セクサロイドは眠らない

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2003年06月18日(水) 私は、その時、その日初めて笑顔を見せたのだと思う。本当は、ずっとずっと怒っていたのだ。

新しい街に、私はなかなか馴染めなかった。

父は私が起きている時間に会社から帰ってくる事は滅多となかったし、母も美容院を開いたばかりで忙しくしていた。前の家の方が良かった。おばあちゃんがいてくれた。おばあちゃんは、もう、すっかり年寄りで、あんまり自分の事もできなかったけれど、それでもおばあちゃんがいると、私はすごく安心して、一人で遊んでいても平気だったのに。

おばあちゃんが亡くなった時、母は、
「ようやくお店がやれるわ。」
と、ほっとしたような顔で言い、父は家族に構ってやれない負い目からか、
「きみの好きにするといいよ。」
と言った。

この人達はどうしておばあちゃんがいなくなったのに、こんなに平気で居られるのだろう?

その頃から、私は父にも母にも心を開かない子供になっていた。

--

その夜はお祭りだった。

私は、小学校の友達と一緒に行く、と嘘をついた。母は嬉しそうに笑って浴衣を着せてくれた。それから三百円くれて、
「遅くならないうちに帰るのよ。」
と言った。

--

祭りには行かなかった。クラスメートに会うのが嫌だったから。特にいじめられているわけでもなかったが、なんとなく周囲との距離を縮められずにいたのだ。

私は、祭りの太鼓の音が響くのを聞きながら、商店街のはずれのほうをブラブラとしていた。

「どうした?」
背後から声が掛かった。振り向くと、露天の明かりの下で老婆がこちらを見ていた。

「誰?」
「ちょっと見てお行き。」
「なあに?」
「卵だよ。」
「卵?」
「願い事がかなう卵さ。」

そこには、色とりどりの卵が並んでいた。こんな場所に、変なお店。

「願い事?」
「ああ。何でも。卵を割りながら心の中でお願いしてごらん。」
「いくら?」
「一個百円。」
「じゃあ、三つ。」
「三百円あるのなら、一ダース買えるよ。」
「一ダースって、十二個?」
「おやま。賢い子だねえ。」

私は、その時、老婆の顔を見上げた。亡くなった祖母に良く似ていた。私のことを、賢い子と呼んでくれるところも。

「慌てて転ぶと全部割れちゃうよ。」
「うん。」
「願い事は、誰にも内緒で唱えるんだよ。」
「うん。」

私は、卵を受け取ると、急いで家に戻った。家には誰もいなかったが、その方が好都合だった。母に見つかったら、きっと、「またつまらない物を買って。」と言われるに決まっている。私は、机の上に今買ったばかりの卵のパックをそうっと置いた。桃色、黄色、空色・・・。見ているだけで嬉しくなった。

--

それからしばらく経った朝。急に、その日、テストがある事を思い出して、私のお腹はきゅうっと縮んだ。

転校してから、私は、成績だけは下がらないように気をつけていた。そうすれば母も安心するし、クラスメートも一目置いてくれるから。それなのに、昨日に限って、私ときたらテスト勉強をするのをまるで忘れていたのだ。

「ああ。神様。テスト中止になって。」
そう心で叫んだ瞬間、卵の事を思い出したのだった。

私は、空色の卵を机から取り出した。腐ってるかな。そうっと振ってみる。だが、卵の中からは何も音がしない。ピンポン玉のように軽かった。

私は、机の角にコンコンとぶつけてみた。途端に、卵はあっけなく壊れた。中は空っぽだった。もちろん、その瞬間、私は願いを心で叫んぶのを忘れなかった。テストが延期になりますように!

その日、担任の教師は休みとのことで、朝から違うクラスの先生が来て自習を言い渡した。

やった。卵のお陰だわ。

私は、クラスメートが喜んでいる姿を見つめながら、そう思った。

--

それからも、他愛のない事で卵を使った。一個。また、一個。

--

あと一個しかない。

その紫色の卵を見て、私は考えた。

今まで、あまりにつまらない事に卵を使い過ぎたようだ。お金が欲しいとか、歌が上手くなりたいとか、もっとちゃんとしたお願いをするべきだったのに。私は、最後の卵を使わずに取っておくことを決めた。いつか、本当に叶えたい願いを思いつくまでは。

私は、机の引き出しの奥の方に仕舞うと、鍵を掛けた。

--

五年になり、私にもようやく智恵という友達が出来た。目立たないけれど、いろんな事を良く知っている女の子だった。

クラスメートの女子達は、誰が誰を好きだとか、そんな話ばかりするようになったが、私と智恵はそんな話はしなかった。だから、驚いた。

「ねえ。好きな子っている?」
智恵がいきなり訊いて来たから。

「え?好きな子?そんなのいないよ。智恵は?」
「サッカークラブの裕輔。」
「え?うそ?」
「本当よ。ねえ。協力してよ。お願い。」
「協力て言っても・・・。」
「ねえ。おまじないとか知らない?」
「うーんと。この前雑誌で読んだんだけどね、緑色のペンで・・・。」

胸がチクリと痛んだ。

気付くと、こんなことを言っていた。
「ねえ。お願い事が叶う卵って知ってる?」

--

本当に、あの時どうしてあんな事言ったのだろう?

よく分からない。

ただ、一つ言えるのは、ようやく出来た友達を手放したくなかったという事。

智恵は卵を持って帰った翌日、私にささやいた。
「彼に告白するね。」

私は黙ってうなずいた。

--

やっぱりあの卵のご利益は確かだったのだ。智恵はその日からサッカー少年に寄り添うようになった。最初のうちこそ、三人で帰ろう、なんていう誘いを嬉しく思っていたが、そのうち、いたたまれなくなってしまい、私は以前のように一人ぼっちで家に帰るようになった。

「最近、智恵ちゃんだっけ?来ないわねえ。」
「うん・・・。」
母が言い、私はぼんやりと鉛筆のお尻を噛む。

--

夏休みも間近の日曜の午後。

ドアチャイムが鳴って、私は玄関からそっと顔を出した。

そこには智恵の顔があった。

「遊びに来た。」
智恵は、小さく言った。

「入る?」
「うん。」

どうしたの?彼と喧嘩したの?

訊いちゃいけない気がして、何も言わなかった。

麦茶を一気に飲み干すと、友達は笑った。そうして言った。
「隣のクラスの子に告白されたんだって。男ってバッカみたい。その子と帰る事にしたってさ。」
「何、それ?」
「いいんだって。」
「くやしくないの?」
「くやしいよ。ね。何か呪いの掛かるおまじない、知らない?」
「知らないよお。」

私達は、並んで夕暮れまで宿題をした。

母が帰って来て、
「あら。珍しいわね。」
と、言った。

「ママ、智恵を送ってくる。」
「気をつけるのよ。」

--

智恵は、電柱の明かりの下で、そっと何かを手渡して来た。

「何?これ。」
「覚えてる?」
フェルトで作られた小さな巾着の中には、紫色のカケラ。

「卵?」
「そう。前、くれたでしょ?」
「そうだけど。」
「これね。何お願いしたと思う?優美といつまでも友達でいられますように。ってお願いしたんだよ。」
「裕輔の事じゃないの?」
「違うよ。だってさ。あの時、卵一個だけ、あったでしょ。でね。ずっと大事にとってたのかもって思ったのね。だから、私と優美と、二人で一緒のお願いをするならどんな事かなって考えたの。優美もきっとおんなじ事思ってたらいいなって。」
「そっか。」
「うん。そうなのだ。だから、カケラ、半分こして持っておかない?」
「うん。」

私は、その時、その日初めて笑顔を見せたのだと思う。本当は、ずっとずっと怒っていたのだ。男の子を選んだ智恵の事。自分でも気付かなかった。おばあちゃんが亡くなってから、私はずっと、感情を隠して毎日を送ってたのだ。

「ごめんね。」
智恵がまじめな顔で言うから、何だか照れ臭くなってしまった。

「ううん。」
「明日、一緒に帰ろう?」
「うん。」
「じゃね。」
「ばいばい。」

いつか、私も、友達より男の子を選びたい時も来るかもしれない。その時、私は、最後の一個の卵をどっちに使うだろう?

そんな事を考えながら、私は、手の中の小さなカケラを握り締めた。


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