セクサロイドは眠らない

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2003年11月05日(水) 私は妙な感情が沸き起こり喉元にこみ上げて来るのを抑え、黙ってトーストにジャムを塗り続ける。

「ちょっと。早く来て、私をお風呂に入れてちょうだい。」
いつものように大声で呼びつけられて、私は悲しくなる。

車椅子から私をにらみつける祖母に、私は肩をすくめる。
「ごめんなさい。」
「まったく、何をやらせても遅いんだから。」

言い訳でもしようものなら余計にひどいことを言われるのが分かっていて、私は黙って祖母を浴室に連れて行く。

風呂で体を洗っている最中も。

体を拭いて、ベッドに連れて行く最中も。

ひっきりなしに、祖母は私をののしる。

私、知っている。こういうのを、「言葉の暴力」って呼ぶのを。テレビで言ってた。目を閉じて祖母の投げつける言葉だけを受け止めていると、私はそのしゃがれた喉を潰してやりたくなる。だが、目を開けて、祖母の小さな体を見ると、そんなことを考えた自分が恥ずかしくなる。祖母は私の体の半分より小さくて、軽々と抱きかかえられる重さなのだ。あんまりひどい事を言われるから、部屋から逃げ出して涙を流して、それから気を取り直して祖母の部屋に戻ってみると、祖母は子供みたいに眠っていたりする。そんな時、激しい後悔の念に襲われる。自分自身が、夫の暴力から逃れ、私の母を初めとする幼い子供を四人育てあげ、その後、一番可愛がっていた娘である私の母を亡くし、今は体の自由がすっかり利かなくなってしまった、そう幸福とは言えない生涯。

--

「ねえ。私、携帯電話が欲しいんだけど。」
家計は祖母が握っているから、おそるおそる訊ねる。

「え?何?」
「携帯電話。」
「ああ。あれ。ね。あれがどうしたの?」
「あるといいなって思って。」
「誰と話すの?」
「隆志さん。」
「まだあの男と付き合ってたのかい?」
「ええ。」
「駄目。駄目だ。電話なんて許さないよ。」

月に一度、母の世話を人に頼んで恋人とデートするのが私の支えだった。電話も、祖母がいる場所でしかできず息が詰まりそうだった。ほんの少し。ほんの少し、呼吸をさせて。

「ねえ、おねが・・・。」
「うるさいねえ。」
祖母が手元にあったマグカップを投げつける。

カップは私の頬をかすめて、壁に当たって砕ける。

祖母は、それから、ひどい言葉をまくしたて、ついには私が泣き出すまで喚き続ける。

気がつけば、私は子供みたいに泣きじゃくり、祖母は、
「分かればいいんだよ。分かれば。」
と、やさしく声を掛けてくる。

--

大学に行くために家を出ていた私の妹が突然家に戻って来た。
「しばらくいさせて。大学は辞めちゃった。もううんざり。あんなつまらない講義を受けて、就職して、それでなんになるの?」

いつもこの調子だ。東京の大学に行きたいからと、祖母の反対を押し切って出て行ってしまった。妹に仕送りするために、母が残してくれた貯金を随分と使ってしまった。

「おばあちゃん、まだ元気みたいねえ。」
妹はうんざりした顔で言う。

「そんなこと言うもんじゃないわ。」
「あら。お姉ちゃんだっていい加減、おばあちゃんの世話で疲れてるんでしょう?」
「でも、おばあちゃんは体が不自由だし。」
「だったら尚のこと、お姉ちゃんにもっと感謝すべきよ。」
「しっ。」

祖母は耳がいい。寝ているように見えても、聞いている事だってありうる。

妹は、肩をすくめて部屋を出て行く。

--

「あんた、夜うるさかったねえ。」
朝食の時、祖母が言う。

「美咲が電話してたみたい。」
「で、美咲はどうしてるのさ?」
「まだ寝てるわ。」
「まったく。いい加減な子だねえ。」
「本当に、美咲は好き勝手してて困るわ。大学だって辞めちゃって。」
「ま、しょうがないさ。あの子はやりたいことだけやらせるしか。」

驚く事に、祖母はうっすらと笑っていた。
「おばあちゃん、いいの?美咲を叱らなくて。」
「ああ。あの子は昔からそうだった。あんたの母さんに怒られるようなことばっかりして。その癖、ちゃっかりと甘えるのが上手いもんだから、みんなから可愛がられていた。」

私は妙な感情が沸き起こり喉元にこみ上げて来るのを抑え、黙ってトーストにジャムを塗り続ける。

「あんまりジャムを使うんじゃないよ。」
途端に、祖母の声が飛んで来る。

--

「美咲、それが携帯電話って言うのかい?」
祖母が訊ねる。

「うん。そう。」
「あんた、一晩中しゃべってるもんだから、眠れなかったよ。」
「あら。おばあちゃん。私のせいじゃないわよ。夜眠れないのは、おばあちゃんが身の回りのこと全部お姉ちゃんにやらせて、自分はテレビばっかり見てるせいよ。」
「私は体が不自由なんだよ。」
「足だけでしょ。手が動けば、何だってできるわ。」

はらはらと妹と祖母のやり取りを見ていたが、美咲は何か言おうとする祖母を無視して立ち上がると、
「ちょっと出掛けて来る。」
と、言って部屋を出て行った。

「おばあちゃん、ごめんなさい。」
私は慌てて謝る。自分が悪いのでもないのに。

「いいさ。」
祖母は、あっさりと言う。

「ああいうところ。あんたの母さんにそっくりだよ。気が強くて、言いたいことは全部言う。」
「ただ身勝手なだけよ。」

私は、また、喉の奥からせり上がって来るものを感じる。

私は、言葉を続ける。
「携帯電話だって。」
「今頃の若い人はみんな持ってるんだろう?」
「だって。おばあちゃん。私が欲しいって言ったら・・・。」
「美咲なら、私が止めても勝手に買うだろうよ。」

ひどい。

我慢して、我慢して。

祖母の犠牲になっていると言うのに。

私じゃなくて、美咲が可愛い?

その時、電話が鳴る。

「もしもし。」
「ああ。僕だ。隆志だ。」
「明日よね。大丈夫。出られるわ。」
「それなんだが。」
「なあに?都合が悪いの?」
「僕達、別れないか?」
「よく意味が分からない。どうして?」
「ずっと言ってるだろう?きみがおばあさんの言いなりになってる以上、僕らの結婚生活も、きみは全部、おばあさんにお伺いを立てるだろ?」
「だって。おばあちゃんを一人には出来ないわ。」
「違うよ。全然違う。おばあちゃんを見捨てろって言ってるんじゃない。きみがおばあさんに頼るのをやめろって言ってるんだ。」
「何よ?結局私が悪いの?全部私が悪いの?みんな、ひどい。私一人に押し付けて。」

電話が切れた。

喉元までこみ上げて来たものが、抑えられないぐらい大きくなって私を突き動かす。

祖母の方を向き直り、私は、そぼのか細い喉に手を掛ける。

殺してやる。

--

電話が鳴っている。

私はゆっくりと受話器を取る。

「私。美咲よ。」
「どうしたの?」
「ばったり友達に会っちゃってさ。今から飲みに行くことになっちゃった。今夜は帰らないから。」
「駄目。帰って来なさい。」
「だって・・・。」
「言い訳は許さないよ。すぐ帰って来なさい。」
電話を切る。

まったく。近頃の若い子ときたら。

部屋は随分と乱れていた。あの子が帰って来たら片付けさせなくちゃ。床に転がるボロキレのような固まりをよけながら、車椅子でベッドまで移動する。


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