セクサロイドは眠らない

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2003年10月22日(水) 「ああ。そうだね。またこうやって話が出来たらいいかなって思ったんだ。」「その時ちゃんと言えば良かったなあって思って。」

カタンカタン。

午前10時。

僕の事務所のドアの外で、今日も音がする。

下の階にある「施設」の子が、ビルの廊下を上から下まで掃いているのだ。箒がドアに当たる音がカタンカタンとするわけ。

僕はその音に励まされながら、午前中の仕事を昼までには終えてしまおうと、腕まくりをする。

5階建てのあまり大きくないビル。スギムラビル、という、オーナーの名がついた古いビルは、景気が悪くなったために保険会社が手放したものだった。2階には、スギムラ夫妻が住んでいる。僕が借りているのは4階の部屋で、3階には「施設」があった。

「施設」の人のことはあまり詳しくは知らない。

朝、僕が出勤してくる頃に、スギムラ夫妻の飼い犬を散歩させていたり、ビルの廊下や階段を綺麗にしたりしているのは、名前は知らないけど、多分、「施設」の子だ。あるいは、ビルの入り口付近に割り箸やタオルがぎっしり詰まったダンボールが幾つも重ねられているのは「施設」の子がやる「作業」に関係しているものなんだろう。

施設の子といったって、実際には皆、大人だ。若く見える人も、随分な年齢に見える人もいた。

--

カタンカタン。

僕は、一息ついて、外に缶コーヒーを買いに出ようと思った。

ちょうどドアの外に人がいたのに気付かず、勢いよくドアを開けると、
「きゃっ。」
と、ドアの陰から小さな悲鳴が聞こえた。

「ご、ごめん。大丈夫?」
慌てる僕に向かってうなずく女の子。

小柄で、長い髪を三つ編みにしていて、眼鏡を掛けていた。

「痛かったろう?」
「大丈夫です。」
「聞こえてたのにな。うっかりしてたな。」

高校出たてくらいかな。

僕は、急いで外の自販機で缶コーヒーを二つ買うと、階段を駆け上がり、さっきの女の子に向かって一つを手渡した。

「あ。すみません。」
「いいよ。いつも掃いてもらってるお礼。」

女の子はコクリとうなずいて、早速嬉しそうに缶に唇をつけた。よく見たら、もう随分と涼しい季節だというのに鼻の頭に汗をかいている。

「きみを見るのは初めてだなあ。下の子だろう?」
「はい。」
「いつから?」
「一年ぐらい前。」
「毎日来てるの?」
「ほとんど。でも、体が弱いから、冬は休んじゃうことが多いです。」
「そうか。僕はここの事務所にいるんだ。いつもきみが綺麗にしてくれるから助かってる。」
「いつもじゃないです。交代ですから。」
「そっか。でも、ありがとう。」

笑ってうなずく女の子。

「すっかり邪魔しちゃったね。」
僕は、彼女の手から空の缶を受け取ると、
「じゃ、またね。」
と言って部屋に戻った。

僕は、以前事務所で雇っていた女の子の事を思い出した。
「私、掃除やお茶汲みをするために入ったんじゃありません。パソコンを使うのが仕事ですから。」

そこまできっぱり言われて、僕は、仕方なく自分で自分のお茶を入れることにしたんだっけ。

その日の夕方、仕事を終えて帰ろうとするところに今朝の女の子がやって来た。

「あの。」
「ああ。どうも。」
「私。あの。」
「うん。何?」
「あの。今日でここ辞めるんです。」
「そっか。せっかく知り合ったのにね。」
「またね、って言ったから。」
「ああ。そうだね。またこうやって話が出来たらいいかなって思ったんだ。」
「その時ちゃんと言えば良かったなあって思って。」
「それで待っててくれたんだ?」
「はい。」

そこに、
「まあまあ。」
と、スギムラ夫人の声が響いた。

「ここにいたのね。今おうちから電話があって、心配されてたからね。探しに来たのよ。」
「すみません。」
「ちゃんと連絡しないと、みんな心配するからね。」
「はい。」

スギムラ夫人は、女の子の肩に手を回し、
「じゃあ、ごめんなさいね。」
と慌てて彼女を連れて行ってしまった。

僕は、じゃあまた、と、小さく呟いた。

何となく。

じゃあ、またね。また、会えるよね。って言いたかったから。

--

冬が来て、寒くなって。僕はその日遅くまで残業していた。

カタンカタン。

あれ?

カタンカタン。

箒の音。

僕は、そっとドアを開けた。

彼女がいた。
「来ちゃった。」
「うん。待ってた。」

僕は彼女を招き入れた。

「どこ行ってるの?」
「おじさんちのペンション。」
「そっか。そこ、手伝ってんだ。」
「はい。」
「楽しい?」
「掃除とか。掃除ぐらいしか出来ないから、掃除させてもらってます。」
「うん。それはいい。掃除、丁寧だしね。きみ。」
「ここに来る前は会社にいたんだけど。辞めたから。」
「そっか。」
「またね、って言ったでしょ?あの時。」
「ああ。うん。そうだね。」
「だから、来たの。」
「待ってたよ。」
「スギムラのおばさんには仕事見つかったからって言ったんだけど、本当は、違うんです。仕事じゃなくて、ただのお掃除。」
「そんなことないよ。仕事だよ。立派な。」
「私・・・。」
「ん?」
「またね、って言ってもらったから。」
「うん。」
「じゃあ。お仕事邪魔してごめんなさい。」
「もっとゆっくりしてったらいいのに。」
「もう行かなくちゃ。」

女の子は慌てて立ち上がると、急いで部屋の入り口まで行って、それからクルリとこっちを向いて、
「またね。」
と言って、ドアを出て行ってしまった。

「送るよ。」
って、慌てて追ったけれど、ドアを開けると、もう、彼女はどこにもいなかった。

--

冬が過ぎて。

春が来て。

「施設」の子は、増えたり減ったり。新しく入って来る子もいれば、すぐいなくなる子もいて。

そうだ。

彼女のことをスギムラ夫人に聞いた。

冬に肺炎になって、亡くなったそうだ。体が弱かったから、って言ってた。ちょうどあの晩だったんだ。僕のところに来た、あの晩。

僕は、結局、景気がなかなか回復しないもんだから、事務所を借りている余裕がなくなって、そのビルを出る事にした。

「寂しくなるわ。」
スギムラ夫人は、言った。

「また、来ます。」
「ええ。そうして。いつでも。お茶でも飲みにいらっしゃいな。」

--

僕は、自分の小さなアパートの部屋にこもって、カタカタとパソコンのキーボードに向かって仕事をしている。

時折、痛くなった腰を伸ばし、気分転換にアパートの周囲を掃除する。

最初のうちは奇妙な顔をしてすれ違っていた人達も、最近ではみんな声を掛けてくれるようになった。

多分、いろんな事を器用にこなす人よりは、鼻の頭に汗を浮かべて一生懸命掃除する女の子が一人この世からいなくなったほうが、世界にとってはずっとずっと大きな損失だったんじゃないかな、と思いながら、僕は掃除をする。

時々、カタン、と、僕が箒をアパートのドアにぶつける音にも、もう、みんな慣れたんじゃないだろうか。カタン。僕は、こういう風にして、あなたたちの生活の中にいる。


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