セクサロイドは眠らない

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2003年06月23日(月) これ以上彼と親しくなるのには勇気が足らなかったのだ。言いたい事が溢れそうで、却って私は何も言えなくなってしまった。

「私の父は鳥だったのよ。」
誰にも言わなかった話が口をついて飛び出したのがなぜか。自分でもよく分からなかった。

パリのオープンカフェで、行き交う人々を眺めながら他愛のない話をしていた筈なのに。

彼は、どう答えていいのか分からないといった風に微笑んだ。

「信じると約束して。」
私は、言った。

「分かった。信じるよ。」
「母はね。とても美しい人だったの。」
「きみもすごく綺麗だものね。」
「母はもっと美人よ。そうして、とっても行動力のある人なの。」
「なんで鳥なんかと恋に落ちたんだい?」
「母はね。たくさんの男の人とデートしたけれど、どの人のことも退屈だと思っていたのね。そんな時、父に会ったの。空を軽々と舞う、美しい鳥。父も母を一目見て、大好きになった。くる日も、くる日も、窓辺で美しい声で話し掛けたのね。母は、良家のお嬢様だったから、もちろん、鳥との結婚は許してもらえなかったの。だから、ある日家を飛び出しちゃったのよ。」
「そりゃ、すごい。」

私は、彼の顔をじっと見た。彼は、真面目な顔で見返して来た。明日、日本に帰るという時に、なぜこんな話をしているのかしら。

--

母は、その美貌を生かして、いろんな仕事をしたのよ。モデルも、クラブの歌手も。父は、そんな母が借りた小さな部屋で歌を歌っていたの。母にはそれで充分だったのね。父が母のためだけに歌を歌っていれば、それで。それから、しばらくして私が生まれたの。

その頃からだったわ。父が空を飛んでくると言っては、二、三日帰らない事が増えたのね。私が生まれたばかりの頃は、母は私に夢中だったし。

父は、ただ、空を舞い、歌を歌っていた。決して母と私を裏切ったわけではないの。だけど、母は、ある日気付いたのね。父が空を飛んで戻って来た時、幸福に羽を膨らませている様子、歌声にいつにも増して張りがある様子に。

母がとがめるような顔で父をにらむと、父もしばらくは家でじっと母のためだけに歌っていたのね。でも、時間が経つとやっぱり駄目なの。空を飛びたくなっちゃうのね。

母は、泣きながら、
「空を捨てて。」
と言ったの。

父は、
「それは無理だ。」
と。

「飛ぶ事は僕の命だ。」
とも。

結局、母は父を追い出してしまったわ。父は、私の事も愛してくれていたから、随分長い事、部屋の窓の外を飛んで悲しそうに鳴いていたけど。それも、母が物を投げたりしたものだから、あきらめてどこかに行ってしまったの。

--

「こういう場合、どっちが悪いのかな。」
彼は、目をしばたかせて、訊ねた。

「さあ。私は父も母も愛していたわ。父は、しょっちゅう母に内緒で私に会いに来てくれたの。エメラルド色の羽をした素敵な鳥よ。」
「きみは?きみは、鳥に恋した事は?」
「ないわ。一度も。父を尊敬していたし、世界一ハンサムだとは思うけれど、私は鳥に恋した事はない。」
「じゃあ、もし、鳥に恋したら?」
「どうかしら。分からないわ。」

もちろん、そんな事は分からない。「もし・・・だったら」なんて、いくら考えても仕方がない。

--

母は、空を捨てられなかった父の事をずっと愛していたんだと思うわ。空を見ている事が多かったもの。時に、鳥のさえずりを聞いて、慌てて窓から身を乗り出した事もあったのよ。

それでも、父との関係を決して元通りにしようとは思わなかったみたいね。

どうしてって。

母は地上で幸福な家庭を築きたかったし、父は空にいる事が幸せだったんだもの。同じ喧嘩の繰り返しは避けたかったのでしょう。

--

「この一週間、楽しかったわ。本当は心細かったの。」
「僕も、日本の可愛い女の子と知り合いになれて嬉しかったよ。こっちでの生活には随分慣れたけど、日本の女の子のことをいつも恋しがってるんだ。」
「デザイナーになるまでは頑張るの?」
「うん。とりあえず、食べていけるようになるまでは帰らない。」
「そう・・・。」

パリの街で、地図を片手に途方に暮れていたところに声を掛けてくれたのが彼だった。日本からデザインの勉強をしに来ていると言う。警戒する私に、彼は礼儀正しく接してくれて、この一週間、毎日のように時間を取っては相手をしてくれた。

本当の事を言えば。

本当の、本当の事を言えば、彼ともっと仲良くなりたかった。

だが、一週間だけの旅行で、これ以上彼と親しくなるのには勇気が足らなかったのだ。

言いたい事が溢れそうで、却って私は何も言えなくなってしまった。唐突に口を突いて出たのは、今まで誰にも話さなかった父と母の事。異国の街で、明日は別れる人になら、しゃべる事ができると思ったのだ。

「このお話しには続きがあるの。」
「どんな?」
「実はね。この街には、母がいるのよ。」
「そうなんだ?」
「会いに来たの。」
「知らなかったな。毎日、僕と一緒だったし。」
「いいのよ。母には母の生活があるもの。邪魔しちゃ悪いしね。」

その時、美しい鳥のさえずりが頭上で響く。

私達はそちらに視線をやる。

尾の長い、青い美しい羽を生やした鳥が、何か話し掛けるようにさえずっている。

「あれが母よ。」
私は、彼にささやく。

「まさか。」
「いいえ。本当よ。毎日、毎日、空を見上げて。とうとう、父が亡くなってしまうまで、一度も会う事もなく意地を張っていたけれどもね。気晴らしに勧めた旅行先がすっかり気に入っちゃったみたいなの。しかも、新しい恋人まで作ってしまって。」

その時、それまでいた鳥の鳴き声にかぶさるように、違う鳥のさえずりが聞こえて来た。

「あれが母の恋人よ。」
黄色の羽を持つ鳥が、母の後を追うように飛んでいる。

「若くて嫉妬深いの。」
私は、笑いながら教える。

「あの歳で恋人は作るわ、鳥になるわ。全く、人生どう転ぶか分からないわよね。」

彼は、私の話を、どこからどこまで信じればいいのか分からないといった風に、眼鏡をはずして、首を振っている。

鳥達の声は、交わったり離れたりしながら、そのうち私達から遠ざかっていった。

「あなたが信じてないのは分かるわ。」
「うん。まだちょっと信じられないかな。」
「でも、信じて。」
「きみがそういうなら。」
「私、本当はなんでこんな話を他人にしたのか、自分でも良く分からないの。」
「僕の事を信用してくれたのなら、嬉しいけど。」
「あるいは、行きずりの人だから。私の頭がおかしいと思われたところで、明日にはあなたの前からいなくなるわけだし。」
「きみの頭がおかしいとは思えないよ。確かに鳥の話は、少し驚くけど。」
「でも、素敵な話だと思わない?父は、母に空の素晴らしさを教えたの。母は、ずっと意地を張っていたけれど、今じゃ、体でその素晴らしさを味わってるわ。」
「僕が気になってるのは・・・。」
「なあに?」
「どうして君がこんな話を僕にしてくれる気になったかという事。」
「本当に。どうしてかしら。」
「今、僕と君が同じ気持ちでいたら嬉しいんだけど。」
「同じって?どんな?」
「明日には別れるのが、辛いって事。何か大事な事を打ち明けずにはいられない気分だって事。」
「・・・。」
「だから、きみは、きみの大事な話を僕にしてくれた。そう思いたいんだけど。」
「でも、私・・・。」

彼は、何を言えばいいのか分からない私の唇に、そっと自分の唇を重ねる。

待って。

明日には私、本当に日本に帰っちゃうんだから。

とか。

あるいは、母娘してパリまで来て恋に落ちるなんて、馬鹿みたいね。

とか。

そんなことも、もう、何も考えられなくなってただ彼の唇に体を委ねる異国の街角。


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