それよりさ。ちょっと出られないかな。コーヒーでも奢るよ。」 「はい。」
ハローワークの近くの店で、私達は腰を降ろす。
ヨリコは落ち着かない風に、視線を合わせようとしない。
「なあ。ヨリコさん。一緒にならないか。」 「一緒に?」 「一緒に暮らすんだよ。」 「佐伯さんのおうちで?」 「ああ。そうだ。」 「どうしてですか?」 「ヨリコさんと妹さんと、一緒に。その方が楽しいだろう?」 「・・・。」 「嫌ならいいんだ。」 「妹・・・。」 「ああ。妹さんと一緒にね。」 「ずっと一緒に?」 「ああ。そうとも。」
ヨリコは、嬉しそうに微笑んだ。私よりも、妹といられることの方が嬉しいようだった。私はそれでも良かった。ヨリコの笑顔は、稀に見る宝石のようだったから。
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