セクサロイドは眠らない

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2003年11月06日(木) 「ごめんね、いってらっしゃい」って言えば、それでいい。それなのに、私は一言も言葉が出せない。

原因は何だったか。

どうせつまらない事だ。

「あなたがおうちの事ちゃんと手伝ってくれないから。」
とか、何とか、ちょっと嫌な感じで言ってしまった。

出勤前の準備で慌しくしていた夫がカチンときて声を荒げて、私が意固地になって。

それで、もう、一言も言葉が出て来なくなった。

キッチンの椅子に座ってうつむいたまま、石みたいに動けなくて、今謝ればいいと分かっていても謝れなくて、夫が「行ってくるよ」と言っても、振り向くことも出来なくて。

別に大した事じゃない。「ごめんね、いってらっしゃい」って言えば、それでいい。それなのに、私は一言も言葉が出せない。

玄関のドアが閉まる音がする。

--

掃除している最中にも気に掛かる。

もしも。夫が今日事故にあって帰って来なくなったら、私、一生後悔するだろう。仕事中かもしれないけれど、ちょっと電話して謝ることができたら。

けれど、私は、電話を掛ける事ができない。

どうしてしまったんだろう。

夫婦を何年かやってればどこの家にだってある小さなこと。夫が同僚の女の子からネクタイを貰った事を隠していたり、私が育児で忙しいのに夫は日本シリーズに夢中になってたり。そんなことがしこりになっているのだろうか。

義母が以前言っていた。
「ともかく、自分が悪いと思っても謝ってしまいなさい。それが家庭円満の秘訣よ。いいづらい言葉は、言ったが勝ち。ね。分かった?」

ああ。お義母さん、無理です。本当に、どうしたことでしょう?

昼過ぎにスーパーへ買い物に行く。途中、近所の奥さんと出会って、彼女の家で少しお茶をする。亭主の愚痴をこぼす彼女の話を聞きながらも、落ち着かない。

そのうち子供達が学校から帰って来る。もしかしたら子供に任せてしまえるかもしれない。子供らしいわがままを聞きながら笑っていたら、いつの間にか夫と私も、いつものように一緒になって笑っていられるかもしれない。

--

電話をしようと思いながら、すっかり夕方になってしまった。とうとう一日引きずっちゃったな。夫は今頃、朝のささいなトラブルは忘れて仕事に没頭してるにちがいない。電話なんかしたら却って怒られてしまうだろう。

沢山のじゃが芋は、皮を剥くのが大変だ。どんなに主婦の仕事が便利になったって、じゃが芋を剥くのは変わらず大変だ。私は、何も考えないようにしてじゃが芋を剥く。

玉葱は、キツネ色になるまで炒める。あやうく焦がすところだった。今日の私はぼんやりしている。朝、いってらっしゃいを言わなかった事なんか結婚してから初めてかもしれない。

子供達の宿題を見てやりながら、夕飯の支度を仕上げる。

「お母さん、いい匂い!ね。お父さん、また遅いんでしょう?早く食べたいな。」
「駄目よ。パパが帰ってから。」

その時。

電話が掛かって来た。
「もしもし。僕。」
「ああ。あなた。」
「怒ってるの、直ったかと思って。」
「うん。」
「大丈夫?」
「ええ。」

上手く返事が出来なくて、うん、とか、ええ、しか言えない。

「ごめんな。」
「いいの。」
「今日、結婚記念日なのに、付き合い入れちゃったからだろう?それで怒ってるんだろ?」
「・・・。」

そうだっけ?そんなことすっかり忘れていた。

「キャンセルしたから。」
「うん。」
「今から帰るよ。僕の夕飯あるかな。」
「うん。」

私、受話器を置いたら、馬鹿みたいに頬を涙が伝った。固い固いしこりは、一瞬にして吹き飛んだ。意地という名のしこりは不定期に結婚生活の中に現われて、私達を立ち止まらせる。

--

「お帰りなさい。」
「お。今日、カレーなんだ。すごい。ママ、天才。いつもみたいにじゃが芋たくさん入れてくれたよな?」
「ええ。」

子供みたいにカレーを喜ぶ夫は私の手に花束を渡してくれる。それから小さなリボンのかかった小箱も。
「十二年目だね。これからもよろしく。」

私は、もう一度、泣く。

「ママが泣くのには、何年経っても慣れないなあ。」
夫は困ったように言う。

子供達はあきれて見ている。


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