セクサロイドは眠らない
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2003年06月24日(火) |
老眼鏡を手に、本をそうっと手に取る老人。「覚えてますよ。この話。一人の女が米を磨ぎながら、男を待つ話ですよね。」 |
真新しい紙の匂いを吸い込む。
今は亡き父の作品がようやく本の形になったことを、私は一番に誰に伝えたいだろう。
父なら、誰に伝えたか。
私はそんなことを考えながら、受話器を取り上げる。
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「そうですか。あの時の娘さんが、あなたでしたか。いや。大きくなられた。」 「父の本です。」 「拝見させていただきますよ。」
老眼鏡を手に、本をそうっと手に取る老人。
「覚えてますよ。この話。一人の女が米を磨ぎながら、男を待つ話ですよね。」 「ええ。本を作るのにこんなにお金が掛かるものとは思いませんでした。薄っぺらな本一冊出すだけでも、こんなに。」 「素晴らしい本です。誇りに思っていい。」 「父が生きている時の夢でしたもの。たった一冊でいい。本を出してみたいって。」 「ああ。そうです。お父上は、文章が素晴らしかった。よく読ませてもらいましたよ。」 「本当の事を言ってください。」
私は、ともすれば遠くを眺めたまま私のほうを見ようとしない老人の顔を、凝視した。
「本当の事とは?」 「父に約束してくださったんでしょう?あなたが現役の編集者だった頃。父の本を出してくださるって。」 「ええ。確かにそういうお約束をした事もありました。」 「なぜ出してくださらなかったんです?私、今でも覚えてます。父が私を膝に乗せて嬉しそうに教えてくれた時のことを。父さんは、もう少しで本を出す筈だったんだよ。もしかしたら今頃は作家になっていたかもしれないねって。」 「そうですか。」 「なぜですの?どうして、父をぬか喜びさせたんですか?」 「いや。申し訳ない。この作品は、本当に素晴らしい作品だったと思います。私としても、お父上の短編を何作か集めて本にできたらと思った事もあった。けどねえ。会社が許してくれなかったんですな。なぜなら、お父上の本は、分かり易過ぎる。世の中、簡単な事、分かり易い事は、金になり難いんですわ。商業的に成り立たないというんですか。」 「確かに、この作品は、あまりにも純粋な言葉だけで書かれた本ですわ。会社と家の往復だけで生活が成り立っていた父には、余分な装飾のついた文章など思いもよらなかったでしょう。だからこそ、出版されることが求められるような、そんな本だと思いますけれど?」 「おっしゃるとおりです。いや。確かに。今なら、このような本を皆が求めていることでしょう。だが、当時は違ったんですよ。」 「はぐらかさないで。本当の事を言ってくださいな。」
老人は目をしばたかせ、かすかに首を振り、それからゆっくりと口を開くと、噛みしめるような口調で語り始めた。
その女の事を。米を磨ぐ、その女こそ、父が愛していた女だと。本が世に出れば、父に愛人がいた事は自然と顕になってしまうだろうという配慮から、本の出版を見送ったのだ、と。老人はそう教えてくれた。
私は、最後まで聞き終えると、何も言わずに立ち上がった。
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この歳を迎えてなお、その老女にはえも言われぬ色気が漂っていた。皺だらけの唇に丁寧にひかれた紅が印象的だった。
「そうですか。お父上の。」 「ええ。父の念願だったんです。本を出版するのが。」
老女は、本を手に取って、その題名を目にすると、目を閉じたまましばらく動かなかった。まぶたがかすかに震えるのは、何かを思っているせいなのか、老いのせいなのか。
しばらくしてゆっくり目を開けると、 「本を渡すためにわざわざ?」 と、静かな声で訊いた。
「いいえ。あなたに訊きたい事があって。その本が、なぜ、父が生きているうちに出版されなかったのか。その理由をご存知ですか?」 「ええ。ただ、その時は知りませんでした。だって、あの人、約束してくれたんですもの。本を出版したら、お前とのことも妻にばれてしまう。だが、それでいいんだって。そうしたら、お前と一緒になれるって。そう言ってくれたんですよ。」 「嘘。父は、母に知られるといけないと思って、本を出すのを止めたって聞きました。」 「いいえ。だって。あの人の結婚生活は偽りだって。奥様との生活は、もう、冷め切ったって。だけどね。突然、別れようって言われたんですもの。びっくりしたわ。何の理由もなく。ずいぶんと経ってから、西崎さん、あの編集者さんが教えてくれたんですわ。」
頭が少し混乱していた。父が母との離婚を考えていたというのは本当だろうか。
「赤ちゃんがいらしたって聞いたの。奥様に。随分経ってから。奥様との愛はもう、とっくに終わっていたけれど、赤ちゃんのために何もかもを捨てる決意をしたんだよって。西崎さんがそう教えてくれたわ。」 「赤ちゃん・・・?私・・・?」 「ええ。そう。あなたよ。」 「父と母の仲が終わってたなんて、嘘。」 「本当のところは私にも分からないわ。だけど、身を切られるほど辛かったのよ。あなたのお父様にお別れを告げられた時は。あなたも女なら、この気持ち分かってくださるわよね?」
老女の老いてなお、ねっとりと絡みつく媚びるような視線を感じながら、私はうつむいたまま、 「そんなもの、分かりません。」 と答えていた。
父と母の仲睦まじい姿は、すべて偽りだったのだろうか。
「ねえ。あなたは、私を恨むかもしれないけれど。お父様にとっては、ご自身の本が出版されることよりもずっと大事な事があったって事よね。」 「・・・。」 「誇りに思いなさいな。その本はあなたのものよ。物語は、誰のために語られるか。お父様は、きっと、その物語を、誰より、あなたに読んで欲しかったのね。胸を張って、差し出したかった事でしょう。くやしいけれど、血のつながりには勝てなかったって事ね。」
娘へ。
原稿にそう書かれた言葉の意図を深く知らないまま、私は無邪気な正義感から父の原稿を世に出そうとしていた。
「お父様は、精一杯あなたを愛してくださったのね。」 いろんな感情がないまぜになって何も言えずにいる私に、老女はそっと微笑んだ。
本には、世に出るまでの物語があり、世に出てからの物語がある。本にまつわる物語を知る事が、本を作った者の幸福であると、私は知る。
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